ディープ・スロート//スローター

Artificial Intelligence: Debug ― 電脳少女は夢を見るのか

 キャンベラ市北警察署、駐車場。明かりが控えめすぎる電灯のせいで、薄暗闇が周囲を覆っている。そんな中、ニールとセディージョ支局長の二人は車内に居た。
「そろそろ三十分が経つわね」
「何やってんですかねー、あの二人」
「……デート?」
「ドクターと、アレックスが、警察署で?」
「うん」
「もうちょっとマシなジョーク、他に無かったんですか」
「お酒で頭がガンガンに痛くてね。これが精いっぱい」
「……局長、ハメ外しすぎです」
 そんな調子の二人は、警察署の中に入っていったカルロ・サントス医師とコールドウェルの戻りを待っていた。
「はぁ。私にこういう道化役って、向いてないみたい。こういうのって、どっちかっていうとリッキーの担当だったから。けど、そのリッキーはもう居ない……」
 カルロ・サントス医師のもとに、市警察から連絡が来たのは一時間前のこと。内容は、記憶喪失らしき十歳前後の子供が保護されたというものだった。子供が本当に記憶を失っているのかどうかを診てほしい、ということらしい。それと、その子供が口にした唯一の人名が、カルロ・サントス医師だったのだという。
 コールドウェルが市警からの連絡を予見していたことも気味が悪いが、その子供が何故カルロ・サントス医師の名前を口にしたのかにも謎が残るし、なにより不気味だ。それにカルロ・サントス医師は「自分が外来で診ている患者の誰かかもしれない」と憂いていたが、コールドウェルはそれを真っ向から否定していた。その可能性は絶対にない、と。
 コールドウェルが何を知っているから、そうだと言い切れるのか。ニールにはさっぱり分からないが、なんだか良からぬことが起きそうな予感がする。その直感だけは、この状況において信じていいものだと思えた。
「……ドクターもアレックスも一体、何をしてんだか……」
 すると、支局長がニールに話しかけてくる。支局長の声は、外の明かりのように薄暗い雰囲気を感じさせた。
「ねぇ、アーチャー。ひとつ、訊ねてもいいかしら」
「はい。なんでしょう?」
「コールドウェルから、聞いたのよ。もしかするとリッキーだけは、他殺じゃない可能性があるかもしれないって」
「リッキーというと、パトリック・ラーナー?」
「そう、彼よ。……バーニーは、なにか言ってた?」
 バーニーとは、バーンハード・ヴィンソンのこと。顔は無表情だが声色は表情豊かな、あの不思議な検死官の名前だ。そしてニールは思い出す。ああ、そんなことも検死官は言っていたな、と。
「そういえば、担当検死官が最後の検死の際に、そんなことを言ってました。他殺とも自殺とも言い難いし、もしかすると犯人も想定していなかった事故の可能性もある……とか、なんとか」
「それって具体的に、どういうことなの? 私は報告書をまだ受け取っていないから、詳細が分からないんだけど……」
 説明しろ、ということなのだろう。しかしニールは、そこまで重要なことではないだろうと、検死官のその話を適当に聞き流していた。
 思い出せ、ニール・アーチャー。思い出すんだ! ニールは記憶を辿り、覚えていることを可能な限り説明しようと努力する。
「死因は、気管に血液が流れ込んだことによる窒息……っていうことは、局長もご存知ですよね」
「ええ。外頸動脈にナイフを二回刺されたっていうことも、知ってるわ。一度目が致命傷で、二度目は死後の飾り。つまり一度目のナイフに、問題があるんでしょう?」
「そうらしい、です、よ?」
「けどリッキーは致命傷を負うその直前に、四肢を奪われている。壁に背中を預け、床に座り込んだ状態で、真正面から喉にナイフを突き刺されたのだろうって、ファイルにはあったし。そんな満身創痍な姿で犯人に抗えたとは思えないし、自殺なんてとても……」
「そこなんですよ、そこ」
「そこ?」
「被害者には、抵抗する術がなかった。壁にもたれた状態で床に座っていて、目の前にはナイフを持った犯人。被害者は逃げることもできないし、殴りかかることも出来ない。だから被害者は、何もできない状態であったはずだ……――って、俺たちは思っていたわけです」
「……?」
「検死官が言ってたんですよ。その先入観が物事を単純明快であるように見せていたけど、実際は複雑に入り組んでいて厄介で面倒な事件である可能性がある、って」
「えっと、つまり、リッキーは犯人に何かをしたって……」
「いいえ。被害者は、犯人に危害を加えていないと思います。検視官が言っていたのはその逆で、彼は自分から死を選んだのでは、と」
 あのとき検死官は、スクリーンに投射した3DCG映像を交えながら、ニールに被害者の死に関する仮説を説明していた。
 スクリーンには、対峙する人形を横の視点から見た映像が、静止した状態で映っていた。ひとりは小柄の人形で、四肢がない。壁に背中を預け、床に座り込んでいる。そしてもうひとりは長身痩躯の人形で、壁に背中を預ける人形の真正面に立っていた。その手に刃渡り十五センチほどのナイフが握られていて、その切っ先は座り込む人形の首に向けられていた。
 検死官はコンピュータを操作しながら、ニールに言った。よく見ていてね、と。それから検死官が何かのキーを押し、映像が再生される。そしてあっという間に、ほぼ一瞬で映像は終わった。
「犯人は、座り込む被害者の前に立っていたんです。握っていたナイフの高さは、ちょうど被害者の首のあたりと同じだったんでしょう。そしてナイフの切っ先は、被害者のほうに向いていた。……だから被害者は犯人のほうに向かって、前のめりに倒れたんです。そうして首にナイフが突き刺さり、死んだ」
「じゃあ、彼は……」
「自ら死を選んだのかもしれません。あるいは、事故だったのかもしれない」
「……そ、そんな……」
 検死官は映像を止めると、こう言った。「傷の微妙な角度を説明できたのは、この方法だけだった」と。
 検死官は、犯人が被害者を刺すというシミュレーションを何度も試したそうだが、どれも遺体の傷とは程遠い結果だったそうだ。そこで試みたのが、被害者のほうから倒れ込むというシミュレーション。倒れ込む角度や高さ、立ち位置など調整してついに、実際の傷と符合する結果が出たのだという。
「とはいえ、それは犯人を野放しにしておいていい理由にはなりません。ラーナー次長は事故かもしれませんが、他の被害者は明らかに奴によって殺されているんですから。……一刻も早くヤツを見つけ出して、刑務所に……」
 後部座席に座る支局長は、力なく項垂れている。支局長からの返事はなく、車内は静まり返った。
 他殺ならば、怒りをぶつける先があっただろう。犯人を責めて責めて責め立てれば、悲しみから目を背けることが少しは出来たのかもしれない。けれども自殺の可能性もあるなどという線が浮上すれば……どうしていいのか分からず、混乱してしまうのだろう。ショックだって、計り知れない。
 親しい者が、自ら死を選ぶ。そんな局面におかれたとき、動揺しないでいられる者など居ないのだろう。
「…………」
 静かな車内に、ニールも言葉を発することが億劫になる。黙りこくるニールは、コールドウェルとカルロ・サントス医師が戻ってくるのを待っていた。





 警察署内に通されたカルロ・サントス医師は、擦り切れた安物のソファーの上で眠る子供の顔を見るなり、呆然としていた。カルロ・サントス医師の横に立つコールドウェルも、立ち竦んでいる。彼女の口元には褪めた笑みが浮かんでいたが、緑色の三白眼には表情が無かった。そしてコールドウェルは力なく呟く。
「……まさか、ここまでソックリだとは。噂にゃ聞いてたが、これはあまりにも酷い話だ。酷すぎる……」
 化粧も崩れ、疲れ切った顔の若い女性警官の膝に頭を乗せ、暖かそうなブランケットを肩に被って、ソファーの上で縮こまるようにその子は寝ていた。丸められた膝は、不安や警戒心の現れ。寝顔こそ安らかなものに見えるが、内面に抱えた恐怖は隠し通せるものでは無かった。無防備な状態であれば、なおさらに。
「どうですかね、ドクター。この子に、見覚えはありますか」
 カルロ・サントス医師とコールドウェルの二人をこの部屋に案内した中年の男性警官は、大あくびをしながらカルロ・サントス医師に尋ねる。真顔のカルロ・サントス医師は拳をきつく握りしめ、切り捨てるように言った。
「いや、ない。うちのクリニックの患者でないことは、確かだ」
「そうですか。そりゃ、困ったなぁ……」
 男性警官はまた欠伸をしつつ、ぽりぽりと頭を掻く。白髪交じりの髪から、ふけのような白い粒が飛び出し、制服の肩に落ちる。その様子を若い女性警官は、寝不足から隈を作った目で「うわぁ……」と見ていた。
 そこでコールドウェルはさりげなく、男性警官に耳打ちをした。「……なぁ、巡査部長さんよ」
「どうかしましたか」
「アンタ、さては奥さんと別居しているね。子供にも、冷たい態度を取られてんじゃないのかい。今だって、そこのオチビちゃんの寝顔を見る目に切なさが溢れてて、情けないったらありゃしねぇよ。我が子を思い出して、悲しくなってんだろ」
「……?!」
「今は家を追い出されて、モーテル暮らし? またはホテルか、それとも署で寝泊まりしてるのか……。そこいらの事情は知らんが、身なりは清潔にしといたほうがいいよ。風呂は毎日ちゃんと入ったほうが良い。汚いヤツは身内に嫌がられ、部下には慕われない。けど清潔であるっていうのは、それだけで印象がプラスになるのさ。この近所に入浴施設もあるし、仕事上がりに寄って行ったらどうだい」
「…………」
「中年になるとどうしても蔑ろにしがちだが、案外ね、大事なんだよ。身だしなみっていうのは。綺麗にして、みすぼらしい不精髭も剃って、酒もやめれば、奥さんも見直してくれるって。ほら、ドクター・サントスを見てよ。決してセクシーでも美形でも何でもない馬面親父だが、悪い印象は抱かないだろう? 医者は清潔さが第一だからさ、身なりには気を使うわけ。精神科医となりゃ特にね。見習ったほうがいいよ、アンタ」
「……ど、どうして、そんな助言を……」
「仕事柄ってやつだね。色んな人間を見るから」
「……そうか、そうだよな。君はドクターの助手、なんだろう? そりゃ、色んな人間を見るわけだ……」
 ははは……と気拙そうに笑う男性警官は最後にそう言うと、そそくさと立ち去る。笑顔を取り繕い、仮初の笑顔でにっこりと笑ってみせるコールドウェルは、哀愁が隠し切れていないその背を見送った。
 しかしコールドウェルは親切心から、あのようなことを言ったわけではない。この場から彼を追い出したかったのだ。
「さてと。邪魔者は追っ払ったし。話を聞かせてくれないかね、お嬢さん」
何故ならそこの女性警官が、彼が居るから言えないことがあるというような面構えをしていたからだ。
女性警官は一度深呼吸をして息を整えると、膝の上に乗っている子供の頭をそっと撫でる。それから、彼女は言った。
「どうやらこの子、捨てられたみたいです。親かどうかは分かりませんけど、とにかく誰かに」
 その子は、真っ直ぐで長い黒髪をしていた。もち肌は青白くて、ゆで卵のように瑞々しい。眉毛は細く整えられているが、多分それは今だけ。きっと元は、それなりの太眉だろう。そして目鼻立ちは、どことなく北アフリカ系の民族を彷彿とさせた。混血児なのか、あるいは混血の者に似せて作られたのか……――。
 もし仮に、その子供が作り物なのだとしたら。これの製作者は詰めが甘い、とコールドウェルは顔を顰めさせる。顔の骨格は北アフリカ系の男児なのに、首から下の骨格はコーカサス系の女児なのだから。
 それは本物と敢えて違えるために、製作者が取った措置なのか。コールドウェルは全てを知っていながらも、それを黙って、眠る子供の人形を見つめていた。
「自分は彼にとって要らない子だった、だから棄てられたんだって。そう言いながらこの子、ずっと泣いてたんです。それにうちの上司は、この子が自分の名前を言えなかったから記憶喪失だって決めつけたんですけど、私にはどうにもそうだとは思えなくて……」
「そう思う理由を、是非とも聞かせてくれ」
 女性警官の話に、カルロ・サントス医師が反応を示す。そんなカルロ・サントス医師の顔は、険しいものだった。そして女性警官は、小声で話す。
「この子、名前を貰っていないんじゃないかなって」
「名前を貰っていない……だと?」
「それにまるで……自分のことを、誰かの所有物であるかのように話していたんです。この子は自分を、機械か何かとでも思ってるんじゃないのかなって。そんな風に感じられてしまって、仕方無いんです」
「……そうか。ふむ……」
 カルロ・サントス医師は腕を組み、しばし黙りこくる。それから彼は無言で、コールドウェルに視線を送ってきた。
 君は、全てを知っているんだな。コールドウェルを見るその目は、無言の圧でそう問いかけてくる。コールドウェルはそれに対し、目を逸らしてみせた。それこそが、彼女の答えだった。
 コールドウェルの反応からひとつの解釈を編み出したカルロ・サントス医師は、閉ざしていた唇を少しだけ開ける。彼は女性警官の前に跪くと、眠る子供の額を撫でた。それから彼は子供の背中に左腕を、膝の裏のあたりに右腕を回すと、そっと抱きあげた。
 すると寝ぼけ眼からハッと覚醒した女性警官は、カルロ・サントス医師に制止を求める。
「ドクター、それはちょっと駄目ですって!」
「若い君よりかは、私の方がこのテの子供の扱いには慣れている。安心したまえ。それに君は疲れているんだろう? 休んだ方がいい」
「そうじゃなくてですね、ドクター。あなたに引き渡すとしても、踏むべき手順や手続きってものが……」
「君が何かを言われるようなことがあれば、私を悪者にしてくれて構わないよ。だから、この子を預からせてくれ」
「ですから、ドクター!」
「外の駐車場で、連邦捜査局のシドニー支局長ノエミ・セディージョを待たせてるんだ。悪いが、行かせてもらうよ」
「え?」
「連邦捜査局の」
「……連邦捜査局?」
「シドニー支局長」
「……あっ……」
「ノエミ・セディージョを、待たせている。あれの気は長くない。怒らせたくないんだよ。それは君たち市警察も、同じだろう?」
「……ど、どうぞ、行って下さい……」
 市警が頼りにしている精神科医の口から突然飛び出た、まさかの大物の名前。経験の浅い若手の警官は戦慄し、恐れをなして固まった。そうして見事にカルロ・サントス医師は、思い通りにことを進めた。
 子供を両腕で抱きかかえたカルロ・サントス医師は、何食わぬ顔で部屋を出る。長い脚による大きな歩幅で、署の廊下をすたすたと歩いて行く彼の背を、ピンヒールの足で小走りに追うコールドウェルは、コツコツと靴を鳴らしながらケタケタと笑っていた。
「ドクター。アンタ、やっぱりただの精神科医じゃないね! 脅しとは、意外とやるじゃないか。今の手口はちょっとだけだが、悪辣で有名なバルロッツィ高位技師官僚に似ていたよ」
「私は、君よりもずっと多くの修羅場を潜って来ているんだ。これぐらい、どうってことない。……それもこれも全て、パトリック・ラーナーの所為だがな」
「ハッ! ラーナー次長は、どこでもトラブルメーカーっぷりを発揮していたってわけか。アタシもあの人のお陰で、修羅場慣れさせてもらったよ」
「それでだ、アレクサンダーくん。まさかこの子について、いつまでも黙っている気じゃあないだろうね」
 前を歩くカルロ・サントス医師が少しだけ後ろを向き、コールドウェルを睨んできた。それに対してコールドウェルは、ただ苦笑うのみ。
「どうしてこの子が、パトリックと瓜二つの顔をしているんだ。是非とも君に、説明をしていただきたい。どうやらこのワケの分からない混沌とした状況を、明瞭に把握し理解している人間は、君だけのようだからね」
「えっとだ、ドクター。その話は、落ち着いた場所に着いてからでも……――構わないか?」





 その顔は、髪に埋もれていた。それはまるで、花壇を埋め尽くす花のように――。その手は既に聖火をともす蝋より白く……――
「その続きは『言葉は木の葉のそよぐ調べより幽か。それを聞いても信じ難く、見守る人にのみ信じられた』……――だろう? 死に取り憑かれた詩人エミリー・ディキンソンの詩など、今はどうだっていい。それより説明をしてくれ、アレクサンダーくん」
「あのお人形さんの今の状態を表すには、その詩が一番ピッタリ当てはまるような気がしただけだ」
 朝方に限りなく近い時間帯に、やっと辿り着いたカルロ・サントス医師の自宅。そこに集っていた四人は、縦に長い長方形のテーブルを取り囲むように座っていた。
 右側にはニールとコールドウェル、左側にはカルロ・サントス医師とノエミ・セディージョ支局長が並んでいる。その中で最も機嫌が悪そうな顔をしていたニールは、ついに我慢の限界を超え、歯切れの悪いコールドウェルの胸倉を掴み上げた。
「いい加減にしろよ、アレックス! お前は、いつも、いつもそうだ! 肝心なことをはぐらかし、何も言わない。そうして全てが明るみになるのは、最悪の結末を迎えた時だ!」
「おいおいおい。落ち着けって、ニール。この問題において一番の部外者であるアンタが、なにもそこまで感情的になる必要はないだろうに……」
「ンなことはどうだっていいんだよ! さっさと言え、クソ野郎!」
「随分と血の気が多くなったようだねぇ、アンタ……」
「アーチャー、落ち着いて。エージェント・コールドウェルの言う通り、あなたはこの問題において一番の部外者よ。そしてあなたには運転手っていう大事な役目がある。だから、そこのソファーで横になって。寝ていて」
 冷静さを取り戻した支局長からの指示に、口を噤んだニールは黙って従う。コールドウェルの胸倉を掴んでいた手を離すと、椅子から立ち上がり、支局長が指し示したソファーの上にニールは腰を下ろした。
 ニールはソファーの上で仰向けになる。右の前腕で両目を覆い隠し、それから目を閉じた。けれども意識はハッキリとしたまま、一向に眠りという闇に落ちていく気配はない。張り詰めた精神は休まることを忘れているようで、目を閉じて視界が暗くなった今は、余計に頭が冴えわたり始めていた。視覚が閉ざされた分、聴覚が普段以上に活動を活発化させていたのだ。
 誰かが座っている椅子の脚が、がたがたと小刻みに揺れる音。苛立ちを募らせたように、机を手指の爪の先で、不規則なリズムで叩く音。カルロ・サントス医師の溜息。誰かの真似をしているかのように、道化を演じるコールドウェルの本題とは何ら関係のない瑣末な長話。静かな怒りに満ちた、支局長の舌打ち。朝方という時間帯で、外が静かであるから……というのもあるが、部屋の中で発生するあらゆる音が、ニールにはよく聞こえていた。
 だからこそ、イライラして、ムカムカして仕方がないのだ。
 こんなとんでもない状況下において、いつまでも大事な情報を出し渋っているコールドウェルのその態度に。
「私とカールは、この目で見たのよ。とても死んでいるようには見えなくて、薄気味悪かったリッキーの遺体が棺に納められて、墓地に埋められた瞬間を。あの子供がリッキーじゃないってことは分かっているの。だから、あの子がどういう存在なのかを教えて。それにさっきからあなたは、あの子のことを“お人形さん”と言っているけれど、それはどういう意味なの?」
 コールドウェルの態度に苛ついているのは、ニールだけではない。支局長もそう。カルロ・サントス医師も、そうだ。そうして遂に始まったのは、痺れを切らした支局長による激しい追及。
 数十人もの犯罪者たちをノイローゼにまで追い込み、洗いざらい全ての情報を吐かせたと言われている支局長の猛攻の先が今、コールドウェルに向けられていた。
「エージェント・コールドウェル。答えなさい」
「そのまんまの意味さ。お人形さん、ってのは」
 コールドウェルは余裕そうに少し笑いを混ぜながら、皮肉を言うように喋っている。だがその声の裏側には、焦りのようなものが見え隠れしていた。
 コールドウェルも、察しているのだろう。ノエミ・セディージョ支局長という人物を相手に、自分のような経験の浅い人間が弁で勝てるわけがないことを。それに支局長の横には、精神分析官としても活躍しているカルロ・サントス医師が居る。
 手練れの二人を前に、勝算は限りなくゼロに近い。コールドウェルが白状することになるのも、時間の問題だった。
 そして支局長の攻撃は続く。
「人形って、いくつも種類がある。それはあなたも知っているわよね、コールドウェル」
「ああな。可愛らしいものもあれば、醜いものもいて、中にはキモ可愛いなんていうジャンルも……――」
「中に綿や木くずが詰まっただけの人形もあれば、綿の中に簡素な基盤が入っていて、あらかじめ録音された音声を再生したり、てくてくと歩いたりする人形もある。中には、より高性能なものもあったりする。人工知能を搭載していて、自立稼働する人形もあるわ。……オートマタっていうのも、人形という枠組みに入るわよね?」
「へぇ、オートマタとは。また古典的なものを持ち出して来ましたね、支局長」
「となるとヒューマノイドも、広義の人形でしょう?」
「さあ、どうなんでしょう。アタシゃその道の専門家じゃないんで」
「エージェント・コールドウェル」
「なんですか、支局長殿」
「あなたは既に、私との勝負において負けを認めている。ここは全てを言ってしまったほうが、潔いってものなんじゃないのかしら」
「勝負って、何を言ってるんだか……」

 来たーっ。支局長の勝利宣言!

「噂で聞いたことがあるのよ。特務機関WACEは、人間と見間違うほど精巧に作られたヒューマノイドを保有しているって。そのヒューマノイドには高性能な人工知能が搭載されていて、常に最善の選択肢を導き出す、と。そして搭載されている人工知能は、この国に設置された監視カメラの全てに対して、アクセス権を持っているそうじゃない。……ブラックハット、ともいうけど」
「…………」

 アレックスが黙り込んだ、だと?!

「そしてその人工知能は、人間のような感情を持つとも聞いたことがある。二十二世紀に最高点に達し、以降その危険性から全世界で禁止され、封印された禁忌の技術が使われている、って。そういうものを作れそうな人物って、私には一人しか思いつかないのよ。例えば、十数年ものあいだ失踪中で、足跡が全く辿れない、軍事防衛部門の高位技師官僚とか」
「……バルロッツィ高位技師官僚、ねぇ……」
「情緒豊かであり、完璧な頭脳を持つ人工知能を搭載した、至上のヒューマノイド。まさかーとは思うけど……――あの子のことなの?」
 腕の下で隠れている目を、ニールはカッと見開く。支局長の突拍子もない話に驚いたからだ。
 なんだ、その話は。そう呟くカルロ・サントス医師の、くぐもった低い声が聞こえてくる。それに続いてコールドウェルが、皮肉を吐き捨てるようにこう言った。
「その仮説はあながち外れじゃないけど、ちと違うね」
 ニールはゾッとし、凍りついていた。コールドウェルが、支局長のぶっ飛んだ仮説の大筋を肯定してみせたからだ。
「特務機関WACEが、そういった機械を保有しているってのは事実だ。本物の人間であるかのように振舞ってみせる、大層に綺麗で美人なヒューマノイドでね。そいつのことをアタシ含め隊員たちは、レイと呼んでいる。性格も可愛らしくてね。とても機械だとは思えないほど、よく出来た子なのさ」
「それで、リッキーに似たあの子は?」
 支局長のその問いに、コールドウェルは言葉を詰まらせる。何から話せばいいのか、と彼女は唸っていた。
 エージェント、コールドウェル。緊張感が滲み出ている声で、支局長はコールドウェルの名を再び呼ぶ。するとコールドウェルは渋々、警察署から連れ帰ってきた人形について話しだした。
「実を言うとアタシも、詳しいことはあまり知らなくてね。どうやら元老院が作らせたレイの姉妹機らしい……っていう情報しか、アタシは知らされてないんだ。製作者はレイと同じ人物だろうと上からは聞かされていて、まあ……――お察しの通りってとこだよ」
「つまり、高位技師官僚?」
「あくまで“そうらしい”っていう情報だ。確定じゃないよ」
「……それで、姉妹機っていうのはどういうことなの?」
「レイに搭載された人工知能に、アレンジを加えたものが使われている、らしい。……これも確定の情報じゃないが、どうやらあのお人形さんは、見た目だけじゃなく中身もラーナー次長に似せて作られたみたいでね。行動パターンとか、その他諸々。あのお人形さんが完成しちまったもんだから、邪魔なオリジナルはお払い箱にされたんじゃあないのか……――と、同僚の一人は言っていたよ」
「…………」
「ラーナー次長の顔の広さと能力は、あんた方が一番よく理解していると思う。次長が持っていた人脈の利用価値は、誰にとっても十分にある。それに誰もが警戒心を解かざるをえないあの見た目と、顔からは想像もつかないえげつない才能を、欲しいと思う人間は大勢居たはずだ。けど、次長は自由意思を持つ人間。それにあの性格からして、他者にコントロールされることを嫌う人物だ。駒の本分は弁えておれど、仕えるべき主君は自分で選びたいってタイプだろ? ……だから管理者の命令に必ず従う機械で映し身を作った、ってことなんじゃあないのかい。あわよくば、次長が築いた今までの全てを乗っ取るつもりで、元老たちは居るんだろう」
「無茶苦茶な話ね……。あの機械のために、リッキーは殺されたっていうの?」
「今のは、あくまでアタシの仮説。まだ何も分かっちゃいない。それにあのお人形さんが起きてくれない限り、この話も進まないさ……」
 コールドウェルと支局長の二人の間だけで、話がどんどん進んでいく。男二人は話について行けず、置いてけぼりを食らっていた。
 ソファーの上で横になっているニールは、ただ固まっていた。動きも、そして頭も。ニールからしてみれば、女性二人の会話は理解に苦しむものだったからだ。
 感情を持つ人工知能? それって人間のクローンと同じ、この世には存在してはいけない物なんだろう? それに限りなく人間に近いヒューマノイドって……――どうなんだ? それは存在しても問題の無い代物なのか?
 なんてバカげたフィクションだ。ニールはそう笑い飛ばしたかった。けれども、それが出来ない。突飛な物語に心は拒否反応を起こしているが、頭の中では分かっていたからだ。これが、今の世界である。今、自分が生きている現実世界の姿なのだ、と。
 だってこの目で見たのだ。死後どれだけの時間が経過しようと、一向に腐敗が進まないどころか、発見現場でウジ虫のひとつも湧いていなかった不気味な死体に、よく似た姿をした機械人形。どちらも気味が悪くて、非現実的だ。だがそれが、現実で起こっている。
 それにもっと不気味なものを、ニールはティーンエイジャーの時に見ていた。
「……そうね。あの子が起きてくれないと、何も進まないわ」
「けど肝心のおチビちゃんは、ゲストルームのベッドで熟睡中。子供は一度寝たら中々起きない。気長に待つしかないね」
「ところで、あの機械の中身はどれくらいの年齢になるの? 子供、なの? それとも、リッキーそっくり?」
「さぁね、分からん。起動直後の人工知能は五歳児レベルだと、レイは言っていたが……――起きてみないことには、ねぇ」
 あるときニールの前に、特務機関WACEの者だと名乗る、枯草色の髪の男が現れた。その男は、同じくその場に居たパトリック・ラーナーに、こう呼ばれていた。“上官サー”と。
 その男は、とっくの昔に死んだはずの大罪人にそっくりの顔をしていた。そして男の目は、異質だった。どういうわけか虹彩は、蒼白く光り輝いていた。それでいて、人の目ならばあるはずの黒い穴が、瞳孔が、なかったのだ。
 その男は、何もかも知っているような口ぶりで話していた。そして男は自分自身のことを、暗に化け物であると言っていた。それから男は、ニールにこうも言った。
『……君も、こんな末路は辿りたくないだろう? だったら、下がりなさい』
 ニールはあの日の出来事を、あの男の存在を、何度も否定しようとした。何度も否定しようとして、何度も同じ答えにぶつかった。あの男は存在する。化け物はこの世に実在するんだ、と。
 特務機関WACEの長。“上官サー”アーサー。連邦捜査局に入局してから、幾度その名を聞いたことか。コールドウェルから聞いた。局長からも聞いた。他の捜査官たちが、噂をしているのも聞いた。WACEのボス。瞳孔の無い瞳。瞬間移動の能力を持っていて、どこにでも現れる。首相も大統領も恐れをなす、神出鬼没のサー・アーサー。
 単なる噂だと笑う人間も居た。彼の存在を信じている者も居た。居るわけがないだろうと真っ向から否定する人間も居た。何でもないことのように、あっけらかんと存在を認める者も居た。多種多様な人間が居て、様々な解釈が世間には広まっている。けれどもニールは、たった一つの事実を知っていた。サー・アーサーは間違いなく存在する。そして彼は、本物の化け物だった。
 サー・アーサーのような化け物が存在するなら、人間にどこまでもそっくりな機械も居るのだろう。人間を遥かに超えた能力を持つ人工知能だって、あるのだろう。頭では、分かっている。だが心の理解が、追いついていないのだ。
 そんなニールと同じような状態に、カルロ・サントス医師も置かれていた。
 彼もいくつか不可解な事件に関わったことがあった。アバロセレンがらみの犯罪は常に予測不能で、何が起こるか、何が起こされたのかなんて、常識からは想像も出来なかった。それにモンスターも同然の犯人と対決し、無残にも敗れ去って、未解決のまま葬り去られた事件もあった。かつてのASI長官が暗殺された事件も、それに付随してとある局員が右腕を奪われ、挙句に精神崩壊に追い込まれた事件も、犯人は分かっていたにも関わらず、逮捕にまで至らなかった。何故なら、犯人が化け物だったから。殺しても死なない、モンスターだったから。それでいて人間の世界において強大な権力を持つ者だったから。
 世の中には、人知を超えたものが存在していて、それらは人の世に少なからず影響を及ぼしている。もしくは“彼ら”に下等な人類は支配されている。そのような構図を、カルロ・サントス医師は垣間見てきた。だが彼もニールと同じで、認められなかった。いや、認めたくなかったのだろう。人間がどう足掻いても、決して勝つことが出来ない敵がいるという事実を。
 その“敵”が新たに人間をからかう道具として送り込んできたのが、あの人形。奇しくもよく知る人物に似た姿をした、あの人形なのだ。
「ところで、アレクサンダーくん。君はあの子の……――いや、あの機械の名前を、知っているのか?」
 青褪めた顔のカルロ・サントス医師が、やっとの思いで絞り出した言葉が、それだった。それに対し、コールドウェルは頷く。
「アーティフィシャル インテリジェンス、デバッグ。頭文字をとって、AI:D。通称、エイドと呼ばれているらしい。エイドは見た目こそ次長にそっくりだが、レイのシステムをベースにしている関係で、性自認は女性だそうだ。ボディもそうなっている……らしい。きっと製作者も、完全に同じものは作りたくなかったんだろうね、多分」
「なるほど。パトリック・ラーナーではなく、パトリシア・ヴェラスケスというわけか。皮肉な話だな……」
 呆然とした顔で、カルロ・サントス医師はそんなことを言う。その横で支局長は、ブッと噴き出していた。
「それって、リッキーが女装で潜入したときの名前じゃない! アハハッ、懐かしー! すっかり忘れてたわ」
 大口を開けて笑い転げながら、目からうっかり零れた涙を支局長は指で拭う。支局長の明るい笑い声を聞いたニールの緊張が、ほんの一瞬だけ緩んだ。その瞬間、綻びから強烈な睡魔がニールに襲いかかる。腕の下に隠れていた目が閉じ、ころっと浅い眠りに落ちていく。
 間隔が広くなり、浅くなった寝息。それを横目で確認したコールドウェルは、にやりと笑う。そんなコールドウェルの様子に、支局長は首を傾げる。カルロ・サントス医師は無言で立ち上がると、寝室に向かった。
「どうしたのよ、エージェント・コールドウェル。なんでニヤついてるの」
「ニールの野郎が、ようやっと寝たみたいで。まさか支局長の笑い声を聞いた瞬間、ことんと眠っちまうとは思わなくてさ」
「えっ、私の笑い声で寝た? というか彼、まだ起きてたの?」
「そうですよ。ずっと盗み聞きでもしてたんでしょうねぇ」
 なんか、失礼って感じだわー。支局長は眠るニールを細めた目で見ながら、そう言う。するとそこに、毛布を持ってきたカルロ・サントス医師が戻ってきた。
「カール。もしかしてあなたも、アーチャーが……」
「ずっと盗み聞きをしていたそこの彼は、漸く寝たみたいだな。ノエミの笑い声を聞いた途端に眠りに落ちるとは、面白い子じゃないか」
 やつれきった顔に疲れ切った笑みを浮かべるカルロ・サントス医師を、支局長は凝視する。それから支局長はまたコールドウェルを見ると、またカルロ・サントス医師を見る。そして支局長は言った。
「あなたたち二人して、超能力者か何かなの?」
「いや、見てれば分かることじゃないですか」
「アレクサンダーくんの言う通りだ。観察していれば、簡単に分かることだ」
「えっ。えー……――」
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