ヒューマンエラー

He will Transfer to a new job. ― 「突然の辞令」

 西暦四二四六年。『空中要塞アルストグラン』こと、アルストグラン連邦共和国。かつての名をアルフレッド島、更に昔の名をオーストラリア大陸といったその大陸は、今や高度一五〇〇メートルほどの空を漂う空中都市エアロポリスとなっていた。
 アルストグラン連邦共和国。そこはひとつの大陸が、ひとつの大きな飛行船になっていたのだ。夢のようなその都市は、永久機関の大型エンジンと、未知のエネルギー物質によって可能となった。
 大型エンジンを動かす動力源は、まだ未解明な部分が多く残されているエネルギー物質『アバロセレン』。ここ二、三〇年ほどの歴史しかないその物質は、今やアルストグランのエネルギーの全てを賄っていると言っても過言ではない。電力を生むタービンに使えることは勿論のこと、車や飛行機を動かすエンジンにも、果ては核爆弾以上の威力を持つ兵器にもなり得るアバロセレンは、全ての夢を叶えてくれるであろう素晴らしい代物だった。
 しかし、そんなアバロセレンがもたらす恩恵は、それを使用することにより発生するリスクとはとても釣り合っていなかった。
 原子力発電に用いられるウランよりも、よほどタチが悪いといえるだろう。
「どうしたんだぁ、怖い顔をして。リッキーこと、パトリック・ラーナーさんよぉ? あぁっと、パトリシア・ヴェラスケスちゃんだったか? ヒヒッ」
「はぐらかすな、クソ野郎」
 そんなアルストグラン連邦共和国に忠誠を誓い、正義に尽くす一人の男が居た。
 男の名前は、パトリック・ラーナー。童顔にして、低身長。くりっと大きな二重瞼の目と極太げじ眉の、いかにも子供っぽい見た目をしているその男は、そんな見た目とは裏腹に、国の諜報機関『アルストグラン秘密情報局』通称『ASI』に勤める、極めて優秀な局員だった。
「パトリシア・ヴェラスケスちゃんは、そりゃぁ可愛かったなぁ。丸襟の白いブラウスに紺色のリボンタイ、それと淡いブルーのミニスカートに、濃紺のニーハイソックス、キャメル色のローファー。水色と白の格子柄の小さなリュックサックを小柄な背中に背負った姿は、可愛い可愛い十二歳の女の子にしか見えなかったぁ。……まさかその正体が、連邦捜査局の特別捜査官、それも二十四歳の男だとは夢にも思わなかったぜ。ハハッ!」
「最初の被害者、ミラ・モレスの遺体はどこに棄てたかって聞いてんだ。質問に、答えろ」
「パトリシア・ヴェラスケスちゃんの髪の毛は、カールが掛かってて、さらさらしてて、綺麗な栗毛だったなぁ。まるで俺の兄貴の嫁さんに……――いや、本当は俺の嫁になるはずだったあの女に、ソーニャにそっくりだった。けど、パトリシア・ヴェラスケスちゃんの髪の毛は、残念ながらフェイクだった。リッキーの髪の毛は、ストレートで真黒。まるで東洋人だ。醜い。美しくない」
「イーライ・グリッサム。質問に、答えろ」
「だけどリッキーの両親は、どういうわけか黒人だ。父親も母親も、肌は真黒だ。リッキーの上にいる四人の兄や姉たちも全員、肌は真黒。なのに家族の中でリッキー、彼はひとりだけ肌が真っ白だ。可哀想に、きっと彼はひとりだけ血が」
「残念。俺は両親とちゃーんと血が繋がっている実の息子なんだ。基本的にうちは、北アフリカにルーツを持つソマリの血筋だ。だが父方の祖母だけは例外で、アングロ・サクソン人だった。つまりうちの父親は、黒人と白人の両方の遺伝子を持ってたわけだ」
「は? 黒人の子供は黒人だ。白人が突然産まれてくるわけがねぇだろ」
「隔世遺伝って言葉も知らねぇのか、クソが。そんな知能もないのか? まっ、それも仕方ないか。イーライくんは学校に通ってなかったんだもんなぁ? 知能が低く、運動も出来なくて、他よりも圧倒的に何もかもが劣っているから、同級生にいじめられてたんだっけ? そして不登校になり、社会からはじき出され、唯一の家族だった兄にも見捨てられ、落ちこぼれのゴミになった。なぁ、そうだろ?」
「……やめろ」
「だから、子供を襲った。大人のオンナは醜い自分の相手なんかしてくれるわけもないから、自分よりも力の弱い子供を襲ったんだよな? そういうクズを、世間はなんと例えるか知ってるか」
「……やめろ、やめろ!」
「犯罪者。変態。死ねばいい小児性愛者。ペドフィリアのクソ野郎。弱い者をいじめることしかできない、生産性のないゴミ。人間のクズ。最底辺のカス。息を吸う資格すらない、ゴキブリ以下の存在。溝鼠に食われて殺されればいい」
「……やめろ、やめろやめろ!!」
「薬剤での死刑なんて、お前には生温い。かといって絞首や銃殺じゃ、あまりにもあっけない。被害者たちが味わった苦痛以上の苦しみを、延々とダラダラと味わいながら、醜態を晒して死ねばいい。お前には電気椅子が、それもエジソンの電気椅子がお似合いだ。頭から湯気を立ち上らせながら、肉を焼き、脳を焼き、異臭を漂わせ、穴という穴から体液をだだ漏らしながら、三日三晩かけて死ね」
「やめろ、やめろやめろ、やめろおおっ!」
「死刑が非人道的だなんて騒ぐバカみたいな弁護団体があるが、俺はそうは思わない。非人道的なのは死刑という制度じゃない。真に非人道的なのは、死刑を宣告されるほどの罪を犯した、お前のような犯罪者のほうだ。お前らみたいな人間のクズは、被害者が味わった以上の苦しみを味わい、悶えながら死ぬべきだ。お前みたいなクズに、生きている価値はない。お前みたいなクズに税金をつぎ込んで生かし続けるなんて、そんなこと国民が許すわけがない。税金を貪る薄汚い豚は、殺して肉塊にするのが一番だ。それが世のため、人のためってやつだ。なぁ、そう思うだろ? イーライ・グリッサムさんよ」
「やめろ、やめろ、やめろおおおっ! やめろって言ってるだろ!! やめてくれ、やめろ!!」
 ラーナーは静かに椅子から立ち上がると、看守たちに軽く頭を下げ、書類が大量に詰め込まれた鞄を抱える。そして鉄格子に囲まれた刑務所内の特別面会室から出ると、鉄格子の外で待っていた女に声を掛けた。
「……すみません、ノエミ。私じゃ、無理だったみたいです」
「そうみたいね。っていうかさ、リッキー。あなたってなかなかキツいこと言うのね。もともと毒舌キャラだったけど、更に磨きがかかったみたいじゃないの」
「ASIで尋問ばかりやらされてるんで、そのクセじゃないですかね」
 あら、そうなの。さほど興味が無さそうに、女は相槌を打つ。彼女は連邦捜査局本部勤務、ノエミ・セディージョ特別捜査官。ラーナーの元同僚だ。
 ラーナーは最後に、騒ぐ男を横目で見やる。そして彼は小さな声で、ノエミに言った。
「……あの調子から察するに、ヤツは絶対に彼女の遺体の在り処を吐かないでしょう。ヤツの死刑が執行されるのは、明日の早朝だってのに。力になれず、申し訳ない」
「天下無双のパトリック・ラーナーさまがそう言うなら、仕方無いわ。精神分析官に協力してもらって、ミラの遺体がありそうな場所を探すしかないか……」
 それで見つかるといいんだけど。そう呟いたノエミは、苦々しい表情を浮かべる。それから彼女はラーナーの右肩に、自分の手を置いた。
「本当にごめんなさいね、リッキー。あなたはもう連邦捜査局の人間じゃない、今はASIの局員だっていうのに。急に呼び出して、捜査の手伝いなんかさせちゃって……」
「いいんですよ、気にしないで下さい。アカデミーで同じ釜の飯を食べた同期じゃないですか。それに私はASIでの仕事より、やっぱり捜査のほうが好きですから」
 ラーナーは笑顔を取り繕い、後ろから聞こえてきた男の罵声を聞き流す。そしてノエミと刑務所内の暗い廊下を歩きながら、どうしてこうなってしまったのかについて考えていた。
「……はぁ、連邦捜査局に戻りたい。ASIなんか辞めたい」
「私も同じ。あなたに是非とも戻ってきてもらいたいわ。というか、どうして戻ってこないのよ。そもそも、なんでASIになんか異動したわけ?」
「そういう辞令が出たからですよ。それも連邦捜査局のマティアス・ダルセン長官から、フェリス首相とウェズリー大統領の連名つきで。一介の捜査官に選択権なんて与えられてなかったんです」
「モテる男はツラいわねぇ」
「ツラいなんてもんじゃないですよ」
「権力にもモテて、小児性愛者の変態女にもモテちゃって。ジークリット・コルヴィッツの件は、本当にご愁傷様です」
「彼女の件は、ほじくり返さないで下さい。……未だに、手錠を掛けたときの彼女の顔が、夢に出てきて毎晩眠れないんですから」
「大丈夫? 精神科に受診した方がいいんじゃないの?」
「精神科医なら十分足りてるんで、大丈夫です」
「それって、もしやあの変態ドクターのこと?」
「そうです、あのカルロ・サントス。精神科医はあれだけで十分です」
 はぁ、と溜息を吐くラーナー。その背中をノエミは平手で、檄を飛ばすように叩いた。
「シャキっとしなさいよ、リッキー。アンタの取り柄は、根拠はないけどとにかく溢れてる自信でしょう?」
「それじゃまるで、私が自信過剰みたいな」
「あなたの実力は本物よ、ただ調子に乗りやすいきらいがあるってだけ。だから、さっさとジークリットのことは忘れて、新しい女性を見つけて、明るい未来を!」
「……また次の彼女が、ジークリットみたいな小児性愛者だったら? 私はたしかに子供と見間違われても仕方ない容姿をしてますけど、ですけど代理ってのは流石に酷いとおも……――」
「あーっ、もう! リッキー、アンタにそんな顔は似合わないって言ってるのよ! 背筋をしゃんと伸ばして、偉そうなくらいに顎を上げて、そのチビな身長を威圧で誤魔化して! それでこそ、パトリック・ラーナーでしょ!」
 バン、バン、バンッ! ノエミはしつこく彼の背を叩く。ラーナーは彼女から離れると、やめて下さいと言った。
「それじゃ、私はこのへんで。さようなら」
「また何かあったら頼むわねー」
 ノエミは去っていくラーナーの背を見送りながら、腕を組み、足を開いて立つ。そんな彼女は、根拠のない嫌な予感をひしひしと感じていた。
「……ASIか。リッキーのあの顔からして、やっぱりロクなところじゃないのね……」






 アルストグラン秘密情報局、首都特別地域キャンベラ市にある本部指令局。束の間の昼休みを終え、局に戻ったラーナーは、戻るなり玄関口で直属の上司に呼びとめられた。
『ブラッドフォード長官殿がお前を待っている。急ぎ、最上階の長官室へ向かえ』
 そうして向かった長官室。防弾使用の鋼鉄扉を前に、ラーナーは畏まって立っていた。
 なぜ長官が、管理職についているわけでもない一介の局員を呼び出す? そりゃ自分は鳴り物入りで入局したようなもんだから、長官が名前を知っていたとしてもおかしくはないが、だが……――。ラーナーは首を捻りながらも、長官室の扉を叩こうとする。と、その前に、鋼鉄のドアが自動で開いた。
「イーライ・グリッサムと、最期の面会をしていたそうじゃないか。それも連邦捜査局の特別捜査官と。彼女は、ノエミ・セディージョといったか」
 三重に閉ざされていた鋼鉄のドアが順番に開き、入口が現れる。ラーナーは背筋を正し、出来るだけ低い身長を誤魔化そうと努力した。そしてぱっちり二重の大きな両目で、長官室の最奥にどっしりと構えていた白髪頭の老人を見る。体がぶるりと震えたような気がした。
「連邦捜査局の人間と一体何をしていたのかね、ラーナー」
 権力の象徴、革張りの黒椅子。その椅子に無表情で座る男は、そう言う。デスクの上で両手を組み合せ、その手で口元を隠すような姿勢をしているその男は、老いてもなお生命力に満ちていてギラついている真黒な目で、ラーナーを見ていた。
 彼こそ、ASIのトップ。士官出身の政治家、『穎悟の鷲ワイズ・イーグル』ことバーソロミュー・ブラッドフォード長官だ。
「それは、連邦捜査局の管轄では? アルストグラン秘密情報局が口を挿む問題では……」
「君は、長官である私に口答えをするのかね」
 有無を言わせぬブラッドフォード長官の威圧が、ラーナーの肩に重く圧し掛かる。ラーナーは視線を長官から逸らし、足下に下ろすと、唇をぎゅっと噤んだ。
「……」
 元来、非権威主義的なパーソナリティーを持っていて、曲がったことが大嫌いで、反骨精神旺盛で、自身の掲げる正義に反すると判断すれば、相手がたとえ上司であろうと容赦なく噛みつくラーナーだが、そんな彼も『この長官には逆らわないほうがいい』ということを本能で察した。そして黙り込むという選択肢をとったのだ。
 ブラッドフォード長官。彼はこの四十三世紀において最強と噂されるアルストグランの空軍、それも精鋭が集う航空機動部隊出身で、更に軍人としての最終階級は士官の最高位にあたる大将だ。そして出身大学は国内随一の名門校、セントラル・ビクトリア大学と正真正銘のエリートである。そのうえアルストグラン秘密情報局長官の前には、国軍の全てを束ね、国の防衛にあたる国防軍政省の長官を歴任していた。
 そんな彼に対し、現大統領であるセドリック・ウェズリーは絶大な信頼を寄せているというのは周知の事実である。それにバーソロミュー・ブラッドフォードという男にケチをつけるマスメディアなど存在しない。誰もが、彼に敬意を表すものだ。
 つまり彼は、絶対に敵に回してはいけない政界の重鎮というわけだ。
「まぁ、それはいい。本題に移ろう。入りたまえ、ラーナー」
「……はい」
 ラーナーは恐る恐る、前へと足を進める。そして長官室に彼が足を踏み入れた瞬間、鋼鉄の扉はガシャンガシャンと音を立てながら、侵入者を絶対に逃すまいと閉まっていった。
 ラーナーは長官の目の前に移動した。子供のようなその顔の表情筋を強張らせ、大熊を狙うハンターのような目をした老人を前に、息を止める。
 そして、長官と視線が合った。
「……」
「……」
 ラーナーが緊張と恐怖から手に汗を握った、その瞬間だった。
 長官の視線がラーナーからずれた直後、彼は堪らずブッと噴き出す。無表情に凍りついていた顔は一瞬にして解れ、長官からは茶目っ気に溢れた笑顔が飛び出した。
 何事か、これは新手のテストか?! ラーナーはあからさまな戸惑いを見せ、頻りに瞬きを繰り返す。すると長官は、笑いながら言う。その声色は、先ほどまでの威圧に満ちたものとは正反対の、冗談を言うような調子だった。
「ラーナー、君の評判は常々聞いているよ。今までに例のない、大型新人だと。先日も北方のランスィカヤ連邦のスパイから情報を聞き出し、この国に送り込まれていた暗殺者の拘束に尽力したそうじゃないか」
「……あっ、えっと、はい……」
「突然長官に呼び出されたときに、その大型新人とやらはどのような反応を示してくれるのかと期待したが、やはり新人は新人のようだ。まだまだ可愛らしいところが残ってくれていて良かった。いやはや、実に面白い」
 つまり、試されたってことなのか?
 目をぱちくりとさせたラーナーは、呆然と面白おかしそうに笑う長官を見つめるばかり。たった数分の間に起きた温度差のありすぎる出来事を、彼は信じられずにいたのだ。
 すると長官はデスクの中から徐に、一封の書類入りの封筒を取り出す。そして書類をラーナーに突き出し、受け取るようにと無言で促した。ラーナーはそれを受け取ると、中に入っていたものを出し、書類に目を通す。そして書類は、疑いと混乱の狭間で挙動不審にぐらぐらと揺れていた彼を、一気に混沌とした現実へ引き戻した。
「長官。これは、一体……」
「見ての通り、辞令だ。本日付で君は、特務機関WACEワースへと異動となる。とはいえASIを解雇されたわけではないことを、忘れないでくれ」
「どういうことです?」
 その文書は、どこか見覚えのある辞令だった。その書面にはブラッドフォード長官の名前は勿論のこと、大統領と首相の連名もついている。連邦捜査局からASIに異動を命じられたときの書類と、まるで似たものだった。けれども、異動先は特殊だった。
 特務機関WACE。それはラーナーも噂でしか聞いたことがない、というよりも都市伝説に等しい執行機関の名前だ。
 通称、メン・イン・ブラック。隊員は真黒の背広に身を包み、真黒のサングラスを着用していると言い伝えられていることから、そう呼ばれている。その正体は謎に包まれているし、それに実在するかどうかも怪しかった。何故ならば、影から情報を操作して世界を操っているとか、誰にも知られずに悪い奴らをとっちめてる正義の味方だとか、宇宙人を捕まえて解剖したり実験したりしているだとか、信用に値しない噂がそこら中に溢れかえり過ぎていたからだ。
 当のラーナーも今この瞬間まで、特務機関WACEなど都市伝説でしかないと思っていた。それなのに、その都市伝説の存在に異動するようにという辞令が今、彼の目の前に存在していた。
「君には、先方とこちらを繋ぐパイプ役になってもらいたいのだ。実を言うと、君にこの大役を任せることになった一番の理由は、WACE側が君を指名したからなんだ。こちらとしては、出来れば現場経験の少ない新人ではなく、手練れの諜報員を送りたかったのだが……――君の評判を信用し、君に賭けることにした」
 ブラッドフォード長官の真黒な目が、ラーナーをじっと見ていた。そんな長官の目には、人の生気を吸い取ってしまいかねないような、独特の眼光が宿っており、その光は自然とラーナーを震えあがらせる。
 ぎゅっと握りしめていた掌は、もう手汗でびしょびしょになっていた。大きな目は極限まで見開かれているし、脚の筋肉は緊張からかピクピクと痙攣し始めている。
 そしてとどめの一撃が、長官の口から飛び出した。
「この意味を理解できるだろう、ラーナー」
「……はい」
 この意味が理解出来るも何も、その『辞令』はいやというほどに、ラーナーにプレッシャーを掛けていた。
 書類には長官の署名がなされていて、その下には大統領と首相の直筆と思われるサインも続いている。ここには居ない政治家から注がれている期待を、ラーナーはそのサインからひしひしと感じ取らざるを得なかった。
「失敗は決して許されない、ってことですよね。――……何をやらされるのかなんて、まったく想像がつかないんですけれども」
 書類を抱えるラーナーの腕が震え、そう言った声もぶるぶると震えている。そんな彼の様子に、長官は込み上げてきた笑いを堪えた。
 そして長官はにやついた口元を手で覆い隠しながら、こんなことを言った。
「お待たせしましたね、“アーサー”殿。どうぞ、彼を連れて行って下さい。ですが、万が一のことがあれば」
「アルストグラン秘密情報局、そして連邦捜査局は、総力を挙げてWACEを潰しに掛かる、でしたかな。……その点については、心配に及びませんよ」
 ラーナーの後ろからは、ブラッドフォード長官ではない、別の誰かの声が聞こえてきた。先ほどまで、ラーナーの背後には誰も居なかったはずなのに。
 そして声は、続けて言った。
「私たちの目的は、ひとつ。アバロセレンがもたらす欲望の暴走を、未然に防ぐことだけですから」
 ラーナーが声の主の姿を一目見ようと振り返ろうとしたのと同時に、彼の腕は後ろからガッと掴まれる。そしてラーナーは、自分の腕を掴んだ人物の顔を覗き込んだ。
「WACEが裁くのは、法では決して裁けない、民を欺く罪深き者たちだけですよ。国民のために尽くし、法の下に公正さを求む者を、傷つけたりはしません」
「その言葉、どこまで信用すべきかな」
「軍事防衛部門の高位技師官僚テクノクラートよりかは、信用に値すると思いますがね」
「ははっ。たしかにあれより、あなたは信用出来そうだ。……あの男だけはどうにも好かなくてなぁ。あのような男の一声で軍隊が動くと思うと、恐ろしくて仕方がない」
「私も同感です。あの男の本質は、道具でしかない。官僚としてはそれがベストなのでしょうが、あくまであれは閣僚と同等の位にある高位技師官僚。その地位に値する素質があれにないのは、自明のことでしょう」
「ほう。どうやらあなたとは、気が合いそうだ。しかし、マダム・モーガンならまだしも、あなたを信用してよいものか……」
「生憎、彼女は北米に出向中ですので」
 その人物は、枯草色の髪をした男だった。そして真黒な背広を纏い、真黒なサングラスを着用し、その目を隠している。間違いなく、その男は『特務機関WACE』だった。
 ラーナーはその男を、ただ黙って見ていた。そうすることしか、混乱した頭ではできなかったのだ。






 長官から呼び出された挙句、黒スーツ黒サングラスの男に色々と連れ回され、なんやかんやと騒がしかったような気がする、その日の晩。アナログ時計の針も、午後八時を過ぎたころ。
「まさかだよ。ラーナー、お前のほうから受診しにくるとは」
 ラーナーは『全てにおいて国内最先端』を謳っている、キャンベラ国立大学病院を訪ねていた。そんな彼が顔を出したのは、大学時代の友人が勤めている精神科だった。
 休憩の合間を縫い、ラーナーの前に現れた友人――マレー系の温和そうな顔立ちと陽に焼けた肌が特徴的な男で、いかにもチャラそうな精神科医カルロ・サントス――は、ラーナーを見るなり苦笑う。その顔は、どうしてお前がここに居るんだとでも言いたげだった。「……夢にも、思ってなかったな」
「精神は別に大丈夫なんですよ。至って健康で、とても正常。ただ、自分の頭が信じられなくて」
「それなら脳神経科に行けばいいものを。……クソッ、お前の所為でノエミとの賭けに負けたじゃないか」
「はぁ? 賭けって、なんのことです」
「お前が自分から精神科に受診しに来る日が訪れるか、そうじゃないかで賭けてたんだ。ノエミは前者、俺は後者だった。あーっ、俺の二十ドルが……」
「なに勝手に私で賭けごとをやってるんですか」
「文句なら言い出しっぺのノエミ・セディージョに言ってくれ。それと今、脳神経科に繋いでやったぞ。MRIがラッキーなことに空いているから、お前の頭を念のために診てくれるそうだ。三十分後に脳神経科に来てくれだと。……親愛なる友人に、感謝しろ」
「ありがとうございます、サントス先生」
「もっとだ、心をこめて」
「変態ヤブ医者、黙って仕事をしろ」
「お前ってヤツは、ホント可愛げがないよな。そんな顔をしてるクセに、いちいいちイラッとくるわー」
 手に持ったタブレット端末を操作しながら、カルロ・サントス医師は睨むようにラーナーを見る。それから呆れたように溜息をひとつ吐くと、カルロ・サントス医師はラーナーの脇腹を肘で小突いた。そして彼は、ラーナーに言う。
「待ち時間はあるわけだ。その『自分の頭を信じられない』っていう話を、少しだけでも聞かせてくれ」
「カウンセリングは要りませんよ」
「別にそんなつもりじゃないさ。ほら、お前はちょい前に連邦捜査局から某所に移ったわけだろ? 単に、興味があるだけさ」
「尚更、話すことはできませんね」
「そんなツレないことを言うなって、なぁ? ほら、俺とお前の仲だろう」
 ぐいぐい、ぐいぐい。カルロ・サントス医師はラーナーに詰め寄る。しつこく、うざったいほどに。
 そんな彼から注がれる好奇の視線に耐えられなくなったラーナーは、周囲をざっと見渡す。そして自分たちに興味関心を示しているような者が居ないことを確認してから、ぼそっと呟くように言った。
「……なんか今日、長官に呼び出された気がするんですよね」
 するとカルロ・サントス医師は息を呑む。そして彼はラーナーを二度見し、それから飛び上がって驚いた。
「なっ?! そ、それってまさか、ワイズ・イーグルことバーソロミゅ……――」
「でも多分、気の所為だと思うんです。私みたいな新人が、いきなり長官に呼び出されるだなんてあり得ないですし。それに、あの長官があんなお茶目な笑顔を見せるわけがない。だからきっと、あれは幻覚で、気のせいだったはずなんですよ。白昼夢か何かで、現実では……」
「いや。それは多分、現実だな。安心しろ、お前が起こしてるのは脳神経科の疾患じゃない。一過性の精神障害、ひどく混乱してるだけだ。MRIは断りを入れておこう」
「そんなわけが」
「医者が言ってるんだ、信じろ」
 そう言うとカルロ・サントス医師は、ラーナーの頭を取り乱した子供を宥めるように、ぽんぽんっと軽く叩く。ラーナーはその手を払い除けると、カルロ・サントス医師に向かって言った。「カルロ、あなたが信じられる医者だったら、信じるんですけどね。ですが」
「青天霹靂な出来事で、現実に起こったことなのか信じられないんだろ? お前が何を長官から言われたのかは知らないが、その様子から察するに、何か大きな仕事でも与えられたんだろうな。信じられないほど大きな、何か」
「……」
「詳細は聞かん。国家反逆罪に問われるのは御免だからな」
「……はぁ」
「まあ、な。千載一遇のチャンスを目の前にして、杞憂から強い不安や恐怖を感じることは、誰にでも間々あることだ。それにお前はまだ、ジークリット・コルヴィッツの件から立ち直ってない」
「ジークリットの話はやめて下さい」
「だからこそ、まずお前がやるべきことは、こんがらがっている頭の中の整理だ。その為には、家に帰ってぐっすりと寝る。本当はカウンセリングが一番なんだが」
「カウンセリングは拒否します」
「と言うと思ったんだよ」
 するとカルロ・サントス医師は「少し待っていてくれ」と言うと診療室に行き、そして何やら紙とペンを持って戻ってくる。それからラーナーの前でザザザッと紙に何かを書くと、それをラーナーに渡した。
「とはいえ、きっと寝れないだろうから睡眠導入剤を出しておく。これが、その処方箋だ。この病院のすぐ向かいに、こじんまりとした薬局があるから、そこに行け。メラトニン受容体に作用するヤツだから、効き目は強くないが、依存性は低い」
「そりゃ、どうも」
「あと、診察料。初診料と特定療養費込みで、ざっと七十八ドルぐらいか? というわけで、あそこの受付で支払いを宜しく。あっ、受付嬢のミラベルちゃんには話を通してあるからな」
「七十八ドル?!」
「友人割引なら効かないぞ。それじゃ、今日は帰れ。ゆっくり寝ろよ」
 そう言うとカルロ・サントス医師は、また診療室に戻っていく。処方箋を握りしめたラーナーは、受付を見た。
 受付のカウンター内に座っている受付嬢は、ラーナーに対して実ににこやかな笑みを向けている。そして彼女は、こちらに来いと手招きをしていた。
 受付嬢に苦笑う顔を向けるラーナーは、横目で遠ざかる友人の背中を見やる。ラーナーは、気付いていなかった。カルロ・サントス医師は脳神経科に連絡など入れていなかったということに。
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