EQPのセオリー

過去となりて

 家の玄関前に立つ男に、その女性は不機嫌そうな声で言う。
「約二〇年ぶりに、長らく音信不通で行方知れずになっていた弟から連絡が来たかと思えば、一体全体なんなのよ。唐突に『すみません』だぁ? どのツラ下げて、ここに来たのよ」
 訝るように三日月眉を吊り上げたミランダ・ジェーンは、目の前でにこにこと笑っている童顔で低身長の男――彼女の実の弟であるパトリック・ラーナー――を威圧する。
「どういうつもりなのかしら。勿論、説明してくれるわよね?」
 彼女の愛すべき夫と娘たちは、とあるロックバンドのライブを観に出かけているため、今は不在。現在、家に居るのはミランダ・ジェーンと、飼い犬であるドーベルマンのラッキーだけ。だからこそ彼女は気兼ねすることなく、弟にこうして嫌味をぶちまけていた。
 二〇年分の怒りと憎しみ、心配と焦燥と不安のその全てを込めて。おまけにラッキーも、初めて見るパトリック・ラーナーという人物に警戒心を示し、ガルルルルッ……と唸り声をあげていた。
「はぁ。どうやら私は、姉にも犬にも嫌われてるようですね」
「パトリック、話を逸らさないで」
「すみません。つい、仕事のくせが……」
 これといって反省の意を示す様子がない弟を前に、ミランダ・ジェーンは舌打ちをした。もう我慢できない。彼女がそう呟くと、弟の顔には初めて焦りの色が浮かぶ。
 長男のマイケル、次男のモーガン、三女のミランダ、四男のスペンサー、末子のパトリック。五人兄弟の中でも絶対にミランダだけは怒らせてはいけないという、ラーナー兄弟の中にあった暗黙の了解を、たった今パトリックは思い出したようだ。
「それで、お仕事っていうのは何をしているのかしら」
 コン、コン、コン。場のペースを支配するように、ミランダ・ジェーンが履くパンプスの爪先が床を叩き、音を鳴らす。パトリック・ラーナーは米神をぽりぽりと掻くと、にこやかな笑みを苦笑いに変える。そして彼は渋々、白状した。
「……政府に仕えるお仕事、ってとこでしょうか」
「へぇ、たとえば? お役所の公務員かしら。でもたかが公務員だったら、わざわざ姿を晦ます必要はないわよねぇ? 捜索願を警察に出しても、適当に濁されて受理されなかったりとか、そんなことにはならない筈よね?」
「あの、その……」
「なぁに? 家族には恥ずかしくて言えない仕事なの?」
「……あんまり大きな声で言えないんですよ。察してくださいって」
「えー、なぁーにぃー? 聞こえなーいんですけどー?」
「あっ、連邦捜査局です!! 特別捜査官として、この国に尽くしッ」
「あら、そうなの? 本当に?」
「疑うんですか」
「当然でしょ。本当にあなたが連邦捜査局の特別捜査官なら、胸を張って家族の前に出れるわよね? なのにあなたときたら、二〇年近く音信不通。信じられるわけないでしょ。本当は何をやってるの」
「……」
「パトリック」
「……えっとですね、ちょっと複雑な事情が」
「パトリック?」
「あの、その、えっとー」
「言いなさい」
「あの、本当ですよ? 連邦捜査局には、本当に勤めていたんですから。信じて下さいって」
「言え。本当のことを、言いなさい」
「以前は、連邦捜査局に居たんです。けど引き抜かれて、今はアルストグラン秘密情報局に勤務しています。えっと、まあ、その……――アルストグラン内外に出向いて、細々とした諍いの調停役まがいのことを、やってるわけでして」
「ASIね、なるほど。やっと納得できたわ」
 仁王立ちの体勢で腕を組み、上からパトリック・ラーナーを見下ろすミランダ・ジェーンの眼差しは、冷めきっていた。
 薄々そんな気はしてたのよ。彼女はそう呟くが、その声には感情が籠っていなかった。どこまでもドライで、一切の信用を抱いていない。赤の他人からそのような視線を注がれることには慣れているパトリック・ラーナーであったが、流石に身内からこのような目で見られることには慣れていなかった。
「信じてない、って感じですか」
「そりゃそうよ。なら聞くけど、連邦捜査局に居たって言うなら手柄のひとつくらい立ててるんでしょう? だったら、証拠を示して」
 彼の鋼鉄のハートにミランダ・ジェーンの視線がぶつかり、視線は心に大きくて深いクレーターを残す。その日、初めて笑顔以外の表情を見せたパトリック・ラーナーは、肩を落としてみせた。
「言ったって、どうせ信じやしないでしょ」
「分からないわよ?」
「……イーライ・グリッサム。あれを逮捕したのは、私です。あと……」
「嘘ね。ヘレン・ガードナーの回顧録を読んだわ。イーライ・グリッサムを逮捕したのは、パトリシア・ヴェラスケス捜査官でしょう」
「ヘレン・ガードナー、あのババァは大嘘吐きですよ。一番弟子であるカルロ・サントスがあげた手柄を横取りして、私から名誉を奪い取ったんです。だって、私以外にあんな芸当を出来る人間なんかいると思います? 子供に化けて、自ら誘拐されに行くって」
「えっ、まさか、パトリック。あなた、本当に……?」
「本当ですよ。あと一歩のとこで、本当に危なかったんですから。それ以外にも、私が逮捕した殺人鬼はいます。日本人女性だけを狙い、犯行に及んだカニバリズムのドミトリー・クレスチヤニノフ。彼が言うには、男に比べると女は肉が柔らかくて、そして肉・野菜・魚をバランスよく食べる日本人ってのは一番おいしいんですって。肉ばかり食べる西洋人は臭く、チーズべとべとでハイカロリーのものばかりを好むアルフテニアランド人はまずくて食べれたもんじゃない、そうです。アジア人は食ったことが無いから分からないと言ってました」
「……おぞましい」
「あと、ペドフィリアのジークリット・コルヴィッツ。十二歳に満たない少年だけを狙った女ですね」
「ええ、知ってるわ。イカれ野郎よね」
「そのイカれ野郎、実は私の元彼女です」
「は? ……えぇっ!?」
「私から別れを切り出した直後に凶暴化し、あんなことになったんです。彼女を逮捕したのも私です。それ以外にも、ここ十数年で少年に手を出し捕まった女性のペドフィリアは、大体というか、ほぼ全員が私の元交際相手でした」
「うそ……。あなた、どういう女性と出会ってきたのよ?」
「同僚にもよく言われます。全員、はじめは良い人だと思ったんですけどね。本性を知ったときには時すでに遅し、って感じで。だからもう怖くて、結婚なんか考えられませんよ。それと他にも、身長一八五センチ前後でロングヘアーな黒人女性だけを狙ったネクロフィリアのアントニー・ストラウスに、金髪碧眼の小柄な女性だけを狙ったシリアルキラーのデイヴィット・ポートマン、痴呆の老人をターゲットに死の天使を気取ったリュウ 美帆メイファン、それに……」
「どれも有名な犯罪者じゃない。えっ、待って。本当にあなたが、逮捕したの?」
「そうですよ。なんなら連邦捜査局に居る人間に訊いてみるといい。私、これでも伝説になってるんですから」
 えっへん。胸を張るパトリック・ラーナーは、再びの笑顔を見せる。その笑顔を見たミランダ・ジェーンは呆れたように溜息を吐く。それから彼女はカメラを取り出すと、その笑顔をパシャリと撮影した。するとパトリック・ラーナーの表情が歪んだ。
「ちょっ、姉さん。なに撮ってるんですか!」
「親不孝者のどうしようもない弟が、ちゃんと生きてましたよーっていう証拠。あとで実家に居る父さんと母さんに送る。これで少しは、安心させられるわ。まあ? 一番は本人が実家に出向くことなんですけどねぇ?」
「勝手なことをしないで下さいって! 上層部は、こういうことに厳しいんですから!」
「知らないわよ、そんなの。老い先短い両親を安心させることのほうが大事だわ」
「本当に、やめてください! ちゃんとデータ消してくださいって!」
「あなたが両親、それと他の兄弟たちにちゃーんと顔を見せるって約束するなら、消してあげなくもないわ」
「無理です。ちょっとスケジュールが詰め詰めで。近場に住んでた姉さんになら、最後に会えるかと思って来たんですから」
「あっそう。なら、このデータは消さないわ。写真は私から両親に、それとマイケルとモーガン、スペンサーに送らせていただきますから」
 パトリック・ラーナーはミランダ・ジェーンからカメラを奪い取ろうとするが、ミランダ・ジェーンは渡すまいとカメラを高い位置に上げた。
 身長差が約三〇センチメートルほどある姉と弟。他よりやや長身である姉がひとたび腕を上げてしまえば、他よりも圧倒的に低身長である弟がどれだけ飛び跳ねようと、手が届かなくなってしまう。仕方無いと諦めたパトリック・ラーナーはカメラを睨むと、腕を組み、そして俯く。彼は呟くように言った。
「……両親と兄たちには、よろしく言っておいて下さい」
「本当に、会わないわけ?」
「会えないんです。会ってはいけないと、上から指示が出たんで」
「ASIで、そんなに危ない仕事をしてるの?」
「……」
「パトリック?」
「探偵を雇って、私を探そうだなんて馬鹿な真似は、考えないで下さいね。知ってるんですから。あなたの教え子アレクサンダー・コルトの父親、人探し専門の探偵であるダグラス・コルトに、私を探させようとしてたこと」
「なんでもお見通し、ってわけね。……そのアレックスちゃんも事故で亡くなった今、あのお父様も探偵業を畳まれたって聞いてるし。それにこうして本人が来てくれたから、もう頼む必要もないけど」
「一応、言っておきますけど。私、あの探偵にすごく嫌われてるんです。だから頼んだところでどうせ、引き受けてもらえないと思いますよ」
「パトリック。あなた、何をしたの?」
「まぁ、色々と。……ダグラスさん。あの人はきっと、私の所為で自分の娘が死んだと思っているでしょうし」
「パトリック?」
 パトリック・ラーナーは口を噤み、似つかわしくない淋しげな表情を浮かべる。ただならぬものを察し取ったミランダ・ジェーンも、黙りこんでしまった。
「……本当に、すみませんでした。昔は連邦捜査局で偉くなってから、胸を張って家族の前に戻ろうって思ってたんですけどね。いつからか道を踏み間違えてしまったみたいで、もと居た暖かな陽の当たる場所に戻ることが許されなくなったんです。大正義に尽くしていたつもりだったのに、気がつけば誰かが犯した悪事の尻拭いに追われる毎日で、本当に嫌になりますよ」
「……」
「私がヒトでなくなる前に、最後に姉さんに会えて良かったです。もっと拒絶されるかと思ってましたけど、その……」
 物悲しげな笑みを浮かべて見せた弟の、その大きな目に、きらりと光る何かが見えた。そしてミランダ・ジェーンが、胸に引っ掛かった言葉に首を傾げる。
「……最後?」
 そのときだった。ミランダ・ジェーンに向かって、一際強い風が吹く。立っているのもやっとという強い風を前に、目を開けていられるわけがない。ミランダ・ジェーンはほんの一瞬だけ、瞼を閉ざす。そして次に瞼を開いたとき、風は収まり、玄関前にあった弟の姿は消えていた。
「どこに行ったの、パトリック? ……また、姿を晦ましたってわけか」
 すると、ミランダ・ジェーンの後ろで伏せをして待っていたラッキーが、低い声でばうばうと吠えた。そんなラッキーの視線は、玄関前に置かれていた段ボール箱を見ている。
「箱? さっきまで無かったはずよね。一体、どうして」
 弟の、置き土産なのだろうか。ミランダ・ジェーンは恐る恐る段ボール箱に近付くと、そっと封を開ける。そして中に入っていたものを見るなり、顔を強張らせた。
「……これは、アレックスちゃんの……!?」
 段ボール箱の中に畳まれて入っていたのは、見覚えのある赤いレザージャケットだった。綺麗に手入れされた年代物のジャケットは、持ち主の几帳面な性格をよく表していた。
 そして段ボール箱の底には、メモ紙が添えられていた。
「……アレクサンダーのお父様に渡しておいてほしい、ねぇ。今も昔も、パトリックは人を使うのが上手いんだから」
 ミランダ・ジェーンはメモ紙を取り出すと、箱の中に赤いレザージャケットを戻す。それから段ボール箱を閉めると、外に出かける支度を始める。外行きの服を選びながら、昔アレクサンダーから貰ったダサい名刺を取り出すと、ミランダ・ジェーンはコミックサンズ体で書かれた電話番号に連絡した。
「アレクサンダーのお父様、ダグラス・コルトさんで間違いないでしょうか? ……いえ、依頼ではないんです。実はうちに、あなた宛ての荷物が届いてまして。……ああ、私はミランダ・ジェーンです。アレクサンダーが通っていた学校でラテン語の教師をやっている者です。……ええ、はい。本当ですか? 分かりました、今すぐそちらに向かいますね。はい、宜しくお願いします」





 次に目を覚ましたとき、アレクサンダーに与えられたのは新たな名前と新しい人生だった。それと同時に、全ての過去は抹消された。アレクサンダー・コルトという人物が居たという記録も、彼女が戻るべき場所も、何もかも。
 アイリーン・フィールドから聞いた話によれば、アレクサンダーは悲劇的な事故に巻き込まれて死んだことになっているらしい。しかし遺体は見つからず、手掛かりは何もなく、事件はコールドケース扱いになったそうだ。
 その後、両親は離婚。娘の死を散々嘆き悲しんだあと、死を受け入れ前に進んだ母は新しいフィアンセを見つけ、今は平穏な生活を送っているのだという。けれども父はひとり寂しく、郊外に暮らしているらしい。探偵業も畳み、パパラッチも辞め、隠者のような生活をしているそうだ。
 そしてニールは無事にハイスクールを卒業したのち、特別捜査官育成アカデミーの研修に参加したそうだ。彼は意外な才能を開花させ、アカデミーでの成績は常に上位を競っていると聞く。あのパトリック・ラーナーが見込んだ期待の新人として、既に上層部から目をかけられているそうだ。特にシドニー支部局局長に、気に入られているという話だ。
「影の世界に生きる気分はどうです? 慣れてきましたか」
「……いいや、まだ慣れないさ。きっと、この先も慣れることはないと思う」
「初めのうちは、誰しもそう思うんですよ。けど気がついた頃には闇にどっぷり浸かってしまっていて、光に怯えるようになるんです」
 蒼白い光が仄かに照らす薄暗闇の中、かつてアレクサンダーと呼ばれていた彼女はアサルトライフ――「コルト・コマンドー」と呼ばれるシリーズの小銃――の手入れをしていた。
「その中でも私は、アバロセレンの蒼白い光が一番嫌いです。全ての摂理を捻じ曲げ、様々な災いを引き起こす、悪魔の光が」
 パトリック・ラーナーはそう言いながら、淹れたての紅茶をアレクサンダーの前にそっと置く。ありがとうございます、と軽く会釈をすると、彼女は苦笑した。というのもアレクサンダーは、紅茶があまり好きではなかったのだ。
 するとそこに、アイリーン・フィールドがぴょんぴょんと飛び跳ねながらやってくる。彼女は「淹れてくれたのね、さんきゅー」と呟くと、アレクサンダーにと差し出された紅茶を横取りした。
「アバロセレン。あれの正体を分かっている者は、ひとりも居ない。そもそもあれが物質なのかすら、まだ分かってないんですから。原子核をもたない物質なんて、意味が分からないでしょ? 本当に、謎が多い」
 パトリック・ラーナーは、アイリーン・フィールドを冷めた目で見つめながら、そんなことを言う。アイリーン・フィールドは彼の視線を無視し、言った。
「アバロセレンがどこから湧いて出てきたのかも、秘匿されてるしねー。それにペルモンド・バルロッツィすら分からないって言ってるんだから、もう本当にアバロセレンは意味不明。けど、そんなワケ分かんない物質を使おうとする人間たちも、同じくらい意味不明だよねーん。マジ狂気。だってアバロセレンが生み出すエネルギーに対して、それを使うことにより発生するリスクの大きさって、とてもじゃないけど……」
「けれども、市場原理なんてそんなもんですからね。人間ってのはクズで、ゴキブリ以下の存在で、貪欲で愚かですから。百年後の未来に受け継いでほしい美しい自然よりも、目先の利益を優先するんです。そんな横暴の極みである市場原理にストップを掛けるのが、行政の仕事なんですがー……」
「その行政が、率先して利益優先・人命軽視・環境破壊っていうスタンスを取ってるからねー、ねー」
 人間なんか、滅びちゃえばいいのに。アイリーン・フィールドは何気なく、不穏な言葉を呟く。パトリック・ラーナーは無言で頷いた。アレクサンダーはアサルトライフルを分解しながら、そんな二人の様子を見ていた。
「……あの、お二人ってすごく仲が良いですよね」
「えっ、やっぱりそう思う?」
「私は大嫌いですけどね、こんなヤツ」
「同世代なんですか?」
「いいえ、このアイリーン・フィールドのほうが圧倒的に年上ですよ」
「そーよ。パトリックは年下」
「ちなみに、どれくらい……」
「私が四十で、それに対しこのアイリーンはざっと六じゅ……」
「レディーの年齢は言わないのー!」
「ババァの間違いじゃないのか?」
「あー! 言ったな、パトリック! そう言うパトリックだって、十分オッサンじゃないか!」
「そうですけど。見た目は、十五歳ですが」
「…………」
「……」




* * *






「随分と遅かったじゃないの、アーチャー。どこで油を売っていたの?」
 ひとり局長室に呼び出されたニール・アーチャー特別捜査官は、黒革の椅子に足を組んで座る、連邦捜査局シドニー支局長ノエミ・セディージョを前に畏まる。
「すみません、局長。被害者家族の聴取で、色々と。子供の両親が、俺にしか話さないと……」
 紺色の背広の襟を正し、緩めていた横縞のネクタイを締め直すと、ニール・アーチャーは申し訳なさそうな表情を浮かべて米神を掻いた。
「ああ、例の誘拐事件ね。進展はどうなってるのかしら」
「監視カメラに映っていた犯人の人相から、身元が判明したところです。性犯罪の前科がありました。郊外で火葬場を営む男、バージル・エディントン、四十八歳。しょ……――」
「あーっと、仕事熱心なのは分かったわ。流石、リッキーが見込んだ捜査官なだけはあるわね」
「リッキー、というと……――パトリック・ラーナーですか?」
「ええ。私は彼と同期でね。彼は本当に、凄かったのよ。というよりも彼と私と、とある精神科医のトリオが凄かったの。……それで、今回あなたを呼び出したのにはワケがあってね」
 フフッと笑う局長は、閉じられていた扉に向かって「入ってちょうだい」と言う。ドアノブががちゃりと捻られ、扉が開く。そこから入ってきた人物を見るなり、ニール・アーチャーは自分の目を疑った。
「紹介するわ。彼女は特務機関WACEから派遣されたアレクサンドラ・コールドウェル氏よ」
 入ってきたのは、黒い背広をびっしりと着こなし、真黒なサングラスを掛けた、ブロンドの女性だった。ブロンドの長い髪には、強いカールが掛かっている。そして左頬には、ライオンの大きな前足の爪で引っ掻かれたような古傷が刻まれていた。
 間違いない。この女は、あいつだ。ニール・アーチャーはそう確信し、彼女の顔色を窺い見る。だが当の彼女は白を切っているのか、何なのか。初対面の相手にするような素っ気ない挨拶を、ニール・アーチャーにしてきた。
「初めまして、アーチャー特別捜査官。WACEより参りました、アレクサンドラ・コールドウェルです。以後、宜しくお願いします」
「そういうわけだから、アーチャー。あなたは今後、彼女と行動してもらうことになるわよ。つまり、仲介役ってこと。連邦捜査局とWACEを繋ぐ、パイプってところかしら」
 アレクサンドラ・コールドウェル。そう名乗った彼女は、ニール・アーチャーに握手を求めてきた。ニール・アーチャーは警戒しながらも、彼女と握手を交わす。すると真っ赤な唇に笑みを湛えた彼女は、強い力でぎゅっとニール・アーチャーの手を握った。
「あの……――前に、どこかで会いました?」
「いえ。そんなことはないと、思いますけど」
 ふざけんなよ、バーカ! そんな怒りを込めて鎌を掛けたニール・アーチャーだったが、彼女はとぼけた顔で鎌を跳ね退ける。だが握られている手の力は、その強さを増すばかり。
 余計なことを言うんじゃねぇ、クソ野郎。そんな無言の圧を、ニール・アーチャーは感じ取った。
「あぁ、そうですか。気の所為かな……」
 ニール・アーチャーはそう言うと、握られていた手を振り払う。そして局長のほうに向いた。
「セディージョ局長。彼女と二人きりで話したいので、その……廊下に出ても?」
「ええ、構わないわ」
 それでは、失礼します。ニール・アーチャーは局長に頭を軽く下げると、彼女の腕を引っ張り、廊下に出る。
 局長室の扉を閉め、人がまず入らない別室に彼女を誘導すると、ニール・アーチャーは開口一番に怒鳴り声を上げた。
「どういうことだ、アレクサンダー! 色んな人が、どれだけお前のことを心配したことか……!!」
「七年前の話だろ? それに今のアタシは」
「アレクサンドラ・コールドウェルだろ? ったく、ふざけた名前だな。そうだろ、“パロミデス”卿」
「……そこまで知ってるとは。ちょっとアンタのことを、見くびってたかもしれないね」
 サングラスを外したアレクサンドラ・コールドウェル、改めアレクサンダー・コルトは、その下に隠れていた緑色の三白眼を露わにする。品定めをするようにニール・アーチャーを見つめるその眼には、かつてのアレクサンダーにあったはずの正義感は見えなかった。
 鋭い眼光に隠されているのは、世間擦れしたような狡猾な牙。パトリック・ラーナーが持っていた老獪さに、その眼光はよく似ていた。
「WACEが何の略称なのか、それは知らん。だが所属する隊員たちには円卓の騎士になぞらえたコードネームが与えられてるんだろ? お前が“パロミデス”、ラーナーが“ディナダン”。そしてお前達が上官サーと呼んでいる男はアーサー」
「……」
「そして“ディナダン”であるパトリック・ラーナーと、“ルーカン”であるアイリーン・フィールド以外は、全員が死人だ。死人というか、死んだことにされた人間たち。そうなんだろ。“ケイ”と呼ばれている男は、六十年前に交通事故で死んだことになってる。“アーサー”なんて、アルフテニアランドの悲劇で……」
「それ以上は、言わないほうがいい」
 アレクサンダーは緑色の鋭い目で、ニール・アーチャーを睨む。ニール・アーチャーは仕方なく口を噤み、目線を下に向けて俯いた。
「……」
 アレクサンダーに殴り掛りたい衝動を抑えるニール・アーチャーは、強く握りしめた拳をぷるぷると震わせていた。
 言いたいことは、山ほどあった。この七年間、ニール・アーチャーは目の前に居る女が死んだものだとばかり思っていたからだ。
 彼女が失踪した現場には、彼女の血が残されていた。死んでいたとしてもおかしくないほどの、出血量だった。薬莢があたりに散らばっていたし、銃で撃たれたのだろうということも分かっていた。そう、アレクサンダーはあの時に死んでいたはずなのだ。
 それなのに。
「……どうしてお前は、俺の前に現れた」
「上からの、命令だ」
「……どうしてお前は、お前は……!!」
 あの日からニール・アーチャーは、自分の記憶から彼女を消し去ろうと努力した。パトリック・ラーナーが用意したレールの上を無心で歩みながら、過去を切り捨て、新しい自分に生まれ変わろうと努力した。アレクサンダーへの思いはすっぱりと棄てたのだ。
 今のニール・アーチャーには、シンシアという婚約者がいる。黒髪ワンレンロングで、笑顔がとても可愛らしい、純真無垢な女性だ。それに今のニール・アーチャーは、馬鹿な学生じゃない。連邦捜査局の、特別捜査官であるニール・アーチャーだ。
 それなのにニール・アーチャーの前には、過去が居た。遠ざけ、消し去ったはずの過去が、目の前に立っていた。
「ニール。あんた、随分と変わったね」
「……」
「同じ環境で育ったはずだってのに。今のアタシとアンタは、まるで立場が違う。ホント、綺麗に分かれちまったね。陰と、陽に」
 そう呟いたアレクサンダーは、言葉の最後に鼻で笑う。ニール・アーチャーは彼女に背を向けると、愛想なく言った。
「アレクサンドラ・コールドウェル」
「……」
「……とりあえず、宜しくな」
「……おう」

《完》
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