ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ

You disappeared from You

『子供の頃の夢だって? 変なことを聞いてくるな、お前も』
 ダーリーン夫人から丸投げされた書類の山を捌きながら、ペルモンドは鼻で笑った。おかしな質問を、シルスウォッドがしたからだ。それに対してシルスウォッドも、冗談を言うように軽く笑いながら、わけを説明する。
『だって、エリカから聞いたんだ。大昔の記憶をだいぶ取り戻した、って。一〇代前半の記憶は相変わらず空白らしいそうだけど。それ以前のは、そこそこ思い出したんだろ?』
『まあ、そうだが。どうして、そんなことが気になる?』
『そりゃ、君のことをもっと知っておきたいからさ。友人として』
『いまさら? ……なんかお前、気持ち悪いぞ』
『子供の頃の夢で、その人の性格がだいたい分かるんだ。幼稚園ぐらいの頃の話はアテにならないが、八歳とかそれくらいの頃の願望っていうのは、性格がもろに反映されるんだ。たとえば、小説家とか画家とかアーティスト系は、気難しい繊細な人。モデルや俳優、キャビンアテンダントとか容姿を売りにする職業系は、異性からチヤホヤされたい人。公務員はクソ真面目、学者と研究者はオタク、それから……』
『そう言うお前はどうだったんだ?』
『僕は言うまでもないよ。考古学者に憧れたくそオタク野郎さ。途中までは順調だったけど、今は選択を誤ったがために軍需企業で営業マンをやっている。君だって知ってるだろ?』
 好奇心からした質問だった。だがシルスウォッドは、回答に期待していたわけではなかった。適当なことを言われて、はぐらかされることを前提に話していたからだ。だがその日のペルモンドは、珍しくノリが良かった。ペルモンドはタイプライターから手を離すと、少し恥ずかしそうにこう答えたのだ。
『羊飼いだ』
『あっ、羊飼い。……えっ、ヒツジ?!』
『羊の群れ一〇〇頭ぐらいと、駱駝と驢馬を引き連れて、砂漠で遊牧する。そんな生活に、ガキの頃は憧れてたよ。その昔、曾祖父の代までは実際に遊牧民として暮らしていた家系だったと聞いていたからってのもあるが』
『遊牧か。異境の話だなぁ……』
『今もそうだが、昔はもっと大嫌いだったんだ。街での生活がな。表通りには中途半端に物が溢れていた反面、裏通りには絶望が満ちていたから。裏道に入れば、そこら中に自殺者が転がっていたしな。……その点、砂漠には何もない。あるのは砂ぐらいだ。それに動物は、嘘を吐かない。人間と違って、どこまでも純粋だから』
 シルスウォッドも予想していなかった、ペルモンドの斜め上を行くその回答。遠い昔を懐かしむようにそう言ったペルモンドの顔から、笑いを取りに行ったわけではないことは分かった。本当に本当の、嘘偽りない素直な言葉だったのだ。
『君には驚かされてばかりだ、ペルモンド。いやぁ、本当に意外だ。テクノロジーの申し子が、物が何もない生活に憧れているだなんて。最強のミニマリストだよ。大量生産大量消費を取り戻そうとしている時代の流れに、君は逆行してる。まあそこが、ペルモンドらしいというか、なんというか……』
 そう言って、シルスウォッドは笑った。ペルモンドも笑っていた。
 あれは、ほんの二ケ月前の出来事だった。
「ペイルの旦那ァッ! 従業員一同、あなたに会いたかったんでさぁ!! 戻ってきてくれて、本当に、本当に良かった……!」
 キャロラインには適当な言い訳をして、休日のパパとしての務めを今日だけ免除してもらった。そうして車を走らせるシルスウォッドが向かった先は、エリカの実家である自動車修理工場。チャイルドシートが着けられた助手席……ではなく後部座席にペルモンドを乗せて、向かったのだ。
 従業員を代表して出迎えてくれたのは、お調子者の工場長ジョニー。涙ぐむジョニーの歓待を受けるペルモンドは、心ここにあらずという顔をしていた。
「……ありがとう、ジョニー。それで、あの、えっと……」
「どうしたんです、ペイルの旦那。具合でも悪いんですか?」
「ジョニー、教えてくれ。エリカの事故から、今日で何日が経った? 時間の感覚が分からなくなっていて、頭が整理できてないんだ」
「あぁ、それなら……今日で、十五日ですぜ。お葬式からは、十日が経っております」
 十五日。その言葉を聞いて、ペルモンドの動きが止まった。何かを察したジョニーは、それ以上何かを言うことはせず、そっと彼の肩を二回だけ叩く。するとジョニーは「女将を呼んできやす」と言い残し、その場を立ち去っていった。
 ペルモンドは、呆然と立ち尽くしていた。プレハブ住居の見える自動車修理工場の軒先で、青ざめた顔をして。そんな彼の後ろに待機していたシルスウォッドは、彼に声を掛けた。
「ペルモンド、顔色が悪いぞ。辛いなら、車の中で待っていても……」
「俺は大丈夫だ。気にしないでくれ」
「いや、だけど。家に帰って休むっていう手も」
「あの女が居座ってる家に帰れって? ……そっちの方が地獄だ」
 ペルモンドは光の入らない暗い目で、シニカルに笑う。“あの女”とは、つまりブリジット・エローラのこと。それに対しシルスウォッドは腕を組んで、コメントは控える。するとペルモンドが呟くように、本音を零した。
「……ミス・エローラ。彼女の傍に居ると、頭痛がする。次第に心が空になって、自分が誰かも分からなくなるんだ。何もかもが彼女のペースで、俺の全てを彼女が支配しようとする。現に俺は、彼女の思いのままにコントロールされてるみたいだしな。彼女のお陰で、記憶が穴だらけ。記憶のない間に、俺が何をしていたのか。まるで分からない。恐ろしくてたまらない」
「じゃあ、君はあれも覚えてないのか。デリックに大外刈りを決めたことも。街中で唐突に声を掛けてきた彼を不審者か失礼な他人か何かだと勘違いした君は、白昼堂々デリックを引っ掴まえて、彼を空中に……――」
「俺が、デリックに、大外刈り?」
「ああ。彼はそう言ってた。投げ飛ばされて、背中をコンクリートに強く打ち付けたって。デリックは怒ってたし、君のこと心配してたぞ。記憶が抜けて、まるっきり別人になってしまう、悪い癖が再発してるって」
「……そう、だな。間違いなく、昔に逆戻りしている。逆戻りさせられたというか」
 冷たい笑みを消し、ペルモンドは俯く。それきり、彼は黙りこくってしまった。
 すると遠くの方から、女性の声が聞こえてくる。そしてプレハブ住居の玄関のドアが開き、ダーリーン夫人が家の中から飛び出してきた。
「――……ペイル! あぁ、戻ってきてくれたのね!!」
 ダーリーン夫人が挙げた、歓喜の悲鳴。だが再開を喜ぶ夫人とは反対に、ペルモンドの顔は沈んでいる。
「もう何処にも行かせないわ、ペイル。誰がここを訪れようとも、次こそあなたを」
「……ダーリーン。違うんだ。そうじゃなくて、あぁ、その……」
 なにやら居たたまれないような雰囲気を放つペルモンドの背中に、重い事情を察したシルスウォッドは、すっとその場から離れる。シルスウォッドは一言、これだけを言った。
「僕は、車で待ってるよ。話が終わったら、声を掛けてくれ」





 アフリカン・アメリカンを祖先に持つダーリーン夫人にとって、彼の第一印象はあまり良いものではなかった。
『あら、まあ。まさか娘が連れてきた婿候補が、白人男性とは……』
 浅黒い肌はあくまで日焼けの範疇で、濃い褐色ではない。東洋系でもなく、アジア系でもないし、ラテンアメリカ系のようでもない。だが娘は彼のことを「北米の人間ではない」と言っていた。となると消去法で導き出されるのは、ヨーロッパ系移民。“バルロッツィ”という姓からしても、イタリア語圏のどこかだと思われた。
 ヨーロッパ系の移民。彼らに対し、ダーリーン夫人はあまり良い印象は抱いていなかった。何故ならば修理工場で雇ったことのあるヨーロッパ系移民といえば、どいつもこいつも態度は悪く、仕事も手を抜く上に、同僚たちを「色付きカラード」と罵り、そのくせ給料はこなした仕事以上のものを要求したり……――厄介者、というのが相応しい連中だった。
 彼らの多くを、ダーリーン夫人は二ヶ月かそこいらで仕事場から追い出してきた。娘であるエリカも、その光景を横で見てきていたはずだった。
 その娘が恋人だと言って連れてきた男は、白人のように見える男だった。
『白人、ねぇ……?』
 初対面のあの日。ダーリーン夫人がペルモンドに向けた視線は“信用できない”と無言で告げていた。ダーリーン夫人が彼に覚えたのは不信感だったのだ。
 娘であるエリカはあの時、思いもよらぬ母親の一言に戸惑いを見せていた。何故ならば彼女は、お母さんなら私たちのことを祝福してくれるに違いないと、そう根拠もなく信じ切っていたからだ。そんな母親が見せた、まさかの拒絶。それも理由は、外見だけ。エリカは、どうしていいか分からないと言葉を失くしていた。
 母と娘の間に、気まずい空気が流れていた。だがその空気を断ち切ったのは、他でもないペルモンド。彼には場の雰囲気が読めていなかったようで、場違いともいえる面白おかしそうな笑顔を彼は浮かべていたのだ。そしてペルモンドはこう言った。
『俺が、白人? 冗談は止してくださいよ。あんな、野蛮で礼儀知らずな欧米人たちと一緒くたにされるとは、心外だなぁ……』
『えっ。あなた、ヨーロッパの人間じゃないの? だって、そんな彫りの深い顔をしてるうえに、バルロッツィだなんて姓はどう考えても』
『イタリア人だろうって? いや、この変な名前は誰かに勝手に付けられた名前でして。とはいえこの名前で五年近く過ごしてきて、それが世に浸透してしまったもんだから、本名に戻せなくなったってだけで』
 エリカさえも今まで知らなかった情報を、彼はその時に笑いながらさらりと口にした。白人じゃない。ペルモンド・バルロッツィという名前は本名じゃない。
 なら、あなたは誰? その答えも、彼は笑いながら口にした。
「本名は、ジャーファルなんですよ。あと俺は歴史上、最も白人たちに疎まれてきた人種……というか、民族の出身です。ひどい言いがかりを付けられて欧米人に虐殺されたのち、歴史から存在を完全に抹消されたぐらい、嫌われていた。まあ、確かに地中海沿いの出身で、ヨーロッパに近いんですがー……俺は、白人じゃないです。それだけは、断言できます」
 ジャーファル。その名前は、ダーリーン夫人にとって奇妙に感じられた。聞き覚えのない、遠い異境の響きを纏っていたからだ。そして本名を口にしたときに彼が一瞬だけ見せた、故国を喪失した者の悲哀と翳。あの瞬間に、ダーリーン夫人は考えを改めた。娘が連れてきた男は、悪い人物ではなさそうだ、と。
 確かに彼は、悪い人間ではなかった。良くも悪くも、誰に対しても分け隔てなく同じ態度を貫く人物で、真面目な性格をしていた。妥協を許さず、周りにもそれを徹底して強く求め、そして本人も言葉通り非の打ち所がない完璧な仕事をしてみせた。素晴らしい腕を持ったエンジニアで、誠実な若者で、大事に育ててきた娘を安心して託せる男だった。
 出自や過去については秘密だらけではあったが、日常において?を吐くことは無かった。第一印象とは裏腹に、彼はこの上なく信用できる男だったのだ。
 そう。彼は間違いなく良い男だった。だが彼の後ろに付き纏う闇は、悪しきものだったのだ。
「女将。ペイルの旦那は、もう戻ってこないんですか」
 就業時間を過ぎ、従業員の殆どは帰宅していった午後八時。工場の奥にひっそりとある事務室に籠り、書類の片付け作業に追われていたダーリーン夫人の許に、神妙な面持ちをした工場長のジョニーが訪れる。するとダーリーン夫人は手を止めて、書類を見つめていたが為に伏せられていた顔を上げた。
 ダーリーン夫人の目は赤く、充血していた。アイメイクも涙で崩れ、目元はパンダのように真っ黒。そんな彼女は寂しげに眉を顰め、工場長ジョニーにこう言ったのだった。
「ええ。彼は、そう言ってたわ。ここでの仕事は好きだから手放したくはない。だけど、そうしなければいけない状況なんだ、ってね」
「……あのペイルの旦那が、そんな無責任なことを言うなんて。なんてっこた……」
「彼が言うには、そうしなければ私たちに危害が及ぶんだって。エリカが死んだのは自分の所為だって、彼は自分のことを責めていたわ。……エリカは、運が悪かっただけなのに。事故で、意図的に仕組まれた殺人じゃなかった。後部座席で騒ぐ子供に気を取られ、一瞬よそ見をしてしまった主婦が、運悪くエリカを撥ねてしまった。それだけだったのに。どうして、彼は自分を責めるのかしらね。不器用な人だわ……」
「まさか、女将。見放すんですか、ペイルの旦那を。俺たち従業員一同は、旦那に恩がありやす。旦那がうちに来てくれたからこそ、廃業寸前だったうちの工場が立ち直り、業績も仕事の質も格段に上がったんじゃないですか。今度は俺たちが、旦那に返す番じゃ」
「あなたは大概にお人よしね、ジョニー。初めのころ、スカしたインテリ野郎だなんて罵ってた男と同一人物とは思えないわ」
「あの頃は、ペイルの旦那を誤解してたんですよ。だけど今は知っていやす。彼が誰よりも真っ直ぐで、彼こそがまさに信念の人であると。その旦那が、この工場を捨てるだなんていう無責任なことを言い出すってこたぁ、それだけ旦那が追い詰められてるってことじゃあねぇんですか。エリカ嬢なき今、だからこそ俺たちが、旦那を支えてやらないと。そうでしょう、女将?」
「私は今も、あの子のことを自分の息子も同然だと思っているわ。本人にも、それを伝えた。だけど、私たちの助けを拒んだのはペイルなのよ。これ以上迷惑を掛けることはできないと泣きながら訴えてきて、別れを告げてきたのは彼。私には、どうすることもできないわ。いつか私たちを頼って、ここに戻ってきてくれると信じるしか、今は……」
 今朝。数日ぶりに再会したペルモンドは、憔悴しきった顔をしていた。その顔を見て、ダーリーン夫人はショックを受けたのだ。それに彼の右腕――肘から手首に掛けて――には、鞭のようなものを何度も打ち付けられたかのような青あざが作られていた。それは数日前には、無かった傷だ。
 エズラ・ホフマンと名乗った男に連れ去られてから、彼の身に何があったのか。ダーリーン夫人はペルモンドに尋ねたが、返ってきた言葉はこれだった。
『覚えていないんだ、何もかも。気が付いた時には友人……――シルスウォッドって奴が目の前に居て、俺は昔の自宅で気を失っていた。それが、つい昨日のことなんだ。それ以前の記憶がなくて。あぁ、その……――だから、嫌な予感がして堪らないんだ。つまり、えっと……暫く、一人になる時間が欲しい。それにこれ以上、迷惑を掛けられない。このままだといずれ、俺の所為で、悪いことが起きる気がして。誰にも傷付いて欲しくないんだ。……どうか、分かってください』
 もし、エリカならば。目も合わせず俯いて涙ぐむ彼の手を強く握り、力強くこう言ったことだろう。どこにも行かせない、だって悪いことなんて起こらないんだから、と。
 だが、エリカの母親であるダーリーン夫人は違った。強く引き留めることが出来なかった。
『ペイル。どうか、これだけは忘れないで。私は、あなたの母親。あなたのことを、実の息子だと思っているから。それはこの先も変わらない。だから気が変わったときに、いつでも帰ってきなさい。私は、ここであなたの帰りを待ち続けているから。工場の皆も、同じ思いよ』
 実の息子のようには、思っている。でも彼は、やはり実の息子ではないのだ。血縁はない。だから彼に無理強いすることができなかった。
 それに、怖かったのだ。また“あの男”がここに来ることが。それにペルモンドを引き留めたところで、どうせまたあの男が連れ戻しに来るのならば。いっそのことペルモンドのほうからここを立ち去ったとなってくれたほうが、心の傷も深くない。そう考えてしまったのだ。
「だが女将。俺は、そんな終わり方イヤですぜ。俺は、ペイルの旦那ともっと仕事が」
「……ジョニー。もう夜も遅いわ。家に帰りなさい。あなたには綺麗な奥さんと、可愛らしい子供たちが居るのよ。私の家族の心配をしないで、まず自分の身内を第一に考えなさい」
 ダーリーン夫人は再び顔を下に向け、細かな文字たちとの格闘を再開する。物言いたげな顔をしたジョニーは、呆れて家に帰っていった。





「とっくの昔に職場を辞めたはずのペルモンドが、あの魔窟みたいな職場に何食わぬ顔で戻ってきちまったんだ。それにあいつには、辞めたことがあるっていう記憶がない。そのうえエリカの存在も覚えてない。大学時代の友人たちも、僕以外は全部きれいさっぱり忘れている。性格も、まったくの別人格さ。何もかもが、昔に逆戻りだよ! ……まあ、今はそれも“ブリジットの前”と“職場”だけに留まっているんだけど。そう遠くない未来、彼の中からエリカの記憶が完全に消えてしまうような。そんな気がして、ならないんだ。それは何よりエリカが可哀想だし、彼女を愛した本物のペルモンドが失われていくようで……なぁ、ドクター・カストロ。どうにかならないのか?」
 怒りと混乱で顔を赤くさせたシルスウォッドは、カウンター席に座りながらそう語る。彼は早口で捲し立てるように喋り、愚痴をぼとぼとと零していた。
 そのシルスウォッドの左横に座っているのは、精神科医で臨床心理士、そしてペルモンドの主治医であるイルモ・カストロ。クロエ・サックウェルという共通の知人を通じて知り合った彼らは、すっかり気心の知れた間柄になっていた。
 ――……というのは、全てシルスウォッドという男が謀った作戦の賜物。偶然を装った出会いがキッカケだったが、その関係は今や本物となっていた。
「どうにか、ねぇ。そう言われてもだ、ミスター・エルトル。俺が彼に会えなきゃ、どうすることもできないさ。ミセス・エリカの事故以降、彼がクリニックに顔を出したのは一回だけ。二週間のうちに予定されていた二回の診察を、彼は無断でキャンセルしている。それに同僚が一枚噛んでいるかもしれないとなりゃ……立ち回り方をよく考えておかにゃいけない」
「……そうなんだ。ブリジット、彼女が一番の癌だ。ペルモンドが自宅に戻って以降、彼女は彼の家に入り浸っている。彼が、自分のことを恐れているとは知らずに」
 ソフトドリンクを片手に持ち、シルスウォッドが思い出すのは職場で見たペルモンドの姿。疲れ果てた顔で口元だけに笑みを浮かべて、狂人のような振る舞いを見せる、何もかもが偽物の彼の姿だ。
「ペルモンドが可哀想というか、哀れでしかないんだ。あいつは、ブリジットが望んだ姿に作り替えられつつある。……せっかくエリカとあんたが人間らしくしてくれたペルモンドを、ご丁寧にブリジットが叩き壊して、統合されつつあった彼の人格を引き裂いたんだ。彼女が、彼を救うために。もはや障碍者じゃなかった彼を、彼女が態々障碍者に仕立て上げたんだ。……少なくとも僕には、そう見えている」
「ああ。俺も同感だ。ドクター・エローラは愛情による支配、共依存の関係を作り上げようとしているのだろう。今はまだミスター・ペイルは抵抗しているようだが、いずれ彼女に懐柔されてしまえば……もう手の施しようが無くなる。両者ともにな。そうなる前に、手を打たなければいけないんだが。どうすりゃ、いいんだかな。本当に、困ったよ。助けてくれ、シルスウォッド」
「あんた、医者だろ? あんたがどうにかしてくれよ!」
「俺は医者で、人間だ。万能な神さまか何かじゃない。一人じゃ出来ることも限られてくるさね」
 ペルモンドは、昔に逆戻りしていた。大学時代の頃のように、無意識のうちにいくつもの顔を切り替えるようになってしまったのだ。いや、もしかすると当時よりもずっと酷い状態にあるのかもしれない。
 ペルモンドは人前で、傲岸不遜な態度を取っていた。他者を見下しているようで、実は他者に怯えている。警戒心に満ちたヤマアラシのような姿だ。しかしペルモンドは、周囲に居る人間がシルスウォッドだけになった瞬間に警戒を解いて、まったくの別人格――本来あるべき姿、素の彼――に変わったのだ。
 ペルモンドは警戒を解くと、無防備な心をシルスウォッドの前で曝け出した。彼は混乱していた。そして彼は、混乱している自分に恐怖を抱いていた。だからペルモンドは、シルスウォッドに訊いてきたのだ。
『教えてくれ、シルスウォッド。ここは何処だ? 俺はまた何をしたんだ?』
 取り乱すペルモンドを前に、シルスウォッドは彼に掛けるべき言葉が思いつかなかった。シルスウォッドには、残酷な真実を率直に伝えることしか出来なかった。
『ここは、ラーズ・アルゴール・システムズ。君は退職ではなく、長期休暇扱いにされていた。デスクが残っていたんだ。そして君は今朝、当たり前のようにここに顔を出したんだ』
『そんな、まさか。辞めたはずの会社に……』
『……なぁ、ペルモンド。タクシーを呼んでやるから、今日のとこはもう帰れ。君はここに居るべき人間じゃない』
 そうしてペルモンドを職場から追い出したのが、六時間前。昼過ぎのこと。午後七時を過ぎた今、シルスウォッドはあの選択を後悔していた。あのとき、追い返すべきじゃなかった。ひとまずあの場に留めて、今自分が居るこの場所に、彼も連れてくるべきだった。イルモ・カストロに、彼を会わせるべきだったのだ。
 それにイルモ・カストロが言っていた。クリニックに今日、ブリジットは姿を見せなかったと。となると彼女は、ペルモンドの家に居ると考えるのが妥当。シルスウォッドは彼を、ブリジットの居る場所に帰してしまったことになる。
「……僕に、何ができるんだ? あいつを救えるなら何でもしてやりたいが、何をすればいいのかなんて……」
 そんな言葉を口ごもるように言い、シルスウォッドはアルコール度数はゼロのソフトドリンクを一口だけ飲む。すると左隣に座るイルモ・カストロは、ウィスキー・ソーダの入ったグラスを手持ち無沙汰にカランカランと揺らしながら、渋い顔をしてこんなことを言った。
「なぁ、シルスウォッド。俺にはあんたって人間が、とても奇妙に見えているんだ。妻子持ちの男が、どうしてそうも友人に肩入れする? いくら仲のいい友人といえ、他人だぞ? 何もそこまで……」
「難しいことはない。あいつには、返し切れないほどの恩がある。そして僕は、借りっぱなしは嫌な性分。それだけの話さ。そういうアンタはどうなんだ、ドクター・カストロ」
「俺は、他人の人生に首を突っ込むのが仕事だからだ。それで金を稼いで且つ論文のネタも貰っているし、それに完璧な仕事をこなさないとアルフレッド連邦に居る師匠に怒られるからな。それで、シルスウォッド。適当なことをでっち上げて話を有耶無耶にしようとしているなら、相手を見誤っているといえるだろう。俺はそう簡単には誤魔化されないぜ、策士さんよ」
 アルコール度数の高いウィスキーの所為で酔いが回り、口のチャックが緩くなっているのか、はたまた妙な全能感に満たされているのか。イルモ・カストロはしたり顔をシルスウォッドに向け、にやりと笑う。適当なことをでっち上げたつもりも、話を有耶無耶にしようとしたつもりもなかったシルスウォッドは、ただただ困惑した。酔っ払いが適当なことをほざいてやがる、と。
 するとイルモ・カストロは、さらに好き放題なことを言い始めるのだった。
「シルスウォッド・エルトル。人畜無害そうな笑顔が顔に張り付いているあんたの魂胆が、俺には読めないんだ。あんたは野心家ではなさそうだし権力志向も無さそうだが、十分すぎる教養があり、それに人を惹きつけ支配する資質が備わっている。将来の目標は為政者か? 自治国首相の座か? または閣僚、もしくは……――」
「それは過大評価ってやつだよ、カストロ。そんな大それたこと僕には出来っこないし、やりたくもない」
「なぁ。あんたならこうなる前に、ドクター・エローラのことをどうにでも出来たはずだろう? 今からだって、本気を出せば彼女を止められるはずだ」
「……それが出来ているなら、今こうして医者に泣きついてないさ」
「教えてくれよ、シルスウォッド。あんたが友人を救おうとしているのは、悪魔の気まぐれなのか、それとも本心からか? または将来への投資か。ここいらで大きな恩を彼に貸し付けて、そう遠くない将来に出馬するとき……――」
「僕が出馬だって? 冗談きついよ。ないない、絶対に。あり得ない」
「あんたなら十分、イケるだろ。だってあんた、根っからの為政者って感じだ。老子が言うところの“最高の為政者”ってのに、あんたはガッチリと当て嵌まっている。つーか、そうなるための教育を受けて育ってきたとしか、俺には見えないんだが?」
「ああ、そうだよ。僕はそういう教育を受けて育った。両親に『まずは弁護士か医者か教師といった人に尊敬される職を目指し、その次は国会議事堂の議席を目指しなさい』と叱られ続けた学生時代だったよ。で、その結果が今だ。ハイスクールでグレて、大学で我を突き通して、権力は大嫌いだがそれに反抗するだけの意志の強さは持ち合わせていない人間に出来上がったのさ。それに……親父と同じ道を歩むぐらいなら、死んだほうが数百倍もマシだ」
 死んだほうがマシ。シルスウォッドの口から飛び出たその言葉に、イルモ・カストロは我に返る。そこでイルモ・カストロは漸く、自分が彼を不愉快にさせていたことに気が付いた。
 イルモ・カストロはしたり顔を消し、申し訳なさそうな表情を浮かべる。それから彼は、こう言った。
「今のは冗談だ。気を悪くさせたようなら、ごめんな」
「気にするな。こちとら、そういうのには慣れっこなんでね。親が議員だと、何かにつけて言われるから」
「親が議員? ……もしかしてだが、あんたの親父さんって」
「上院議員のアーサー・エルトル。賄賂の王様、正真正銘のクズ野郎だ。あいつの所為で、僕の人生は滅茶苦茶さ」


 イルモ・カストロの前で、シルスウォッドが実の父親を口汚く罵っていたのと同じ頃。ペルモンドは自宅に居て、ブリジットも同じ場所に居た。そしてペルモンドは寝室の床に膝をついて座り込んでいて、そんな彼をブリジットは上から見下ろしている。ブリジットの右手には、金槌が握られていた。
「さぁ、ペルモンド。復唱して。エリカは、あなたが生み出した幻。イマジナリーコンパニオン想像上の同伴者なのよ」
「……イマジナリーコンパニオン?」
「彼女があなたに掛けた言葉は、全て私があなたに掛けた言葉。あなたが私を彼女に置き換えたように、今度は彼女を私に置き換えて」
「……違う。彼女は幻じゃない。彼女は現実だった。純銀のエンゲージリングは彼女が選んで、決めたものだ。それを今、君が」
「純銀のエンゲージリングなんて存在しないのよ、初めから」
「君が、その金槌で叩き壊した」
「金槌なんか、私は持ってないわ。嘘を言わないで、ペルモンド」
「ミス・エローラ!! 君は、何がしたいんだ? リングみたく、俺を叩き壊したいのか?」
「壊したいわけじゃない。私は、精神を病んでいるあなたが普通の生活を送れるように矯正したいだけ」
「俺は君に、そんなことを頼んでない」
 俯き、震える声でペルモンドはそう反論する。そんな彼の心は今、声のように震えていた。目の前の女が怖かったのだ。ここ数日は心の支えであったエンゲージリングを彼から奪い取って、彼の目の前でそれを金槌で叩き潰して砕き、そのうえでとぼけて白を切るブリジットが、恐ろしくて堪らなかった。
「……何故、こんなことを?」
「私はあなたを救いたいだけよ。理由なんてないわ」
「人を追い詰めて、君は楽しいのか?」
「私は追い詰めてなんか……――ねぇ、ペルモンド。被害妄想も、いい加減に終わりにしましょう? あなただって終わりのない被害妄想に苦しんでて、辛いでしょ? だから私が、あなたを治してあげようとしているのよ。助けを拒まないで。プライドの高いあなたにとってそれは恥ずかしいことかもしれないけど、受け入れて」
 ブリジットは、エリカを否定した。そしてエリカを否定するという行為はペルモンドにとって、自分が否定されることと同意義だった。何故ならば、彼は彼女と共にあったから。彼女を否定するということは、それは彼女を愛した彼という存在の否定と同じ。その逆も、また然り。
 それが、エリカの教えてくれたことだった。それにエリカが実践して、見せてくれたことだった。
「……歪みも凹凸も汚れた過去も含めて、全てが俺だ。彼女が、そう教えてくれたんだ。エリカが言っていた。障害は捉え方ひとつで姿を変えて、短所にも長所にもなると。彼女は」
「どれだけ綺麗ごとを連ねても、障害は障害でしかないのよ。だからあなたの為にも、正さなくちゃいけない。それにエリカ・アンダーソンは、あなたが生み出した架空の人物。現実には存在しないのよ。私が現実、彼女は幻。さあ繰り返して。私が現実で、彼女は」
「彼女は光、君は闇だ」
「不細工で汚い黒人女が、光なわけないでしょ?!」
「……!?」
「私が光で、あなたを救う太陽。あなたの冷たい心を溶かすのは私なの。だから」
「違う。エリカは太陽だった。君は北風だ。それに君の方がよほど醜い心を持っている。その汚れた口で、エリカを侮辱するのは俺が許さない」
「何回言えば分かるの、ペルモンド。エリカ・アンダーソンは、あなたが生み出した幻なのよ」
「君の方こそ、いつまでこんなことを」
「精神病者の言葉に、耳を貸す人間が居ると思うわけ? あなたは心を病んでいるのよ。健忘の多い、多重人格者。誰があなたの言葉を信じる? 歪んだ認知から飛び出る言葉たちを、信じてくれる人が居ると思ってるの?」
 ブリジットのその言葉の後。ペルモンドは黙りこくり、以降言葉を発しなくなった。無言で俯き、体は動かない。呼吸すらしていないように、ブリジットの目には見えていた。
「……ペルモンド、悪足?きは止しなさい」
 そう言いながら彼に冷たい視線を送りつけるブリジットは、内心後悔していたのだ。
「大人しく私に身を委ねたらいい。それだけの話でしょうに」
 どうして私は、こんなことをしているのだろう。
 どうして私は、彼を苦しめることをやめないのだろう。
 どうして私は、こうまでして彼にしがみついているのだろう?
 彼の視力のない目が、声なき悲鳴を上げているにも関わらず。
「……ねぇ、何か言ったら? だんまりを決め込んで、人を困らせるなんて子供のやることよ」
 だが後悔とは裏腹に、この行為を正当化する自分も彼女の中には存在していたのだ。最初に彼が助けを求めたのはこの私。だから精神を病んでいる彼を救い、正常に戻すのもこの私。彼を救えるのも、この私しかいない、と。
 それがどれだけ傲慢で自分本位な思い上がりか。客観的な視点で分析する精神科医ブリジット・エローラは、自分がやっていることの異常性を理解していた。だが女としてのブリジット・エローラは、自分は正常だと言い張って止まることをしないのだ。意地を張って、もう後に引けなくなっている。
 それに、この好機を逃すわけにはいかなかったのだ。彼が不安定であるうちに彼を懐柔してしまえば。彼を、支配すれば……――ブリジットは、一度は誰かに奪われたペルモンドを勝ち取ることが出来るのだ
「ペルモンド。私があなたを、矯正してあげる。悪魔に魅入られたみたいに荒廃しきったあなたを、普通の生活が送れるような人間に正してあげる。だから私を」
 すると、そのとき。それまで黙りこくっていたペルモンドが、俯いたまま不気味な笑い声を立て始めた。ブリジットを鼻で笑う声は次第に大きくなって、人を馬鹿にするような高笑いに変わる。やがて彼の顔が上がり、ブリジットと目が合った。
「お嬢ちゃん。お前はそこまでして、この男が欲しいのか? こいつがこの俺に助けを求めるほどにまで追い詰めて、苛め抜いて……――嗜虐の趣味でもあるのか?」
 そう言った彼の両目は、ブリジットにとって見覚えのある緑色に変わっていた。つまり今の彼は、ペルモンドではないのだ。
 ペルモンドでない彼は、緑色の瞳でまじまじとブリジットを見つめている。その目はまるで、ブリジットを品定めしているかのようだった。するとペルモンドでない彼が、にたりと歯を見せて笑う。彼はこう言った。
「どうせなら俺が、こいつの記憶を書き換えてやろうか? エリカ・アンダーソンという女に関する記憶を、お前に変えてやるよ」
 悪魔のような天使が囁く言葉に、ブリジットは何も考えずに無言で頷く。その言葉の重さを、その瞬間のブリジットは考えていなかったのだ。
 そしてブリジットが頷き、同意の意思を示したのを確認すると、彼の両瞼はゆっくりと閉じる。そのまま彼は床に倒れこみ、その呼吸と心音を止めた。


 酔いつぶれたイルモ・カストロをバー・カウンターに放置し、自分の注文分だけの支払いを済ませて、ひとり先に店を後にしたシルスウォッドは、今や自宅となったキャロラインの実家に戻っていた。
 そんなシルスウォッドが自宅の居リビングルームで目にした光景は、なかなか衝撃的なものだった。
「白狼の予言っていうのに、誤差は付き物。白狼はそう滅多に人に干渉しないから、人間が感じる時間の流れが分からないのよ。昔からあれは、そう。パトリシアに寄生していた頃と変わってないわね、何も」
 リビングルームに置かれた二人掛けのソファーに一人でどかっと座り込み、偉そうにふんぞり返りながら、そんなことを言っていたのはサングラスを掛けたマダム・モーガンだった。そしてマダム・モーガンの向かいに座り、彼女の話を熱心に聞いているキャロラインとキャロラインの母の姿がある。
「永劫とも思える時間を生きる者にとって、一秒も一〇年も大して差がない。一瞬も同然なのよ。だから白狼が言うところの“直後”っていうのは、まあ以降五年か十年以内ってところかしら。本当に“直後”である場合は、黒狼が未来の書き換えを試みて、歴史が歪みかけている緊急の時だけね。……その点、人間に取り入って世界に干渉を試みる黒狼は賢い。黒狼の予言に誤差はない。白狼と違い詳細に物事を教え、そして秒単位で正確な時間を教える。だから人間は黒狼に誑かされるのよ」
 切りのいいところで話を一時休止するマダム・モーガンは、ソファーの前に置かれたテーブルに手を伸ばした。そして彼女が手に取るのは、琥珀に輝くウィスキーが満たされたロックグラスだった。更にテーブルの上には――キャロラインの父親が後生大事に保管していて、「絶対に手を出すな」との御触書が家の中で出回っていた――北米では希少価値の高い、アイラ島のモルトウィスキーのボトルが、開封されて置かれている。それも残量は残り半分以下となっていた。
 シルスウォッドはリビングルームとダイニングルームの境界に立ちながら、自宅であるかのようにくつろぐマダム・モーガンの背中を見やってから、ダイニングルームで頭を抱え込み、世界の終わりを憂うかのような蒼褪めた顔をしている義理の父親の様子を観察する。そうして彼は今、この家の中で起こっている出来事の全容を理解した。
「……おいたわしや、お義父さん……」
 霊能者である女性陣は、マダム・モーガンがどういう存在であるかを知っているようだ。しかし一般人であるキャロラインの父親は何も分かっておらず、突然訪れた客人が自分の宝物を容赦なく消費していく姿に、ただただ打ちひしがれている模様。それと娘のテレーザは、もう部屋で寝てしまっているようだ。
 そしてマダム・モーガン。彼女は間違いなく、シルスウォッドに用があってここに来たのだ。そんな気配が、彼女の背中からはひしひしと漂っていた。
「こんばんは、マダム・モーガン。『The phantom of raven神出鬼没のカラス』のあだ名に恥じぬ、神出鬼没っぷりは相変わらずのようですね。……押しかけてくるなら、一言連絡ぐらい寄越してくださいよ。驚くじゃないですか」
 ダイニングルームからリビングルームに踏み入り、シルスウォッドはマダム・モーガンにそう声を掛ける。すると彼女はロックグラスを片手に持ち、不敵な笑みを顔に浮かべて、シルスウォッドのほうに振り向いた。
「私はサプライズが好きなのよ、堅物ボーイ。それと、そう言う割にはあなたが然程驚いていないように、私には見えてるけど?」
「驚いてますよ、充分すぎるほど。だって、どうしてあなたがここに居るんです?」
「それは、シルスウォッド。あなたに用があったからよ」
 だから、こっちに早く来てソファーに座れ。マダム・モーガンはサングラス越しに、視線でそう訴えてくる。シルスウォッドはその要求に従い、作り笑顔を取り繕うと、マダム・モーガンの近くに歩み寄った。すると何かを察したのか、それまでマダム・モーガンの話を熱心に聞いていたキャロラインと、キャロラインの母親がその場を離れて、ダイニングルームに行ってしまう。その途端に心細くなっていくのを、シルスウォッドは感じていた。
 マダム・モーガン。彼女は自称死神の、紛れもなく本物のモンスターだ。そんなモンスターが、自分に用があるというのだ。これほどまでに恐ろしい事態があるのだろうか?
 一体、用件は何だ。自分は何かをやらかしたのか? シルスウォッドは思考を巡らす。するとマダム・モーガンは、こう言うのだった。
「二匹のジェド。黒狼と白狼について、あなたには認識を共有しておいてもらいたいのよ。なにせあなたは不運なことに、二匹の狼の間に挟まれている人物だから。私がかつてそうであったように、あなたもかつての私と同じ立場に居る。つまりあなたは、私と同じ道を歩むことになる、ってこと」
「……え? あの、すみません。何の話ですか、それ」
「この家で代々保管されているパトリシアの手記と、ダニエル・ベルの小説。あなたも目を通したんでしょう? なら、あなたはかつての私を知っている。己の全てを賭して尽くしてきた星条旗にあっけなく裏切られて、あっけなく殺された女の名前を」
 マダム・モーガンは、浮かべた笑みを崩さない。どことなくきな臭さが漂う話をする彼女の顔が次第に、シルスウォッドにはモナ・リザに似た気味の悪い笑みに見えてきていた。
 彼は、否が応でも感じざるを得なかったのだ。何とも形容しがたい、嫌な予感というやつを。そしてマダム・モーガンは、更に彼を混乱させる言葉を発する。
「簡単な話、あなたには真っ黒なサングラスと真っ黒なスーツの似合う男になってもらいたいのよ。つまり、渋くて、とびきりの良い男に。まっ、それは死んだ後の話だから、生きている間は深く考えなくてもいいわ」
「死んだ後のはなし?」
「ええ。そこから先は、あなたが死んだ後に教えてあげる。だから生きている間に精進して、貫録を身に着けて、優男を卒業しておいて頂戴」
 フフッと笑うマダム・モーガンの視線を一身に受けながら、シルスウォッドは夜が長くなりそうな気配を感じ取っていた。
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