ヒューマンエラー

"The less you know, the better." ― 「忘却という選択肢」

 こんな、バカみたいな話があるっていうの?
 カルロ・サントス医師の自宅に来ていたノエミは、悲鳴に近い声を上げて泣き叫ぶ。すると左横の部屋に住む住民から、壁をどんどんと叩かれた。うるさい、ということらしい。
 しかしノエミは、構わずに叫ぶ。
「じゃあ何よ? エズラ・ホフマン副長官は人外で、煙のように消えるし、他人にもなり済ませるっての? コミックの世界じゃないんだからやめてよ、そういう話は! ここは現実、架空の物語じゃない! サイエンスフィクションじゃない、現実なの! 宇宙人なんかいない、モンスターも居ない、超能力者も居ない、地球に居るのは人間と動物だけ! ごく普通の、生命だけよ! なのに、どうして。こんなの、ありえるわけないじゃない!」
「なぁ、ノエミ」
「なによ!」
「頼むから、声量を落としてくれ。俺がこのマンションを、追い出される」
 右腕を切り落とされたラーナーが、トーマス・ベネット特別捜査官とカルロ・サントス医師により保護されてから、一週間が経っていた。
 連絡を受けた彼の両親、兄姉たちも全員が病院に駆けつけ、遂に左腕だけになってしまった末子の姿を見舞った。しかしラーナーは兄姉たちが何を言っても反応を示さず、彼の家族は絶望に打ちひしがれていた。
 ラーナーの母親は、息子の左腕に触れながら泣いた。父親はラーナーの頬に触れながら、こう言った。この子が、何をしたというのか。その場に立ち会っていたカルロ・サントス医師は、目を逸らすことしか出来なかった。ラーナーは両親にすら、反応を示さなかったのだから。
 そんなカルロ・サントス医師に、ラーナーの父親はこんなことを言った。
『なぁ、カルロくん。君は君の父親と違い、優秀で、まだ若いにも関わらず数多くの実績があると、聞いてるよ。だから、君の意見を聞きたいんだ』
『それは過大評価で、実際の俺は……』
『うちの息子は、パトリックは、戻ってくるんだよな? ただ疲れているだけで、壊れたわけじゃないんだろう? なぁ、そうだと言ってくれ……!』
 ラーナーの状態は、惨状なんて言葉だけじゃ言い表せない。一縷の希望もない、暗闇のどん底に居るような姿だった。そのときのカルロ・サントス医師は明言を避け、目を伏せた。そして一言、これだけを言った。
『善処します。ですが、期待はしないで下さい』
 ラーナーは辛うじて、カルロ・サントス医師とトーマス・ベネット特別捜査官、それとレヴィンの三人には反応を見せた。だが、それ以外はからきし駄目。
 だからお前は、ラーナーと会わないほうがいい。カルロ・サントス医師はノエミに、そう言ったのだ。そうしたらノエミは酒を飲み出し、この始末。号泣しながら叫ぶ彼女の姿に、カルロ・サントス医師は目も当てられなかった。
「じゃあ教えてよ! リッキーは、どういう状態なのよ!」
「昏迷に陥ってる」
「専門用語はやめて。分かりやすく説明して」
「意識と無意識の狭間を、ずっと彷徨ってるような状態だ。いや、というか意識はあるんだが、ただ……」
「早く言いなさいよ」
「声を掛けても、揺すっても、叩いても、眩しい光を目に当てても、一切反応を示さない。そういう状態だ。今までで一番、酷いってことだよ」
「……」
「俺に反応するのは、俺があいつにとって一番の理解者だから。ベネット捜査官に反応するのは、彼がラーナーを見つけて保護したから。そしてレヴィンに反応するのは、犯人が彼女の姿をしていたからだ」
「……カール……」
「ノエミ。お前には悪いが、あんなラーナーをお前に見せることはできないよ。今のあいつはただ目を開けて、息をしてるだけって状態だ。お前だって、見たくないだろ」
 通常病棟に今、ラーナーは居る。腕と腹の傷の経過を見るためだ。病室は、複数の患者との相部屋。個室にすると何をしでかすかが分からないからと、ドクター・デイヴィスがとった措置だ。
 そんなラーナーのことを同部屋の患者たちは、不気味に思っているらしく。カルロ・サントス医師に、同部屋のある男性患者は言ってきた。
『パトリックとかいうあの子は一体、どうしちまってるんだ。飯も食わないしトイレにも行かないし、俺たちが声を掛けても反応しない。ずっとベッドに寝ていて、目だけが少し開いてる。言葉は悪いが、ちょっと不気味じゃないか。それにどうして子供が、成人の病棟に』
 カルロ・サントス医師は、こう返した。あいつは子供じゃないんです、俺と同い年なんですよ、と。
『事件に巻き込まれて、右腕をほぼ根元から切り落とされたんです。その前にもあいつは、少年時代に似たような事件で両脚を失くしてて。もう左腕しか残ってないんですよ。ショックが、計り知れないんです』
『糖尿病で足を切られた俺たちとは、事情が違うってわけか』
『あれの場合、脚も腕も悲惨な事件に巻き込まれた所為で失くしてるんです。たしかに不気味かもしれませんが、察してやっちゃもらえませんかね』
『その口ぶりからすると、先生はあれの友人か?』
『そんなとこですよ。あいつは年の離れた弟ってな感じで』
『そういや厚化粧のババァも、あの子のことをよく知ってるみたいだったが』
『厚化粧のババァ?』
『ベッツィーだよ、整形外科の』
『あぁ、エリザベス・デイヴィスのことですか。デイヴィスもあいつとは、十年近くの付き合いがありますからね。まっ、宜しく頼みますわ。それと……さっきのセリフ、デイヴィスの前で絶対に言わないで下さいよ?』
 傍から見たラーナーの姿は、たしかに不気味というしか他に言葉がなかった。
 目は開いてるが、その瞳はどこを見ているのかが分からない。それに自分の意思で起き上がることはなく、瞬きの回数も少ないし、左腕を動かすこともない。日中の大半はベッドの上で横になってるだけ。ときおり様子を見に来る主治医のドクター・デイヴィスが何を言ってもリアクションを返さず、気にした看護師が車椅子に乗せ、病院敷地内に散歩に出ても、ラーナーは終始人形のように固まっているだけだった。
 そのように一人では何も出来ない状態にある彼だが、二週間後には退院が決まっている。秘密保持の観点から、アイリーンが彼の身を引き受け、面倒を見ると申し出てくれているが、カルロ・サントス医師は気が乗らなかった。精神病棟に入院させ、二週間ほど様子を見てからのほうが良いのではないか、と考えていたからだ。
 ドクター・デイヴィスとは、その方向で調整を進めている。創部の経過を見て、そろそろ大丈夫だろうという頃になったら、通常病棟から精神病棟に移そうと話をつけていた。ラーナーの家族はそれに応じたが、アイリーン、ひいてはASI側は難色を示している。現にラーナーの上司だというトラヴィス・ハイドンという人物から、カルロ・サントス医師のもとに抗議文が送られてきていた。
 一刻も早くラーナーを退院させろ。身元はこちらで引き受けるから、ASIにラーナーを渡してくれ。抗議文は、そんな趣旨が盛り込まれていた。無論カルロ・サントス医師は応じなかった。ASIにラーナーを渡したら、どうなることか。何をされるか予想ができないからこそ、恐ろしかったのだ。
 そうして抗議文を無視していると、カルロ・サントス医師のもとに今度はトラヴィス・ハイドン本人が訪れた。頼むからラーナーを引き渡してくれと、彼は懇願してきた。しかしカルロ・サントス医師は拒否した。
『無理だ。俺は連邦捜査局にちょくちょく手を貸してるし、その関係であんたらのやり方はよく知ってる。だから、今はまだ渡せないんだよ。ラーナーが万全の状態に戻ったときに、あいつ自身に判断させるさ。今は、駄目なんだ』
 しかし相手も、そう簡単には食い下がらなかった。
『ドクター、君は何かを誤解しているようだ。私たちは、ラーナーに危害など加えない。彼が何に巻き込まれていたのか、それを究明したいだけなんだよ』
 トラヴィス・ハイドンという男が言うには、ラーナーは今は亡き“ワイズ・イーグル”バーソロミュー・ブラッドフォード長官から、何か特命を受けて行動していたのだという。カルロ・サントス医師もそのことは薄々勘付いていたし、特別に驚きはしなかった。
 しかし驚いたことがあった。ASI側はつい最近まで、ラーナーが特命を受けて単独で行動していることを把握していなかったというのだ。
『……おい、あんた。あの文面の中で自分は、ラーナーの直属の上司だと書いてたよな。なのにラーナーが何をしているのか、知らなかったってのか?』
『ああ、恥ずかしながら。管理能力がないと糾弾されれば、それまでだ』
『じゃああんたは、気付かなかったってことか? ラーナーの調子が、次第に狂っていってたことに』
『そこまで私は、愚鈍じゃないさ。何度もラーナーには、声を掛けて話を聞こうとした。だがパトリック・ラーナーという奴は不器用なように見えて、狡猾な節がある。ペースを掻き乱され、何も聞き出せないうちに、あんなことになってしまったんだ……』
 トラヴィス・ハイドンは言った。ラーナーが引き受けていた任務は、ASIのものではないと。外部の組織から委託をされたのか、もしくは外部の組織に彼が引き抜かれたのか。そこで現在ASIはバーソロミュー・ブラッドフォード長官の経歴を洗っており、長官が誰から指示を受け、何をラーナーに命じたのかを調べているという。それと同時並行でエズラ・ホフマン副長官も調査しており、もしかすると二つの件は密室に絡みあっているのではないかと推測しているという。共通点はパトリック・ラーナー。それと、とある組織。
『とある組織って、なんだよ』
 カルロ・サントス医師はトラヴィス・ハイドンに尋ねたが、彼は詳しいことは何も言わなかった。しかしヒントはくれた。
『アイリーン・フィールド。あの女が所属している組織だよ』
『……アイリーンだって? 彼女は、ASIの局員じゃ』
『彼女は局員じゃない。うちと協力関係にある、とある特務機関のメンバーだ。そしてラーナーは、その特務機関に協力していたのではないかというのが、暫定の結論だ。才覚は十分にあるが、経験がなく即戦力だとは言えない若手の局員を、なぜ彼らが選んだのかには疑問が残るがな……』
 そう言うとトラヴィス・ハイドンは最後に、カルロ・サントス医師に忠告をした。今話したことを決して口外するな、と。カルロ・サントス医師は、笑顔で言葉を返した。
『医者の仕事には守秘義務ってのが常に付き纏う。精神科医は特にな。……俺は口が堅い。そこは信用してくれ』
 そしてASIは「真相究明のため、一刻も早くラーナーを寄越せ」と釘を刺し、去って行った。それが三日前のこと。それ以降、彼らから連絡はなかった。
 ワイズ・イーグルから受けたという特命のはなし。それと謎の特務機関のはなしに、なんでも一人で抱え込む悪い癖と、誰にも話そうとしない悪い癖。そんなラーナーの話の全てをカルロ・サントス医師は今、心の中にそっとしまっている。目の前で呑んだくれ、泣いて騒ぐノエミに打ち明けるつもりは、今はまだ無かった。
「……それでも私、リッキーに会いたい。寂しいの。あの可愛いけど憎たらしい顔を見たいの。だってリッキーは、私の可愛い可愛い弟だもの。実の妹よりもよっぽど可愛い、私の弟! 節操がなくて男にだらしないイメルダなんて妹、いらない! パトリックって名前の弟が欲しい!」
「俺にとっても、それは同じさ。フェルナンドなんていう金の無心ばかりしてくる弟より、美人でも演技が上手いわけでもないのに、映画スターを夢見て無謀な家出をしていったマルシアなんて妹より、ラーナーのほうがよっぽど可愛らしいってもんさ……」
 目を赤くし、鼻をずるずると啜るノエミの前にそっと、カルロ・サントス医師はティッシュペーパーの箱を置く。それから彼は、今日初めてのビール缶を開けた。
「ラーナーは、冗談抜きで可愛くて、愛らしい奴だ。無条件で守りたくなる何かを、あいつは醸し出してる。……そこがいつも、仇になってるんだろうがな」
 箱からティッシュを引き抜くと、ノエミは盛大に鼻をかむ。色気も女らしさも恥じらいも何もないその姿に、カルロ・サントス医師は呆れかえった。
「……お前よりもラーナーのほうが、女子力が高かったな」
「どうして比較対象が、いつもリッキーなのよ!」
「ラーナーは、音を立ててみっともなく鼻をかんだりしなかったぞ」
「……うっ」
「お前みたいに泣き叫んだりしなかったし、お前よりあいつのほうが手料理は旨いし。それにあいつは、綺麗好きだった。ゴミ屋敷に住んでるノエミ・セディージョと違ってな」
「……うぐっ」
「ノエミ、お前の中身は後先考えずに突っ走るやんちゃな成人男性なんだよ。だから女として見れない。それに対してラーナーは、常に受け身なティーンの乙女だった。だからあいつをどう見ていいのか、俺はいつも困っていた。まっ、その、なんというか、うむ……。お前とラーナーは、ぴったりのコンビだと思うぞ?」
「フクザツだわ。褒められてるのか何なのかが、よく分からないって感じ」
 ノエミは九缶目のビールを空にし、中年男性のようなげっぷをしてみせる。カルロ・サントス医師は、ノエミから視線を逸らさざるをえなかった。





 少し体を動かすたびに、彼は呻き声を上げる。そんな彼の介抱にあたっていたアイリーンは、呆れきった顔をしていた。

「あんね、サー。あなたはたしかに不死身よ。つーか既に死んでるリビングデッドだから、これ以上死にようがない。でも無茶をしないで。あなたは生まれつきの不死身であるペルモンド・バルロッツィと違って、回復力は普通の人間と同じなの。だから無理をしないで、じっとしてて。お願いだから暫くの間、大人しくソファーで寝てて」
「すまない、アイリーン。今回ばかりは本当に、不甲斐ない……」
「だって、無理があるっしょ。相手はペルモンド・バルロッツィ。元老院の猟犬、腕利きの暗殺者だよ? 決して体育会系だったとはいえないサーが、拳でぶつかって勝てるわけないじゃん。なに考えてんのよ。だからアタシはいつも、銃っていう武器を使って遠距離から攻撃しなさいって言ってるのに。サーベル二本で軍の大隊ひとつを壊滅させる能力を持ってるヤツ相手に、接近戦じゃ勝ち目無いに決まってるじゃん。ケイのじーちゃんも、そう思うよね」
「……」
「ほら、じーちゃんも頷いてる」
「……だが、あの時は不意打ちだったんだ。ペルモンド・バルロッツィの姿で、丸腰で協力を求めてきたかと思った瞬間、奴は黒狼ジェドに変貌した。大柄の狼に襲われたんだ。久々に死ぬかと思ったよ」
「大丈夫。サーは死なないから」
 サングラスも着用していなければ、真黒な背広も着ておらず、Tシャツにジャージと非常にラフな服装をしていたアーサーは、アイリーンの言葉に苦い表情を浮かべる。そんな彼はペルモンド・バルロッツィ、もしくはジェドの襲撃を受け、肋骨を三本ほど折られていた。
 どこともしれない地下空間に設けられた、WACEの本部(仮)。薄暗い闇の中、安物のソファーの上に横たわるアーサーは、アイリーンに尋ねた。
「アイリーン。ところでラーナーは、どうなった。彼は無事か?」
「ちょっと、それがね……」
 言葉を濁そうとするアイリーンを、アーサーは瞳孔の無い薄気味悪い瞳で凝視する。その視線に少し体を震わせたアイリーンは、ぽつぽつと状況を報告した。
「ほら、サーのもとにペルモンドのジジィが来たでしょ。で、あいつが聞いてきたじゃない。ラーナーはどこにいるって」
「ああ。それがたしか、午後の八時頃で……」
「そのときにはもう、パトリックはエズラに捕まってたの。ペルモンドのジジィは、サーの足止めに来ただけ。で、パトリックは酷い目に合わされてさ。右腕をチェーンソーで、エズラに切り落とされたの。それで今、ドクター・デイヴィスが義手の作成に取り掛かってる」
「……!?」
「はぁ……――これも全部、アタシの落ち度だよね。当初は本当に才能があるかどうか、彼をテストするだけのはずだったのに。パトリックがとんでもない情報を、うっかりペルモンドのジジィから引き出しちゃったもんだからさ。こんな大変な事態に発展して、挙句に彼は……。アタシがパトリックを見出しちゃったばっかりに、パトリックを酷い目に遭わせた」
 アイリーンは眼鏡を一旦外すと、溢れてきた涙を手の甲で拭う。彼女を責めることも、慰めることもしないアーサーは、今の状況だけを訊ねた。
「それで彼は今、どうなっている」
「病院に入院してる。傷の経過は問題ないそうだけど、それ以外が駄目。精神科医のドクター・サントスが、もう無理かもしれないって言ってた」
「というと、どういう状態だ」
「ドクター・サントスが言うには、解離性の昏迷だって。意識はあるけど、反応が返せなくなってるって状態。酷い例えになるけど、パッと見は脳死の患者みたいになってる。両親が声を掛けても、何も言わなくてさ。本当に、アタシ、悪いことしちゃったなって……」
「……エズラは、ラーナーから何を引き出そうとしたんだ」
「ワイズ・イーグルがずっと持ってた、あの手帳。ブリジット・エローラの日記、五冊。パトリックが手帳をワイズ・イーグルから受け取ったもんだから、狙われちゃったんだ。手帳を出せ、保管場所を教えろって。でもあの時、パトリックは手帳の在り処を知らなかった。だって手帳は、アタシが管理してたんだもの。それなのに、知らない情報のせいでパトリックは、右腕を……」
 どれだけ涙を拭っても、アイリーンの目から新しい涙が零れていく。流石にこれ以上、訊くのは酷か。そう判断したアーサーは、アイリーンの横に立っていたケイに視線を送る。するとケイは、近くに置いてあったスケッチブックとサインペンを手に取る。スケッチブックの表紙をめくると、ケイはそこにサインペンで文章を書く。それをアーサーに見せた。
『黒狼ジェドというのは、何だ?』
 スケッチブックには、そう書かれている。アーサーはその問いに答えた。
「正確なことは言えないが……??あの男の中には、ふたつの魂が存在しているという。片方は、元からあの体に定着していたもの。私たちもよく知っている、ペルモンド・バルロッツィだ。そしてもう片方は、とある都合により翼をもがれ、堕とされた天使だという。それが狼のジェド。キミアが言うには、もとは灰色だったが、黒と白に分かたれたそうだ。ペルモンド・バルロッツィの中に居るのは、黒い狼のジェド。その狼こそが、元老院の猟犬。つまりペルモンド・バルロッツィは元老院の猟犬ではないらしい。ペルモンドを恨むのは見当違いだと、キミアには釘を刺されたよ。……だとしても、ペルモンドという男がクズ野郎であることに変わりはないがな」
 するとケイは、またスケッチブックに文字を書く。
『天使? 神族種の話はよく聞くが、天使は初耳だぞ』
「私も昨日、キミアから聞かされたばかりでな。どうやら天使というのは、神族種とは別物らしい。聖書の天使とも違うそうだ。灰狼のジェドの他にも天使はいるらしく、白獅子のパヌイ、信天翁あほうどりのギル、大蜥蜴おおとかげのペクト、海豚いるかのカプス……――何が何だか、さっぱりだ。かつて漠然と信じていた現実は、一体なんだったのか……」
『今に始まったことじゃないだろう、サー。都市伝説の存在である特務機関WACEには、超常現象が付き物だ』
「パラノーマル、スーパーナチュラル……。まったく、嫌にもなるよ」
 超能力者で不死身のお前が、それを言うのか。
 ケイはそう言いたげな目で、アーサーを見る。起き上がろうとしたアーサーは、ソファーから上体を少し浮かび上がらせた。するとアーサーは、呻き声を上げる。アイリーンは涙を拭いながら、そんなアーサーに声を掛けた。
「サー、だから動かないでって言ったでしょ。怪我人は動かずに、大人しくしてなさい! ケイのじーちゃん、やっぱコルセットを持って来て!」

 



 精神科部長、ブルース・ケレット。彼は受け取った退職願を、びりびりと破き、引き裂く。退職願を提出した人物――カルロ・サントス医師――は、その様子を冷や汗を手に握りながら観ていた。
 そして精神科部長は言う。
「……サントス。今、君に辞められたら困る。それくらい分かるだろう」
「まあ、そりゃ、その、そうですけど。俺にも事情ってもんが」
「君はこの病院で、最も患者から好かれている精神科医だ。君が受け持っていた患者たちが、君が辞めたことを知ったら、どうなる? 見捨てられたという不安に駆られ、患者が自殺でもすれば、君は責任を取れるのか」
「患者を持ち出すなんて、卑怯ですよ」
「だから、退職は認めん」
 なんてブラックな病院だ。カルロ・サントス医師は顔を強張らせる。すると精神科部長は、とある書類をカルロ・サントス医師の前に差し出した。
 そして精神科部長は、カルロ・サントス医師に言う。
「ここに、名前を書くんだ。それと自宅の住所、連絡先も」
「……どういう風の吹き回しです?」
 カルロ・サントス医師は首を傾げる。見たこともない書類だったからだ。
 見た感じは休暇届のようだが……――何かが、微妙に違っている。すると精神科部長は言った。
「退職は認めん。しかし、だ。長期休暇なら許可しよう。辞めたとなれば患者は混乱するが、一時的な休暇だと言えば患者も納得してくれるさ」
「で、この書類は?」
「お前の性癖は、この病院に勤める医師なら誰でも知っている。だから、だ」
 性癖って……。カルロ・サントス医師は怪訝そうな表情を見せるが、書類を見るなり納得した。休暇取得理由の欄には『育児休暇』と書かれていたのだ。
「幼い子供を連れたシングルマザーと婚約したから、一年半ほど育児休暇を取ると申請すれば、誰も疑問に思わない。お前の場合ならな。それに育休なら、少額だが手当も出る。しかし退職してしまったら、手当も出ない。復職も容易ではないぞ。……だとしたら退職より、休暇の方がいいんじゃないのか?」
「部長……!」
 カルロ・サントス医師はボールペンを取ると、秒速で書類にサインをした。そうして書類を、すぐに部長に提出する。カルロ・サントス医師は目を輝かせ、精神科部長はしたり顔をした。
「前から思ってたが、アンタ最高の上司だぜ!」
 書類を出したカルロ・サントス医師は、今度は精神科部長に手を差し出して握手を求めた。精神科部長は、差しだされた手を握る。それから精神科部長はカルロ・サントス医師の目を見て、言った。
「詳しい理由は、敢えて聞かないでおく。頑張れよ」
「Yes, sir!」
「それとだ。弟分を絶対に治せと、ドクター・デイヴィスが言ってたぞ」
 したり顔の精神科部長は、カルロ・サントス医師の驚く姿を満足そうに見ていた。弟分。その言葉に反応したカルロ・サントス医師は、図星だという顔をしている。
 この度カルロ・サントス医師が休暇を取得した理由を、精神科部長は聞かずとも理解していたのだ。弟分、つまりパトリック・ラーナーの面倒を見るということに。
「バレてたって、わけですね……」
「君が、彼を放っておくとは思えなくてな。案の定、というわけだな」
「はははっ、そうです。まさに、その通り……」
 纏っていた白衣を脱ぎながら、カルロ・サントス医師は言う。それからカルロ・サントス医師は、右腕の手首にはめていた腕時計を見た。現在の時刻は午前一〇時十四分。アイリーンとの待ち合わせ時刻まで、二十分もない。
「部長。ちと時間がないんで、もう帰っても?」
「引き継ぎは?」
「全て、済ませてあります」
「そうか、なら急げ」
 カルロ・サントス医師は手早く荷物をまとめる。そんな彼の背を、精神科部長は励ますように叩いた。
「一年と半年後、必ず戻ってこい。それと病者には、あまり」
「のめり込むな、ですよね。分かってますよ、勿論。それじゃ、また今度」
 そしてカルロ・サントス医師は、病院を去る。精神科部長はその背中を、黙って見送っていた。


* * *



 早朝のキャンベラ市内。ランニングウェアを着た壮年の男ふたりが、道を走っている。手前の男は無心で、一定のペースで走り続けている。対して後ろの男は、徐々にペースを上げていた。手前の男に、追いつこうとしているようだ。
 やがて後ろの男が、手前の男のすぐ横に並ぶ。後ろの男が、手前の男の肩を叩こうとした……――のだが。
「さっきから尾行をしているようだが、貴様は何者だ」
 肩に指先が触れた瞬間、手前の男は一瞬で振り返り、後ろの男の脚に足を掛け、道端に投げ飛ばした。
 後ろを走っていた男は背中から地に落ち、呻き声を上げる。前を走っていた男は、地面に落ちた男に拳銃を向けた。それから地面に落ちた男の顔を見るなり、彼――未だに長官代行という肩書を背負わされている、トラヴィス・ハイドン部長――は、すぐさま拳銃をしまった。
「誰かと思ったらお前かよ、トム……。怪しまれるような行為は控えろ。襲われるかと思ったじゃないか」
 地面に背中から落ちた男――トーマス・ベネット特別捜査官――は、苦笑う。それから彼はトラヴィス・ハイドン部長の手を借り、ゆっくりと立ち上がった。
「そりゃこっちの台詞だぜ、トラヴィス。お前に殺されるかと思ったよ」
「悪く思うな。これがASI流の挨拶なんで」
「過激な挨拶だな。俺たち連邦捜査局の場合、挨拶はミランダ警告だぞ?」
 まさか、朝一から蹴り飛ばされることになるとは。痛む腰をさすりながら、トーマス・ベネット特別捜査官は呟く。彼は立ちあがると、トラヴィス・ハイドン部長の横に並んだ。
 二人の男は走るのをやめ、同じペースでゆっくりと歩く。それから他愛無い世間話を彼らは始めた。
 先に口を開いたのは、トーマス・ベネット特別捜査官だった。
「そういやノエミから、一年半ぶりにパトリックが復帰したと聞いたんだが。パトリックの調子はどうだ。大丈夫そうか?」
 するとトラヴィス・ハイドン部長は腕を組み、顔を強張らせる。それからトラヴィス・ハイドン部長は、絞り出すような小さな声で言った。
「……そうだな。心配には及ばない。ラーナーは至って、元気だ。すぐに職場に慣れてな。まあ、しかし……」
「ど、どうかしたのか?」
「ラーナーの同僚たちは皆、ラーナーの復帰を待ち望んでいた。私も、そうだった。だが、ラーナーは見事にその期待を裏切ったというか、周囲を幻滅させたというか、うぅむ……」
「裏切った? 同僚の名前を、全部忘れたとか?」
「いや、そうじゃなくてな。一部の記憶が欠落しているが、それ以外はこれといった異常もなく、そこが却って不自然で……」
「なら、どうしたんだ」
「いうなれば今のラーナーは、新生パトリック・ラーナーだ。……かつてのパトリック・ラーナーとは、別人だと思ったほうがいい」
 首を傾げるトーマス・ベネット特別捜査官は、トラヴィス・ハイドン部長の顔を覗きこむ。トラヴィス・ハイドン部長の顔色は酷く、彼はまるで悪魔でも目撃したかのような目をしていた。
 そしてトラヴィス・ハイドン部長は、話を続ける。
「新生パトリック・ラーナーは、恐ろしいぞ。気を抜くと、すぐに心を読まれる。そして延々と喋り続け、場の主導権を握ってしまうんだ」
「……俺が知ってるパトリックは、あまり口数が多くない気がするんだが?」
「ああ、そうだ。だから私は今、ラーナーの扱いに困っている」
「…………」
「饒舌に喋るようになった所為で、尋問の才能には磨きがかかってしまったよ。多分、今のラーナーはASIで一番の尋問官だ。お前もラーナーには、細心の注意を払ったほうがいいぞ」
 はぁ、とトラヴィス・ハイドン部長は重い溜息を吐く。それから彼は、とどめの一言を放った。
「今のラーナーにとって、可愛いのは顔だけだ。中身は、悪魔だよ。工作員の鑑だ、あれは」
「悪魔……!?」
「連邦捜査局に居た頃のような正義漢は、今のラーナーにない。今のラーナーは、まさしくサイコパスだよ」
 トーマス・ベネット特別捜査官は背中をぶるりと震わせ、こんなことを呟いた。
「ドクター・サントスがパトリックを治したと聞いたんだが、彼はおかしな方向にパトリックを矯正しちまったのか……?」




 そのころ。ブリーフ姿のカルロ・サントス医師は、自宅でくしゃみをしていた。その姿を、右腕に義手を装着したラーナーは、冷めた目で見つめている。
「早く服を着ろよ、変態。ブリーフ一丁とか、みっともないにも程があるぞ」
「ラーナー。お前こそ、さっさと支度をしたらどうだ」
「やってますよ。ただ、ネクタイが結べなくて……」
 鏡の前に立つラーナーは、シャツの襟周りにぐるりと回したネクタイと格闘していた。精巧に作られ、一目見ただけでは本物の腕と見間違う義手をぎこちなく動かし、ネクタイを結ぼうとする。しかし、うまくいかない。結ぼうとするたびに、ネクタイは右手からすべり落ちるのだ。
 鏡には、むっとするラーナーの顔が映っていた。すると後ろから、ブリーフ姿のカルロ・サントス医師が近付く。こっちを向けよ、ラーナー。カルロ・サントス医師はそう言うと、ラーナーの首からだらりと垂れたネクタイを掴んだ。
「完全復活とは、まだまだ言えないか」
「……」
「まっ、それもしゃーないわな。頭を打って、暫く動けなくなってたんだ。脳機能の回復には、もう少し時間が掛かる」
 カルロ・サントス医師は手早くネクタイを結ぶ。この一年半、ずっと言い続けた嘘をまた塗り重ねると、彼はラーナーの背中を押した。
「ほらよ、行って来い。調子が悪くなったら、すぐに俺に電話するんだぞ」
「……分かってますって」
 右腕を切られた、あのあと。通常病棟から精神病棟に移し、二週間ほど様子を見たが、もとのラーナーが戻ってくることはなかった。
 そしてカルロ・サントス医師が出した結論は、あのとき自分の父親クストディオ・サントスが出した結論と同じだった。
『パトリックにとって過去の記憶は、障害にしかなり得ません。過去を掘り起こせば掘り返すだけ、彼は内に籠ってしまう。……解離というのは本来、防衛本能から起こるものです。この場合、防衛本能に任せて、忘れさせるという選択が最善だと、俺は考えます』
 退院の日の前日、精神病棟に訪れたラーナーの両親に、カルロ・サントス医師はそう告げた。それは精神科医としてではなく、友人のひとりとしての意見だった。
 しかし、彼の母親は泣きながら反論した。
『過去があっての、今なんです。嫌な思い出も含めて、全てが今に繋がっていて、それが彼を作ってるんです。その方法じゃ、戻ってくるのは私の愛した息子パトリックじゃなくなる。十年前に治療をやめたときだって、戻ってきたのは心優しい息子じゃなかった。生き残るためなら、他者を平気で脅して傷つけるような子だったんです! パトリックは何も言ってこなかったけど、高校時代に彼がやってきたことを、私はすべて知ってるんです。だからパトリックを、元に戻して。私の息子を、返して!』
 けれども彼の父親は、涙を堪えながら言った。
『あの子が抱えているのは、嫌な思い出なんていう生温いものじゃない。辛い出来事、心の傷そのものだ。その傷があるばかりに、息子の笑顔が二度と見れなくなるなんて、俺にはとても耐えられないよ。頼む、息子を治してくれ。完全に、元に戻らなくてもいい。親が見たいのは、子供の笑顔だ。息子のあんな姿を、これ以上見てられない……!』
 時に解離を扱う治療者には、選択が求められる。目の前で苦しんでいる患者に、忘れている過去を思い出させるべきなのか。この防衛本能を、無理矢理に治す必要性があるのか。
 全てを覚えていることが幸せとは、限らない。忘れていたほうが、よっぽど生きやすいことだってある。そのほうが、よっぽど幸せなことだってある。だからカルロ・サントス医師は、忘却という選択肢を選んだ。
 それにカルロ・サントス医師の初恋の相手、詩人だった女性は、かつてこんな詩をカルロ・サントス医師に送ってきた。

  真実が、いつでも幸福な結末であるとは限らない。
  寧ろ、そうでない場合のほうが多いともいえる。
  時に真実は、納得のいかない筋書きであることもある。
  時に真実は、明白と目に見えていた
  ありのままの現実の姿であることもある。
  時に真実は、何も生まないことがある。
  時に真実は、不幸しか生まないこともある。
  時に真実は、知らなければ良かったことでもある。
  しかし人は真実を追い求める。
  そして大半の人は、真実に呑まれて破滅していく。 
  ならば真実を知らないほうが、幸せなのではないか。
  暗闇を覗き見ずとも、人は生きていけるのだから。


 それからカルロ・サントス医師は、治療の方針を転換した。ラーナーの家族にはこう伝えた。彼の過去を記録しているものは、処分しろとまでは言いませんが、彼の目につかない所に隠しておいて下さい、と。そうしてカルロ・サントス医師は、パトリック・ラーナーの過去を塗り替え、作りかえることにしたのだ。つまり洗脳を施したのだ。
 カルロ・サントス医師は、ラーナーから彼の身に起きた全ての事件の記憶を消した。両足と右腕がないのは生まれつきだと、ラーナーに言い聞かせた。イーライ・グリッサムが自宅を襲ったことは言わず、無かったことにした。右腕を切り落とされた事件を思い出させないため、レヴィンの存在も忘れさせた。
 ASIから謹慎を食らったのは、連邦捜査局のとある特別捜査官に些細な喧嘩を売った――ノエミ・セディージョを「ブス」と罵った――からだと教え込んだ。
 病院に長期間入院していて、今もこうしてカルロ・サントス医師の自宅で療養しているのは、階段から足を滑らせて頭を打ち、一時的に昏睡状態に陥っていたからだと説明した。
 ラーナーはカルロ・サントス医師の言葉を、全て信じた。彼にとってもそれが、都合の良い“真実”だったから。筋も通っていて、モンスターも登場しないから現実的で、納得のいく話だったからだ。
 そうして一年半、カルロ・サントス医師は嘘を塗り重ね続けた。そして嘘を、真実にすり替えたのだ。
「あぁっと、ラーナー。ハンカチは持ったか?」
「持ってます。子供扱いしないで下さい」
 人間に生じたエラーを修復するために、記憶コードを一部書き換える。
 倫理という観点から見れば、その行為は決して褒められたものじゃないだろう。ラーナーの母親が言っていたように、人間には過去があって、それが今に繋がっている。記憶を消し、過去を断絶してしまうというのは、その人物をなすアイデンティティを否定することに繋がってしまうのだ。
 けれども、そうだとしも。カルロ・サントス医師は、ラーナーの父親と同じで、これ以上は耐えられなかったのだ。ラーナーの、あんな姿を見せられ続けることに。
 友人としてのカルロ・サントスが見ていたいのは、パトリック・ラーナーの笑顔だった。悲しくて泣いて、目を赤く腫らした顔だった。事件が解決しなかったときに、下唇を噛みしめて悔しがる顔だった。
 それは決して、ぴくりとも動かない姿ではなかった。
「忘れ物はないよな? 必要な書類は全部持ってるか、確認したか?」
「確認しました、大丈夫です」
「本当に?」
「大丈夫ですから。それじゃ」
 ラーナーはそう言うと、うんざりとした顔でカルロ・サントス医師を見る。彼は玄関に立ち、ドアに手を掛けた。義手の右腕でドアノブを掴んでひねり、ドアを開ける。
 するとそこには、金髪の美女――否、美男――が立っていた。
「……えっと、どちらさまですか?」
 ラーナーは金髪の彼を見るなり、目元を強張らせる。すると金髪の彼は、女性によく似た声で言った。
「あなたが、パトリックね」
「ええ、まあ。そうですけど。……どうして、僕の名前を?」
 金髪の彼――ラファエル・レヴィン――は、名残惜しそうな目でラーナーを見つめていた。レヴィンの揺れる蒼い瞳は、ラーナーの大きな黒い目を見ている。
 そこに、見送りにきたブリーフ姿のカルロ・サントス医師がやってきた。カルロ・サントス医師はラーナーのすぐ後ろに立つと、レヴィンを睨むように見る。するとレヴィンは心が痛むような可憐な笑顔を浮かべ、カルロ・サントス医師に頭を下げた。それからレヴィンは、ラーナーに言う。
「どうして私が、あなたを知ってるのか。あなたは、知らなくていい。それが、お互いのためなの」
 ごめんなさい。レヴィンは最後にそれだけを言い、立ち去る。去り行くレヴィンが後ろを振りかえることは、一度もなかった。
 ラーナーはその背を見送ってから、困ったような目でカルロ・サントス医師を見る。ラーナーは首を傾げさせた。
「今の女性は、誰ですか」
 ラーナーは尋ねるが、カルロ・サントス医師も首を捻る。そしてカルロ・サントス医師は、また嘘を吐いた。
「知らないな。誰だろう」


《完》
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