ダーティー・ディテクティヴ

 黄金時代も世界大戦により焼失し、戦火を逃れたライフラインにより辛うじて人類が生き延びている、西暦四二五二年。生活水準は二十一世紀とほぼ同等と、人類はどこまでも落ちぶれていた。
 舞台は、そんな四十三世紀。『空中要塞アルストグラン』こと、アルストグラン連邦共和国。かつての名をアルフレッド島、更に昔の名をオーストラリア大陸といったその大陸は、今や高度一五〇〇メートルほどの空を漂う空中都市エアロポリスとなっていた。
 アルストグラン連邦共和国。そこはひとつの大陸が、ひとつの大きな飛行船になっていたのだ。夢のようなその都市は、永久機関の大型エンジンと、未知のエネルギー物質によって可能となった。
 大型エンジンを動かす動力源は、まだ未解明な部分が多く残されているエネルギー物質『アバロセレン』。ここ二〇年ほどの歴史しかないその物質は、今やアルストグランのエネルギーの全てを賄っていると言っても過言ではない。電力を生むタービンに使えることは勿論のこと、車や飛行機を動かすエンジンにも、果ては核爆弾以上の威力を持つ兵器にもなり得るアバロセレンは、全ての夢を叶えてくれるであろう素晴らしい代物だった。
 しかし、そんなアバロセレンがもたらす恩恵は、それを使用することにより発生するリスクとはとても釣り合っていなかった。
 原子力発電に用いられるウランよりも、よほどタチが悪いといえるだろう。
「どうも、ミスター・ベネット」
 そんな空中要塞アルストグランにて、その日暮らしも同然な生活を送っている一人の男がいた。
「やぁ、ダグラス。思ったよりも元気そうで、何よりじゃないか」
 男の名前はダグラス・コルト。刑事として活躍していた輝かしき若き日は、とっくに潰えた過去の栄光。10年ほど前に妻と共にアルストグランへ移住してからは、探偵業を飯のタネとしている。……のだが、お人よしともいえる性格が災いし、これがちっとも儲からない。探偵業はボランティアではないと怒る妻には愛想を尽かされ、じき八歳になる娘にも冷たい視線を送りつけられ、ダグラスという男は現在、肩身の狭い日々を送っていた。
 ただでさえ悲惨な日常。しかし、不幸は男の身に降りかかる。
「空元気でも出さなきゃ、やってらんないってとこですよ。嘆いても時間が戻るわけじゃあないですからね。前を向くしか、ないですから……」
 大通りに面した一角に佇む、昼下がりの喫茶店。そこにダグラスと、同業のよしみとして友好を築いている先輩探偵トーマス・ベネットの二人が居た。
 四〇過ぎの男ふたりが喫茶店に集い、窓際の席に並んで座っている。なんともむさ苦しい光景であるが、更に彼らが交わす会話の内容は、とても聞いていられない内容であった。
「それで、その……お前の事務所が荒らされた件だが。どうだ、何が盗まれたのかとかは判明したのか?」
 どこか揶揄するような笑顔で、嬉々としてそう尋ねてきたのはトーマス・ベネットのほうだった。そしてダグラスは表情を曇らせる。神妙な顔になったダグラスは、つぶやくような声でこう返答した。
「盗まれたのは、調査を終えたばかりのファイルだったんですよ。それが浮気調査の依頼でして。あとは依頼人にファイルを渡し、報告するだけの状態だったんですが……そのファイルを盗まれてしまったんですよ。あげくにコンピュータの中のバックアップも、ハードディスクが粉砕されちまったばかりに取り出せなくて。依頼人にどう伝えるべきかを今、迷っているところなんです」
 つい先日、ダグラスの探偵事務所は泥棒に入られた。泥棒は事務所からとあるファイルを盗んだだけでなく、パソコンなど情報が詰め込まれていた電子機器を悉く破壊し、金庫も解錠して中に詰め込まれていた重要書類の諸々も盗んだ。そしてダグラス・コルトのハートもまた、その泥棒は盗んでいった。
実はその泥棒、探偵に調査依頼をしに来た客のふりをして、正面から堂々と事務所に入ってきたのだ。それはそれは大層可愛らしい人物で……ついつい、手を差し伸べて守ってやりたくなるような、父性本能をくすぐるオーラをその泥棒は放っていた。そしてダグラスは、まんまと騙されたのである。
正面から堂々と入ってきた泥棒を笑顔で迎え入れてしまったダグラスは、泥棒の嘘の相談を笑顔で聞いていた。その内容は、交際している男性の浮気を疑っているというもの。涙ぐむ演技を見せた泥棒の姿に、ダグラスは心を激しく揺すぶられた。この人を自分は絶対に助けなければならない。そう思ってしまったのだ。故にダグラスは二つ返事で、嘘の調査依頼を請け負ってしまったのだ。
 そしてダグラスが依頼を引き受けると宣言した瞬間、相手の態度が一変した。涙を消した泥棒は、今度は色っぽい笑みを浮かべ、ダグラスに何かをアピールしてきたのだ。それから泥棒は言った。どこか二人きりになれる密室はないか、と。そうしてダグラスが案内したのが、調査ファイルなど書類が保管されている倉庫だった。そこで、やることをやってしまったというわけである。
「ダグラス。依頼人もそうだが、嫁さんにどう伝えるつもりんだ? 事務所に盗みに入った泥棒と、倉庫でヤっちまいましたーなんて、一時の気の迷いじゃあ済まされないぞ?」
「……」
「ダグラス?」
「それについては、墓まで持っていくつもりです」
「正直に話しちまったほうがいいと、俺は思うがなー」
「……いやぁ、いろいろと、ありすぎて。とてもイーリヤには、話せません」
「ハハッ。まあ、それもそうか。可愛らしい女の子だと思って接していた相手が実は若い男で、彼とヤっちまったうえに、実はその男が泥棒だった……なんて、そうすんなり理解できる話じゃあねぇもんな」
 そして、ダグラスも相手が服を脱ぐまでは女とばかり思っていたのだが、その泥棒は男であった。男であったのだが、構わず行為に及んでしまった。それから一通り終えたあと、そこでダグラスの意識がぶつっと切れてしまったのである。そうして次にダグラスが目を覚ましたとき、事務所の中はひどく荒らされていた。あるファイルが盗まれ、金庫は開けられ、パソコンにはいくつか銃弾がぶち込まれていて、パソコンから取り出されていたハードディスクは金づちか何かで叩き壊されていたのだ。
 そんなこんなで、ひとまずは盗まれたファイルを取り返すべく、ダグラスは今その泥棒を探している。そして頼ったのが、探偵の先輩であり元連邦捜査局特別捜査官であるトーマス・ベネットという人物だったのだ。
「それで、ダグラス。その泥棒の手掛かりは“ラッキー・ザ・キティ”という通り名だけなんだな?」
「ええ、はい。ここいらの、そういう男好きに聞き込みを続けて、ようやっと掴んだのがその名前です。ですが、それ以上の手掛かりはなく……」
 すると、トーマス・ベネットはうぅむ……と唸る。眉間にしわが寄り、表情はきついものになっていく。どうやら、彼には心当たりがあるようだった。
「ラッキー・ザ・キティ、か。まさかとは思うが……」
「どうかされたんですか、ミスター・ベネット」
「……もしや“リッキー・ザ・キティ”の間違いなんじゃないのか?」
 そう言ったトーマス・ベネットは手帳を取り出し、手帳の中に挟まれていた一枚の写真を取り出す。その写真を、ダグラスに見せてきた。そしてトーマス・ベネットは、写真の中に映りこむ一人の小柄な男の顔を指差す。それから彼はこう言った。
「こいつは、連邦捜査局時代の俺の部下でな。パトリック・ラーナーって名前だ。パトリックは、そりゃ小柄でな。おまけに彼は十歳かそこいらの子供に似た容姿をしているんだ。つい最近、ばったりあいつと再会したんだが、三十を超えてもあの容姿はまるで変わってなくてな。そしてそのパトリックに、ノエミが付けたあだ名が“リッキー・ザ・キティ童顔クソちび野郎”」
 写真を見つめるダグラスは、驚きのあまり目をひん剥く。なぜならトーマス・ベネットが指を差して示した人物の顔に見覚えがあったからだ。
「……そうです、この男ですよ。うちの事務所を荒らしていった男娼は!」
 驚きとともに、とたんに怒りも込み上げてきたダグラスは、わっと立ち上がる。声を荒らげ、そう言った。するとトーマス・ベネットは、ダグラスをどーどーと宥める。そしてトーマス・ベネットはこう言った。
「ダグラス。だとしたらお前、こりゃ相当マズイ状況に陥ってるぞ。なんせパトリックは今、連邦捜査局の特別捜査官じゃない。今のあいつは、諜報機関ASIのエージェントだ。つまりお前は、国に目を付けられたってことになる」
「……えっ。それは、どういった意味で……」
「そのまんまの意味だよ。ASIに襲撃されたんだ、思い当たる節のひとつやふたつ、あるんじゃないのか?」
 トーマス・ベネットのその言葉に、ダグラスの怒りはスッと引いていった。代わりに垂れてきたのは、冷や汗。そして思い返すのは、盗まれたファイルの内容。思い当たる節は、それだけで十分だった。
 するとトーマス・ベネットは続けて、こう言った。
「幸いにも俺は、パトリックの連絡先を知っている。それとあいつの上司、ASI長官代行の連絡先もな。なんなら俺が、お前の事務所が襲撃された理由を聞いておこうか?」
 トーマス・ベネットのその問いかけに、ダグラスは唇を一文字に噤む。そして再度口を開いたとき、ダグラスはこう言った。
「いえ、直接聞きに行ってきます。良ければ、その“リッキー・ザ・キティ”の連絡先を教えてくれませんか」





「まさかあなたが、トーマス・ベネット元特別捜査官と知り合いだったなんて。私としたことが、読みを誤ってしまいましたね。チョロい探偵だと思ったのも束の間、やはりバルロッツィ高位技師官僚の要警戒リストに名が記載されているだけのことがあったというわけですか。実力者というよりかは、現実を捻じ曲げてみせる強運の持ち主というか、なんというか……」
 トーマス・ベネットは“リッキー・ザ・キティ”ことパトリック・ラーナーとすぐに約束を付けてくれた。そして、その日の晩。ダグラスが呼び出されたのは、市内でも有数の高級ホテルの一室。黒スーツ姿で出迎えたのは先日の泥棒、その本人だった。
だが泥棒としてやってきた時と、彼の雰囲気は大きく違っていた。小柄な体躯と子供のような愛らしい顔は変わっていない。だがそのオーラは、相手に付け入る隙を与えない、プレートアーマーを纏った騎士のようなものになっている。先日の父性本能をくすぐるようなものはそこに無く、雰囲気はまさしく諜報機関の局員そのもの。ダグラスも笑顔を浮かべず、険しい表情で身構えていた。
するとパトリック・ラーナーはにやりと笑う。そしてパトリック・ラーナーは、こんなことを言った。
「例のファイルですが、私が処分した理由はもうお分かりになられているでしょう?」
「ああ、大凡の見当はついている」
「今のご時世、危険分子は外国から飛来するものでなく、国内で沸々と誕生するものですから。色々と、国内に向けられる監視の目は厳しいんです。……今回の件、発端は単なる浮気調査かもしれませんが、潜入捜査中の工作員の正体を暴かれたんじゃあ仕方ないんですよ」
「……」
「ですので、ASIのほうで本物のファイルは処分させていただきました。その代わりといっちゃなんですが、世に出たとしても差支えのない情報を記載した、新しいファイルをこちらで用意しています。これを、あなたの依頼主に渡しておいてください。あと、あなたの口座に後で大金を振り込んでおきますので、それで事務所を修理してくださいね」
「口止め料か」
「そういうことですので、送り返さずに全部きれいに受け取ってくださいね」
 浮かべた笑顔を一切崩さず、パトリック・ラーナーはそう言う。そして彼はダグラスに、ひとつのファイリングされた資料を差し出した。
その資料は、表紙や体裁などのデザイン、そして文字に使われているフォントすらも、コルト探偵事務所で使われているものと寸部違わぬ出来栄えとなっている。しかしその中身は、大幅に書き換えられていた。
「くれぐれも真実は口外しないよう、お願いいたします。あっ、私のことも勿論……――」
「口外なんざしないさ。こっちだって生活が懸かってるんだ。妻と娘を食わせてやらなきゃならないってのに、ASIの怒りを買って殺されるような真似はしないよ」
「そうすることが賢明でしょうね。まっ、あなたがあの美しい奥様と可愛らしい娘さんを扶養しているとは、私には思えませんが……」
「…………」
「イーリヤさん、でしたっけ。彼女は、本当に逞しい。パートをいくつも掛け持ちしながら家計の大部分を支え、母親としても実に立派な女性だ。そして娘のアレクサンダーも、八歳にして既に将来有望。母親に似た逞しさと、父親譲りの鋭さ、そして独自の豪胆さとぶっきらぼうな優しさを兼ね備えている。ダグラスさん、あなたよりも優秀な探偵になるかもしれませんねぇ?」
「……はぁ。すべてお見通し、ってわけか。流石ASI、反吐が出る」
「それにあなたのつまらないプライドも、これで保たれますしね。即離婚って事態には発展しないでしょう」
「…………」
 元のファイルには、ざっくりとこういった情報が書かれていた。調査対象者は浮気をしていない。朝帰りが多かったのは、彼の危険な本職が原因だ、と。
 調査対象者は長年、とある法律事務所のアソシエイトをしていると妻に称していた。しかしその職業はあくまで表向きのものであり、所属しているという法律事務所は架空の存在で、その肩書は名前だけのものだった。そして調査対象者の本職はASIの工作員であり、彼は現在とある任務を遂行するためアバロセレンの密輸業者に潜入していたのだった。
 アバロセレンの密輸業者が動くのは、深夜から朝方にかけての人が少ない時間帯。その為、調査対象者もその時間に行動していた。故に朝帰りが多かったのである。そして二か月という長期間の潜入生活が、夫の事実を何も知らない妻に疑念を抱かせ、コルト探偵事務所の扉を叩かせたということであった。
「……イーリヤとアレクサンダーにだけは、手を出すんじゃないぞ。そのときは、たたじゃ済まさないからな」
「大丈夫ですよ、ダグラスさん。私、女性には興味ないんで。少女なんか特に」
「そういう意味じゃない。分かってるだろ?」
「ええ、勿論。ASIからは、何も手出しはしませんよ。多分ね。まつ、時と場合によります」
 そうして一人の探偵が、ひとりのASI工作員の正体を暴いてしまった。そして探偵は何も知らない一般人に、その事実を記したファイルを手渡そうとしている。その情報を掴んだASIは、工作員を守るため、そしてひとりの一般人のありふれた普通の人生を守るために、すぐさま動いた。ひとりの局員を探偵の許へ向かわせ、ファイルの回収を急がせたのだ。その際、出された指令は実に簡潔なものだったという。
 血さえ流れなければ、手段は問わない。
 そういうわけで、ASIで最も手段を選ばない男が送り込まれたというわけだ。
「ダグラスさん。あなたもよくご存知でしょうが、世界とは常に流動し変化し続けるものです。状況はいくらでも変容し得る可能性があります。つまり」
「簡潔に、話せ」
 綺麗に内容が書き換えられ、調査対象者が謎の女性とイチャイチャしている偽造写真が添えられたファイルに目を通しながら、ダグラスはパトリック・ラーナーという男を睨むような眼で見る。彼がついさっき発した言葉に、ダグラスは違和感を覚えたのだ。
 そしてパトリック・ラーナーは、笑顔を消した。その瞬間、建前が全て吹き飛んでいく。掴みどころのない男は纏っていた空気を変え、姿を現したのは影の世界の番人だった。
「ASIからは、あなたのご家族に今後一切関わらないということをお約束いたします。しかしそれ以外の場所から加えられる攻撃に関しては、約束ができないということです」
 明確な断言は避け、言葉を濁すようだったパトリック・ラーナーの口調が、ダグラスへの明確な警告へと変化する。ダグラスを見つめる彼の黒い目は、人の心を持ち合わせていない人形のように褪めきっていた。
 予め定められた定型文を読み上げるアンドロイドのように、抑揚のない乾いた言葉。その言葉が、声が、ダグラスの心に雪崩の如く迫りくる。万が一のことを想像し、頭が白に呑み込まれそうになる寸前、ダグラスはやっとの思いで言葉を絞り出した。
「それ以外の場所とは、どういうことだ」
「ダグラスさん、あなたはご自分の職業を理解してらっしゃいますか?」
 するとパトリック・ラーナーは再び、にやりと嫌みな笑みを浮かべる。作り物めいた雰囲気を一瞬でかき消した。彼は再び、掴みどころのないASI局員の顔に戻る。ダグラスはその姿に、得体のしれない恐怖感を覚えていた。二重人格者を相手にしているような、そんな気分にダグラスはなっていた。
 そしてパトリック・ラーナーは、ASI局員としてこう言葉を続けるのだった。
「あなたは探偵、ですよ。それも異国の元刑事で、探偵。ASIやABoI(連邦捜査局)といった国家機関を始め、アバロセレン工学研究所やら麻薬密売組織など、幾らでもあなたを疑い、そして狙う輩は居るということです。更にあなたには、一瞬ではありますがあの高位技師官僚と接点を持ったという過去がある。その接点がどれだけの威力を持つ爆弾なのか、今一度考え直したほうがいい。そして、もっと警戒すべきだ。でないと死神が、確実にあなたの首を取りに来ますよ」
 パトリック・ラーナーがその言葉を言い終えたとき、すでにダグラスの頭は真っ白になっていた。彼の言葉の半分以上を、ダグラスは理解していなかったのだ。
 目を見開き、ぽかんと口を半開きにしていたダグラスを前に、パトリック・ラーナーは腕を組んで溜息を吐く。そして彼は茫然自失としているダグラス・コルトという男に向かって、こんな言葉を掛けるのだった。
「……はぁ、やっぱりあなたは強運だけの人のようだ。こんなんじゃ、探偵っていう肩書が泣きますね。それにあなたのご家族が、心配でなりませんよ……」
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