ヒューマンエラー

Avoid Duplicity in speech. ― 「二枚舌の魔術師」

  アバロセレンとは一体、何なのか。
  君たちは少しでも、そのことを考えたことがある?


 それはアイリーンがASIの局員たちに、真っ先に投げ掛けた言葉だ。すると誰かが答えた。大きなエネルギーを生み出す新種の物質ですよね、と。しかしその答えを、アイリーンは首を横に振って否定する。そして彼女は言った。

  あれは質量を持つけど、物質なんかじゃないの。
  その証拠に、物質に必ずあるはずの原子核をもっていないから。
  あれはエネルギーそのもの。
  それも凄くタチが悪いエネルギー。


「……アバロセレンは物質じゃない。なら、なぜ質量を持っているんだ……?」

  アバロセレンは、何もかもを歪めてしまうの。
  あらゆる法則を凌駕し、世界の理をブチ壊してしまう。
  綺麗な言葉を使うなら、無限に広がる可能性そのものって感じ。
  不可能を可能に変える力、ってとこかな。
  でも実際は、そんなにいいもんじゃないわ。


「……なんて、アバロセレン技士でもない人間が、考えても分かるわけないか。はぁーっ。本当に、何が何だか、どうなってるんだか……」

  あれは人が想像できる限りのこと全てを、実現できる。
  勿論、その力は素晴らしいことにも使えるよ。
  その証拠に、この空中要塞アルストグランがある。
  空中要塞アルストグランは、アバロセレンありきのものだもの。
  でもね。力は所詮、力でしかない。
  力は、つまり道具。要するに意思を持たないもの。
  だから力がどう転ぶかは、使う人次第なの。
  つまり善にもなるし、悪にも転ぶってわけ。
  そして今、とんでもない悪事が冒されようとしてる。
  今この瞬間にも、おぞましい計画が絶賛進行中ってわけ。


「……今の仕事を辞めたい。いや、いっそのこと死んじまいたい。このまま屋上に向かって、そこから身でも投げりゃ、一発でころっと……」
 そう言ったアイリーンは局員たちの前で大荷物を漁り、透明な水槽を引っ張り出した。それから彼女はまた荷物を漁り、今度はアバロセレンの結晶だというものを取り出す。興味心身に結晶を見つめる局員たちに、アイリーンは黒く光る妖しい結晶を見せつけると、それを空っぽの水槽の中に入れた。
 アバロセレンの結晶の大きさは、子供の拳と同じくらいだった。パッと見は、黒水晶にも似ていた。だがアバロセレンの結晶は、その中に光を湛えていた。といっても、屈折による反射光ではない。結晶の中には、恒星のように自ら光り輝くものが封じられていたのだ。そしてアイリーンは言った。この光こそが、アバロセレン。周りを覆う結晶は見掛け倒しのハリボテに過ぎない、と。
 結晶の中の光は、蒼白かった。まるで夜空に光輝く星。たとえて言うならその光は、おおいぬ座のシリウスにそっくりだった。
 黒い闇に覆われている世界の中に、気高く輝く蒼白い光。その輝きは、美しいという言葉だけでは言い表せないものだった。
 誰もが、その光に見惚れた。誰もが、綺麗だと感じていた。しかしラーナーはその光に、寒気を覚えていた。アバロセレンの光はたしかに美しかったが、同時にとても冷たい光であるように思えたのだ。それはショーケースの中、分厚い防弾ガラスの向こう側に保管された大粒のダイヤモンドのような……――相応しい者以外、触れてはいけないという高貴さ。だからラーナーは、直感で嫌だと感じた。
 何故ならその高貴さは、ラーナーが最も嫌うものだったからだ。次第にアバロセレンの光芒が、ラーナーの目にはお金の単位に見え始めた。そしてラーナーは理解する。アバロセレン犯罪対策部なんていうものが出来てしまった理由を。人が、未解明な部分も多く危険も多いアバロセレンというエネルギーに、ついつい手を出してしまいたくなるワケも。
 こんな綺麗なものを、欲深な者たちが放っておくわけがない。つまりは、そういうことだ。
「……でも車椅子だし、この身長だ。身投げ以前に、柵を越えられないか……」
 ASI局員たちが呑気にアバロセレン光に見惚れていると、見かねたアイリーンが舌打ちをする。それから彼女は「これから起こる現象を、よく見ていてね」と言った。局員たちは皆一様に首を傾げる。そしてアイリーンは、水槽の中にぽつんと置かれた黒い結晶に向かって、こんなことを言ったのだ。
『アバロセレンよ、液体になりなさい!』
 すると黒い結晶は一瞬にして、その形を崩した。氷が融けていくさまを早回しにしたかのように、結晶はどろんと溶け、蒼白い光を放つ液体と化したのだ。
 誰もが呆気にとられた。なぜか、拍手が起きた。アイリーンは眉間に皺を寄せる。そして彼女は言った。
『これは手品じゃない。タネも仕掛けもないの。これが、アバロセレンっていうものなの。だから、よく見てて』
 次にアイリーンは言った。カチカチに冷え固まった氷になれ、と。するとアバロセレンは一瞬にして、中に蒼白い光を湛えた真黒な氷へと変貌した。冷気さえ、氷からは立ち上っていた。
 そして次にアイリーンは言う。ジェル状になれ、と。氷になっていたアバロセレンはすぐに融け、今度はプルプルと揺れる真黒なスライムに変化する。さらに続けて、アイリーンは言った。
『いちど飛び跳ねてから結晶化し、それから気化して液体になり、最後に赤いリボンを首に巻いた、黄色い目の、メスの白猫の姿になりなさい』
 アバロセレンは、アイリーンの言葉通りに動いた。スライムは水槽の中で一度飛び跳ねると、すぐに黒い結晶になった。そして結晶になったと思った瞬間に、弾けるように消えた。つまり気化したのだ。
 消えちゃったじゃないか。ASI局員たちはざわめく。と、そのときだった。水槽が蒼白く光り輝いたと思った瞬間、水槽のガラスが割れ、あたりに弾けて飛び散る。皆が、水槽のあった場所を見た。そして驚く。そこにはすまし顔でお座りをした、猫が居たのだ。
 猫は真っ白な毛並みをしていた。目は黄色で、首には真っ赤なリボンを巻いていた。アイリーンの言葉通りだった。けれども猫は、ぴくりとも動かなかった。瞬きをしなかった。息をしていなかった。まるで剥製であるかのように、動かなかった。けれども猫は、生きているかのような姿をしていた。作り物めいてはいなかったのだ。
 アイリーンは猫の背中に手を置くと、局員たちをじっと見る。そして彼女は言った。
『これで、少しは分かったかな。アバロセレンがどんなものかって』
 彼女によるとアバロセレンというものは、人が頭に思い描くイメージに反応し、イメージ通りの姿になるのだという。液体、個体、気体、プラズマ。その四つの形態は勿論のこと、人が思いつく限りの全てになり変わるのだという。猫も、その例だというらしい。けれども、この情報を知っているのは特務機関WACEと、アバロセレンの発見者である化学者――軍事防衛部門の高位技師官僚、ペルモンド・バルロッツィ氏――のみ。情報は公にはされておらず、他に知る者はこの場にいる局員以外、存在しないはず……――なのだという。
 だが、アイリーンは言った。
『……なんだけど、どうやら情報を掴んじゃったヤツらが居るみたいでね。それが、元老院と呼ばれている存在。あくまで俗称ね、元老院ってのは。正式な名前は分からないの。まあ要するに、影でアルストグランを、ひいては世界を牛耳ってる、腹黒ーくて欲深ーい奴らって感じ。んでね、よりによってその元老院が、こんなヤバイ情報をつかんじゃったってわけ。どういうルートで知ったのかは、まだ分かってないけど。とにかくそれが原因で、今、大問題が裏で起こってる』
 そう言いながらアイリーンは、猫の背を撫でる。彼女は言葉を続けた。
『アバロセレンには、欠点がある。アバロセレンはあくまで姿を模倣するだけ。機械に内蔵された細々とした部品や、生物の臓器までは再現できない。つまり、自力で動く生物にはなれないの。だから、この猫ちゃんをよく見て。今にも動きだしそうなくらいリアルなのに、さっきからぴくりとも動かないでしょ。……今のところは、ね』
 アイリーンは猫の頭を、人差し指でぽんっと叩く。すると猫の形は崩れ、始めの黒い結晶の姿に戻った。そしてアイリーンは言った。
『だから元老院は、アバロセレンの欠点を克服しようとしてる。アバロセレンから生物を造り出そうとしてるの。それが問題の、オウェイン実験ってわけ。あまり現実的とは言えない研究だけど、騒動の中心にあるのがアバロセレンだもの。まさかっていう展開があっては、困る。だから何が何でも、この研究をブチ壊して種まで潰さなきゃならない。それに、奴らは本気なの。だからペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚なんていう最凶の大天才を、研究主任に起用した。彼の娘を人質に取り、娘の命が惜しければ研究に励めと脅してまでね』
 アイリーンは、結晶となったアバロセレンを大荷物の山の中に戻す。そして咳払いをしてから、言った。

  ASI局員である君たちなら、多分知ってると思う。
  ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。
  彼がどれだけ、クレイジーかを。
  たしかに、彼はイカれてるの。
  部下いびりが酷くて、数十人も辞めてったって話だし。
  地位に見合う品性はないし、言葉遣いや態度も不躾そのもの。
  平気で人を傷つけるし、瀕死にするし。
  相手がシークレットサービスだとしても、ね。
  でも化学者として、技士としての彼は、かなり真面目。
  越えてはいけない一線を死守する、真っ当な人間なのよ。
  要するに彼は、マッドサイエンティストじゃないってわけ。
  生命をアバロセレンから生み出すっていう研究に、
  彼は肯定的でなく、寧ろ否定的だったの。
  研究を一任された彼は、あくまで自分の天秤に従い、
  研究そのものを停滞させ、時間を稼いでいた。
  研究を放棄して別のことをしたり、行方を晦ませたりしてね。
  あの地位にいる彼だけが出来る、暴挙ってやつよ。
  今までどうにか問題が起きずに、持ちこたえていたのは、
  ひとえに彼のおかげってところ。
  でも、そろそろ時間稼ぎもキツくなってきたみたいでね。
  特務機関WACEが、ついに動くことになったの。


「……はぁ、自分でも何言ってんだかよく分からなくなってきた。あー、クソッ。こんな世界、ぶっ飛んじまえ」
 そんなアイリーンの話も、昨日のこと。部長に「行け」と言われたラーナーは、また大学病院に来ていた。
 今回は完全に、仕事だ。高位技師官僚の居るICUに行って、聞けたら彼から話を、無理であれば娘から少しでいいから何かを聞き出せ、と命令されていた。
 ……しかし病院に来たはいいものの、ICUに出向く気が一向に起こらない。とはいえ仕事だ、やらなければいけない。
「……はぁ、マジで何なんだよ。昨日の夜から、FuckとかShitとか、低レベルな言葉しか思いつかない。語彙力なさすぎ。人生終わってんだろ。六歳児以下かよ……」
 車椅子の体なせいで階段を使えないため、乗りこんだエレベーターの中。たった一人だけの密室空間に、ラーナーの緊張は緩む。独り言となり、口から本音がだだ漏れになっていた。
 あー、クソッ。なんなんだよ、もう。はぁ、あーっ、どうなってんだ。
 溜息が、零れる。愚痴が、零れる。溜まっていたものが、どばどばと放出される。ダムの放流のように、溢れて止まらない。
「……くそったれ。もう任務も仕事も放棄して、樹海にでも行こうかな。車椅子を捨ててさ。見動きも取れないまま、熊なり猪なり狼なり、野生動物に襲われて死ぬ。そうだ、それだ。最高じゃないか。ハハハッ……」
 溜息、愚痴、溜息、愚痴……。それを延々と繰り返す。次第に気分がおかしくなり、自分でも変だと思うことを言い始め、不気味な笑みが滲み出た。
 溜息が愚痴を呼んで、愚痴が自殺願望を湧き起こす。けれどもラーナー自身、分かっていた。自殺願望なんかじゃない。ただくそったれな現実から逃げたい、それだけなんだ、と。
 しかし戯言は止まらない。そして終に、エレベーターが止まった。
「よし、この仕事が終わったら森に……――」
「あら、ラーナーさん。森に行かれるんでして?」
 三階に到着しました。そんな機械女声のアナウンスと共に、エレベーターのドアが開く。すると目の前には、ふふふっと笑う赤毛の若い女性――高位技師官僚の一人娘である、エリーヌ嬢――が立っていた。
 やべっ、もしかして前後の独り言も聞かれてたのか!? 目を丸くしたラーナーの思考回路はショートした。頭の中が真っ白になり、顔から表情が消える。けれども一秒後には、ショートした回路も自動回復した。
 ラーナーはすぐさま笑顔を取り繕い、会釈程度に頭を下げる。そして車椅子を動かし、エレベーターから出た。それと同時に、エレベーターのドアが閉まる。エレベーターは、上の階へ移動していった。
「あぁ、エリーヌさん。先日は、どうも」
「こちらこそ、父を助けていただき有難うございました」
「……ん? 私、なにかしましたっけ」
「あの、父が行方不明になった時です。ラーナーさんが発見してくれたから父が助かったと、トーマス・ベネット捜査官が」
「あぁ、あの件ですか! 近頃バタバタと慌ただしかったもんで、記憶があやふやでしてね。そういや、そんなこともありましたねぇ……」
 慣れてきた動きで車椅子を動かすラーナーは、ICUに向かう廊下を行く。するとラーナーの後ろを追いかけて歩くエリーヌが、こんなことを訊いてきた。
「また、父に会いに来たんですか?」
「ええ、そのつもりなんですが。もしや、不都合でも?」
「そうなんですよ。医師が目を離すとすぐに父は、大丈夫だと言って病院から抜け出して、職場に戻ろうとするんです。なので、鎮静剤を投与されてまして」
「それで今は寝ていると。なるほど、そうでしたか」
「すぐに動きまわるから傷も塞がらないし、輸血しても血が足りなくて。体はどう考えてもボロボロなのに、本人は痛みや疲労を感じないから……」
「自分を顧みない、究極の仕事人間ですか。それは困ったお父様ですねぇ」
「そうなんです、本当に……」
 溜息を吐くエリーヌは、肩を落として歩みを止める。ラーナーも車椅子を止めると、くるんとターンし、エリーヌのほうに向きなおった。
「エリーヌさん、どうかされましたか?」
 エリーヌは、呟くように言う。
「そういえば父を撃った犯人は見つからないまま、捜査本部は解体されたんですよね」
 ラーナーは気拙そうに、顔を俯かせた。ラーナーの横に並ぶとエリーヌも、淋しそうな笑みを浮かべて、言う。
「でも、もう良いんです。父が犯人に対して怒ってないので、きっとまた、撃ったのはその人なんだろうなって……」
「その人?」
 彼女の言葉に、どこか引っかかるものを感じたラーナーは顔を上げると、首を傾げる。エリーヌはぎゅっと拳を握りしめ、“その人”について話し始めた。
「私は、名前も顔も知らないんですけどね。父が言うには、唯一の友人だったそうで。その人は考古学の道を志していたそうですが、その人の夢は父が原因で諦めざるを得ない状況になってしまったそうです。だから自分は未だに恨まれていて、あれは受けるべき罰であり痛みだって。四年前に八発も撃たれたとき、父が言ってたんです」
「……そうなんですか。もしかして、そのときの銃弾も」
「九ミリ口径だったと、キャンベラ市警の刑事さんから聞きましたわ。今回と同じ、至近距離から連続で撃たれたと」
 伏せられたエリーヌの目は潤んでいた。何も言うことができないラーナーは、顔を顰めさせるばかり。
 アーサーは以前にも同じようなことを、バルロッツィ高位技師官僚相手にやっていたというのか。もしアーサーが仮に、エリーヌのいうところの“その人”だとしても。あそこまでさせる執着は一体、どこから来ているというのか……。自分にはとても理解することが出来ない、とラーナーは唇を真一文字に結んだ。
 そこでラーナーは、高位技師官僚のある発言を思い出す。そういえば彼はアーサーのことを『考古学博士』と呼んでいたな、と。もしかすると本当にアーサーは、エリーヌの言うところの“その人”であるのかもしれない。
「父にとって銃弾と痛みは、その人とのコミュニケーションの一環なんだそうです。もともと鋭利な言葉で互いを傷付け合った仲だから。鋭利な言葉が実物のナイフに変わり、銃弾に変化しただけだって、今朝も言ってたんです」
「随分とバイオレンスな、コミュニケーション方法ですねぇ……」
「……本当に、そう思いますわ」
「…………」
「父は大丈夫だって言うんですけど、いつか銃弾が心臓に当たって、父は死ぬんじゃないかと思うと、私、怖くて……!」
 ついに崩れたエリーヌは、その場に膝をついて泣き始めた。玉粒のような涙を、彼女は目からぽろぽろと零す。
 廊下を走って行った看護師は、通り過ぎざまにラーナーを蔑むような目で睨んでいった。廊下で待機しているシークレットサービス隊員も、ラーナーに冷めた視線を送り付けている。お前が彼女を泣かせたのか、とでも言いたげな顔をしていた。
 あちゃー、こりゃ完全に誤解されてるわ。ラーナーは心の中でぼそっと悪態を吐くと、涙を流すエリーヌにハンカチを差し出す。低身長なうえに車椅子のラーナーには、それくらいのことしか出来なかった。
 エリーヌはハンカチを受け取り、涙を拭う。赤くなった目でラーナーを見る彼女は、申し訳なさそうな表情を見せた。
「……ごめんなさい、ラーナーさん。私、その……」
「あなたのお父様なら、大丈夫ですよ。今までだって、何度も死の淵から快復してきたんでしょう? なら心配することなんてありません。彼はきっと」
「不死身であるか、もしくは悪運が強いか、でしょう?」
 そう言ってエリーヌは、ふふっと笑う。その笑顔は、あからさまに無理をしているような、やつれきった笑みだった。
「ええ、そうですよね。サイボーグだなんて言われてる人が、そう簡単に死ぬはずがありませんわ……」
 ブラッドフォード長官は言っていた。人間は斬られれば死ぬ、刺されれば死ぬ、撃たれれば死ぬ。あっけなく死ぬ、と。しかしアーサーはその言葉を鼻で笑い、こう言った。あれが人間であればの話でしょうね、と。
『さあ、それはどうでしょう。ですが心臓を撃ち抜かれてもなお、息をしている男が人間であると言えるのでしょうか。私は、そうだと思いませんがね』
 ラーナーの答えも、アーサーと同じだ。心臓を撃ち抜かれてもなお息をしているような男を、人間と言って良いのだろうか? そんなの、人間じゃない。だって人間は簡単に死ぬ。死んでも死なないような者など、まるで……――
「ペルモンド技師官。彼は、機械人間サイボーグなんてもんじゃないでしょ。生ける屍リビングデッドって感じ。もう死んでるから、これ以上死ぬことはない、みたいな?」
 そんな声が、背後から聞こえてきた。ラーナーは首をひねり、顔だけを後ろに向ける。そこに立っていたのは、どこか不自然な笑みを口元だけに浮かべているノエミだった。
 ノエミはラーナーに手を振り、泣き腫らした目のエリーヌを凝視する。エリーヌはその視線を不愉快に感じたのか、やつれた笑みを崩し、表情筋を強張らせた。
 しかしそんなエリーヌにこれといった配慮を見せることなく、ノエミは言う。
「パトリック。取り込み中のとこ悪いんだけど、うちの上司がアンタを呼んでてさ。至急ってことらしいから、一緒に来てくれない?」
「えっ? 私には一切、連絡が来てないんですが……」
 ラーナーはノエミから目を逸らし、後ろに向けていた顔を前に戻す。それから彼は俯き、黒縁の伊達眼鏡――のように見える、ASI特注品の通話デバイス――を装着する。コンタクトを繋いだ先は、アイリーン。すると間もなく耳元から、アイリーンの甲高い声が聞こえてくる。
 パトリック。急に掛けてきて、何の用なの? 今ポンコツの使えないASI局員を相手にしてて、めーっちゃ忙しいんですけどー? ねぇ、ねえー!
 しかしラーナーは、アイリーンの声を無視する。そうして暫くすると、向こう側でアイリーンが呟くように言った。にゃーるほどね、と。そしてアイリーンの声が止み、通話だけが続けられた。
 次にラーナーは携帯電話を取り出し、メール送信画面を開く。宛先の欄にノエミのメールアドレスを打ち込み、件名には短い文章を載せた。それから本文には何も書かず、空のまま『Send送信』という文字を押す。空のまま送信するかどうかを問う警告文が出てきたが、それを無視して送信した。
 そして、祈った。たったこれだけの短い文章だが、きっと本物のノエミ・セディージョなら状況を理解し、何かしてくれるだろう、と。
 信じてるぞ、ノエミ! お前は少し間抜けな節があるが、それ以外は優秀な捜査官だ! なぁ、そうだろ。そうだよなぁ?!
「だってアタシのもとに、パトリックも一緒に連れて来いって連絡が来たんだもの。アンタのとこに連絡がいく筈がないじゃない」
「あはは……。そう、ですよね。ハリー・キャラハン捜査官は、そういう手間を省く人ですもんねぇ……?」
「ええ、そうよ。じゃっ、行きましょ。私が運転するから」
 “ノエミ”は車のキーを見せ、誘うように婀娜っぽく笑う。そしてラーナーは、今の応答で確信した。こいつは絶対にノエミ・セディージョじゃない、と。
 まずノエミは、ラーナーのことを『パトリック』と呼ばない。そもそも彼女は基本的に他人を、名前の短縮系で呼ぶからだ。『カルロ』ならば『カール』。『パトリック』なら『リッキー』だ。しかし目の前に居る“ノエミ”は、ラーナーのことを『パトリック』と呼んだ。どう考えても、変だ。彼女らしくない。
 それにラーナーは上司の名前として化石映画の主人公を、つまり架空の人物の名前を述べた。だが、どうだろう。目の前の“ノエミ”は、架空の人物の名前に首を傾げたりしなかった。
 ハリー・キャラハンなんて人物は、連邦捜査局に居ない。それにノエミの上司はトーマス・ベネット特別捜査官であり、そもそも彼女は『上司』なんて言葉を滅多に使わない。代わりに彼女がよく使う言葉は、ユニットチーフを意味する『チーフ』だ。それにノエミは婀娜っぽく笑ったりしない。大口を開けて、腹を抱えて、バカっぽく笑うんだ! お前は絶対に、ノエミ・セディージョじゃない。見た目はそっくりだ、そこは褒めてやろう。だが詰めが甘いんだよ、バカヤロー!!
「……」
 しかし別人だと分かったところで、ラーナーに残された道は一つだけ。他の選択肢はなかった。
「どうしたの、パトリック」
「あぁ、いえ。その……」
 お前は誰だなんていう不用意な質問をすれば、どうなることだか分かったもんじゃない。横のエリーヌを人質に取られるかもしれないし、逃げられるかもしれないし、それ以上に最悪な結末が待っているかもしれない。
 それにここで揉み合ったところで、体格差で負けるだけだ。あと要らない騒ぎが起こるだけ。そうすれば罪なき人間が、巻き込まれることになる。
 こんなとき、捜査官はどうすべきか。連邦捜査局のアカデミーでは、こう習った。
「本当に、乗せてってくれるんですよね?」
「勿論よ」
 可能な限り足跡を残しつつ、流れに身を任せて犯人の要求に従え。
 誘拐されることが分かっている場合、事前に他の捜査官にそのことを伝えておくと、なお良し。
「そりゃ良かった。それじゃ、行きましょう」
 ラーナーはそう言い、ニコッと笑う。職業柄身に付けた自然な作り笑顔を、“ノエミ”に向けた。すると“ノエミ”は満足そうに頬笑み、ラーナーの車椅子を押す。ラーナーを逃すまいとしているかのようだった。
 エリーヌは何か異変に気付いたようで、むっと眉を顰めさせた。そして彼女はラーナーの傍を離れ、シークレットサービス隊員のもとに駆け寄る。
 そして“ノエミ”はエレベーターのボタンを押しながら、ラーナーに言った。
「……それじゃ、行きましょう」
 それと、ほぼ同時刻。エズラ・ホフマン捜索本部に配属されていた本物のノエミは、ラーナーから送られてきたメールを見るなり、大声で騒ぎたてていた。
「チーフ! 大変です、チーフ!!」
 そんな風に大騒ぎするノエミに対し、トーマス・ベネット特別捜査官は尋ねる。
「どうした、ノエミ。ホフマン副長官が見つかったのか?」
「違います、リッキーです! リッキーから、メールが!!」
「パトリックから、メール? それが、どうかしたのか」
「件名を見て下さいって、ほら!」

  I'm abducted from now. Help me.

「……これから誘拐される。助けて、だと……?!」
 ノエミは携帯を片手に、あんぐりと口を開けたまま、呆然と突っ立っている。トーマス・ベネット特別捜査官も目を限界まで見開き、ぽかんとしていた。
 数秒後、トーマス・ベネット特別捜査官は首を左右にぶるぶると振り、現実に戻ってくる。そして彼は捜索本部に設置されていた固定電話の前に立つと、ASIの番号に掛ける。彼は受話器に向かい、怒号に似た叫び声でこう言った。
「俺だ、連邦捜査局のトーマス・ベネットだ! 至急、トラヴィス・ハイドンに繋いでくれ!! 急げ、早くしろ!」





 ラーナーが乗せられた車は、どことなく見覚えのあるバンだった。アイスクリームのイラストが側面に描かれている、実に可愛らしいバン。だからこそラーナーは、胸糞が悪かった。
 それに車は市街地を抜け、鬱蒼とした山奥に入りつつある。奇しくもラーナーがエレベーターで言っていた森を、車は走っていた。
「それで、あなたは誰なんです。あなたがノエミじゃないことぐらい、こっちは分かってるんですよ」
 後部座席に乗せられた……というより、投げ捨てられたラーナーは、運転席に座る者に対して、苛立ちに満ちた声をぶつける。すると運転席からは、低く渋い男の声が返ってきた。
「分かっていてもなお、我に付いて来たのか。お前も複雑でよく分からん男だな、パトリック・ラーナーよ」
「複雑でよく分からんですって? 私は寧ろ、その逆。超単純ですよ」
 病院から借りた物であるラーナーの車椅子は、病院の駐車場に捨てられてた。そんなわけで今のラーナーには、脚の代わりとなるものが無かった。
 そのうえ、両手首は後ろで縛られている。縄ならまだ活路があったものの、手首にはめられていたのは手錠だった。それに手錠の鍵は、どこにあるのかも分からない。状況は絶望的としか言いようがなかった。
 しかし、そんなラーナーにも、唯一自由に動かすことができるものがあった。口だ。
「見ての通り私は小柄だし、脚がない。反抗したところで勝ち目がないことくらい分かり切ってるんですから、抗わないだけですよ。そうしたほうが、私のような非力な人間は生存率が上がりますからね。ほら、それに今だって車椅子を奪われちゃったもんだから、後部座席のシートに横たわることしかできないんです。手首に手錠をはめられちゃってるし、どうすることもできない。これじゃただの肉塊ですね」
「であるからして、よく回るその舌を、べらべらと動かしていると。そういうわけか」
「そうです。よく分かりましたね。私、こうして延々と喋り続けることがお仕事なんですよ。ぺちゃくちゃと、どうでもいいような与太話をし続けて、相手を苛立たせるんです。どうです、イラッとくるでしょう?」
「ああ、そうだな。それに喋り続けていればお前自身、恐怖も紛れる。そうであろう?」
「ご明察! 私、今めっちゃ怖いんですよ。見覚えのあるバンに、覚えのある山奥。行先は寂びれたガレージですか? そこであなたは私を、椅子に縛り付けちゃったりするんですか? で、今度は私から何を奪います? 大腿、それとも両手? もしくは、両腕を肩から? あっ、または頭を金槌で叩いちゃいます? それで今度こそ、命を奪うとか」
「それがお前の希望か?」
「いいえ、痛いのは嫌いです。子供みたいに泣いちゃいますよ? でも痛みもなく、一発でころっと逝けるなら、それは本望ですね。あっ、そうだ。どうせなら私を」
「我には、死を望む者に慈悲を与える趣味などない」
 そう言うと男は不気味な笑い声と共に、後部座席のほうに振り向いた。
「生かし続け、利用することは……――やるがな」
 小一時間前までは“ノエミ”の姿に見えていたその人物は、今や白髭をたくわえた老人にしか見えなかった。
 上等な背広に、白髪交じりのロマンスグレーな頭。そして男のサンタクロースの如き白髭に、ラーナーは見覚えがあった。
「あらあら、まあまあ。さっきまでノエミに見えてましたけど、まさか正体があなただなんて夢にも思ってませんでしたよ。エズラ・ホフマン副長官?」
 老人はブラッドフォード長官の仇、エズラ・ホフマン副長官だった。
 ちっ、とラーナーは不機嫌そうに舌打ちをする。するとエズラ・ホフマン副長官は、髭の下に隠れている口角を吊り上げた。それから彼は前を向くと、ハンドルを回しながら言った。
「アーサーは、実に厄介だ。手綱を握れない暴れ馬も同然。組織に従順な者を取り込まず、こうも反抗的な者ばかりを……。それもルーカン以上に口が達者で、調子が狂うわ。ディナダンの名に恥じない、見事な道化だ」
「お褒めに預かり光栄です、ホフマン副長官。ところで、あなたは誰なんです? エズラ・ホフマンって名前は、本名じゃあないでしょう……?」
 太いゲジ眉を顰めさせるラーナーは、運転席に座る背中を睨みつける。そんなラーナーは苛立ちと恐怖や焦燥をどうにか抑え付け、冷静さを保とうと必死に努力していた。
 精神衛生という環境からみれば、このバンの中は最悪だ。閉ざされた密室の空間に、暗殺犯と居ること。誘拐されたというこの状況。抗う手段がないこと。それだけでも極度の緊張状態だというのに、周囲の環境が嫌でも昔の記憶を思い起こさせる。少し前までは頭の奥底に封印していた凄惨な記憶が、気を抜いた瞬間に襲いかかってくるのだ。現実からも記憶からも逃避したいというのは、言うまでもない。
 だが、逃避するわけにはいかなかった。解離に逃げて無の状態になったとき、その瞬間に何が起こるのかが分からなくて、怖かったのだ。
 ラーナーの予想が正しければ、きっとその時に自分は殺される。抗うことも、喋ることも放棄した瞬間に、あっさりと殺されるだろう。もしくは、死ぬよりもずっと酷いことが待ち受けている。そして今度こそ本当に、再起不能なまでに壊されるかもしれない。
 そんなことは、もう嫌だった。今だって、首の皮一枚でどうにか“自分”を繋ぎ止めているってのに。これ以上の何かに耐えられる自信なんて、ない。
「その言葉から察するにあなたは、アーサーをご存じなんですよね。それに私の諸々の事情も、把握しているようだ。なら、あなたは特務機関WACEの関係者ですか?」
 ラーナーは毅然とした口調で、運転席の背中に問い掛ける。しかし後ろで縛られているラーナーの手は、緊張からひどく震えていた。
 するとエズラ・ホフマン副長官は、乾いた嘲笑を含んだ声で言う。
「関係者も何も、特務機関WACEは “元老院”直属の機関だ。そして我は“元老院”の一柱」
 その瞬間、ラーナーは自分の心臓が止まったのを感じたような気がした。驚きのあまり、時間が制止したように感じられたのだ。
 エズラ・ホフマン副長官が“元老院”と関係があることについては、アイリーンの口から曖昧に語られていた。その点については、別に驚いていない。しかし、問題は別だ。
 ラーナーは、知らなかった。特務機関WACEが元老院と繋がりがあっただなんて。それも直属の機関だなんて話は、初耳だった。 
「WACEの隊員に与えられるコードネームは全て、アーサー王伝説群に登場する円卓の騎士になぞらえている。アーサーは、アーサー王だ。偉大な魔術師マーリンが描いた、理想の王の姿だ。そして我のコードネームは、マーリン。分かるであろう、この意味を」
 後部座席のシートに横たわるラーナーからは、男の背中しか見えなかった。それでもラーナーは分かっていた。運転席に座る男が、笑っていることを。
「……WACEが、元老院の機関? まさか、そんなわけないじゃないか。だってWACEは、あんたらの罪を暴こうと……」
 気がつけば手だけにとどまっていた震えが、全身に広がっていた。運転席の男は、怯えて混乱して震える憐れな小動物を、せせら笑っていた。ラーナーは遂に口を噤み、黙り込む。抵抗することを諦めたのだ。
 WACEが、元老院の機関だったなんて。ラーナーは信じていたものに裏切られたような気分になっていた。
「憐れだ。自分自身、そう思うだろう。パトリック・ラーナーよ」
 サー・アーサー。彼がもし、伝説のアーサー王と同じ役回りをしていたのなら。ラーナーはそんな馬鹿げたことを考え始め、憂鬱の海に溺れていく。そして拍車を掛けるように、エズラ・ホフマン副長官は言った。
「アーサー。彼は組織のために、良く尽くしてくれているとも。指示に、素直に従ってくれている。そんな男の指示に従い動くお前は、もしかすると悪事に加担を……――」
 もう止めてくれ。これ以上、何も聞きたくない。
 限界を迎えたラーナーが、両瞼を閉ざそうとした瞬間だった。視界に霞が掛かり、バンの中に薄靄が立ち込める。やがて誰も居なかったはずの助手席に人影が浮かび上がり、冷淡で抑揚のない男の声が聞こえてきた。
「先ほど貴様は、私のことをこう言っていなかったか。手綱を握れない暴れ馬も同然、と。そんな暴れ馬が、主人の指示に素直に従うと思うか?」
 霞が消え、薄靄が去る。視界は晴れた。そしてラーナーは、助手席にいつの間に座っていた男の背中を見つめる。
 枯草色の髪と、ごついサングラス。それと真っ黒の背広。神出鬼没のサー・アーサーの登場だった。
「貴様の言うとおり、私は実に厄介な暴れ馬だ。主人の言うことを一切聞かず、主人を背中から振り落とすことが大好き。おまけに落馬した主人をわざと踏みつけ、致命傷を負わせる。厄介で凶暴な、暴れ馬だ。獰猛な猟犬さえ、暴れ馬には畏れをなす」
 アーサーは言いながら、鼻で小さく笑う。そんな彼の手には、九ミリ口径の拳銃が握られていた。
 そしてアーサーは拳銃をちらつかせながら、副長官に言い放った。
「二枚舌が過ぎるぞ、クソが」
「……己、アーサー……!」
「私の名は“アーサー”ではない。その名で呼ばれることは不愉快だ。それをお前はよく知っているはず。そうだろう、エズラ」
 ただならぬ殺気を発するアーサーに、副長官は動揺していた。その様子を、動けないラーナーは一言も喋らずに、傍観していた。
 そんなラーナーの頭には、もう馬鹿らしい考えなど残っていなかった。
 今、アーサーが言ったことが全て。アーサーのような人物が、エズラ・ホフマン副長官の言いなりになるとは思えなかったのだ。
 仮に特務機関WACEが元老院直属の機関だったとしても、アーサーならきっとその立場を逆手に取るはずだ。彼は絶対に、従順な下僕になどならないだろう。
 そしてアーサーは殺意に塗れた声で、エズラ・ホフマン副長官に言う。
「私はこの名を私に与えた貴様と、あのクソカラスのことを、何よりも憎んでいる。……分かるであろう、この意味を」
 敢えてエズラ・ホフマン副長官と同じ言葉を最後に用いたアーサーは、九ミリ口径の拳銃を副長官の額に押し当てる。そしてアーサーは撃鉄を起こし、無表情で言い放った。
「私は、私だ。ペルモンドのようにはいかない。私は貴様の所有物でなければ、貴様と契約を交わした覚えもない。私はあくまで、黒い烏の眷属だ。私を従えたければ、先にキミアを服従させることだ」
 拳銃の引き金に、アーサーの人差し指が触れる。それと、ほぼ同時だった。後方から、パトカーのけたたましいサイレン音が聞こえのは。
『連邦捜査局よ! そこのバン、止まりなさい!』
 拡声器を通したノエミの声も、後ろからは聞こえてきていた。
 その瞬間、何を思ったのかアーサーは、拳銃を振り上げた。そしてグリップの底で、副長官の盆の窪を殴りつける。武器は小型の拳銃。とはいえ鉄の塊であることには変わりなく、その威力は侮れない。鈍く重い音が鳴り、副長官はすぐに気を失った。……というより、死んだかもしれない。
 それからアーサーは車のエンジンを乱暴な手つきで停止させると、煙の如く消え失せていった。ラーナーに一瞥もくれることなく、彼は居なくなった。
「……行っちゃったよ、サー・アーサー。助けてくれないのかよ……」
 暫くするとサイレンが近くなり、連邦捜査局の捜査官たちの声が間近に迫ってきた。そして数々の声の中でも、真っ先にラーナーに近付いてきたのはノエミの声だった。
 後部座席横のドアがこじ開けられ、ラーナーの顔に直接、陽光が射す。眩しいと目を細めたラーナーの視界に、逆光で翳った本物のノエミが映り込んだ。
「リッキー! あぁ、良かった。無事だったのね!」
 ラーナーを見るノエミの目は、安堵したかのよう。だがそれも、運転席で気を失っている――または死んでいる――男を見るなり、一変する。
 ノエミはエズラ・ホフマン副長官を指差すと、ラーナーに訊ねた。
「ねぇ、リッキー。副長官は、どうして気絶してるの」
「神風が吹いたんじゃないですか?」
「……ってことは、イーライ・グリッサムのときと同じって人ってこと?」
「それについては、ノーコメントです」
「で、どうしてあなたは副長官に誘拐なんかされたの?」
「それはこっちが聞きたいことです。なんで、どうして、私なんですかね」
 きょとんとわざとらしく首を傾げるラーナーは、ノエミの目を見つめ返す。神風が吹いたというコメントについては、まあ、その、アレだが……――誘拐された理由が分からないというのは、本当のことだった。
 副長官が言ったことといえば精々、アーサーが暴れ馬だということと、自分が元老院を構成するうちの一人であるということくらい。ラーナーがどうのこうの、という話は出てこなかった。……それは本題に移る前に、アーサーという想定外の妨害が入ったからなのかもしれないが。
 副長官は、何をしたかったのだろうか。ラーナーは考えようとするが、答えなど見つかるわけもなく。苛立ちから口をへの字にする。するとノエミが、ラーナーに手を差し伸べてきた。
「どうせ、そんな体だから一人じゃ立てないでしょう? それに車椅子もないし、担架もないし。だからこのノエミ・セディージョさまが、特別におんぶして、パトカーまで運んで行ってあげる」
 ノエミはそう言いながら、悪戯好きの少女のような笑顔を浮かべた。こりゃ完全に、子供扱いされてるな。ラーナーは少しムッとしてみせたが、素直にノエミの手を取った。そして彼は言う。それじゃお言葉に甘えて、と。
 ノエミは掴んだラーナーの手をぐっと引っ張り、彼の上半身を起き上がらせる。それから彼女はラーナーに背を向けた。
「……」
「どうしたの、リッキー。ほら、早く」
「……ああ、はい」
 元同僚の、それも女性の背中に……。そう思うと、恥ずかしさと遣る瀬無さが込み上げてくる。こんな体になっちまったばかりに、なんだか情けない。けれども、こんな状況だ。恥ずかしいが、仕方無い。そう、仕方無いんだ……。
 自分に暗示を掛けるラーナーは、意を決してノエミの背中にしがみつく。ノエミはひょいっと立ち上がってみせた。そして彼女は言う。
「ねぇ、リッキー。あんた、体重が軽過ぎない? 四歳の姪っ子を抱っこした時よりも、ずっと軽い気がするんだけど。大丈夫、ちゃんと食べてる?」
「考えてもみて下さい。私は義足を着用していたとしても、身長は一四七センチしかないんですよ。そして今は義足もないし、脚は太腿の半分から下が無いんです。そりゃ軽くもなりますって」
「あー、そういうことね。なるほど。……でも、だとしても、軽い気がするのよねー」
 ノエミは実に軽やかな足取りで、ずんずんと進んでいく。ノエミの背中で、ラーナーは疲れたような溜息を吐く。
 するとノエミが訊いてきた。
「ねぇ、リッキー。エズラ・ホフマン副長官って、何者だと思う?」
「何者って、訊かれましても……」
「エリーヌさんが言ってたの。あなたを連れ去っていったのは私だ、って。でもその時間帯、私は連邦捜査局の本部局に居たのよ? これって、ブラッドフォード長官が殺害された時と、まるでそっくり。副長官が別人になりすましてて、私たちに罪を被せようと……」
「副長官は、光学迷彩でも使えるんでしょうか」
「でも光学迷彩って姿を消すことは出来るけど、別人の姿になり変わることは出来ないでしょう? 声や身長まで、変えられないはず。だとしたら、彼はなに?」
 ノエミの問いに、ラーナーは黙りこくる。ノエミがそれ以上、追及してくることはなかった。
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