ジェットブラック・ジグ

Like mother, like son.

 風の噂で、スティーブン・ワインスタインという男が獄中で自殺したという話を聞いたのは、かれこれ一週間ほど前のこと。アストレアが、青緑色のドレスを着たのは一ヶ月前のこと。用済みになったドレスは、クローゼットに封印されたようなもので、また着る機会があるかどうかも分からない。
 つまりアストレアは退屈で退屈で、退屈していた。
「…………」
 そんなアストレアを毎朝叩き起こすのは、刺々しいヴァイオリンの音色だ。それも決まって、テンポの速いジグである。そして最近はアストレアへの当てつけのように、やたらと明るい曲調のものが多い(しかし、演奏者の歪んだ性格が投影されている関係で、どうにもヴァイオリンの音色には恨みや怒りといった感情が滲んでいるようにも、アストレアに感じられていた)。先一昨日の目覚ましはは「アウト・オブ・ジ・オーシャン」で、一昨日のめざましは「スワローテイル・ジグ」、昨日の目覚ましは「モリソン・ジグ」。つまり、どれもクソ明るい曲だ。一度だけアルバの気まぐれが起こって、ゆったり且つしっとりとしたワルツ曲である「ザ・スカイ・ボート・ソング」が聞こえてきたこともあるが……それは今のところ、一度だけ。たぶん、二度目が起こることは当分無いだろう。
 そのように、毎朝六時半きっかりに始まる不快な演奏に、彼女の胃はギュイーンと絞られる。胸やけとなって怒りがこみあげ、怒りが彼女を飛び起こさせるのだ。そして彼女は寝起きに、決まって叫ぶのである。「クソジジィ、うるせぇんだよ!」と。
 その繰り返しが、かれこれ半月ほど続いていた。これはアストレアがアルバに対して「暗い曲しか弾けないのか」だのと言い続けた末の結末である。
 ――……要するに、アストレアの近況といえば、これぐらいしかないのだ。
「……あのジジィ……ぶっ殺してやる………………」
 アストレアの日課は、次の通りだ。
 朝に雑音で叩き起こされると、海鳥の影ギルがアストレアの寝室に入ってきて「留守番を頼みますよ」と告げてくる。そしてギル、およびアルバが、マンハッタンから居なくなる。その後、アストレアはベッドから降りて、歯を磨いて顔を洗ってから、キッチンに移動し、小麦粉に苛立ちをぶつけるのだ。ボウルに小麦粉をブチ込んで、そこに溶かしバターと卵を入れて、生地のもとを作ると。まるで殴りつけるように、生地を捏ねてこねて……そうやってパンを焼く。そして焼き上がったパンを食べて、また歯を磨く。
 昼はアルバの部屋に勝手に侵入して本を読んだり、レコードを漁る。そして夕方になると、食材を抱えたアルバとギルが帰ってくる。彼らはアストレアにおこぼれをくれるので、彼女はそれを受け取る。そうして夜には一人で夕飯を作って、一人で食べて、一人でシャワーを浴びて、歯を磨いて、ベッドで寝る。
 ここ一ヶ月ほどは毎日、そんなことを繰り返していた。
 しかし、だ。今日は朝の六時半になってもヴァイオリンの演奏は始まらなかった。だからアストレアは、マンハッタンに朝日が射そうが、構わずにベッドの中で熟睡している。
「…………」
 そう。アストレアはモフモフの温い毛布に包まれ、熟睡していた。自己中心的なクソジジィことアルバが、彼女の部屋の扉を勝手に開けていることにも気づかずに、熟睡しているのである。
 キィ……と蝶番が軋もうが、アストレアは起きない。あまりにも起きないアストレアの様子に、アルバが面白おかしそうにクスクスと笑っていようが、アストレアは起きないのだ。そしてアルバがアストレアの寝室に、長い尻尾を持つモフモフな生物を三匹ほど投入しようが、アストレアはまるで起きない。
 鯖トラ、茶トラ、キジトラ。その三匹のモフモフ……つまり毛色の異なる三匹の猫が、アルバの足元を通り抜け、アストレアの寝室へと飛び込んでいく。どれも好奇心旺盛な仔猫ゆえ、まだ見ぬ未知の部屋に、三匹は嬉しそうに駆け込んでいった。
 そしてアルバはそっと、アストレアの寝室の扉を閉める。……アストレアが悲鳴と共に飛び起きたのは、その直後だった。
 いかにも女の子らしい、甲高い悲鳴が上がったその後には、続いて三匹の猫たちがドタバタと騒ぐ足音が聞こえてきた。それと「ミャッ」やら「クワッ!」やら、興奮気味の仔猫の鳴き声も続く。さらに、それに続いて、アストレアがなぜか「ニャー、ニャーッ!」と猫の鳴きまねをしているような声まで聞こえてきた。また、アストレアが走り回る音も聞こえてくる。どうやら彼女は、仔猫を追いかけまわして、捕獲しようとしているようだ。
 ドタバタと騒がしい寝室の様子を、閉まった扉越しにアルバは確認すると、彼は小さく笑いながら静かに立ち去っていく。仔猫をアストレアの寝室に置き去りにしたまま、自室へと戻っていく。そろそろ火にかけた夜間の湯が沸いたころだろうと、彼は感じたからだ。
 それから数分ほど、アストレアは部屋の中を走り回ったことだろう。そうしてアストレアは、鯖トラ、茶トラ、キジトラの仔猫三匹を捕獲し終えると、その三匹を両腕に抱いて、素足および寝間着姿のまま玄関を飛び出す。廊下を二〇メートルほど大股かつ早足で歩き、アルバが寝泊まりしている部屋の玄関前に立つ。それから彼女は、ミャーミャーと鳴き続ける子猫たちに少しウンザリとした顔をしながらも、玄関扉の向こう側にいる、何やら食器をカチャカチャと動かしているらしいアルバという男に向かって、大声で叫ぶのだ。
「ミスター!! 何なんだよ、この猫たちは!」
 その後、アストレアが待つこと十数秒。玄関扉がガチャリと開き、それと同時にふわりとベルガモットが香り、その香りはアストレアの両サイドを抜けて廊下へと逃げていく。そして気味の悪いほど穏やかな笑みを浮かべたアルバが、アストレアの前に現れた。
 彼の、七三分けのオールバックヘアーは、朝からばっちりと決まっている。それは、いつも通りだ。だが、彼の様子はいつも通りでない。こんなにも気持ち悪い笑顔を、普段の彼は浮かべないからだ。
 普段、アストレアの前では『いかにも人を見下し、虚仮にしているような、冷たい微笑み』しか浮かべない彼だが、今の笑顔は妙に穏やかだし。それに両瞼がぴっちりと閉じている。これは明らかに、外行きの顔だ。故に、アストレアは不快感を顕わにした。
「うわっ、何その顔。キモイんですけど」
「…………」
「だって、事実だし」
 頑なに閉じられた彼の両瞼。これは特に、外行きの時にしか見せない顔である。それは彼の瞳が、直視した人間の精神を一瞬で崩壊させる光を常時放っているからだ。
 アルバとの付き合いも長いアストレアは、彼のその瞳を直視しないよう気を付けることができるが。普通の人間および普通の生き物には、彼の瞼が閉じていない限り、あの瞳を避けることができやしないだろう。何故ならば、普通は誰にも予測できないからだ、人間のように見える男の目を見つめたら最後、自身の精神が“得体の知れない光”によって蹂躙され尽くすだなんてこと。
 ――と、そこでアストレアはあることに気付く。仔猫だ。
「そうか。アンタはこのかわいい仔猫ちゃんを直視できないのか」
 アストレアがそう尋ねると、アルバは首を縦に振って頷いた。彼は無垢で愛らしい仔猫たちを傷付けたくないため、瞼を開けられないのである。するとアルバは「サングラスを取ってくるから、ここで待っていろ」と言って、部屋の中へと引き返していった。しかし、アルバの言いつけを守るようなアストレアではない。彼女は勝手に玄関を潜り、アルバの部屋へと入っていった。
 そしてアストレアは玄関扉を閉めると、抱えていた仔猫たちを床へと下ろす。三匹の仔猫たちはアストレアの腕の中を離れると、サングラスを探しに行ったアルバを追いかけていった。朝飯の催促と思しき鳴き声を、ミャウミャウと上げながら。……そんな仔猫たちの尻尾を見送りながら、アストレアは少し声を張り上げて、アルバに対して嫌味を吐く。
「つくづく変な男だね、アンタって。人間には情け容赦ないくせに、猫には優しいの?」
 するとウォークインクローゼットのある方角から、ガサゴソッという物を漁っているらしい音ともに、早口なアルバの返答が聞こえてきた。
「猫は古来より愛されている。その歴史は一万年以上。それにどこの地域であったかは未だ定かではないが、紀元前一〇〇〇年頃には猫の頭を持った女神、バステトというものが篤く信奉されていたらしい。諸説あるが、その女神は子供の守り神とされていたそうで、広く愛されていたそうだ。反面、犬や狼を模した神は冥府関連のものが多い。畏れられていた証拠だな。それにアイルランドにおいても、犬の妖精クー・シーは人を襲う邪悪なものとして描かれることが多いが。反面、猫の妖精ケット・シーは頭が良く、そして義理堅く、人語を語り、人間と共存しながらも、独自の王国を築いている奇怪な生態を持つと描かれッ――」
「猫の女神が、どうしたって?」
「……つまり、猫ほど可愛らしい生物もいないということだ」
 アルバの語り口が早すぎること、および彼の喋りにはきついボストン訛りが伴っていたこともあって、アストレアは半分もその話を聞き取れやしなかったが。要するにアルバは、猫は可愛いという話をしていたらしい。
 人間は容赦なく傷つけるというのに、猫は可愛いだなんて。なんともクソ野郎アルバらしからぬ発言であるというか……――そこでアストレアは、率直に疑問をぶつけることにした。
「ってことは、アンタは猫が好きってこと?」
「言うまでもない。猫は好きだ」
「じゃあ、犬は?」
「人間よりは好きだが、犬はどこか気に食わん生き物ではある。人間に忠実な点が評価できないな」
「じゃあ、ウサギはどうなの?」
「お前は、一つ一つ丁寧に尋ねていくつもりか?」
「そうだけど」
「なら先に言っておこう。私は、犬とカラスと人間だけが嫌いだ」
「なんで嫌いなの?」
「人間は卑しい。犬はその人間に忠実。そしてカラスは、煩わしい。特にワタリガラス。まあ、カラスに関しては特定の一羽だけが嫌いともいえるが……。まあ、理由は以上だ」
 どこまで本気なのかは分からない回答だが、ともかくアルバという男は人間だけが嫌いなようだ。それだけは確かである。
 そうこうしているうちに、長いこと使われずクローゼットの中で放置されていたサングラスも見つかったようで。ガサゴソと物を漁り続けていたような音も、何かの引き出しをバタンッと閉めた音を最後に止まる。そうして数十秒後、見覚えのあるスクエアフレームのサングラスを掛けたアルバが戻ってきた。それと一緒にアルバの背後を追いかけていた三匹の仔猫たちも、アストレアの前に戻ってくる。
「うわっ、随分と懐かしいサングラスだね……」
 アルバの掛けているサングラスを見て、そしてサングラスを掛けたアルバを見て、アストレアは思わずそんな言葉を漏らす。そんな彼女は、少しだけ緊張していた。
 なにせ彼女の前に戻ってきたのだから、あのサー・アーサーが。久しく見ていなかったサングラスが、あの頃の緊張感を思い出させたのである。
「まだ残ってたんだ、それ。もうとっくに処分したもんだと思ってたよ」
 サングラスを掛けた彼の姿はさながら、特務機関WACE時代のサー・アーサーそのもの。髪こそ真っ白くなってしまっているが、やはり同一人物であるのだな……と思わされ、久々にアストレアは背筋を正さざるを得なかった。
 そういうわけで表情を引き攣らせているアストレアから、彼女の緊張のワケをアルバは察したのだろう。彼は小さく笑い、次にその場にしゃがむと、足元で騒ぐ三匹の猫のうち一匹、茶トラの猫を抱き、立ち上がる。それから彼は珍しく、貧乏人くさい台詞を言った。「ああ。今のように、また使う可能性がある以上、残しておくに越したことない。それに、値段が……な」
「高かったんだ?」
「値段も、機能性も高い品だ。捨てられるわけがない。それに……」
「……?」
「――いや、何でもない。気にするな」
 それに、の後に続くアルバの話も、アストレアにとって気になるところだが。アストレアは、アルバに抱かれて、そして顎の下を撫ぜられて、ドゥルルル……と甘え声を立てている猫に目を向ける。そして彼女は話題を、本題に戻そうとして、こう切り出した。
「でさ、この仔猫たちは何?」
 アストレアがそう切り出すと、アルバは先ほど抱き上げた茶トラの仔猫を床へ下ろす。それから足元でちょこまかと動き回る三匹の仔猫を、彼はサングラスの奥に隠した目で見やり、そして猫を順に指差す。彼は猫たちの名前を、鯖トラ、茶トラ、キジトラの順に答えた。
「マッカレル、ソイ、ミソの三姉妹だ。仲良くしてやれ」
「え?」
「灰色がマッカレル、茶色がソイ、焦げ茶がミソだ。猫の名前だよ」
 鯖に、大豆、そして味噌。まさかの食べ物で揃えられた猫の名前に、アストレアは一瞬だけ、拍子抜けした。何故ならば彼女は、アルバならもっと深い意味がありそうな名前を付けそうだと思っていたからだ。例えば……オフィーリア、デスデモーナ、コーディリア、のような、如何にも悲劇を連想させるような名前だ。しかし、現実を見てみればだ。安直としか言いようがない、食べ物の名前が揃っている。

 それも、特に「鯖」は安直の極みだ!
 マッカレルタビーさば柄模様の猫に、鯖という名前を付けるだなんて!!

 ……しかし、問題はそこではない。アストレアが本当に訊きたいのは、猫の名前ではないのだ。この猫たちがどこから来たのか、どこから連れてきたのか、である。故に彼女はアルバに尋ねる。「違う。あの猫はどっから連れてきたんだって、僕はアンタに訊いてんだけど」
「この町に居た野良猫だろう。いつの間にか、このアパートに棲みついていたようでな。私がどこかから連れてきたわけでも、盗んできたわけでもない」
「棲みついてた……?!」
「それから、母猫も含め四匹ともにシャンプー済みだ。ワクチン他、諸々もな」
 アルバよりも、このアパートに滞在している時間は長いはずであるアストレアだが。野良猫の親子がいつの間にか棲みついていただなんてことには、気付いていなかった。なのにアルバは猫の存在に気付いていたというのだから、アストレアは悔しさを感じざるを得ないというか、何と言うか。ともかく、何かがアストレアの中で引っ掛かるのである。
 そんな複雑な思いを抱えながらアストレアは、アルバの足元をちょこまかと走り回る三匹の仔猫たちを見つめていた。するとそんなアストレアに、アルバはとある“命令”を言い渡すのだった。
「ランスィカヤのかつての女帝エリザヴェータも、大帝エカチェリーナ二世も、猫を愛していた。猫たちに美術品の管理を任せていたほどだ。猫はネズミやら害虫やらを退治してくれるからな。――その優秀な警備員たちに、今後お前は尽くすように」
 猫への愛は炸裂しながらも、アストレアへの敬意は微塵もないような台詞を言うアルバは、意味ありげな笑みを浮かべていた。彼の目はサングラスに隠れていて見えやしないが、何やら悪いアイディアを思い浮かべていそうな目をしているのだろうなと、アストレアは感じていた。そして案の定、アルバは薄ら寒い風を感じるような、不気味な言葉を語るのだ。
「ただし、覚悟しておけ。これから、もっと増えていくぞ」
「増えるって、何が?」
「人間以外のあらゆるものだ」
 その言葉を最後に、アルバの表情から薄気味悪い笑みが消える。アストレアに背を向ける彼は、冷蔵庫のほうへと向かっていった。そんなアルバの後を、三匹の猫たちは追いかけていった。
 そしてアルバが冷蔵庫から取り出したのは、手乗りサイズほどの黒い紙袋ひとつ。しかし、それを見るなり仔猫たちは大喜びし、高い鳴き声を頻りに立て始めた。
「……?」
 一体、紙袋の中に何が入っているのか。アストレアはそれが気になってしまい、ついついアルバの手元を凝視してしまった。それが、いけなかったのだ。
 アルバが取り出したものを見た瞬間、アストレアは悲鳴を上げて、大慌てで自分の部屋へと帰っていった。何故ならば、アルバの取り出したものがハツカネズミの死骸であったからだ。
 アルバにより尻尾を抓まれ、ぶらんぶらんと揺れるネズミの死骸を見て、アストレアは悲鳴を上げたが。三匹の仔猫たちは「早く寄越せ!」と騒ぎ立てている。アルバは仔猫たちの要望に応え、仔猫たち用に揃えた三つのエサ皿に、それぞれハツカネズミの死骸を置いた。
 すると仔猫たちはすぐさまハツカネズミの死骸に飛びつき、食らいつく。バリゴリッと、ハツカネズミの骨が仔猫の顎で砕かれていく音を聞きながら、アルバは満足そうな微笑みを浮かべていた。


+ + +



 ジョナサンがシルスウォッドの教科書に、ひどい落書きをしたその日の夜。父親に怒られたのは落書き犯であるジョナサンではなく、学校でそのことを暴露した被害者のシルスウォッドのほうだった。
 父親は、ジョナサンがシルスウォッドの教科書に殴り書いたような汚い言葉を大声で放ち、恥ずかしげもなく子供に向かって罵声を吐きながら、その日久々にシルスウォッドを殴りつけた。しかし、どれほど父親が声を荒らげようが、不思議なことに隣家にはその声が届かない。それは家の中が、完全に防音され、遮音されていたからである。つまりあの家の中は、外界から隔絶されていたようなものだったのだ。
 そして翌朝、シルスウォッドが痣を作った顔で学校に行ってみれば。隣家の娘であるブリジットからは「なんでうちに逃げ込まなかったの!?」と責められた上に、同級生たちも教諭たちも「なんで警察に通報しなかったの!」「あなたの両親は何をしていたの?!」と大騒ぎした。そんなこんなでエルトル家の兄弟の確執およびエルトル家の黒い噂は、公然の秘密となったのである。
 また、この日に起きた騒動はそれだけではない。
「エルトル議員、落ち着いてくださいな。なにもそこまで叱りつけるようなことでは――」
「貴様はここで何をしている、バーネット! 明後日の議会に提出する法案が、まだ完成していないだろうが!」
 放課後、シルスウォッドは決まって父親の事務所に立ち寄る。家の目の前まで、隣人であり同級生であるブリジットと共に下校するが、いつも彼女とはアパートの前で分かれるのだ。そしてシルスウォッドは、アパートから少し離れた場所にある父親の事務所が入っているビルへと向かって、事務所の物置に置かせてもらっているフェンシングの道具を取りに行く。それから、父親の秘書の一人であるお目付け役ランドン・アトキンソンに車を出してもらって、チャールズ川の近隣にある剣術教室へと連れて行ってもらう。それが、いつものルーティーンである。
 そしてこの日は、学校側から配られた、保護者に見せるべきプリントがあった。このプリントが、父親の怒りに火を点け、怒号という砲弾が飛び出すこととなったのだ。
「……毎晩、暗い部屋でコソコソと何かをしているから、こんなことになるんだろうが!」
 フェンシングの道具を取りに行く前に、シルスウォッドは恐る恐る父親のオフィスを訪れて、学校から配られたプリントを父親に見せに行った。それは先週に学校内で行われていた視力検査の結果だ。
 検査結果は、ボチボチ悪いものだった。だから父親は、怒ったのである。
 左目右目ともに平均以下で近眼の傾向あり、という結果と共に、「生活に不便があるほどではないでしょうが、念のため眼鏡を作ってあげてください」という担任教諭の直筆コメント付きのプリントを見るなり、父親の表情はみるみる曇っていった。そうして飛び出したのが、先ほどの怒鳴り声。
 父親のオフィスにいた先客――父親が抱える秘書の一人である、ララ・バーネットという名前の女性――は、子供が持ち帰ってきたプリント一枚ごときで怒鳴り散らす下院議員に心底驚き、一瞬肩をビクつかせてたあと、頬に青痣のできているシルスウォッドの顔を見て、絶句していたが。小さなことにもいちいち怒鳴る父親には慣れているシルスウォッドは、これしきのことでは動じなくなっていた。なのでシルスウォッドは父親に向かって毅然と反論する。これは全部、お前のせいだという怒りを声に込めて。
「僕の部屋には照明が無いからです。それに父さんが燭台も蝋燭も取り上げたから――」
「ジュニア。なら、なぜ明るい部屋でやらんのだ。毎晩毎晩、部屋に鍵をかけて引きこもって……見られたら困るものでもやっているのか、お前は」
「部屋にこもるのは、ジョンに殴られるからです! それにエリザベスから、鍵を掛けろと言われてます」
「ならお前は眠りもせずに、夜に一体何をしているんだ!!」
「宿題を片付けてるだけです」
「宿題だと? そんなもの、夕方のまだ明るいうちに片付けられるだろうが! なぜお前には、それができないんだ?!」
「夕方にはフェンシングが」
「言い訳は無用! この出来損ないが!」
 再び上がった怒号と共に、シルスウォッドが渡したプリントを父親が破り捨てた直後、父親の手が降り上げられたが。父親の手は振り下ろされる前に、その場に立ち会っていた秘書ララ・バーネットによって止められた。秘書が物理的に、振り上げられた父親の手を押さえて止めたのである。それからその秘書は少しばかり弱腰な姿勢ながらも、子供を相手にちっぽけなことで激昂する雇用主を宥めようとした。
「冷静になってください、議員! 視力検査の結果が悪かったぐらいで、そんな怒らなくても……」
「黙っていろと言っているだろう、バーネット!」
「昔からよく言いますでしょう? 目の悪さはそれだけ努力をしてきた証拠だって。去年の成績もジュニアは体育と図工以外オールAでしたし、ジュニアが努力家であることは疑う余地なしかと。つまり……ジュニアに眼鏡を買ってあげればいいだけの話じゃないですか」
 そう言って苦し紛れの微笑みを取り繕いながら、秘書はスッと父親から離れていくが。父親にぎりりと睨まれた結果、その秘書は最終的には小声で「……すみません……」と謝罪していた。
 そして歪な家族の事情に、割って立ち入った勇敢な部外者を冷めた目で見上げていたシルスウォッドは、少しだけ不満そうに口角を下げていた。シルスウォッドが不満を感じている原因、それは彼の父親が、およびこの事務所に所属する父親の秘書たちが、シルスウォッドを呼ぶ際に使う呼称“ジュニア”にある。この呼び名を、彼は心の底から嫌っていたのだ。
 シルスウォッド、というややこしい名前を言えない同級生たちが使う“アーサー”というミドルネーム、およびミドルネームに由来する“アーティー”という呼称も嫌いだったが、それ以上にこの“ジュニア”は彼にとって受け入れがたいものだった。アーサー・エルトルという邪悪な男の息子であるという現実を、ジュニアと呼ばれるたびに突き付けられるからだ。
 だが、どんなに不満を感じようが現実は現実だ。自分があの男の血を受け継いだ子供であることを分かっているシルスウォッドは、ジュニアと呼ばれることへの不満を直接的に相手へ伝えるような愚かしい真似はしない。何故ならば、言い始めたらキリがないからだ。なので少し不満そうな態度を出すだけで、直接的な文句は言わないのである。
 すると、どことなく不服気な態度を取っている息子を見た父親は、苛立ちでも覚えて、オフィスから今すぐにでも息子を追い出したいと感じたのだろう。父親はまた声を荒らげて、今度は違う秘書の名前を呼んだ。
「アトキンソン、今すぐ来い!」
 父親の大声を聞いてオフィスに来たのは、シルスウォッドの送迎役でありお目付け役でもある秘書、ランドン・アトキンソンである。いつものように「やれやれ」とでも言いたげな顔の秘書ランドン・アトキンソンは、仕事外の雑務を押し付けられる予感を察知したのだろう。オフィスに入るやいなや、腕を組んで露骨に嫌がる素振りを見せる秘書ランドン・アトキンソンは、足をガタガタと震わせるもう一人の秘書ララ・バーネットを見て、それから顔に青あざのあるシルスウォッドを見やり、最後に怒り心頭の父親を見る。そして気怠そうな声で、一応というばかりのニュアンスを込めて、秘書ランドン・アトキンソンは、父親にこう訊ねた。「議員、お呼びでしょうか」
「こいつを眼鏡屋にでも連れて行け。適当なものを見繕って、これで買ってこい」
 いちいち刺々しい空気感を纏わせた大声で、威圧的に命令をする父親はそう言いながら、デスクの引き出しから小切手帳を取り出すと、その中から一枚の小切手を切り取る。それから切り取った小切手に“アーサー・エルトル”と走り書きの署名を万年筆で書くと、父親はその小切手を秘書ランドン・アトキンソンへ突き出した。
 威圧的な態度を伴って、乱暴に突き出された小切手を、秘書ランドン・アトキンソンは仰々しい笑顔を浮かべて受け取る。それから秘書ランドン・アトキンソンは、未だ不満そうな表情のシルスウォッドに視線を送り、一言「行くぞ」と声を掛けた。
 その声を合図に、シルスウォッドは父親に背を向けて、オフィスから出ようとしている秘書ランドン・アトキンソンの後を追って早足に歩き出す。そして彼のすぐ後ろにシルスウォッドがつくと、秘書ランドン・アトキンソンがシルスウォッドにこう話しかけてきた。
「目でも悪くなったのか、少年」
 その問いかけに、シルスウォッドは無言でこくりと頷く。すると秘書ランドン・アトキンソンが、ニヤけるというような、やや奇妙な笑みを口元に浮かべた。それから彼は、ぼそりと呟く。
「そうか、それで眼鏡屋か。……こんなにも都合のいい展開が、現実で起こるとはな……」
 都合のいい展開。――秘書ランドン・アトキンソンが小声で呟いたその言葉は、どうにも怪しい気配を匂わせている。なにか悪いことが起きそうな予感をシルスウォッドは感じて、自然と身構えてしまったその時。予感していたものとはまた違う角度の、別の悪いことが起こる。それは父親のオフィスから二人で出て、秘書ランドン・アトキンソンがそのドアを閉めたときに聞こえてきた。
 父親のオフィスから、電話の呼び出し音が鳴ったのだ。けたたましい音がリンリンリンッと鳴ったあと、乱暴に受話器を取ったようなガチャッという音が聞こえてきて、それから父親が高圧的な態度で「誰だ」と言い放った瞬間だ。聞き覚えのある懐かしい声が、受話器の向こう側から間髪を入れずに飛び込んできたのだ。ドアを隔てた距離からも聞こえてくるような、ひどく怒り狂ったような大声が、シルスウォッドの耳にも、秘書ランドン・アトキンソンの耳にも届いた。
『――いい加減にして、アーサー!! あなたが彼に何をしているのかを、私たちは全て把握しているのよ。こんな状況、誰にとっても良いことなんか何もないでしょう?! だから、シルスウォッドを返して! あの子の親権を、私たちに譲りなさい!』
 聞き間違えるはずもなかった。あれはシルスウォッドにとっては叔母であり、かつての母親である存在、ドロレス・ブレナンの声だった。
 もう何年も聞いていなかった声が、予想だにしない瞬間に聞こえてきた。怪しげな雰囲気を漂わせる秘書ランドン・アトキンソンへの疑念は一瞬にして吹っ飛び、シルスウォッドはただ立ち尽くしてしまった。頭の中が、真っ白になってしまっていたのだ。
 そして、とある企みごとを抱えていた秘書ランドン・アトキンソンは、茫然自失といった状態になってしまっていた子供を見下ろして、やっちまったと額に手を当てていた。
 しかし、ことはそれだけでは済まない。更に聞こえてきたのは、子供には到底聞かせられないような内容を含んだ、シルスウォッドの父親の罵声だった。
「何度も言わせるな、ドロレス。接近禁止命令は取り下げん!」
『いつまでこんな不毛なことを続けるつもりなのよ、あなたは!』
「ボストンに一歩でも足を踏み入れてみろ。ハリファックスに構えているお前の書店を、跡形もなく焼き払ってやるからな!」
『あの子に一体、何の罪があるっていうの?!』
「黙れ、一族の恥さらしが!」
『いいえ、恥を晒しているのはあなたのほうよ。自分がいかに邪悪であるか、振り返ってみなさい!』
 父親の罵声と、叔母が負けじと食い下がる声と、更に続く父親の罵声。それを背中で受け止めるシルスウォッドは、珍しく今にも泣きだしそうな顔をしていた。――いくら痛みや罵声には慣れておれど、少し頭が切れようとも。当時は所詮その齢の少年でしかなかった、というわけである。
 そういうわけで強烈な感情の波に当てられて、困惑顔のシルスウォッドの腕を、秘書ランドン・アトキンソンは引いて歩いた。……のだが、その秘書ランドン・アトキンソンは歩きながら唐突に、衝撃的な告白するのだった。
「これは、秘密なのだが。実際には、接近禁止命令など出ていないんだ。エルトル議員の常套、ブラフってやつでな。つまり、あれはただの脅し文句。効力は何もない」
 シルスウォッドが、父親と叔母の通話を盗み聞きしていて、その意味を理解していることを前提に話された秘書ランドン・アトキンソンの、その言葉。それと、さらりと明かされたとんでもない秘密。――そう、秘書ランドン・アトキンソンが隠していたのは、この秘密と、それに関わるサプライズだったのだ。
 秘書ランドン・アトキンソンは今日この日のために、理不尽な日常に文句ひとつも言わず大人しく従っている少年のために、サプライズを企画してやっていたのに。せっかくのサプライズが、協力者が電話を掛けるタイミングをフライングしてしまったがために、ぶち壊しになろうとしていた。
 そこで秘書ランドン・アトキンソンは、もう“サプライズ”という概念そのものを投げ捨てることにしたのだ。いっそのこと全て明らかにしてしまったほうが良いと、彼にはなんだかそう思えてきていたのだ。
「……実はな、少年よ。俺は、ブレナン夫妻と連絡を取っていたんだ。彼らは今、ボストンにいる。これからお前を、そこに連れて行く予定だ。それと剣術教室には、今日は休むと伝えてあるが。しかし議員には、全部秘密にしてある」
 秘書ランドン・アトキンソンは聞き取るのもやっとな小声で、なるべく感情を排除したトーンで淡々と喋る。そんな彼は前を向いたままで、後ろを歩くシルスウォッドを見やりもしない。あくまでも、彼はいつもの送迎風景を装っていたのだ。同じ事務所で働く同僚たちにも、このサプライズ計画は秘密にしていたからだ。
 シルスウォッドもそれを察して、露骨に喜ぶようなことは控える。いつものように顔を俯かせて、駆け足気味に事務所内を歩くのだ。しかし嬉しい驚きのあったシルスウォッドの目は、先ほどまで宿っていた混乱が消え、年相応の子供のようにきらきらと輝いている。
「いいか、少年。フェンシング道具をいつものように持って、いつも通りに車に乗れ。分かったな?」
 腰に下げている鍵束を歩きながらカチャカチャと漁りつつ、秘書ランドン・アトキンソンはまた小声で指示を出す。シルスウォッドはその指示に従い、普段と同じように物置へ向かって、今日は使わないフェンシング道具を取りに向かった。
 しかし嬉しさを感じる反面、シルスウォッドの足取りは重い。もう四年も会っていない“叔母夫妻”に、どんな顔で対面すればいいのかが分からなかったからだ。


+ + +



 秘書ランドン・アトキンソンの言葉は、すべて事実だった。
 彼が運転する車が向かったのは、待ち合わせ場所の近くだという公園の駐車場。そこはエルトル家が住むビーコンヒルにほど近い場所にある、通称“ザ・コモン”と呼ばれる公園。独立戦争のキャンプ地であったり、クエーカー教徒の処刑が行われた場所であったり、暴動が起きたり講義集会が開かれたりと、何かとボストンの歴史に関わっている、由緒ある場所である。そして待ち合わせ場所は駐車場から少し離れた場所にある埋葬地、グラナリー墓地だった。
 歴史ある場所とはいえ、墓地は墓地。日当たりが良く、鮮やかな緑色の芝生がよく見渡せて、鬱蒼とした雰囲気は全く無い場所ではあるが……人気は無い。また、芝生の他には見るべきものは何もない。崩れた墓碑の残骸が点々とあるだけだ。ゆえにシルスウォッドが秘書ランドン・アトキンソンに連れられてそこに着いた時、ソワソワと、キョロキョロと忙しなくあたりを見渡していたブレナン夫妻の姿はやけに目立っていたため、彼らを見つけることは非常に簡単だった。
 そうしてシルスウォッドは、かつての育ての親である叔母夫妻と久し振りに再会したのだが。昔のように純粋な笑顔を、すぐに見せることは出来なかった。それに秘書ランドン・アトキンソンに背中を押されるまで、彼は夫妻に駆け寄ることも出来なかった。
 再会できたことは、嬉しかった。なのに、どうしても疑念が、不信感が、猜疑心が、湧き出て止まらなかったのだ。――その結果、出てきたのは他人行儀な態度。
「……久し振りです。ローマン義叔父さん、ドロレス叔母さん」
 気まずそうにはにかむシルスウォッドに、ブレナン夫妻が悲しそうな顔をしたのは、当然の反応といえるだろう。昔のように「パパ、ママ」または「ローマン、ドリー」と呼んでくれなかったことに、彼らは落胆していたのだ。そしてシルスウォッドがすくみ足ながらも、ブレナン夫妻に近付いていけば、夫妻の表情は曇っていく。シルスウォッドの顔にできていた痣に気付いたからだ。
「――ウディ、何があったんだ?!」
 竦み足で歩みの遅いシルスウォッドの代わりに、駆け寄ってきたのはローマンである。走ってきたローマンはシルスウォッドの目の前で急ブレーキを掛けるように立ち止まると、ローマンがシルスウォッドの顔に手を伸ばしてきたのだ。そしてドロレスも少し遅れて、シルスウォッドの傍に寄ると、間近で見た“甥”の顔にできた青あざに動揺を見せる。
 またシルスウォッドのほうも動揺していた。ドロレスとローマン、その二人が傍に近づけば近づくだけ、どす黒い不満が心の奥底で噴き出していくのを感じていたからだ。そして二人が顔を覗き込んでくれば覗き込むだけ、昏い心を見られているようで怖くなっていく。
 ドロレスとローマンの二人に、今の自分を見られたくなかった。その心から、シルスウォッドの視線は自然と下に落ちて、肩は縮こまっていく。……そんなシルスウォッドに助け舟を出したのは、秘書ランドン・アトキンソンだった。
「積もる話はあるでしょうが、まあそれは後にしてください。取り敢えず、まずは眼鏡屋に行ってきてもらいたいんですよ。議員から、そう命じられているんでね」
 そう言いながら秘書ランドン・アトキンソンは、シルスウォッドの父親から受け取っていた小切手を鞄から取り出すと、それをドロレスに手渡した。すると小切手を受け取るドロレスは、首を傾げさせる。
 眼鏡屋というワードで連想するのは、視力の低下。なのでドロレスは、シルスウォッドに訊いた。
「視力が落ちたのね?」
 ドロレスからの問いかけに、シルスウォッドは無言で首を縦に振って頷く。その反応を見ると、ドロレスとローマンの二人は顔を見合わせて、二人そろって眉を顰めた。
 というのも、ドロレスとローマンの二人を分かっていた。シルスウォッドは本の虫であり、文字が好きで、本物の“集中”スイッチが入ってしまうと時間を忘れてのめり込む性格。時間を忘れて、寝食を忘れて、陽の光さえも忘れて、何かひとつに没頭しかねない。――シルスウォッドの根本的な性格が変化しておらず、彼の実の父親がシルスウォッドに“相応しい”環境を与えていないのであれば、シルスウォッドの視力が低下していて当然なのだ。
 視力の低下が実際に起こったのなら、それはやはりエルトル家という環境がシルスウォッドにとって良くないことの証明となる。だから二人は、眉を顰めたのだ。
「もしかして……暗い部屋で、本でも読んでるの?」
 またドロレスがシルスウォッドにそう問えば、シルスウォッドは無言で頷く。そしてローマンが、青あざができたシルスウォッドの頬を優しく撫でると、青あざを中心としてシルスウォッドの顔に鈍い痛みが広がり、反射的にローマンらから離れるように身を後ろに引いてしまった。そうして半歩ほどシルスウォッドが後ろに下がると、またドロレスとローマンの二人は悲しそうな表情を見せた。
 すると後ろに下がったシルスウォッドの背を、前へと押しやる力が働く。秘書ランドン・アトキンソンが、背中を押してきたのだ。
「ライト付きの、手回し発電機でも買ってやったらどうですかね? 手回し発電機だったら、電池も買わずに済みますし、議員にもバレないでしょうから」
 そう言いながら秘書ランドン・アトキンソンは、グイグイとシルスウォッドの背を押してくる。後ろに下がるな、と言葉なく伝えているのだろう。そうして最後に秘書ランドン・アトキンソンは、シルスウォッドの肩を軽く叩くと、ドロレスとローマンの二人に視線を送る。それから彼はこう言うと、三人に背を向けて、車を停めた公園のある方角へと引き返していった。
「んじゃ、八時半にはここにまた来て、ご子息を迎えに来るんで。俺はお暇させていただきます」
 ご子息。その言葉をあえて強調するように言った秘書ランドン・アトキンソンのささやかな配慮に、ドロレスは少しだけ表情を緩ませた。そしてローマンの方はというと、俯いたまま目を合わせようともしてくれない“甥”を見つめて、なんとも気まずそうな顔をしている。それでもローマンはシルスウォッドの手を握って、四年前と変わらぬ優しい声で言った。
「さっ、まずは眼鏡屋に行こうか」
 それから三人で横並びになって歩き、墓地の近くにある駐車場へと移動する。そこで見覚えのある赤いセダンを見つけたものの、シルスウォッドは喜びもしなければ、懐かしさも感じなかった。
「…………」
 秘書ランドン・アトキンソンから、ブレナン夫妻に会えると聞いた時には、少なくとも嬉しいと感じたはずなのに。いざ実際に会ってみると、不快な感情しか湧き上がってこない。
 とてもうまくは、言葉に表せない感情だ。悲しみでも怒りでもなく、恨みでもないし、けれども虚しさの中には収まらない。しかし台詞でなら、表現可能だろう。
 とっくに手遅れになっている、何もかも全てが。――そんなところだろうか。
「……眼鏡って、どうやって買うのかしら。まず眼科に行って、処方箋みたいなのを書いてもらう必要があるの?」
「今どきは、店の中で視力を測定してくれるもんだよ。病院に行かなくても大丈夫さ。……多分」
「あなたの“多分”はアテにならないわ。取り敢えず、先に眼科に行きましょう」
 久し振りにドロレスとローマンの会話を聞きながらも、シルスウォッドは笑いもせず、泣きもせず、怒りもせず、ただ足元だけを見つめていた。話を振られない限り、口を開くことも無かった。





 三匹の仔猫と、その母猫に朝の餌やりを終えたアルバは、アストレアにある紙箱を託すと、仕事があると言って、海鳥の影ギルと共にどこかに消えてしまった。そしてアルバが去った後、アストレアが紙箱の中身を確認してみると……その中に入っていたのは、ごく普通のドライタイプなキャットフード。また紙箱にはメモが貼ってあり、そこには走り書きの文字で「猫が欲しがったら、その時はあげてくれ」と書いてあった。
 とはいえアルバが言うには、猫たちは勝手にアパートの侵入者を食べるから、餌やりはあまり必要ないらしい。侵入者とはつまり、ネズミや鳥、蛇、虫などのこと。またアルバはさらに「ネズミは猫が駆除してくれるから、殺鼠剤の類は絶対に置くな。殺虫剤の類もだ」と念を押してきたりもした。何事も、猫が最優先であるらしい。
「……なんだかお前たちが、小さな悪魔に見えてきたよ……」
 アストレアの暮らすアパートの一室に、勝手に上がり込んでいた仔猫三匹――アルバが空間を描き換えて、アストレアの部屋の玄関ドアにキャットドアを取り付ける改造を勝手に施していたのである――を見つめながら、パン生地に八つ当たりをするように捏ねるアストレアはそう呟く。
 小さな体でぴょこぴょこと飛び跳ねながら、姉妹猫の背中に飛び掛かったり、尻尾を追いかけたり、毛を逆立てて尻尾を膨らませて威嚇をしてみたりと、仔猫たちは部屋の主に構うことなく、好き放題に遊んでいる。その姿はアルバの言う通り愛らしくもあるが。アストレアの目に映っていたのは愛らしさではなく、逞しき野良猫の根性だった。
 よくよく観察してみれば、仔猫たちはそれぞれガッシリとした体つきをしている。脚は太く、足先は丸く大きい。肩回りも、すでにガッチリと出来上がっているように見えていた。ヤワなイエネコではない、というのは見ればすぐに分かる。
 そうして猫を見つめていた時、ふとアストレアの脳裏にある顔が過った。猫のような、あの男だ。
「……ラドウィグ」
 単純そうで、何も考えていなさそうな、いかにも能天気という雰囲気を放っていた男、それがラドウィグだった。そんな彼の性格や雰囲気はまさに、人間のことなど気に掛けずに自由に遊びまわる猫のようなものであったし。朗らかな態度や温和な表情からはまるで想像も出来ないような機敏さや、深い知性、それからガッチリとした体格を持っていたのが、彼という人物でもあった。
 そしてアストレアが思い出していたのは、アルストグランにて見た彼の最後の笑顔。無邪気な笑顔で、彼はこう言ってきたのだ。
『これでお前も後に戻れないね、アイーダ。オレたち、共謀者だ』
 アストレアにとっては家族も同然だった仲間たち――仕事は異常に素早いが、何かと口うるさくて過敏だったアイリーン・フィールド。怪我により声が出せなかったものの、タブレット端末を通じて、文面で文句を言うことが多かった料理上手のケイ。いつも血色の悪かったドクター・アルスル。威圧的な態度で隊員たちから反感を買ってばかりだったが、あの時までは衝動的になって判断を誤ることなど滅多になかったサー・アーサー。その四人――を、ラドウィグがあっさりと裏切った時に見せた、あの笑顔。とても不愉快に感じた、あの笑顔……。
「…………」
 猫を見ていると、不愉快なラドウィグの笑顔を思い出してしまう。なので彼女は猫たちから目を逸らし、パン生地をボウルに叩きつけて捏ねる作業に集中することにする。
 それが午前一〇時のマンハッタンで起こっていた出来事。そしてマンハッタンよりも時刻が進み、日付も一日先に進んでいるアルストグラン連邦共和国、首都特別地域キャンベラの某所では、ある女性が大あくびをしていた。
「テクノロジーがどんなに進歩しても、時差は克服できないのね……」
 大あくびをした後、座っていた黒革の椅子の背もたれに背中を預け、そう愚痴を零していたのは、紆余曲折を経て現在、アルストグラン連邦共和国の軍事防衛部門の最終決定権を委ねられている、イザベル・クランツ高位技師官僚である。……といっても、大規模な戦争や武力衝突は沈静化している現在では特に『軍事防衛部門』らしい仕事は無く、軍事防衛部門という肩書は有って無いようなものとなっていた。簡単にいうと彼女の今の立場は『裁判所と並び、大統領官邸に拒否権を発動できる立場』且つ『あらゆる技術系官僚の意見および愚痴を聞き、取りまとめた提言を大統領官邸に突き付ける役』で、『ASIのスポークスマン』といったものとなっている。
 また彼女の仕事は国内のみに留まらず、国外にも及んでいた。というよりも諸外国に働きかけることにより、国内へ変革を促そうとしている、と表す方が正しいだろう。
 そんなこんなで、イザベル・クランツ高位技師官僚はある電話会談を終えたばかりだった。相手は北米合衆国、科学技術局の局長フランクリン・オコナー氏。議題は、現在も旧ボストン市の上空で幽壮に輝き続ける世界最初の“SOD(時空の歪み)”。正式名称を『ローグの手』と言い、しかし一瞬でボストン一帯を無に帰してみせた無情な破壊力から俗に『アルテミス』と呼ばれているそれについて。
『アルテミス』を消滅させる技術の開発を、当初の予定通りアルストグラン連邦共和国側で進めることになったのだが。その開発に伴う諸々を調整するための会談が、今回のものであったのである。
 イザベル・クランツ高位技師官僚は眠気と戦いながらも無事に、既定路線へと話し合いを落とし込むことができた。それが一〇分ほど前のこと。電話会談を見守っていた関係技官たちも結果に胸をなでおろし、それぞれが今日最後の仕事を終えて、帰途についていった。そうして最後に残ったのが、イザベル・クランツ高位技師官僚と、そのボディーガード役のラドウィグの二人。
「オタワは今、朝の九時か一〇時ぐらいですからね。あちらの人は、また別の意味で眠いんじゃないですか?」
 眠気など一切感じていないかのように、背筋をピンと伸ばし、凛々しく佇むラドウィグは、眠たそうに目をこするイザベル・クランツ高位技師官僚にそう語りかける。真っ黒なワンレンズ型サングラス――四日前に、同僚であるジュディス・ミルズからプレゼントされたばかりの新品である――の下に隠れている彼の猫目も、昼間と相違なくシャキッと見開かれていた。
 そのように目が冴えているラドウィグとは反対に、眠くて眠くて仕方がないイザベル・クランツ高位技師官僚は、座っていた椅子の背もたれに完全に身を預けて、仰け反る。天井を仰ぐように上を向く彼女の顔には、疲労感が表れていた。彼女の目の下に、紫色のクマが出来ていたのである。そして眠たそうに瞼を閉じると、イザベル・クランツ高位技師官僚は脱力しきった声でこう愚痴を零した。
「北米の人って、本当に好きになれないわー。いつも自分都合で、こっちに合わせろって、そればーっかり。こっちの都合も汲んでもらいたいもんよ。アルストグランにも、まだ陽がある時刻に会議を設定してもらいたいわ……」
 イザベル・クランツ高位技師官僚が何気なく愚痴ったその言葉に、ラドウィグは少しだけ眉を顰めさせた。北米の人。彼女が発したその言葉に、ラドウィグはある男の顔を思い出したのだ。
 今は“アルバ”と名乗っているらしい、あの男。サー・アーサーの顔だ。
「北米の人が全て、横暴なわけじゃないですよ。きっと。どこの国でも同じです。上に昇り詰めるような人間に、横暴な性格が多いだけですって……」
 イザベル・クランツ高位技師官僚の愚痴に、そう言葉を返しながらも、ラドウィグの表情は曇ったまま。ふと思い出してしまったあの男の声、顔、言葉が今、ラドウィグの思考の半分を奪い去っていたのだ。
 うすら寒い笑顔。抑揚のない冷たい声。早口なボストン訛り。嫌味で遠回しな言葉と、ぶつ切りで単刀直入な言葉を使い分ける性格の悪さ。全てを見下しているような、人ならざる冷たい目。――サー・アーサーという男に関して思い出されるその全てが、ラドウィグに不快感を想起させる。
 思い返してみればラドウィグは一度たりとも、サー・アーサーを好きになれたことがなかった。それはサー・アーサーという男に、ラドウィグが好意を抱く要素がまるで備わっていなかったことが原因なのだろう。
 威圧的で一方的。不条理を平気で押し付けてくる姿勢。怒りを隠さない態度。他者をあからさまに見下す言動。自分が正しいと信じて疑わない独善さ。
 ――それらはサー・アーサーの持っていた特徴であり、ラドウィグが不快に感じる要素でもある。
「…………」
 きっとペルモンド・バルロッツィという“緩衝地帯”が無ければ、ラドウィグはサー・アーサーに上辺だけでも従うことはできなかっただろう。事実、サー・アーサーによる理不尽に怒るラドウィグを、いつでも宥めてくれたのは、やつれた顔をしたペルモンド・バルロッツィだった。
 あれでも、根は良いヤツだったんだ。ペルモンド・バルロッツィのその言葉があったからこそ、ラドウィグはなんとか一年強もの間、サー・アーサーの理不尽に耐えて来られたのだが……――今、ペルモンド・バルロッツィの言葉を振り返ってみたラドウィグは、その耐え続けてきた日々にも後悔をし、顰めさせていた眉間から力を抜く。彼の中で今、サー・アーサーへの怒りが、自分の察しの悪さに対する呆れへと変化したのだ。
 よくよく思い返してみればペルモンド・バルロッツィの言葉は、過去形だった。彼は「かつてのサー・アーサーは良いヤツだった」と“過去”については言及していたが、「今のサー・アーサーが良いヤツであるかどうか」については、言及していなかったのだ。つまり、ペルモンド・バルロッツィの当時の心境も……。
「北米人といえば。あのコヨーテ野郎、今はどうしてるの。ASIのほうから最新情報とか、聞いてない?」
 嫌な考え事に気を取られていたラドウィグを、現実に引き戻したのは、イザベル・クランツ高位技師官僚の声だった。
 しかし……どうやら彼女も、ラドウィグと同じ人物を思い出していたようで。不快そうな表情を見せながら、イザベル・クランツ高位技師官僚は眠たそうな重たい口調で、ラドウィグにそう訊いてきていた。そしてイザベル・クランツ高位技師官僚から訊かれたことに対し、ラドウィグは知っていることを正直に伝える。
「コヨーテ野郎は……今は、欧州の方をかき乱しているみたいです。先日の、軍需企業の元会長が獄中自殺を遂げた件と、それに関連している殺人にも、あの男が一枚噛んでいたらしいという話を聞いています」
「もしかして、ハンプシャーのあの事件? ……あの男は一体、何がしたいの?」
「株を暴落させたかった、というのが最も有力な説だそうです。あの一件で、コヨーテ野郎はかなり稼いだのではと、情報分析官は分析してます」
「金の為に、そこまで目立つようなことをやる人物なの? あの男についてはどちらかといえば、裏方でコソコソ動いてるってイメージが強いんだけど……」
「今は、特務機関WACEっていう枷があるわけじゃないですし。それに、自分を無敵だとでも思っている男ですから。やりかねないのでは?」
「なるほど。――それでASIは、何か手を打つの?」
「いいえ。当面コヨーテ野郎は、アルストグランに危害を加えてこないだろうとお上は考えているようです。なので他国で起こることに関しては、当事国に警告はするものの、それ以上の干渉はしないとの判断を、コリンズ長官が下しています」
 干渉しない。ラドウィグがその言葉を発した時、イザベル・クランツ高位技師官僚の表情はあからさまに曇った。彼女は、ASI長官サラ・コリンズが下した決定に、完全には同意することができなかったのだろう。
 だが自分の役目をよく理解しているイザベル・クランツ高位技師官僚は、言葉にはそれを表さない。代わりに、彼女はこう述べるに留めた。
「それが賢明ね。下手にコヨーテ野郎の起こす騒動に首を突っ込んで、アバロセレンの真実が諸外国に洩れてしまっても困るし、それに――」
 だが彼女は言葉の途中で、突然として固まってしまう。イザベル・クランツ高位技師官僚は何かを続けて言おうとしていたが、その途中で“何か”に驚いたように目を見開き、言葉を止めてしまったのだ。
「どうかしましたか、高位技師官僚」
 ラドウィグがイザベル・クランツ高位技師官僚にそう声を掛けると、彼女はハツと我に返り、苦笑いを浮かべる。それから彼女は誤魔化すように、こんな言葉を洩らした。
「疲れてるのもあるんでしょうけど。最近、幻聴みたいなのがよく聞こえるの。……今も一瞬、懐かしい声がしたような気がした。でも、気のせいよね。頭が半分、夢の世界に入っちゃってるんだわ……」
 その言葉を聞いた時、ラドウィグは嫌な予感を察知した。彼女の言葉が意味するものを咄嗟に理解したわけではなかったが、不吉な気配だけはすぐに分かったのだ。
 そしてイザベル・クランツ高位技師官僚が苦笑いを消して、また眠たそうな目に戻った時。彼女の肩がビクッと小さく上がり、ラドウィグの眉間にも皺が寄る。イザベル・クランツ高位技師官僚と同様に、ラドウィグにも“懐かしい声”とやらが聞こえたのだ。
『ラドウィグ。お前にしちゃ珍しく、随分と察しが悪いなぁ? かつては、いつでも俺の気配に気付けたってのに。俺が鏡の中に戻った途端、この調子か。ったく、情けないもんだぜ』
 聞こえてきた声は、ちょうどラドウィグが先ほど思い出していたペルモンド・バルロッツィの声によく似ていた。が、微妙に異なっている。さしずめ、よく出来たモノマネといったものだろう。
 ラドウィグには、その声の主が誰であるかがハッキリと分かっていた。それに声の主もそれを理解しているからこそ、モノマネこそしているが正体を隠す気は更々ない様子。だが。
「…………」
 ラドウィグはその存在に気付いていながらも、無視を決め込む。素知らぬ顔で首を傾げさせ、イザベル・クランツ高位技師官僚に対しシラを切り通した。
「目の下に黒い隈も出来ておられますし。今日はもうお休みになられた方が……」
 敢えて失礼な言葉を発し、ラドウィグは本心を誤魔化そうとする。また眠気でそれどころではないイザベル・クランツ高位技師官僚は、ラドウィグの提案に頷くだけ。
「そうね。それじゃあ、いつも通り……お願いしてもいいかしら」
「言われずとも、それが仕事ですので」
 眠たそうに目をこするイザベル・クランツ高位技師官僚を横目に見ながら、そう言葉を返したラドウィグは、官邸に待機している他のASI局員と繋がっている小型トランシーバーをベルトポーチの中から取り出す。そしてラドウィグはトランシーバーのマイク部を、リズムを刻むように指で叩いた。これは「イザベル・クランツ高位技師官僚を自宅へ――即ち、ペルモンド・バルロッツィが最期に築いた“覚醒者の為の要塞”アルフレッド工学研究所――これから送り届けるので、配車を頼む」という合図である。
 そんなラドウィグのいつもの動作を確認したイザベル・クランツ高位技師官僚は、眠気と戦いながらヨロヨロと椅子から立ち上がった。そして彼女が先導するかたちで、二人は部屋を退出する。
 ……その様子を、官邸敷地内に植えられた木から観察していたカラスは、ケケッと嗄れた声で笑う。そんなカラスの目は、イザベル・クランツ高位技師官僚とラドウィグの背後にあった壁掛け時計、その盤面を覆うガラスに写り込んでいた“鏡の世界”を見ていた。
「ケケッ。すっかり罪な男になっちまったなァ、あのガキんちょも……」
 カラスの視線の先。ガラスに映り込んでいた“鏡の世界”には、元の器に封じられたはずの黒狼ジェドの姿があった。先ほどまでイザベル・クランツ高位技師官僚が座っていた椅子の、その脇に、床に伏せている黒狼ジェドが居るのだ――あくまでも、壁掛け時計のガラスに映り込んでいる世界の中での話だが。
 そんな黒狼ジェドは、二人に無視を決め込まれて落ち込んでいる様子。イザベル・クランツ高位技師官僚には「幻聴」と言われ、ラドウィグには「敵意からの無視」をされたのだから、無理もない。
「……仔犬ちゃんに無視を決め込むなンざ、非道のすることだゼ。ジェドはただ、遊び相手が欲しいだけだってンになァ。ケケケッ!」
 無論、傍観者のカラスとて理解をしている。イザベル・クランツ高位技師官僚が、黒狼ジェドの声を幻聴だと自分に言い聞かせているワケも。ラドウィグが、黒狼ジェドの存在に気付いているという事実を、彼女に打ち明けられないワケも。
 だからこそ、カラスは彼らのことも嘲り笑うのだ。特に、ラドウィグという難儀な存在を。
『それはさておき、だァ。真実を言えねェだなンてヨォ……――どこぞのコヨーテ野郎にそっくりじゃねぇのかェ? ケケッ』


+ + +



 ドロレスとローマンの二人が、ボストンに突然来訪してきてから二週間が経過していた。
 ローマンはボストン来訪から五日を迎えた頃に「これ以上は仕事を休めないから」と一時的にハリファックスへと帰っていったが。しかしドロレスの方は帰ることなく、そのままボストンに滞在していた。そんな彼女はどうやら「今は知り合いの家にお世話になっている」らしい。
 そういうわけでシルスウォッドは、お目付け役兼送迎役の秘書ランドン・アトキンソンに仲介をしてもらいながら、この二週間はよくドロレスと会って、話をしたりしていた。四年も住んでいるわりには、全く知らないボストンという街を歩いて、普通の家族らしく買い物をしたりもした。夕暮れの街をドライブして、初めてボストンの海というものを見せてもらったりもした。
 ただし、ドロレスとの間にある“心の距離”は一向に縮まらなかった。シルスウォッドから他人行儀が抜けなかったからだ。昔のように彼女を信じて頼ること、そして子供らしく甘えることが出来なかったのである。
 成長した。そう言えば聞こえはいいが、実態は違う。褪めて、捻くれてしまったのだ。大人というのは頼りなくて、何もしてくれないということを、知ってしまったのだから。
「…………」
 そんな気まずい空気感が続いていた、ある日。
「なんか……ここ最近、浮かない顔してるけど。何かあったの?」
 シルスウォッドと一緒に下校をしていたブリジットは、シルスウォッドにそう声を掛けてきた。横に並ぶブリジットの目は、たしかに彼を心配している。ただし彼女は、心配の方向性を誤っているようだった。
 そんなブリジットの視線は、シルスウォッドが掛けていた赤縁の丸眼鏡に向いている。彼女はこう言った。「――視力検査の結果が悪かったこと、まだお父さんが怒ってるの?」
「いや、ブリジット。別にそういうのじゃないよ」
「もしかして、また殴られたりした?」
「最近は殴られてない」
 ブリジットの問いかけに、正直にシルスウォッドは答えたのだが。依然、彼女からは心配そうな目を向けられていた。というよりも、可哀想な境遇に同情するような憐みの目を向けられていた。
 境遇に同情されるということほど、生産性も無く、そして気に食わないこともない。しかしブリジットから向けられる憐みの目に、シルスウォッドは不満と小さな苛立ちを感じながらも、負の感情は悟られぬようにグッと堪え、作り笑顔を浮かべる。そして彼は嘘を吐いた。
「眼鏡にまだ慣れてないんだ。なんか、奇妙な感じで」
 作り笑顔を浮かべた際に、彼は少しだけ顔を俯かせたのだが。その拍子に少しだけ、掛けていた眼鏡がズレてしまった。そうしてズレた眼鏡を正しながら、シルスウォッドがそう嘘を吐くと。ブリジットの目は、憐みから疑念に変わる。ブリジットは、今の嘘を見抜いたようだ。すると、ブリジットはあることを指摘してくる。
「シルスウォッドってさ。嘘つくときにいつも、ちょっと俯くよね。で、笑いながら言うの。だから今のは絶対に、嘘でしょ」
 ブリジットは感情に慮ることをせず、容赦なく図星を指してきた。そして発言は全く以て正しい。それは八歳とは思えぬ観察眼だった。
 ぐうの音も出ない、とはまさにこの状況を言うのだろう。
「えー、そうかなぁ?」
「そうやって誤魔化すのも、嘘ついてるときの特徴だよ」
 シルスウォッドは話題を逸らしやすくするために、その導入として“誤魔化す”という手段を講じようとしたのだが、感情に疎い傾向のあるブリジットにその手は通用しない。ましてや相手は、優れた観察眼を持つとはいえ、年相応の精神年齢を持つごく普通の八歳。自分の話したい話題は頑なに譲らないだろうし、相手の感情を酌むなんて配慮もできる年齢じゃない。
「ねー、シルスウォッド。私にはちゃんと本当のこと言ってよ。怪我してるなら、うちで――」
「だから、そんなのじゃないって。最近は何もされてないって、そう言ってるだろ」
 少しだけ不機嫌さを表に出して、シルスウォッドはブリジットを突き放すようにそう言う。すると観察眼はあるものの、空気を読むことは少々苦手なブリジットも、流石にシルスウォッドの「放っておいてほしい」という気持ちを理解できたようで。彼女はそれ以上、追及してくることはなかった。
 その後は何も喋ることはないまま、いつものようにブリジットとは自宅のあるアパートの前で分かれた。そうしていつものように、アパートから少し離れた場所にある父親の事務所にシルスウォッドは向かおうとしたのだが……――この日は珍しく送迎役の方が、シルスウォッドの許にやってきた。ブリジットとアパートの前で分かれた直後に、父親の秘書ランドン・アトキンソンが運転する黒のセダンが、ブリジットと入れ違うかたちでシルスウォッドの前に現れたのだ。
「……ランドン?」


Coming soon......


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