ヒューマンエラー

Spy out a Secret. ― 「機密事項」

 バーソロミュー・ブラッドフォード長官暗殺事件は、副長官であったエズラ・ホフマンを指名手配というかたちで、幕を下ろす方向に向かっていた。
 連日のようにマスコミは騒ぎ立て、警察機関はエズラ・ホフマンの首に懸賞金を賭け、協力を募っている。しかし当のエズラ・ホフマン氏は逃走し、一向に見つからないまま、一週間が経過していた。
 その間、WACEは大忙しだったらしい。車椅子のラーナーがASI本部局でデスクワークをこなしていた月曜から金曜の間、アイリーンらは彼の前に一度たりとも姿を現さなかった。ラーナーが自宅に戻っても、そこにアイリーンが来ることはなかった。
 しかしケイという男が作り置きしておいてくれた食事は、毎朝毎晩必ず食卓の上に置かれていた。
「…………」
 外科手術を終え、全身麻酔がもたらす倦怠感を感じながら、ラーナーは病院のベッドの上に横たわっていた。
 シリコンを注入するだけの手術は直前の検査で切り替わり、なにやら大きな手術になったようで。大腿骨が少し変位していたとか、縫合されていたはずの筋肉に開きがあったとか、なんとか。そのせいで数十分で終わるはずだったものが、二時間近く掛かったという。
 そんなこんなで、太陽も傾き始めた午後三時にラーナーは覚醒した。起き上がろうにも力の入らない体に、ラーナーはうんざりと顔を顰める。
 するとそんなラーナーの視界に、ひとりの女性の顔が入り込んできた。
「お久しぶりね、パトリック」
 ラーナーは女性の顔を見るなり、驚いたように目を見開く。
 くっきりパッチリな二重瞼に大きな目、真黒な瞳にキリッとした三日月眉、長くまっすぐな黒髪、ぷりっと肉厚な唇。一八〇センチはゆうに超える長身と、グラマーな体つき、それと褐色の肌以外の身体的特徴は、どことなくラーナー自身に似ている。
「連絡が一切来なくなってから二年。最後に顔を見たのも六年前。……アンタ、どこで何をやってたの」
 それも、そのはずだった。彼女の名前はミランダ。
 ラーナー家五人兄弟の三女、姉のミランダだ。
「……姉さん……?!」
 鬼人面のように引き攣る姉の顔を見るラーナーは、緊張と麻酔で身動きが取れなくなる。腕を組み仁王立ちをする姉は、怯えて縮こまる栗鼠リスのような弟を、憐れむような目で見下ろしていた。
「尿路結石になった旦那の付き添いで病院に来てみれば、廊下ですれ違ったドクター・デイヴィスに呼び止められて、『あなたの弟が入院してるわよ』って言われましてねぇ? 言われたとおりの病室に来てみりゃ本当に、親不孝者のどうしようもない弟が……」
「あはは……」
「なに笑ってるのよ」
「ごめんなさい」
「アンタが消息を絶ってから丸二年よ! 大学を卒業した途端、音沙汰なし。どこで何をやってるのかも分からなくて、父さんと母さんがどれだけ心配したか分かってるの!? どんな仕事をしてるのかも分からないし、捜索願を出しても警察は受理してくれないし! アンタは一体、何をやってるのよ!!」
 姉は怒鳴った。溜まっていた不満を吐き出し、怒りを弟にぶつけた。けれどもそこに、水を差すようにアイリーンが登場する。
「ハロー、パトリック♪ ドクター・デイヴィスが言ってたよー、あと一ヶ月は義足禁止、車椅子で居なさいーって。けど明日には退院できるって。月曜には仕事に戻っていいってさ。良かったね」
 数日ぶりに見るアイリーンは、やたら上機嫌だった。そんなアイリーンの視界には、怒りに顔を赤くする姉のミランダのことなど入っていないようで……。鼻歌交じりに、スキップさえもしてみせるアイリーンは、ラーナーのベッドに近付いてきた。
 そんなアイリーンの登場に機嫌を更に悪くした姉は、苛立ったような足取りで病室から出ていく。ラーナーは姉の背を、申し訳なさそうな目で見送った。
 すると上機嫌のアイリーンが、ふふふん♪と喋り出す。
「パトリック。今回は超絶に良い仕事したよ。マジでグッジョブ。アタシね、サーの笑顔を久しぶりに見たよ」
「……何の話です?」
「ほら、この間の伝言の件。パトリックの伝言のお陰で、潜入担当がやっと掴んだの。例の実験が何なのかーってのを。んで蓋を開けてみて、びっくり。とんでもないものを彼らはやろうとしてて、あの鷲鼻クソ眼鏡ジジィは喰い止めようと」
「へぇ、そうなんですか」
 のりのりで喋るアイリーンを、ラーナーは軽く受け流す。ラーナーの顔は、興味がないと言いたげだった。
 そんなラーナーの態度に、アイリーンは顔を顰めさせる。ご機嫌な鼻歌は終わり、彼女の顔から笑顔も消えた。
「ねぇ、パトリック。もしかして、興味ない感じ?」
「上司にこう教わりました。必要以上に、業務内容に興味関心を抱くな。与えられたことだけをやり、与えられたもの以上のことをするな。余計な行為が、組織の崩壊を招き、罪なき人間を危険に晒すことになる」
「……ASIの鉄則ねぇ、にゃるほど。ガンガン首を突っ込んでいくウチらとは、真反対のスタンスって感じ……」
 蛍光色な緑色のウェリントン眼鏡から覗くアイリーンの目が、高い位置からラーナーを見下ろしている。ラーナーはアイリーンから目を逸らす。そして彼は小声で不満を漏らした。
「本当に、真反対ですよ。だから困るんです。……サー・アーサーの指示は常に不明瞭。それに目的が分からない。あなたたちは、何がしたいんです? それに私は、何をやらされてるんです? 分からないんですよ、何もかも……」
「パトリックは、辞めたい? うちらとの、仕事を」
「そうですね。可能であれば」
「やっぱり、そうなんだ。でもあと少しだけ、悪いけど付き合ってもらうよ。まだ、あのジジィから完全に聞き出せたわけじゃないから」
「……私じゃなくても、別にいいんじゃないんですか」
「パトリックじゃなきゃ、多分ダメだよ。だってあのジジィが伝言を残すなんて、初めてだもの。多分だけど君は、あのジジィに気に入られてる」
 ラーナーは漠然と天井を見つめ、呟く。新人だからと舐められただけに決まっている、と。するとアイリーンは溜息を吐く。それから彼女は、こんなことを言った。
「そういえば女子刑務所で、ジークリット・コルヴィッツが死んだって。獄中で薬物の売人をやっていた女が、禁断症状を起こして暴れ回っていた時に、巻き込まれて撲殺されたってはなし。そんで彼女が書き溜めたパトリック宛ての手紙が数十通あるらしいんだけど」
「呪いでも込められてたら嫌ですし。焼却処分なり何なりを、お願いしますと伝えて下さい」
「……だよね。分かった、刑務官に伝えておくよ」
 そう言うとアイリーンは背を向け、立ち去る。ラーナーは目を閉じ、ベッドに沈んでいく体を重力に任せた。気怠い気分は頭痛を呼び起こし、頭痛は吐き気を催した。
 胸がムカムカとし始め、食道から胃液が込み上げてくる。ラーナーは重い体をどうにか起こし、仰向けの体を横にした。
 枕もとに置かれた嘔吐用の平皿に、おろおろと手を伸ばす。だがその瞬間、後頭部を殴られたような頭痛がラーナーを襲った。
 込み上げてきていたものが、瞬間にして胃袋に引っ込む。鉄の平皿がベッドから転げ落ち、カーン……と音を立てた。ヤバイ、と思ったのも束の間、ラーナーの意識がぶつっと途切れる。次にベッドから落ちたのは、ラーナーの小さな体だった。
 そこに、向っ腹の姉ミランダが戻ってくる。姉は弟を叱りつける言葉を携え戻ってきたのだが、用意していた言葉はどうしようもない弟を見るなり、どこかに吹き飛んでいた。代わりに姉は、別の言葉を大声で叫ぶ。
「誰か、手を貸して! 患者がベッドから落ちてるわ!」





 月曜日。主治医とのひと悶着はあったが、どうにか退院した車椅子のラーナーは、ASI本部局欧州情報部のオフィスに居た。
「お前の退院祝いにパァーっと何かをしてやりたいもんだが、そういうワケにもいかんからなぁ……」
 腕を組むトラヴィス・ハイドン部長は、うーむと眉間にしわを寄せる。オフィスには霊妙な空気が立ちこめていた。
 『長官代行』という肩書もついたトラヴィス・ハイドン部長に対する周囲の反応は、まちまち。異例の大抜擢に度肝を抜かされている者も居れば、妬む者も居り、良からぬ噂を流す者も居る。しかし一番混乱しているのは、任命された当の本人だった。
 長官代行なんて自分には荷が重い、なにより職務を全うできるだけの素質がありません。彼はそう言い、一時は辞退しようとした。しかし止められたのだ。

 誰に?
 ブラッドフォード長官の遺言、それとサー・アーサーに。

「ラーナー、お前の容疑はとっくに晴れている。しかし、一時だけだとしても疑われたという事実は消せない。お前のことを快く思わない者が局内に居ることは、事実だ。そこを理解してくれ」
「勿論、理解しています。それに、誰かを恨むつもりはありませんよ」
 作り笑顔を浮かべるラーナーは、そんな嘘を吐いた。

 誰かを恨むつもりはない?
 そんなわけないだろ。濡れ衣を着せやがったクソ野郎を見つけ出して、ギッタギタに切り刻んでやりたい気分だ。

 だが、そんな本音など言えるわけがない。するとオフィス内が、ざわざわとし始める。ラーナーの周りに、同僚たちが集まり始めたのだ。
 同僚たちは車椅子のラーナーを、憐れむような目で見る。そして慰めにもならない綺麗事を、口ぐちに述べ始めた。
「ラーナー。ここにいる者たちは全員、お前の味方だからな」
 嘘を言え。裏でお前が『あのクソチビ、しゃしゃってんじゃねぇぞ』とかほざいていたのを、こっちは知ってるんだぞ。
「だから、なんでも一人で抱え込まないで。あたしたちを頼ってね」
 とか言っちゃってるけどさぁ、君。『連邦捜査局の特別捜査官が、ASIに馴染めるわけがない』って、随分前に言ってたよね? それに、人が作った書類を鞄の中から盗んで、自分の手柄にしてたよね? ねぇ?
「ははは……。ありがとうございます」
 困ったように笑うラーナーは、視線を部長に送る。話題を変えてくれと頼む、無言の圧だ。
 すると部長は一度、咳き込む。そして彼は、とんでもないことを口にした。
「諸君、よく聞いてくれ」
「……」
「突然のことですまないが……――この欧州情報分析部は、本日付で解体。そして諸君らは全員、新設された『アバロセレン犯罪対策部』に異動となる」
 ざわめきが止み、沈黙が訪れる。ラーナーを含めた誰もが、突然過ぎる発表に驚愕していた。
 気拙い空気が流れ、トラヴィス・ハイドン部長は米神を掻く。それから彼は、言葉を続けた。
「……なんて仰々しいことを言うと、まどろっこしいよな。まあ要するに、部署名と業務内容が変わるだけだ。暫くは混乱すると思うが、いち早く慣れてくれることを願う」
 そう言うと部長は、椅子の横に置かれていたアタッシュケースに手を伸ばす。その中から、紙の束を取り出した。
 部長は束を四つの山に分けると、ランダムに選んだ部下を四名呼び出し、全員に書類を配るよう指示を出す。散り散りに動き出す部下は、山を捌いていく。暫く待っていると、ラーナーのもとにも書類が来た。
 お馴染みのレターサイズ規格のコピー用紙に、細かい字でぎっしりと情報が詰め込まれた書面は五枚。表紙の右上には『機密事項』の赤字。そして表紙の中央には、大きなゴシック体で『オウェイン実験に関する特命調査委員会 中間報告』と書かれていた。
 特命調査委員会とやらは、まさか……。怪訝そうな顔をするラーナーは、ある予想を立てる。そして見事、予想は的中した。
「アバロセレン犯罪対策部、手初めの仕事は今配布した資料のとおりだ。国営のアバロセレン工学研究所、かの有名なサンレイズ研究所で行われている違法行為を炙り出してもらう。そして今回、共同で調査をおこなッ……――」
 バンッ。
 トラヴィス・ハイドン部長の言葉を遮るように、オフィスの扉が乱暴に開けられる。豪快な音を立て、大荷物と共に登場したのは、見覚えのある奇抜な衣装の女だった。
「特命調査委員会、改め特務機関WACEから派遣され、ASIに、参りました。テクニカルサポート担当の、アイリーン・フィールドです」
 背中に背負い、更に両腕に抱えた大荷物を、その女は全て床に置く。肩を狭い間隔で上下させる女――“ルーカン”ことアイリーン・フィールド――は、息を切らしながら自己紹介を終えた。
「……どうぞ、宜しく、お願いします」
 大ぶりのウェリントン型眼鏡は、ズレている。そして彼女の眼は、ヘルプを求めるように血走っていた。
 左腕で抱えていた黒鞄の中には、超薄型で厚さ四ミリほどのノートパソコンが二台。右腕に携えていたピンク色のボストンバックには、追加の紙媒体の資料――一部につき、レターサイズコピー用紙二十五枚。それが『アバロセレン犯罪対策部』全員分、計三十五部。重さはざっと、四キロ弱だろう。――が詰め込まれている。さらに背中のリュックサック――登山用と思しき、大型のもの――には、細々とした機械類が詰め込まれているようにも見え、今にもはち切れそうだ。そして引き摺って歩いていた深紅のキャリーケースも、パンパンに膨れ上がっていた。
 総重量は、どのくらいになるのか? ラーナーは思考を巡らせる。具体的な数字は思い浮かばなかったが、あの大荷物だ。重いことは間違いない。それを女性が、それも普段は椅子に座っていることのほうが多いようなハッカーが、ひとりで全部持ってきたのだ。
 さぞかし辛かっただろうに、とラーナーは思う。しかしラーナーの口元には、にんまりとした嘲笑が浮かべられていた。そんな彼の表情は「ざまあみろ」とでも言いたげだった。
 そして特務機関WACEの登場に、オフィス内は騒然とし始める。アイリーンに後期の眼差しを向ける同僚たちは、噂話をし始めた。
「特務機関WACEって、あの都市伝説の?」
「……てことは、都市伝説じゃなかった、ってことだよな」
「うそでしょ。じゃあ、神出鬼没のサー・アーサーって本当に存在するのかしら」
「ど、どうなんだろう。流石に、居ないんじゃないのか? だってテレポーテーションなんて、存在するはずが」
「でもアバロセレン技士はまれに、超能力とか第六感を発現させるって聞いたことがあるわ。原因はよく分かっていないけど、アバロセレンが何らかの影響を人体に及ぼしているって」
「まさか。そんなのが現実で起こってるわけないだろ? 本気で信じてるのか」
「だって、アバロセレンよ? アルフテニアランドの悲劇を引き起こした、あのアバロセレン」
「あのなぁ、ここは現実だ。ちんけなSF小説じゃないんだ。超能力なんて」
 ざわざわと落ち着きのない空気に、ラーナーは苛立ちを覚える。
 うるさいな、静かにしてくださいよ……という愚痴を、ラーナーは心の中で零す。それからラーナーは、息を切らすアイリーンに手を貸してやろうかと一瞬考えたが……――やめた。

 だって、車椅子だし。手助けらしい手助けは、できないだろう。
 それに、誰があんなヤツを助けるか。
 人の家に勝手に上がり込んで来て、キッチンを荒らして不味い飯を作って食材を無駄にして、キーキーうるさくて、登場のタイミングがいつも悪くて……。
 もう一度、言う。誰があんなヤツに手を貸すものか!

 ラーナーは黙りこくり、にたにたと笑う。すると、アイリーンと目が合った。アイリーンはラーナーの笑顔を見るなり、顔をむっとさせる。それから痺れをきらした彼女は、息も絶え絶えにこう言った。
「誰か、手を貸して! 機材を、運んで。資料を、配って! アンタたち、ASIなんでしょ! 察して、動きなさいよ! 言われなきゃ、分かんないの?! そんなんじゃ、現場で、役に立たないよ!」
 その瞬間にアイリーンに向けられていた好奇の眼差しは、冷やかなものに変わる。ちらほらと動き出した者が出始めたが、ラーナーの同僚たちはどこか不満げな表情を見せていた。
 アルストグラン秘密情報局と、特務機関WACEの共同調査。その初っ端がこんな不穏な調子じゃ、この先がどうなることやら。ラーナーは嘲笑する。そんな彼は、ぜぇぜぇと肩を上下させながら、動きのとろいASI局員をヒステリックに怒鳴り散らすアイリーンを見つめていた。
「機材の入った鞄とかは、とりあえず適当な机の上に置いといて。……って違う、違う! コンセントが近くにある机のうえに置いて! 少し考えりゃ、すぐ分かるでしょ! なんでそんなことも、いちいち言わなきゃいけないのよ!!」
 リュックサックを持ち上げたひとりの男が、イラッとした顔でアイリーンを睨んでいる。
「ほら、そこ! ぼーっとしてないで、資料を配る手伝いをして! 時間が惜しいの、だからテキパキと動く!」
 ひとり、ふたり、さんにん……――。誰かが、舌打ちをした。小声の悪態も聞こえてくる。
「そこの車椅子のクソチビ、君もだよ! おらおら、動け動け!!」
 ちぇ、と唇を尖らせるラーナーも、渋々動き出す。するとアイリーンは、彼女にしては珍しい棘のある口調で、こんなことを言った。
「アンタたちはまだ何も分かってないかもしれないけど、今回の案件はかなり複雑に込み入っているうえ、厄介で危ないものなの。なにせ“元老院”が関わってるんだから」
 元老院。
 その言葉に、ラーナーは身構えた。トラヴィス・ハイドン部長も、目元にぐっと力を込める。
「今日は“元老院”と問題の研究所について、詳しく説明する。そして明日には、もう動き出さなきゃいけない。それにこの案件は、ブラッドフォード長官暗殺事件にも深く関わっているの」
 アイリーンの言葉に、局員たちの顔つきが変わる。不平不満が止まり、誰もが生唾を呑んだ。
「ワイズ・イーグルの仇を取りたいなら、速やかに、そして指示通りに動いて。分かった?」
 誰かが無言で、こくりと頷く。同僚たちの目も、真剣なものに変わっていた。
 けれども真顔になったラーナーの目だけは、どんよりと曇っていた。
 彼の中にあったのは復讐心でもなく、正義でもない。不安だけ。これ以上この件に関わったら、もう元には戻れなくなると感じていたからだ。
「……あぁ、辞めたい。なにもかも、全部……」
 だがラーナーに、手を引くという選択肢は与えられていない。そもそも選択する権利すら、彼には与えられていなかった。
 ぎらりと光るアイリーンの目が、ラーナーを視界に捉え、睨みつけてくる。そんな彼女の眼は、任務から逃げたら殺すとでも脅しているかのようだった。
「さっ。それじゃ早速、元老院について解説したいと思います。新たに配布した資料の一ページを開いてください。まず、バーソロミュー・ブラッドフォード長官暗殺犯であるエズラ・ホフマン氏についてです。実を言うと彼は……――」
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