ヒューマンエラー

His name is "Dinadan". ― 「悪態多き道化師」

「待ってたわ、リッキー。遅かったじゃないの!」
 キャンベラ国立大学病院、入口前。バス停に降りたラーナーを真っ先に出迎えたのは、防弾チョッキを着用したノエミだった。
 そんなノエミの腰にはガンホルダーが見え、彼女が拳銃を携帯していることが確認できた。そして病院内部では、周囲を警戒するようにうろついている要人警護チームと思しき者たちの姿が、ちらほらと見受けられた。
 どうやら被害者は、政府の要人らしい。となると連邦捜査局が捜査に乗り出したのも理解できるし、ASIに応援要請があったのも納得がいった。
「これでも急いで来たほうなんですけど」
「それでも遅いわよ! 要請から四十五分も掛かったなんて、連邦捜査局じゃ許されないわ」
「生憎、今の私はASI局員なんで」
「あーっ、もう! どうして自分の車で来なかったの!」
「今の時間帯、どれだけ一般車両道が混雑してるとお思いで? バス車両向けの特別路線のほうが、この時間帯は早いんですよ。知らなかったんですか」
「しっ、知ってるわよ! とにかく、早く中に入って。話は歩きながらするわ」
 ただ、ASIの協力を快く思っていない者もいるようだ。ノエミと同じ防弾チョッキを着用している数名が、院内からラーナーを睨むようにして見ていた。あからさまな嫌悪感に満ちた視線に、ラーナーはたじろぐ。
 だが、この視線はまだ理解のあるほうだ。それもラーナーが、元連邦捜査局の人間であるからなのだろう。派遣された人間がもし、ASI一本の人間だったのなら……――進展するものも進展しなくなるというのは、想像に難くない。そこでラーナーを指名してきた連邦捜査局は、正しい判断を下したといえるだろう。
 ……とはいえ今頃、ASIのほうはラーナーを取られるかもしれないという不安に煽られているのだろうが。
「それで、ASIに協力を要請するほどの事件なんでしょうねぇ?」
「ええ、そう。悔しいことにね。被害者が政府の要人ってことに加えて、証拠が少ないのよ。唯一の目撃者である娘さんは、どういうわけか」
「口を閉ざして、何も語ってくれない、でしたっけ」
「そうなのよね。そこで、尋問のプロにお願いしたいってわけ。だってあなた、捜査官の頃から得意だったでしょ。口を割らせるのが」
「ええ、まあ。それなりに」
「特に黙り込んだ遺族を喋らせるのが、リッキーは得意だったでしょ。だからあなたを寄越すようにって、チーフにお願いしたの。そしたらチーフとあなたの上司が旧知の仲だったとかで、話がスムーズに通ったってわけ。もうちょっと手古摺るかと思ってたけど、世の中って意外と話が通じるものなのねー」
 外と院内を隔てる自動ドアの前に、ふたりは立つ。ガラス扉は自動でスライドしていき、入口が開いた。そしてノエミの案内でラーナーは、被害者が居るという集中治療室に向かうこととなった。
「えっと、それでね、リッキー。肝心の被害者についてなんだけど……」
「大きな声で名前は言えない、って言うんでしょう? そんなのは百も承知だ、さっさと教えてくれ」
「……軍事防衛部門の高位技師官僚よ。ペルモンド・バルロッツィ」
「納得だ。そういうわけかぁ……」
 なるほど、とラーナーは思う。なにせ、あまりにも全ての都合が良すぎるからだ。ということは、思いつく答えはひとつしかない。
 犯人は、WACEの誰かだ。ラーナーが“被害者”の娘に真正面から近付ける機会を、お膳立てしてくれたというわけである。
「納得って、何が?」
「要人警護チームの数ですよ。大統領の警護よりも多い」
「えっ、そんなに居たっけ? 私、五人しか見かけてないけど」
「私はざっと十八人ほど確認しました。彼らは三人態勢で常に動くため、見つけやすいですから。けれども、目視できた人数以上に待機していると見て間違いないでしょうね。私服で潜んでいる者も居るでしょうし……」
 つまるところこの事件、解決なんてハナからされるわけがないのだ。早くて明日にも、捜査は打ち切りになるだろう。上層部から“謎の”圧力が掛かったとか、そんな理由で。
 ラーナーはASIに配属されてから二度ほど、そんな風に打ち切られた捜査を見てきた。被害者はふたつとも、悪い評判が付き纏っていたアバロセレン技士。そしてASIの中では決まって、こんな噂が流れたのだ。きっとまた、世界の管理者が動いたんだ、と。
 世界の管理者とは、特務機関WACEの俗称だ。どういう経緯でそんな俗称が付いたのかは分からないが、とにかく特務機関WACEはそう呼ばれていた。そして世界の管理者が動くたびに、事件は未解決のままコールドケース扱いされるのだという。そして事件をほじくり返そうとしたものは口を塞がれ、闇に葬られるとか、なんとか……。
「それで、ノエミ。被害者の状態は?」
 とはいえ、WACEとしては“被害者”から情報を聞き出したいはず。死ぬほどまで、痛めつけてはいないだろう。ラーナーはそう思った……――のだが。
「生死の境を彷徨ってるって感じよ。予断は許さない状況だって、医者は言ってたわ」
「死んではいない、んですよね」
「ええ、でも限りなく死にそうって感じ。未遂から殺人に切り替わる可能性は、十分にあり得るわね」
「因みに、被害者は具体的に何をされたんですか」
「九ミリ口径の拳銃で執拗に撃たれた、ってのが現時点での見立て。救命医の話によれば、銃創が十四箇所もあったそうよ。一発は貫通していたみたいだけど、それ以外は……。体内にあったものは全て取り出したそうだけど、心臓をダイレクトに傷つけた弾丸もあったみたいだけど。でも被害者の心臓が防弾仕様の人工心臓だったから、助かったらしいわ」
 嘘だろ、おい。殺す気しか感じられないじゃないか。
「銃創は動脈周辺にまとまって出来ていたって話だから。現場は即死でもおかしくない出血量だったそうだし。まさに、生きていることが奇跡。……私も、人工心臓に変えようかしら」

 殺意しかない。
 それも怨恨に満ちた、明確な殺意だぞ!

「まっ、要するに被害者本人は口もきけない状況なのよね」
「だから、彼の娘さんに話を聞けってわけですか? ……本当に、その娘さんってのは目撃者なんでしょうか」
「間違いないわよ。周辺住民からの通報を受けて市警が現場に向かったとき、彼女は虫の息になった父親の下敷きになって、声を押し殺しながら泣いてたって話だもの」
「……本当に?」
「写真もあるわ。ほら、これを見て」
 そう言うとノエミはタブレット端末を取り出し、そこに映し出された画像をラーナーに見せた。
 写真はたしかに、ノエミが言ったとおりの状況を示していた。血だまりの中にぐったりと横たわる男の下で、赤毛の女性がうつ伏せになっていた。その女性の年齢は写真で見る限り、十八といったところ。高校生のような世間知らずな派手さが服装や化粧にないところから察するに、大学生といったところなのだろう。
「彼女を保護した警官の話によれば彼女は、後ろを歩いていた父親にいきなり突き飛ばされて、伏せろと言われたそうよ。彼女は突き飛ばされた拍子に道路に倒れ込んで、そのままうつ伏せになったみたい。そして彼女が急に何をするんだって父親の顔を見た瞬間に、銃声が鳴り、弾丸が父親の体を貫通していったのを見たらしいわ。それから立て続けに銃声が鳴って、父親はその弾を全て浴びた。そして父親が力なく倒れ、彼女を庇うように覆いかぶさったあとも、何発か銃声がしたみたい。父親の体が痙攣するのを背中で感じたとも、言ってたらしいわ」
「それで今は、どう言ってるんですか。まさか、証言を変えたとか?」
「いいえ、そうじゃないの。まるで何も言わないから、困ってるのよ。犯人の特徴も分からないし、犯人の性別すら不明。だから、聞き出してほしいの」
 そうこう話しているうちに、ラーナーは被害者が収容されているICUに着いた。だが入口の前には黒い背広の要人警護チームが三人待機していて、中に入れてくれそうな気配はない。捜査官であろうが入室は許さないといった顔を、彼らはしていた。
 ノエミはむすっとした表情を浮かべ、ラーナーは要人警護チームを相手に挑発するような視線を送る。だが彼らはあくまで廊下のどこかを見つめるだけで、目の前にいる男女など気にもしていないようだ。
 そうして暫く待機していると、ICUのドアが内側から開けられ、中から赤毛の女性が出てくる。はっとラーナーは目を見開いた。彼女は写真に写っていた、“被害者”の娘だったからだ。
「あなたが、娘さんの……」
 ラーナーは彼女に声を掛けるが、彼女の視線は自分の足下を見つめるばかりで、うんともすんとも言わない。そして彼は経験から察知した。これは自分じゃ太刀打ちできないヤツだ、と。
 そこでラーナーは、あることを閃く。だがその選択は、できればやりたくない苦渋の決断でもあった。
「……あの、すみません。ノエミ、ちょっと雑用を頼まれちゃくれませんか」
「雑用? イヤだけど、まあ聞くだけ聞くわ。なにをやるの?」
「ここの精神科医を呼んできて下さい。あの、あいつです」
「あぁ、カール! それ、名案。分かった、今すぐ呼んでくるわ!」





「いやぁ、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の武勇伝を耳にすることは偶にあったが、そんな武勇伝なんかよりも日常生活のほうがよっぽどぶっ飛んでるなぁ。流石は大天才。やることなすこと全て規格外だ。常人の理解を超えてるよ。全ての音楽に耳を塞ぐだなんて、人生の半分以上を損しているんじゃないのか」
「ええ、本当にそう思いますわ。ストラディバリウスに並ぶヴィンテージ・ヴァイオリンの名品、グァルネリウスを、私のために破格の値段で手に入れたのに、家でそれを弾くなっていうんですもの。現に父はパガニーニの『カプリース』、そのさわりを少し弾いただけで、両耳を塞ぎましたし」
「ほう。単にその曲が嫌いだった、というわけじゃぁないんだな?」
「ええ。サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』のときも、同様の反応でしたわ。それに、家の前を通り過ぎていった車が大音量でロックミュージクを流していたときは、悲鳴に近い声をあげてましたし。それに、数ある楽器の中でも父は特にグランドピアノの音が嫌いみたいで、ピアノ単独の曲は耐えられないそうですわ」
「ふむ。だが街中は、音楽に満ち溢れている。都市部は特にだ。普段の父君は、それらにどんな対策をなされてるのかね」
「外出の際は、必ず耳栓をしてますの。外で会話をしたい時は、必ず父の肩を叩いて、耳栓を外してから。そうでないと父は、人の声が聞こえないので。ですので諸々の事情を知らない方は、声を掛けたにも関わらず無視をされたと、不愉快そうな顔をして……」
「だが、そればかりは仕方無いのだろうなぁ。いやはやぁ、真性の天才というのは実に興味深い。自称天才の知能犯の話よりも、よっぽど興味をそそられるよ」
 はははーっと、カルロ・サントス医師は愉快気に笑う。カルロ・サントス医師の前に座る赤毛の女性――ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の娘、エリーヌ・バルロッツィ――も、おかしそうにくすくすと笑っていた。その光景をラーナーとノエミの二人は、かれこれ一時間半近く見せられていた。
 そんな変態精神科医カルロ・サントスの横には、辛うじて生きている状態の高位技師官僚と、睨みをきかせる要人警護チームの姿がある。そう、ここはICUの中。要人警護チームのひとりが同伴することを条件に、ラーナーらは立ち入りを許可されたのだ。
「知能犯? 先生は、ここの病院の精神科医じゃ……」
「ああ、それについては少し複雑でなぁ。私はここの病院に勤める臨床心理士、つまり精神科医でもあるんだが、副業としてフリーランスの精神分析家もやってるんだ。ああっと、この場合の精神分析家というのは、患者の治療を行うものではなくてだ。少々説明が難しくて、その……」
「要は連邦捜査局に居る精神分析官と同じです。犯罪者の行動から性質などを分析し、次に取るであろう行動を予測する仕事です」
「そう、そういうことだ。でかしたぞ、ラーナー!」
「つまり先生は、連邦捜査局に協力してらっしゃるのですね。犯罪に手を染めるような人々は、やはり父のような特異なものを抱えているものなのですか?」
「うーむ、一概にそうだとは言い切れんなぁ。なにせ私が見てきたものは、すべて特殊なものの中でも極めて特殊なケースばかりだからだ。そういう話は、そこにいる現役の捜査官ノエミ・セディージョ殿に聞くのが一番だろう。それとも、元捜査官で現在は情報局勤務のパトリック・ラーナーの話のほうがお好みかな?」
 カルロ・サントス医師のその言葉と共に、初めてラーナーと高位技師官僚の娘の目が合った。そしてラーナーの横で、ノエミが呟く。カールに任せて正解だったわね、と。ラーナーも小さく頷いた。
 精神に異常をきたした者に対して、ありえないほど興味を示し、のめり込むこの変態男。だが臨床心理士としての手腕は、キャンベラ大学医学部教授のお墨付きである。そして精神分析官としての才覚は、アルストグランで最も有名な分析家ヘレン・ガードナー含め他多数の分析家が認めているほどだ。
 この男、才能だけは本物なのである。だが、それ以外については……――コメントを控えることにしよう。
「このラーナーは一年ほど前、体を張った突飛で危険な方法で、とあるペドフィリアの犯罪者を逮捕した。イーライ・グリッサム。丁度今朝、死刑が執行されたあの男だ」
「えっ、あの犯罪者を? この、小柄な方が……」
「そう、こいつは見ての通り小柄。クソチビだ」
「しばくぞ、このヤブ医者が」
「そして口も悪い。だからこのラーナーは子供に変装して、犯人にわざと誘拐されに行ったんだ。ばっちり女装を決めて、女児になり済ましたんだよ。そして予定通り犯人に攫われて、犯人を逮捕。あれは、この男にしかできない芸当だよ」
「凄い方なんですね!」
「だろう? 私もこいつの友人であることがとても誇らしいんだ」
 一時間半前には何も言葉を発しなかった女性が、今は会話を楽しんでいる。その変化こそが、カルロ・サントス医師の腕前を証明していた。
 彼は、独特の雰囲気を纏っているのだ。たとえ相手が警戒心に満ちた者だったとしても、その懐にすっと入り込み、がっちりと心を掴んでしまうような、そんな雰囲気。彼を一言で言い表すなら、『人たらし』という言葉が相応しいのだろう。
 こればかりは知識や経験ではどうすることもできない、才能というべきもの。彼はその人たらしな性格と、身に付けた知識を武器に、あっという間に畳みかけていく。そうやって彼は三十分も経たぬうちに、警戒心を解いてしまうのだ。
 ……とはいえそんな彼の性格は、中長期的な付き合いになってくると、どうにも胡散臭く感じられるようになるのだが。
「まったく、調子がいいにもほどがある」
 ラーナーはカルロ・サントス医師のことを、嫌味を込めたじとーっとした目で見つめる。忘れてませんからね、あのこと。ラーナーは意味深な言葉を呟き、カルロ・サントス医師に釘を刺すと、高位技師官僚の娘のほうに向きなおる。それか気拙そうな苦笑を浮かべると、ラーナーは彼女に訊いた。
「それはさて措き、エリーヌさん。お父さまの事件について伺っても、宜しいでしょうか?」
「……ええ、分かりましたわ」
 彼女も苦笑いを浮かべ、そう答える。ノエミはその声を合図にボイスレコーダーを用意し、録音を開始した。ノエミは誰からも見える場所にボイスレコーダーを設置する。それに対して高位技師官僚付きの要人警護チームは渋い顔をしたが、録音に抗議してくることはなかった。
 それからラーナーは無言で、カルロ・サントス医師にICUから退出するようにと目で訴える。彼は「ここまでしてやったのに、俺を追い出すのか?」などと不平不満を零したが、その後すぐに退出していった。
 そうして部屋に残ったのは、五名となった。無言で横たわる高位技師官僚と、その娘。ノエミとラーナー、それと要人警護チーム。ラーナーは先ほどまでカルロ・サントス医師が座っていた椅子に腰を下ろすと、高位技師官僚の娘の前に座る。ラーナーは手帳とペンを取り出し、眉間に皺を寄せ、こう言った。
「まず先に、これだけは言わせて下さい。これはあくまで私見ですが……――私はこの捜査、コールドケース扱いになるだろうと見ています。この事件は明らかに、裏で大きなものが動いています。どこかで“謎の”力が働き、捜査が打ち切られるのは時間の問題です」
 ラーナーが発したその言葉に、ノエミは絶句していた。だがノエミ以外の人間はその言葉に、首を縦に振っていた。要人警護チームは無言で頷き、高位技師官僚の娘すらもラーナーの言葉に同意するように目を伏せている。
 そしてラーナーは言葉を続ける。戸惑うノエミは、そんな彼を見つめることしか出来なかった。
「ですので、早急な解決が望まれます。“謎の”力が動き出す前に、やれることはやらなければなりません」
 目もとにぎゅっと力を込めたラーナーは、高位技師官僚の娘を見ながら言う。我々は最善を尽くしたい、その為にはあなたの協力が必要不可欠なのです、と。
 彼女は全幅の信頼を置くような目で、ラーナーを見つめ返していた。しかしラーナーの胃はきりきりと痛みだす。
 彼は今、ひどい嘘を吐いたのだ。
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