ヒューマンエラー

Cradle of Nightmare. ― 「壊れた仔猫、血飢えの餓狼」

 午後一〇時半を過ぎたころ。国立大学病院の救命救急センターに運び込まれた負傷者に、連邦捜査局とASI、ひいては病院側も振り回されていた。
「サントス先生!? どうしてあなたが、救命救急に」
 例の負傷者の担当となった救命医は、同伴者として来たカルロ・サントス医師を見るなり、驚いたような顔をする。カルロ・サントス医師は、可能な限り冷静に答えた。
「見ての通り、こいつの同伴だよ。……右上肢をチェーンソーで切断された。それと左下腹部に刺し傷あり。動脈すれすれの位置にナイフが刺さったままになってる、気をつけろ。それと患者は、重度の精神病だ。解離の患者だから暴れることはないと思うが念のため、十分に注意を払ってくれ。それと名前は、パトリック・ラーナーだ。二十五歳、男性。血液型はABだ」
「ありがとうございます、サントス先生。あとは私が。外来受付で、待機していてください」
 負傷者を乗せたストレッチャーを、救命医は引き受ける。治療スペースに、ストレッチャーは運ばれて行った。
 カルロ・サントス医師は、その様子を見送る。それから外来受付に移動した。
「……」
 外来受付のごった返す人の波の中に、ノエミの姿があった。カルロ・サントス医師はノエミに近付き、彼女に声を掛ける。すると目に涙を浮かべたノエミが言った。
「ねぇ、カール。リッキーは、助かるんでしょう」
 カルロ・サントス医師は目を伏せ、顔を少し下に向ける。
「仮に、体が助かったとしても。俺たちが知ってるパトリック・ラーナーが戻ってくるという期待は、抱かないほうがいい」
 もしもを願い、絶望をしないように。希望を与えない言葉を、カルロ・サントス医師はあえて口にする。ノエミはその言葉に、泣き崩れた。
 ノエミはぼろぼろと涙を流し、嗚咽を上げる。彼女は自分よりも少し身長の高いカルロ・サントス医師に抱き付き、言った。
「もう私、真実になんか興味無いわ! アルストグランの闇とか、そんなのもうどうでもいいの! だから、お願い。リッキーを、治して……!」
 外来受付には、レヴィンの姿も見えていた。レヴィンは誰かを探すように、きょろきょろと首を回している。だがカルロ・サントス医師は、レヴィンに声はかけなかった。彼女の姿を、ただ見つめていた。
「……」
 人の波が、行き交う速度が、本来のスピードよりもずっと遅く感じられる。スローモーションの動画を見せられているような気分を、カルロ・サントス医師は感じていた。
 まるでファンタスマゴリアのようだと、カルロ・サントス医師は感じていた。そのとき、視覚以外の彼の感覚は全て、一時的に遮断されていた。


+ + +



 急用ができたと無理を言って、カルロ・サントス医師は定時前に仕事を切り上げてきた。山積みの書類は、明日に持ち越し。それが午後六時のこと。そんなこんなで彼は連邦捜査局に行き、トーマス・ベネット特別捜査官と合流。消えたラーナーの捜査に手を貸すことにしたのだ。
「……それで、ご用件は?」
「この男を見たかどうかを、聞かせてほしい」
 時刻は現在、午後九時半。トーマス・ベネット特別捜査官と、その右横に並ぶカルロ・サントス医師は、フロントに居たコンシェルジュの女性から話を聞いていた。
 彼らが訪れていたのは、国内でも指折りの高級ホテル。市内の監視カメラに映っていたラーナーの足跡を追い、辿り着いたのがこの場所だったからだ。
 トーマス・ベネット特別捜査官は、ラーナーの顔写真をコンシェルジュに見せる。するとコンシェルジュは「ああ、その人ですか!」と声を上げた。
「ええ、よく覚えてます。車椅子に乗った、小柄で可愛らしい男性ですよね。その方なら4032号室に行かれました。同伴していた金髪の女性が、彼の車椅子を押してましたよ。そういえば彼は酷くぐったりしているようでしたが、何かご病気でも……?」
「病気っちゃあ、病気かもな。体質的に、疲れやすい傾向を持っているから。それで金髪の女性ってのは、こいつか?」
 次にカルロ・サントス医師は、レヴィンの写真を見せる。コンシェルジュは頷き、答えた。
「そうです、その女性でした。メルヴィ・シルキアという名前で、現金払いでチェックインされてますが……」
「何時頃だ?」
「えっと……――四時間前に、チェックインをされてます」
 手元のリストを確認しながら、コンシェルジュは言う。カルロ・サントス医師は、ぼそっと呟くように言った。
「メルヴィなんたらって名前は、偽名だな。あれの本名は、ラファエル・レヴィン。女装家、男だよ」
「……だっ、男性!?」
 コンシェルジュは驚いたように、写真を二度見する。カルロ・サントス医師とトーマス・ベネット特別捜査官は顔を見合せ、頷いた。
「だがレヴィンは今、局で取り調べを受けている。そして捜査官が任意での同行を頼んだのが、六時間前だ」
「このホテルに、レヴィンが来るわけがない。ということは、だ」
「ラーナーを攫ったのは、生き還った副長官か。……ドクター・サントス。前から思ってたが、君は捜査官になったほうが良いんじゃないのか?」
 君の推理には感服だよ。トーマス・ベネット特別捜査官は、感嘆の声を洩らす。しかしカルロ・サントス医師は、険しい顔で言った。
「あんたら連邦捜査局の目が節穴なだけだ。……とはいえ、今回の件はあまりにもぶっ飛んでて、突飛すぎるがな」
 連邦捜査局に出向き、トーマス・ベネット特別捜査官と合流したとき。カルロ・サントス医師は真っ先に、こう言った。誘拐犯は間違いなくエズラ・ホフマンだ、と。そして付け加えるように、こうも言った。

 彼を人間だと思うな。
 別人になり済ませるモンスターだと思え。
 
「で、モンスターの副長官は4032号室か。コンシェルジュさん、4032号室ってのは何階になるんだ?」
 トーマス・ベネット特別捜査官が、コンシェルジュに尋ねる。コンシェルジュは右手でエレベーター入口を示した。
「あそこのエレベーターに乗り、五階で降りて下さい。エレベーターから向かってすぐ左に、4032号室はあります」
「そうか。ありがとう」
 トーマス・ベネット特別捜査官は、コンシェルジュに笑みを向ける。
「You're welcome.」
 コンシェルジュはそう返した。
 そして男二人は、エレベーターに向かう。すると、そのときだった。
「キャアアァッ! オオカミよ、オオカミ!」
 エレベーターのドアが開いた瞬間、悲鳴が上がる。中から飛び出してきたのは、烏(からす)のように真っ黒な毛並みをした狼だった。
 ガルルルゥッ。狼は唸り、自分を見つめる人々を緑色の目で睨みつける。その目は純度の高いエメラルドを嵌めこんだかのように、美しく澄んだ深い緑をしていた。
 カルロ・サントス医師は、その目に釘付けになっていた。ホテル内にいた誰もが狼に恐れをなして逃げていく中、彼だけは狼を見つめていた。そして狼も視線に気付き、カルロ・サントス医師を見る。途端に狼は唸るのをやめた。
 カルロ・サントス医師の横で、トーマス・ベネット特別捜査官は息を呑む。そして彼は言った。あの狼、俺たちに襲いかかるつもりだぞ、と。
 しかしカルロ・サントス医師は言った。
「違う。あの犬っころに、敵意は無いみたいだぞ」
「どうして、そうだと言えるんだ」
「獣だろうが人間だろうが、目を見りゃ考えていることは分かるさ。それに、あの犬っころが口に咥えてるもんを見ろよ、捜査官」
 そう言っている間にも、男二人に狼は近付いてくる。のそり、のそり。狼の歩いたあとには、赤い血が続いていた。
 黒い狼が口に咥えているものから、血は垂れていた。一歩歩くたびに血は滴り、ぽたぽたと大理石の床に落ちる。そして遂にカルロ・サントス医師の目の前に来た狼は、口に咥えていたものを彼の前に落とした。それから狼は、ホテルの出入口に向かって走っていく。キャンベラ市の夜闇に消えて行った。
 狼が残して行ったものを、トーマス・ベネット特別捜査官は呆然と見る。カルロ・サントス医師は持ち歩いていたゴム手袋を両手にはめると、狼の落としものを拾い上げた。
「新鮮な、人間の腕だな」
 トーマス・ベネット特別捜査官は、眉間にしわを寄せて言う。
「ああ、右腕だ。小さい手に細い腕、手首の傷。それにこの安物の腕時計。ラーナーのだよ」
 カルロ・サントス医師は冷静に分析し、見当をつけた。そしてトーマス・ベネット特別捜査官は、ホテルの出入り口を見つめながら言う。
「あの狼が、ラーナーを……」
 パトリック・ラーナー、彼は狼に腕を食いちぎられたのか?
 トーマス・ベネット特別捜査官はそんなことを考える。しかしカルロ・サントス医師は、その考えを否定した。
「捜査官、そりゃ違う。この断面を見ろ。これは獣に食いちぎられた傷じゃない。素早く動くノコギリ状の刃で、時間を掛けてじわじわと切断されたものだ。……俺は監察医じゃないし、正確なことは言えないが、十中八九チェーンソーだろう」
「だとしたら、今の狼は何だったんだ? わざわざ俺たちのとこに、切りたてほやほやのラーナーの腕を届けてくれたって言うのか?」
 トーマス・ベネット特別捜査官は腕を組み、首を傾げる。ラーナーの右腕だったものを掴み上げるカルロ・サントス医師もまた、首をひねっていた。
「さぁな、俺に訊くなよ。それより早く、4032号室に行ったほうがいいんじゃないのか」


+ + +



 カルロ・サントス医師らが狼を前に戸惑っていたころ。ノエミは連邦捜査局の取調室に居た。
「ええ、そうなの。分かってるわよ、レヴィン。リッキーを連れ去ったのはあなたじゃないって」
「ならどうして連邦捜査局は、私をここに監禁してるの!? それって疑われてるからじゃないの?!」
「違う。真逆なの。とにかく、なんていうか、説明するのが難しくて……」
 取り乱すレヴィンを前に、ノエミは頭を抱える。すると、なんともいえない微妙なタイミングで、コンコンッと取調室のドアがノックされた。
 どうぞ、入って。ノエミは言う。すると入ってきたのは、奇抜な衣装のアイリーン・フィールドだった。
「レヴィンさん、落ち着いて。これはあなたのために、やっていることなんですよ」
 アイリーンはそう言うと、ノエミに近付き耳打ちをする。取調室じゃ話が全て録画されていて都合が悪い、応接間に移動しよう。アイリーンはそう言ってきた。
 だがノエミは、アイリーンの提案に応じない。ノエミは首を横に振り、拒否する。するとアイリーンは、強硬手段に出た。
 アイリーンはにこっと笑い、レヴィンを見る。そして言った。
「あなたは容疑者じゃない。容疑も掛けられていないのに取調室に詰め込まれて、撮影されている。それってちょっと、まずいんじゃない?」
「ちょっと待ってよ、アイリーン! レヴィンは」
「レヴィンさん、ちょっと応接間に移動しましょ。私から、事情を説明するから」
 私から、の部分をアイリーンはやたら強調して言った。ノエミは機嫌を悪くし、ちっと舌打ちをする。それでも構わず突っ走るアイリーンはレヴィンの腕を掴むと、彼女を立ちあがらせる。アイリーンとレヴィンは取調室を後にし、応接間へと向かっていった。
「……ぬあああっ! さすが、生粋のASI職員ね。リッキーの同僚だけあって、やり方が強引だわ。それでいて卑怯。なんなのよ、彼女! 見損なったわ!」
 ノエミは大声で叫び、気が済むまで地団駄を踏む。それからノエミは、応接間に向かっていった二人を追い掛けた。
「ちょっと待ちなさいよ、アイリーン!」
 現在キャンベラ市に設置された無数の監視カメラでは、怪現象が起きていた。
 監視カメラAには、ラーナーを連れ去るレヴィンの姿が映っている。
 監視カメラBには、ラーナーを連れ去るエズラ・ホフマン副長官が映されている。
 監視カメラCには、ラーナーが一人で道を行く姿が映っている。
 だがその監視カメラたちは、別々の場所にあるわけではない。映像の時間帯が異なっているわけでもない。映像は、同じ通りを、同じ時間に、それぞれ別の視点から撮影していたのだ。なのに、カメラ毎に映っているものが違っている。
 科学では説明できないことが、起きていたのだ。
 だが目撃証言は、全て一致していた。ラーナーを見たという人物たちは、誰もが口を揃えてこう言った。彼の車椅子を押していたのはレヴィンだ、と。
 なら目撃者たちが、口裏合わせをしていたのか? いや、それは考えられない。十三人いる目撃者たちには、誰にもどこにも共通点がないからだ。年齢層だって、性別だってバラバラ。十七歳の汚い身なりをした家出少年も居れば、九十四歳のセレブなマダムも居た。
 口裏合わせなんて、到底できっこない。だとしたら、人の目にはそう見えていたと考えるのが筋だ。しかし機械の目は誤魔化せなかった。……または、機械がエラーを起こしたともいえる。
「アイリーン、レヴィン! 待てって言ってんでしょ!!」
 どうなってんのよ、この犯人。頭を抱えるノエミが悲鳴を上げていたとき、連邦捜査局にやってきたカルロ・サントス医師がこう言った。
『犯人は間違いなくエズラ・ホフマン副長官だ。だが彼を人間だと思うな。別人になり済ませるモンスターだと思え』
 相手がモンスターであると思えば、そこからはもう何でもアリだ。「現実的じゃない」なんて言葉は意味を失くし、「とにかく彼が犯人なんだ」という言葉だけが明確な意味を持つ。
 立証? そんなものは後でどうにでもなる。
 けれどもその前には、容疑者を一人に絞るという作業が必要だったのだ。
「ねぇ、アイリーン! 止まってよ、アイリーン! あんた歩くの速すぎるわ!」
 となると目撃証言が出てしまっているレヴィンという存在は、とても邪魔だった。
 その時間帯、レヴィンは局に居た。そんな明確なアリバイがあれば、彼女は容疑者から外される。だから連邦捜査局は彼女を容疑者から外すため、局に連行したのだ。
 ……けれども詳しい事情を、連邦捜査局はレヴィンに説明していなかった。その所為でレヴィンは混乱し、取り乱している。それを見かねたアイリーンが、痺れを切らしたというわけだ。
「いい、レヴィン。よく聞いてね。あなたは六時間前からずっと、ここに居たでしょう。取調室に閉じ込められて、どうでもいい雑談だけをされていた」
「……ええ、そうです」
「その点が今、とても大事なの」
 脚長のノエミが追いつけない速度で廊下を歩くアイリーンは、歩きながらレヴィンに説明する。
「四時間前、あなたになりすました人物がホテルにチェックインした。パトリックを連れた、あなたがね。けど本物のあなたは、ずっとここに居た」
「待ってください、アイリーンさん。パトリックが、どうしたんですか」
「彼ね、凶悪犯に連れ去られたの。あなたになり済ました、凶悪犯に」
 レヴィンの顔が青ざめていく。それでもアイリーンは言葉を続けた。
「凶悪犯の罪を被って、投獄されたくないでしょ? だからお願い。パトリックが救出されるまでは、この局の中に居て。連邦捜査局もあなたが犯人じゃないってことは分かってるから、ここから出したくないの。この中に居れば、あなたには明確なアリバイができる。カメラ映像つきの、完璧なアリバイが」
「なら私は、どうすれば」
「取調室に戻るの。そこでノエミ・セディージョ特別捜査官のお喋りの相手をして」
「……」
「パトリックだって、あなたが無実の罪で投獄されることを望まないはずだよ。だって彼、あなたのことが好きみたいだから。だから、お願い。協力して」
 アイリーンはそう言うと、歩みを止める。レヴィンは不安げな表情で、アイリーンの目を見つめる。するとやっと追いついたノエミが、捲し立てるように言った。
「レヴィン、今すぐ取調室に戻って! それとアイリーン、こんなことはもう二度としないで!!」


+ + +



 そしてカルロ・サントス医師が、ホテルのフロントでコンシェルジュと話していたころ。ホテルの4032号室に監禁されていたラーナーは、口を閉ざしていた。
「……」
 半開きの目と、どこを見ているのかも分からない焦点の合ってない瞳は、彼が解離症状を起こしている証。意識は何処かに飛んでいて、目の前の現実を見て居なかった。
 朝の八時。ASI本部を後にした彼は、まっすぐ自宅に戻ろうとした。WACEが用意してくれた、アイリーンと共に暮らしているあの家に。なんだか疲れ切っていて、体がだるかったから。すぐに寝ようと、そう思っていた。
 そうしたら目の前に、レヴィンが立っていた。長い金髪を風になびかせ、色っぽく笑うレヴィンが立っていた。けれどもラーナーはすぐに気付いた。目の前に居るのはレヴィンじゃない、と。本物のレヴィンとは雰囲気がなんとなく違っていたし、なにより殺気が漂っていたから。そして気付く。彼の正体は、エズラ・ホフマン副長官だと。
 ラーナーはその場から立ち去り、逃げようとした。だが抵抗したところで、無駄だった。車椅子の操作権を奪われてしまえば、両脚がないラーナーには逃げる手立てがなくなってしまう。
 だから車椅子は、嫌だったんだ。そう悪態を吐いてみたところで、助けてくれる人など誰も居ない。そのまま連れ去られ、ホテルの一室に放り込まれた。
 車椅子から突き落とされたラーナーは、壁に背中を預けて、床に座っていた。腕は投げ出され、顔は下を向いている。
 すると白髭の男――死んでいなかったエズラ・ホフマン副長官――が言った。
「お前がバーソロミュー・ブラッドフォードから受け取った手帳は、どこにあるのかと聞いている。そろそろ、答えたほうがいいんじゃないのか」
 いつかアーサーが持っているのを見た拷問器具が、今はラーナーの前にずらりと並べられている。
 ナイフのようなもの、ペンチのようなもの、用途が分からないもの……。それらの前に立つ副長官は、苛立ちに満ちた声で言った。
「一冊の手記と、五冊の手帳があったはずだ。リチャード・エローラの手記と、ブリジット・エローラの日記。君はその価値を知っているのかね、ラーナー」
 副長官はずらりと並んだ拷問器具の中から、手術用のメスに似た形をしたナイフを取る。彼はラーナーにゆっくりと近付くと、ラーナーの柔らかい頬のうえにナイフの刃を滑らせた。
 ナイフが滑ったあとには、赤い線が続く。やがて線からは、真っ赤な血液がぷつぷつと滲み出た。紙で指先を切った時のようなひりつく痛みが、涙腺を刺激し、涙を誘発する。
 ラーナーの半開きの目には涙が滲み、零れた。しかし彼自身は痛みを感じていなかったし、それが痛みだと理解していなかった。
「リチャード・エローラの手記は……まあ、そこまでの価値はない。うぬぼれに満ちた老人の、先入観により書かれた見当違いのものだからだ。しかしブリジット・エローラは違う。彼女は、あの男をよく観察し、理解していた。彼女により記された分析は、あの男を扱う際に大いに役に立つことだろう。いうなれば、あの男の取扱説明書みたいなものだ」
 ラーナーの頬を切ったナイフを、副長官はラーナーの左下腹部に突き刺す。それでもラーナーは、何も言わなかった。何も反応を示さなかった。
「元老院の猟犬、ジェド。またの名をアルファルド。彼は我々のために、非常によく働いてくれているよ。主人格の時は、な」
「……」
「だが別人格となってしまえば、彼は我々の指示に従わなくなる。飼い主の手に噛みついてくるのだよ。ジェドは非常に優秀な猟犬で、我々としても手放したくはない。だがそのジェドが持っているもう一つの人格は、あまりにも厄介なのだ。だからこそ我々は、そのもう一つの人格をも従えなければならない。その為の鍵が、ブリジット・エローラの手帳なのだ」
「…………」
「ペルモンド・バルロッツィ、あの人格はあまりにも危険だ。道具の本分を弁えていない。道具に感情は要らない、道具に善悪を計る物差しは要らない、道具に自由意思は不要なのだ。にも関わらずあの男は、自由意思を欲し、主君に背こうとする。意思を、挫かねばならんのだ」
 副長官は、ラーナーに説明をする。しかしラーナーはそれを聞いていない。意識と無意識の狭間を彷徨うラーナーは、何も見ていなければ、何も聞いていないし、何も感じていなかった。
 だが白髭の老人は、何も分かっていなかった。副長官は、ラーナーがすっとぼけているだけだと認識していたのだ。舌打ちをする副長官は拷問器具を片付けると、次は大きな機械を持ってくる。錆びついた刃の、チェーンソーだった。
 副長官はラーナーに、チェーンソーを見せつけた。電源をオンにし、高速で回るノコギリ状の刃を、ラーナーの顔の前に持っていく。ラーナーは反応を示さない。ウィーン、ウィーンと鳴くチェーンソーの独特の音にも、反応しない。そしてチェーンソーが自分の右腕、肩口にめり込んでも、声を上げず、泣きもせず、動かなかった。
「……パトリック・ラーナー。お前は一体、何なんだ」
 チェーンソーの刃が骨にあたり、削りはじめる。ラーナーが着ていた白いYシャツは、赤くなる。血肉が飛んだ。骨の粉が、おがくずのように床に積もっていく。
 それでもラーナーは、動かなかった。
「手帳の在り処を言えばそれで良いのだぞ、ラーナー」
「……」
「なにもアーサーに、そこまでの忠義を誓わなくてもよいではないか」
「……」
「イーライ・グリッサムが襲撃した、かつてのお前の自宅から押収した品を散々探したが、手帳は何処にも無かった。そしてお前が今暮らしているあの家の中も探したが、見当たらなかった。お前はどこに、あの手帳を隠しているんだ」
 ついに骨が切断された。残された皮膚と筋肉だけで辛うじて繋がる腕は、だらりと垂れて揺れている。
 副長官は、手帳の在り処が知りたいだけだった。それが、ここまでやることになるとは。正直、彼も想定していなかった。
「パトリック・ラーナー、答えろ。お前は四時間、よく耐えた。だがそろそろ、限界だろうに。これでは体が持たないだろう。アーサーのために、お前は死ぬというのか?」
 ラーナーは答えない。動かない。何にも反応しない。脳死の患者のように、ぴくりとも動かなくなっていた。
 そしてついに、右腕が床に落ちる。
「手帳の在り処を言え、言うんだ!」
 一冊の手記と四冊の手帳は、アイリーンが持っていた。彼女しか知らない安全な場所に、保管してあるのだ。そして①と銘打たれた手帳だけ、カルロ・サントス医師が持っていた。どちらにせよ、ラーナーの手元にはなかった。それにラーナーは、具体的な在り処を知らなかった。
 カルロ・サントス医師が今、どこに手帳を隠しているのか。アイリーンしか知らない安全な場所とは、どこなのか。ラーナーが知っているわけない。それなのに黙りこくっているがため、情報を握っていると誤解されたのだ。
 知り得ていない情報のために右腕が今、失われた。ラーナーの意識がないうちに、切り落とされてしまったのだ。
「ラーナー、答えろ! 答えるんだ!」
 チェーンソーを下ろすと、副長官はラーナーの胸倉に掴みかかる。ラーナーの耳元で彼は怒鳴り、捲し立てた。それでもラーナーは動かない。何も喋らなかった。
 そうこうしていると、部屋のドアがノックされる。驚いた副長官が振り返ると、既にドアは開いており、部屋の中には人が入っていた。
「よぉ、エズラ。そんな状態じゃ、怒鳴ろうが揺すろうが何しようが、そいつは喋らないぞ。意識がどこかにぶっ飛んじまってる」
「……ジェド、何故お前がここに」
「そうだな……。血のにおいがしたからじゃないのか? なんせ猟犬は鼻がいいもんで。新しい獲物が無いかを探してたのさ」
 ジェド。そう呼ばれた男はドアをそっと閉めると、上っ面だけの笑みを取り繕う。そして緑色の瞳でぐったりとしたラーナーを見て、チェーンソーを見て、エズラ・ホフマン副長官を見る。それから、彼は言った。
「そろそろ、時間だ。連邦捜査局と精神科医の二人組が来る」
 男は、黒のトレンチコートを着ていた。コートの丈は長く、裾はふくらはぎをすっぽりと隠している。そして頭には黒の中折れ棒を被り、黒縁の眼鏡をしていて、両手に黒革の手袋をしていた。あと鷲鼻で、不精髭を生やしている。彼はペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚によく似ていた。
 だが、少しだけ違っていた。高位技師官僚の瞳はくすんだ蒼だったのに対し、その男の目は緑色だった。それも美しく輝くエメラルドのような、澄んだ緑色だったのだ。
 そしてジェドは間合いを詰めながら、副長官に言う。
「言われたとおり、サー・アーサーには眠ってもらったよ。手古摺る相手だったが、今は埃の中で気を失ってる。目覚めるのは二時間後ってなとこだろう」
「そうか。よくやった」
 副長官は満足そうに笑い、ジェドから目を逸らす。その直後だった。
「……けどよ。今の俺は最高に不機嫌なのさ」
 チェーンソーに手を伸ばしたジェドは、それを掴み、振り上げた。回転していないチェーンソーの刃が、副長官に突き刺さる。背中から差し込まれた刃は胴を貫通し、腹から顔を出していた。するとジェドは言った。
「犬には玩具が必要だ。噛み付けて引きちぎれる玩具がな。それを今お前は、壊したんだ」
「……ジェド。お前は、何を……」
「この可愛い少年、気に入ってたんだけどなぁ? どうしてくれんだよ、エズラ。なぁ、おい」
「……お前は元老院に、反抗するつもりか……」
「元老院じゃない、お前にだ。前から思ってたんだよ。お前のことが好きになれないってな。それに俺は、勝手気ままなペルモンドも嫌いじゃないんだ。これ以上ペルモンドを痛めつけんなら、俺はお前を噛み殺す。エリーヌ嬢も、可愛いしな。彼女に手を出そうもんなら、許さねぇぞ」
 にたにたと笑うジェドは、副長官の体に刺したチェーンソーを、これでもかと更にねじ込む。副長官は痛がる素振りを見せるが、彼の体から血が滴るようなことはなかった。
 最後に副長官はジェドを睨みつけると、消え失せる。アーサーのように、煙となって消えていった。ジェドは舌打ちをした。
 するとジェドは緑色の目で、動かないラーナーを見下ろす。ジェドはポケットからハンカチを取り出すと、ラーナーの横に膝をついた。それから彼はハンカチを軽く 撚より、短冊のような形にする。そのハンカチをラーナーの右腕、切断面よりも少し上に巻きつけて結び、ぎゅっときつく締めた。流れ出ていた血液が止まる。
 それからジェドは黒革の手袋をはめた手で、切り付けられたラーナーの頬をぺちぺちと叩く。しっかりしろ、と彼は声を掛けるが、ラーナーの目はどこかを彷徨ったままで、視線が交わることはなかった。そしてジェドは、だるそうな声で独り言を言う。
「……何もかもが、予定通りに進んでいるな。このガキはぶっ壊され、そして精神科医により新生パトリック・ラーナーに作り変えられるってわけか。それでコイツは十五年後にアレクサンダーという少女と出会い、彼女に自分の仕事を全て押し付け、自殺する。そしてコイツを模したアンドロイドが作られる。それからオウェイン実験も無事に進み、災いの双子が生まれる。やがてカリスの怒りを買い、人類は滅亡……」
 未来が見えるってのは、あんまり良い能力じゃあねぇな。ジェドはそう言った。そんな彼の姿はいつしか小さくなっており、ラーナーの頬に触れていた手も、真黒な狼の前足に変わっていた。
「……はぁ、キミアのクソカラスめ。仕事をしやがれってんだ……」
 真黒な毛並みの狼は、人語でぼやく。狼は動かなくなったラーナーを、緑色の目で心配するように見た。それから狼は、切り落とされたラーナーの右腕を口に咥える。そして部屋から飛び出し、無人のエレベーターに飛び乗った。
「……へへっ。右腕を狼が持ち出すなんてのは、元老院が決めた未来の予定にはない。ちょいと、バグを仕込んでみるか……」
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