ディープ・スロート//スローター

She's "Redrum". ― その瞼を閉ざせ

 ニールがシドニーの自宅に帰りついたのは、葬儀があった翌日の夜。疲れ切ってへろへろで、今にもぶっ倒れてしまいそうなニールを出迎えたのは、しかめっ面のシンシアだった。
「お帰りなさい」
 乱暴に開けられた玄関のドア。その中で待っていたのは、あからさまに頬を膨らませ「私、不機嫌ですよ」アピールを猛烈にしているシンシア。顰められた顔に細くなった目で、彼女はニールを睨んでくる。「ただいま」よりも先にニールの口から飛び出したのは、謝罪の言葉だった。
「シンシア。本当に、すまない。局長に急用が飛び込んできて、俺もそれに付き合ってたら、こんな時間に……」
「遅くなるとは聞いた。けど翌日の真夜中に帰ってくるなんて、聞いてない」
「だから、本当にごめんって。シンシア……」
 ニールの言い分などロクに聞くこともなく、彼女は自分の寝室へと戻っていってしまう。その歩みは、どすどすと力強く、苛立ちに満ちたもの。家の中に入り、玄関のドアに鍵を掛けたニールは、勘弁してくれよと頭を抱えていた。
 昨日は、大声を上げたい衝動を必死に堪えながら、騒がしい酔っぱらいを連れてキャンベラ市内をドライブ。そして今朝は、非常にネガティヴな性格の暗くて泣き虫な女の子(のように見えるヒューマノイド)を相手に、ぶん殴ってやりたい衝動を必死に堪えて、笑顔を作っていた。
 それからヒューマノイドを精神科医とコールドウェルに託し、日中は支局長とシドニー行きの高速道路をドライヴ。あまりにも酷過ぎる支局長の鼾に、ブチギレてしまいそうになるのを堪えて、どうにか支局長を自宅に送り届けてきたのだ。そうして家に帰ろうとタクシーを拾ったら、そのタクシーの運転手がやたらお喋りなオッサンで、一睡もさせてくれなかったのだ。
 そうこうして家に着き、踏んだり蹴ったりで散々な目に遭った二日間が幕を下ろしたかと思ったら……――つまらぬ試練は、まだ続いていた。
「シンシアぁー。勘弁してくれよぉー……」
 シンシアが不機嫌な理由。それはニールも、よく分かっている。ニールが、約束を破ったからだ。始めは日帰りだと言ったのに、それが「やっぱり遅くなる」となり、結局「翌日の夜遅くの帰りになった」のだから。世間知らずでお嬢様育ちであるシンシアは、臨機応変というものを知らない。約束は絶対である。それに自分が居ない場に、自分以外の女性が同伴するとなれば、尚更にだ。
 シンシアの、そういうブレない真っ直ぐなところにニールは惚れたようなものなのだが、こうも疲れているときにまでそういう態度を貫かれると……――グサッと胸に刺さるものがある。瀕死の重傷を負っているハートに追加で突き刺さる一本の槍は、ずっしりと重みのある強烈な一撃となって、ぼろぼろのハートを見事にブレイクした。
 相手がたとえ――酒癖がひどく、酔っぱらうと醜態を晒し、鼾も中年男性のそれよりもよっぽど酷く、色気なんてこれっぽっちもなく、仕事だけが取り柄と言っても過言じゃないような、とても女性としては見られない――ノエミ・セディージョ支部局長だとしても、シンシアは釈明を聞き入れてはくれないだろう。セディージョ局長の中身はただのオッサンなんだ……なんて言ったところで、シンシアは「そう、ならいっか(つまり私の方が格段にイイ女ってことよね♪)」とはいかない。世の女性ほど複雑に入り組んでいない分、こういうときの扱いが非常に難しいのだ。
「シンシアぁ~、頼む、許してくれぇ~。君が大好きなフレンチトーストを何枚でも焼いてやるから、ホントに……。もう俺、昨日今日とで散々な目にあって、身も心も限界なんだよ。支部局長は酒癖も酷いし、ずっと泣きわめいてるし、鼾も酷いしで……。それなのに、君まで……」
 ニールは今にも涙が出てきそうな震える声で懇願するが、シンシアからの応答は何もない。ニールは膝をつき、がっくしと項垂れる。その瞬間、疲れ切った脳味噌が活動を緊急停止させた。バタンっとその場に倒れ込んだニールは、そのまま冷たい床の上で眠りに就く。しかしシンシアは、やはり助けに来なかった。





 シドニーに帰り着いたニールが、自宅の床で熟睡している頃。キャンベラのカルロ・サントス医師の自宅にまだ居たコールドウェルは、我慢の限界を迎えようとしていた。
「どうせあなただって、僕なんか消えればいいって、そう思ってるに決まってるんだ」
「だから、そうじゃないって。そう言ってンじゃねぇか……」
「嘘に決まってる。だってアドミニストレータは、そう言った。お前なんか生まれてくるべきじゃなかったって。だから彼は、僕を赤い斧で壊そうとしたんだ」
「それで君は必死の思いで、どこともしれない郊外から都市部に逃げて来たんだよねぇ。怖かっただろうに。けどここは安全だ。何故なら、このアタシが居るかッ……――」
「特務機関WACEは役立たずのゴミだって、エズラは言ってた」
「あのなぁ、ガキんちょ。思っていても言っちゃいけないことって、あるんじゃあないのかい?」
 コールドウェルは笑顔を保とうと必死の努力を続けていたのだが、笑みを浮かべるその口角はぴくぴくと引き攣り始めていた。何故なら目の前のクソガキ――“エイド”と呼ばれるヒューマノイド――が、あまりにも不躾極まりなかったからだ。
 普段の自分の言動を顧みると、あまり人にどうのこうのと言えたことじゃないとコールドウェルも分かっていたが、それでも我慢ならない。
 そうして遂に、コールドウェルの我慢の限界が近付く。
「ずっと聞いてりゃ、無茶苦茶ばっかりじゃねぇか。このクソガキが。いつまでもウジウジしてんじゃねぇよ。見苦しいったらありゃしねぇなぁ、おい?」
「……ッ!」
「ああ、そうだよ。アンタは、アドミニストレータに棄てられたのさ。可哀想なエイドちゃん。システムにインプットされた指示は、ただ一つだけ。パトリック・ラーナーという死人になりきれって、それだけだ。けどアンタは、パトリック・ラーナーにはなれない。だってパトリック・ラーナーは、多くの人に愛されていた。多くの人が、彼の死を悲しんだばかりだ。それなのにアンタが表の世界にぽっと出れば……非難は轟々。アドミニストレータの意見が正しいよ、アタシもそう思う。アンタは要らない子だ。目的があって造られる命ほど、虚しいものはないよ。なぁ、アンタも分かってるんだろう、エイドちゃん」
「……ぅっ……」
「なら、アンタに残された選択肢はふたつだけ。ここでスクラップにされるか、システムにインプットされているその役目を放棄して自由になるかだ」
「命令は、絶対。そんなの、無理だよ……」
「難儀なもんだねぇ、機械ってのは。じゃあ仕方ない。黒服にブロンドのイカついシスターが、巨大なマスターキー(緊急時脱出用として建物に備えられている、赤い斧の隠語)を使って、今ここでスクラップにしてやる。安心しろ、全ては一瞬で終わる。さっ、この世にさよならをしようか。バイバイ、ワールド」
「それはヤダ!」
「なら、その命令とやらを今すぐ放棄しろ。死者への冒涜は重大な罪だ。刑法で罰せられることはなくとも、人はアンタを許さないだろうよ」
「でも、でも、そんなの、エズラが許さないよ……」
「へぇ。てこたぁ、アンタの主はエズラ・ホフマンなのかい?」
「……うん」
「なるほど、あのエズラか。……あのクソジジィがいかにもやりそうな、卑劣な手段だねぇ」
「…………」
「で、どうする。エイドちゃん。スクラップになりたいか?」
「イーヤーだー! 絶対に、イヤーッ!」
 朝からずっと、エイドはこの調子だった。卑屈な言葉を連ねては、ぎゃんぎゃんと泣いて、不貞腐れる。その様子に対しカルロ・サントス医師は、こんなことを言った。これじゃまるで退行を起こした思春期の少女だ、と。
 そんなカルロ・サントス医師は、コールドウェルにこの駄々っ子を託し、自身が運営する心療内科に出勤していった。君を信じているからね、とコールドウェルに言い残して。
「……あー、ドクター。早く帰ってきてくれよ……」
 そしてカルロ・サントス医師は朝、こんなことを言っていた。
『パトリックのほうが、よっぽど厄介だった。この子のほうが、まだマシだと思うよ。……まあ、頑張りたまえ』
 カルロ・サントス医師が言うには、二〇代の頃のパトリック・ラーナーというのはまあ酷かったそうだ。パトリック・ラーナーのそれと比べれば、エイドはまだまだ可愛いものだというらしい。カルロ・サントス医師からすれば、だ。
 しかしコールドウェルがこのような子供を預かるのは、初めてのこと。学生時代には有名な某大学病院の精神病棟で、看護助手のアルバイトをしていたが……――その時に関わった患者の大半は、認知症初期でほんわかとした雰囲気のご老人たち。それか重い鬱病を訴える患者たちだ。のほほんと穏やかな時間か、どんよりと沈んだ重苦しい時間かの二択しか、経験がなかったのだ。泣いて叫んで暴れる子供を相手にするのは、元より子供が苦手だった彼女にとって、初めてのことである。
「イヤだイヤだって泣いたところで、何も進まねぇぞ。壊されるのは嫌だ、けど命令は破棄できない。じゃあテメェは、何がしたいんだって話だ。答えろ、エイド。テメェは、どうしたい」
「そんなこと言われたって、分かんない!」
「少しは考えろ。そのご立派な人工知能とやらを動かせ!」
「僕は、レイとは違う! レイみたいな自由な思考を、僕はアドミニストレータから与えられてないもん!!」
「ンなこと言われたって、アタシゃ知らねぇよ。んじゃ、いっちょアドミニストレータにでも会いに行くか? 僕にもレイと同じ機能をくださいーって、頼みに行こうじゃないか」
 アドミニストレータとは、そのままの意味。エイドのシステムに改変を加えられる、管理者権限を唯一保有している人物のことを指している。つまりこの自動人形の製作者であり、管理者のことだ。
 ソファーの上で膝を丸めて縮まり込むエイドの前に、仁王立ちで聳えるコールドウェルは、三白眼のきつい目でエイドを見下ろす。するとラーナー次長に似ているようで、やや違っているエイドの顔が歪む。真黒だった次長の目と違い、明るい茶色をしているエイドの人工の瞳が、込み上げてきた涙のような液体で揺らいだ。
 そしてエイドは泣きそうな声で、こう言った。
「それは嫌だ! 絶対に、僕はアドミニストレータに壊される……」
 ブチッ。コールドウェルの中で、何かが切れた。
「ぬああああああああ! だから、テメェはどうしたいんだ!?」
「分かんない!」
「分かんない、じゃねぇんだよ! 考えろってンだ!! その頭を、動かせ! なぁーにが『僕はレイと違う』だ。同じようなもんだろうが。レイは自分がどうしたいか、それをひとりで決められる。テメェにだって出来るだろ。やれ。さぁ、早く。決めろ。今、この場で」
「無理だって、言ってるじゃん!」
「無理もクソも、アタシが知ったことか! やれって言ってんだよ。さもねぇと今すぐテメェを、斧でぶった切ってぶっ潰して、粉々の、ギッタギタに……――」
 カチャッ……。玄関の鍵が解錠される音がした。扉が閉まり、足音も聞こえてくる。リビングに近付いてくる、男性の足音が。そして呆れかえったような溜息も、コールドウェルには聞こえた。
 こりゃ完全に、やっちまった……。目の前で大泣きするエイドを上から見下ろすコールドウェルは、握りしめた掌に汗を握る。いやに湿っぽくて、べとべととしているような、気持ちの悪い汗だった。
 するとコールドウェルの背後から、咳払いが聞こえてきた。
「アレクサンダー・コルトくん。どうやら君は、私の期待を見事に裏切ってくれたようだ……」
「ドクター。アタシの名前は、アレクサンドラ・コールドウェルだ。その名は」
「今は、君の名前のことで議論を交わす気はない。代わりに、聞きたいことが山ほどある」
 コールドウェルはゆっくりと、後ろに振り返った。後ろには案の定、真顔のカルロ・サントス医師が立っている。
 彼の垂れ目に灯るぼやけた光の名前は、失望。カルロ・サントス医師はコールドウェルの顔を見てから、ソファーの上で膝を抱えて泣きじゃくるエイドを見る。それから彼は、コールドウェルに言った。
「君は、あの子に何をしたんだ」
「まあ、その。アレだ。……脅し、ってヤツかな」
「それが、君の組織のやり方かね」
「いいや。アタシの師匠のやり方ってとこだな」
「師匠?」
「そう。ラーナー次長」
「あいつは、もっと理性的だ。先ほどの君のアレは、ただの」
「感情に任せた暴走? あぁーっ、分かってるよドクター。そうだ、その通り。アタシに子供のお守は無理だった。こんなクソガキの相手、もう二度と……」
 コールドウェルがそう言いながらエイドを指差した、そのときだった。携帯電話の着信音が同時に、二か所から鳴る。ひとつはコールドウェルが穿いていたスラックスの、尻ポケットから。もうひとつはカルロ・サントス医師が携えていた、黒革の鞄から。
 コールドウェルとカルロ・サントス医師の視線は一度交わり、またすぐに離れる。お互いに背を向けた彼らは、同じタイミングで電話に出た。
「こちら、コールドウェル」
「ドクター・サントス。こんな夜遅くに、どうしたんだ」
「……」
「…………」
「キャンベラの墓地で墓荒らしが出た? おい。ちょっと待ってくれ、ルーカン。その墓地って、政府の殉職者が埋葬されてる、あの……」
「なに? 施設を抜け出して、ひとりで墓参りに行っただと? 何を考えてるんだ、レオ。君はまだ未成年なんだぞ。こんな夜遅くに、子供ひとりで郊外に繰り出すなど……――なんだと?」
「あぁ、そうか。アンタが今、こっちに向かってるんだな。で、アンタがエイドの面倒を見ると。それでアタシは、例の墓地に行けばいいわけだな。それがサー・アーサーの命令だと。了解、すぐに向かう」
「ちょっと待て、レオ。状況を整理させてくれ。君は、ラーナーの墓に向かおうとしたんだな。そうしたら、ラーナーの配偶者だと名乗る先客が居て、家族が眠る他の墓地に移すからと墓を掘り起こしていたと。それが三十代半ばぐらいの白人の女で、髪は栗色だったんだな? なんとなく危険を感じた君は、物陰に隠れた。そうしたら、銃声が鳴った。しかしその女は構わず棺を車に乗せ、どこかに行ってしまったのか。そうか、分かった」
「おい、ドクター」
「それでレオ、今どこに居る? ……まだ、墓地に居るのか? 分かった、今すぐそっちに行く。絶対に、場所を移動するんじゃないぞ。そうだ、良い子だ」
「ドクター・サントス、ちょっとアンタ!」
「……何だね、アレクサンダーくん。今から私は聞かん坊を迎えに行かなければ」
「今のアンタの会話。どういうことだよ」
 通話を終えていたコールドウェルは携帯電話を尻ポケットに戻しながら、キツい眼光でカルロ・サントス医師を捉える。カルロ・サントス医師も携帯電話を鞄に押し込むと、コールドウェルの目を見た。
「墓荒らし女の話題だ。どうしてアンタの口から、その女の話が出た。今の通話相手は、誰だ」
 コールドウェルはそう言い、カルロ・サントス医師に詰め寄る。コールドウェルの気迫は、緊張に満ちていた。しかし若い娘の威圧ごときで、ベテラン精神科医は動じない。
 もっと恐ろしい殺気に満ちた凶暴な患者たちや、頭のネジが数本ぶっ飛んだイカれた犯罪者たちを、今までどれほど相手にしてきたことか。引っ掻かれ、噛みつかれ、ナイフで切りつけられ、あやうく銃で撃たれかけ……――したくもなかった数多くの経験を、彼は積んできたのだ。そんな彼にとってコールドウェルの威圧など、恐るるに足らぬものだった。
「さっきも言っただろう。聞かん坊を、その墓地まで迎えに行く。電話の相手は、その悪ガキだ」
「悪ガキ?」
「君も覚えてるんじゃないのか、アレクサンダーくん。レオンハルト・エルスター。以前、ラーナーが君を巻きこんで、あの少年に事情聴取をしただろう」
「……あの、金髪の?」
「ああ、あの金髪碧眼の少年だ。それに君と私の目的地は、どうやら同じであるようだ。なんなら君も、乗っていくかね」
 このドクターと居ると、どうにも調子が狂わされる。心の中で、コールドウェルは愚痴を零す。それから心とは裏腹に、コールドウェルは表情を緩めさせた。
「そうしてもらえると、助かるよ」
 するとコールドウェルがそう言った直後に、来客を告げるインターホンが鳴る。玄関の向こう側からは、時間帯も考えずにキーキーと騒ぐ女性の声が聞こえてきた。
「ドクター・サントス、それとアレックス! 居るんでしょー、ドアを開けてー」
 コールドウェルにとって、その声は聞き慣れたもの。毎日のように聞いていて、どこか飽き飽きとした気分すら覚える声だ。
 そしてカルロ・サントス医師にとって、その声は聞き覚えがあるもの。随分と昔に聞いたことがある、どこかゾクッと背筋が震える声だった。
「今の声はもしや、アイリーン・フィールドか?」
 眉を顰めさせるカルロ・サントス医師は、コールドウェルに尋ねる。するとコールドウェルは首を縦に振り、頷いてみせた。
「その通り。今、外で騒いでいる彼女はアイリーン・フィールド。ドクターも、アイリーンは知ってるんだろう?」
「知っているからこそ、訊いているんだ。彼女は、何の用があってうちに来たんだ」
「そこのクソガキ、エイドを引き取りにきたんだ」
「あの子を、アイリーンが?」
「アイリーンは機械の専門家だよ。アタシがずっと面倒を見続けるより、彼女に任せたほうが安心ってもんだろ」
「そうだな。彼女のほうが、君よりもずっと、何百倍も、安心できる」
「…………」
「事実を述べたまでだ」
「分かってるよ、ドクター。それよりさっさと行こう。ほら、車のキーを貸して」
「なに? 私の車を、君が運転するとでも言うのか」
「そうだよ。アタシのほうが、早く目的に着けるからね」
「……危険だ。危険すぎる」
「早く。キーを出してくれ」
「…………」
「ドクター、急いでるんだよ」
「……分かった。だが、私の車に傷を付けることは、許さないからな」





 彼が乗ってきた電車は、終電の一つ前のものだった。
 彼が駅を降りてから、もうだいぶ時間が経っている。終電はとっくに仕事を終えているだろうし、今朝まで帰る脚は何もないだろう。それに彼は、帰りの電車賃を持ち合わせていなかった。
 タクシーに乗るお金など、当然持ち合わせていない。宿賃もない。それに子供ひとりだけでモーテルにでも行けば、通報されて、補導されるのがオチだ。
 けれども別に、彼は悲観視をしていなかった。迎えに来てくれる大人を、彼は知っていたから。
 それは彼が、唯一信頼している大人。もしくは大勢のパトカーと、怖い顔をした警察官たちだ。
「国営の墓地だってのに、警備も柵の間もガッバガバ。こんなんじゃ、墓荒らしが来ても文句は言えないよねー」
 そう呟きながら少年は、監視カメラが一台も設置されていない死角に入ると、柵の広い隙間を潜りぬける。なけなしの小遣いで買った白百合の花束を大事そうに携えた少年は、政府に仕え、そして散っていった殉職者たちが眠る国営の墓地に忍び込んだ。
 少年の目的は、墓荒らしではない。ここに眠ると聞いた一人の死者に、せめてもの感謝を捧げに来たのだ。
「……そういやカルロのおっさんに、どこにあの人のお墓があるとか聞き忘れたなぁ。どうしよ、困ったな……」
 あたりは真っ暗。よりによって今晩は三日月で、月の明かりは心もとない。建物らしい建造物は見当たらず、夜闇でより鬱蒼とした森が周囲には広がっている。周辺に光らしい光がないため、お陰で曇りのない夜空には満天の星が散りばめられていた。
 真夜中でもライトが燦々と輝く、必要以上に明るい都市部ではまず見られない星空。普段は地上の眩しさに掻き消され、目にすることが叶わなかった小さな星々が今、少年の目に映っている。その小さな星たちに、墓石に刻まれた名前たちを照らし合わせながら、少年は羽織っていたジャケットのポケットを漁る。
「……っと、あった。んー、まあそんな明るくないけど、ないよりはマシだよね」
 少年が取り出したのは、ペンライト。ボールペンの尻に、申し訳程度の懐中電灯がついたものだ。少年は、取り出したペンライトの電源を入れる。カチッという音のあとに、それなりに明るいが、照らしてくれる範囲が狭いライトがともった。
 それから少年は、墓地の中を歩いて回った。頼りないペンライトの光で墓石の名前を確認しては、違う人だと次に行って。また見ては、違うと次を見て……。その作業を繰り返して、三〇分が経った頃だ。少年の足音以外の物音が、はじめて聞こえてきたのだ。それから、ふたつのキツい明かりが遠くに見え、消える。それが駐車場に留まった車のフロントライトだと理解したとき、少年は慌てて物陰に逃げ込んだ。
 息を殺し、少年は気配を消す。すると遠くから、男女の声が聞こえてきた。それから、なにかの機材でも持ち込んだかのような強烈に明るい光が、暗闇に包まれていた墓地を照らす。どういうわけか、金属がカンカンッとぶつかり合う音も聞こえてきていた。
「だーから、書類を見せたでしょー? 頭カタいなぁ、墓守さん。私だって本当はスっ飛ばしたかったけど、お役所でちゃーんと手続きして、許可貰ってるのー。だから彼は、うちに連れて帰る。家族のお墓に移すわ」
「ですから、お話を聞いて下さい。その書類は民間の墓地でのみ適用されるものであって、ここは国営の墓地です。それに、ここに眠る方々は政府職員ないし関係者であった方々なんです。あのような略式の書類数枚で、掘り返しの許可を与えるわけにはいきません。裁判所命令が必要になります」
「じゃあ、なに? パトリックを、家族と離れたこんな場所に置いて行けって言うの?」
「はい、そうです。そもそも、この墓地に埋葬されるというのは名誉なことであり、ご本人もそれを……」
「アンタに、彼の何が分かるっていうの? 家族でもないのに?」
「それについては返す言葉もありませんが、ですが」
「なによ、たかが墓守のくせに! 偉そうな口をきいて、政府職員のつもりなの?」
「ええ、実際に。司法省の者ですが」
 パトリック。覚えのある名に、少年はビクッと背筋を震え上がらせた。なにせ少年が探していたのは、その人物だからだ。
 パトリック・ラーナー。その人物は少年がまだ五歳だったときに、少年の姉が事故死した事件を調査していた。二十五歳以上も年が離れていた姉は、アバロセレン技士をしていた。その姉はある日、少年の目の前で焼け死んだ。突然体から強力な電気を発現させ、その電気に襲われ、死んだのだ。おんぼろの家の中で。
 警察は早々に事故死と決めつけ、捜査を打ち切った。事故死というのは事実であった。けれども、その判断には問題があった。事故原因の所見が、正しくなかったのだ。
 警察は、姉の死は落雷による感電死だと決めつけた。姉の遺体のありさまは酷く、そうとしか言いようがなかったのだ。けれども姉の死の前後に、落雷を伴う雨がアルストグランに訪れていなかった。じゃあ原因は何なのか? そこに深く関連していたのが、姉の職業だった。
 アバロセレンによる人体の変異。それに伴う負荷に、体が対応できなかった。それが、姉の死の答えだった。
 姉の死の直後、少年のもとにパトリック・ラーナーと名乗る人物が来た。彼だけが、少年の話を真摯に受け止めてくれた。姉の体から電気が出た、という突飛な話を。そして彼が、姉の死の原因を解明してくれたのだ。
 だが結論から言うと、姉の事件は落雷による感電死として処理され、真実が明るみになることはなかった。けれども少年は、そのことに悔しいといった憤りを覚えていない。
 姉は死んだ、もう戻ってこない。でもその死は、決して無駄になっていないと、少年は思っている。何故なら少しずつだが、アバロセレン工学の界隈で、アバロセレンが人体に及ぼす影響についての調査が、国を始めた至るところで進んでいるからだ。
 その調査を進めるようにと、各所に圧力をかけたのがパトリック・ラーナーであると、父親代わりの精神科医から少年は聞かされていた。だから、少しでもお礼がしたくて、今日はここに来たのだ。
 彼の墓を見つけて、そこに花を供えたら、少年は児童養護施設に大人しく帰るつもりでいた。ただ、それだけのつもりだったのに。なんだか事態は、面倒な方向に進みそうな気配を濃厚に臭わせつつある。気配を消そうと努力する少年は、不安や恐怖から目を逸らすために、拳を強く握りしめていた。
 するとまた、女の声が聞こえてきた。
「へぇー、あっそ。司法省なんだ。ケテルが最近の根城にしてる、あの司法省。ふーん……」
「ケテル? 誰のことです」
「そーいや、アイツ。最近はまた若い男のフリをして、マイケル・バートンって名乗ってるんだっけ。あれっ、それとも白髭のエズラ・ホフマンだっけ。もうちょっと名前のバリエーションとか、ないのかなー。あいつ」
「マイケル・バートン……副長官……?!」
「はぁ、司法省か。ケテルの息が掛かってると思うと気に食わないなぁ。というわけで、君を消す。じゃあねぇー、バイバァ~イ♪」
 消すって、何を。それが男の、最期の声だった。豪快な銃声が鳴り、女の気味の悪い笑い声だけが淋しく広がっていく。
「あっははー、イェーイ! サイレンサーつけるの忘れちったけど、まー聞いてる奴なんかいないよねー。ジェドに後始末がどうのって怒られるだろうけど、まあいっか。うふふふ、アハハ!」
 その後には、土をさくさくとシャベルで掘り出す音が続いた。女の不気味な独り言も聞こえてきた。

 愛してる。本当に可愛い。私のいとしい天使。
 殺してしまいたいほど、愛おしい。
 まっ、私が殺したんだけどね。
 もう一回生き返らせて、また殺してみようかな。
 ならキミアの力を借りなきゃ。でもキミアってカタブツだからなー。
 んじゃジェドを頼る?
 でもジェドもキミアに育てられてるから、やっぱカタブツだし。
 じゃあ、どうする?
 またジェドに頼んで、レプリカを作ってもらう?
 あーん、どうしよう。私の愛しい玩具、パトリック。
 冷めて凍えた目を見せて。
 その目が恐怖に支配される瞬間を私に頂戴。
 声を押し殺して泣く姿を見せて。
 絶望と恐怖は何よりも美しい。
 可愛らしい顔が、苦悶に歪むときを見せて。
 その瞬間が、一番愛おしいの。
 その口から慈悲を乞う言葉を、私にだけ捧げて。
 その目から零れ落ちる涙を、私にだけ捧げてほしいの。
 強気なパトリック。一度も弱さに甘んじなかったパトリック。
 だから弱さに打ちひしがれて震えて怯える姿を、見せてほしいの。
 甘えて啼く声も聞かせて。男相手じゃなく、私に。
 快楽に呑まれて、恍惚に身を任せ、よがる姿も見てみたいの……。
 はぁ~ん! 想像するだけで、やる気が湧いてくる!
 待っててね、パトリック。
 私の天使。いちばん愛しい玩具。
 もうすぐ冷たい土の中から出してあげるから。
 私と一緒に居よう。ずっと、ずっと。
 あのときはゴミ捨て場になんか放置して、ごめんなさい。
 ケテルに邪魔されたから、あなたを置いて逃げるしかなかったの。
 だから未来永劫、この世界が終るまで。
 これからはずっと、ずっと、ずーっと一緒。
 生き返らせてあげるからね、パトリック。
 だから最期の言葉を、訂正して。
 最期の言葉が私宛てじゃないなんて、あんまりだわ。
 どうしてこの私よりも、精神科医のほうが良いわけ?
 カルロ・サントス、それとノエミ・セディージョ。
 納得できない。
 だから絶対に、あなたを連れて帰るんだから。

 女の口から紡ぎだされる呪縛のような言葉に、少年はぞっと怯えながらも、必死に気配を消し続けた。やがてシャベルを放り投げたような音が聞こえてきた。それから重いものを引き摺り出す音。それから、引き摺ってどこかに運ぶ音。やがて女の声と物音が遠のきはじめ、少年は恐る恐る物陰から顔を出す。
 掘り返された地面に、ぽっかりと空いた空洞。土の山。死んでいる男。赤茶色く錆びついている、年代物のシャベル。そして引き摺られていく白い棺。棺を引き摺る、女の背中。
「……もしかして、オレ、すごい現場を目撃した、ってカンジ……?」
 暗闇の中、女の姿はよく見えなかった。せいぜい分かったことといえば、女の身長と髪色くらい。女の身長は高く、ざっと一八五センチメートル弱。栗色の髪はストレートで、肩に掛かっているくらいの長さ。そして頭には、ビビッドピンクらしきニット帽を被っていた。
 服はタンクトップのような真っ白のセーター。袖はないが、タートルネックがついている。穿いていたのは、カーキのような明るい茶色のホットパンツ。真っ白で細い脚と腕は剥きだし。ということは、きっと白人なのだろう。靴は、たぶん真っ赤なハイカットスニーカー。それと柄はよく見えなかったが、右の二の腕にはタトゥーのようなものが入れられていた。
 いくつかのリングが規則的に散りばめられ、それが線で結ばれ何かの形を作っていた、よく分からない模様。それはどこか、魔法陣といったオカルトの分野の文様のようで……。まだまだ知識の浅い少年には、その正体が分からなかった。
 女の特徴を頭の中に叩きこむと、少年は一度深呼吸をする。すると遠くのほうで車のフロントライトが光り、どこかへと去っていった。
 さて、もう気を緩めても良い頃だろう。少年は別の人に渡す予定だった花束を、新たに増えた墓場の死者の横にそっと置く。それから施設の職員に買ってもらった安い携帯電話を取り出し、とある人物の番号に掛けた。
「……あっ、カルロのおっさん。実は今、バーソロミュー記念霊園に居てさ。んで、その、墓荒らし女を目撃したってとこかな」
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