ヒューマンエラー

Pervert the course of Average. ― 「放逸と耽溺」

 午後一〇時に時計の針が振れる、その少し前。キャンベラ市某所にある、夜の喧噪から少し離れたところにあるバー。その店のカウンターに、三つの人影があった。
「私ね、すっごーく思ったのよ。アイリーン、彼女は本当にサイッコー。手際が早いのよ。早い、もう早すぎる。物事の十番手先まで読んでるって感じ。頼もしハッカーよねー。彼女の力があったからこそ、あなたが一時間弱で見つかったのよ。リッキー、あとで彼女によくお礼をしておくことねー、分かったー?」
 お酒が入り、できあがったノエミは大口を開けて、けたけたと笑う。そんな彼女の右隣りには、寝落ちしたカルロ・サントス医師の姿があった。しかし左隣りには、誰も居ない。するとカウンターの内側でグラスを磨いていたバーテンダーが、ノエミに声を掛けてきた。
「お客さん。あなたの左隣りには、誰も居ませんよ」
「なに言ってるのよ、バーテンさん。リッキーは、あれ、リッキーは……?」
 三〇分前。そこのカウンターには、四つの人影が合った。蒼い顔をしたカルロ・サントス、アルコールで真っ赤になった顔のノエミ・セディージョ、変に上機嫌になったパトリック・ラーナー、それと冷静なバーテンダー。しかしいつの間にか、ラーナーが居なくなっていたのだ。
 ノエミは狭くもなく、広くもない店内を見渡す。ぽつぽつと人が居る。だがそのどこにも、ラーナーの姿は見当たらない。病院で借りた車椅子に乗った、子供っぽい見た目の男は、店内に居なかった。
「ちょっと、カール! 起きて、起きてってば! リッキーが居なくなっちゃったんだけど!!」
 混乱するノエミは、隣で眠りこけるカルロ・サントス医師の肩を揺するが、彼は一向に起きる気配を見せない。あーっ、もうどうしたらいいの! ノエミは声を上げる。
「リッキーは、どこに消えたのよ!」
 そんなノエミの問いに、バーテンダーが答えた。
「車椅子に乗ってた小柄な彼なら、常連客にお持ち帰りされて行きましたよ」
「ぬぁっ!?」
 ノエミは椅子から腰を浮かし、前のめりになると、バーテンダーに詰め寄る。
「……お、お持ち帰りって、どういうこと?」
 クールにすかしたバーテンダーは、言った。
「レヴィンって名前の、ブロンドの美人。小柄な彼は、レヴィンといい雰囲気になってましたよ。そのままレヴィンが彼の車椅子を押して、どっかに行ってしまったんで、まあきっと……そういうのでしょ」
「レヴィン?」
「困った常連客でしてね。レヴィンは手当たり次第、男に声を掛けるんです。特に、ちょっと気が弱そうで、ムードに流されてしまいそうな人を選んで。とはいえ大抵の客はレヴィンを相手にしないんですが、小柄な彼は人が好かったんでしょうね。もしくは、レヴィンに騙されたのか……」
 ノエミはアルコールで鈍った頭を可能な限り働かせ、記憶を辿る。そういえば先客に、ブロンドの美女が居た気がするような、しないような。くりんくりんのカールが掛かった長い金髪をしていて、濃紺のパーティードレスを着ていた……っけか?
 ということは、女性に連れて行かれたってことなの……か?
「り、リッキーは女の人に、お持ち帰りされちゃったってことなんですか?」
 あわあわとするノエミは、バーテンダーに訊く。するとバーテンダーは困ったような顔をして、真実を言った。
「いいえ。その理解は少し、違いますね」
「理解が違うって、どういうこと?」
「レヴィン。あれは女装家というか、シーメールなんですよ。……まあ、そのー、女性に扮したゲイってところですか? たしかにレヴィンはそこいらの女性よりもずっと綺麗なんですが、やっぱ男ですからねぇ。男は、だめですよ……」
 なんですと。
 酔っ払ったノエミの脳内に、雷に打たれたような電流が走る。驚きの余り、開いた口が塞がらない。と、そのとき。それまで眠りこけていたカルロ・サントス医師が、むくりと起き上がる。彼は寝起きの舌ったらずな喋りで、会話に割り込んできた。
「……そのレヴィンってのは、シーメールストリッパーのレヴィンか?」
「お客さん、よくご存じで。そうです、あのレヴィンです」
 バーテンダーは不思議そうな眼で、カルロ・サントス医師を見る。そんなバーテンダーの目は、よくそんなコアな情報を知っているな、と言いたげだった。
 するとカルロ・サントス医師は、その情報を知っているワケを話す。
「……そいつは、俺の上司の患者だ。よくリチウム中毒を起こすんで、厄介者扱いされてんだよ。はははっ。こりゃラーナーの野郎、とんでもねぇのに捕まったぞ……」
 そう言うとカルロ・サントス医師は、再び眠りにつく。その横でノエミは、駄目もとでラーナーに電話を掛けた。すると意外なことに、ラーナーはすんなりと応答した。
 どうしましたぁ、ノエミ。呂律が回っていない口調の喋りが、スピーカーから聞こえてくる。普段のツンケンしたパトリック・ラーナーからは想像もできない、ぐだぐだのプリンのように溶けきった甘ったるい声だった。
「リッキー、あんた今どこにいるの?」
 ノエミはそう問う。スピーカーから返ってきたのは、奇妙なテンションの笑い声。そしてラーナーは言った。
『急用じゃないならぁー、切りますよぉ~?』
 その瞬間、ノエミの酔いが一気に醒めた。少しだけ楽しくなっていた気分も、一瞬にして冷え切った。
 今のノエミの気分を言い表すに相応しい言葉は、ドン引き。彼女の中にあった“パトリック・ラーナー”のイメージが、音を立てて崩れていった。
「ね、ねぇ、リッキー。あんたが美人にお持ち帰りされたって、バーテンダーから聞いたんだけど」
『ふふっ。まあ、そんなとこですかね~?』
「レヴィンって名前の人でしょ?」
『そうですー、レヴィン』
「……あ、あのね、リッキー。その人、男よ。ちゃんと、理解してる?」
『知ってまぁーす、大丈夫で~す』
「…………」
 冷や汗が、止まらない。嫌な汗も、止まらない。ドン引きが止まらない。イメージ崩壊が止まらない。
 遂に言葉を失ったノエミは、呆然とスピーカーから聞こえてくる音声を聞き流す。すると音声に、聞き覚えのない声が混じった。
『電話なんか、早く切って。お楽しみに戻りましょうよ、パトリック』
『ふふふっ、そうですね~』
 あぁ、リッキー、ああ、なんてこと……。
『それじゃぁ、ノエミ。切りまぁ……――っ!』
 しかし通話は切れず、代わりに聞いてはいけないような気がする声と、何か固い物にぶつかったような音が、スピーカーから聞こえてきた。多分、相手のほうが携帯電話を床に落っことしたのだろう。
 それからノエミは、暫く待った。けれども応答は何もなかった。向こうから聞こえてくるのは、狭くなった気道から絞り出されるような、裏返りかすれた嬌声。それと「パトリック」と名を呼ぶ、ノエミには聞き覚えのない声。
「……」
 ノエミは静かに、通話を切った。そしてカウンターに突っ伏し、号泣する。
「…………うぅっ、リッキー。そんなぁ…………!」
 するとバーテンダーがノエミの肩に、そっと手を置く。そしてこんなことを言った。
「失恋ですか。それも男に、男を取られたようで」
「失恋なんかじゃない! ただ、なんていうか、その……」
「……と、いいますと?」
「可愛い可愛い弟が恐喝犯に拉致されて、その弟の卑猥な動画を見せられた挙句、金銭を要求された気分! もう最低最悪、なんなのよ、もう! 今朝だってリッキーは凶悪犯に誘拐されて、どうにか生還したばっかりだってのに!! どうして、懲りないのよ?! 意味分かんない、はぁ!?」
 バーテンダーはそっと手を離し、怒り狂うノエミを冷めた目で見る。その横でカルロ・サントス医師は、寝言で「……レッドカード、性倒錯パラフィリア……」と呟いた。





 そこはまるで生活感の無い、モデルルームのような部屋だった。
 使われた形跡があまり見られない家具たち。水あかが見当たらない、アイランドキッチンのシンク。すかすかの食器棚に、ほんの少しだけ収納された皿。劣化の見られない、ヴェルヴェットの赤いカーテン。傷が付いていないフローリングの床。服が少ないクローゼット。普段ここで彼女――もしくは、彼――が生活をしていないことは、すぐに分かった。
「人類の長い歴史の中でも、西暦三〇〇〇年代は黄金時代と呼ばれた。水瓶座が人々の心を支配する、情報飛び交う風の時代。科学は随分と進歩を遂げ、文明はそれ以上の無い最高点に到達したと言われてるわ。人々には豊かで寛容な心を、機械には独自の知性を、大地には緑を、海には青を。空を行き交う乗り物、高層ビルが立ち並ぶ街、他の惑星に移住した人々、可愛らしい動物たち。西暦四一六二年に起きた世界大戦により終わりを告げた、旧世界の美しい姿……」
「……」
「そして今の私たちの生活は、黄金時代のそれとはかけ離れている。大戦の戦火を逃れたライフラインで、辛うじて命を繋いでいる。生活水準は、二十一世紀の初頭レベルよ。科学のレベルもそれくらいに落ちた。悲しいものね」
「んー。世界史の授業ですか?」
「いいえ、そんな難しい話じゃないわ」
 ベッドの上に仰向けで寝転ぶラーナーに、覆い被さっているレヴィンは、そう言うと妖艶に微笑む。外性器が付いているとは思えない、色っぽさだ。
 そして酒豪が揃う五人兄弟の中でも、桁違いにアルコール耐性のないラーナーは今、自制心と思考力を大きく欠いていた。牛乳多めで度数の低いカルーア・ミルクを少し舐めただけで、この有様だ。
 ちょっとのお酒で気持ち良くなって、なんとなくニコニコ笑っていたら、彼女――つまりレヴィン――が話しかけて来て、よく分からないけど意気投合して、それで今、こうなってる。ラーナーは自分がいま置かれている状況を、冷静に把握できていなかった。
 けれども、なんとなく分かっていた。今の自分は、いろんな意味でヤバイ状況にあると。先ほどはその場のノリに任せて、ノエミからの電話に適当な返しをしてしまった。そして電話越しにノエミが、引いているのも分かった。
 ラーナーは思う。もう何もかもが、どうでも良い。どうにでもなれ、と。そんなラーナーは上機嫌そうにニコニコ笑いながら、ブロンドの長い髪を乱れさせたレヴィンを見つめていた。するとレヴィンは、持論を展開し始める。
「私はね、思うのよ。黄金時代はたしかに素晴らしかったんだろう、って。それまでは宗教的な理由でタブーみたいに扱われてた性事情が、黄金時代でぱあーっと解禁されたんですもの。男には女性型のセックスロボが作られて、女には男性型が作られた。けどね……」
「……?」
「男好きの男のためのものはないし、女好きの女のためのものも存在しないの。黄金時代にも、存在しなかった。性的少数者は、いつでも無視される。そして白い目で見られるの。同性を抱くなんて理解出来ない、って。私からすれば、冷たい機械で満足してる人種のほうがよっぽど、異常だと思うのよ。理解に苦しむわ」
「僕も、そう思います。理解出来ませんよ」
 ああ、また空気に同調してるだけの言葉が出てしまった。その言葉は、自分の意思じゃないのに。
「はぁ~んっ! パトリック、あなた本当に最高よ。超可愛い。今まで出会ってきた男の中で一番だわ! 可愛らしい、私の小さな王子様!」
 機嫌を良くしたレヴィンが、ラーナーの小さな体にむぎゅっと抱きついてくる。それと同時に太いものが、細身な彼の奥に突き刺さってきた。
「私、あなたみたいな人が本当に好きなの。小柄でしゅっと細くて、肌が雪のように白くて、黒髪で、あどけなさが残っていて、ちょっと虐めたくなる感じの男の子。あなたはどこまでも、私の理想通り。運命のような出会いだわ。神様も時には、ご褒美をくれるものなのね!」
「……ご褒美って、なんのことで……うっ……ぐっ……」
 痛い。お尻が、内臓が、張り裂けるように、痛い。もう何がどうなってやがるんだ、ちくしょう。シーツを握り、歯を食いしばり、ラーナー激痛に耐える。そんな彼は薄らと涙が浮かんだ目で、レヴィンに剥がされた自分の衣服を見た。
「あなたを見てると、独占欲が駆り立てられるっていうか。この脚がない感じに、私だけのものにしたいって思わされちゃう。サディスティックな心を、ついつい刺激されちゃうの」
 下着、シャツ、ショートパンツ。床に投げ捨てられている。車椅子。手の届かない、遠い場所にある。ジャケット。車椅子の背に掛けられている。
「……あ、あぁ……」
 その全部が、遠い場所にあるように思えた。何だかよく分からないが、とにかく何かが手遅れになったような気がする。予定はないはずだが、今すぐ戻らなければいけない場所があるような気がする。家に帰って、一人ベッドで寝たい気がする。
 ここを出て、帰りたい。そんな気持ちが、心の片隅にある。しかし行動に移そうとする気力は、どこからも湧いてこなかった。不思議なことに、ここから離れたくないと思っている自分も居るのだ。
「……パトリック。もしかして、痛かった?」
 目を潤ませたラーナーを見ると、レヴィンは動きを止める。それからレヴィンはゆっくりとした動きで、痛みを与えないように優しく、挿していたものを抜いた。
「ごめんなさい。ちょっと調子にのっちゃったみたい。あなた、こっちのプレイは初めてだって、さっき言ってたものね。本当に、ごめんなさい……」
 どうにもラーナーは、レヴィンのことを憎めなかったのだ。憎むには、彼女はあまりにも優しすぎる。やや強引で調子に乗りやすいところがあるが、それが可愛らしくて。彼女のことを、嫌いにはなれなかったのだ。
 それに実際のところ……――満更でもなかった。
「やめてくださいよ、レヴィン。僕は全然、大丈夫ですからー。それに痛いのは、嫌いじゃないですし。それに大好き」
 そりゃ初めは、困惑した。レヴィンが男だということを承知の上で付いて来たが、シャツのボタンに手を掛けられた時は、やっぱりソッチ目当てだったのかーと軽いパニック状態に陥った。しかしいざ行為に及んでみれば……もしかしたらこっちのほうが、自分に合ってるんじゃないのかと、少し思えてきたのだ。
 女性相手のノーマルなものより、滅茶苦茶に壊されるほうが好きみたいだ。
「精神科医の友人のよると僕は、ドマゾ野郎なんですって。……どうです、試してみませんか?」
 ラーナーはにひひと笑い、挑発するような視線をレヴィンに送りつける。するとしょげていたレヴィンの目がパァッと輝き、光を取り戻した。
「やっぱりパトリック、あなたは最高の相手だわ!」
 その傍ら、ラーナーの頭の中にはある男の顔が思い浮かんでいた。
 男はサッカーの審判に似た服を着ていて、口にホイッスルを咥えている。彼はホイッスルをピーッ!と吹き鳴らすと、レッドカードを掲げていた。そのレッドカードには、白字で単語が書かれている。『Paraphilia性倒錯』。
「……カルロに怒られちゃうけど、まあいっかな……」
 レッドカードを掲げているのは、カルロ・サントス。ラーナーの頭の中で彼はずっと、口に咥えたホイッスルをピーピー鳴らしている。そして彼は言うのだ。
 ラーナー、目を覚ませ! 虚構の世界から、現実に戻ってこい!!
 しかし……何が虚構で、何が現実なのか。こんがらがったラーナーには、その区別が付けられなかった。虚構も現実も、どっちも同じ。クソなのには変わりない。
 だったら、楽しいほうが良いに決まってるじゃないか。
「レヴィン。あなたこそ、最高の人ですよ。そりゃあ、もう、すごく……」
 正常に働かないダメな脳をどうにか動かし、上手く回らないもつれた舌で、ラーナーは適当な言葉を紡ぐ。
「……すごく、その、すごく……」
 どうしよう、続きの言葉が思いつかない。そう思った刹那、ぶつっと意識が途切れる。そこから先は、闇の中に消えた。




 そして、翌朝。
「前からよく分からないトコがあるとは思ってたけど、今度の一件でリッキーのことがもっと分からなくなったわ。私は、彼をどういう目で見ればいいの? 彼は、ノンケじゃなかったの? だって、ガールフレンドが過去に居たわけだし……」
 ノエミの声が、聞こえる。
「なんで、それを俺に訊く? 俺はあいつの下半身の事情まで把握してないぞ。それに、ラーナーをどういう目で見ればいいのかってことに関しちゃ、俺が一番戸惑ってるんだが?」
 カルロの声も、聞こえる?
「まぁまぁ、お二人さん。パトリックのことは、そこらへんで終わりにしといてさ」
 アイリーンの声も、聞こえた。彼女は続けて、こう言う。
「とりあえずレヴィンが悪い人じゃないってことが分かって、良かったじゃん。わざわざ酔っ払って撃沈したパトリックを、ここまで運んできてくれたわけだし」
「それにファッションセンスもギャグのセンスも最高よね、彼女。リッキーが本当に、可愛く見える。これじゃまるで、女の子よ……」
 そう言ったノエミの声には、どこか怒りが満ちていた。
 うっすらと意識を取り戻したラーナーは重たい瞼を閉じたまま、呼吸を浅くし、彼らの会話を盗み聞く。なんとなく、今このタイミングで起きてはいけないような気がしたのだ。
 そしてノエミが言った。
「ふりふりな、水色のロリータドレス。黒髪ロングツインテールに、ぱっつん前髪のウィッグ。お顔にはバッチリとメイクが施されちゃって……。これ全部、レヴィンがやったんでしょ?」
「って、彼女は言ってたね。その間パトリックはずっと寝てたとも、言ってた。声を掛けても揺すっても目が覚めなかったから、仕方無くシャワーを浴びせてから……――ドレスアップしたって」
「この女装は、少なくともリッキーの意思じゃない、ってこと……よね?」
「そう思いたいね。うん」
 ノエミとアイリーンの間で交わされる穏やかじゃない会話に、狸寝入りを決め込みつつ耳を欹(そばだ)てるラーナーは、嫌な汗が全身の毛孔から噴き出るのを感じていた。
 女装。ロリータドレス。どれもラーナーからすれば「なんのこっちゃ」という話だ。しかし、その会話が嘘だとは思えなかった。何故ならラーナーの股下が今、やけに寒いのだ。これはズボンを身に着けているような感覚ではない。そして、ラーナーはその感覚に心当たりがあった。
 あれは、イーライ・グリッサムの事件のとき。ラーナーは“パトリシア・ヴェラスケス”という名の、架空の少女に扮した。そのときに穿かされた、ミニスカート。あれと似たような気持ち悪さを今、体感している。間違いなく今、スカートを穿いていた。
 これは、とても、恥ずかしいぞ。
「……で、カール。男性としては、リッキーのことをどう思う?」
 ノエミのデリカシーのない問いが、カルロ・サントス医師を責める。するとカルロ・サントス医師は、オブラートに包むことなく正直に、ストレートに答えた。
「ああ、そうだな。一〇〇点満点、というか一二〇点だ。しかしそれも、女であればの話だよ。……やっぱり、男は駄目だろ。男が、ここに居る女どもより可愛いなんて、そんなのはあんまりだ。理不尽すぎるぜ……」
「あ?」
 ノエミが怒った。
「……ドクター・サントス?」
 アイリーンも、ややキレている。
 しかしカルロ・サントス医師は女性陣に臆することなく、女性二人に対しても、そしてラーナーに対しても失礼な話を続けた。
「お前らもよく見てみろよ。今のパトリック・ラーナー、めっちゃ可愛いぞ」
「そうね。可愛いわ。子供っぽくて」
「うん、可愛い。まるで一〇歳の美少女。ウィッグの前髪で隠れてる、あのゲジ眉が無ければ」
「だろ? これで二十五歳だって言われりゃ、男は誰でも喰いつく。そして二十五歳男性と言われて、一気に幻滅する。騙された気分になる」
「でしょうね。私だってゾッとするわ」
「うん。それはそれで面白いかもしれないと、アタシは少し思うけど。でもパトリックは、ないかな。だってそういうキャラじゃない」
「しかし。そのパトリック・ラーナーが今、めっちゃ可愛いんだ。それにノエミがさっき聞かせてきた電話の音声も、最高だったじゃないか!」
 何か気持ち悪いぞ、この精神科医。
「どこがいいのよ、気色悪い。あんなリッキー、絶対に私はムリよ。無理」
「アタシも、あれが女の子だったら可愛いって思うけど。パトリックだって思って聞くと、すごく気持ち悪いと思う」
 ……それはそれで、傷付くな……。
「俺も人並みには、女性経験がある。しかし女性の喘ぎ声には幻滅してばかりだった。ヨーロッパ、特に北欧の女性は酷いのなんの。彼女たちは、獣のように吠える。色っぽさゼロだ」
 何の話をしてるんだ、カルロは。
「……それって女性の前で話すことかしら、カール」
「先に言っておこう、ノエミ。俺はお前のことを、一度たりとも女性だと思ったことはない。ノエミは、ノエミだ。女でもなく、男でもなく、ノエミだ」
「何よそれ、酷くない!? 失礼にもほどがあるでしょ?!」
 カルロ・サントス。お前は本当に、何を言ってるんだ。
「ならノエミ、お前はラーナーのこの可愛さを越えられるのか? 俺には分かる、お前には無理だ。何故ならお前は、男であるラーナーよりも色気がない」
「百歩譲って、色気がないことは認めるわよ。ボーイフレンドなんか、居たためしがないし。けどね、リッキーと比較されるなんて、あんまりだわ!」
 ノエミは憤慨する。もっともな怒りだと、ラーナーは思った。
 すると誰かが、誰かから何かを奪い取ったような物音が聞こえてくる。たぶんノエミからカルロ・サントス医師が、何かを取ったのだ。
 ちょっと何するのよ、カール! ノエミの声が聞こえてくる。次に聞こえてきたのはカルロ・サントス医師の声ではなく、大音量で再生されたラーナーとノエミの通話内容だった。
『どうしましたぁ、ノエミ』
『リッキー、あんた今どこにいるの?』
『急用じゃないならぁー、切りますよぉ~?』
『ね、ねぇ、リッキー。あんたが美人にお持ち帰りされたって、バーテンダーから聞いたんだけど』
『ふふっ。まあ、そんなとこですかね~?』
『レヴィンって名前の人でしょ?』
『そうですー、レヴィン』
『……あ、あのね、リッキー。その人、男よ。ちゃんと、理解してる?』
『知ってまぁーす、大丈夫で~す』
『…………』
『それじゃぁ、ノエミ。切りまぁ……――っ!』
『……リッキー? リッキー!?』
 おいおい、ちょっと待って、どうしてその音声が……。ラーナーは愕然とする。うぇっ、気持ち悪っ。ノエミが言う。あんれまぁ……。アイリーンが呟いた。そしてカルロ・サントス医師が、力説をし始める。
「分かるか。最後の、空気が抜けて 掠かすれた感じ」
「分からない。分かりたくないわ」
 ノエミはヒステリックに、カルロ・サントス医師の言葉をぶった斬る。しかし変態男は、口を閉じない。
「携帯が床に落ちた音のあとも、後ろで小さく聞こえるだろ。ラーナーの声が」
「知らん」
「この絞り出すような声が、堪らないんだろ。それにこのラーナーの声は、女性よりも高い。というよりも、普通に女声だ。音声だけなら男を騙せる」
「気持ち悪いわ。リッキーも、あなたも」
「よがりながらも、恥じらいに満ちている声だよ! 最高じゃないか!」
「……ちょっと待って、カール。私、あなたのこともどういう目で見ればいいの……?」
「ところがどっこい、その理想を叶えてくれる存在が、まさかのパトリック・ラーナーだ! こんなの、あんまりだ! 俺は男に、それを求めてない! その声で啼いて喘いでほしいのは、女性なんだ! 畜生ッ、こんなことがあって堪るか!」
「……ねぇー、ドクター・サントス。その話はそろそろ、やめた方がいいんじゃなくて?」
 アイリーンが冷たいツッコミを入れ、カルロ・サントス医師の話を強制終了させる。それからアイリーンは、ソファーの上でがくがくと震えながら、カルロ・サントス医師を睨みつけるラーナーを指差した。
「今の話、パトリックに全部聞かれてるよ」





 私とカルロの二人は、あなたの為に休暇を取ったのよ。イーライ・グリッサムの脱獄騒動からブラッドフォード長官暗殺が立て続けに起こったあとに、あんな事件が起きたんだから、あなたのことが心配になって。精神的にぐらついてて、危ういんじゃないかって。だからあなたの傍に、今日一日は居ようかと思ったんだけど。それに対するあなたの反応が、あれなの?
 ノエミは、そう言った。“あれ”とはつまり、レヴィンのことである。レヴィンを擁護し、彼女は何も悪くないとラーナーが言ってしまったために、ノエミの機嫌を損ねてしまったのだ。
 なら、レヴィンを悪者にすれば良かったのか? ……いや、それは違う。だって彼女に付いて行ったのは、ラーナー自身の意思だ。
「……」
 精神的にぐらついてて、危うい。そんなノエミの憂慮は、見事に当てはまっている。今のラーナーは、万全といえる状態じゃなかった。
 だからコロっと、優しいレヴィンに落とされてしまった。けれどもレヴィンが、ラーナーの心の弱いところにつけ込んできたわけじゃない。ラーナーのほうが、付け入る隙を与えたのだ。
「……はぁーっ、さっぱりだ。理解出来ない単語ばかりが並んでる……」
 そんなレヴィンに謝罪のメールを送ったラーナーは今、自分のものではない手帳を読みこんでいた。
 聞き慣れているが、意味は理解していない精神医学の専門用語がずらりと並ぶ手帳の表紙には、「ブリジット・エローラ」という女性の名前が書かれている。その手帳は以前、バーソロミュー・ブラッドフォード長官から渡されたものだった。
 ブラッドフォード長官は言っていた。これから先、この手帳がきっと役に立つ、と。しかし長官は、いつ、何に役に立つのかまでは教えてくれなかった。
「……解離、解離、解離。解離の文字ばっかりじゃないか。彼も、解離性障害を患っていたのか……? いや、でもここには“解離性同一性障害”って書かれてる。なんだ、この違いは」
 ラーナーは手帳と一緒に渡された、リチャード・エローラ医師の手記は既に読み終えていた。アイリーンに急かされたが為に、読んだのだ。だが、せいぜい分かったことと言えば「リチャード・エローラ医師は、ペルモンド・バルロッツィという大天才にひどく執心していた」ということと、「ペルモンド・バルロッツィという人物が、いかに奇人で偏屈であるか」ということくらい。手記からの収獲は、あまりなかった。
 というわけで、手を伸ばしてみたのがこの手帳。五冊あるうちの、一冊目だ。
「……分からない……」
 だが手帳に書かれている内容が、ラーナーにはさっぱり理解出来なかった。先ほども言ったように、手帳に並んでいるのは手帳の主と同じ精神科医だけが分かる専門用語ばかり。それと分析家が好んで使いそうな、遠回しな言葉がこれでもかと綴られている。
 これじゃまるで……純文学よりも、よっぽど難解でくどい読み物を読んでいる気分だ。
「おい、ラーナー。さっきから解離がどうのとか言ってるが、なぜ俺に訊かない。ここに専門家が居るってのに」
 意味の分からない文章を前に、険しい表情をしてみせるラーナーに、カルロ・サントス医師は声を掛ける。
「それにな、ラーナー。俺の家に押し掛けて来ておいて、俺と一言も口を利かないってのはどうなんだ」
 ブリーフ姿ではなく、ちゃんと上下に服を着ているカルロ・サントス医師は、車椅子に座るラーナーの横に椅子を置き、そこに座った。
 ラーナーは手帳を膝の上に置く。そして頭を抱え、悲鳴にも似た声で叫んだ。
「だって、自宅にはノエミとアイリーンが居るんですよ?! 二人で酒盛りして、昨晩のことで私を責めてなじるんです! それにカルロ、あなたは!」
「ああ、そのだな。あれは本当に、すまなかったと思ってる。……お前が起きていて、話を聞いてると思わなかったんだよ」
 ラーナーから目を逸らすカルロ・サントス医師は、米神をぽりぽりと掻く。
 正直のところ、彼はラーナーの顔を見ていられなかった。
「俺が悪かった。だから、頼む。俺の前で涙目になるな」
「……涙目になんか、なってません」
「なってる」
「なってない」
「あーぁ。ったく、お前は……。変な気が起こるだろ。そういうのはやめてくれ、マジで」
 拗ねた子供のように唇を尖らせるラーナーは、何か物言いたげな顔をしている。けれどもカルロ・サントス医師は、何も聞かない。今ここで自分が何かを言えば、ラーナーは退行を起こし、感情をむき出しにしてくることが予測できていたからだ。
 ……というか、既に退行を起こしている。レヴィンという人物にほいほい付いて行ったことが、その証明。こうして文句を言いながらも、自分の許にラーナーが来たことも、彼が退行を起こしていることを証明している。
 ラーナーの心は、限界の寸前に迫っているのだ。過度なストレスに晒されたことにより、感情のコントロールが利かなくなり、見ての通り自暴自棄になり、暴走している。そして安心できる居場所を求めるばかりに、言動が子供っぽくなっているのだ。
 そういうわけで、自宅に居られなくなったラーナーは、“理解者”であるカルロ・サントス医師の家に転がり込んできたのだ。
 時刻は夕方の六時。こんな時間帯からノエミたちは酒盛りをしているのかと、カルロ・サントス医師は呆れる。そして彼はノエミのことで、溜息を吐いた。

 ノエミ。俺は、言ったよな。
 何があってもラーナーを責めるな、と。
 お前が思っている以上に、ラーナーは弱い。
 それに、諸々の事情で苦しんでるんだよ。
 そしてコイツが暴走したとき、その対応に追われるのは俺だ。
 今朝、あんなことがあったばっかりだってのに。
 俺の気持ちを、ラーナーの心情を、少しは考えてくれ!

「それでだ、ラーナー。その手帳、俺にも見せてくれ」
 見せてくれ、と言いながらも、カルロ・サントス医師は手帳をラーナーからふんだくった。あっ、とラーナーは声を洩らす。そして彼から、ラーナーは手帳を取り戻そうとした。
 しかし時すでに遅し。カルロ・サントス医師は手帳の表紙をまじまじと見つめる。それからカルロ・サントス医師は、ラーナーを疑うような目で見た。
「……ラーナー。この手帳、もしやペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の、死んだ奥さんのものじゃないのか?」
「なっ、なんで、それを……?!」
「ブリジット・エローラ。彼女の名前を知らない精神科医が居るものか。……どこでこれを手に入れたのかは、敢えて聞かないでおくがー……」
 そしてカルロ・サントス医師は、忌むような目で手帳を見つめる。が、彼の手は手帳を手放すどころか、ページを捲っていった。
「あっ、カルロ!」
「ふーむ、冒頭は彼女の愚痴か。ペルモンドに『一方的に付き纏ってくるストーカー女』呼ばわりされた、か。父娘揃って、ここの家はペルモンド・バルロッツィという男に執着していたのかー、へぇー……」
 カルロ・サントス医師は、黙々と手帳を読み進めていく。その速度は速いもので、ラーナーの倍以上はあった。てのひらサイズの手帳の見開きページを、二分弱で読み終えていく。
 脳が正常に働かず、何も出来ないラーナーは、カルロ・サントス医師の顔だけをじっと見ていた。困惑したような顔に、目には涙を浮かべて。
 それから十五分が経過した頃、カルロ・サントス医師が口を開く。そして彼は言った。
「差し支えなければ、この手帳を暫く借りていいか。……実に興味深い症例が、事細かに書かれている貴重な資料だ。じっくりと読ませてもらいたい」
 カルロ、彼は何を言っているのだろう。ラーナーは首を傾げ、きょとんとする。するとカルロ・サントス医師はニカッと白い歯を見せて笑い、ラーナーの頭をわしわしと掴み、撫でた。
「決まりだな。読み終わったら、所見を出そう。そんでお前にもこの手帳の中身が分かるように、説明してやるよ」
 そのままカルロ・サントス医師は、ラーナーから手帳を取り上げてしまう。ラーナーはおどおどと狼狽え、手帳を返してくれとせがむが、カルロ・サントス医師は返さない。
 彼の好奇心が、返却することを許さない。それも、一理ある。しかし返さないということには、彼なりの考えがあった。
「それで、ラーナー。明日は仕事に出るのか?」
「……ええ、まあ。これ以上、特例の休暇をもらうわけにはいきませんし。部長に迷惑がかかるし、それに同僚にも……」
「そうか。なら、今晩はゆっくり休め」
「……でも自宅には、ノエミが」
「ここに泊まっていけばいいだろ」
 ラーナーは途端に、嫌そうな顔した。
「……なんか、それは怖いです」
「あー、分かった。分かったよ。誓って言う、男に興味は無い。俺の好みはシングルマザーだ。子供も可愛がれるし、一石二鳥だ」
「どんな性癖だよ」
「というわけだ。俺は今晩、リビングのソファーで寝る。そんでお前は、俺のベッドで寝ればいい。これでいいな?」
「ですけど」
「俺の言うことを、聞いてくれ。頼むから、な?」
 するとラーナーは渋々、頷いた。よし、それでいい。カルロ・サントス医師はそう言うと、ラーナーの頭をぽんぽんと撫でる。子供にするような手つきだった。しかしラーナーはこれといって不快感を示さない。
「良い子だ、パトリック」
 本音を言えばカルロ・サントス医師は、ラーナーに今の仕事を辞めてもらいたかった。それはASIじゃない。ラーナーが今、任されている仕事についてだ。
 カルロ・サントス医師は、気付いていた。ラーナーが自ら精神科を訪ねてきたときから、何かが狂い始めたと。そのときのラーナーはあやふやな記憶から、“ワイズ・イーグル”バーソロミュー・ブラッドフォード長官の名前を出した。そしてワイズ・イーグルは間もなく、暗殺された。
 それにラーナーの過去に纏わる因縁も、再浮上しはじめた。イーライ・グリッサムは獄中から解き放たれ、ラーナーを襲おうとした。寸でのところで“神風が吹き”、ラーナーの体は無傷で済んだが、目には見えない精神的なダメージは計り知れない。
 それに最近、またラーナーは誘拐されたという。それもどういうわけか、ワイズ・イーグルの暗殺犯である男、エズラ・ホフマンに。あとノエミの話によれば、当初ワイズ・イーグル暗殺の容疑を掛けられていたのは、ラーナーであるという。
「……なあ、パトリック」
 パトリック・ラーナー。彼が何か大きなものに巻き込まれていることは、分かっていた。そしてアイリーンという女が登場してから、ラーナーはおかしくなりはじめたことも、分かっていた。
 ならラーナーから、アイリーンという女を引き剥がせば問題は解決するのだろうか? カルロ・サントス医師には、そうは思えなかった。それにアイリーンはアイリーンで、ラーナーのことを気遣っているようだし。一方的に彼女がラーナーを利用している、というわけではなさそうだし。それに彼女自身、大きなものに巻き込まれている者のようにも見えていた。
 ……どちらにせよ、ラーナーは何か大きなものに巻き込まれている。巻き込まれてしまったが為に、潰されようとしている。あの手この手を、相手は尽くしている。そして相手は気付いているようだ。ラーナーの弱点について。
 だから相手はラーナーを、命を奪うことにより潰そうとしていないようだ。心を壊して、潰そうとしている。
「お前が今、何をやっているのかは訊かないさ。ただ、その仕事から手を引くことは、出来ないのか?」
 ラーナーはカルロ・サントス医師から目を逸らし、顔を俯かせる。そんな彼の膝の上に掛けられたブランケットに、一滴の涙が落ちた。
 そしてラーナーは、震える声で本音を漏らす。
「……分かんないんです、全部」
「……」
「気が付いたら、よく分からないことに巻き込まれて。抜け出せなくなったんです。先方は私の能力が必要だって言うけど、私が居なくたって彼らは仕事をこなしてる。それに今、ASIがその仕事を引き継いで、やってるんです。私は、何もしてない。何も役に立つようなことはしてないのに、なのに、こんな……!」
 下唇を噛みしめるラーナーは、声を押し殺して泣いた。
「……悪いことを聞いたな。すまない」
 カルロ・サントス医師も分かっていた。抜けたくても抜けられない状況に、ラーナーは追い込まれているのだと。そして彼は、望んで大きなものに巻き込まれたわけじゃない。悪い癖が発動し、成行きに身を任せてゆらゆらと揺れているうちに、取り返しのつかない事態になってしまったのだ。
 こうなってしまったら彼に、残された道はひとつしかない。
「パトリック。今日は、もう寝ろ。お前は疲れている。休息が必要だ」
 目に見えた、最悪の結末。カルロ・サントス医師は結末から目を逸らし、ラーナーの頭を撫でる。今の彼に出来ることは、これくらいしかなかった。
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