アルファルド

 うみへび座の心臓部に位置する二等星、「蛇の心臓コル・ヒドラエ」ことアルファルド。アルファルドという名は、「孤独なもの」を意味するアラビア語が由来だとされている。
「アルファルド! 久しぶりだね、元気にしてた?」
 アルファルド。そう呼ばれていた少年とその家族のもとを私は、旦那・タイスケの猛反対を押しきって何年かぶりに訪れたのだ。
 灼熱の砂漠は相変わらず乾いていて、日差しは強く、あっという間に肌はこんがりと焼けてヒリヒリと痛む。砂が跳ね返す紫外線もあって、サンバイザーは役に立ちはしない。日焼け止めも汗に流されて、塗るのが追い付かない。化粧なんかできる筈もない。頭から肩までをすっぽりと覆う、慣れないヒジャブを鬱陶しく思いながらも、私はカメラを首から下げて、ミサイルに破壊された町を歩くのだった。四方八方を壁に囲まれた、逃げ場のない鳥籠の中を。
「カイか? あのカメラマンの」
「そう、カメラマンのカイさ。覚えててくれたんだね、アルファルド。ちょっと見ない間にイイ男になっちゃってさ。今頃ジャパーンで、旦那が嫉妬してそうだよ……」
「結婚してたのか」
「まあね、24の時に。友人たちの前で『結婚してくれ!』って大声出されてハグされてさ、断ろうにも断れなかったよ。まともに交際もしてなかったってのに」
「そうなのか。子供は?」
「うーん、妊娠してたんだけどさ。6年前に流しちゃって。今は心の準備期間ってとこかな」
「……悪いこと、聞いたな」
「いいよ、気にしないで。過去のことだから」
 ニッと笑うと、私は彼にカメラを向ける。突然向けられたカメラに戸惑いビクッと後退る彼。その驚いた顔を見せた一瞬を、私はカメラに納めたのだ。
「表情かたいよ、アルファルド。笑わなきゃ」
 彼の名はアルファルド、ではない。名前はジャーファル・アルハーディー。この地域では珍しい緑色の瞳が印象的な青年だ。妹のイマーンを連れて町を歩いていた彼に昔、私は声を掛けたのだ。そうして彼ら兄妹から一晩中、色んな話を聞かせてもらった。
 彼らの両親は既に他界している。父は無抵抗にも関わらずイスラエルの兵士に銃で頭を撃たれて死亡し、母は目の前でイスラエルの不法入植者にレイプされたのちに、首を絞められ死んだのだという。母親が殺されたとき、彼ら兄妹も兵士に殺されそうになったらしい。だがジャーファルが、近くにあったナイフで兵士の心臓を一突きにしたのだという。その時の話をジャーファルは昔、自慢げに語っていた。ユダヤ人を殺してやったんだ、と。
 と、そこで私は思う。彼の妹であるイマーンが居ない、と。
「そういえば、イマーンは? 姿は見えないみたいだけど、彼女も元気にしてるの」
「イマーンは死んだ。アイツが通ってた学校に落ちてきたのさ、ミサイルが。それに巻き込まれて、死んだよ。カイほどの情報通でも、知らなかったか?」
「ごめん、知らなかった……。そんな、なんて言えば……」
「もう五年も前の話だ。嘆いたところでイマーンは戻ってこない」
 淡々と、表情もなくそう話すジャーファルの横顔に、私は深い哀しさと淋しさを覚えた。彼は怒ってもいなければ、妹の死に悲しんでさえもいないのだ。あるがままの現実を受け入れて、冷静に、客観的に状況を分析しているだけ。それがとても、虚しかった。
 彼は、感情のないロボットのようになってしまっていたからだ。
「……アルファルド」
「昔の俺は馬鹿だったから、ユダヤ人が憎かった。でも今は違う。ユダヤ人の中の、シオニストが憎い。イスラエルの連中をぶっ殺したい」
「……」
「奴らは俺たちから故郷を奪って、そのうえ俺たちをここに閉じ込めた。カイみたいな外部の人間は出入りができるけど、俺たちはここから出ることが出来ない。ここにいる限り、あの壁に邪魔されて逃げることが出来ないんだ」
 そう言う彼の声色には、感情の鱗片は感じられない。けれども言葉の節々には、強い恨みや憎しみといった感情がたしかに根を張り芽生えていた。
 空爆、銃撃。そのような、旧時代の武力行使という戦争からは何も生まれない。ただ負の感情が増幅されて、そこから過激な思想が産声を上げて、また新たな戦争へと繋がっていくだけ。私は常々、写真を通じて世界にそう訴えてきた。けれども世界は写真の数十枚で変わるほど単純ではなくて、今でもこうして紛争が続いている。そしてジャーファルのような不幸な子供が、生まれていくのだ。
「……カイはまた俺の写真を撮って、本でも出すのか?」
「アルファルドがいいって言うならね。ダメだって言うなら、出さないよ」
「なら、撮らないでくれないか。俺は、誰にも見られたくないんだ。その方が都合がいいし、カイのことも巻き込みたくないから」
 その日初めての笑顔を見せたジャーファル。ニタッという、少しだけ嫌味な笑顔だった。
「――……さようなら、ジブリール」
 すると彼は私に背を向けて、どこか遠くに去っていく。振り返ることも、一切なく。その背に携えられたアサルトライフルに、私はヒヤッとした汗を手に握った。
「……ジャーファル・アルハーディー。君は一体、何をするつもりなんだ……?」
 私はそれ以降、ジャーファルの姿を見ることはなかった。
 その後も、あの町に原爆が落とされた後も、二度と彼を見ることはなかったのだった。

 孤独な星がその後、どうなってしまったのか。私には知る術がない。
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