ライオン・ザ・スターヴィング

 時は四二八七年、空中要塞ことアルストグラン連邦共和国。その大都市である、シドニーの某所。
「……シンシアにまた文句を言われるな……」
 部下も大半は帰り、随分と静かで少しばかり寂しくもなったオフィスの隅。そこに置かれていた小さなスツールに腰を下ろしつつ、ため息がちにそう言ったのは、連邦捜査局シドニー支局勤務の特別捜査官、ニール・クーパー。
 そんなニール・クーパーがふと溢した愚痴に対し、スツールの近くに設置されていたソファーに我が物顔で座る女は、舌打ちを返す。
「アタシは、筋は通しているつもりだけど」
 喪服のように思える黒のパンツスーツの中にその身を隠し、カールが掛かった長いブロンドの髪を後ろで結いまとめるその女の名前は、アレクサンドラ・コールドウェル。謎の特務機関から派遣され、連邦捜査局にちょくちょく顔を出している女である。
 そんな女の正体は、ニールの幼馴染みアレクサンダー・コルトであるのだが……その話は今は関係がないとして。
「勤務時間外にアンタを借りるときは、アンタの携帯端末を借りて、事前にアンタの嫁さんに報告してるだろ。今日だって、そうだ。野暮用で少し旦那を借りる、なるべく早くに解放する努力はする、って。それに情報料の替わりに請求する夕飯だって、どっかの安レストランでの外食じゃなく、デリバリーピザにチェンジしてやっただろ? それもデリバリー先は見ての通り、このシドニー支局。仕事場だ。疚しいことがあると思われる可能性を極力排除して……」
 どうにも機嫌が悪いコールドウェルは、早口にそう捲し立てる。彼女の機嫌が悪い理由は、どうにも女々しくて面倒くさいニール・クーパーだった。
 この二人が今まさに揉めている問題とは、コールドウェルの夕飯事情。犯人逮捕に繋がりうるであろう有力な情報と引き換えに、コールドウェルはいつもニール・クーパーに夕飯を恵んでもらっているのだが。そんな二人の関係を、ニールクーパーの妻であるシンシアは快く思っておらず、それどころか旦那の浮気を疑っているという。
 しかしニール・クーパーとコールドウェルの間にそのような情事があったことは一度もなく、全ては妻シンシアの杞憂である。それにコールドウェルはその性格上、ニール・クーパーとそのような仲になることは決してないと言い切れるのだが、とはいえ二人は異性同士。妻が疑いを抱くのは、自然ともいえる。
 そんな状況だ。コールドウェルもニール・クーパーの妻シンシアに色々と気を遣っている。彼女が今言ったように、ニール・クーパーを諸事情により借りる時には必ず、妻シンシアには連絡をいれるようにしているし。それにシンシアに対しては、ニールという男に全く気がない旨は伝えてある。──コールドウェルとしては、最低限の筋は通しているつもりでいたのだ。だがこの通り、ニール・クーパーがグチグチと不満を垂れている。
「一体、何が不満なんだい、アンタは?」
 そうコールドウェルは、ニール・クーパーに対して強気で食って掛かるが。ニール・クーパーにも彼なりの言い分があり、彼もまた引き下がりことはしない。
 そもそも彼はずっと、疑問に感じていたのだ。コールドウェルがなぜ情報の対価に、金銭ではなく夕飯を要求するのかを。故に彼は、コールドウェルに反論する。
「そういう問題じゃなくてだ、アレックス。情報料に夕飯の奢りを要求するんじゃなく、俺としてはいっそのこと現金をせびられたほうが、立場的にラクでいられるってことをだな……」
 しかしコールドウェルから返ってきた言葉は、答えを誤魔化すように曖昧で、それでいてどこか八つ当たりめいたものだった。「ああ、そうかい? なら情報料として、法外な額を要求することになるけれども。アンタはそれで構わないのかい?」
「あのな、アレックス。俺は真面目に訊いてるんだ。──お前はどうして、俺に夕飯をせびる。どうして、なぜ夕飯なんだ?!」
 それに対し、毅然として問いただすという姿勢を貫くニール・クーパーは、期限の悪いコールドウェルを睨み付けて、そう訊ねる。
 するとコールドウェルはひとつ、ため息をこぼした。それから彼女は不機嫌そうな低い声で、質問に対しこう答えてみせた。「アタシには金が無いからだよ」
「……は?」
「アンタと違ってな。アタシはアルストグラン中を駆けずり回ろうが何しようが、給料なんてもんが出ないんだよ。とにもかくにも金が無いんだ。必要最低限の備品は組織が揃えちゃくれるが、それ以外は一切、何も、自由に使える金が無いんだよ」
「おいおい、アレックス。ならより一層、情報料は現金でいいじゃないか! なのに、どうして……」
「少なからず現金を持ってることがボスにバレたら最後、全額没収されるんでね。現金を受けとるほうが、アタシの場合は結果的に損になるのさ」
「ならバレないように隠せばいいだろ」
「アンタも、アタシのボスを知ってるんだろ? あの男に、隠し事が通用すると思ってんのかい?」
 不機嫌そうな態度でそう答えるコールドウェルの言葉は、メチャクチャな話だった。だがニール・クーパーはその話に納得し、やっと彼女の腹事情を理解する。
 というのもアレクサンドラ・コールドウェルとは、悪運が祟ったがために、常識の通用しない闇世界に引きずり込まれて、そこで生きることを余儀なくされた人物だ。一般人が聞けばメチャクチャとも思える話だが、彼女の生きる世界を少しは知っているニール・クーパーからすると、その話は十分にあり得るもの。
「現金は可能な限り手にしないで、それでいて腹を満たすには、情報を提供する代わりに見返りとして、飯をせびるしかねぇのさ。背に腹は変えられないし、プライドじゃ腹は満たないからね。飯にありつく為なら、アタシは何だってするさ。あと、この方法ならボスも目を瞑って見逃してくれるんだよ」
 つまり彼女はニール・クーパーに集らないと、夕飯にありつけないという悲しい宿命を追わされているということである。
「それにこれはお互いに、ウィン・ウィンの関係でいられるハッピーな選択肢だ。ニール、アンタもそう思うだろ? アタシは情報と引き換えに飯にありつける、アンタは手頃な値段で有益な情報を入手できるんだから」
「…………」
「そりゃ……シンシアには申し訳ないと思っちゃいるよ。妻帯者に夕飯をせびるなんて、お世辞にも誉められない行為だ。だがアタシとて、生きるために必要なんだよ。だから最低限の筋は通しているつもりだ」
 ハッピーな選択肢。コールドウェルはそう言いはしたが、そう言った声にはハッピーさなど微塵もない。何故ならばそれが惨めな選択肢であることを、彼女は理解しているからである。だが、正当化するしかないのだ。そうしないと、彼女は生きていけないのだから。
 そしてコールドウェルの言い訳は続く。
「それに言い訳をするとだ。アタシが夕飯をせびるのは、なにもアンタだけじゃない。ASIに空軍、市警に州警に司法省とか、あちこちにアタシの夕飯要員が居るんだ。アンタはそのうちの一人で、それ以上でも以下でもないよ」
「言い訳がまるで売春婦のそれだな」
 ふとニール・クーパーは、思ったことを正直に言ってしまった。その発言は当然、コールドウェルの顰蹙を買う。彼女は眉間にシワを寄せ、舌打ちをすると、彼に向けてこう言った。
「似たような稼業だろ、情報屋も売春婦も」
 吐き捨てるようにコールドウェルはそう言ったあと、それまで座っていたソファーから彼女はすくっと立ち上がり、ニール・クーパーへと歩み寄る。だが彼女の目的は、彼をぶん殴ることではない。
 彼女の目的は、ニール・クーパーの正面にある机の上に置かれていた、デリバリーピザの箱。コールドウェルはそれに手を伸ばすと、閉められていた平たい箱を手早く開ける。そうして彼女は、その中に入っていたマルゲリータの一きれを右手で掴み取り、口の中にそれを押し込んだ。
 するとコールドウェルは、同じ空間にいたある若い男に気付く。それはニール・クーパーの部下の一人、今にも吹き出しそうな笑いを必死にこらえている様子のエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官だった。
 そんな彼の様子から察するに、彼は二人の会話を全て聞いていたのだろう。そう判断したコールドウェルは、書類の山と睨みあう振りをしながら、どういうわけか妙にニヤついているエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に声を掛けた。
「そこで笑ってるベッツィーニ。アンタも折角だし、こっちに来て食いな。全部、ニールの奢りだぜ」
 しかしエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は「お構い無く」と言い、誘いをやんわりと断る。そういうわけなら仕方がないとコールドウェルは潔く諦め、そして惨めな身の上話は脇において、本題に移ることにした。
 彼女は左手で自分の鞄を漁ると、その中からあるファイルを取り出す。そして左手でファイルを開け、その中身をニール・クーパーに見せると、コールドウェルは本題を切り出したのだった。
「さてと。そんじゃ、見返りの情報だよ。同一犯によると思われる連続殺人、およびハイウェイ沿いでの死体遺棄の件だ。うちの機関にいる超有能なアシスタントが、シドニー全域の監視カメラをチェックしてくれてね。ハイウェイ沿いの監視カメラじゃあよく見えなかった、あのワンボックスカーの車体ナンバー。あれを、別の地域の監視カメラ映像から特定することに成功したんだよ」
「流石だな、お前んとこの機関は。──それで。そのナンバーが、偽造されたものである可能性はあるか?」
「さぁね、それを調べるのはアンタら連邦捜査局の仕事じゃないのかい。とはいえこの犯人に、偽造ナンバープレートを用意しようと考える思考の余裕がないように、アタシには思えるがね。犯行を見るからに、現実と妄想の区別が付かなくなっているようにも見えるし。まあ、それでと。車体ナンバーはこれだ。それから更に幾つかの監視カメラ映像から、犯人が殺害に及んだと思われるおおよそのエリアの特定に……」
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