ヒューマンエラー

He suffer from Folie: C-PTSD. ― 「抱えた爆弾」

『ああ、たしかに言い出しっぺは俺だよ』
 両腕を組み、カルロ・サントスは言う。何もお前がやる必要はないだろう、と。そして彼はこうも言った。
『お前には荷が重すぎる。それに、再発するかもしれないだろう?』
 ラーナーはその言葉に対し、首を傾げた。
『再発って、何のことです?』
 カルロ・サントスは俯き、瞼を閉ざし、口を噤んだ。かくしてラーナーは、あの作戦に踏み切ったのだ。
 作戦は、恐ろしいほど予定通りに進んでいった。女児に扮したラーナーは、あっという間に犯人の男――イーライ・グリッサム――に捕まった。頭には麻袋を被せられ、両手は麻縄で縛られて、ペンキくさいミニバンの中に押し込まれた。ラーナーはあの男に、体格差というハンディキャップで負けたのだ。
 ガタガタと揺れる車内。麻袋のせいで外の景色も見れなければ、車内がどんな風になっているのかも見えない。聞こえてくるのは、カーラジオから流れるポップミュージックと、音程もリズムもあっていない男の鼻歌ぐらい。パトカーのサイレンは、残念ながら聞こえてこなかった。
 それも仕方ないことだった。ラーナーが決行した作戦は、新人の捜査官が上司に意見を仰ぐことなく勝手に行ったものだったからだ。応援がくるという期待を、ラーナーは始めから持ち合わせていなかった。それでいいと、ラーナーは思っていた。端から無謀な作戦だった。生きて帰れるなんて、思ってもいなかった。これで人生が終わるなら、それでも構わないと思っていた。犯人と相討ちになれれば、それが一番だと考えていたからだ。
 やがて、車の揺れが止まる。前方から車床が軋む音が聞こえ、男の熱気を正面から感じた。犯人が、目の前に居る。ラーナーは目で見ずとも、それを感じた。だが不思議なことに、そのときは「何かをしてやろう」という気にはならなかった。
 男の荒い息遣いを、麻袋越しに耳元で感じた。ペンキのにおいと混ざり合う、男が口から発する悪臭も感じた。ラーナーは麻袋の中で、瞼を閉ざした。そして諦観した。それはどこか覚えのある、何度も味わったことがあるような気分だった。
 すると横から、リュックサックを漁るがさごそという音が聞こえてきた。続いて、男の卑しい嗤い声が聞こえてくる。そして男は言った。
『パトリシア・ヴェラスケスちゃん?』
 カルロ・サントスが偽造した名札に書かれた名前を、男は読み上げる。それから男は、ラーナーの頭に被せていた麻袋を取り払った。
 その瞬間、ラーナーの中で諦観は怒りに変わった。その男の顔が、別の誰かに見えたのだ。名前も忘れたし、どこで会ったのかも忘れてしまった、別の女の顔に。
 ラーナーは縛られていなかった足を振り上げ、男の顔に強烈な蹴りをお見舞いした。男は大きな音を立てながら倒れ、呻き声をあげる。ラーナーは腰に携えていたナイフをすかさず抜き、座席に倒れ込んだ男の首筋に当てた。それから小さなリュックサックの底に忍ばせていた手錠を取り出し、男の両腕に嵌める。そして、ラーナーは言った。
『まんまと引っ掛かりやがったな、グズ野郎』
『……ッ……?!』
『パトリシア・ヴェラスケスだなんて名の少女は存在しない。俺は連邦捜査局特別捜査官、パトリック・ラーナーだ。お前を、逮捕する』
 そのときのラーナーは、男をぎったぎたに刻んでやりたい衝動を必死に抑えつけていた。本当は暴言を吐き散らし、ひどい言葉で罵り続けながら、この醜い男を惨たらしく殺してやりたかった。だがラーナーは、捜査官だった。捜査官が犯罪に手を染めるなんて、絶対にあってはならないことだ。だからラーナーは、やらなかった。
 やがてカルロ・サントスが頼んだ応援が、男を取り押さえた現場に駆け付けた。顔を怒りで赤くしたノエミが来た。顔を真っ青にした上司のトーマス・ベネット特別捜査官も来た。
 ノエミはラーナーの勝手な行動に怒り、ラーナーの頬を打ったあと、彼の服装を見て噴き出した。子供服、それも女の子の格好が、意外とサマになってる。そう言うと彼女は笑い転げた。
 トーマス・ベネット特別捜査官はまずは何も言わず、ラーナーを黙って抱き締めた。それからラーナーの頭の上に手を置き、言った。生きていてくれて良かった、と。
 カルロ・サントスも、他の捜査官と共に現場に来ていた。しかしそのとき、彼は一切ラーナーに声を掛けてくることはなかった。遠く離れた場所から、非難するような冷やかな視線を送ってくるだけだった。そんな彼の目は、ラーナーの心を見透かしているようでもあった。


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 彼が生を受けたのは、アルストグラン第三の都市であるブリズベン。黒人の母と、黒人と白人の混血である父のもとに生まれた五人兄弟の末子パトリックの肌は、白雪のように蒼白かった。
 母のタマラ、父のギブソン、長男のマイケル、次男のモーガン、三女のミランダ、四男のスペンサー。彼ら家族の肌は全員、褐色だった。そう、パトリック以外は、全員が。
 けれども両親は、他の兄姉たちと同じ愛情をパトリックに注いでくれた。兄や姉たちも、同じだった。パトリックも同じように、家族のことを愛していた。幼少期は、それでも問題なかった。パトリックは他の子供たちと同様、家族からの愛を受け、何不自由なく育った子供だった。
 しかし家族はそうでも、他は違った。母方の親戚は、肌の色が違う子供が一族に居ることをひどく憎んだ。母方の祖父母は理解のある人たちだったが、母の兄妹たち――つまり伯父と叔母――は、違った。パトリックのことを忌み嫌っていた。そんな伯父と叔母のこどもたちも、彼らと同じ思想を持っていた。
 ある年の十二月二十五日の夜、パトリックが三歳だったころ。母方の伯父たち一家が突然、家にやってきた。父は不快感を露わにし、母も数年ぶりの兄との再会に困惑していた。しかし両親は帰れとも言えず、彼ら一家を渋々自宅に泊めたのだ。
 伯父一家の来訪に戸惑ったのは、両親だけではなかった。兄姉たちも、そうだった。
 なにせ兄姉たちは皆、伯父の一人娘である十四歳のアシュレイが大嫌いだったのだ。アシュレイはいつもお高くとまっていて、常に人を見下していた。そんな彼女のことを、彼女と同い年だった長男のマイケルはひどく嫌っていた。だが不幸なことにアシュレイは、マイケルに好意を抱いていたのだ。
 伯父一家が家に来たことを知った兄姉たちは、一目散に寝室へ逃げて行った。パトリックは二男のモーガンに抱きあげられて、連れて行かれた。そして寝室に五人兄弟は立て篭もった。誰もアシュレイと遊びたくなかったのだ。
 しかしアシュレイは、自分が五人兄弟に嫌われているということを知らなかった。五人兄弟が逃げ込んだ寝室の前に彼女は立ち、ドアを叩き続け、言った。そこに居るのは分かってるのよ、一緒にゲームをやろうよ、と。だが誰一人として、出ていこうとはしなかった。おまけに長男のマイケルは、ドア越しに彼女にこう言い放った。高飛車な可愛くない女と誰が遊ぶもんか、と。
 その言葉に、多感な時期のアシュレイは傷付いた。彼女はわんわんと泣き、自分の父親のもとに逃げて行った。そして彼女は自分の父親に、こう告げたのだ。この家の子供たちは私に意地悪をするの、と。アシュレイのその言葉に、彼女の父親は激昂した。そして乱暴な言葉を、彼は言い放った。
『ここの家の子供の性格がひん曲がっているのは、純血じゃないからだ!』
 その言葉に、パトリックら五人兄弟の両親も怒った。母は自分の兄の頬を打ち、今すぐ出て行ってと怒鳴った。父も怒号を上げた。今すぐ出ていかなければ通報するぞ、と。
 伯父は言った。ああ、出ていくとも、と。しかし彼が向かったのは玄関ではなく、五人兄弟が立て籠っていた寝室だった。
 伯父は寝室のドアを蹴破って、中に入ってきた。そして五人兄弟の中から小さなパトリックを選ぶと、首根を掴む。四人の兄と姉は弟を渡すまいと必死の抵抗をしたが、大人の男の力には敵わなかった。そうしてパトリックは、伯父に連れて行かれた。母は息子を返してと泣き叫んだ。だが伯父一家とパトリックを乗せた車は、無情にも走り去って行った。怒り狂った父は車を出した。長男のマイケルも車に乗り、二人は伯父たちが乗った車を追い掛け走った。
 ほかの子供たちと家に残った母は、子供が連れ去られたと警察に通報した。市警が一〇分もしないうちに家に駆けつけ、母と子どもたちは事情を聞かれた。すぐに市警は動き、捜査網が市内全域に敷かれた。速やかな捜索の甲斐あり、連れ去られた三時間後にパトリックは発見された。町の郊外で、父と伯父が流血沙汰の乱闘を繰り広げていたところを、近隣住民からの通報を受け現場に急行した警官により保護されたのだ。
 連れ去られていた間、パトリックは酷い目に遭わされていた。肉体的な罰はなかったものの、手足を縛られ、暴言を吐かれ続けた三時間は、三歳の少年の心に暗い影を落とした。
 それからというもの、パトリックは家族に対して引け目を感じざるを得なくなった。家族の中でも自分は違ってしまっているんだ、と。
 親兄弟たちは、幼い末子の変化に気付いていた。それからはより一層、愛を注ぎ、外敵から守るようになった。しかし愛を受ければ受けるだけパトリックは引け目を感じ、過保護ともいえる扱いを受けた分だけ、パトリックは孤独を感じるようになっていった。


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 小学校に上がってから、パトリックはより卑屈になっていった。
  それまでは両親や兄弟という壁があって遮断されていた「周囲の目」という情報に、日常的に晒されるようになったからだ。
 同級生はパトリックを指差し、影で囁いていた。あの子の親は本当の親じゃないんだって、と。それは同級生の親たちが、そんな根も葉もないうわさを広めていたからだった。
 誰もがパトリックのことを、色眼鏡で見た。彼はそんな視線に、苛立ちを募らせていた。そして年月が経ち、パトリックも八歳になった頃。陰口は明確ないじめへと変わり、パトリックの肌には痣が毎日のように増えていった。
 両親や兄姉たちは、パトリックに何度も訊いてきた。学校でどんなことをされてるんだ、と。しかしその度に、パトリックは頑なに真実を言うことを拒んだ。階段で転んだだけ。それが彼の決まり文句になっていた。
 彼は“関係のない”親や兄姉たちに、迷惑を掛けたくなかったのだ。だって全ては自分のせいで起きているのだから、と。自分がいじめられるのは、家族と肌の色が違うからだ。異質な存在である以上、自分がいじめられるのは仕方のないことだ。パトリックはそう思い込んでいた。それが認知の歪みであるとも分からずに。
 両親や兄姉たちは、そんなパトリックにどう対応するべきか悩んだ。そうして二年の時間がだらだらと流れ、パトリックの同級生たちも道具の使い方を覚え始める。そうしてついに、悲惨な事件が起きたのだ。
 学校の帰り道。また痣をふたつ増やしたパトリックが、一人とぼとぼと道を歩いていると、前からひとりの若い女がやってきた。栗毛の長い髪を後ろでゆるく束ねていたその女は、パトリックに声を掛けてきたのだ。
 そんな女の横には、側面にアイスクリームのイラストが描かれているミニバンが停まっていた。
『どうしたの、坊や。怪我をしてるじゃない。おねえさんが、手当してあげよっか?』
 しかし心を閉ざしていたパトリックは、女を無視して通り過ぎようとした。すると女が、パトリックの腕を掴んでくる。
『ねぇ、手当してあげるって言ってるでしょう?』
 パトリックは女の手を強引に振り払うと、女を睨みながら言った。自分で出来るからいい、と。女は顔を強張らせた。それから感じ悪く舌打ちをすると、不貞腐れた顔のパトリックの髪を掴み上げる。女はミニバンのドアを開け、その中に放り込むようにパトリックを乗せた。
 女はすぐにドアを閉め、次にパトリックの口にガムテープを張り、頭に麻袋を被せる。それから反抗できないように両手首と両足首を朝縄で縛りあげると、女は車を出した。この間に、パトリックが助けを求めることは出来なかった。というよりも、そんなことを考える思考を放棄していた。
 ガタゴトとミニバンは揺れた。カーラジオからは大音量のポップミュージックが鳴り響き、女は完璧な音程の鼻歌を口ずさんでいた。パトリックは暴れることもなく大人しく座ったまま、音楽を無心で聴いていた。もう自分は終わりなんだと、観念していた。
 そうして四時間が経ち、夕暮れが夜に変わったころ。激しく揺れていたミニバンが停まり、パトリックは女に担ぎあげられ、ある場所に連れ込まれた。両手足を縛っていた麻縄を女は切ると、パトリックをとても座り心地の悪い椅子に座らせる。今度はその椅子の肘置きと脚に、両手足を縛り付けた。そして誘拐されてから初めて、麻袋が取り外される。パトリックは、自分が居る場所を観察した。
 そこは、ガレージのように見える場所だった。しかし外からは民家がありそうな物音が聞こえてこない。パトリックは察した。ここは郊外の山奥、きっと助けは来ない、と。
 そして女はパトリックの口からガムテープを剥がすと、不気味に笑いながら言った。面白い子だね、と。
『普通の子なら、泣いて叫んで大変なのに。君が初めてだよ、ここまで一度も騒がなかった子は。君となら、じっくり楽しめそう。ねぇ、君もそう思うでしょ。パトリック・ラーナーくん』
 女はそう言いながら、パトリックにある写真を見せつけた。それは、家族写真だった。女は左から順番に家族の顔を指でなぞり、笑う。それから彼の目の前で写真を、びりびりに引き裂いた。
『ねぇ、よく聞いて。今から私は、君に痛いことをするよ。けど、泣き叫ぶのはダメ。そしたら君の家族を、酷い目に遭わせちゃうよ?』
 パトリックは光を失くした目で女を見ると、呟くような小さな声で言った。気が済むまで僕で遊べばいいさ、と。すると女は『よく出来ました』と言って、鈍く光るものを右手に持った。
『良い子には、ご褒美をあげなきゃね。受け取って、パトリック』
 女は右手に持った金槌を振り上げ、椅子に座るパトリックの左足の太ももを目掛けて振り下ろした。金属がもたらす重い一撃は強烈な痛みを全身に伝え、小さな体はびくんと震えた。しかし歯を食いしばるパトリックは、痛みに耐える。女はまた、笑った。
『サイッコーね、君! はははっ、掲示板サイトで君の写真を見つけたとき、一体どんな風に泣き叫ぶのかなって思ったけど、予想を見事に裏切ってくれたわね。私ね、多分君のことをずっと探してたんだよ。君みたいな、強い子を。どんなに叩いても壊れない玩具を! あはは!』
 二発目が来た。パトリックの目から、涙がこぼれた。それから間髪を入れずに三発目が来て、四発目、五発目も立て続けに小さな体を襲った。だが十四、十五発と続いても、パトリックは叫び声を一度も上げなかった。そして十六発目、ついに痛みを感じなくなった。
 繰り返し金槌を振り下ろす女は、パトリックに凄絶な笑みを投げ掛けていた。パトリックは無表情で女を見つめていた。夜が明け、朝が来て、昼になって日が沈んでも、助けは来なかった。そして夜が来て、ようやく誰かが来た。パトカーのサイレンが聞こえてきて、銃声が鳴って、ガレージにあの女以外の人間が来たのだ。
 連邦捜査局だ。そう叫ぶ男性の声を耳にしたパトリックは、声が聞こえてきたほうを見る。前方には防弾チョッキを着た男の姿が見えており、彼はパトリックに近付いて来ていた。
 男はパトリックの目の前に来ると、携帯していたナイフで手足を縛っていた縄を切る。それから男は青紫色に変色し、腫れた両足を見る。そして無言でパトリックを抱き締めると、頭を撫で、耳元で囁くように言った。
『……生きていてくれて、良かった』
 男の声は、どこか涙ぐんでいた。そして男は名乗った。
『俺はトーマス・ベネット。トムだ。君は、パトリックで間違いないね?』
 パトリックは男の問いかけに、首を傾げさせた。
『……名前。名前、名前……――?』
 自分の名が、思い出せなかったのだ。


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 十五歳になったパトリックは、自分の身に起きたことを全て忘れていた。五年前からずっと毎週金曜日は両親に連れられ、近所の心療内科にパトリックは連れて行かれるのだが、五年が経った今となっては自分が何の治療を受けているのかも分からなくなっていた。
 彼の主治医である、胡散臭いヒゲを生やした精神科医クストディオ・サントスは、このどうしようもない青年に頭を抱えていた。声変りもしておらず、見た目はまるで十歳の小学生なのに、症状の所為で中身が異様に大人びてみえるこのちぐはぐな青年の扱いに、彼は非常に困っていたのだ。
 そんなドクター・クストディオの見えない影で、彼の息子はこそこそと動き回り、診察室を覗き見ていた。パトリックと同い年である息子――カルロ・サントス――は、他のどの患者よりも奇妙なこの青年を、興味深そうによく観察していた。
 そして今日も、波乱のカウンセリングが開幕した。
『こんにちは、リッキー。新学期が始まって二週間が経過したが、学校はどうだい? 友達とはうまくやってるかな』
 本題と関係のない雑談から、カウンセリングは始まる。にこやかな笑みでドクター・クストディオは、無表情の青年に話しかける。すると青年はぴくりとも表情を変えず、これだけを言った。
『ええ、まあ』
 いつもと同じ反応だった。心をどこかに置いてきたような目をしている青年は、目の前の人間や会話に興味を示していない。心の中は空っぽで、自分自身にすら興味関心は向いてないようだった。彼が漂わせる雰囲気は超然としていたが、同時に虚しさも感じさせた。
 これが世に言う、スキゾイド・メカニズムなのだ。
『たとえば、どんな風に?』
『普通に』
『もっと、具体的な言葉で聞かせてくれないかな?』
『昨日は、エイブラハムってやつが女子更衣室に忍び込んでいるところを見つけて、女子の下着を盗んでいるところを押さえました。その様子を動画で撮影して、それで』
『……ああ、うん、分かった。よく、分かったよ』
 ここまでは、いつも同じだった。
 学校のことを訊ねるとパトリックの口からは、とても彼の両親には聞かせられない話が飛び出してくる。基本的には、誰々のどういう現場を押さえて、こんな弱みを握ってやった、というものだった。
 だがドクター・クストディオは、それを頭ごなしに否定することも出来なかった。情報を掴み、相手を事前に脅しておくという技は、この青年が世を渡り歩くために身に付けた術であるからだ。
 決して褒められたものではない行為だが、これがなければ彼は痣だらけの日々に戻ってしまうわけで。今や高校の一大派閥を率いる帝王の座に君臨しているという彼にとって情報は、敵ばかりの世界を生き抜くための力だったのだ。
 そんなこんな、この青年には頭を悩まされることばかり。そしてカウンセリングが荒れるのは、ここからだ。
『それじゃぁ、話題を変えよう。君は、栗毛の女性を見るたびに、心臓が締め付けられるように痛くなると言っていたね。どうして、そう感じるんだろう。君はそれについて、どんな見解を持っているかな』
『……』
 それまで無表情だったパトリックの顔が曇る。ああ、今日も始まってしまった。ドクター・クストディオは、胃が悲鳴を上げるのを感じていた。
『……知りません。興味無いです』
 そしてパトリックは視線を自分の足下に向け、しばらくのあいだ沈黙する。これは嵐が訪れる前の前兆だった。
『…………』
 ドクター・クストディオにとって最も悩ましい事がらは、この患者が何も話してくれないことだった。
 パトリックとの付き合いはかれこれ五年目になるドクター・クストディオだが、彼について知っている情報は実に乏しい。両親から聞いたものと、治療を開始したばかりの頃に断片的に彼が語ってくれた情報しか、手元になかったからだ。そのうえ語られた彼の記憶は、実に曖昧なものだった。お陰でドクター・クストディオには、この青年が何について頭を悩ませ、どうして精神を病んでしまったのかの見当がまったくつかなかった。
 幼少期に、自分に対して批判的な伯父に誘拐され、言葉の暴力を密室で受け続けたこと。一〇歳のときに女に誘拐され、暴行を二日に及び受け続けたこと。それらは全て彼の両親から聞き出したもので、患者自身の口から聞いたものではない。
 そして事件からあまりにも時間が経ってしまっていたが為に、彼は多くの記憶に蓋をしていた。事件当時のことを思い出すことが、困難になってしまっていたのだ。
『リッキー。君は今、何を考えてるのかな』
 ドクター・クストディオは恐る恐る、青年に声を掛ける。すると青年はぴしゃりと、こう言い放った。
『別に、何も』
『……そ、そうか』
 うぅむ、とドクター・クストディオは腕を組む。すると今日は珍しく、パトリックのほうから話しかけてきた。
『先生』
『なんだい?』
『これ、意味あるんですか』
 ついにパトリックの口から飛び出してしまった言葉に、ドクター・クストディオは渋い表情をする。五年間、一度も口にしてこなかった言葉が、ついに零れ出てきてしまったのだ。
 するとこの言葉を皮切りに火が付いてしまったのか、パトリックはわっと立ち上がる。顔を顰めた彼は、ドクター・クストディオを責め立てた。
『それに、僕のどこがおかしいんですか。どうして僕はこうも毎週毎週、無意味なカウンセリングをされるんですか。ねぇ、どうしてなんですか、先生! こんなことに費やす時間を、僕は勉強に回したいんですけど。ねぇ、先生!!』
 疑問と不信から、彼は退行を引き起こしてしまったのだ。
 ドクター・クストディオは青年を宥めようとするも、怒りを露わにした彼にドクターが何かを言えば言うほど、火に油を注ぐことになった。
 そしてドクター・クストディオは、ずっと使いたくてうずうずしていた切り札を、ついに切りだす。
『……分かった、リッキー。治療を中断しよう。だから、その、お父さんとお母さんを呼んできてくれるかな』
 不貞腐れた顔をしたパトリックはドクター・クストディオの顔を見る。そして彼に背を向け、待合室で待っていた両親を呼びに行った。
 彼の両親に、ドクター・クストディオは治療を中断することを提案した。彼の両親は不審げにドクター・クストディオを見つめたが、ドクター・クストディオはこう言った。こうすることが息子さんの為です、と。
『息子さんは辛い記憶を封印することで、前を向こうとしています。無理に掘り起こし、過去を受け止めさせようとすればするほど、彼は傷付いてしまいます。私は、思うんです。この場合は無理に、治療をする必要はないのでは、と』
『先生、それはあまりにも無責任じゃ』
『しばらく、様子を見てみましょう。もし彼の解離症状が落ち着き、遁走が無くなるようであれば、治療を終結しましょう。酷くなったようでしたら、また来てください』
 無責任だってことは、百も承知だ。ドクター・クストディオは綺麗事を並べながら、汗ばんだ掌をぎりっと握りしめる。そんな父親の情けない背中を、物陰からカルロ・サントスは見ていた。
『リッキー、最後にこれだけは覚えていてくれ。思い出せないことは、なにも恥ずかしいことじゃないよ。思い出せないってことは、心が要らない記憶だと判断して、記憶を棄ててしまったからなんだ。棄ててしまったものを振り返る人間は、とても愚かな人間だ。……君はきっと、賢い人になるだろうね』
 その言葉を聞いた、パトリックはむっとした表情を浮かべる。そして彼は両親に連れて行かれ、心療内科を後にした。
 カルロ・サントスは、その様子を全て見ていた。彼はずっと昔から、パトリックのことを見ていたのだ・





「……ああああっ!!」
 悪夢にうなされていたラーナーは、大声を上げながら飛び起きる。そして飛び起きてすぐにまた、大声で叫んだ。「どこだよ、ここ!」
「安心しろ。どこも何も、俺の家だ」
 ラーナーは声がしたほうを向く。するとラーナーの右横には、上裸のカルロ・サントス医師が毛布を被って寝ころんでいた。
 ラーナーは一度深呼吸をしてから、辺りを見渡す。自分が居るのはカルロ・サントス医師の家で、彼のベッドで寝てたようだ。そして彼はアイリーンを探す。あの女ももしかすると居るかもしれないと、そう思ったからだ。
「……んなキョロキョロして。どうしたんだよ、ラーナー」
 カルロ・サントス医師は大あくびをしながら、ゆっくりと起き上がる。眠そうに眼をこすると、ラーナーが思っていたことを彼は言い当てた。
「あの、奇抜なファッションの彼女を探してるのか」
「……えっ、ああ、まあ」
「彼女ならお前の家だよ。……ったーくよ。ラーナー、お前もしや昨晩のことをなにも覚えてないな?」
 垂れ目が、眠気により一段と垂れたカルロ・サントス医師は、ぐでーっとしたシャキッとしない目で、ラーナーを見る。そしてラーナーは答えた。
「全然覚えてないんですけど。えっ、何があったんですか」
「カァーッ。出たぜ、パトリック・ラーナーの十八番。解離性遁走からの健忘のコンボだ。十五歳で終わったかと思ったが、再発しやがったな。こんなんでASIが務まるのかぁー?」
 馬鹿にするような口調でカルロ・サントス医師は言うと、彼はベッドから降りる。ブリーフ一枚でスリッパを履くという奇怪な姿をする彼は、寝室の扉を開けるとリビングへと向かっていく。そして廊下から大きな声で、ラーナーに彼は言った。
「コーヒーを淹れるから、リビングに来い。朝飯を作りがてら、昨日お前が晒した醜態を説明するからよ。あっ、ちなみにだいぶ酸化してきたインスタントのやつしかない。悪く思うなよ」
「……醜態?」
「いーから、早く来い。あっ、そうだ。奇抜なファッションの彼女が、局に掛けあって今日は休みにしてくれるって言ってたぞ。っつーわけだ、ラーナー。今日は丸一日、じっくり腰を据えて話し合おうじゃねぇーか」
 うっ、嫌な予感が。ラーナーはみぞおちの辺りが痛み出すのを感じつつも、重い足取りでリビングに移動した。
 そこに座ってくれ、とカルロ・サントス医師は椅子を指定する。ラーナーは指定された場所に座り、ブリーフ姿でうろつく医者を観察していた。
「えっと、まずは昨晩の話からしようか」
 カルロ・サントス医師は食器棚からマグカップをふたつ取り出すと、それを持ってキッチンカウンターの中に入っていく。彼は次に粉末のインスタントコーヒーが入った瓶を取り、ティースプーンで粉末をすくい、マグカップの中に放り込んでいった。それから次に角砂糖が入った小瓶の蓋をあける。そんなことをしながら、片手間に彼は喋った。
「昨日の夜、十一時半すぎぐらいか。お前の家の固定電話から、俺の携帯電話に連絡が来たもんでな。俺はてっきりお前かと思って電話に出たんだが、ところがどっこい、声の主はお前じゃなかった。あの奇抜な彼女だったんだ」
「……アイリーン、ですか」
「ああ、そう。アイリーンだ。んで彼女が随分と焦った声で、言ってきたんだ。お前が家に帰ってきて、シャワーを浴びてると思ったら、いつの間にか消えていたってな。そこで以前からお前の健忘について疑問を抱いていた彼女は、真っ先に遁走を疑って、俺のもとに連絡してきたってことだった。俺は精神科医であり、お前の友人だろう? だから混乱したお前が向かいそうな場所を、俺に訊いてきたってわけだ」
 遁走。それはある日突然、キャパシティーを超えた人間が辛い現実から逃れるため、突然蒸発してしまう行為のことを言う。そして解離から引き起こされる遁走はとても厄介で、このとき自分が誰であるかを忘れてしまうことがあるのだ。ときには、全くの別人になり変わって過ごしてしまうこともある。その間の記憶は病者自身に無いことが多く、気が付いたら知らない土地に来ていた、なんてことが起こり得るのだ。痴呆の老人が起こす徘徊にも、少し似ているだろう。
 しかし解離性遁走の場合、多くはたとえ記憶が抜け落ちていたとしても、日常的な動作は普通に行える。バスに乗ったり、切符を買ったり。不審な動作をしてみせることは少なく、傍を通り過ぎる人々は、その人が精神異常を起こしているなんてことに気付けないのだ。
 そしてラーナーが起こしていたのは、まさに解離性の遁走だった。
「彼女はお前のことを探す気でいたようだが、俺は彼女には無理だと思った。あと、真夜中にレディーを一人で外出させるわけにはいかない。だから代わりに俺が、お前を探して保護すると彼女に約束したんだよ。そして俺は、約束を果たした。だからお前は今朝、俺のベッドで眠っていたわけだ」
「……その。私はどこで、何をしてました?」
「キャンベラの町を、ただジョギングしてたな。耳にイヤホンを着けて、十五年前に流行ったポップスを聴いていた。んで話し掛けたら、この俺に対して、まるで初対面の相手にするかのようなよそよそしい態度をとってきやがってな。そして試しに名前を訊ねてみりゃ、黙りこくって首を傾げた。こりゃ駄目だと思って、無理言って強引に連れ帰って来たんだよ」
「……覚えてないです……」
「だろうな。……あー、これでお前を保護するのは十何度目になることやら」
 カルロ・サントス医師はできあがった即席コーヒーを、ラーナーの前に置く。そしてラーナーは首を傾げた。十何度目って、そんなにこの男の世話になっていただろうか、と。
 するとカルロ・サントス医師は渋い顔をし、ラーナーを見る。コーヒーを啜りながら、彼は言った。
「つっても、覚えてるわけがねーよな。……お前ってさ、十代前半のときはやたらめったら遁走してたろ。それも決まって、カウンセリングのあと」
「そんなことを、両親が言ってたような。……って、なんであなたがそれを」
 ラーナーにとってカルロ・サントス医師は、大学時代からの友人だった。大学で初めて出会ってはず、なのだ。その頃のラーナーは心療内科に通っておらず、精神も安定していた頃である。なのに心療内科に通っていた時代を知っているような彼の口ぶりに、ラーナーは違和感を覚えた。
 ラーナーが顔を顰めさせると、カルロ・サントス医師はブッと噴き出す。そしてラーナーを指差し、彼はこう言った。
「パトリック・ラーナー。言っとくが、お前が遁走を起こしたときにいつも真っ先に発見して保護してたのは、俺だぞ。お前は忘れているだろうがな!」
「……どうして、あなたが?」
「なに言ってんだよ、バーカ。俺は、お前の主治医だった精神科医の息子なんだぞ? クストディオ・サントス。五年も付き合いのあったヤブ医者の名前くらい、さすがに覚えてるだろうが」
「えっ」
「とはいえあの頃の俺は、親父がカウンセリングしてる様子を盗み見て、悪いお手本にしてたくらいでしかなかったからなー。患者に接することはなかった。覚えられてなくても仕方ないとは、まあ思う。だが、サントスという姓でだいたい気付くだろ。お前、変なところ鈍いよな。ホント、情報局員に向いてないわー。素人目に見ても分かる。素質はゼロだ、ゼロ」
 カルロ・サントス医師はそう言いながら、ラーナーの向かいの椅子に座る。未だブリーフ姿の彼は、ラーナーをじーっと見つめる。ラーナーはその視線を正面から受け止めることができず、少しだけ下に顔を向けた。
 パンツ一丁の男が、目の前で真面目な話をしようとしている。このシチュエーションが、滑稽に思えて仕方なかったのだ。
「それでだ、ラーナー。俺の親父がこんなことを言ってたのを、覚えているか。思い出せないことは、なにも恥ずかしいことじゃない。思い出せないってのは、心が要らない記憶だと判断して、記憶を棄ててしまったからだ」
「棄ててしまったものを振り返る人間は、とても愚かだ。……ええ、覚えています」
 その言葉はラーナーの治療が終結したとき、主治医の男が――カルロ・サントスの父親である、クストディオ・サントス――最後に言ってきた言葉だった。
 ラーナーにとってあの主治医は、あまり良い印象のない男だった。五年も続いたあの治療に果たして効果があったのか、それが未だに分からないからだ。
 けれども彼が最後に言ってくれた言葉があったから、ラーナーは今まで生きてこれたようなもの。忘れること、思い出せないことは、別に悪いことじゃない。なにか思い出せない記憶があったとしても、自分にそう言い訳することができたからだ。
 しかしブリーフ姿の医者は、自分の父親が過去に発した言葉を、真顔でぶった斬ってみせた。
「あの言葉こそ、俺の親父がヤブ医者だってことの証明だ」
「えっ」
 こいつ、自分の父親をヤブ医者呼ばわりしてるぞ。
「人間ってのは、自分の過去を振り替り反省するからこそ正しい方向に進んで行けるものだと、俺は思ってるんだ。だから記憶に蓋をし、目を背けることは、恥ずかしい行為なんだよ。記憶に蓋をしたところで実際に起こったエピソードは変えられないし、それらは一生付いて回る。今のお前のように記憶から逃げ回っているようじゃ、過去に足を引っ張られていつか道を踏み外す。だから、己の過去を受け止めなければいけないんだ。たとえその過去が心の許容量を越えてしまうようなものだとしても、しっかりと受け止め、けじめをつけなきゃならん」
「……あっ、その……」
「要するに俺は、親父が無責任に中断した治療を再開する。お前が今後もASIに居続けるなら、これは必要なことだ」
 えっ。なに言ってんの、この医者。
「とはいっても、お前は治療に乗り気ではない。カウンセリングというかたちをとっても、お前は沈黙を貫き通すだけだ。だから、今回は少々荒っぽい方法で行く。お前の記憶を容赦なく掘り起こしていくが、悪く思わないでくれ。これは全て、お前のためだ」
 そう言うとカルロ・サントス医師は、座ったばかりだった椅子から立ち上がる。そしてラーナーの右横の椅子に移った。
「始めに、長年お前のことを観察してきた俺の見解を聞いてくれ。お前は、特になにも喋らなくていい。俺が訊ねたときにだけ、イエスかノーで答えてくれ。分かったな?」
 ラーナーは多少ビクつきながら、こくりと首を縦に振る。そうしてカルロ・サントス医師の、荒療治が始まった。
「まず、お前の家庭環境についてだ。両親や兄姉たちとの仲は良好。お前も家族に対し、あまり不満は抱いていないだろう。だが引け目は感じていた。違わないか?」
「ええ、そうでした」
「それは、伯父に誘拐された件が引き金か?」
「……」
「ラーナー?」
「……ごめんなさい。それは、覚えてないです」
「ふむ、そうか」
 幼いころ、自分は伯父に誘拐された。両親からそんな話を、ラーナーは聞かされたことがあった。車で攫われ、数時間も連れ回されたという。しかし物心も付くか付かないかという頃であったため、ラーナーの記憶には残っていなかった。
 というより、記憶を封じ込めてしまったのかもしれない。
「それじゃ次に行こう。お前は家族の中でも自分は肌の色が違うから、異質の存在であると思い込んでいた。そして家族から愛を注がれること、守られることに引け目を感じていた。更にお前は、異質である自分は他から虐げられることは当然のことであり、悪いのは自分だと思い込んでいた。そうだろう?」
「現に、そうでしょう?」
 ラーナーがそう言うと、カルロ・サントス医師は眉間に皺を寄せる。しかしラーナーには、彼が眉間に皺を寄せた意味が理解出来なかった。
「おい、ラーナー。本気で、そう思ってるのか?」
「……昔から、なんとなく感じてるんです。この世界は、私みたいな存在を受け入れてはくれないと。居場所を持つことは許されない、だから転々とするしかないんです。それに私は傍にいる人間を傷つけるから、私なんて……」
 ラーナーの傍には、いつも人が居た。それは敵であったり、家族であったり、知り合いであったり、同僚であったり、敵であったり。しかしどれだけ人に囲まれていようと、ラーナーの隣には常に孤独があった。拭うことができない人間不信、緩めることができない警戒は、必ず心の中にあった。
 世界はいつだって、彼の敵だった。しかし、ブリーフ姿の医者は言う。
「いいか、よく聞け。その答えは、ノーだ」
「……」
「この世界は在るだけだ、万物を受け入れも拒否もしない。それに人間生きてりゃ居場所なんてどこにでもある、お前はただ見失っているだけだ。そして『虐げられても当然』という人間も、この世に存在しない。つまり、お前の認知は歪んでいる。それに俺はいつでも、お前の味方だ」
「…………」
「お前はな、病気なんだよ。複雑性の心的外傷後ストレス障害、C-PTSDといわれているものだ」
 C-PTSD。
 その言葉を聞いた瞬間、ラーナーの中で“何か”が弾けた。顔を俯かせ、下唇を血が滲むまで噛む。
「伯父に誘拐された事件をキッカケに、お前の認知は歪み、歪みが対人関係にストレスをもたらすようになった。そして小学校でお前は、両親と肌の色が違うことを理由に、いじめられるようになった。それによってお前は、人間不信になっちまった。周囲の注目を集めないように、他者の顔色を必要以上に窺い、環境に溶け込むクセも付いた。どんな環境にも適応する能力を、身に付けたんだ」
 自分が今、何を感じているのか。何を思い出しかけたから、こうなってるのか。しかしラーナーは、今の自分自身の状況を言い表す語彙を持っていなかった。
「そして十歳のとき、お前はとんでもない化け物に捕まった。山奥に誘拐され、丸二日間も監禁された。椅子に手足を縛りつけられ、食事は何も与えられず、全ての言葉を発することを許されなかった。痛みだけを、延々と与えられ続けた。両脚を、何度も金槌で打たれた。太腿を左右それぞれ三回ずつ、膝から下を四十五回ずつ。だがお前は痛みに耐えた。いや、お前はそのとき感覚を捨てたんだ。そうして生き延びようとした。防衛反応で、解離を起こしたんだ。そのとき、お前は壊れた。自分の心を壊して、無になって、体を守ろうとしたんだ」
「……そんな事件なんて、知りません。そんな話なんて、聞いたことは……」
「連邦捜査局が犯人を射殺し、ボロボロのお前を保護したとき。お前の両脚は青紫に腫れ、一人で立てるような状態ではなかった。痛い、だなんてもんじゃないだろう、普通は。しかし保護されたお前は、痛いともなんとも言わなかった。泣きもしなかった。そして自分の名前も、思い出せなくなっていた。……お前を見つけ保護した捜査官の名前を、お前はよく知っているはずだ」
「……知りません、知りません……」
「トーマス・ベネット捜査官。ノエミの上司、お前の元上司だ」
 何かを思い出すことを脳が拒否しているかのように、頭が痛くなった。鳩尾のあたりが、内側から針で刺されているかのようにギリリと痛んだ。胸が、心臓が、締め付けられているかのように苦しい。息をすることが、苦しかった。
 だがそれらは、心情の変化を表す言葉じゃない。体の不調だ。感情に与えられている固有名詞ではなかった。
「お前は俺の親父とのカウンセリングの中で、栗毛の女性が怖いと言っていた。それはお前を痛めつけた犯人が、栗毛の女だったからだろう? しかしお前の元婚約者ジークリットは、栗毛の女だった」
「…………」
「それにお前は連邦捜査局時代、やたらめったら危険に飛び込んでいくことが多かった。まるで飛んで火に入る夏の虫だよ」
「…………」
「お前のやってたことは、自殺行為とも言うさ。ヤブ医者なら、そう判断するだろう。だが、お前は違う。死にたくて、あんな無謀な真似をしてるわけじゃない」
「………………」
「再体験したかったんだろう、痛みを。痛いのが好きだもんなぁ、お前は。痛みは解離を誘発してくれる。自分が自分でなくなる瞬間は、現実を忘れられるからなぁ? それに、お前にとって虐げられることは日常だ。分かるか、ラーナー。お前は、正常じゃないないんだ。病気のせいで、ドマゾ野郎になってんだよ!」
 カルロ・サントス医師に両肩を掴まれ、ラーナーは激しく前後に揺すぶられる。そんなラーナーの目は虚ろで、意識はどこかに飛んでいた。
 カルロ・サントス医師はラーナーの頬をひっぱったり、抓ったり、叩いたりするも、ラーナーの反応は何もない。そして彼はラーナーの髪をひと房掴み上げながら、呟いた。
「あちゃー、こりゃ長くなりそうだ。……こんな強敵を前に、親父が治療放棄したくなるのも、まあ分からんでもないわな」




 そうして、どれだけの時間が過ぎたことだろう。
「どうだ、ラーナー。二十年分の澱を吐き出して、スッキリしたろ」
「……ごめん、なさい。あの、そのっ、本当に……」
「これが俺の仕事だ。だから謝るな。ほれ、ティッシュ」
「……ありがとうございます……うぅっ……」
「っつーか、お前の泣き顔は本当に子供だな。子供にしか見えん」
「……うるさい。黙れ、ヤブ医者。さっさと服を着ろ」
「おぉ、その調子だ。いつものパトリック・ラーナーが戻ってきたぞ」
 カルロ・サントス医師から渡されたティッシュで涙を拭い、鼻をかむ。目元を赤く泣き腫らしたラーナーは、血走った目でカルロ・サントス医師を睨んだ。
 外は日も暮れ、夜になっていた。空きっ腹は痛み、マグカップの中に中途半端に残ったコーヒーはとっくに冷たくなっている。カルロ・サントス医師は依然ブリーフ姿のまま、鼻をかむラーナーを見て笑い転げていた。
「取り敢えず、これで荒療治は終了だ。よく頑張ったよ、ラーナー」
 笑い涙を指で拭いながら、カルロ・サントス医師は言う。ラーナーは持っていたティッシュをゴミ箱に投げ入れると、新しいティッシュを取り、言った。
「……もう、こんなこと二度とやりたくないです」
「俺もだよ。しょっちゅう意識を飛ばして逃げちまうような患者、お前が最初で最後であってほしいもんだ」
 カルロ・サントス医師はそう言い笑いながら、寒いと上裸の身をぶるりと震わせる。こうして十年前に放棄された治療は、かつての主治医の息子によって終結されたのだった。
 前半の六時間。これはカルロ・サントス医師にとって苦行でしかなかった。
 まず、前半の始め一時間。カルロ・サントス医師は、ラーナーが忘れている過去を彼に言い聞かせ、思い出させるというより覚えさせようとした。しかし苦痛の記憶に行きあたる度にラーナーは耳を塞ぎ、思考を遮断し、健忘を起こした。何度も何度も、ラーナーは逃げたのだ。
 そしてカルロ・サントス医師は、この逃げ癖をどうにかせねばと考えた。そこで試みたのは、解離の患者によく用いられる手法『グラウディング』だった。
 今、ここに自分は居て、地面もしくは床に足をつけている。その自覚が有るか無いかでは、精神の安定感は劇的に変わるものだ。地に足をつけるという行為は、スピリチュアルのような意味を抜きにしても、実はかなり重要なことなのである。
 だが解離の患者は、そういった意識が薄れている者が多い。解離の患者がよく起こす離人症では、視覚・味覚・嗅覚・触覚・聴覚の五感が一時的に失われてしまうことがあるからだ。ラーナーも、そうだった。
 そこで急遽試みた『グラウディング』でカルロ・サントス医師は、ラーナーの薄れている五感を元に戻すことに専念した。ラーナーが持っていた足を組むクセを止めさせ、両足をしかと床につけるようにと意識させた。気を抜くとすぐに猫背になる姿勢を矯正し、ぺちぺちと頬を叩いたり抓ったりして適度な刺激を与えたりもした。
 そうして粘りに粘って五時間半。カルロ・サントス医師が氷を詰め込んだビニール袋を、ラーナーの膝の上に置いたとき。ラーナーの表情が変わり、奥底に封印されていた記憶が急に溢れ出て、止まらなくなったのだ。
 後半の四時間、カルロ・サントス医師は聞き役に徹した。ラーナーはぽつぽつと涙を零しながら、思い出した過去の出来事を自分の口から話し始めた。
 いじめられ、捻くれ、いつしか凍りついた心を抱えて過ごした幼少期のこと。両親や兄姉に対して、今でも感じている引け目のこと。ぶつけられ続けた心無い言葉の全てや、浴び続けた冷たい視線の数々。十歳だったときに起きた、あの事件のこと。そして不運にも出遭ってしまったジークリット・コルヴィッツという女性についてと、彼女に対して感じている罪悪感について……。
 そして表層に浮かび上がってきた記憶は同時に、当時は解離によって免れた痛みも思い出させた。殴られ蹴られた記憶と共に、傷を負った場所がまた痛んだりした。刃物で切り付けられたり、自分で切りつけたりした古傷からも、血が溢れ出る感覚が思い起こされた。金槌で脚を叩き折られた時の激しい痛みもまた、思い出された。
 その昔、痛いと感じたことがあった。生きていることが苦しいと感じていた。全ての他者が怖いと感じていた。だから、何もかもから逃げたかった。だから過去から目を背けて、今まで逃げ続けてきたのだ。
 しかし逃げたところで、過去が消えるわけじゃない。いつかは過去を含めた全ての自分を、受け止めなければいけない時が来る。
 ラーナーにとって、今日がそのときだったのだ。
「……それにしても、変な話ですよね。私の両脚はあの時と違い、義足になってるっていうのに。何故だか今になって、痛いと感じるんです」
 ラーナーは未だがくがくと震えている自分の両脚を見ながら、震えた声でそう言う。そんなラーナーの膝下は両脚ともに、黒く光る金属製の義足だった。
 義足には、血管や神経など通っていない。本来は痛みなど、感じないはずなのだ。しかし今のラーナーは、繰り返し鈍器を叩きつけられるような痛みを感じていた。それは金槌で何度も何度も打たれ続けた、あのときの痛みだった。
「痛いと感じた記憶を、脳が覚えてるんだ。それを今、脳がリプレイしてるんだよ。ホント、人間の脳味噌ってのは不思議だよな」
 これだから臨床医は辞められない。カルロ・サントス医師はそう言い、笑う。すると、笑う彼のお腹が鳴った。そして二人はそのとき、初めて気が付く。
「そういや俺たち、朝からずっと何も食ってなかったな」
「それにあなたは朝からずっと、下着しか身に着けてませんね」
「どうりで凍えるように寒いわけだ」
「なら服を着ろ。医者のくせに、風邪ひくぞ」
「医者っつっても、俺は内科とか外科とかじゃない。全くの別物、精神科医だ」
「ごちゃごちゃうるさい、早く服を着ろ。トランクスならまだしも、ブリーフは見苦しい」
「分かったよ、分かった。シャツを着てくるさ……」
 そうしてカルロ・サントス医師は、服を探しに一時リビングを退出する。と、それとほぼ同時にラーナーの携帯電話がメールの着信音を告げた。
 ラーナーは受信したメールを開き、内容に目を通す。送り主の名前は“ルーカン”となっていた。多分、アイリーンが送ってきたのだろう。
「……明日も、休み……?」
 メールの本文には、数行ほどの短い文章が載っていた。

  明日も、とりあえず休んでください。これはサーからの命令です。
  平日だからって、出勤しないように。
  詳しいことは、また明日に。午後二時までには帰ってきてねー。


「……」
 あのサー・アーサーからの命令。ということは、大事をとってもう一日休んでおきなさい、なんていう優しさからではないのだろう。何かがあることは、間違いなさそうだ。
 ラーナーはメールをゴミ箱に送り、すぐに削除する。それから腕を組み、顔を顰めると、こんなことを呟いた。
「……嫌な予感しか、しない」
 するとTシャツを着て、ジーパンを穿いたカルロ・サントス医師が戻ってくる。彼はついでに冷蔵庫に立ち寄ると、合挽き肉とケチャップ、ニンニク、ウスターソースを取り出す。野菜室からはニンジンとタマネギ、それと得体のしれないキノコを取ると、彼はラーナーに尋ねてきた。
「夕飯、食ってくよな?」
 そしてラーナーは即答する。
「いえ、遠慮しておきます」
「サントス家直伝のミートソーススパゲッティだぞ」
「私は帰ります。それでは」
 ここは帰ったほうが絶対にいいと、ラーナーの直感が判断した。あのキノコは、なんだか怪しい気がする。そう感じたのだ。
 するとカルロ・サントス医師は無理強いすることをせず、代わりに「ちょっと待ってくれ」と言う。せっかく冷蔵庫の中から取り出したものたちを大急ぎでしまうと、彼は自分の車のキーを探し始めた。
「なら、俺が車を出そう。だからちょっと待ってくれ、支度を済ませるから」
「大丈夫です。本当に、もう大丈夫ですから。一人で帰れますから、別にそんな」
「いいや、駄目だ。お前が大丈夫だと言うときは、だいたい大丈夫じゃない。だから、駄目だ」
「ですけど」
「俺が車で、お前を家に送る。帰路の途中でまた解離を起こされちゃ、堪ったもんじゃないからな。これはドクターストップだと思え。つべこべ言わずに、俺の言うことに従うんだ」
 ドクターストップだなんて言葉を持ち出されてしまったら、患者である人間は黙るしかない。ラーナーは渋々、了承する。すると調子に乗ったカルロ・サントス医師が、こんなことを言った。
「それでよし。はぁー、お前ってヤツは、本当に困った弟だよ」
「あ?」
 彼の言葉に明確な殺意を覚えたラーナーは、カルロ・サントス医師を睨みつける。しかしカルロ・サントス医師は、そんなラーナーの視線を無視する。口笛を吹き、とぼけてもみせた。
「金の無心ばかりをしてくる実の弟よりも、手の掛かる弟だ」
「……」
「そうであれば、お前の実の兄姉たちはさぞかし手を焼いたのだろうなぁ。はははっ」
「……勝手に言ってろ、この変態男」
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