ヒューマンエラー

They've Defect in their character. ― 「欠陥だらけの男たち」

「そのメガネ型通話デバイスから、会話は全て聞かせてもらった。あのような嘘をさらりと吐けるとは。君もなかなか、罪作りな男だ」
 ASI本部、長官室。大学病院から戻るなりすぐに召喚されたラーナーは今、長官室に立っていた。
 それは午後九時を過ぎた頃。ラーナーの前には、二人の男が立っていた。
「それにしてもだ、アーサー殿。今度の件はちとやりすぎではないのか? 問題の男が死の淵を彷徨っているなど……」
「大丈夫ですよ、あの男は死にませんから」
「バルロッツィ高位技師官僚、彼がサイボーグだという突飛な説は私も耳にしたことがある。だが」
「あの男はサイボーグではありませんよ」
「彼の痛覚は死んでいて、痛みの一切を感じない。そこからサイボーグという仇名が付けられたと聞いている。サイボーグというのは、あくまで仇名だ。それくらい、私も知っているとも」
「そうでしたか。ご存知とは、意外ですね」
「けれども、だ。だからといって、あの男が死なないわけじゃない。何故なら彼は、人間だからだ。人間は斬られれば死ぬ、刺されれば死ぬ、撃たれれば死ぬのだよ。あっけなく、死ぬんだ」
 ブラッドフォード長官は呆れたようにそう言う。だが、黒いサングラスを掛けた枯草色の髪の男――特務機関WACEの長“アーサー”――は鼻で笑うばかり。あの『ワイズ・イーグル』が、いい加減にあしらわれているようだった。
「あれが人間であれば、の話でしょうね」
「……あなたはあの男が、不死身であるとでも言いたいのか?」
「さあ、それはどうでしょう。ですが心臓を撃ち抜かれてもなお、息をしている男が人間であると言えるのでしょうか。私は、そうだと思いませんがね」
 アーサーは明確な言葉を避け、代わりに曖昧で挑発めいた台詞を発する。そんな彼の腰に携帯されていた拳銃は、九ミリ口径のもの。ラーナーは深く考えずとも、全てを察した。
 サー・アーサー。彼がバルロッツィ高位技師官僚を銃撃した。普通の人間であれば即死するであろう急所だけを狙い、執拗に、十四発も弾を撃ちこんだのだ。
「アーサー殿。はぐらかさずに、説明しっ……――」
「元老たちは、全てを見ている。私の口から言えることは、今はそれだけだ」
「……訊くなというわけか」
 もしかすると彼は、バルロッツィ高位技師官僚を本気で葬り去りたかったのかもしれない。ラーナーはそう思った。だってそれほどまでの殺意がなければ、あのような凶行に手を染めないはずだ、と。
 急所だけに狙いを定め、十何発も人体に銃弾を浴びせ、殺す。そのようなタイプの犯行の場合、その根底にあるのは積もり積もった怨恨だ。そして犯人は、根が真面目であることが多く、普段の倫理感は正常そのもの。だが犯行に及ぶときとなると、抑えられない怒りや憎しみが、正常な倫理観をいとも容易く打ち砕くのだ。そうして殺意が理性を凌駕し、人間を突き動かしてしまうのである。
 けれどもそうである場合、その犯行は快楽を伴わない(武器が銃でなくナイフなどの刃物である場合は、激しい興奮を伴うのだが)。あくまで目的が「息の根を止める」ことだけである以上、それ以外の余計なことはしないのだ。
 じわじわと痛めつけ、嬲るように殺すなんてことは、このタイプの犯人はそう滅多に行わない。だが確実に息の根を止めるため、執拗に、何度も繰り返し銃弾を浴びせる。
 その犯行に愉悦はない。代わりに「絶対に殺さなければいけない」という強迫を伴うのだ。
「……」
 もし、舞台が法廷ならば。倫理感も血も涙もクソもない一流の弁護士は、犯人のことをこう弁護するはずだ。被害者は殺されても仕方がないような人間のクズだった、と。そして陪審に対して、情状酌量を求めることだろう。
 だがラーナーはこう思う。仮に情状酌量の余地があったとしても、犯行に及んだことは事実。公正な法律による裁きの鉄鎚が、犯人に下されるべきではないのか、と。けれどもアルストグランの国家政府は、そう思っていないようだ。
 そしてこのとき、ラーナーは感じた。自分はとんでもない組織に足を突っ込んでしまったようだ、と。大正義の遂行という免罪符の下に、ヴァイオレンスが許される巨悪そのものに。
「……それで、アーサー殿。次はこのラーナーに、何をさせるつもりだ?」
 ブラッドフォード長官は不満げに眉を顰めさせながら、アーサーにそう訊ねる。対するアーサーは、こう答えた。
「彼には、あの男の一人娘の心を掴んでもらいます。彼女の信頼さえ勝ち取れれば、支配権はこちらが握ったも同然。娘が信頼している人物を傷つけられるほどの度胸を、あの男は持ち合わせていないでしょうからね」
「娘というと、父親とは似ても似つかない、あの美人な赤毛の少女か。まさか、彼女を人質に……」
「そんなことはしませんよ。それはWACEの流儀に反します」
 乾いた笑みを口元にだけ浮かべるアーサーは、冗談めかしにそう言う。
 高位技師官僚に瀕死の重傷を負わせたくせに、どの口が言ってるんだか。ラーナーは心の中で、そんな悪態を呟いた。
「それでは、また改めて。ラーナー、詳しい情報はルーカンから聞くといい」
 そしてアーサーは最後にそれを言うと、姿を消した。僅かにのぼる白煙と共に、一瞬で消えたのだ。それはまるで、マジックのようでもあった。
「……?!」

 嘘だろ、おい!
 一瞬で消えるとか、あの男はマジで一体何者なんだ!?

 ラーナーがそんな風に混乱していると、ブラッドフォード長官がひとつ咳払いをする。すると長官は言った。
「ラーナー、君は少し残ってくれたまえ。君に、渡しておきたいものがある」
「は、はい。なんでしょうか」
「とある脳神経科医の男が残した手記と、その娘の精神科医が残した手帳が数冊だ。父親はリチャード・エローラ、娘の名前はブリジット。聞き覚えの一つや二つはあるだろう?」
 そう言いながら長官は、デスクの引き出しを開け、その中から古びた分厚い一冊の本と、ひどく擦り切れ、今にも破れそうな四冊の手帳を取り出した。
 一冊の本と、四冊の手帳。それらを長官は、ラーナーに渡す。わけが分からないラーナーが首を傾げると、長官は呆れたようにこう言った。
「リチャード、彼は私の友人だった。かれこれ三十年ほど前。アルフテニアランドで脳神経科医をやっていた彼は、あるとき興奮した様子で私に電話を掛けてきたのだ。実に興味深い青年が目の前に現れた、と。彼が言うには、その青年は身元不明で、自分自身について何も覚えておらず、極度の弱視で、眩しい光を嫌い、ありとあらゆる音楽を嫌い、他人というものを嫌い、口数も少なく、心を閉ざしていたという。救命救急に運ばれてきたときには全身が傷だらけで、ひどく痩せていて、まるで欧州の戦火を潜りぬけてきた者のような姿だったらしい」
「それって、ただの浮浪者では……?」
「だがその青年は、破格の頭脳を持っていたそうだ。数理工学の分野、特に素粒子物理学に秀でていたと、リチャードは語っていたよ。リチャードが言うには、青年はサヴァンだったそうだ。そしてリチャードは青年の主治医を買って出て、あれやこれやと試したらしい。脳を調べたり、テストを行ったりとな」
「……その話は、私とどんな関係が?」
「サヴァンの青年。それは今、死の淵を彷徨ってるバルロッツィ高位技師官僚のことだ」
「えっ」
「そしてリチャードの娘である、ブリジット。彼女は高位技師官僚の配偶者だった。あの娘の、母親だ」
「えぇっ?!」
 ラーナーは長官の言葉に、素直に驚いた。というか、驚くことしか出来なかったのだ。
 どうして、そんなものを長官が持っている? そしてどうして自分が、そんなものを渡されたのだ? 疑問は止まらない。混乱も止まらない。
 するとブラッドフォード長官は、呆然と立ち尽くしているラーナーの両肩に両手を置く。長官は威厳に満ちた黒い目でラーナーをじっと見ると、言った。
「それらは全て、持ち主の居ない遺品だ。バルロッツィ高位技師官僚に受け取る意思が無かったため、仕方無く私が今まで管理していたのだよ。それを君に託す。これから先、彼らがそこに遺した知識が、君の役に立つだろう」





 心身ともに疲れ切り、くたくたになったラーナーは、長官から託された荷物と共に、自宅のあるアパートに帰ってきた。玄関扉の鍵穴に鍵を差し込み、がちゃりと鍵を捻る。それから鍵を抜いて、ドアノブを捻り、扉を開けた。
 家の中にアイリーンの気配はなく、ほっとしたラーナーは安堵の息を吐いた。
「……ふぅ。邪魔ものはどうやら帰ったようだ」
 家の中に入ったラーナーは、玄関扉の鍵を厳重に閉じる。翌朝、また侵入者が出ないことを祈りながら、リビングルームに移動した。
 長官から渡されたものが入った鞄をソファーの上に置き、脱いだ上着をハンガーに掛けてから、ソファーの上に静かに腰を下ろした。中古で手に入れた安価のおんぼろソファーは軋み、音を立てる。キィ……と鳴るソファーにうんざりと顔を顰めさせながら、ラーナーはテレビのリモコンに手を伸ばす。そして電源を点けた。
 すると、電源が点いたのと同時に家の固定電話が着信音を鳴らす。ラーナーは座ったばかりのソファーから立ちあがると、電話に出る。真っ先に聞こえてきた声は、悲鳴にも似たノエミの声だった。
『リッキー、テレビを見て! ANS局よ、早く!!』
「……電話越しに叫ばないで下さいって」
 ラーナーはついでに持ってきていたリモコンを操作し、チャンネルをANS局に合わせる。放送されていたのは、なんてことない報道番組。画面の右上には『速報』という文字が表示されている。
 報道番組が、どうしたというんだ。まともに内容を見ていなかったラーナーは、首を捻る。すると電話越しのノエミが、甲高い声で言った。
『今朝、イーライ・グリッサムの死刑が執行される予定だったでしょ? けど予定が変わって、急きょ夕方になったの。そしたらあのクソ野郎、執行の直前に看守を襲って、脱獄したのよ!! おまけにあの野郎、自分に投与されるはずだった麻酔薬、筋弛緩剤、塩化カリウムを持ち出しやがったの!』
「……今、なんて?」
『速報が出てるでしょ、よく見て! イーライ・グリッサムが、脱獄したのよ!!』
 ラーナーは今一度、報道番組を見た。速報の文字に並んで出ているのは、囚人が脱獄という文言。そして刑務所前に佇むリポーターが言った。
『脱獄したイーライ・グリッサム死刑囚の行方は未だ不明だそうで、現在キャンベラ市警と連邦捜査局が捜索に当たっているとのことです。捜索の指揮を執る連邦捜査局トーマス・ベネット特別捜査官は、十二歳に満たない子供を外に出さないようにと会見の中で発言しており、明日にも市内全域の小学校に対して、休校措置を取るようにとの勧告が出される模様です。そしてキャンベラ市警は……――』
 イーライ・グリッサムが、脱獄した? その言葉にラーナーは耳を疑い、目を疑った。だってあの男は、おそろしく知能が低い。逮捕された後の検査で、知的障害者であるとの診断が下されていたからだ。だからあの男に、脱獄など出来る筈がないのだ。そんなことを企てる頭もないのに、何故こんなことが起きた?
 そして考えなくても答えは分かった。誰かが手引きをしたのだ。脱獄には、協力者がいる。
「……イーライ・グリッサムが、脱獄……」
『そして連邦捜査局の精神分析官も、カールも、口を揃えてこう言った。脱獄したあと、あの男が真っ先に向かうのは間違いなくリッキーの家だって。それに連邦捜査局のデータベースに、誰かがアクセスしたみたいなのよ。その誰かさんはあなたの記録を盗んだみたいなの。だから』
「ええ、そうでしょうね。そう考えるのが妥当です……」
 ラーナーは通話を、固定電話の受話器から持ち運びができる子機に切り替えると、子機を持って廊下に出る。床下に隠した拳銃を取り出し、それから家の電気を全て消した。点けたばかりだったテレビの電源も落とし、足音を殺しながら寝室へと移動する。それから静かにベッドの下に潜り込むと、拳銃の安全装置を解除し、寝室のドアに照準を合わせた。侵入者がドアを開けた瞬間に撃てる態勢を整えたのだ。
『リッキー、落ち着いてよく聞いて。今、自宅に居るのね?』
「……ええ、居ます。あなたは?」
『緊急徴収されて、作戦本部に着いたところだけど。早速、出る準備をしてるわ』
「……そうですか。こんな遅くにご苦労様です」
『余計なことは言わなくていいわ。家の電気はすべて消した?』
「……勿論ですとも」
『今のあなたは丸腰? それとも武装してる?』
「……拳銃を一丁だけ。弾薬は五発。心許無い」
『武器が何もないよりかはマシよ。それで今はどこに居るの』
「……寝室のベッドの下です」
『そう、分かったわ。電話は念のため、このまま着けたままにしておいて。今、そっちに警護班を向かわせてる。あと十五分ほどの辛抱よ、頑張って』
 ノエミは最後にそう言い、会話は終わった。ラーナーは子機を床の上に立てるように起き、通話口を扉のほうに向ける。そして子機のスピーカーからは、がやがやと騒がしい声たちが小さな音で聞こえてきていた。ノエミが居るという作戦本部の様子が、そのガヤから分かった。状況はかなり悪いようだ。
 そしてラーナーは息を殺し、引き金に指を掛ける。目を閉じ、周囲の音に気を配った。
「……」
 寝室の横は、隣人女性宅のバスルーム。シャワーから出た水が、絶え間なくバスタブを打ち付ける音が聞こえていた。
 上の階には四人家族が住んでいて、ラーナーの寝室の上は子供部屋。四歳の姉と二歳の弟が戯れている声と、どたばたと忙しい足音が聞こえた。
 そして下の階には倦怠期を迎えた老夫婦が暮らしていて、今日も仕様もない喧嘩を繰り広げていた。
 幸運なことに、今のところはこれといっておかしな音は聞こえてこない。ラーナーは緊張を少し緩め、閉じていた瞼を開ける。と、その三分後。ラーナーの家の前を歩く足音が聞こえ、玄関の扉が開けられる音が聞こえてきた。
「……」
 警護班が早くに到着したのか? それとも、あの男がついに来てしまったのか? ラーナーは緩めていた緊張を再び張りつめさせ、拳銃を握る手に力を込める。すると、声が聞こえてきた。
「パトリック? 居ないのか、おーい。アンタがアタシの料理をボロクソ言うから、優しいアイリーンさまがピザを買って来てやったのだぞ。喜べー。バジルたっぷりのマルゲリータと、パトリックが好きだっていう半熟卵のビスマルクだぞー。……おっかしーな、サーは自宅に帰ったって言ってたんだけど」
 声の主は、アイリーンだった。なんてタイミングが悪いんだ、とラーナーは顔を顰める。かといってベッドの下から出ることはできないし、声を上げてアイリーンを呼ぶこともできない。畜生っ、と心の中で呟くラーナーは、何も起きないことをただ祈った。
 すると外から、ひひっと笑う声と、落ち着きのない足音が聞こえてくる。そしてアイリーンの悲鳴も、聞こえてきた。
「ぎゃあああっ! 侵入者、侵入者ァッ!」
 そしてアイリーンの悲鳴を電話越しに聞いたのか、子機のスピーカーからノエミの声が聞こえてくる。
『リッキー、何があったの! 今の悲鳴は、誰?!』
「……同僚の女です、詳しいことはブラッドフォード長官に聞いて下さい」
『同僚? あなた、一人で家に居たんじゃないの!?』
「さっきまでは一人だったんですよ。あの女、勝手に入ってきやがった。そして来ましたよ、イーライ・グリッサムも」
『えっ。どういうこと?』
「……説明はあと、今はあのクソアマを助ける。警護班を急がせて下さい!」
 ちっ、と舌打ちをするラーナーは拳銃を持ったまま、ベッドの下から飛び出す。アイリーンの声が聞こえてきた廊下に出ると、ラーナーは暗闇の中に蠢いて見えた大きな影に銃口を向ける。そして大声を上げた。
「連邦捜査局だ、手を上げろ!」
 やべっ、今は連邦捜査局の人間じゃないのに。
 クセで飛び出た言葉に、ラーナーは後悔する。と、その直後だった。銃声が鳴り、アイリーンが悲鳴を上げる。だがラーナーは、引き金を引いていなかった。
 影は床に倒れ込み、どすっと音を立てる。拳銃を下ろし、ラーナーは廊下の明かりを点けた。暗闇が消え、座り込んだアイリーンの涙ぐんだ顔がよく見えるようになる。床には後頭部を撃ち抜かれ、即死した太り気味の中年男――イーライ・グリッサム――の骸と、九ミリ口径の薬莢が転がっている。そして全開になっていた玄関には、死んだ男を汚物を見るような目で見下ろす、“ 上官サー”アーサーの姿があった。そしてアーサーは呟くように言う。
「……死刑囚を脱獄させるとは。元老どもも、姑息な手段を……」
 見覚えのある薬莢からして、この脱獄犯を殺したのはアーサーだということは、すぐに分かった。ラーナーは無言で彼を見つめる。すると彼はにこりとも笑わず、こう言った。
「君たちが無事で良かった」
 ぷるぷると肩を震わせたアイリーンは、長身のアーサーに抱きつく。サー、ありがとー。そう言いながら。だが感謝や愛もむなしく、アイリーンは強引に引き剥がされる。
 そして彼はラーナーを真黒なサングラス越しに見ながら、言った。
「連邦捜査局には既に話をつけてある。なにも心配することはない」
 そしてアーサーは空気に溶けるように、一瞬にして消えた。ラーナーは俯き、溜息を吐く。
「……ホント、何がどうなってやがる。一体、何をやらされてるんだ……」
 あたりは次第に、騒がしくなる。野次馬が家々から顔を出しはじめ、随分と遅れて警護班も駆け付けてきた。更に数十分後にはノエミら連邦捜査局の者もやって来る。
「あなたが、あいつを……やったの?」
 家の外に立ち、野次馬を追い払う手伝いをしていたラーナーに、ノエミはそう訊ねる。ラーナーが首を横に振ると、ノエミは次に任意の取り調べを受けているアイリーンを指差す。ラーナーはまた、首を横に振った。
「じゃあ一体、誰がやったのよ」
「神風が吹いたんじゃないんですか?」
 適当なことを言ったラーナーのぷにぷにな頬肉を、ノエミはぶにっと抓む。そして彼女は九ミリ口径の薬莢が入れられたポリ袋をラーナーに見せつけながら、問い詰めた。
「なら、この薬莢はなんて説明する? 高位技師官僚が撃たれた現場に落ちていた薬莢と、まったく同じものよ」
「同一犯ってことでしょう」
「そんなこと、バカでもすぐに分かるわよ!」
 ノエミは抓んでいた頬肉を引っ張るように離す。それからラーナーに人差し指を向けると、彼女は怪訝な表情を浮かべた。
「……リッキー。あなた、私に何か隠してる。もしかして」
「隠し事なら、そりゃたんまりとありますよ。仕事柄、口外できないことばっかりですし」
「あなた、犯人を知ってるのね。隠しているのは、犯人がASIの人間だから?」
 ラーナーはにこりと笑い、口は閉ざす。気持ち首を斜めに傾け、あからさまにしらばっくれて見せた。
 呆れたノエミはラーナーから視線を逸らし、担架に乗せられ運ばれていく男の死体を見る。
「ともかく、あの男との因縁もこれで終わったってわけか」
「……」
「なんか言いなさいよ、リッキー」
「……これで終わりだったら、いいんですけどね」
 そう言うラーナーはノエミに背を向けると、鞄を携え、事件現場となってしまった自宅を離れる。証拠品となることを間一髪で免れた遺失物を抱えた彼は、ぐちゃぐちゃな鞄の中から車のキーを探り当てる。それから駐車場を目指して歩き出したラーナーは、最低な今日に舌を出す。
 やりたくもない仕事を押し付けられたと思えば、二日間のうちにこんな散々な目に遭わされるだなんて! 真夜中に叫びたい衝動を堪えながら、ラーナーはアパートの階段を下る。けれども彼の人生最悪の日々は、まだ始まったばかりだった。
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