ブレイク

『リック。一緒に映画を見ようぜ』
 中古で購入した、築二十五年の二階建て一軒家。一階のリビングルームには大きな古いテレビが置かれていて、テレビ台の前には三人が座れるボロボロのソファーが置かれていた。
 ソファーの右端は、化石のように古い映画が好きな父親の指定席。フライパンで手早く作ったポップコーンを片手に、いつもそこに座って、父親は映画を鑑賞していた。
 そしてソファーの左端は、次男モーガンのお気に入りの場所。父親の趣味に付き合ううちに、自分もすっかり化石映画にハマってしまった彼は、夜の十時になるとこの場所に座って、父と一緒に映画鑑賞を楽しんでいた。
 それから、空いている中央のスペース。そこは暗い顔をしている末子を、座らせるためにいつも空けられている場所だった。
『ほら、これなんかどうだ。ダーティー・ディテクティヴ。主人公の探偵がクソ間抜けな、コメディ映画なんだけどさ。ヒロインが可愛い子なんだけど、最後でその正体が……っていうやつで』
 DVDなるものを片手にモーガンは、夕食を終えて自室に戻ろうとしていたところの弟――ラーナー家五人兄弟の末子、パトリック――を引き留めて、いつものセリフを口にする。そしていつものようにモーガンは、浮かない顔の弟に笑顔を向けた。すると弟の顔は、どんどん曇っていく。そして弟はいつも通りの言葉を返すのだ。
『……興味ない』
 それが、いつも通りのことだった。だからモーガンもいつものように、弟の肩を半ば強引に抱いて、引きずるように弟をソファーに連れて行くのだ。いつも通りの中央のスペースに弟を座らせて、父親と自分で脇を固めてサンドウィッチにして。逃げ出さないように、自分たちの趣味に付き合わせた。
 やがて映画が終わるころ。弟は既に夢の中へと落ちていた。そうしてモーガンは、特殊な病のせいでひどく小柄な弟を抱き上げ、寝室に運んでベッドに寝かせる。
 それが一〇年前に終わりを告げた、かつての日常の姿だった。
「あぁ、カール。ミランダから連絡が来て、飛んできたんだが。……長らく音信不通だったリックが、見つかったのか? それも、救命救急に運び込まれてきたって。どういうことなんだ?」
 父親からの急な連絡を受け、慌てて病院に駆け付けたモーガンは、病棟の廊下で見つけた知り合いの精神科医の男にそう声を掛けた。
 精神科医の男の名前は、カルロ・サントス。彼はモーガンの弟パトリックの友人であり、今回の急な呼び出しに関係している人物でもあった。
「あいつ、音信不通になっていたんですか? 俺はここ五年、ほぼ毎日のように奴の顔を見てたんですがね。あいつと、あいつの連れの傍迷惑な飲んだくれの顔を……」
 カルロ・サントスはぎこちない笑みを浮かべ、モーガンの言葉にそう返した。しかし彼が浮かべた笑みは、すぐに消失する。眉を顰め、険しい表情になるカルロ・サントスは、モーガンにこう言った。
「パトリックは四階の整形外科病棟、四一五号室に。ご家族も、そちらに。ただお母様だけは別室で、お話を……」
「あぁ、配慮に感謝します。母は、あれですからね。リックの件となると、すぐヒステリーを……――で、母はどちらに」
「同階、談話室に。精神科の看護師が傍についていますので、心配は無用です」
「そうか。……それで、リックは」
「……案内します。ついて来てください」


 性腺機能障害。そんな特殊な病のために、一〇年前とまるで姿が変わっていないように見える弟パトリックの姿は、ベッドの上にあった。弟はまるで死んでいるかのように眠っていて、モーガンが声を掛けても反応しない。昔から変わらぬ、蝋人形の少女のように作りものめいた愛らしくも冷たい表情で、弟は固まっている。両脚がなく、片腕もない姿で、固まっていた。
「本当に、リックなのか……」
 弟は、病棟のベッドの上にいた。じっとして、動かないでいた。瞼は閉じたまま、一切開くことはない。だが精神科医カルロ・サントスが言うには昏睡状態ではないらしい。脳に、外傷のような異常はない。ただ本人が、目覚めないことを望んでいる。そういう状態なのだという。
 弟がこの病院に運び込まれたのは、昨晩のこと。ラーナー家五人兄弟の三女、妹のミランダから電話口に聞かされた話によれば、弟は大けがをした状態でERに運び込まれたそうだ。
 弟は“ある事件”に巻き込まれて、拷問の末に右腕を根元から切り落とされたのだという。麻酔もなく、チェーンソーで時間をかけてゆっくりと、じわじわと切断されたらしい。しかし“ある事件”というものの詳細は現在伏せられており、モーガンを含め家族はみな真相を未だ知り得ずにいた。
 そしてカルロ・サントスが言うには、弟は拷問の最中に心を完全に閉ざしてしまったのだという。目の前にある受け入れがたい現実と、正気で居てはとても耐えられない激痛から逃げるために、この世の全てを拒絶するという選択を採ったのだというらしい。そして元からあった要因や傾向が重なり、手の施しようがないところに進んでしまっているのだという。
 もう二度と、彼は戻ってこないかもしれない。――……カルロ・サントスは、そう言っていた。
「ええ。本物の私たちの弟、パトリック。二度目ね、弟のこんな姿を見るのは。一〇年前は両脚。今度は右腕よ。もう左腕しかない。せっかく五体満足で生まれてきたのに、こんなんじゃ……あぁっ、本当にどうなってんのよ。理解が、追いつかないわ」
 先に病室に入っていたミランダは、早口な小声でそう言った。その横で長男のマイケルは無言で腕を組み、壁にもたれるように立っている。父親は錆びついたパイプ椅子に座り、頭を抱えていた。そして四男のスペンサーは茫然自失とした顔で、父親の後ろに立っている。
 母親を除いた家族が、そこには集まっていた。死んだように動かぬ一番下の弟を、兄三人と姉一人が囲むように立っている。そして父親は、蒼い顔で固まっていた。
「……この子は、何に巻き込まれたんだ……」
 父親の重苦しい声が、病室に響いて、床に落ちる。モーガンは顔を俯かせた。すると長男のマイケルが口を開く。マイケルは言った。
「我が家の毒を、パトリックが一手に引き受けている。そんな感じだよなぁ、まったく。それも他の誰も引き受けることができない、分かち合って減らすこともできない毒を。挙句、母さんは追い打ちをかけるばかり。はぁ、どうしたらいいんだかな」
 すると、それまで口を噤み続けていたスペンサーが初めて口を開く。
「母さんが全部、悪いんだよ。昔から、ずっと。あの人が癌で、リックは被害者だ。なのに、あの人はリックばかりを責めて、自分は被害者顔で。そんなの、あんまりだ。あまりにも、酷すぎる……」
 スペンサーの言葉に、ミランダは不快感をあらわにさせ、部屋を出て行った。モーガンは軽い注意をスペンサーにしたが、長男のマイケルと父親の二人は何も言わない。その後は、気まずい空気と沈黙だけがその場に残った。





「あの子は、悪魔なんです。だから私は何度も、あの子を捨てようとした。なのにあの子は必ず、家に戻ってきた。旦那が、息子たちが、娘が、そしてあなたが、必ず連れ戻してきたんです。どうして? 今回だってそう。誰もあの子を助ける必要はないのに。放っておけば、死ぬのに。何故、あの子をそこまでして助けるの? 周囲にいる人間に災いしか振り撒かないのに。助ける価値なんて、あの子にはないでしょう?」
 病室とは離れた場所にある談話室。ドアもカーテンも閉め切られたその部屋の中で、カルロ・サントスは無言で、椅子に座っている女の話を聞いていた。友人としての彼は目の前に居る女を怒鳴り散らしたかったが、医者としての彼にそんなことは出来なかった。患者の家族に手を上げることなど、以ての外だった。
 女は、カルロ・サントスの友人である男、パトリックの母親。片腕を切り落とされた息子に対し、どうして死んでくれなかったのかと泣きつくような女。そして彼女自身も、苦しい現実に疲れて、心を壊してしまったひとり。
 だから、仕方ないのだ。精神に異常をきたし、認知に歪みを持つ人格障害者の言葉なのだから、目くじらを立てたってどうしようもない。……そう思って聞き流すしか、今のカルロ・サントスには出来なかった。
「あの子が幼いころ、私はなんどもあの子を駅に連れて行った。あの子をホームのベンチに座らせて、次の電車が来たらそれに乗るように命令して、私はその場を立ち去った。何度も、何度も。だけどあの子は必ず、家に帰ってきたんです。旦那がいつも、連れて帰ってきた。そのうち私は駅に出入り禁止になって、電車の利用ができなくなったんです。それも全部、あの子のせいじゃないですか」
 この女の言っていることは、すべて滅茶苦茶なものだった。でも仕方ないのだ。彼女の精神は破綻しているのだから。親戚との軋轢の理由をすべて小さくて病弱な末子の中に見出し、言いがかりを付けては家族の目につかない場所で末子を攻撃して、手を上げて、心を体を傷つけても。それは彼女の精神が破綻しているから、仕方のないことなのだ。
 その所為で、末子の精神が破綻しても。仕方のないことなのだ。
 仕方が、ないのだ。
 責任を負う能力が欠如しているのだから。
 いまさら彼女を責めたところで、何も解決はしないのだから。
 彼女の今までの行いを糾弾したところで、カルロ・サントスの友人は戻ってこないのだから。
 全部、仕方ないのだ。
「あの子、顔だけは可愛いんです。まるでお人形みたいで。それに黒人夫婦の間に生まれた子供なのに、肌がゆで卵みたいに白いから。だから昔、子供はいないけれども金だけは持っている白人夫婦に言われたんです。大金を出すから、あの子を、パトリックを養子に出してくれないかって、譲ってくれないかってね。そう声を掛けられたときは旦那が傍にいて、旦那がその話を突っぱねたんですけど。そのときにあの子を他所にやっていればと思うと、どうしても悔しくて。きっとあの子も、白人の家で育ったほうが幸せだったはずよ。黒人の家に、黒人以外は必要ないんですもの」
「ですが、ミセス・ラーナー。彼は、あなたの実の息子じゃないですか」
 カルロ・サントスが、うっかりと漏らしてしまった言葉。その言葉に、女は反応する。彼女の表情はみるみる曇っていき、やがて激高した。
「肌が白い子なんて、うちには要らないわ! 現にあの子以外の私の子供は、みんな肌が黒いもの」
「それはあなたの旦那様のお母様がアングロサクソン系で、旦那様がアングロサクソン、つまり白人の遺伝子を持っていたから……――」
「そんなの、知らないわよ! だって、うちの旦那は黒人! なのに、どうして。あの子は、肌が白人みたいに真っ白。あの子が白人として生まれてこなければ、私は親兄弟から縁を切られなくて済んだはず。……なにもかも全部、あの子のせいよ!!」
「落ち着いてください、ミセス・ラーナー」
「カルロ・サントス、あなたにも責任があるわ。あなたが失踪したパトリックを毎度毎度探しに行かず、保護なんかしなければ、私はこんなところに来なくて済んだのよ?! 空気の読めない、頭の悪いチンパンジー。だからマレー系の人間って嫌いなのよ」
 次から次に飛び出す、過激で程度の低い発言たち。呆れかえるカルロ・サントスには最早、返す言葉もなかった。
 それも仕方のないことなのだ。だって彼女の精神は破綻している。だからまともに取り合うだけ、時間の無駄。……彼はそう、自分に言い聞かせ続けた。そして耐え続けた。何故ならば、分かっていたからだ。友人はここで彼が母親と言い争うことを、きっと望まないだろうと。
 友人もまた認知に歪みを持ち、現実を曲解して捉えてしまうクセを持つ人間。ここで彼が母親と争えば、友人は全て自分に原因があると思い、それは全て自分が生きているせいだという答えを導き出し、その答えに囚われてしまう。それを分かっているからこそ、カルロ・サントスは無益だと分かっている争いはしない。腕を組んで、顔を顰め、だんまりを決め込んだ。女が口から吐き出す呪いのような言葉を、右から左へと聞き流す努力をした。
「あの子さえいなければ、私は!!」
 怒鳴り散らす女に対し、カルロ・サントスは「落ち着いてください」というセリフだけを繰り返す。そして数分が経過したころ、談話室のドアを誰かが叩いた。
「お母さん、忙しいドクター・サントスにそれ以上の迷惑を掛けないで。さあ、もう帰りましょう。私が車で送ってあげるから。文句なら車の中で、私が聞くわ」
 談話室のドアを開け、入ってきたのはラーナー家五人兄弟の三女ミランダ。母親はまだ興奮冷めやらぬ様子ではあったが、椅子からゆっくりと立ち上がる。それから娘に連れられて、帰って行った。
 去り際にミランダは申し訳なさそうな顔で、カルロ・サントスに視線を送ってきた。彼女は無言で、すまないと彼に伝えてきたのだ。しかしそのような謝罪も、カルロ・サントスの心を軽くしたりはしない。寧ろあたりに充満するヘドロのにおいを、より明確に知覚させるばかりだ。
「あの母親に、あの子あり、ってか。……あー、嫌にもなるぜ。ったくよ……」
 一人だけになった談話室の中。カルロ・サントスはそんな独り言を呟くとともに、重たい溜息も吐き出す。しかしそんな溜息もまた、彼の心と今の状況を救ってはくれないのだった。
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