EQPのセオリー

12

 偶然なのか、それとも仕組まれていたのか、またはアレクサンダー側が避けられていたのか。月曜は何事もなく終わり、火曜も無事に過ぎて、水曜が暮れて木曜も終わり、金曜日の夕暮れに差しかかったが、アレクサンダーはこの一週間で一度もユニと遭遇しなかった。それに病院に立ち寄ると精神科医の男に毎回引き留められて、延々と講義じみた長話を聞かされ、ユンの見舞いも出来ず仕舞いのうちに帰らされていた。
 何かが、変だ。アレクサンダーはそう感じていた。だが父親は、木曜日にこう言った。そりゃ考え過ぎだ、アレクサンダー。被害者意識にもほどがある、と。
 けれども、そんなアレクサンダーの違和感はやはり当たっていた。その答えが、帰路の途中で立ち寄った探偵事務所にて明らかになった。
「あんねー、コルトさん。うちらもこれ以上、限界なんですよー。アレックスちゃんときたら、自分からズブズブと溝に浸かりに行っちゃってて、引き留められないとこまでもう辿りついちゃってるんですよネー」
 探偵事務所、その入口の前で立ち止まったアレクサンダーは、中から聞こえてきた聞き覚えのある声に首を傾げさせた。
「コルトさーん、あんたアレックスちゃんのお父さんなんでしょ? ガツンと一言いってもらわなきゃ、マジで取り返しのつかないことになりますって」
 やる気がないような、ちゃらちゃらとした口調で、高速装填のマシンガントークを繰り広げているのは、アレクサンダーが通う学校の教員であるはずの女性の声だった。
 アレクサンダーは音を立てないように気を使いながら、少しだけ扉を開ける。それから手鏡を使い、うまく中の様子を映し出すと、声の主の容姿を注視する。
「現に水神ペルモンドがカンカンに怒っちゃってるし、水神の相棒カリスちゃんもぎゃうぎゃう言ってるし、うちの上官サーの逆鱗に触れることになるのも時間の問題って感じ。そのまえに、見えないボスが怒ってるかも。いや、もうキレてるか」
「ルーカン、ちょっと待て。カリスってのは誰のことだ? 聞いたこともない名前なんですが……」
「あっ、そっかー。パトリックは知らないか、カリスちゃんのこと。まっ、あの子が姿を見せるのって激レアで、見れれば奇跡ってレベルだしねー。あんね、チョー可愛いビッグなトカゲちゃんなの。蒼い鱗の、人語を操る賢いトカゲでね。背中に小さい翼が生えてて、その翼で低空飛行すんのよ。チョー可愛いの、マジで。んで自称ドラゴンの神様でね、トカゲって呼ぶとめっちゃ怒るのよー」
「ドラゴンだって? まさか、そんなのが存在するわけがないじゃないですか。子供だましなんかしないで、正直に白状してもらいたい」
「アタシはパトリックと違って、大嘘吐きなんかじゃないし。超正直者ですからぁー。本当のことしか言ってないもんねーっだ」
 手鏡で見えたのは三人の影。ひとつは白髪まじりな頭の中肉中背な男、つまりアレクサンダーの父親であるダグラス・コルトだ。もうひとつは低身長で子供っぽい体格の男、間違いなくあれはパトリック・ラーナーだ。そしてもうひとつは、一五五センチメートル前後の身長のやせ形の女性だった。
 明るい茶髪の長い髪は、ポニーテールに結われている。耳には大ぶりのワケの分からないファンキーなピアスを着けていて、服装はカラフルな水玉模様があしらわれた薄ピンク色のTシャツに、白地にぶりぶりフリルのミニスカート。膝上までを覆い隠すニーハイソックスは、蛍光色な目に痛いピンク色と黄色の太ボーダー。そして靴はパステルな色合いのブルーのパンプス。横顔から辛うじて見えた眼鏡の縁の色は、蛍光色な緑色。見るからにイタイその女性の姿に、アレクサンダーは自分の目を疑った。
「……マジかよ。あの人、ASI局員だったのか……?!」
 彼女の(今となっては偽名かもしれない)名前は、エリザベス・テイラー。アレクサンダーの学校でコンピューター技術、主にハッキングを教えている教員だ。
 「役に立たない座学より、実戦に重きを置く」という彼女の授業スタイルは学校内でも物議を醸しており、あまりにも内容がハイレベルすぎて追いつけないと嘆く生徒が多い。アレクサンダーも、その一人である。
 その所為か否かは分からないが、市内でもアレクサンダーの学校は、コンピューター技術の成績において最下位を争っていると聞く。けれども彼女の授業に付いて行けている極一部の生徒は、既に社会でも通用する技術を会得していて、そのスキルで小金を稼いでいるという噂もある。

 アタシが築くサイバー防壁には、侵入できる余地はどこにもない。それでいて防壁は、絶え間なく進化し続ける。難攻不落の空中要塞アルストグラン並みに、いやそれ以上に、ガードが堅いんだからね。

 それが彼女の、学校での口癖。今まではアレクサンダーも「そんな、馬鹿な」と思っていたのだが、彼女がASI局員であるという点を考慮すると……――事実なのではないかと、思えてきた。
「それは、取り敢えずまあ措いといて。ねぇー、コルトさん。アタシたちも、アレックスちゃんの身に何かが起きるっていうことを避けたいわけなんですよ。だから、あの双子ちゃんに関わってもらっちゃ困るんです」
「困るというのは、分かった。けれども、何がどうして」
「ごっめーんね、コルトさん。理由は言えないの。サーからの命令だからね」
「……サー、か。一体誰なんだ、その人物は。サーというのは名前じゃないだろう?」
「それも言えないのー。それに、アタシらもサーの本名は知らないんだよね。でも、サーはすっごーく良い人。少なくともペルモンド・バルロッツィみたいな、すぐに証拠隠滅を謀って事件を闇に直葬するようなクズじゃない。アバロセレンがらみのゴタゴタで、犠牲者が出ることがもう大ッ嫌いな人でね。今回の一件も、意地でも血が流れる事態だけは阻止しろって。ペルモンド・バルロッツィが手を下すような事態だけは絶対に防げって、もう血眼になっちゃってるの」
「アバロセレンがらみ?」
 アレクサンダーの父親の声が、やや上擦った。アレクサンダーも、手鏡から移る景色越しに息を呑む。
 するとパトリック・ラーナーの手が上がる。彼は横に並んでいた女性の頭をバチンッと容赦なく平手で叩くと、彼女の頬を抓りながら言った。
「余計なことを言うな、ルーカン。お前はちょっと静かにしてろ」
「すーみーまーせーんー。ちょっと痛いって、離してよ!」
 ルーカン。それが彼女の名前なのだろうか。
「その口を閉じろっつってンだ、聞こえねぇのか! でなけりゃベラベラとよく回るその舌を根元から引っこ抜いて、空洞になった口の中に押し込み、胃袋に流し込んで、二度と再生できないようにしてやるぞ!!」
「…………!」
「それでよし。暫くテメェは黙ってろ」
 そう言うとパトリック・ラーナーは、彼女の頬を抓っていた手を離す。一瞬にして起きた彼の豹変っぷりに、手鏡越しに見える父親の顔は凍りついていた。
 それからパトリック・ラーナーは一度咳き込むと、ややずれたネクタイを直し、営業用の人格に戻る。上辺だけのにこやかな笑顔を取り繕うと、嫌味の応酬が始まった。
「とにかく、本当に困るんですよ。私の友人や他の同僚にも協力していただき、この一週間はどうにかアレクサンダーさんからユニ・エルトル氏、ひいてはユン・エルトル氏を遠ざけることに成功しましたが、これ以上続けられるかどうかは怪しい」
「友人? それは誰のことだ」
「答えかねます」
「……」
「できればアレクサンダーさん、彼女のほうからあの姉妹を避けてもらえると助かるんですがー……」
 そのとき、手鏡越しにアレクサンダーとパトリック・ラーナーの目が合う。にやりと笑う彼の顔が、アレクサンダーの持つ手鏡に映った。
「盗み聞くような真似はやめて、こちらに来たらどうですか。アレクサンダー・コルトさん」
「……あ、アレックスが居る、だと?」
「壁にちらついていた手鏡の光、それと僅かにドアが開けられた音と、気配。こんなことにも気付けないなんて、探偵失格なんじゃないですか」
 せせら笑う声を聞き流しながら、アレクサンダーはそろりと静かにドアを開ける。そうしてひょっこりと顔を出し、苦し紛れの笑顔を浮かべた。
 アレクサンダーを見るなり、父親は頭を抱え込んで、一巻の終わりだと呟く。それに対してパトリック・ラーナーは、実に愉快気な笑みを口元に湛えていた。
「それにしても、どこぞやの大怪我を負った青年と違って、少しぐらい見込みがありそうだ。一流の技術さえ仕込めば、前線で活躍できる工作員になれる。そう思いませんか、お父様?」
「……ASIになど渡さん。何があっても、絶対に」
「ASIだなんていう、ちっぽけな組織に引き入れる気はありませんよ」
「何が言いたい」
「ASIの背後にある機関。実を言うと、このルーカンはそちらの人間でしてね。私はASIと機関を繋ぐパイプ役といったところでしょうか」
「……まさか……っ!」
「多分、それが正解でしょう。黒スーツの、あれ。それで今、人員が足りていなくて、かき集めているところなんです。そこでー……」
「答えは、ノーだ。帰ってくれ」
「まだ何も言ってないじゃないですか」
「取引だろう? 却下だ」
「内容を聞いてから、判断してほしいものですねぇ」
 パトリック・ラーナーはニタニタと笑い、父親の顔は次第に険しくなっていく。その後ろでアレクサンダーは、ぴりぴりとした緊張感が張り詰めている空気に、身動きがとれずにいた。
「私から、ひいては機関からの要求は、ひとつ。あの双子の姉妹に二度と関わらない、という約束。それだけです。それさえ呑んでいただけるのであれば、私どもがこれ以上どうこう言うことはありません」
「……」
「どうです? なにも難しい話じゃないでしょう。お互いにとって、これが一番いい話なんですから。あなたがたは、何も失わずに済む。こちらも、人員の確保は遠のきますがー……まぁ、当面は被害を受けずに済む。余計な混乱も生まれずに済むんです。あなたがたもアルストグラン連邦共和国に忠誠を誓う国民のひとりなのであれば、選ぶべき選択はひとつしかないことくらい、分かるでしょう?」
 アレクサンダーは、混乱していた。彼女の頭の中では止まらない思考の暴風雨が吹き荒れ、いつもの冷静さはどこかに飛んで行ってしまっていた。
 始まりは、ちょっとしたことだった。虐められていた少女を気まぐれで助けた、それだけのことだったはずだ。それなのに、いつの間にか全てがおかしな方向に進んでいた。
 エリーヌ・バルロッツィ。彼女から依頼を受けて過去の事件を掘り起こしたら、奇跡が起きて答えが見つかり、史実とは異なる事実が浮かび上がってきて、大罪人と仇名されていた一人の男の名前がそっと報われた。そこで、終わっていれば良かったのだ。アレクサンダーがそれ以上、あの姉妹と関わらなければ、全てがこうなることはなかったのだ。
 どうしてユンとユニの姉妹を、ASIは追い回しているのか。
 いったい、彼女たちがアバロセレンとどんな関わりがあるというのか。
 そもそも、彼女らは何者なのか……――。
 アレクサンダーは、それを知らない。知ってはいけないのだ。それなのに、部外者にも関わらず首を突っ込んだ。
 そのツケが、回ってこようとしていた。
「アレクサンダー。今の話を、聞いたな」
 それまで下を向いていた父親の視線が、アレクサンダーのほうに向く。
「……誓えるか。もう二度と、あの姉妹に関わらないと」
 パトリック・ラーナーの大きな目もアレクサンダーをじっと見つめ、“ルーカン”もアレクサンダーのことを見る。アレクサンダーは無言で、こくりと首を縦に一度だけ振り、頷いた。





「へぇ。あのキーキーうるさいハッカーの偽名が、エリザベス・テイラーだと。……あのクソブスが、かの大女優に失礼極まりないってもんだろ」
 コーヒーの芳しい香りが風に乗り、辛辣な言葉と共にアレクサンダーのもとに届く。さきほど精神科医の男から受け取ったコーヒー入りの大きな紙コップを、ベンチに座る男にそっと渡すと、アレクサンダーは静かに笑った。
「随分とあの人には厳しいんですね、ラーナー次長」
「ええ。彼女が保有するクラッキング技術には、一目置いています。なにせアルストグランでも唯一彼女だけが、ペルモンド・バルロッツィが構築したASIのファイアーウォールの突破に成功したんですからね。お陰で当時は機密事項がだだ漏れになって、大騒動に発展しましたよ。ですので彼女が持つ技術は、素晴らしいと認めざるを得ないでしょう。ですが……――それ以外は、ねぇ」
「というと?」
「あれと張り込みをしていた時でしたよ。静かにしていて欲しい状況で、あれにキーキーと騒がれ、その所為でターゲットにバレたことがありましてね。あの時は、本当に酷い目に遭わされました」
「……うわぁぉ……」
「違法ドラッグの密売人たち相手に、銃撃戦に発展し……。相手は二十五人、それに対してこちらは二人だけ。応援が来るのを二人だけで待ち続けたあの地獄の一時間だけは、忘れたくても忘れられませんよ」
 男の緩められたシャツの首元には、解けた黒のネクタイがぶら下がっている。脱いだスーツの上着を太腿の上に畳んで置き、疲れた表情で大荷物と共にベンチに座っているのは、パトリック・ラーナー次長だった。
 見るからにだらしのない姿を晒している彼の横に、アレクサンダーはちょこんと腰を下ろす。気味が悪いぐらいに人一人も居ない精神病棟前の庭園を前に、二人は並んで座っていた。
「それにしても、どうして君がこんなところに?」
 パトリック・ラーナーはそう言うと、受け取ったコーヒーを飲みながら、アレクサンダーをじっと見る。そんな彼の手は、どこか無機質で人間のものでないようにアレクサンダーには思えたが――まあ、今はそんなことなど関係ない。嘘を吐く理由もなかったアレクサンダーは、ありのままの事実を彼に伝えた。
「カルロ・サントス医師の計らいで、ここの看護助手をさせてもらうことになったんです。未経験なんで時給は低いんですけど、少しでも働けるなら、それに越したことはありませんし」
「カルロが、あなたを……――精神科の、看護助手に?」
「ええ、そうです」
 アレクサンダーは頷く。するとパトリック・ラーナーは、顔を引き攣らせた。
「よりによって精神科、それも精神病棟を選ぶなんて……。看護助手なら、もっと他にあったでしょうに。ここじゃない、他のところが」
「看護助手の仕事は、どこだろうが全部同じだって聞きましたけど」
「ええ、そうですよ。看護助手の仕事は、どこに配属されようが同じ。現代のポンコツな機械では出来ない仕事をやることです。ベッドメイク、食事や排泄、入浴の介助、その他雑用など」
「同じじゃないですか」
「ですけど。どう考えても精神病棟の看護助手は、ダントツでキツいに決まってるじゃないですか! あんな話が通じぬ正常でない者たちを相手に、毎日毎日……想像するだけで寒気が……」
「そうでもないですよ。ここには重度の患者さんは居ないですし、特に危険なこともないし。認知症のおばあさんと話しているときは、可愛さに癒されたりしますしね。案外、楽しいです」
「奇特な方ですねぇ、あなたは。私は仕事じゃない限り、こんなとこに近寄りたくないと思いますがねぇ……」
 白い目で自分のことを見てくるパトリック・ラーナーの視線を、アレクサンダーは苦笑いで躱す。それから、パトリック・ラーナーがしてきたものと同じ質問を、彼に投げ掛けた。
「それより、ラーナー次長はどうしてここへ?」
「仕事ですよ、仕事。そうでもなけりゃ、こんなとこに来ませんって」
「仕事……?」
「職業柄、こういった精神病棟にはよく行くんですよ。痴呆の老人から情報を聞き出してみたり、病棟に隔離されているイカれた狂人を相手に取引をしたり……。銃撃戦よりもキツい雑務でしてね、これが。特に、理性的な狂人を相手にした時が一番つらい。奴らは無駄に頭が切れる。文字通りの強敵ですね」
「へぇ……」
「それと、まだ鎖に繋がれていない狂人の精神分析を、カルロに依頼することがあるんです。あれは解離と人格障害の専門家で、その道じゃわりかし有名な分析家なのでね。連邦捜査局の高慢ちきなプロファイラーに頼むよりも、彼に頼んだほうが、正確なプロファイルが得られるんです」
「それで、今日はどんな用件で来たんですか?」
「言えません。秘密です」
 パトリック・ラーナーは真顔でそう言いながら、真っ白な綿手袋を両手にはめると、がさごそとベンチの下に置かれていた鞄の中を漁り始める。そして鞄の中から一冊の古びた手帳を取り出すと、その中身を読みながら言った。
「そうえいば、先日のお土産は観ていただけましたか」
 お土産。それは先日パトリック・ラーナーと“ルーカン”が探偵事務所に訪れたときに、父親にと置いて行ったものだ。
 中身はエリーヌ・バルロッツィに渡されたものと同一の内容が記録されている、監視カメラのビデオデータ。それをつい昨日、アレクサンダーは父親と一緒にびくびく震えながら観ていた。
「ええ、観ました」
 あのビデオデータの中には、“アルフテニアランドの悲劇”が起こる直前の様子が克明に記録されていた。映されていたのは発電所の中央制御室と思われる場所で、映像は二人の男が言い争っているところから始まっていた。
 ひとりは黒髪の男――過ぎ去りし日の、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚――で、彼はモニターに映し出された炉の映像を指差しながら、悲嘆に暮れた声で言っていた。もう終わりなんだ、暴走はどうやったって抑えられない、と。
 それに対してもう一人の男、枯草色の髪をした人物――全ての責任を押し付けられた死者――は、ひどく激昂していた。こうなることをお前は予測していたはずだ、それなのにどうして何も手を打たなかったんだ、と。
 それから暫く、温度差のある二人の会話が続いた。
『ペルモンド、お前ならこの事態を避けられたはずだろう!?』
『ああ、そうだ。だが……』
『幹部連中が、またお前の提案を一蹴したとでも言うのか!』
『……』
『いつも、いつも、お前はそうだ! 言い訳ばかりを連ねて、何もしない!! 的中してくれる不吉な予言を下すだけで、何もしないんだ! なぜ自ら行動を起こさない?! お前には実現できるだけの能力があって、金も権力も、必要なものは全て持っているだろう!? なぜ、それを使わないんだ!!』
 枯草色の髪の男は一際大きな声を上げ、黒髪の男を怒鳴りつけると、彼の胸倉を掴んで、突き飛ばした。それから枯草色の髪の男は、苛立った口調で訊いた。どうすれば、少しは時間を稼げるか、と。黒髪の男は答えた。
『……炉を、冷却するしかない。理論上は、それで少しは時間が稼げるかもしれない』
『どれくらい稼げる?』
『……分からない』
『ペルモンド!!』
『それぐらいアバロセレンは、未解明な物質なんだ! こんな事態が本当に起こるなど、俺も予測していないかった。誰も予想していなかった未知の事態が、今ここで起こっているんだ!!』
 枯草色の髪の男は、黒髪の男のその言葉を聞くと、決意を固めたように制御システムの前に立つ。黒髪の男に背を向けると、彼は最後にこう言っていた。
『……お前は、子供を連れて逃げろ』
 映像は、全てが不吉な光に飲まれるまで続いた。その映像の中で死んだ男は、アレクサンダーの目には悪人ではなく、英雄として映っていた。
 けれども、後世に遺された記録は誰かの手によって歪められていた。
「怖いでしょう、組織の闇ってのは。……命を賭し、最後まで勇敢に抗い続けた死者に、全ての責任を擦り付けて極悪人に仕立て上げるんですから。死人に反論する口はないからとはいえ、やり方が汚いといつも思いますよ」
 パトリック・ラーナーは微糖のコーヒーを不味そうに飲みつつ、片手間に手帳を開きながら、そう呟いた。呟いたその声にいつものような調子の良さは感じられず、アレクサンダーはそれが彼の本音なのだと受け止めた。
 きっと今の言葉こそが、精神科医の男が言っていた“パトリック・ラーナーの本当の顔”なのだろう。正義感の強い、どこまでも真面目な男。その片鱗を、アレクサンダーは感じ取った。
「不思議なものですよね。死んでいった勇者には謂れのない罪が着せられ、生き延びた正真正銘のクズ男には“建国の父”という称号が与えられたなんて」
「……クズ男ってのは、さすがに言い過ぎじゃ」
「そんなことありませんよ。現に、亡くなられた奥さまは彼のことをこんな風に表現しています。正真正銘のクズ男、って」
 ほら、ここに書いてありますでしょう。パトリック・ラーナーはそう言い、アレクサンダーに手帳の中身を見せ、その中の一文を指で指し示す。そこにはぐちゃぐちゃとした筆記体で『正真正銘のクズ男』と、たしかに書かれていた。
 それからパトリック・ラーナーは手帳の裏表紙をアレクサンダーに見せ、そこに書かれていた人名を指差す。ブリジット・エローラ。そんな女性の名前が書かれていた。
「つまり、それは高位技師官僚の奥さんの日記……?」
「調べ物をしていたら、偶然これを見つけましてね。ペルモンド・バルロッツィに渡そうかとも思ったんですけど、彼が『そんなものは要らない。適当に処分しといてくれ』って言うもんですから、こうして持て余しちゃってましてねぇ。エリーヌさんに預けようかとも考えてるんですが、なかなか渡せる機会がなくて」
 パトリック・ラーナーは悪戯を企む子供のような笑顔を浮かべながら、手帳をぱらぱらと捲っていく。いくら持ち主が死んでいるとはいえ、プライバシーとか、そういう概念はないのか? そんな疑問がアレクサンダーの中で湧きあがってきていたが、それ以上に書いてあることが知りたいという好奇心が彼女の中で勝っていた。
 そんなアレクサンダーのきらきら輝く目を見たからなのか、パトリック・ラーナーは饒舌に喋り出し始める。彼は持ち得ている情報を、アレクサンダーに披露してくれた。
「ブリジット・エローラ。彼女は町の小さなメンタルクリニックに勤めていた、非常勤の精神科医だったそうです。調べたところによると、彼女の評判は非常に良かったそうですよ。患者の心に寄り添うのが上手い医者だった、と。そして彼女の父親はリチャード・エローラ医師。彼は精神科医……というより脳神経科医だったそうで、自閉症やらサヴァンやらアスペルガーといった発達障害を専門としていたそうです」
「親子揃って、精神科医かぁ……」
「そう珍しいことじゃありませんよ。カルロもそうですしね。……っと。それは、さて措き。彼女の父親、リチャード・エローラ医師はその昔、突然アルフテニアランドに現れたひとりの少年にご執心していたみたいでして。その少年は戸籍に名前が無く、彼自身に記憶も無く、とにかく興味深い子供だったそうです。それでいて少年は、リチャード医師が試しにやらせた知能指数テストで驚愕の数値を叩き出し……」
「その子供が、どうかしたんですか?」
 アレクサンダーがそう訊ねると、パトリック・ラーナーはニヒヒと笑う。それから少し黙り込むと、彼は言った。
「その記憶喪失の少年が、のちに最凶の大天才ペルモンド・バルロッツィとなるんですよ」
「えっ……――えぇぇっ!?」
「少年は間違いなく、天才だった。特に素粒子物理学の分野において、その才能を発揮していたそうです。けれども、天才少年は万能では無かった。記録によると、重大な欠陥を抱えていたようです」
「けっ、欠陥?」
「人としての心。創造力と共感能力の著しい欠如が認められたそうです。それ以外にも、色々と出来ないことがあったみたいですがね。音感もリズム感もゼロで、歌えなかったみたいですし。リチャード医師はそのことについて、音痴のそれとは比較にならない、まるで朗読だ、と書いています。そのうえ、彼にとって音楽とは耳障りな雑音だったそうです。あと彼は絵画がすこぶる苦手だったそうだ。あっ、絵画といっても、自由に想像して絵を描くほうですね。デッサンやスケッチのように、モデルがあって、それを見たまま写すという行為は非常に得意だったようです。写真と見間違うような、写実的なスケッチをしてみせたと、リチャード医師の記録に書かれていました」
「……」
「そこでリチャード医師が下した診断は、自閉症スペクトラムのサヴァン症候群だった。まぁ、たしかに破格の頭脳と共にこれだけの欠陥を抱えていれば、その診断になったのも頷ける」
 サヴァン症候群。それは知的障害や発達障害を抱えている者の中でも、特定の分野において凄まじい才能を見せる者の症状を指す。
 ふぅん、あの人はサヴァンだったのか。そんな風にアレクサンダーが納得していると、横でパトリック・ラーナーはにやりと笑う。そして彼は言った。「けれども」
「……?」
「その診断を、娘であるブリジット・エローラ医師はこの日記の中で覆しています。彼が天才なのは確かだし、彼はたぶん自閉症スペクトラムであろう。けど彼はサヴァンではないし、重要なのはそこではない。彼が抱えている欠陥の正体は解離性障害からくる離人症と失感情症であり、ケアが必要だとすれば間違いなくその点だ、と」
「つまり生まれつきの欠陥ではなくて、なんらかの心的外傷が原因で……」
「そこら辺は、複雑みたいですねぇ。私は専門家じゃないんで詳しいことはあまり言えませんがー……ブリジット・エローラ医師の見解は、もとから彼は解離型自閉症スペクトラムを抱えていたが、幼少期に重なって起きた悲惨な出来事が追い打ちを掛け、彼を追い詰めた結果、欠陥が生じたのでは、となっていますね」
 読んでみますか? そう言うとパトリック・ラーナーは、綿手袋と手帳をアレクサンダーに渡した。アレクサンダーは綿手袋をはめると、手帳を捲る。筆記体の文字を目で追い、内容を読んでいった。
「ブリジットという人物は几帳面で、それでいて思いやりに溢れていた人物だったようですし、あのクソ野郎を心の底から愛していたようだ。そうじゃなければ、ここまで事細かに、あの男について書けないでしょう」
 ブリジット・エローラの手帳には、彼女がペルモンド・バルロッツィと過ごした時間のことが、詳細に描かれていた。どこに彼と出かけたとか、彼がどんなことを言っていたかとか、それに対して自分はどう思ったのか、とか。その大半は、精神分析だった。こう思うが、けれども彼はそうではないし、となると……。そんな文章が長々と続き、最後には“解離性障害”という結論に至っていた。
 そんな延々と続く分析の中に、時折混じる彼女の不満や愚痴は、ブリジット・エローラという女性が生きていたのだな、ということをアレクサンダーに感じさせた。
「……」
 豚肉をキッチンで焼いたら大激怒されたこと。あなたとの子供が欲しいと泣きついたら、ああだこうだと理由を付けられ、露骨に嫌がられたこと。家にひとつも鏡が無かったため仕方なくホームセンターで購入し、洗面台に取り付けたら、その日の晩に彼によって取り外されたのちに粉々になるまで粉砕されたこと。そんなエピソードたちの最後に必ず書かれている『一体、私はどうしたらいいの!』という殴り書きの文字には、血が通っていた。
 そんなこんな、にやにやと笑いながら手帳を見ていたアレクサンダーだったのだが、その手帳をパトリック・ラーナーにあえなく取り上げられる。続きはまた今度にしましょう、と彼は言う。そして手帳を鞄の中にしまいながら、彼はこんなことを打ち明けた。
「実を言うと、仕事のこともそうなんですが、今回はこの手帳をカルロに見せるために来たんですよ。そしてカルロが立てた見立ても、ブリジット・エローラと同じ。解離性障害からくる離人症と失感情症で間違いない。そう言ってました」
「それを確かめに来たんですか?」
「まあ、そうなりますね。それと、この手帳を見たときの君の反応が気になったっていうのもひとつ。君のお父様はとても理知的な人ですから、後々のことを見越して、この手帳に触れようともしなかった。けれども、どうやら君は後先のことをよく考えず、好奇心に任せて突っ走るタイプの子のようだ」
「……!?」
「ダグラスさんも、手の掛かる娘さんを持ったものだ。その腕時計型の通信機器に、盗聴器と現在地を特定するための発信機を仕込んでいるのも、納得がいく」
「と、盗聴器ッ?!」
 パトリック・ラーナーは意味ありげに笑うと、脱いでいたスーツの上着を纏い、荷物を抱えるとアレクサンダーに背を向ける。「そろそろ、あなたのお父様がこちらに到着するころじゃないですか?」と彼は最後に言うと、アレクサンダーに手を振り、庭園を去っていった。
 それとほぼ同時に、病棟の駐車場に一台の真っ赤なオープンカーが着く。オープンカーは、間違いなくアレクサンダーの父親のもの。そして車から降りてきた白髪交じりの頭の男は、紛れもなくアレクサンダーの父親だった。
「……おっ、親父……!?」
 その瞬間、アレクサンダーはパートの休憩時間がもうすぐ終わることに気付く。ベンチから立ち上がると、アレクサンダーは大慌てで病棟の中に戻っていった。
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