ヒューマンエラー

The world is in a Tumult. ― 「喧々囂々な環境」

 ラーナーの自宅が事件現場となってから、二週間が経った。
 案の定、あの後すぐに作戦本部は畳まれた。脱獄した死刑囚が死んだ表向きの理由は「警官による射殺」となっており、それ以上深く追求されることはなかった。高位技師官僚が銃撃された事件との関連性が報じられることもなく、全ては解決された。
 ノエミは強引ともいえる決着に、不平不満を零している。そんな彼女の追及はラーナーに向けられており、ラーナーの携帯電話の着信履歴には、『ノエミ・セディージョ』の名前が数十件と並んでいた。
 しつこすぎるノエミの追及も、彼のノイローゼを助長させる一端を担っていた。
「ラーナー、朝食はちゃんと食べたのか」
「食べましたよ。というかなんであなたが、そんなことを聞くんですか」
「今のお前が、危ういと感じてるからだ。こんな短期間に、様々なトラブルが続けて起きたんだ。ただでさえお前は不安定だってのに、そこに決定打を加えかねない爆弾が投下されたんだぞ?」
「だからって、押し掛けなくても……――というか、どうしてここに居るんです?」
「お前の同僚だっていうそこの女性が、入れてくれたからだ」
「きゃっぴーん☆」
「……アイリーン、お前なぁ……」
「メールで確認したら、サーがOKって返してきたからだもん。許して♪」
 ラーナーが事件現場となった家を売り払う手続きを済ませたのは、昨日のこと。数日のモーテル暮らしを経て、今はWACEが用意した住居に、うるさいアイリーンと共に住みこんでいる。それなりに綺麗なアパートの一室、傍受装置がクローゼットに完備された部屋に、寝泊りしていた。
 そんな新居にどういうわけか今朝は、カルロ・サントス医師がやってきていた。
「ラーナー。お前、昨晩もひどく魘されてたそうじゃないか」
 腕を組み、ラーナーの前に立ちふさがるカルロ・サントス医師は、そんなことを言う。アイリーンは首を縦に振り、こくこくと頷く。魘されてたかどうかは眠っていたラーナー自身に知る術はないが、彼らの反応から察するに、そのようだった。
 きょとんとしているラーナーに、カルロ・サントス医師は苦笑う。彼は頭を抱えると、ため息混じりの声で言った。
「お前も知ってるだろ。俺の親父は診療所の臨床心理士だって」
「そういえば、以前そんなことを言ってましたね」
「その親父がうるせーんだわ。目の前に居る者を救わずしてどうする、ってな」
「……へぇ、そうなんですか」
「つまり、精神科医の友人が精神病から薬物に手を出すなんていう最悪のシナリオを、何が何でも防げってワケさ」
「これでも元捜査官ですよ? 薬物になんか、手を出すわけが」
「って言ってる奴ほど手を出しちまうんだ、これが。クソみたいな現実から解放されたくて、現実よりももっとクソな世界に溺れていくんだ。そういう人間を、俺はごまんと見てきたから言っている」
 低身長であるラーナーよりも、圧倒的に背が高いカルロ・サントス医師は、ラーナーの頭の上に右手を置く。それから頭をわしわしと掴むように撫でた。
 やめてください、とラーナーはその手を払いのける。そんなラーナーの関心事はひとつだけ。クローゼットの中にある機械に、この医者が気付いているかどうかという点だけだった。
「ジークリットの件といい、長官からの何やらといい、ぶり返してきたイーライ・グリッサムの件といい、昔から抱えているものといい、なんといい。今のお前には不安要素しかない。にも関わらずお前は、平気な顔して職場に行こうとする。医者である以上、俺はお前に休暇を取れと勧めるべきなんだが、お前から仕事を取り上げたら最後、それこそ発狂するだろう?」
「ええ、そうですね」
 頼む、あの機械に気付かないでくれ。ラーナーはそう念じつつ、カルロ・サントス医師の言葉に対して適当な相槌を打つ。ラーナーは彼の言葉など、正直のところまともに聞いていなかった。
「だから、マジでヤバくなったら俺に連絡しろ。分かったな?」
「ええ、はい」
「いいか、夢は深層心理を映す鏡だ。毎晩のように悪夢に魘されている、それも見る夢が同じものばかりなら、お前はその出来事をまだ受け止めきれてないということだ。意地を張らないで、カウンセリングを受けろ。俺はいつでも話を聞くし、守秘義務がある以上、秘密は守る。ASIでのあれこれは話せないだろうが、ジークリットのことや」
「彼女の話は!」
「分かった、分かったよ。気が向いたときで良い。だから、一人で抱え込むな。……誰にも相談しないこと、それとすぐに記憶を封印しちまう健忘は、昔から続くお前の悪い癖だぞ」
 カルロ・サントス医師の話を聞き流していたつもりのラーナーだが、元婚約者の名前には条件反射的に反応してしまった。そんなラーナーを、カルロ・サントス医師は狐疑の目で見ていた。
「……それとだ、ラーナー。ノエミは意地でも、お前からイーライ・グリッサムを殺した人間の名前を聞き出すつもりでいる。気をつけておけよ」
 最後にカルロ・サントス医師はそう言うと、狭苦しい家から出ていく。クローゼットの中に隠してあるものに彼が気付いた様子はなく、ラーナーは安堵した。
 そしてラーナーの横で、アイリーンがこんなことを言う。
「なんか、優しいお兄ちゃんって感じだね。ドクター・サントスって。んでパトリックは、どうしようもない弟って感じ」
「あ?」
「見た目的にも、弟だよね。パトリックって」
「しばくぞ、てめぇ」
「……あっ、目が本気だ。ごめん、ごめん、ごめんってばー!」





 高位技師官僚が死の淵から帰還し、ようやく目を覚ました。
 ASI本部局に着いてすぐにそんな報せを受けたラーナーは、その足でキャンベラ国立大学病院に出向いていた。
 そして彼の前に真っ先に立ちはだかったのは、怒りをその目にたぎらせたノエミだった。
「……二週間ぶりねぇ、リッキー。私の電話を全部無視してくれるとは、いい根性してんじゃないの」
「忙しかったんで」
「高位技師官僚の娘さんに媚を売ることが、お仕事なのぉー?」
「そうですよ」
「……楽な仕事ですこと。こちとら一昨日は出張でブリズベンに行って、昨日はティババラで誘拐犯とっちめてから、今朝キャンベラに帰ってきたばっかりだってのに」
「ははん、寝てないんですね。だから目の下に隈が出来て、ブサイクな顔が更にブッサイクになってるわけだ」
「なんですって、この童顔クソチビ野郎!」
 なんとも言えない微妙な空気がふたりの間に流れ、睨みあいが繰り広げられる。そうこうしているうちに、高位技師官僚が居るという病室の前に着いた。
「……」
「…………」
 しかし病室の扉の前には、先日と違い要人警護チームの姿がなかった。代わりに病室内からは、苛立ちに満ちた男二人の声が聞こえてきていた。
「バルロッツィ技師官、あなたは自分の立場を全く分かっていないようだ。警護を解けと言われましても、これは大統領命令ですかッ……――」
「お前たちのボスに確認しろ。それは本当に大統領命令なのか、と。たかが閣僚ひとりのために要人警護チームを三十人用意させるだなんて馬鹿をやるのは、俺が知っている限り一人だけだ。それは決して、大統領じゃない。エズラ・ホフマンのはずだ」
「そんなことは関係ない。警護は解けません!」
 なにやら物騒な雰囲気だぞ。ラーナーはそう感じながら、病室の扉をノックもせずに開ける。スライド式の扉は右にずれた。
「ちょっ、リッキー!」
「お取り込み中のところ、失礼します。先日の件について、ASIより伺いに来ました。パトリック・ラーナーです。こちらは連邦捜査局、ノエミ・セディージョ特別捜査かッ」
「何をしているんだ、君たち! 今すぐここから、出て行きなさい!」
「構わん、入れ」
「バルロッツィ高位技師官僚、これはあなたが判断すべきことでは」
 部屋の中には、要人警護チームが三人と、まるで椅子に腰を掛けるようにベッドに座っている黒縁眼鏡の男が居た。そして場には、不穏な空気が満ちている。怯まず、堂々としているふりをしているラーナーの横でノエミは、居心地が悪そうに天井を見つめていた。
「要人警護チームの、ヘンリー・ショウだったか。お前たちに用はない、ここから出ていけ。それとも、追い出してやろうか?」
「我々は任務を全うするために、日々、特殊な訓練を積んでいるのですよ?」
 黒縁眼鏡の男、つまり高位技師官僚は、屈強な男が揃った要人警護チームを相手に、独特の威圧感を与えていた。しかし要人警護チーム側も威圧に臆することはなく、自分たちを邪険に扱う高位技師官僚を訝るように見ていた。この男は何を企んでいるのか、と。
 自分を護っているはずの要人警護チームに、出て行けと命じるなんて。両者の牽制を観察するラーナーは、まじまじと黒縁眼鏡の男を見つめる。そして思った。この男は相当にクレイジーだ、と。
 あからさまに嫌悪感を示してくる高位技師官僚を相手に、要人警護チームは凄んでみせる。しかしその直後、勝敗が分かれた。
「何が『特殊な訓練を積んでいる』だ。馬鹿も休み休み言え」
 全ては一瞬のうちに、常人には見切れない速さで起こった。高位技師官僚が徐に立ち上がったかと思ったその瞬間、三人並んで立っていたはずの要人警護チームの男たちが、ひっくり返って床に倒れたのだ。ノエミは息を呑み、ラーナーは目を剥く。
 そして高位技師官僚は、床に倒れ、呻き声をあげる情けない男たちを見下ろすように立つ。それから彼らに向かって、彼らにとっては耳に痛い台詞を放った。
「この程度も対処できん愚図など、俺の傍には必要ない。却って、邪魔なだけだ」
「……ですが、バルロッツィ高位技師官僚……ッ」
「いいか、お前たち。俺は、軍事防衛部門の高位技師官僚だ。悪知恵がよく回るというだけで、その地位に居るわけじゃないことを、よく覚えておけ。俺はお前たちのクビを、いつでも斬り落とせるんだぞ。それも、一瞬でな」
 これは、クレイジーなんてもんじゃない。紛い物でない、本物の狂気だ。
 文字通りの殺気を放つ、高位技師官僚。それを見つめるラーナーは、生唾を呑む。横目に見えるノエミの表情筋は、緊張と恐怖からぴくぴくと痙攣していた。
 そしてラーナーは悟る。こりゃアーサーが殺したがるわけだ、と。ブラッドフォード長官が「あの男だけはどうにも好かなくてな」と言っていた理由も、自ずと理解できた。
「さあ、どうする? ここには幸運なことにサーベルがない。斬り落とすことは出来ないな。だが、武器がなくとも人間を殺す方法は幾らでも」
「高位技師官僚ッ!」
「幸い、ここは病院だ。仮に怪我をしても、すぐに治療を受けられるだろう。とはいえ、心臓が止まってりゃ治療もクソもねぇか……」
 高位技師官僚のただならぬ殺気を受け、震えあがった要人警護チームの男たちは慌てて飛び起きると、病室から静かに立ち去っていく。
「初めから、大人しく従ってりゃいいものを……」
 そして要人警護チームの男たちが立ち去り、病室の扉が閉まると。狂人と呼ぶにふさわしい高位技師官僚の目が、ラーナーとノエミの二人を捉えた。
「それで、要件はなんだ。簡潔に話せ」
 二人の若者を品定めするように見る、高位技師官僚の蒼い目は笑っていない。しかし口元は不敵に、にやりと歪んでいる。ノエミは高位技師官僚が浮かべる不気味な笑みに、背筋をぶるりと震わせた。
 ラーナーはぐっと拳を握る。爪は掌に食い込み、その痛みがラーナーを奮い立たせた。
「……」
 似たような犯罪者を大勢相手にしてきただろう、パトリック・ラーナー! 何も怖がる必要はない、だって全員ムショにぶち込んできた! 今回だって、きっと大丈夫……――なはずだ!!
「俺の視力ってのは酷いもんでな。この眼鏡があっても、まともにモノは見えない。しかしお前たちが怯えているということは、手に取るように分かる。早く終わらせたいんだろう? なら、さっさと要件を言え」
 ……や、やっぱり怖いかもしれない!!
「私どもがお聞きしたいことは、ひとつだけです。バルロッツィ高位技師官僚。犯人の顔を、見ましたか?」
 勇気を振り絞り、ラーナーは言った。高位技師官僚の指定どおり、簡潔に。すると高位技師官僚は、鼻で笑った。
「いいや、見ていない」
「男か、女かくらいは……」
「背後から襲われたんだ。見てるわけがないだろう?」
「なら、声は」
「聞こえたのは銃声と、娘の悲鳴くらいだ」
 なんて、やりにくい相手なんだ。
 ラーナーは握りしめていた拳を解放し、嫌な汗で湿った掌を後ろ手に回す。高位技師官僚は余裕の笑みを浮かべたままで、弄ぶような目でラーナーを見ていた。そして高位技師官僚は白い歯を見せながら、ラーナーに言う。
「パトリック・ラーナー、お前はバーソロミュー・ブラッドフォードの回し者だな? もしくは、サー・アーサーの使いっぱしりってとこか」
「……!?」
 何故バレた?!
 それもこんな一瞬のうちに!?
「あのバカの目的は分かっている。ヤツに伝えておけ。考古学博士の出る幕はない、とな」
「い、いや、あの、その、高位技師官僚。たしかに私は、ブラッドフォード長官から指令を受け、単独で動いていますがー……」
「しらを切ろうが無駄だ。俺には通用しない」
 そう言う高位技師官僚はニタニタと笑いながら、うろたえるラーナーを見ていた。そしてラーナーは察する。ああ、この人は自分を撃ったのが誰かを知ってるんだ。アーサーだと分かっていながらも黙っている、と。
 どうしてこの男は、何も言わないんだ。首をすこし傾けたラーナーは高位技師官僚を見つめ、そんなことを考える。だが考えたところで、ラーナーには彼の繁雑とした頭の中を理解することは出来なかった。
「……」
 ラーナーは黙り込む。すると横で突っ立っていただけのノエミが、動いた。
 ノエミは壁に近寄ると、なにかのボタンを押す。そして彼女は、高位技師官僚の腹部を指差した。
「あの、バルロッツィ高位技師官僚」
「なんだ?」
「……傷口が、開いてます」
 ノエミが押したボタンは、ナースコールだった。そしてラーナーは彼女の言葉を聞いて、初めて気がついた。高位技師官僚が着用していた病衣に、血が染みていたことに。血が染みている、といってもそれは『ちょっと』だなんてものではない。上腹部全体が、赤になっていたのだ。
 しかし当の本人は痛みを感じていないのか、平気そうな表情を浮かべている。イヤな笑みを口元に湛えたまま、だが顔色は悪くなっていた。
「……二週間も経っているってのに、傷が治ってないとはな。若い頃のようにゃいかねぇか……」
 すると病室の外が騒がしくなる。駆けつけてきたのは看護師ではなく、ノエミの上司でありラーナーの元上司、トーマス・ベネット特別捜査官だった。
 彼はノエミを見て、ラーナーを見る。それから高位技師官僚を見やると、呆れ返った声で言った。
「バルロッツィ技師官。あなたですね、要人警護チーム隊員の脚を折ったのは」
 トーマス・ベネット特別捜査官は額に手を当て、重苦しい息を吐く。悪かったよ。そんな思ってもいないことを、高位技師官僚が口走ったときだった。高位技師官僚の体がぐらりと揺れ、前に倒れる。彼の体が床に落ちる前に、すんでのところでトーマス・ベネット特別捜査官が受け止める。それと同時に、ちょうど看護師たちが病室にやってきた。
 動かなくなった高位技師官僚の体を看護師たちが引き受けると、ラーナーらは部屋から追い出された。
 ノエミは項垂れ「何も聞けなかった」と嘆き、ラーナーは無言で立ち竦む。トーマス・ベネット特別捜査官は高位技師官僚の血がついた手をハンカチで拭いながら、眉間にぐっと皺を寄せていた。それからトーマス・ベネット特別捜査官は、ラーナーに声を掛けてきた。
「久しぶりだな、パトリック」
 彼の声が、どこか遠くに行きかけていたラーナーの意識を現実に引き戻した。ラーナーはハッと振り返り、トーマス・ベネット特別捜査官を見る。そしてすぐさま、笑顔を繕った。「お久しぶりです、チーフ」
「ASIでもお前は、大活躍をしてるそうじゃないか。トラヴィスがお前のことを、手放しで絶賛してたぞ」
「いやぁ、それほどでも」
 ラーナーが謙遜するような態度を示すと、ラーナーの横に居たノエミが彼の脇腹を肘で小突いてきた。ノエミは物言いたげに眉根を吊り上げ、ラーナーを睨む。どうやらノエミの癪に障ったようだ。
 そこでラーナーは話題を変える。昔の上司であるトーマス・ベネット特別捜査官と、今の上司であるトラヴィス・ハイドン部長について、気になっていたことを訊ねた。
「そういえば、チーフとトラヴィス部長って、どんな関係なんですか?」
 その問いに対し、トーマス・ベネット特別捜査官ははにかみながら答えた。
「トラヴィスは幼馴染だ。まだアルストグランが海の上にあり、名前もアルフレッド連邦だった頃からの仲だよ。ガキの頃はアイツと二人、ボンダイビーチでサーフィンをよくしたもんさ。同じ小学校、中学校、高校、大学と進み、アカデミーに入り、連邦捜査局に同時に入ったがー……あいつは一年もしないうちに、秘密情報局に引き抜かれていった。パトリック、お前と同じようにな。けれども俺はどこからもお声が掛からず、残留。四十を越えた今でもデスクワークでなく現場での活躍を期待される、ユニットチーフどまりだ」
「……トラヴィス部長が、連邦捜査局に?」
「ああ、居たぞ。大昔、二〇年近く前の話だけどな」
 トーマス・ベネット特別捜査官はそう言うと、ラーナーの肩に肘を置く。そしてラーナーの頭を撫でるのであった。
 ラーナーはその手を払いのけ、顔を顰めさせる。それから呟くように、ラーナーは言った。「……どいつもこいつも、私のことを何だと思ってるんです?」
「こども」
 と、ノエミは言う。
「強がりの多いガキんちょ」
 と、トーマス・ベネット特別捜査官は言った。
「……ええ、そうですよ。私は童顔の、クソチビ。子供にしか見えません」
「ごめんな、パトリック。悪気はないんだ。だが、その、お前を見るとつい、やりたくなっちまうんだよ。あと、これも」
 するとトーマス・ベネット特別捜査官は、ラーナーをぎゅっと抱きしめてきた。唐突すぎる出来事にラーナーは硬直したあと、すぐに彼の腕の下を潜って逃げ出した。
 傍から見ていたノエミは腹を抱えて笑い、涙まで流す。そして照れ臭そうに米神を掻くトーマス・ベネット特別捜査官は、こんなことを言った。
「どこかに意識が飛んでるような、心ここにあらずって顔をしているお前を見る度に、どうしても十五年前を思い出す。心配になっちまうんだよ」
「十五年前?」
 ラーナーが首を傾げると、トーマス・ベネット特別捜査官は苦笑う。そしてまた彼は、ラーナーの頭の上に手を置いてきた。
「そうだったな。お前は、全部忘れちまったんだよな。いやぁ、変なことを言った。今のは忘れてくれ」
 ぽん、ぽん。ラーナーの頭を軽く叩いたトーマス・ベネット特別捜査官は手を下すと、閉め出しを食らった病室のドアをじっと見る。口角が下がっているその顔は、とても穏やかとはいえないシナリオを想像しているかのようだった。
 ラーナーもまた、同じドアを見る。けれども向けている視線は、トーマス・ベネット特別捜査官とは異なっていた。
「サー・アーサー……」
「バルロッツィ高位技師官僚が言ってた名前よね。サーって、称号のSirサー? だとしたら、ナイト称号を賜ってる誰かなのかしら?」
「……いえ、単なる敬称じゃないでしょうか。Bossと同義の、サーだと思います」
「ふぅん、サー・アーサー。聞いたこともないわね……」
 サー・アーサーは、何がしたい? そして高位技師官僚は、何を隠している?
 ラーナーには、まだ分からない。彼がそれらの問題を理解するためには、まず自分が抱えている問題と向き合う必要があった。
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