ヒューマンエラー

The evilness Penetrate the justice. ― 「悪魔の証明」

 ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。彼は倒れる直前に、こんなことを言っていた。
『アーサーに伝えろ。……オウェイン実験、あれはエズラの管轄だ。スリーエックスに、全てが……――』
 ラーナーはアイリーンを通じて、アーサーに高位技師官僚からの伝言を託した。しかし伝言を託してから丸二日が経過したが、アーサーからの反応は今のところ何もない。ブラッドフォード長官からも、何もない。
 もしやアイリーンは伝えてないのでは……という一抹の不安を抱えながらもラーナーは、休日を利用してキャンベラ国立大学病院に来ていた。
「あの、ドクター・デイヴィス……」
「リッキー。私はあなたに、何度も忠告したはずよね」
 といっても、今回は完全なる私用だ。
 高位技師官僚がまたこの病院のICUに戻されたという話は聞いているが、別に彼の様子を見に来たわけじゃない。ましてや、カルロ・サントス医師に会いにきたわけでもない。
 診察室の中、患者用の椅子に座るラーナーは、ドスの利いた低い声で喋る中年の女性医師を前にうろたえる。厚化粧の医師は冷めた目で、ショートパンツ姿のラーナーを見つめながら、こう言った。
「適度に歩くことは良いけれど、三〇分以上の運動はダメ。激しい運動は絶対にダメ。ジョギング、マラソンは以ての外。縄跳びやジャンプも禁止。階段の利用もできれば避けること。何故なら」
「体にも義足にも負荷がかかるから、ですよね」
「分かってるのに、どうしてやったのかしら」
「……すみませんでした」
 ラーナーは肩を竦め、頭を少し下げる。そんな彼は、かれこれ十五年もお世話になっている整形外科に来ていた。
「むしゃくしゃして、つい夜道を走っちゃったら、このザマで……」
「創部は擦れて発赤してるし、義足もひどく傷付いてるわ。修理が必要ね。それに……――ここ、触ったら痛むんじゃないの?」
「……イタッ!」
「はぁ……。念の為、暫くは弾性包帯を巻いておくこと。巻き方は分かるわよね?」
「はい。あっ、でも包帯、家にあったかな……」
「なら帰りにでも薬局に寄っていきなさい。それで、何時間ぐらい走ったの?」
「えっと、たしか二時間ちょいだった気がします」
「あー、呆れたわ。……車椅子は嫌だ、義足にしてくれって言ったのは、あなたなのよ? 言いつけを守ってくれないと、義足を外すことになるわ」
「それは困ります!」
「なら、ちゃんとして。それと、病院のを貸してあげるから、二週間は車椅子で生活しなさい。来週の土曜日、午前九時。膝にシリコンを入れる手術をするから、スケジュールを確保しておくように。念の為に、二日間。土日の両方を空けておくこと」
 義足を外したことにより、久々に陽の目を浴びたラーナーの脚。膝関節のあたりは両足共に、真っ赤に腫れていた。
「……分かりました」
 ラーナーは自分のスケジュール帳を取り出し、来週の土曜日と日曜日の欄を見る。今のところ、予定は何も入っていない。空欄の土曜日に、スケジュール帳に挿んであった赤ペンで、ラーナーはレ点を記入する。その横に、『整形外科|手術』と書いた。そして日曜日には『入院?』と書きこんだ。
 そんなラーナーの横に、看護師が車椅子を運んでくる。体重移動式の、手を使わずに動かせるタイプのものだ。
 看護師の手を借り、ラーナーは椅子から車椅子の上に移る。約十五年振りの車椅子に、ラーナーは戸惑いを見せる。体重移動式のものにある独特の座り心地の悪さと、肘置きに書かれた『ジュニア用』の文字に、苦い笑みを零した。
 すると医者は言う。
「私の記憶が正しければ、あなたの身長体格は十歳の頃となんら変わってないはず。せいぜい、筋力が付いたか否かの差ね。顔も変わってないし。声は、少しだけ低くなったかしら?」
「……あはは。そう、ですよね。身長、体格。何も、変わってません……」
「だから、その車椅子を使って。体格に合わないものを無理に使うと」
「体を痛める。分かってます。ただ、車椅子になるのかと思うと……」
「ええ、そう。けれど今度ばかりは、あなたの落ち度よ。責めるなら、うっかり夜道を走った自分を責めなさい」
「はい。本当に、その通りです……」
 ラーナーは竦めていた肩を落とす。上半身を前に傾けさせた。すると体重の移動に反応した車椅子が、少しだけ前に動く。ラーナーは慌てて体勢を立て直した。
 車椅子の動きが止まる。ラーナーは記憶を頼りに、車椅子の動きを止めるロック機能を掛けた。カチッ……という音が鳴り、タイヤが動かなくなる。すると、その様子を見ていた医者が、独り言を言った。
「……なんだか、調子が狂うわ」
「どうかされました?」
「あぁ、その。見た目は変わってないのに、中身は随分と変わったわねーって思って。十五年前は手に負えない問題児だったあなたが、立派な大人になって……。おばちゃん、どう接していいのかが分からないわ」
 診断書を書きながら、医者はそんな言葉を漏らす。ラーナーは十五年前の自分を思い返しながら、過去のことを恥ずかしがるように鼻の頭を掻いた。それから、少しだけ頭を下げる。
「その節は、ご迷惑をおかけしました」
「本当に、いい迷惑だったわ。傷が塞がるほうが先か、舌を噛み切って死ぬほうが先か。あなたには色々と、ハラハラさせられたものね」
「……すみません」
「後にも先にも、あなただけよ? 整形外科の患者で、猿轡さるぐつわを噛ませられていたひとなんて。精神病棟でもないのに、十歳の男の子が……――この病院はいつから少年院になったんだって、あの時ばかりは思ったわ。まっ、あんな事件の後だったからね。あんだけ荒れていたのも仕方無いっちゃ、仕方無いわよ」
 ラーナーの中にある当時の記憶はあやふや。だが、この病院のベッドの上に居たとき、自分には拘束具が着けられていたことは覚えていた。
 あの事件の直後、ラーナーはひどく混乱していた。いや、錯乱していた。誘拐され、山奥で両脚を叩き折られて。連邦捜査局に救出されたかと思えば、次は? 運び込まれた病院で、医者に大腿切断を行う――膝関節から下を放棄し、大腿を半分だけ残す――と言われたのだ。
 そうしなければ壊死が広がり、君は死ぬぞ。医者は脅すように、ラーナーにそう言ってきた。けれども錯乱したラーナーは、医者に向かって言った。だったら死んだほうがマシだ、と。そのとき、ラーナーの言葉を離れた場所で聞いていた母は、ひどく泣いていた気がする。姉のミランダには頬を一発打たれた。
 そして父は医者に言った。息子を、お願いします。
「そ、そ、そんなに、荒れてましたっけ?」
「荒れてたわよ。ベッドの上でのた打ち回るし、ベッドから落ちるし、若い女性の看護師に怯えるし、夜は絶叫するし。あなたの居る病室は、ナースコールが鳴りっぱなしだったわ。精神病棟に移したほうがいいんじゃないのかって、本気で考えさせられたくらい、あなたは酷かった」
「……記憶にない、ですね」
「まっ、それも仕方ないわ。それで、仕事は何をしてるの?」
「連邦捜査局の捜査官です」
「へぇ、捜査官……――連邦捜査局の、捜査官!?」
「といっても今はデスクワークのほうです。もう現場には出てません」
「つまり、以前は現場に出ていたってことね?」
「そうなりますね」
「いっぱい、走ったわね?」
「……はい」
「なるほど。二時間のランニングで、あそこまで関節部が損耗するとは思えなかったのよ。積もり積もったものってことか。これで納得したわ。……義肢装具士に伝えておかなくちゃ」
 そうやって本人の意思に関わらず、手術は行われた。全身麻酔をかけられ、意識を失くしているうちに、両脚は切り落とされた。そしてラーナーは、麻酔では抑えられない焼けるような痛みと、もう二度と自分の足で立って歩くことができないという絶望と共に、目を覚ましたのだ。
 ラーナーにとって車椅子は、あの日に感じた絶望の象徴だった。だから、出来れば乗りたくないのだが……――今回ばかりは、自分の所為。致し方ないのだ。
「痛み止めを出しておくから、受付で処方箋を貰って。それじゃ、来週の土曜日の九時。三十分前には病院に来てちょうだいね」
「はい。ありがとうございました」
 ラーナーは再び、医師に向かって頭を下げる。すると医師はファンデーションを塗りたくった顔に、小皺が目立つ笑みを浮かべて、ラーナーに手を振った。
 車椅子のロック機能を解除すると、ラーナーはぎこちない動作で慣れない車椅子を操作し、診察室を後にする。それから受付で払うものを払い、受け取るものを受け取ると、くるりと後ろに振り返る。するとラーナーの前には、険しい顔をしたノエミが立ちはだかっていた。
「ノエミ? どうして、あなたがここに……」
「こんにちは、リッキー。あなたこそ、どうして車椅子なのかしら」
「えっ、いや、それは、その……」
「まっ、それはどうだっていいわ。車椅子なら、走って逃げられる心配もないし。好都合ってとこかしら」
 ノエミは無表情で言う。すると手錠をちらつかせた。そしてラーナーの耳元で、囁くように言う。
「……私たちも、ことを荒立てたくないの。だから、大人しく一緒に来て」
「一体、何の真似ですか」
 もしや、バルロッツィ高位技師官僚の拷問がバレたのか? もしくは、バルロッツィ高位技師官僚を撃った犯人を、知っていながら黙っていたことがバレたのか? なら共謀罪か? それとも、あれか。あの……――。
 ラーナーは思い当たる節を片っ端から思い浮かべながら、心の中で弱音を吐く。ああ、今度こそ終わりだ。WACEなんていう組織に関わったばかりに……と。
 しかしノエミは、予想の斜め上を行く台詞を言った。
「パトリック・ラーナー。あなたを、バーソロミュー・ブラッドフォード氏の殺害容疑で逮捕する」
「……今、なんて?」





「……で、私の容疑はこれで晴れましたか?」
 一時間半に及ぶ取調室での不毛な尋問のなかで、ありのままの事実を洗いざらい全て吐いたラーナーの身元は、取調室から捜査本部に移されていた。
 そんなラーナーの前には、頭を抱えるノエミと、腕を組むトーマス・ベネット特別捜査官の姿があった。そしてラーナーの横には、急遽ASI本部から連邦捜査局本部に駆け付けてきた、直属の上司であるトラヴィス・ハイドン部長の姿もあった。
 うんざりとした顔のトラヴィス・ハイドン部長は、トーマス・ベネット特別捜査官を睨むような目で見る。そしてトラヴィス・ハイドン部長は嫌味を言った。
「うちの可愛くてしかたない部下を、裏も取れていない証拠を理由に逮捕するなんて。連邦捜査局も落ちぶれたもんだなぁ、おい? それに俺の部下を逮捕するなら、上司である俺に事前に通告するのが礼儀ってもんだろ」
 その言葉に、トーマス・ベネット特別捜査官は反論する。
「しかし、だ。トラヴィス、この映像を見てみろよ。どっからどう見たって、こりゃパトリックだ。身長といい体格といい、なんといい。それに顔は、どう見たってパトリックだ!」
 そう言いながらトーマス・ベネット特別捜査官はタブレット端末を操作し、ラーナーを逮捕するに踏み切った決め手だという証拠映像を、トラヴィス・ハイドン部長に見せた。しかしトラヴィス・ハイドン部長は映像を見るなり、ハッと鼻で笑い飛ばして見せる。
「トーマス。お前、本当にラーナーの元上司なのか?」
「はぁ? トラヴィス、お前は何が言いたいんだ」
「この映像に映っている、ラーナーに似た男の歩き方をよく見ろ。背筋をしゃんと伸ばして、普通に歩いてるだろう?」
「ああ、まあ。そうだな。だが、それが」
「知っての通り、ラーナーは例の事件で大腿切断になって以降、義足で生活している。その所為で本物のラーナーは、びっこを引くように歩くんだよ。しかし、この映像の男を見てみろ。健常者の、普通の歩き方だ。どっからどう見ても、こいつはラーナーじゃない」
 トラヴィス・ハイドン部長の言葉に、どこか引っ掛かるものを感じつつも、ラーナーはその言葉に頷いて見せる。すると頭を抱え込み、黙りこくっていたノエミが、久しぶりに口を開いた。
「あーっ、もう! チーフ、この事件どうなってるんですか!!」
「そりゃ俺の台詞だよ、ノエミ。監視カメラの映像に映ってるのはどう見てもパトリックだってのに、当の本人のアリバイは完璧。バーソロミュー長官が殺害された時刻、パトリックは病院の待合室に居たと受付嬢が証言したし、本人もそう言ってる。それに病院のカメラ映像にも、待合室のソファーで居眠りしているパトリックが映っている。びっこを引いて歩く、本物のパトリックが」
「じゃあ、ブラッドフォード長官を殺した偽リッキーは、誰なんです?!」
「それを調べるのが俺たちの仕事だろうが」
「……そうでした、チーフ。ごめんなさい」
 ノエミは眉間にぐーっと力を入れ、目元を強張らせる。それから彼女はラーナーを指差すと、こんなことを訊いてきた。
「ところで、リッキー。あなた、どうして車椅子なのよ。というか、待って。……もしかして、膝から下が無いの?」
「そうですけど。かれこれ十五年ほど前から、ずっとこの体ですよ」
「でもついこの間まで、普通に立って歩いて……」
「先ほど、ハイドン部長が言ってたでしょう。私、普段は義足なんですよ、両脚ともに。けどその義足の調子が悪かったのと、膝の調子がおかしかったんで、今日は整形外科に行って診てもらってたんです」
「あぁ、そういうことね。だから、整形外科に……」
「そんな簡単なことも分からなかったんですか、あなた」
「こちとら目玉が飛び出るような情報が次から次に舞いこんできて、混乱してんのよ! リッキー、あなたがブラッドフォード長官を殺したんじゃないのかって、本気で心配したんだから!!」
「文句なら、私に濡れ衣を着せようとした犯人に言って下さいよ」
 むっと不貞腐れたような顔をするラーナーは、髪を掻き乱すノエミに冷めた視線を送りつける。しかし奇声を上げるノエミは、自分に向けられる視線も、自分の身なりも最早気にしていないという様子だった。
「それで。私にも、長官室の監視カメラ映像を見せていただけませんか?」
「チーフ、どうします?」
「別にいいんじゃないのか、ノエミ。容疑は晴れたわけだし」
「そうですね。ほい、リッキー。これが事件当時の映像よ」
 そんなこんな突然起きた「ASI長官バーソロミュー・ブラッドフォード暗殺」という大事件に、連邦捜査局もASIも政府も、大混乱に陥っていた。
 事件が起きたのは、ラーナーがちょうど病院の待合室に居たとき。随分と長く待たされ、気がつけば居眠りをしていたその間に、ASI本部の長官室でブラッドフォード長官は暗殺されていたのだ。
 犯人は、ラーナーに扮した“誰か”。その正体に辿り着く手掛かりは今のところ一切なく、何も分かっていない。そして殺害に使われた凶器は、イーライ・グリッサムの死刑に使われる予定だったが、脱獄騒動に乗じて持ち去られ、行方不明になっていた薬品の三点セット――意識を奪う全身麻酔のチオペンタールナトリウム、呼吸を止める筋弛緩剤の臭化パンクロニウム、心臓を止めるための塩化カリウム――だと言われていた。
 そしてブラッドフォード長官は全身麻酔で意識を失う直前に、監視カメラに向かって叫ぶように言っていた。
『ラーナー、全てを疑うんだ! 君を狙う刺客は、傍に潜んでいる!』
 ブラッドフォード長官の最期の言葉から察するに、長官は自分を襲った犯人がラーナーでないことを分かっていたようだ。映像を見るラーナーは、ほっと胸を撫で下ろす。しかし同時に、言葉ではうまく言い表せない複雑な感情を煽り立てられていた。
 そんなブラッドフォード長官の遺体は現在、検死局にある。監察医が検死解剖を行っているところだ。そして連邦捜査局の検死官がつけた暫定の死因は、筋弛緩剤による窒息死。塩化カリウムが投与される前に、長官は息絶えていたということらしい。
「そっれにしてもよ、リッキー。あなたと、ブラッドフォード長官の関係って何? 名指しで、なんか忠告されてるけど」
「……」
「リッキー?」
「機密事項です」
「……あっそ」
「ん? ちょっと待てよ、ラーナー。お前、長官から特命でも」
「すみません、ハイドン部長。機密事項です」
 ラーナーは、ガヤの声を適当に受け流す。そんな彼は食い入るような目で、映像の中で力尽きる男の影を見届けていた。
 妻子を持たず、アルストグランに全てを捧げ、果て果てに「穎悟の鷲ワイズ・イーグル」と渾名された英傑の最期が、死刑囚に処される薬殺刑と同じだなんて。これ以上に、屈辱的なことがあるのだろうか? ぐっと拳を握り締めたラーナーは、唇を固く結ぶ。
 アルストグラン秘密情報局長官、バーソロミュー・ブラッドフォード。彼とラーナーが関わった時間は、ごく僅かでしかない。ほんの数回、数えるほどだ。それでも、分かることはある。
 バーソロミュー・ブラッドフォードという男が、どれだけ偉大だったのか。今、各署で起こっている大混乱が、皮肉にもそのことを証明していた。
「……」
 床に倒れた男と、彼を死に至らしめた点滴たちをそのままに、醜い笑みをラーナーによく似た顔に浮かべる犯人は、静かに監視カメラの死角へと消えていく。映像はそこで終わった。
 ラーナーは顔を上げる。するとそのとき、ノエミが短い悲鳴をあげた。トーマス・ベネット特別捜査官も、腰に差していた拳銃を取り出す。
 そしてトーマス・ベネット特別捜査官は、捜査本部にいつの間にか入り込んでいたサングラスの男に、銃口を向けた。
「そこで武器を捨て、両手を上げろ! ……ったく、セキュリティは何をやってるんだ!!」
 ノエミも拳銃を抜き、トーマス・ベネット特別捜査官と同じ対象に銃口を向けた。しかし銃口を向けられているサングラスの男は、あくまで平然と佇んでいる。ラーナーは黙りこくり、息を呑んだ。トラヴィス・ハイドン部長も額に手を当て、あちゃー……と呟いた。
 銃口を向けられている男は、ゆっくりと両手を上げる。そんな男の手から、一封の書簡が落ちた。トラヴィス・ハイドン部長は、男の手から落ちた書簡を拾い上げる。そしてトラヴィス・ハイドン部長は、銃を構える捜査官二人に言った。
「お前たち、銃を下ろせ。失礼だぞ」
「しかし、この男は明らかに怪しッ……――」
「特務機関WACEのお人だ。神出鬼没のサー・アーサー。名前ぐらい、聞いたことはあるだろう?」
 捜査官二人はゆっくりと銃を下ろす。ラーナーの体は緊張から、ガクガクブルブルと震え始めていた。
 そして男――特務機関WACEの長、上官サーアーサー――は手を下ろしながら、着けていたサングラスを静かに外す。サングラスの下、両瞼は閉ざされていた。
「サー・アーサー……って、バルロッツィ高位技師官僚が言ってたあの人?」
 ノエミは首を傾げる。
「聞いたこともないな」
 トーマス・ベネット特別捜査官も、首を傾げた。トラヴィス・ハイドン部長は呆れたように溜息を吐く。
「おいおい、待ってくれ。お前たち、本当に知らないのか?」
 サングラスを外したアーサーの顔を初めて見るラーナーは、大きな黒い目を点にしていた。
 ラーナーは今この瞬間まで“アーサー”という人物のことを、こう思っていた。ゴツいサングラスを常に着用した、何を考えているのか分からない男だ、と。だがその認識がたった今、崩れた。
「……あ、あ、アーサー……」
 アーサーの瞼が開く。厳ついサングラスからは想像もつかなかった、温厚そうな目を彼はしていた。しかしラーナーが覚えていたのは、背筋が凍えるような寒気。未知の存在を前にした恐怖を、感じていた。
「それで、アーサー殿。この度のご用件は?」
「その書簡に書かれている通りだ。バーソロミュー・ブラッドフォードの遺言に従い、トラヴィス・ハイドン、君を長官代行に任命する」
「……私が、長官代行?」
 サー・アーサー。サングラスの下に隠れていた彼の蒼い瞳には、瞳孔が無かった。白い眼球の中には、青白く光る虹彩だけ。その眼球に、黒い点は空いていなかった。
 そしてアーサーは言う。
「ブラッドフォードを殺害したのは、副長官のエズラ・ホフマン。イーライ・グリッサムの脱獄を幇助したのも、あの男だ。別視点のカメラから犯行を捉えた映像を見せよう。ルーカン、例のを出せ」
 するとトーマス・ベネット特別捜査官が持つタブレット端末が、ひとりでに動き出す。アイリーンが遠隔操作でもしているのだろう。そして端末の液晶画面に、別視点から長官室を撮った映像が映し出された。
 トーマス・ベネット特別捜査官は映像を見る。それからトラヴィス・ハイドン部長に同じものを見せ、尋ねた。
「この男、ホフマン副長官だよな……?」
 トラヴィス・ハイドン部長は無言で首を縦に振り、頷く。続けてノエミが言った。
「あの映像のリッキーと、副長官は全く同じ動作をしてる。なのにどうして、別人に見えるの? それに、どっちが本物の映像なの?」
 するとアーサーは、フッと小さく笑う。
「どちらが本物であるか。それを証明するものは、どこにもないだろう」
「……」
「君たち連邦捜査局が入手した映像は、ASIが管理する正式な監視カメラのもの。しかしASIは、エズラ・ホフマンの管理下にあるような組織だ。改竄が行われている可能性がある。だが私たち特務機関WACEが独自のルートで入手したものも、私たちが手を加えている可能性がある」
「なら映像を科学捜査班に回して、手を加えられた痕跡があるかどうかを調べさせれば」
「多分、それは無駄ですよ。きっとどちらの映像にも、あなたが言うところの痕跡は見つからないでしょう。このテのプロは、痕跡を一切残しませんから」
 ノエミの言葉を、ラーナーは途中で遮る。するとノエミは不機嫌そうに口を窄ませ、黙った。そしてラーナーは続けて言う。
「この場合、重要なのはどちらの証拠を信じるかです。信じれば、その証拠は真実になります。本物かどうかの判断は、後世の者に委ねればいいことです」
「法学部卒で弁護士免許を持ってる人間とは思えない発言じゃないの、リッキー……」
 眉間にしわを寄せるノエミは、訝るようにラーナーを見る。対するラーナーは、笑顔で言った。
「弁護士だからですよ」
 困ったように米神を拳でぐりぐりと押すトーマス・ベネット特別捜査官は、唸り声を上げる。そして彼はトラヴィス・ハイドン部長とアーサーを交互に見ると、低い声で言った。
「……この件、一度上に持ち帰る。俺の手には、とてもじゃないが負えないよ……」
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