ヒューマンエラー

Duty and Humanity. ― 「任務のはじまり」

『全部、アンタのせいよ! パトリック、アンタがアタシを捨てたから!!』
 ラーナーの目の前には、怒り狂いながらそう叫ぶ女が居た。ラーナーはぐっと言葉を堪えながら、彼女の両手首に手錠を嵌める。そしてラーナーの横に立つノエミが彼の代わりに、容疑者に向けた権利の告知を行った。
『あなたには黙秘権がある。供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられることがある。あなたには弁護士の立ち会いを求める権利があり、弁護士を雇う経済力が無い場合は、公選弁護人を……――』
 その女は、防弾チョッキを着用した大柄の男に、羽交い絞めにされて取り押さえられていた。それでも彼女は亜麻色の髪を振り乱しながら、己に手錠をかけたラーナーに向かい、罵声を浴びせ続けていた。
 そしてノエミは告知を終えた。彼女はラーナーのことを軽く突き飛ばし、退くようにと促すと、女を押さえていた男と共に、パトカーの中へ乗り込んでいく。
 ラーナーは夜闇の中に赤く光るパトカーの警光灯を、見送った。
 ノイズが掛かる視界を通して、その景色を呆然と見つめていた。
 冬の凍てつくように冷たい雨に打たれながら、世界が自分から遠ざかっていくような離人感に囚われながら、ただ立ち竦んでいた。
 自分を突き飛ばしたとき、ノエミは何かを言っていた。ノエミの唇は、あのとき動いていた。だが何を言っていたのかが、ラーナーには分からなかった。
 あのとき、事件現場前に集結していた数台のパトカーたちも、けたたましいサイレンを鳴らしていたはずだった。けれどもラーナーには、その音が聞こえていなかった。
 自分がこの手で手錠を掛けた女が最後に何を言っていたのかも、ラーナーは聞いていなかった。
「…………」
 あのとき、一時的にだが耳が聞こえなくなった。けれども、目は見えていた。聞こえなくなった分だけ鮮明に、あのときに見た映像の全てが脳に焼き付けられていた。
 パトカーに押し込められる直前まで、彼女はラーナーのことを睨んでいた。込み上げてくる憎しみと、最後まで捨てられなかった愛情が混ざった、血走って涙ぐんだ目で、睨みつけていた。どうしてこんな酷いことをするのか、どうして助けてくれないのかと、訴えているかのような視線でもあった。けれどもそんな視線を向けられたところで、ラーナーにしてやれることは何もなかった。
 だって彼女は罪を犯した。未成年の少年少女、それも十歳にも満たないような幼気な子供たちを七人も誘拐し、長期間に渡って監禁し、男児に対してはメイル・レイプを行ったのだ。人里離れた森林の中に、ぽつんと佇むコンクリートの家、その地下に設けられた牢獄に等しい空間に。光も射さず、換気もされず、暗く冷たい不衛生な環境に、一番長い子供であれば九ヶ月も閉じ込めていたのだ。
 何よりも恐ろしかったことは、その子供たちが全員、似たような容姿にされていたことだった。
 子供たちは皆、白い肌をしていた。虹彩の色も真っ黒で、その目はぱっちりと大きく、二重だった。そこまでは、先天的な特徴だ。問題は、それ以外だった。
 子を攫われた親たちから集めた子供の写真では、髪の色に統一感は無かった。縮れ気な黒髪の子供もいれば、ストレートな茶髪の子供もいた。カールがかった金髪の子もいた。それなのに救出された子供たちの髪は全員、黒髪のストレートに変わっていた。それに髪の長さは、女の子でも襟足が見えるくらいの長さになっていた。そして髪型は、ラーナーと同じだった。
「……ジ……ク……」
 犯人の女は誘拐した子供たちを、ラーナーに見立てていた。そのことをラーナーが理解したとき、彼が感じたのは恐怖であり、後悔であった。そして子供達がストックホルム症候群を発症していることを知ったとき、後悔は自責に変わった。
 発端は、ラーナーが彼女を突き放したことにあった。婚約者であった彼女との三ヶ月に渡った同棲の末、彼女から無条件で与えられる重すぎる愛に戸惑い、怯えた彼が、一方的に別れを切り出したことが原因だったのだ。
 彼女は子供を、子供という存在を愛していた。けれどもその感覚は、母性からくるものとは異なる。彼女は、チャイルド・マレスターだった。誘惑型の嗜好的児童性虐待者だったのだ。
 同棲していた当時、ラーナーに彼女がそうであるという確信は無かった。だが、違和感は感じていた。自分に対する振舞いが、付き合っていた当初と変わっていたからだ。それはまるで……――幼い子供を相手にしているかのような、保育士のような振舞いだった。だから、彼は別れを切り出したのだ。

 自分は大人であって、身の回りのことは自分で出来るんだ。
 だから、その、君と僕は合わないんじゃないのかな。

 そのとき、彼女は豹変した。意地でも縁を繋ぎ止めようと、酷い言葉を並べてラーナーを責めたてては、だから自分が必要になると説き伏せようとした。言葉を失ったラーナーは、黙って彼女のもとを去った。彼女の凶行の全ては、そこから始まったのだ。
 自分が、彼女から去らなければ。あの子供たちは、被害者になどならずに済んだのではないか。彼女の逮捕から半年が経過した今でも、ラーナーはそんな思いを払拭できずにいた。
 もしも、自分が彼女を突き離さなければ。もしも自分が、甘んじて彼女を受け入れていたら。もしもあのとき、彼女を……――
「ジーク……ッ!」
 その瞬間、ラーナーは飛び起きた。ベッドから上体を起こす、と寝ぼけた目をこする。それからうるさく鳴る目覚まし時計の音楽に、うんざりとした表情を浮かべた。
 ラーナーはベッドから起き上がると、目覚まし時計の音楽を止める。それから閉められていたカーテンを開け、窓から寝室に朝日を取り込んだ。
「……あー、くそっ。なんて悪い寝覚めなんだ」
 午前六時三十分。そんな悪態を吐きながら、ラーナーはクローゼットから着替えを取り出し、寝室を出る。それからシャワールームに向かおうと、廊下に出た。
 すると、どういうわけか廊下には、肉の焼けるいい匂いが満ちていた。それによく耳を澄ませてみれば、キッチンからは油がはねる音が聞こえてきている。そして聞き覚えのない女の鼻歌も、肉の匂いと共にキッチンから聞こえてきていた。
「……」
 これは一体、どういうことだ。ラーナーは持っていた着替えを、シャワールーム前の脱衣所に置いてくると、廊下の床に隠していた拳銃を持ち出す。キッチンのドア前に移動すると、ラーナーは拳銃の安全装置を解除した。そして拳銃を構え、勢いよく中に突入した。
「誰だ! ここで何をしている!!」
 ラーナーはキッチンに立つ女に、銃口を向けた。女を大声で威嚇し、睨みつける。だがフライパンを左手で持ちながら、卵を右手で割る女は、そんな威嚇に怯む様子を見せなかった。
 それどころか彼女は、おどけた調子でラーナーに声を掛けてきた。
「あっ、おはよー。随分と悪夢に魘されてたみたいだけど、ぐっすり寝れた?」
「ここで何をしてるのかと聞いているんだ、答えろ! さもなくば通報するぞ!」
「見ての通りじゃん。ベーコンエッグを作ってるの。パトリックも食べるっしょ?」
「なんで貴様が名前を知っているんだ!」
「サーから聞いてないの、アタシのこと」
「質問に、答えろ!!」
「アタシは特務機関WACEの隊員、アイリーン・フィールド。高位技師官僚の件で、あんたとタッグを組めって言われたから、ここに来たんだけど。表向きはカップルってことになるから、今日からこの家に住みこめって。アンタもそれを了承したって」
「はぁ?! 何のことだよ!!」
「ねぇ、あんたホントに大丈夫? えっ、ちょっと待ってよ。アタシさ、サーから一通り説明したって聞いたんだけど。それに十分に理解してくれたはずだって、サーは言ってたし。もしかして、ぐっすり眠りすぎて記憶が飛んじゃった?」
「サーってのは、誰のことだ!!」
「うちら特務機関WACEのお頭だよ。コードネーム、アーサー。だけど皆、こう呼んでるの。上官サー、って。ねぇ、ちょっと待ってよ、パトリック。……まさかっ。あ、あんた、そういえば昨日の夜、精神科に言ってたよね。まさかーだけど、昨日の話は全部ウソだとか幻覚だとか思ってない? もしそうだとしたら、あれは現実よ。現実だからね、誤解なきように」
 アイリーン・フィールド。そう名乗った女は目玉焼きを焼きながら、ラーナーを疑うような目で見つめる。ラーナーはその視線に対し、疑いで返した。
「あっちゃー。こりゃもう一回、あんたに諸々のことを説明する必要がありそうだわー」
「……」
「ねぇ、それより銃を下ろしてくれない? アタシに敵意はないから、安心して。銃もないし、丸腰だし。ベーコンエッグを作ってるだけだもん」
 彼女は平皿に盛られた目玉焼きとベーコンを、ラーナーに見せる。それからニヒヒッ♪と笑った。
 どうやら、本当に敵意は無いようだ。ラーナーはそれを確認すると、彼女に向けていた銃口を下ろす。解除していた安全装置を、ロックした。
 そしてラーナーは彼女を睨みながら、こう言った。
「……誰だか知らないが、人ン家の冷蔵庫の中身を勝手に使うな」
「大丈夫。サーから許可が下りてるから」
「そのサーってのは、個人宅の冷蔵庫を利用する権利までも掌握してるのか?」
「そうなんじゃないの?」
「……」
 殺気立つラーナーに気付いているのか、居ないのか。アイリーンと名乗った彼女は、未だ楽しそうに鼻歌を口ずさみながら、フライパンで目玉焼きを焦がしている。
 そんなフライパンの中を踊っていた卵の黄味は、堅焼きという状態。ラーナーが一番好きな半熟の段階はとうに過ぎているようだった。
「そんな怖い顔しないでーって、ねぇ? 食べながら事情を説明するからさー」
 アイリーンは堅焼きの目玉焼きをもう一枚の平皿に乗せると、その上に同じフライパンで同時に焼いていた焦げたベーコンも乗せる。
 二枚の皿の上に用意された、焦げたベーコンエッグ。ラーナーは、それらを渋い顔をして見つめる。
 するとアイリーンは冷蔵庫からケチャップを取り出し、迷うことなく目玉焼きに真っ赤なソースをぶちまけた。
「……えっ、ケチャッ……」
「何かおかしなことでも?」
「い、いや、その」
「目玉焼きといえばケチャップでしょ。ささっ、早く食べよ」
 いや、目玉焼きなら塩コショウだろ!
 ……などと突っ込みたいことは多々あるのだが、ラーナーはそれらを呑みこみ、この正体不明なアイリーンの様子をじっと窺う。二枚の平皿を小さな食卓の上に運び、ナイフとフォークを探し当てて用意したアイリーンは、ラーナーに食卓の前に座るよう促した。
 彼女と、それとケチャップまみれの目玉焼きを睨むラーナーは、恐る恐る椅子に座る。彼が座ると、今度は彼女も座った。
「んじゃ、食べがてらにアタシのことと、今日の予定を説明するねー。今度こそ、忘れないようによく聞いておきなさいよ」
 もごもごと食べ物を頬張りながら、アイリーンは言う。ラーナーは目玉焼きの白身をナイフで一口大に切り分けながら、そう言う彼女の顔を凝視していた。
 それにしても、アイリーンというこの女は、実に奇抜な服を着ていた。
 彼女の長い髪の毛は、元婚約者をどことなく連想させるような亜麻色。そんな亜麻色の髪を、真っ黄色のどでかいリボンが付いたゴムで束ね、ポニーテールにしていた。耳には、ファンキーでビッグなペンダントが付いたピアス。そして彼女が掛けているウェリントン型の大きめな眼鏡のフレームは、蛍光色な緑色。それはとても目に痛い緑色だった。
「んでね、さっきも言った通りなんだけど、アタシの名前はアイリーン。アイリーン・フィールド。コードネームは“ルーカン”。WACEのテクニカルサポート担当ってとこ」
「テクニカルサポート?」
「要するにー……ブラックハットだね。執行担当が侵入する場所の、警備システムをハッキングしたりして、道を開けたり監視の目を誤魔化したりするの。あと音声ガイダンスで道案内とか。それ以外にも情報盗んだりとか、色々やるわけよ」
「……つまり、あなたはハッカーだと」
「そーゆーことよ。天才クラスのハッカーってわけ」
 だが服は、眼鏡よりももっと痛々しい色合いだった。七分丈の、淡い青色のカーディガン。パステルオレンジと蛍光色な黄色が交差する、太いボーダー柄な派手なワンピース。彩度、明度が共に高く、それでいてどこかメタリックさを感じる紫色のタイツには、大きくて白い水玉模様。おまけにパンプスは、蛍光色の黄緑色。
 彼女のファッションセンスは壊滅的というより、独特というか、なんというか。とにかく、目にダメージを与える色使いには問題があった。
 そんなことを思いながら、ラーナーは切り分けた目玉焼きを一口ほおばる。味は焦げついていてよく分からず、お世辞にも美味しいとは言えない代物だった。
「……んんっ。それは措いといて。んでね、アタシらコンビが追うことになったターゲットが」
「民間企業? 軍需会社? 政治家? それとも、事務官僚ですか? あいつら、本来の仕事はまともにやらないくせに、賄賂を受け取ることだけは大得意ですからね。あっ、もしや技師官あたりですか。特にアバロセレン工学の」
「話を聞け、パトリック・ラーナー」
「いやー、アバロセレン工学関連は出来れば関わりたくない。アバロセレン技士どもは、どいつもこいつも頭のネジが外れてる。医学の研究者よりも、人間性を欠いたイカれぽんちが多くて嫌になります。国家公務員資格を有する技師官僚は特にタチが悪くて、それに……」
「あんね、今回のターゲットはそのアバロセレン工学界の元締めなの。ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。さっきも名前は言ったし、知ってるでしょ?」
「ええ、勿論。軍事防衛部門の高位技師官僚テクノクラートですよね。兵器開発なんていう人間性の欠片などこれっぽちもない分野で血にまみれた財を為し、アバロセレンを発見というひと山を上げて、今や建国の父とも言われてるあの、あの……――」
「あの、軍事防衛部門の高位技師官僚。つまり閣僚クラスの超大物ってわけ。『ワイズ・イーグル』バーソロミュー・ブラッドフォードとほぼ同等、もしくはそれ以上のVIP」
 そう言ったアイリーンの顔だけは、真剣だった。それを聞いたラーナーの背筋は、凍りつく。しかし内容に関しては、いまいちピンときていなかった。
「ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。彼がまた何かやらかしそうだっていう情報を、ちょい前に掴んだの。ただ『彼が、何をやらかすのか』がサッパリ分かってないの。だから、具体的に何なのかを突き止めて、場合によっては阻止に入るのが今回の任務。アタシはサポート役、君は執行役ってわけ。そして君のコードネーム、要するにWACEでの名前は、道化を演じる騎士『ディナダン』。よく覚えておいてね。君は今日から、というか厳密にいうと昨日から、ディナダンになっているの」
「……えっと、ちょっと待って下さい。つまり私が、高位技師官僚の諜報に当たると?」
「そーよ、諜報。昨日、サーが散々説明したはずなんだけど」
 顔だけは真面目にしているアイリーンなのだが、ものを食べながらむぐむぐと話すせいで、単語がうまく聞き取れないし、そのうえ真剣味が無い。そんな彼女のいい加減とも取れる姿勢にもラーナーは戸惑うし、彼女が発した『諜報』という言葉にはもっと戸惑った。
 情報機関である以上、ASIという組織が行うのは諜報と謀略だ。ラーナーもそれをよく理解しているし、諜報は普段の業務の中でやっていた。
 安全な本部局の中に用意された取調室内に座り、国家を根底から脅かしかねない犯罪を企てた凶悪犯と対峙し、あれやこれや情報を聞き出す。ラーナーの仕事は、上述の通り。故に直属の上司に仕込まれたのは交渉術であり、効果的な脅し方、弱みにつけ込む方法など、尋問のテクニックが主だ。
 しかしアイリーンが言うところの『諜報』には、『尋問』という意味合いはあまり含まれていない。代わりに『潜入任務』という意味が、色濃く含まれていた。
 だがラーナーは、潜入任務に当たったことはない。彼は尋問官であり、工作員ではないからだ。つまり彼には、工作員としての技術を仕込まれた経験はない。軽い研修を受けた程度で、そうであれば実戦経験などない。
「その諜報活動っていうのは、つまり潜入任務ですよね。けれど潜入任務なんて、当たったこともないんですけど。私は、尋問を専門にしているので。……人選ミスでは?」
「君が未経験だってのは、知ってる。寧ろ、そこがウチらにとって好都合なの。それに、君なら大丈夫だって。出来るに決まってる。だってこのアイリーンさまが、君を選んだんだもの。連邦捜査局時代の経歴は見たわ、君の才能は間違いないはずだよ。ねっ?」
 アイリーンは励ましにもならない微妙な台詞を言うと、堅焼きの目玉焼きを完食する。それから彼女は緑色の瞳で、ラーナーの大きな黒い目をじっと見た。
「それで、今日の予定についてなんだけどさ」
「……なんでしょうか」
「取り敢えず、いつも通りに出勤してね。ブラッドフォード長官は君が異動したってことを知ってるけど、他の局員は知らないから。君の直属の上司、ハイドンさんもね」
「……」
「それと、今日の詳しい予定については出勤してから分かるよ。君がオフィスの自分の椅子に座ると同時に、君に電話が掛かってくる。予定通りならば、その電話は君の元同僚ノエミ・セディージョ特別捜査官からなんだ。それで、彼女はこう言うはず。今すぐキャンベラ国立大学病院に来てほしい、今回の事件にはASIの協力が必要不可欠になるから、ってね」
「ノエミが? 彼女も、まさか」
「ううん、彼女はただの駒。彼女ならきっとこう動くはずだ、っていう状況をこっちで作り上げたの。そういうわけだから、連絡があったら大学病院に向かってね」
「……分かりました」
 ラーナーは頷くと、まずい目玉焼きを強引に飲み込むようにして平らげる。黒く焦げたベーコンも口内に詰め込み、食器をキッチンのシンクに置いた。それから彼は出来る限り平静を装いつつ、バスルームに向かい、扉を閉めた。
 廊下には、シャワーから出る水の音だけが聞こえている。アイリーンはその音を確認すると、キッチンに立ち、蛇口をひねる。食器用洗剤を平皿に垂らし、スポンジを右手に握った。
 アイリーンはこのとき、きっとこう思っていたのだろう。パトリック、彼はシャワーを浴びているに違いない。だって目覚める寸前まであんなに悪夢に魘されていたんだし、起きてきたときも寝巻のシャツは汗で濡れていたんだから、と。
 ふふふん♪と陽気に鼻歌を口ずさみ、食器を洗う彼女は、知らなかった。ラーナーがバスタブの横に設置されていた洋式便器の前に、げんなりとした顔で両膝をついていたことに。





 胃の内容物をほぼ全て吐き出してから、シャワーを浴びて全てをスッキリ洗い流し、それからスーツに着替えて家を出たラーナーは、普段のように本部局へ向かった。

 一階の受付を過ぎ、エレベーターに乗り込んで、自分のデスクがある五階オフィスに入る。上司に軽く挨拶し、同僚の女性たちにおべっかを使って懐に飛び入り、男性たちの会話に飛び込んでは“丁度いい”お調子者を演じる。そうしていつもの安定したポジションを整えてから、ラーナーはデスクに着いた。

 ラーナーは自分の椅子に座ると、机の上の自分の領域に私物を置く。仕事の書類、ペンケース、タブレット端末、メガネ型通話デバイス。それと本部局に着くまでの道中で購入した、朝食用のサンドイッチの入ったビニール袋。
 ラーナーはメガネ型通話デバイスを手に取り、メガネと同じように装着する。次にビニール袋の中からサンドイッチを取り出すと、パッケージの封を解いた。
「あれまぁ。珍しいわね、ラーナー。あなたが朝食を食べてきてないだなんて」
「ええ、まあ。食べてきたには、食べてきたんですがね。厄介な同居人が朝からゲロマズの料理を作るもんですから……」
「つまり、戻したってわけか」
「……ははは、そうなんですよねぇ」
「どんな料理なのよ、それ」
「やたら黒焦げのベーコンエッグ」
「ベーコンエッグがゲロマズって、ある意味において凄いわね。あんな簡単なものを、どうやったら……」
「おいおいおい。そんなことよりも、だ。ラーナー、お前に同居人が居るだなんて聞いてないぞ! 女か、女なのか?」
「女性ですね」
「彼女か? やっと新しい彼女が、お前に出来たのか! やったじゃないか、ラーナー!! 俺は嬉しいぞ!」
「うーん、どうなんでしょう。あれは彼女、なのか?」
「まだその段階にも至ってないのに、同棲してるの? 大丈夫なの、ラーナー」
「大丈夫だと、思いますけど」
「いいや、大丈夫じゃないだろ。それは明らかに、倒錯だぞ」
「ええ、性倒錯を起こしてる。元彼女の傷が消えてないんだわ」
「えっ。ど、どうして、そういう理解に……?」
「話ならいつでも聞くぞ。もっと俺たちを頼ってくれ」
「そうよ。私たちみんな、あなたのことが好きなんだから」
「いや、その、ははっ……。気持ちは嬉しいんです、けど……」
 引き攣った笑顔を浮かべながら、ラーナーは購入したサンドイッチを啄ばむように食べる。それが、午前八時十五分のことだった。
 と、そのとき。部長のデスクに置かれた電話が、ベルを鳴らす。それまで和気あいあいとしていたオフィスが、一瞬にして静まりかえった。
 部長が受話器を取る。静寂の中に、これから何が起こるのかと警戒する緊張感が張り詰めた。
「欧州情報分析部、部長トラヴィス・ハイドン。おお、トーマスか。――……なに? パトリック・ラーナーを連邦捜査局に寄越せだと?」
 部長の語尾が上擦り、その場に居合わせた全員の視線がラーナーに向いた。部長も、ラーナーに無言で視線を送ってくる。ラーナーは部長に、視線を返した。
 もしや、アイリーンが言っていた例の件か?
「ああ、そういうことか。失敬。その『寄越せ』は、現場に向かわせろということだな。優秀な人材を奪われるかと思ったじゃないか……。分かった、現場にラーナーを向かわせよう。――……ああ、そうだな。くれぐれも慎重に。被害者が被害者だ、警戒するに越したことはない。お前のほうも気をつけろよ、それじゃ」
 部長はそう言うと、受話器を置く。それからラーナーを手招きし、近くに来るよう指示を出した。ラーナーは部長のデスクの前に立ち、彼の顔色を窺う。すると部長は、ラーナーが予想していた通りの台詞を言った。
「連邦捜査局から要請があった。聞こえていたかもしれないが、ラーナー。お前にはキャンベラ国立大学病院に向かってもらう。被害者家族の口が固く、手を焼いているそうだ。そこでノエミ・セディージョ特別捜査官が、お前に応援要請を出したらしい」
「大学病院ですか……」
 ノエミからの要請で、大学病院に向かうことになる。
 特務機関WACEとやらの、筋書き通りの展開だ。
「連続殺人事件なんですか?」
「いや、そうではないようだ。被害者はひとりだけ。重傷で、現在も意識不明。死んでないってことは、未遂になるんだろうな」
「未遂なのに、市警じゃなく連邦捜査局が動いたってことは、悪質性が極めて高い事件なんでしょうか」
「ああ、そうらしい。大きな山になりそうだと、先方は言っていた。しかし証拠が乏しく、唯一の目撃者である被害者の娘は口を割らないという。そこで、お前の出番というわけだ。ASIの看板を背負って、行って来い。くれぐれも、ブラッドフォード長官の名を汚してくれるなよ」
 部長はラーナーの肩に手を置き、励ますようにそう言った。だがその励ましの言葉が、ラーナーの肩に重く圧し掛かる。
 ブラッドフォード長官の名を汚してくれるなよ。
 その言葉が、何よりも重い枷となる。つまり、誰もがあっと言うような大きな成果を上げなければならず、どんな些細なミスも許されないというわけだ。
「は、はい!」
 そのような重圧の掛かる仕事は私にはどだい無理です、自分じゃないベテランの誰かを向かわせて下さい!
 本当はそんな弱音を吐きたかったラーナーだが、そんなことは言えるわけもなく。営業スマイルを部長に向け、それから部長に背を向けて、今度は後ろに控えていた同僚たちの顔を見る。
 彼ら彼女らの顔色は、複雑そのものだった。その視線は他局から指名を受けたラーナーのことを純粋に誇らしく思っているようでもあり、羨んでいるようでもあり、妬んでいるようにも見えていたからだ。
 そんな視線を前に謙遜するような態度を取れば、悪印象を抱かれることは間違いない。しかし驕り高ぶるような態度も、また然りだ。
 ラーナーは迷う。こんなときは一体どうすりゃいいんだ、と。そこで彼が導き出した答えは、笑顔を浮かべながら特に何も言わずに立ち去るというものだった。
「それでは、行ってまいります」
 同僚たちに会釈程度に頭を下げると、ラーナーは私物をまとめてオフィスを後にする。そして先日も行ったキャンベラ国立大学病院に、また向かって行ったのだった。
「……カルロには、会わないようにしないと……!」
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