EQPのセオリー

14

「……少年が異母姉を“ママ”と人前で呼ぶようにしていたのは、姉が少年にそう言っていたから。親子のふりをしていたほうが周囲に溶け込みやすく、厄介な父親に見つけられることも避けられたから、か。それにしても、あの子は本当に五歳児なのか? あの落ち着きぶりといい、冷静さといい、しっかりとした受け答えといい、なんといい……。スラム街という不衛生な環境のなか、暴力親父という機能不全家族で育った子だとは、とても思えん。あの子は将来、とんでもない怪物になるんじゃないのか……?」
「どうかしたんですか、ドクター」
 アレクサンダーは疲れ切った顔で笑みを取り繕うと、紙の束を前に独り言をぶつぶつと連ねるカルロ・サントス医師に、インスタントの不味いコーヒーを差し出す。いつもすまないね。カルロ・サントス医師はそう言うと、コーヒーを一口だけ口に含む。それを飲み込むと、彼は唐突に意見を求めてきた。
「アレクサンダーくん。君は昨日のあの少年の話を聞いて、どう思った?」
「どうって、どういうことです?」
 何について、意見を求められているのか。アレクサンダーにはそこが分からず、答えようがないと苦笑う。
 ……もしや人体から電気が放出されたとかいう、アレについてか?
 そんなこんなアレクサンダーが戸惑っていると、カルロ・サントス医師は一度咳き込む。すまない、主語が無かった。そう言うと彼は、その“主語”とやらを話し始めた。
「ラーナーはやたらと、ペルモンド・バルロッツィという人物に固執している。彼を絶対悪だと決めつけ、刑務所にぶち込みたがっているが……――私にはペルモンド・バルロッツィという人物が悪人だとは、とてもじゃないが思えんのだ」
「……えっと、その、つまり?」
 なんだ、そっちか。
「ペルモンド・バルロッツィ。彼はまるで、コミックに出てきそうなダーティーヒーロー、慈悲なき私刑執行人パニッシャーだ。己の内に凶暴な獣を飼い、陽の光が射さない影の世界で、誰に知られることもなく跳梁跋扈する悪党どもを容赦なく惨殺し、気まぐれで弱き者を救う……――。実際にそんなコミックがあったら、バカ売れしてるだろう」
「決して人は殺さないけれども、童顔で低身長で口が悪く、やり方がとにかく汚い、超一流のインテリジェンスが活躍するコミックよりも?」
「君も、なかなか皮肉の利いたことを言うね」
 パニッシャーVSインテリジェンス、そんなコミックも悪くないかもしれん。カルロ・サントス医師はそう言って笑う。そしてアレクサンダーは、コミック調のスタイリッシュな絵柄で描かれた二人の男が、互いに銃口を向け合うシーンを思い浮かべた。
 もし、早撃ち対決になったとしたら。パニッシャーとインテリジェンス、そのどちらか勝つのだろうか。そんなこと、考えなくても分かる。間違いなく人を撃つことに躊躇いのないパニッシャーが、つまりペルモンド・バルロッツィが勝つだろう。
「彼はまさに、典型的な解離の患者だ。解離性障害の患者の多くは、自己犠牲的な優しさを持っている人物であることが多い。端的に言うと、“良いやつ”というのが多いんだ。彼らは誰よりも優しいからこそ自己否定に陥りやすく、自分を否定し、自分を壊して分割し、別の自分を作ってしまうんだ。時にそれは理想とする自分に近い姿であったり、重圧から逃れたいが為に無責任な振舞いをしてみせる人格であったり、他者から求められた姿をそのまま演じる偽りの自己であったり、限りなく本能に近い凶暴な野性であったり……」
「……」
「これはあくまで私の推測でしかないが、彼の主人格はきっと“良いやつ”だ」
「良いやつ、ですか……」
「彼の妻の手帳に、このような記述があった。『彼は場所によって性格を、態度を、まるで別人であるかのように変える。外では、口が悪いが社交的で明るい人物を装う。何故なら、その人格のほうが周囲に溶け込みやすいから。職場では、傍若無人で、やたら自信に満ちていて、威風堂々としている上司の姿を演じる。何故なら職場の人間たちが、特に部下たちが、彼にそうであることを求めているから。けれども、“決して本当の自分ではない、誰かさん”を演じることに疲れてくると、彼は全ての情報をシャットアウトし始める。そういうときは本当に誰とも喋らず、誰とも目を合わず、数字と文字だけの感情も意識も無い世界に籠ってしまう。そうなると彼は食べ物を前に置いても見向きもしないし、水すらも飲まなくなるため、点滴を打ってやるしかなくなる。その時の彼は、まるで人形だ』、『そして私の前でだけ、彼は素の自分を見せてくれた。どこまでもネガティヴで、非社交的で自信が無くて、常に死んでしまいたい、消えてしまいたいと願っている、気配りが上手な紳士という姿を。……彼は私のことを、少しは信頼してくれているようだ』。彼女は、彼が持つ凶暴な人格を把握していなかったようだが……」
「時には過剰なまでの同調により自己を消し、時には外界から入る全てを遮断して無になることによって、彼はどうにか生きのびてきたってことですか。それで何かしらトリガーを引かれるようなことが起きたときだけ、凶暴な交代人格に変わり、ラーナー次長が言っていたような“血に飢えた、餓狼のような彼”が出現する、と」
「そういうことだろう。彼の中には凶暴な交代人格が潜んでおり、その人格はたしかに危険だ。その人格は、封じ込めるか消す必要がある。だが、それはあくまで彼の交代人格のはなしだ。彼の妻の手帳を読んだ限りでは、主人格に凶暴性は無いとみられる。……それでもペルモンド・バルロッツィという男のことを、君は絶対悪だと思えるか?」
 カルロ・サントス医師はまっすぐな目で、アレクサンダーを見る。だがアレクサンダーは、その問いに答えるための意見を持ち合わせていなかった。
「とはいえ、答えてくれなくても構わない。答えは始めから求めていないからね。……それにラーナーと違い、病者本人と会ったこともない私に、言えることは限られている。その餓狼とやらを目の当たりにすれば、私の見解も変わるかもしれない。紛い物ではないというその真性の狂気に触れ、最凶の大天才と呼ばれた男の心を覗いて見てみたい気もするが……――」
「えっ……?」
「哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマーは言っていた。問いというのは、答えが定まらず未解決な状態で宙ぶらりんになっているからこそ、真の問いとなり、初めてその意味を完成させると。ガダマーの『真理と方法』は一度目を通しておくといい。彼の哲学的解釈学は“対話”が重要となる解離の患者と向き合うときに、実に役に立つぞ」





 その翌日、学校にて。物理の授業に向かう廊下の途中で、教科書を抱えたアレクサンダーはふと立ち止まる。後ろから、彼女を呼ぶ声が聞こえてきたからだ。
「アレックス、どうして私を避けてるの」
 聞こえてきた声は、ユニのものだった。けれどもアレクサンダーは、振り返れなかった。アレクサンダーは止めた歩みを再開する。すると後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。
 その数秒後にはアレクサンダーの行く道を妨害するように、ユニが立ち塞がる。アレクサンダーは仕方なく、また歩みを止めた。
「……どいてくれないか」
「嫌よ。せめて理由を聞かせて。どうして私を避けるの。私が、あなたに何かした?」
 アレクサンダーは目を伏せ、口を噤み、問いに答えるという行為を放棄する。ユニはアレクサンダーを激しく責めて立て、アレクサンダーの口から何かひとつでも言葉を得ようとするが、アレクサンダーは視線を逸らすだけ。
 そんなアレクサンダーの視界には、ひとりのコンピューター技術の女性教員――パトリック・ラーナーが“ルーカン”と呼んでいた女性――が映っていた。派手な緑色のウェリントン眼鏡を掛けた“ルーカン”は、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように走りながら、近付いて来ている。
 助け船が来てくれた、のか? アレクサンダーは淡い期待を抱いた。けれども期待は、ユニにより一瞬にしてぶった斬られる。ユニは近付いてきた“ルーカン”にキツい眼差しを向けると、ヒステリックな声で叫んだ。「こっちに来ないで!」
「ふぇぁ?! い、いや、えっ、ど、どうしたのかな?」
「エリザベス・テイラーは偽名。あなたは“ルーカン”ことアイリーン・フィールド、そうなんでしょ!! 二十五年前、アルストグラン秘密情報局のサーバーに侵入し、逮捕されていた。けどこうして表の世界に出てるってことは、あなたを逮捕したASIと取引でもしたんでしょ? 捜査への協力、それとも入局? どっちだって構いやしないけど、でも私に関わらないで!」
「い、いや、でも、ほらぁー……この学校の教員だしぃ、生徒に関わるなっていうのはちょっとー……」
 あからさまに狼狽えてみせる“ルーカン”は、少しズレた眼鏡を直しながら、アレクサンダーに無言の圧を送ってきた。早く、君はどっか行きなよ! そんな意図を察したアレクサンダーは気配を消し、そろーりそろり……とその場を去ろうとした。
 ……のだが。
「アレックス、あなたの答えをまだ聞いていないわ。どこに行くつもりなの!」
 ユニに、止められてしまった。
「……」
 幸か、不幸か。アレクサンダーとユニ、そして“ルーカン”以外には、近くに人らしき影も見えない。ユニはそれもあってか、大声で捲し立てている。威嚇し、牽制していた。
「最近あなたの周りを、あの男がうろついていることは知っているわ。アレックス。あなたは、あの男に何を吹きこまれたの!?」
「……」
「黙ってないで、何か言ったらどうなの?!」
「何も、吹きこまれちゃいないさ。それに、あの男ってのはどの男のことだい」
「すっとぼけないで。ラーナーよ。ラーナーが、あなたのバイト先にしょっちゅう足を運んでることも知ってるわ。それに、カルロ・サントスっていう精神科部長とは大学の同窓生で、二人して私の双子の片割れを!」
「……ああ、そうさ。アタシゃたしかに、ASIの次長さんと最近よく会ってるよ。でも、だからどうした」
 アレクサンダーのその言葉を聞いた途端、ユニの顔には怒りという感情が出てきた。けれどもアレクサンダーは顔色ひとつ変えることなく、そして視線を一切合わせることなく、言葉を続ける。答えではない嘘を、口から出した。
「アタシと、次長さんの関係は大したもんじゃないよ。ニールがどうしてるか、毎度それを訊かれるだけさ。それか、下らない思い出話を聞かされるかだよ。そこの“ルーカン”さんの所為で酷い目にあったとか、それくらいさ」
「なぬっ!? ……パトリックのやつ、なんて話を……!」
「じゃあ、どうして私たちを避けるの!!」
「理由なんか、聞いてどうする。人が人を避けるようになるとき、そこにあるのは小さな不満が積み重なった結果だ。理由をひとつひとつ、聞き出さなきゃアンタは済まないのかい? 傷付くことは目に見えてるだろうに、何故そんなに知りたがる」
「答えになってないわよ」
「答えなんか、ないよ。そのほうがいい。そうすればお互いに、傷が浅いうちに別れられる」
「別れる? なによ、それ。金輪際付き合わないみたいな、そんな言い方じゃ」
「そうだ。その通りだよ」
 ああ、嫌だ。
 本当はこんなことなんか、したくないってのに。
「アタシは、ニールとのよりを戻すことを選択した。アンタは、きっとそのことを快く思わないはずだ。だってニールは、過去形になるがあんなことをやってたわけだからね。けどアタシが欲張って両方との縁をつなぎ止めようとしたら、あいつが傷付くことになる。だから、どちらかとはお別れしなきゃならない。そういうわけだ。アンタら姉妹とは、もう無理だ」
 けど、それでいい。
 ……そうだ、それで良いんだ。
「……どうして、そうなるのよ。なんで私じゃなく、彼を選んだの?」
「昔から続く関係か、そうでもない関係か。どちらを優先させるべきかなんて、悩むまでもないだろ?」
 これが、最善なんだ。
 そうなんだろ、パトリック・ラーナーさんよ。
「……あなただけは、絶対に裏切らないって信じてたのに」
 ユニは最後にそれだけを吐き捨てるように言うと、アレクサンダーに背を向け、廊下を走り去っていく。アレクサンダーは俯き、つるつると光るタイルの床に映り込む、自分の姿をじっと見た。
 仕様が無かったんだよ。ああするしか、なかったんだ。アレクサンダーは自分に言い聞かせた。音なき声で念じ、自分自身にそうであると思い込ませようとした。だが、どうしてなのだろう。胸が苦しい。喉が締め付けられるようで、息苦しかった。
 アレクサンダーは自分の左胸のあたりに手を当て、落ち着こうと、緊張により強くなった心臓の鼓動を抑え込もうとした。けれども血流を感じるたびに、床に映り込む自分の姿が歪んで見えた。映り込んでいるのは自分であるはずなのに、まるで自分のように感じない。誰でもない人影を、誰でもない視点から見つめているような感覚に襲われたのだ。
「……アレックスちゃん」
 呆然と立ち尽くすアレクサンダーの前に、“ルーカン”が立つ。彼女はアレクサンダーの頭をぽんぽんと軽く叩くと、アレクサンダーを抱きしめて言った。
「上手く立ち回れたね。『よくやった』って、スピーカー越しにパトリックが褒めてるよ」
「…………」
「……ごめんね、辛い思いをさせて。でも、これが正解なの。彼女たちに深入りしてはいけないから。彼女たちという存在自体が“罪”なのだから」
 アレクサンダーは今、“ルーカン”に抱きしめられていた。それなりに強い力で、ぎゅっと押さえつけられているはずなのだ。だがアレクサンダーは抱きしめている力を、抱き締められている感覚を、認識していなかった。
 気が付いてみれば、さっきまであったはずの息苦しさが、いつの間にかすっかりと消えてしまっていた。でもその消え方はスッキリとした、晴れやかなものとは程遠く、まるで心をどこかに落としてしまったような、何かが欠けているという意識を伴っていた。
 肩や頭には、どうすることも出来ないセンチメンタルな気分が、どっしりと圧し掛かる。だが、そんな感情すらどこか他人事のように感じている自分が、今のアレクサンダーの中には居た。
 初めて味わう、奇妙な感覚だった。体験するのは初めてだが、アレクサンダーは今の気分、この状況に付けられる名前をよく知っていた。
 そうか。これが“解離”なのか。
「……」
「アレックスちゃん?」
 実感と共にどっと沸き上がってくるのは、虚しさと疲労だった。心は虚しさに喰い尽され、現実感が失われていく。体は疲労に呑み込まれ、力が抜けていった。
 アレクサンダーは“ルーカン”に体を預ける形で、ふらりと倒れ込んだ。小柄な“ルーカン”は、自分よりも少しだけ大きいアレクサンダーの体をどうにか受け止めると、金切り声を上げる。
「あぁっ、ミランダ・ジェーン先生! ジャストタイミング! ヘルプ、ヘルプ・ミー!!」
 そのとき、同時に授業の開始を意味するチャイムが鳴る。アレクサンダーの意識は、チャイムの音と共にぶつっと途切れた。





「まったく、お前ってやつは。学校でぶっ倒れるなんて……――保育園以来だぞ。眠り込んでぴくりとも動かなくなったお前を、車で迎えに行くのは」
「……ごめん」
 がた、がたっ、と揺れる車内。一方通行で喋り続ける父親の声で、アレクサンダーは目を覚ます。起きたのか、アレクサンダー。父親はそう言うと、静かだったカーラジオの電源を入れ、バスドラムが激しく鳴るハードロックミュージックを流した。
 低く轟くバスドラムの重低音は、どこか心音に似ていた。どん、どん、どん、どん。乱れることなく、一定の間隔でビートを刻み続けるその音に、気がつけば心臓のほうが鼓動を刻む感覚を合わせていた。
「アレクサンダー、過労が祟ったんだぞ。バイト、まともに休んでないそうじゃないか」
 父親は正面だけを見ながら、アレクサンダーに話しかける。アレクサンダーは助手席側の窓から見える景色を、漠然と眺めながら応答した。
「……また、監視でもしてたのかよ」
「断じて違うぞ」
「……なら、何だよ」
「パトリック・ラーナー。あの男がわざわざ事務所に来て、お前のことをご丁寧に教えてくれたんだ。『アレクサンダー、彼女は頑張りすぎてる。誰か止めてあげないと、近々ぶっ倒れちゃいますよ?』ってな。あの男、母さんがヒステリーを起こしたせいで、父さんがお前に近付くことができないってことを知っている上で、そう言って来たんだ。実に、憎たらしい」
 似ていないパトリック・ラーナーの物真似を交えながら喋る父親の話を、アレクサンダーは軽い相槌を打ちながら、聞き流す。そんな彼女は、自分の体がここに存在していて、自分の意思で自分の体を動かすことが出来ると言う感覚を、確認していた。
「それとだ、アレクサンダー。お前はまた強運で、とんでもない大物を釣り上げたみたいじゃないか」
「……何のことだか」
「ドクター・サントスだ。伝説のプロファイラーと言われるヘレン・ガードナーの一番弟子、解離と人格障害の凄腕臨床医にして犯罪心理学のスペシャリスト、カルロ・サントスだよ!! それに脳神経科医にして脳神経外科医でもあり、アバロセレン技士の資格も持つアルスル・ペヴァロッサムも!」
「……それが、どうしたんだよ」
「それがどうしたって……お前なぁ、自分がどれだけ大物の分析家に目を掛けられてるのか分かってるのか?! それに先方は、お前を自分と同じ道に引きずり込む気でいる。分かるか、アレクサンダー。お前はとてつもない人に、気に入られてるんだ!! 凄いじゃないか! 父親として、実に誇らしいぞ!」
「……あの人、ラーナー次長の友人なんだって」
「知ってるとも。だがドクター・サントスは、あの男のような悪どい人間ではないと聞いている。女性遍歴は、凄まじいらしいが」
「……だから、強運もなにも、ラーナー次長が裏で糸を引いてるに決まってる」
「それを、強運と言うんだろうが」
 座席に凭れかかるアレクサンダーは、全体重を背もたれに預ける。ぐったりとしてる体は思うように動かず、金縛りにかかった時のように重い頭では、体に対して思うように指示を出せない。けれどもどうにか動かすことができた右手で、アレクサンダーは握りこぶしを作った。
 握りしめた右手のひらに、中指の爪が喰い込む。感じることのできた鈍い痛みは、今のアレクサンダーにとって心地の良いものだった。
 ちゃんと自分は生きていて、魂のようなものは体にちゃんと定着していて、現実にちゃんとしがみつけている。痛みは、そんな気を起こしてくれたからだ。
「……でさ、なんで親父はそこまでラーナー次長のことを嫌ってるわけ?」
「なんで、だって? その問いこそ疑問だ。あの男が好意を抱ける要素を、少しでも持ち合わせてるか? 答えはノーだ。嫌われる要素しか奴にはない」
「……そうでもないと、思うけど。結構いい人じゃん、ラーナー次長」
「どうしたんだ、アレクサンダー。まさかお前、学校でぶっ倒れた拍子に頭をどこかにぶつけでもしたのか?」
 何気ないアレクサンダーの一言に、父親は首を傾げさせた。そして父親は、アレクサンダーが訊いてもいないことまで喋り出す。
「パトリック・ラーナー、あれの経歴を知ってるのか? とんでもない野心家で、ドン引きするぞ」
「……」
「ヤツはもともと、連邦捜査局の特別捜査官だったんだ。初っ端に担当したやまで大金星を挙げて、その次もトントントーンとあっという間に犯人を逮捕しー……」
「……大金星?」
「かれこれ、二十年近く前の事件でな。十歳から十二歳くらいの子供をターゲットにした、連続誘拐殺人事件が起きたんだ。子供の性別はバラバラで、事件が発生する場所もまちまち。ベテランの捜査官たちも、プロファイラーのヘレン・ガードナーも手を焼いていたそうなんだが、その犯人も新入りの二人が突拍子もないやり方で見つけ、逮捕したんだ」
「……それって、イーライ・グリッサムの?」
「そうだ。小児性愛者のクソ野郎、イーライ・グリッサムの事件だよ」
「……でもあの事件って、ヘレン・ガードナーが犯人の場所を特定して、パトリシア・ヴェラスケス捜査官が逮捕したんじゃ」
 アレクサンダーがそう訊くと、父親は意味深にニヤリと笑う。世間じゃぁそうなってるが、事実は違うのさ。そう言うと父は、自慢げに知っている情報を話し始めた。
「ヘレン・ガードナーの回顧録には、そう書かれている。犯人の所在地を特定したのは自分だ、と。だが実際に場所を突き止めたのは彼女の愛弟子、当時はまだ分析家見習いだったドクター・サントスなんだ」
「……?!」
「ドクター・サントスはヘレン・ガードナーが見つけられなかった犯行の法則性を見つけ出し、次の犯行が行われるであろう場所を、複数あった候補地からひとつに絞った。そして“幼く見える容姿を利用し、子供になりすまして、わざと犯人に誘拐されに行き、逮捕した捜査官”。本において語られている捜査官の名は“パトリシア・ヴェラスケス”となっているが、そんな捜査官は実在しない」
「……えっ。まさか」
「幼く見える容姿を利用し、子供になりすまして、わざと犯人に誘拐されに行き、逮捕した捜査官。それこそ、当時はまだ新米捜査官だったパトリック・ラーナーだ。大胆かつリスキーな選択を躊躇なく行ってみせた奴の名前は、それを機に上層部に知られることになったと言われている。その後も立て続けにパトリック・ラーナーは星を上げ、ついに評判はASIの長官も知るところとなった。そして奴は当時のASI長官から直々にスカウトされ、鞍替えしたというわけだ。ASIでも変わらず、奴は有能っぷりを発揮。あっという間にヒエラルキーの階段を駆け上がり、四十歳にして次長だ。あれは実に恐ろしい悪魔だよ」
 話を聞いている限りでは、有能な人物がそれに見合った評価を与えられ、他の者たちよりも早く出世していった、としか思えない。
 野心家というよりも、当然の結果なんじゃないのか? そう考えたアレクサンダーは、少しだけ眉間に皺を寄せる。するとまた、父親はニヤニヤと笑った。
「だが、奴はまたASIから別の機関に鞍替えをしたようだ。真っ黒な背広に黒のネクタイ、黒の皮靴に、ちらついて見える真っ黒のサングラス。それに直属の上司をボスと呼ばずに、軍隊式にサーと呼ぶ。……あれは、間違いない。表向きは存在しないとされる、特務機関WACEワースの証だ」
「わ、ワース?」
「都市伝説で、聞いたことぐらいあるだろ? 全身黒ずくめの男たち、通称メン・イン・ブラックことWACE。父さんも、WACEは所詮噂に過ぎないと思っていたがー……これで確証が持てた。特務機関WACEは、実在する」
「……それで、ラーナー次長がそこの一人だって? 馬鹿げてるにも程があるだろ」
「だがラーナー自身は、それを仄めかすようなことを言っていた。そのうえ、あのキーキーうるさい女性のことを“ルーカン”と呼んでいることも、奴と彼女がWACEの構成員であると仮定したら説明がつく。……さしずめ、奴のコードネームは“ディナダン”といったところか?」
 意味が分からない。アレクサンダーは父親の言葉を鼻で笑う。それでも父親はひとり、クヒヒ……と怪しげな笑い声をあげていた。
 やがて家が近くなってくると父親は車を止め、アレクサンダーを下ろす。それから別れ際に父親は、母親に伝言を頼んだ。
「アレクサンダー。母さんに、伝えといてくれ。気持ちは分かった、書類にサインするから都合の合う時に事務所のほうに来てくれ、ってな」
「……自分で、言えばいいじゃん。電話掛けるとかさ」
「電話なんか何遍も掛けたさ。けど、一度も出てくれなかったんだよ。そういうわけだ、頼んだぞ」
「……」
「それからだ、アレクサンダー。休める時には、ちゃんと休め。たしかにうちの家計は火の車だったが、なにもそれをお前が気に病む必要はない。学生は、勉学に勤めることこそが本分だ。バイトに勤しむのは、最優先事項じゃないぞ」
「……分かった」
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