EQPのセオリー

13

 朝の通学路、バス停へと向かう道。ひとり歩くアレクサンダーの後ろから、頭にバンダナを巻いた青年――つい先日、晴れて退院したニール・アーチャー――がやってくる。彼はだるそうに歩くアレクサンダーの肩をポンッと叩くと、アレクサンダーの顔を覗き込み、こんなことを訊いてきた。
「……なぁ、アレックス。お前、何か変わった?」
「何がだよ」
「俺が退院したのが、そんなにショックだったのか」
「何の話だよ」
「だって、俺が退院してからずっと、お前なんか暗いっつーか、すっげーくたびれてるっつーか、なんつーか。その、俺ってのは迷惑な存在なのか?」
「バイトと勉強の両立がキツいだけだ。眠くて死にそう」
「それだけじゃないだろ。どうしたんだよ」
「うるさいなぁ、放っといてくれ」
「それに最近、お前の周りを俺の元教官が付き纏ってるだろ? お前、なんかしたのか?」
「してねぇっつーの。しつこいぞ、テメェ」
 この一ヶ月。アレクサンダーは父親の言いつけを守り、ユンとユニの双子とは一切会っていなかった。
 その間にもニール・アーチャーは無事に退院し、この通り学校に戻ってきた。そしてアレクサンダーとニールの関係は絶交宣言の前に戻り、元通りとなっていた。
「それにあんたの元教官が付き回してるのは、別の人ってことは確かだよ。アタシじゃないさ」
「なら、誰だよ」
「アタシが知るわけないだろ。本人に聞いてくれ」
 そう言いながらアレクサンダーは、大あくびをしてみせる。腕を上にうーんと伸ばしながら、アレクサンダーはここ一ヶ月の間に起きたことを思い出していた。
 まず、パトリック・ラーナーと精神病棟前の庭園で仲良くおしゃべりをした、そのあと。家に帰るとアレクサンダーは父親に捕まり、大目玉を喰らわされた。それからアレクサンダーは母親が居る目の前で、腕時計の中に仕込まれていた盗聴器の話を暴露すると、今度は母親が父親を怒鳴りつけた。
『年頃の娘の行動を逐一監視して、挙句の果てに盗聴するなんて! この××野郎! 離婚してやる!! 絶対に、絶対に絶対に離婚してやる!! アレクサンダーの親権は私がもらいますから。さぁ早く、この家から出て行きなさい、この役立たずの××××が!』
『そんなことを言わないでくれ! 俺が、どれだけ君を愛してッ……――』
『こちとら愛やら何やらはもうとっくに冷めてらぁ!! 離婚するって言ったら離婚するんだ! 弁護士を呼んでやる、今すぐ!』
『やめてくれ! 頼む、落ち着いてくれ、イーリヤ!!』
『失せろ、この×××が! テメェなんざ××××の××××にして、××××の××××に××してやるぞ! 覚悟しておけ!! この××××!』
『イーリヤ、話を聞いてくれ、イーリヤ!!』
 その後、母親は本当に弁護士に連絡した。そして現在、見事に離婚協議中。母親とアレクサンダーの二人はアパートの一室で今も暮らしているが、父親だけは探偵事務所で寝泊りをしている。いわば別居の状態だ。
 それ以来、アレクサンダーは探偵事務所に足を運んでいない。というのも、母親に近付くなと言われているからだ。暫く父親に会ってはいけないし、父親の仕事がらみの人間と接触してはいけないとも言われていた。
「……はぁ」
「ほら、アレックス。溜息なんか吐いて、らしくねぇじゃん」
「……今、親が離婚だなんだで揉めてるんだよ。母さんは離婚するの一点張りで、対して親父は離婚したくないって泣き付いてて。どっちに転ぶのかが、さっぱり分からなくて」
「あじゃぱ。そりゃ、なんというか、その……がんばれ。おう」
「……だから言いたくなかったんだよ」
 だがアレクサンダーはあれ以降も、何度かパトリック・ラーナーと会っていた。その度に彼から少しずつ、高位技師官僚について聞き出していたのだ。
 というのもパトリック・ラーナーは、あんなことを言っていた割には足繁く精神科に来ていたのだ。カルロ・サントス医師に意見を仰ぎに来たその帰りに、彼は気まぐれでアレクサンダーの許に来ては、あの手帳を見せてくれていた。
 それでいておかしなことに、彼はペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚という人物にまつわる情報やエピソードなどを、包み隠さずに教えてくれることが多かった。
 高位技師官僚の監視を行う任務に着いたら、その日のうちにバレて、“ルーカン”と共にこっ酷い目に遭わされた話。アバロセレンの闇取引の現場を差し押さえに向かったら、彼に先回りされていて、密売人たちは全員のされ、アバロセレンは持ち去られていた後だった話。同じくアバロセレンの闇取引の現場を差し押さえに向かったら、ばったり彼と出会ってしまった話。その中でもパトリック・ラーナーは、現場でペルモンド・バルロッツィと遭遇してしまったときのことを、詳しく教えてくれた。
『アバロセレンの不法取引が行われるという情報を掴んで、私は単身その現場に乗り込んだんです。そしたら、なんという偶然か、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚さまサマと鉢合わせてしまいましてね。お互いに、取引現場に乗り込もうとしていたときでした。まさに、バッドタイミングでしたよ』
『持っていた武器といえば、私は拳銃を一丁だけ。対してあの男は、拳銃二丁に背中にはサーベルを二本も背負ってました。どちらが先に乗り込むかという無言の睨み合いの末、彼が現場に飛び込んで、私がそれを援護をするという形に落ち着きましたが……結論から言うと、私の援護はまるで必要なかった』
『というのも彼は一人で、その場にいた全員を斬り伏せてしまったんです。サーベル二本で、現場を血の海に変えた』
『あの時の、あの人は異常でした。私はそれまで、彼のことを気難しい化学者としか思っていませんでしたが、あの時ばかりは、その認識を改めざるをえませんでした。彼こそ、まさに理性的な狂人。……いえ、理性という鉄仮面の下に凶暴な野獣という本性を隠した、血に飢えた悪魔だ』
『彼は狂気じみた笑みを湛えながら、人の首をざくざくと斬っていた。まるでペーパーナイフで紙を切るように、人を殺していったんです。愉しそうに、げらげらと笑いながら。あの光景ばかりは、流石の私も直視できなかった。……そして彼は全員を殺し終えると、次はどいつだ、と大声で言ったんです。それから敵が全て死んでしまったことを悟ると彼は、つまらねぇなぁ、と呟いた。ちいとは愉しめると期待していたが、雑魚が相手じゃ手応えが無いな。そうとも言っていました』
『ですが彼自身も、無傷では済まなかった。銃弾の嵐の中、まともな装備もなく戦っていたんですから、当然の報いですがね。それで彼は左足の太腿と右肩、左の脇腹に被弾していた。けれども彼は自分の体から流れ出る血など気にも留めず、負傷した部位を庇うような仕草も一切見せなかった。まるで痛みを感じていないかのようでしたよ。恐ろしかった。一瞬、サイボーグかと疑ったほどです』
『もし、この世に純粋な悪があるとするならば、あの男はまさにそれです。あれは間違いなく殺戮兵器。ですから私は、出来ることならばあの男を鎖に繋ぎたい』
『だが、あの男は権力に守られている。私みたいな一介の局員が手を出せる相手じゃないんです』
『自分の妻を殺したのも、サンレイズ研究所を破壊したのも、全て彼の仕業なのではと私は思っています。普段のペルモンド・バルロッツィとしての人格と、あの悪魔のような人格が同一のものかどうかは、私には分かりません。ですが、だとしてもあの男が危険であることに変わりはない。あの男は、外に出してはいけないんです』
『けれども、彼から学んだことも一つあります。それは人が一番嫌悪感を抱き、警戒をする相手というのが、理性的な狂人であるという点です。あれやこれやと饒舌によく喋り、意味もなくにやにや笑っていると、特に警戒されます。ですから私は、仕事の際には狂人のふりをするよう努めているんです。そうすると、場の主導権を握りやすくなりますからね』
 そんな彼の話を聞く中で、アレクサンダーには気付いたことがあった。それはパトリック・ラーナーという男は、あの精神科医の男が言っていた通り、真っ当な正義感を持っている真面目な人間で、悪魔のようにも思えたあの姿は全て演技でしかなかった、ということだ。
「俺んとこも十年以上前だけど、親の離婚云々で揉めてたしなー。親父は酒飲みにしてギャンブル依存のクズでさ。母ちゃんに対するDVとかも凄かったワケ。そんで遂にブチギレた母ちゃんが弁護士を雇って、離婚裁判を起こしてさー。一年ぐらいゴタゴタ争ってたけど、なんとか無事離婚して、慰謝料も請求して、親父には接近禁止命令が出て」
「そういや、あんたのとこは母子家庭だったな」
「そうそう。だから、その、俺の両親みたいな泥沼裁判にならないことを祈ってるぜ」
 そしてアレクサンダーがパトリック・ラーナーと会う度に、アレクサンダーのもとには父親からのメールが届けられた。
 お前は何を考えているんだ、アレクサンダー! あの男は危険だと、あれだけ言っていただろう! 何があっても、お父さんはもう知らないぞ!!
 そんな内容のものが、一度会うたびにつき十五通は送られてきていた。いい加減、面倒臭くなってきたアレクサンダーはついに父親のメールアドレスを受信拒否し、今は完全にブロックしている。
 少し前までは、ちょっと偉大なように思えていた父親だったが、今となっては“クソジジィ”という言葉しか思い浮かばない。小さな欠片ぐらいはあった尊敬というものも、今は風に吹かれてどこかに飛ばされていた。
「……そうであることを、アタシも祈ってるよ」
 とにかく今のアレクサンダーは、不安定だった。
 幼少期から憧れていたはずの獣医という夢も、ウィキッドの一件以来、揺らいでいた。自分は罪のない動物たちと、もう関わってはいけない。そんな懲罰的な感情が、心の中に表れ始めていたからだ。それに最近はカルロ・サントス医師の熱烈なアピールの所為か、人の心を診る世界に惹きこまれているような気もしていた。また、昔はあったはずの「どうしても獣医になりたい」という気持ちも薄れてきていて、それがアイデンティティの揺らぎにも繋がっていた。
 そのうえ、最近はもう誰のことも信じられないのだ。昔からアレクサンダーは他人をそう簡単に信用しないタチではあったのだが、近頃は疑心暗鬼に拍車が掛かっている。かつては心の底から信用していたはずの人たち――両親や、友人であるニールなど――のことさえも、今はもう信じられないのだ。
 自分の知らない陰の世界で、彼らは何か悪いことをやっているのではないのか。そんな猜疑心ばかりが、沸々と絶え間なく湧き上がり、止まらない。それなのに、最近出会ったばかりの人間のことは信用しているのだ。
 カルロ・サントス医師、パトリック・ラーナー。胡散臭い、と周りが吹聴して回っているような人間ばかりを、今のアレクサンダーは信用していた。いや、そもそも彼らに「決して裏切られたりはしない」という期待をしていないから、付き合いやすいのだろうか? なら、今の自分は……――。
「アレックス?」
「……」
「おーい、アレックス。しっかりしろ」
「……あっ、ああ。すまない。ぼうっとしてた」
 どこに居ても、安心感が無い。誰かが自分を狙っているような気が常にしていて、気が抜けない。それにいざ窮地に陥ったとしても、誰も自分のことを助けてくれないような気が、今のアレクサンダーにはしていた。
 根拠はないが漠然と抱えていた安心感を喪失した今、あるのはどうしても拭えない不信感だけ。
「……なぁ、アレックス」
 そのとき、何を思ったのかニールは、アレクサンダーの手をぎゅっと握る。エレメンタリースクールに通っていた頃のように手を繋いで、アレクサンダーの横に並んだ。
「予定が空いてればー、の話だけどさ。放課後、久々に二人でどっか出かけないか? あの、大通りに新しく出来たおしゃれなカフェがあるんだけどさ。ティラミスが最高に美味いって話題になってるんだけど、男ひとりじゃ入り辛くて。一緒に……」
「今日はバイトが入ってる」
「なら、別の日にでも」
「当分、無理だと思う。月曜と日曜以外は基本的にシフト入ってるし、月曜は勉強したいし、日曜はがっつり寝たい。それに、ケーキぐらい一人で食いに行きゃぁいいだろうが。一人で行ったとこで、誰もあんたのことなんか気にしないよ」
 アレクサンダーは繋がれていた手を乱暴に振り解くと、突き放すように彼にそう言う。ニールに背を向け、早足でひとり先を歩いて行くアレクサンダーは、後ろでニールがどんな表情をしているかなど、気にしていなかった。





「別に休んでも良かったんじゃないんですか? せっかくのデートのお誘いを無下にするだなんて、あなたも罪深い女の子ですねぇ。さぞかし彼は傷ついたことでしょう」
 そんなことを言いながらニヤニヤと笑うパトリック・ラーナーの視線は、手元の資料の束に注がれている。アレクサンダーと視線を合わせることない。
「何を言ってるんだか」
 全室のベッドメイクを終え、短い休憩を取っていたアレクサンダーは、三人分のコーヒーを淹れながらそう呟く。
 夕暮れも近くなってきた時間帯。精神病棟のスタッフはいつになく慌ただしく動き回っていて、どこかぴりぴりとした空気に満ちている。パトリック・ラーナーと同じ資料の束を見つめるカルロ・サントス医師の目元も、緊張により強張っていた。
「あらら、君は随分と鈍い子のようだ。ねぇ、カルロ。あなたもそう思うでしょう」>
「ああ、そうだな。鈍い」
「……はい?」
「ニール・アーチャー。彼は君のことが好きなんですよ」
「ええ、まあ、そうなんじゃないんですか? だって長いこと友人やってるし、友人としてー……」
「彼は君に恋をしてる、とでも言えば分かりますか?」
「まさか、そんな。だとしたら気持ち悪いったらありゃしないですよ」
「はぁ、これだから君は……」
 緊張感漂う状況の中でも、変わらずに道化を演じるパトリック・ラーナーは資料を捲りながら、口元にだけは笑みを湛えている。だが目元から上は、緊張を隠せていなかった。むっと顰められた眉は、眉間に皺を作り、目尻はつり上がっている。
 一体、今日は何がどうなってるんだ。そんなことを考えながら、アレクサンダーは男二人の邪魔にならないところに、そっとコーヒー入りのマグカップを置く。するとその様子を見ていた別のスタッフが、アレクサンダーに声を掛けてきた。
「アレックス、僕のもお願いできるかな?」
「コーヒーですか?」
「ああ、そうだ。砂糖抜きで頼む」
「あっ、私のもお願いできるかしら!」
「俺のも頼めるか?」
「うちのもお願い!」
「了解です。全員分ブラックで淹れておきますんで、後は各自でミルクとか足してくださいねー」
 アレクサンダーは人数分のマグカップを棚から出すと、手早くインスタントコーヒーを用意し、電気ケトルでお湯を沸かす。その後ろで男二人は、資料を片手にぶつぶつと何かを言っていた。
「先日、こちらの病院の緊急救命室に搬送され、死亡が確認されたのは、あの少年の異母姉カミラ・エルスター技士。二十九歳、女性。焼け焦げ、遺体は酷い有様になっていましたが、彼女の元上司だというランス・ウォルター技師によって本人確認がされました」
「技士となると、どこかしらのアバロセレン工学研究所に勤めていたのか?」
「えっと、キャンベラ市警によると……彼女は、三年前まではアバロセレン技士として、ゴールマン研究所で働いていたそうです。新薬開発の部門に所属していたみたいですね。ですが原因不明の体調不良を訴え、退職。それを機に薬物中毒だった父親からあの少年の親権を奪い、異母弟を養子として迎え入れ、死ぬまでは慎ましく暮らしていたそうです」
「……ふむ」
「検死報告によると、彼女は雷に運悪く撃たれて死亡したとしかいえない、と。ですがここ二ヶ月の間で、雷を伴う大雨がアルストグランに訪れたことは……」
「無いな」
「ええ、そうなんです。事故死と結論着けるのは容易いことですが、事故死を裏付ける証拠は何もない」
「……ふむ」
「私には、どうにも理解出来ないんですよ。本当に彼女は雷に打たれて死んだのか、疑問に思えて仕方がない。それに、同じような状態で発見された遺体が、アルストグランの中で他に十数体ほど見つかっているんです。年齢や性別はバラバラ。けれども被害者には共通している点が、ひとつだけある」
「ほう。それは何だ?」
「全員、アバロセレン技士なんです。そして全員、死亡する数か月前から原因不明の体調不良を訴えていた。倦怠感、高熱、嘔吐。……まるで、二十年前の状況に似ていませんか?」
「たしかに、そうかもしれん。アルビノの子供たちがやたらめったら産まれて騒ぎになったときも、アルビノ児の母親は全員アバロセレン技士だったな。それで母親たちは皆一様に、酷い悪阻を訴えていた。そして大半の子は死産となり、母親たちの多くも衰弱し、命を落としていた。……つまり、アバロセレンがらみの事件だと言いたいのか?」
「はい」
「それで、お前たちASIは証拠を探していると。そういうわけなんだな、ラーナー」
「ご明察。けれどもASIがーというよりかは私個人が、というところでしょうか」
「……なら、ただの精神科医である私を頼るよりも、アバロセレン技士の資格も持つアルスル・ペヴァロッサムに協力を求めたほうが良いんじゃないのか?」
 カルロ・サントス医師はパトリック・ラーナーを睨むように見ながら、彼にそう尋ねる。アレクサンダーはその言葉に違和感を覚えながら、カルロ・サントス医師を見た。

 あの人、随分前に「ラーナーは探偵兼記者をやってる」とか言ってたよな。それなのに今は、ラーナー次長を見て「ASI」と言った。
 やっぱこの人、ただの精神科医じゃなかったのか!

「このパトリック・ラーナーを、舐めてもらっちゃ困りますよ。ドクター・アルスルには、とっくに手を回してありますって」
「……し、仕事が、早いな」
「そうじゃなきゃ、インテリジェンスなんて務まりませんから。これでも私、超一流なんで」
「……」
「それで。あなたに頼みたいのは、あの少年です。……証拠を上層部に消される前に見つけ、回収しなければならない。そのためにも、あの少年から手がかりを聞き出さなければいけないのですが……」
「少年は失声症を発症し、会話ができない。それに貧民街で暮らしていた為に読み書きが出来ず、筆談も困難。……唯一の家族だった姉が、目の前で死んだんだ。ショックは計り知れない。彼には時間が必要だ」
「そんな悠長なことを言ってる余裕はないんですよ」
「だがな、ラーナー。相手は子供だぞ?」
「たしかに、六歳にも満たない少年には酷なことだと思います。けど、やらなければ彼の姉の死因が、永遠に分からなくなるんですよ」
 ピーッ、ピーッ、お湯が湧きました。イェーィッ、ボイルドウォーター! 電気ケトルがそんな騒がしい音を鳴らし、湯が沸いたことを教えてくれる。アレクサンダーは電気ケトルの持ち手を握ると、予めインスタントコーヒーを入れてあったマグカップに、お湯を注いでいった。
 マグカップに注がれたお湯は湯気をもくもくと上げると、粉末状のインスタントコーヒーを溶かし、真黒の液体に変貌する。立ち上った湯気は、インスタントコーヒーが持つ独特のにおい――安っぽいように感じる、酸化したあのにおい――も一緒に運び、あたりに拡散していった。
 それからアレクサンダーはマドラーを手に取ると、マグカップの中にそれを突き刺し、ぐるぐるとお湯をかき混ぜていく。そんなことをしながら、男二人の会話を盗み聞いていた。
「それで、あの少年の身元は分かっているんだろうな」
「ええ、そりゃ勿論。あらゆるコネを使って、情報を開示させましてね。……っと、これです。この資料を見てください」
「……」
「薬物中毒の男のもとに子供を捨て置き、今は金持ちの男と結婚し、自分だけ優雅なセレブ妻生活を楽しんでいる母親が出した出生証明書から、身元が判明しました。少年の名前はレオンハルト・エルスター。五歳、男児。周辺住民によると、良く言えば物静かで大人しい子供、悪く言えば社交性がなく影の薄い子供だったようです。多分、泣き叫ぼうものなら暴力を振るわれた父親との生活が影響しているのだと思われます」
「それにしてもだ、随分と年が離れているな。いくら異母兄弟といえども、二十五歳差もあるなんて……。まるで親子じゃないか」
「ええ。近隣住民の大半も、彼らのことを母子家庭だと思っていたそうです。少年も、自分の姉のことを“ママ”と呼んでいたそうですしね。それに血縁関係では異母兄弟だとしても、戸籍上での彼らの関係は養子縁組を組んだ親子でしたから。あながち、親子だっていうのは間違いでもないですよ」
「……ママ、か。つまりあの少年にとって彼女は、姉というより、母親代わりだったということか。実に厄介だな」
 カルロ・サントス医師は資料を机の上に置くと、溜息を吐く。それからパトリック・ラーナーを見ると、彼は言った。
「先に言っておくが、期待はしてくれるなよ。傷ついた子供というのは、嫌な体験というのをあまり話してくれないんだ。思い出したくないが為に、記憶自体を封印してしまうことすらある。それに、私のように四十路も過ぎたジジィが相手じゃ、覚えていたとしても喋ってくれないことのほうが多い。だからー……」
「つまり相手が、あなたみたいなフィリピン系の老け顔ジジィじゃなければ、話してくれる可能性があるというわけですか」
「だが、ラーナー。いくら童顔だとしても、お前は警戒されると思うぞ。そんな黒いスーツをびっしり着こなしているような大人が目の前に現れれば、子供は……」
「おっしゃる通り。子供から見れば黒スーツの大人は威圧的だ。たとえ私みたいなチビの童顔、いまだに酒屋で十四歳フォーティーンに間違われる四十歳フォーティーのおっさんだとしても、怖いと感じるでしょう。だから、私はやりませんよ。それに、適任者ならそこに居るじゃないですか」
 マドラーでコーヒーをかき混ぜるアレクサンダーの手が、一瞬止まる。なんだか嫌な気配を、感じ取ったのだ。
「アレクサンダー。どうせ君は、今の話を盗み聞いていたんでしょう?」
「おい。待て、ラーナー。彼女は実習生ですらないんだぞ。それなのに」
「君は断片でも、情報を聞いたんだ。ですから、捜査を手伝ってもらいますよ」
「ラーナー! お前、自分が何を言ってるのか分かってるのか!!」
「ええ、勿論。彼女は幸運の女神に愛された、超強運の持ち主だ。ぜひとも、その強運を私に分けてもらいたい。それに、彼女自身が持つスキルも申し分ないですしね。何てったって、あのペルモンド・バルロッツィが唯一警戒している探偵、ダグラス・コルトの娘さんですから」
 にひひ。そんなパトリック・ラーナーの笑い声が、アレクサンダーの耳に届く。恐る恐る彼らの居るほうに振り向いたアレクサンダーは、マグカップから抜いたマドラーを片手に、顔を青白くさせていた。





「サントス先生、お待ちしてました」
「ベイカーくん、彼の様子はどうだ」
「今のところは、大丈夫そうです。落ち着いています。少しですが、声も出せるようになってきました」
「そうか。強い子だな。――……しかしだ。ラーナー、本当にやるのか? 私は賛成できんぞ」
「ええ、やりますよ。声が出せるようになったのは好都合です。さぁ、アレクサンダー。頑張って」
「えっ。本当に、アタシがやるんですか……?」
「こういう時こそ君の、ぶっきらぼうだが思いやりに溢れた兄貴肌という個性が、役に立つんじゃないですか」
「アタシが、アニキ?」
「あらら。君、男の子じゃなかったの? ダグラスさんはそう仰ってたけど」
 アレクサンダーが通されたのは、薄暗く灯る間接照明が仄かに部屋を照らす、第一相談室だった。
 第一相談室のソファーには、金髪碧眼の少年と、彼に付き添う若い男性スタッフの二人が座っている。アレクサンダーは金髪碧眼の少年の斜め前に跪くと、少年の顔を覗き込んだ。
「……」
 目の下に隈を作った少年の視線は、床だけをじっと見つめている。その視線が揺らぐことはなく、その眼にハイライトが入ることもない。その年頃の幼児には見合わない暗い翳が、少年には差していた。
 跪き、少年を見つめるアレクサンダーが何もせずに居ると、アレクサンダーの後ろに立っていたパトリック・ラーナーが、その背中を膝でこつんと突いてくる。そこでアレクサンダーは、仕方無く少年に喋りかけることにした。
「君が、レオンハルトくんかな」
 少年はこくりと頷くが、その視線が動くことはない。どうしたものかと、アレクサンダーがまた無言になる。その様子を、カルロ・サントス医師は少し離れた場所から見守っていた。
 すると少年が、小さな声で喋り始める。喉から絞り出すような声で、彼は言った。
「……カミラ、死んだんでしょ。ひげのおっさんが、そう言ってた」
 ひげのおっさん。少年の口から出た言葉に、アレクサンダーの背後に立っていたパトリック・ラーナーが反応を示す。
 これは、名前を聞き出せってことなのか? そう察し取ったアレクサンダーは、ぷるぷると震える少年の小さな手を、両手で優しく包み込むように握る。そして訊ねた。
「その人の名前を、教えてくれるかな」
 アレクサンダーは少年と視線が合う位置に移動すると、彼の蒼い目をじっと見つめた。すると少年は、アレクサンダーから目を逸らす。そして呟くような声でいった。
「……名前なんて、知らない。けど『自分は通りすがりのクソジジィだ』って言ってた」
「通りすがりの、クソジジィ?」
「……うん。黒い帽子に、黒いコートを着てた。四角いかたちの眼鏡も掛けてて、目の色は蒼だった」
 まさか、あの人じゃ。
 思い当たる節があったアレクサンダーは、背後に立っているパトリック・ラーナーのほうに顔を向け、彼の反応を窺った。パトリック・ラーナーもアレクサンダーの目を見ると、無言で頷く。
 パトリック・ラーナーは一枚の写真を取り出すと、その写真を少年に見せた。
「そのクソジジィってのは、この写真の男じゃないのか」
「……そのおっさんだった。なんで、知ってるの?」
「なんでも何も、このクソジジィは超有名人だ。アルストグランに住んでいる人間で、彼のことを知らない者は誰も居ないぐらいにはね」
「……有名な人?」
「そうだよ。何故なら彼は、極悪人だから。君は何もされていないようで、本当に良かった」
 パトリック・ラーナーはそう言うと、写真を胸ポケットにしまう。それからアレクサンダーを無言で押しのけると、彼は少年の横に座っていた男性スタッフにも『退け』というハンドサインを送る。そうしてスタッフが渋々席を立つと、そこに自分が座った。そしてパトリック・ラーナーは、少年の頭をわしわしと掴むように撫でる。
 アレクサンダーはその様子を見ながら、カルロ・サントス医師の横に並んだ。
「……結局、アタシって必要ありましたか?」
「ああ、無かった」
「なら、なんで」
「ヤツの常套手段だ。捨て駒を用意しておく。そして何かあったら、捨て駒に責任を押し付ける。危なかったぞ、君」
「分かっていながら、どうして止めてくれなかったんですか……!」
「私がどうこう言ったところで、聞く耳を持つ男だと思うか、あれが」
「……そうでした」
 パトリック・ラーナーが見せた写真に写っていた男は、鬼気迫る顔でカメラに向かい銃口を向ける、白衣姿のペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚だった。
 どういう状況でそんな写真が撮れたのか、そして何故よりによってその写真を彼がチョイスしたのか。アレクサンダーには聞きたいことがあったが、それをぐっと飲み込む。
 多分、今ここで邪魔したら。アタシが、パトリック・ラーナーにぶっ殺される。
 そんな気がしていたのだ。
「……そのおっさん、本当に悪い人なの?」
 少年は頭を撫でてくるパトリック・ラーナーの手を払いのけると、しかめ面でそんなことを呟く。
「……だっておっさんは、カミラを助けようとしてくれてた。カミラが自分の力に耐えられなくなった直前まで、色々やってくれてた」
「それは、どういうことなんだ? その、カミラの力っていうのは……」
「カミラの体から、電気が出たんだ。始めは少しだけピリッてくる静電気ぐらいだったんだけど、段々力が強くなってきて。電球とかを壊すくらいになったんだ」
「……人体から、電気が……?」
「おっさんが来たとき、カミラは自分の電気を抑えられなくなってた。だからおっさんがカミラに、力の抑えかたを教えてたんだ。深呼吸しろとか、“せきずい”にコイルが通っているのを意識しろとか、電気が脳から地面に流れていくのをイメージしろとか、色々言ってた」
「……」
「おっさんの言うことを聞いて、カミラの力は少し収まった。だからおっさんが帰ろうとしたんだけど、そしたらカミラが光って、それで……」
「彼女は、燃えた。だから君は隣の家に掛け込んで、救急車を呼んでもらった。そうなんだね」
「うん」
 そのとき、パトリック・ラーナーの顔色が変わった。彼は元より大きな目を、更に大きく見開く。少年の震えが止まっているのに対し、今度はパトリック・ラーナーの握りしめた拳が痙攣を始めていた。
「……サーに、報告しなくては。ついに恐れていた事態が、覚醒者サイキックの誕生が、各地で起きていると……――!!」
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