ヒューマンエラー

Who do you Suspect? ― 「嫌疑の矛先」

 ラーナーが遁走を引き起こしていた間、ノエミはキャンベラ国立大学病院に居た。
「チーフ、彼が失踪したってのは本当なんですか!」
「ああ、本当だ」
 血痕だけが残された病室に佇むトーマス・ベネット特別捜査官は、腕を組み、患者が居なくなったベッドを見つめていた。
「彼の家に捜査官を送ったが、家には居ないそうだ。それに病院中の監視カメラの死角を掻い潜って逃げたのか、どのカメラにも彼の姿が映っていないんだ。まったく、どこに消えたんだかな……」
 米神を掻くトーマス・ベネット特別捜査官は、白いベッドに染みついた血液と、床に点々と滴り落ち、窓枠の前で途切れている血痕を注視する。その横でノエミは、小さな声で言った。
「彼は、窓から飛び降りたんでしょうか? けどここは三階で、下はコンクリート。落ちたら、一たまりもないはずなのに……」
「空を飛んだとか? 口笛をぴゅーっと吹いて、ドラゴンを呼んでさ。背にまたがって……」
「チーフ、ふざけないで下さいよ。まさか、そんなわけが」
「冗談だよ、真に受けるなって」
 笑うトーマス・ベネット特別捜査官は、眉間に皺を寄せて力むノエミの背を、ぽんっと軽い力で叩く。
「それにしても、バルロッツィ高位技師官僚には困ったもんだ。ワイズ・イーグルに嫌われているワケも、理解できる」
 ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。彼もラーナーと同じタイミングで、姿を晦ましていたのだ。





 翌朝、ラーナーは自宅で目覚めた。バスルームでシャワーを浴び、寝汗を流したラーナーは、久々に朝飯を自分で作ろうかとキッチンに向かう。するとキッチンから、油がはねる音が聞こえてきた。
「……?」
 また、アイリーンが何かをやっているのか……? ラーナーは一瞬そう思い掛けたが、首を捻る。アイリーンがキッチンに立ったときには必ず家中に充満する、あの焦げ臭いにおいがしなかったのだ。
 珍しい。マシな料理のにおいがする。アイリーンが来てからというもの、まともに自炊をしていなかったラーナーは、久々に食欲がそそられるのを感じていた。
 そしてラーナーはキッチンの扉を開ける。するとそこには、キッチンに立つ白髪の大男と、大男に向かって一方的に話しかけているアイリーンの姿があった。
 するとラーナーの存在に気付いたアイリーンが、彼に声を掛けてくる。そんなアイリーンは、怒っているとも、呆れているとも、安心したともつかない顔をしていた。
「はろー、パトリック。一昨日は急に消えたりして、本当に心配したんだからね」
「……すみませんでした」
「んでさ、パトリックのクローゼットの中から金属の脚みたいなのが出て来たんだけど、あれって何? 人形でも作ってるの?」
「ああ、それは私の脚ですね。義足のスペアです」
「義足? ……パトリック、義足だったの!?」
「ええ。両足ともに、膝から下がね。大昔に事故というか、事件に巻き込まれまして。そのときに足がぼろぼろになって、回復が見込めないからと切除するしかなかったんです。それで、今はこんな脚に」
 ラーナーは履いていたスラックスの裾を、ぺろっと捲ってみせる。捲れたスラックスの下から覗いた黒いくるぶしに、アイリーンは目を丸くさせた。そして彼女は小さな声で言う。うわぁ、リアルなサイボーグだ、と。
 それからアイリーンは一度咳払いをすると、キッチンに立つ男の顔を見る。そして男を、ラーナーに紹介してきた。
「パトリック、紹介するね。この人は、コードネーム“ケイ”。要するにWACEの人ってこと。WACEきっての、マッチョおじいちゃんなの」
 アイリーンがそう言うと、ケイと呼ばれた男は包丁をまな板の上に置き、ラーナーに握手を求めてきた。ラーナーも握手に応じる。そして、簡単な自己紹介をした。
「アルストグラン秘密情報局、欧州情報分析部のパトリック・ラーナーです」
 ラーナーはにこやかな作り笑顔を浮かべる。しかし内心は、自分よりも頭ふたつは大きい男を前に、ひどく緊張していた。
「宜しく、お願いします」
 ラーナーは、背が低い。身長は一五〇センチメートルもない。対してキッチンに立つその男の身長は、ゆうに一九〇センチを越えてそうだった。そのうえ、男は体格も良かった。肩幅も、六〇センチはありそうだ。腕は、ちょっとした街路樹の幹ぐらいの太さがある。服の上から透けて見える腹筋は、煉瓦を張り付けたのではないかと思うくらい、くっきりはっきりと割れていた。
 そんな大男は皺が目立つ顔に自然な笑みを浮かべ、握手を交わすラーナーに向かって軽く頭を下げる。しかし、筋骨隆々で感じの良い初老の大男は、ひとことも言葉を発しなかった。するとアイリーンが口を挿む。
「あんねー、ケイのじーちゃんは喋れないのよ。ちょい昔に、あの鷲鼻クソ眼鏡ジジィに首を斬りつけられたことがあってね。命は助かったんだけど、声帯が壊れちゃってさー」
「鷲鼻クソ眼鏡……?」
「ペルモンドのオッサンのこと。軍事防衛部門の、高位技師官僚」
「ああ、たしかに彼は鷲鼻で眼鏡を……――」
 意外なタイミングで、アイリーンの口から飛び出した人名に、ラーナーは眉を顰める。
 ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。彼はたしかに、イカれている。自分を護る要人警護チームを邪険に扱い、強引なやり方で追い出したりしていたくらいには、狂人だ。
 しかし、だからって人殺しまがいの真似を……――。
「やーよね、あのジジィ。凶暴な野良犬って感じ。地位に見合った品性もないし、それに」
「……高位技師官僚が、彼を?」
「そう、ケイのじーちゃんを斬ったの。首を狙ってね」
 アイリーンの問いに、大男はこくりと頷く。驚くラーナーは、アイリーンの言葉を信じられなかった。
 と、そのとき。ラーナーの携帯電話にメールが届く。差出人はノエミだった。
「……あっ、ノエミ」
 ラーナーはメールを開き、本文に目を通す。アイリーンも中を覗くように見た。
「ふむふむ。ノエミ・セディージョ捜査官は、絵文字とかを使わないタイプなんだね」
「……」

  明日にもASIのほうに連絡が行くとは思いますが
  一昨日の晩、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が失踪しました。
  もし見かけたら、私かチーフに連絡して下さい。
  追伸。カールが食中毒になりました。
  夕食に使った挽き肉が腐っていたことと、
  誤って食用じゃないキノコを食べたことが原因だそうです。


「高位技師官僚が、失踪……」
「一昨日の夜っつーと、ちょうどパトリックも消えてた時間帯じゃん」
「あっ、そうですね。同じだ」
 高位技師官僚が失踪したことについて、ラーナーは然程驚いていなかった。あの人ならやりそうだと、以前から感じていたからだ。
 しかし問題は、彼が今どこで何をしているかではない。人を探すのは、連邦捜査局の仕事だ。ラーナーにとって一番大事なのは、どうして彼が失踪したのかという点であり、だからこッ……――
「ペルモンドのオッサンなら、サーが監禁してるよ」
 なんだと……?!
「サーが色々やってるらしいけど、あのオッサンってすごく手ごわくてさ。全ッ然、口を割らないんだって。電気ビリビリもやったし、自白剤もやったし、その他薬剤もやったけど、全部ダメ。拷問が通用しないんだ」
「……あはは、そりゃ強敵だ」
 本当にどうなってるんだ、WACEって組織は。
「そこで、パトリックの出番ってワケ。ケイのじーちゃんが作るご飯を食べてから、本部に行くから。今日は忙しくなるよ、覚悟しといてね」
 そういうとアイリーンは、ラーナーに書類の束とボイスレコーダー、それと五冊の手帳を渡す。ラーナーが目を瞬かせると、アイリーンは呆れたような声で言った。
「この書類には、ここ二週間でアタシが掴んだ情報が書いてあるの。それとボイスレコーダーには、傍受した通話の音声が記録されてる」
「傍受というと、あのクローゼットの装置ですか」
「そう、それ。んでこの手帳は、ワイズ・イーグルから渡されたものでしょ」
「ええ、長官から私が受け取ったものです。……けど、どうしてそれを知ってるんですか?」
「特務機関WACEを舐めないでよね」
 そうでしたね、あはは……。
「そんで、これらの記録を全部、午後三時までに頭の中に入れてね。分かった、パトリック?」
「えっ、これを全部?」
「トラヴィス部長から習ったでしょ? 尋問の基本は、あらかじめ相手を知っておくことだって。だからそれを全部、その大きな頭に叩き込んで」
 ラーナーは壁に掛けられた時計を見る。今は午前八時ちょい前。猶予は七時間しか与えられていない。
「いやぁ、流石に七時間でこれ全部は……」
 記録の山を見ながら、ラーナーはごねる。
「人の限界ってものが、あるでしょう?」
 書類の束はレターサイズ規格の紙で、ざっと五百枚近くはありそうだ。そして一枚一枚に小さな文字で、情報がぎっしりと詰め込まれている。これを全部というだけで気が遠くなりそうだというのに、更にボイスレコーダーと精神科医の手記、手帳がある。

 こんなのを七時間で覚えろって?
 無理に決まってるだろ。

「あんねぇ、パトリック……」
 するとアイリーンは不機嫌そうな顔をする。そして彼女は、実にもっともらしいことを言った。
「本当はね、一昨日の夜からこの作業に取り掛かって欲しかったの。パトリックが現実逃避なんかしてなかったら、猶予はもっとあったんだよ?」
 ラーナーは受け取った書類の束を、両腕でがっちりとホールドする。そして苦し紛れの笑顔を取り繕った。
「あっ、はい、すみません。今すぐ取りかかります」
 そんなアイリーンとラーナーのやりとりを、キッチンに立つ初老の大男は微笑ましそうに見守っていた。
「とりあえず、オウェイン実験の周りを固めといて。多分、サーが知りたい情報はそこら辺だから」
「オウェイン実験……。なんですか、それ?」
「そこが分かってないから、調べろって言ってんでしょ? 察してよ、パトリック。あんた、本当にASIの局員なわけ? 類を見ない辣腕だったから、連邦捜査局より引き抜かれたって聞いたんだけど?」
「……捜査官としては、まあ優秀だったんですけど。情報局員としては、どうなんでしょうね? 自分じゃ分かりませんよ」
「……マジですか、おい。パトリック、おいおい」





 アイリーンに連れられたラーナーがやって来たのは、キャンベラ市内にある業務用の貸倉庫。その一角にて、拷問道具と共にアーサーが待っていた。
 そして、アーサーの後ろにはもう一人の男が居た。
「……ハッ。新米くんのお出ましか」
「ペルモンド。無駄口を叩く余裕があるなら、情報を」
「……そう怒るなよ、考古学博士」
 椅子に縛り付けられ、手足の自由を奪われ、無数の傷を刻まれ、血をだらだらと流し続けていてもなお、余裕そうな素振りをしてみせる男の名は、ペルモンド・バルロッツィ。軍事防衛部門を取り仕切る、高位技師官僚だ。
 そしてラーナーのこの度のミッションは、高位技師官僚から少しでも多く情報を絞り出すこと。しかし尋問を始めてかれこれ二時間、高位技師官僚は嫌味を言うだけで、肝心なことは何一つとして話さない。ラーナーは、苛立ちを覚えていた。
「……バルロッツィ高位技師官僚」
 そんなラーナーは断片的にだが、アーサーに命じられた自分の役目を思い出しつつあった。
「あなたが、あんな惨いことをしていると知ったら、娘さんはなんて思うんでしょう……」
「……」
「エリーヌさん、彼女はあなたの血を継ぐ娘だとはとても思えないくらい、純朴で美しい方だ。きっと、亡き母親に似たのでしょう。そんな彼女は哀れなことに、父親が暗殺者だということを知らない。父親の本当の顔を知ったとき、彼女はどんな表情をするんでしょうかねぇ……?」
 道化の騎士、ディナダン卿。アーサー王伝説群に登場する彼は、大した武勲を持っていない。彼はそれなりに優れた槍の腕を持っているものの、上には上が大勢いたのだ。
 ランスロット卿、ガウェイン卿、トリスタン卿、ガレス卿、パロミデス卿、ルーカン卿、そしてアーサー王……。ディナダン卿は試合で、だいたい負けている。圧倒的な力の差で打ち負かされたり、落馬させられたり、一撃で気絶させられたり、戦わずに逃げたり。やるときはやる男なのだが、他の騎士たちと比べると勇ましいエピソードを持っていない騎士だった。
 しかしディナダン卿は、武勲ではない別の場面で活躍する。彼はウィットに富んだ人物で、実に口が達者だった。その言葉は、恋に悩める情けない男たちの背を押し、そっと励ます。反面、気に入らない人間を貶めることもあった。
 そしてディナダン卿は、非常に優れた観察眼を持っていた。思慮深く、それでいて深い洞察力を持っていた彼は、仲間たちから頼られることも多く、敵からは恐れられていたのだ。
「バルロッツィ高位技師官僚、あなたはどう思います?」
 ラーナーに与えられた役目は、アーサー王伝説群に登場するディナダン卿と同じ。道化であり、目であった。
 アーサーは初めて会ったとき、ラーナーにこう言ってきた。君はあの男とどこか似ている。凄惨な出来事を経験し、己の心を、体を、人生を壊された者同士、通ずる“何か”があるのでは、と。
 アーサーは言っていた。自分は、あの男のことをよく知っている。生い立ち、性格、趣味趣向、その他諸々を。しかし、ひとつだけ分からないことがある。それはヤツの心だ、と。それに、こうも言った。もしあれの複雑な内面に迫れるとしたら、それは似たような境遇に居る君だけだろう、と。そしてあれの行動原理を解き明かせるのは、君の友人だという精神科医だけだ、と。 
「さあな、どうだか」
 しかし目の前の男は、文字通りの強敵だった。ガードが固く、付け入る隙はどこにもない。
 それに場の主導権を、彼はすぐに握ってしまう。はじめはWACEのペースであった尋問も、気がつけば彼のペースで、ラーナーはもてあそばれて、好き放題に掻き乱されていた。
「……お前たちが何の情報を求めているか。それくらい、分かってるさ」
 酷い有様の高位技師官僚は、ニタリと笑いながら言う。ラーナーは適当に受け流し、鼻の先であしらうような言葉で返した。
「あら、意外ですね。分かってくれていたんですか」
「しかし情報を手に入れたところで、どうする? お前たちWACEが出来ることなど、何もないぞ」
 高位技師官僚の青紫色の唇に湛えられているのは、余裕の笑み。しかしその姿は、余裕があるようには見えなかった。
 ぼろぼろの体は、失血性のショック症状を見せている。顔色は悪い。呼吸は浅く、早い。絶えず冷や汗を流していて、四肢はときおり痙攣を起こしていた。
 それでもこの男は、頑なに情報を漏らすことを拒んだ。ラーナーの手元にある情報と言えば、アイリーンが掴んだという「オウェイン実験」という名前だけ。しかしオウェイン実験が何なのかが、ラーナーには皆目見当がつかなかった。
「あなたはちょうど一週間前の晩、サンレイズ研究所から掛かってきた電話に対して、怒鳴り散らしていたそうじゃないですか。要人警護チームの隊員が、そう証言していました」
「そういや、そうだったかもしれないな」
「相手はあなたが所属する研究所の所長、ライオネル・ヨーク氏。会話の中でヨーク氏は、オウェイン実験という単語を口走っていましたが……」
「オウェイン実験、か」
 その言葉を聞いた高位技師官僚は、フッと鼻で笑う。すると高位技師官僚は、アーサーを憐れむような目で見た。
「お前はまた噛みつくのか、元老たちに」
「……ほう。やはりお前は、奴らからの命令で動いているのか」
「その答えはノーであり、イエスでもある」
 どっちとも付かない高位技師官僚の言葉に、アーサーはムッと眉間に皺を寄せる。ラーナーは、首を少し傾げていた。
 元老たち。そういえばブラッドフォード長官に対して、以前アーサーはそんな言葉を発していた。
『元老たちは、全てを見ている。私の口から言えることは、今はそれだけだ』
 この“元老たち”というのは一体、どんな存在なのだろうか。うーむ、とラーナーが考え込んでいると、高位技師官僚がまた何かを言いだした。
「俺は、あくまで俺の天秤で動いているだけだ。だがもう一匹は、違う」
「また、その話か。私がそれを……――」
 アーサーは言い掛けた言葉を途中で呑み込み、黙る。すると倉庫の隅で機械をいじくっていたアイリーンが、大慌てで機械を片付け始めた。
 そしてアイリーンが、焦った声で言う。
「ディナダンの携帯電話がハッキングされました! 彼の携帯電話から連邦捜査局に、ここの位置座標が送られてます!」
 ラーナーは慌てて、自分の携帯電話を確認する。と、いつの間にか一件のメールが、ノエミ宛てに送られているのを発見した。送信済みボックスからラーナーはメールを開き、内容を見る。中身はアイリーンが言っていたとおり、貸倉庫の緯度経度と住所が記載されていた。
 そしてノエミからの返信も、十五分前に届いていた。

   了解。今すぐそちらに向かう。

「……まずいですね」
 連邦捜査局の動作は、驚くほど速い。まどろっこしい事務処理を極限まで簡略化し、彼らはすぐ動ける態勢を常に整えているからだ。そしてノエミからの返信が十五分前なら、ここに連邦捜査局が到着するのも時間の問題。残された時間は二、三分ぐらいだろうか。
 悪人をとっちめる側だった頃は、その速さを当然のものだと思っていたが、いざとっちめられる悪人側に立ってみると、その速さは実に厄介なもので……――。
 ラーナーは腕を組み、黙りこくる。なんだかもう、何もかもがどうでも好くなってきていた。
「……あー。なんで、どうして、こんなことになったんだ……」
 悪事の片棒を担ぐことになってしまったのが、一巻の終わりだった。ノエミに手錠を掛けられるなら、それで構わない。積み上げてきたキャリアが、音を立てて崩れていくような気がする。ああ、連邦捜査局時代の功績たちよ。アルストグラン秘密情報局なんて場所に異動したばかりに、全てが泡あぶくのように消えて、もれなく刑務所に……。
「ディナダン! 悪いけど、アタシたちは逃げる!」
 機械の全てを回収し終えたアイリーンは、ラーナーに向かってそう言った。同時に、連邦捜査局の到来を告げるサイレンが聞こえてくる。
 そしてアイリーンはラーナーに手を振り、無責任すぎる台詞を言い放った。
「連邦捜査局を、うまく誤魔化しといてね!」
「えっ、私は置き去りですか」
「そう、その通り! 四時間後に家で落ち合おう、それじゃ!」
 機械を抱えたアイリーンは、アーサーの傍に駆け寄る。そして二人は、煙のように消えて行った。
「……はぁーっ、嘘だろ。なんなんだよ、特務機関WACEってのは」
 貸倉庫に残されたのは、ラーナーと高位技師官僚、それと拷問器具だけになる。ラーナーは項垂れ、自分だけ取り残されたことに静かな怒りを感じていた。
 すると項垂れるラーナーに、青白い顔をした高位技師官僚が話しかけてくる。人を小馬鹿にしているような笑い声を含んだ調子で、彼は咳き込みながら言った。
「パトリック・ラーナー、お前はアーサーのことをどう思っている?」
「そりゃぁ、その……――何がしたいのか、さっぱり分からないというか」
 高位技師官僚はそれだけを訊くと、ハハッと高笑う。そして彼はニヤリと笑い、何かを企むような顔で、こんなことを唐突に言ってきた。
「……これはひとつ、貸しだ」
「貸し?」
「この縄を解いてくれ。そしてこれから来る捜査官に、言うんだ。自分が高位技師官僚を見つけ、助けたと。あとの根回しは、WACEがやるだろう」
「……」
「今は、この場をやり過ごすことだけ考えろ。それに俺は、逃げも隠れもしないさ。……今は、な」
 どこまで、この男を信用するべきか。ラーナーは判断に迷ったが、ここは彼に従うべきだという結論を下した。そしてラーナーは拷問器具の中からナイフを選び、手に取る。そのナイフで、高位技師官僚の手足を縛り付けていた縄を解いた。
「で、次はどうすればいいんです? あなたを立たせればいいんですか」
「……いや、俺に構わなくていい。それよりも、そこに居る捜査官を丸め込め」
 高位技師官僚は蒼い目で、ラーナーの後ろを見やる。ラーナーも振り返り、背後を見た。
 貸倉庫の扉が開けられ、暗かった倉庫に光が差す。逆光の中に見えた影は、拳銃を構えたノエミとトーマス・ベネット特別捜査官だった。そしてノエミの声が聞こえてきた。
「リッキー、そこに居るのね?」
「ええ、ここに居ますよ。早く、こちらに来て下さい」
 しらばっくれた顔で、ラーナーは連邦捜査局の特別捜査官二人を呼び寄せる。そんなラーナーの後ろで、高位技師官僚は不敵な笑みを浮かべていた。
 そして高位技師官僚は何かを、呟くように言う。その直後、力尽きたように彼は床に倒れ込んだ。
「……バルロッツィ高位技師官僚!?」
 ラーナーは倒れ込んだ高位技師官僚の傍により、彼の首筋に触れる。脈拍は弱く、今すぐにでも途絶えてしまいそうだった。体は温度を失い、屍のように冷たくなりつつあった。胸は動かず、呼吸は止まっている。当然、意識はなかった。
 今度こそ、危ない。ラーナーはそう感じていた。
 だって彼は、満身創痍だった。銃弾を十何発も喰らった傷がまだ癒えてなかったのに、今度は拷問。サイボーグだかなんだか知らないが、こんなことをされたら人間は死ぬだろう。
 ブラッドフォード長官が言っていたではないか。人間は斬られれば死ぬ、刺されれば死ぬ、撃たれれば死ぬ。あっけなく死ぬんだ、と。
「救急車を、早く!!」
 ラーナーはノエミらに向かい、叫ぶような大声でそう言った。
「急いでください! でないとこの人、死にますよ!!」
 しかし、そう言うラーナーの頭の中で、アーサーの声が反芻していた。
『あれが人間であれば、の話でしょうね』
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