EQPのセオリー

11

「おぉ、アレクサンダーくん。来ていたのか」
 学校も休日であればバイトの予定もない、暇すぎる日曜日。アレクサンダーは、一週間以上が経過してもなお未だ眠ったままのユンの病室を訪れていた。
 そんなアレクサンダーに声を掛けてきたのは、先日ドクター・アルスルと言い争っていたあの精神科医。彼は白衣の袖をまくると、アレクサンダーの左隣に立ち、真っ白な眠り姫の寝顔を覗きこんだ。
「噂には聞いていたが、よく出来た人形のようにも思える子だなぁ……。美しいが故に、どこか人間的でなく、無機質な不自然さを感じる。クレメンテ・スシーニが生み出した蝋人形のヴィーナスたちに通ずる、そんな何かが……」
「スシーニのヴィーナスだって? あの腹がばっくり裂かれてる、解剖学のヴィーナス? 随分と趣味が悪い……」
「そういう君も、スシーニを知っているとは。なかなか趣味が悪いんじゃないのかい?」
「知ってるってだけですよ。好きじゃないです、あんな蝋人形」
 表情を歪めるアレクサンダーを横目に、精神科医の男はニタニタと笑う。彼はユンから視線を逸らすと、アレクサンダーのほうに向きなおる。そして自己紹介を始めた。
「そういえば、まだ名乗っていなかったね。私はただの精神科部長、カルロ・サントスだ。よろしく、アレクサンダー・コルトくん。君のあれこれについては、ぺヴァロッサムや友人のラーナーから色々と聞いてるよ」
「……ら、ラーナー? って、まさか、あの……」
「パトリック・ラーナーだ。大学の同窓生でね。奴は優秀なものが揃う法学部のなかでも、下克上で天辺にのし上がったエリートだったんだが……なにを血迷ったのかエリート街道を外れて、探偵兼記者なんていう仕事をやっている。君のお父さんとは、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の事件を追いかけている仲だそうじゃないか」
 色々と突っ込みたくなる個所が多い話だが、アレクサンダーは敢えて間違いを聞き流し、目尻をぴくぴくと痙攣させながら引き攣った苦笑いを浮かべる。握りしめた手には、気持ちの悪い汗を握っていた。

 この人が、パトリック・ラーナーの友人だって?
 じゃあ、ユンの騒ぎの中で偶然知り合ったんじゃなくて、
 あれは出会うように仕組まれてたってことか?

「どうしたのかね、アレクサンダーくん。顔色が悪いが。……もしや、ラーナーが嫌いなのか?」
「あっ、ああ、いえ、その……」
 言葉を濁すアレクサンダーの頭の中、そこでは無数の疑問が次々と浮かび上がっていた。
「つまり、嫌いなのだね」
 このカルロ・サントスとかいう精神科医はなんか怪しい。
 本当に彼は、ただの精神科医なのか?
 というか、そもそもパトリック・ラーナーっていうのは何者なんだ?
 ひとつの疑問が新たな違和感を呼び起こし、新たな疑問を生み出していく。その連鎖が、十数秒にも満たないような短時間のうちに何度も繰り返された。
 そして疑問は、不信感を募らせる。アレクサンダーは困惑したような気拙い笑みを取り繕い、訝る気持ちを悟られないように振舞った。
「……嫌いというよりかは、苦手ですね。食えない人ですから」
「まあ、分からなくもないな。奴とは長い付き合いになる私とて、あれの高慢ちきな態度と辛辣な言葉には呆れているくらいだ。付き合いの浅い人間の目から見たとき、あの男がどう映るのかくらい精神科医でなくとも察しがつく。だがなぁ」
「……」
「あれは、息を吸うように嘘を吐ける男だ。面白いくらいにな。つまり、本音のように聞こえる辛辣な言葉も、実は嘘であることが大半なのだよ。実際はヤツなりの謝辞であったり、心遣いだったりするのだ」
 ――……はい?
「二律背反みたいなことを言いますね……」
 もしかしてこの精神科医、本当にただの精神科医だったのか?
「二律背反、か。……パトリック・ラーナーという男を言い表すにふさわしいのは、その言葉かもしれんな」
「……つまり、彼の口から飛び出るほぼ全ての言葉が嘘である、と」
「そういうことだ。それにひん曲がっているように見える性根も、案外まっすぐだったりする。傍若無人なあの振る舞いはまるでサイコパスのようにも見えるが、あれはそう見えるように本人が装っているだけで、本当はサイコパスなどではないしなぁ。本来のパトリック・ラーナーは、正義感の強い、どこまでも真面目な男。君が思っているほど、ヤツは人間のクズじゃぁないさ」
「信じられません、そんな話。だって、あの人は」
 アイツは、使えないと判断したらすぐにニールを見捨てたじゃないか。
 アレクサンダーはそう言いかけそうになったが、すぐに言葉を止めた。精神科医の言葉に、思うところがあったからだ。
「人間というのは、一面だけで出来ているわけじゃぁない。場面に応じて使い分けられる、幾つもの“顔”という名の、心に着せる服を持っているからだ。服装を時や場所、目的で使い分けるように、人間は様々なものをその場に応じて変化させる。言葉遣い、下着の色、女性であれば化粧なども、TPOに応じて使い分けるだろう? それは“顔”も同じで、誰もが自然に行うものだ。それに解離という症状を起こした患者を見た君なら、よく分かっているはずだ。“顔”というものは時として、素の姿を微塵も感じさせないような、全くの別人格に変化し得るということを」
「……」
「だからこそ、ひとつの“顔”だけを見て、その人物の全てを推し量ろうとするのは危険なことだ。ゆえに、その人物が持つ“顔”を全て知らねばならない。それが精神科医の主な仕事だ。探偵というのも、似たようなものだろう?」
 まず、アレクサンダーには『パトリック・ラーナーという男はクソ野郎だ』という刷り込まれた先入観があった。アレクサンダーの父親がそう言っていたから、アレクサンダー自身もそう思ってしまっていたわけだ。
 それにあの男はとにかく口が悪く、実際に会ってみてからの印象も最悪だった。最悪な第一印象は先入観を助長させ、見事に『最低最悪のクソ野郎』認定をしてしまっていた。
 けれども、冷静に考えてみればニールへのあの処置は、適切な対応だった。寧ろ、優しすぎるくらいだ。もし仮に、パトリック・ラーナーが言っていた「そもそも君が私の任務を妨害してまで接触なんか図ってこなかったら」という台詞が本当のことなのであれば、ニールは危険にさらされたまま放置にされていたとしてもおかしくはない。だって彼は、それだけの馬鹿な真似をしたのだから。
 そう考えてみると……――あながち、この精神科医が言っていることは間違いでもないのかもしれない。アレクサンダーには、そう思えた。
「たしかに、アタシはパトリック・ラーナーっていう男のことを誤解してるのかもしれない……」
「誤解しているのかもしれない。そういった気付きは、相手を知るためにはとても重要なことだ」
 精神科医の男は、満足げにニヒヒと笑う。そしてアレクサンダーの肩に手を置くと、またアレクサンダーを精神科医への道に勧誘してきた。
「君の気があるならばの話だが、この間のあれはまだ有効だぞ? 精神科に興味があるなら、うちの付属大学に私から口を聞いてやれる」
「私立でない国立大とはいえ、やっぱり学費が……」
「獣医学校よりかは、安いんじゃないかと思うが。それにうちの大学は、主席入学者なら入学金は免除になるぞ」
「……めっ、免除!?」
「その後も好成績を収め続ければ、学費も少しは安くなる。君の学力がどれくらいかは知らないが、まあ収入の低い世帯の子でも希望はあるというわけだ」
 収入の低い世帯の子。そんな言葉が、アレクサンダーの胸にぐさりと突き刺さる。けれどもそれは、否定しようのない事実だ。
「その赤いレザージャケット、先日も君は着ていたね。随分と状態は良いが、年代ものだろう。新品だったのは二、三十年前と見える。お母様からのお下がりかね?」
「ええ、そうです。けど、どうしてそれを?」
 うちが他の家庭と比べて、なんとなくひもじいのは幼少期から分かっていた。それも親父が人探しボランティアばかりをやっていて、依頼主から成功報酬をとらないから。それにこの国では人間の働き口が少ないうえに、賃金が低すぎる! 母親が一体、どれだけのパートを掛け持ちしているのか。そう考えると、新しい服が欲しいだなんて……思っていても、言いだせなかったガキの頃。……とはいえ今はそんな現実に慣れ、特に不満にも感じていない。
 けれども進学先を決めるにあたって、学費というのは、アレクサンダーにとって大きな課題だった。
「君の身なりは、とても綺麗だ。服は清潔で、だらしなく着ることはせず、背筋も伸びていて、立ち姿もとても凛々しい。化粧も、君と同い年くらいの子供が好みそうな、汚らしいものではない」
「……」
「けれども、着ているもの自体はお下がりの古いものか、セールのときに一着ワンコインで買ったような安物だ。化粧品も、そこまで良いものは使っていないのだろう。精神科医でなくとも、よく観察すればそれくらい分かる。だがそれを感じさせないものを、君は持っている。きっとお母様の素晴らしい教育の賜物なのだろう」
「……えっと、つまり?」
「君みたいな子は、たとえ裕福でない家で育っていたとしても、出世するものなんだ。パトリック・ラーナーというやつは、まさにそうだった。あれの家は貧乏なうえに五人兄弟で、ヤツはその末っ子。主席で入学できていなければ、大学に進むことを親が許さなかっただろうと、ヤツは後から言っていたくらいだ」
「……」
「華々しい成功というのは金持ちの親を持つ子供にだけ与えられた特権だが、そこまでとはいかなくても、君のような素晴らしいものを持つ子は十分に活躍できる。だがそれも、機会が与えられればの話だ」
「機会、ですか」
 精神科医の男はニカッと笑うと、アレクサンダーに言う。だが機会というのは平等には与えられない。親が権力者であれば幾らでも巡り合えるが、そうでなければ人生のうちに一度か二度、巡り合えればいいほうだ、と。
「そして私は、君にそんな機会をぜひとも与えたい。というのも私は、君のような凝り固まっていない目を持った者と仕事をしたいと思うからだ」
「……」
「うちの精神科医はどいつもこいつもポンコツばかりだ。精神科というのは医学界においても異質である主観的な分野とはいえ、うちのバカどもは主観的になりすぎている。患者の視点というものを忘れてしまっているのだ。それにペヴァロッサムも言っていたように、薬さえ出せば病が治ると思い込んでいる。何よりも必要なのはカウンセリングだというのに、一番大事なカウンセリングをおざなりにして、患者を更に傷つけ、ズタボロにしていくんだ。そうしてまた処方箋を出し、薬漬けにし、金を毟り取る。患者を救うなんてことを、奴らは全く考えていないんだ。同じ精神科医として恥ずかしくもなるさ」
「……」
「だが君は、そうではない。相手の視点に立ち、時には誰でもない第三者の視点に立って、考えることが出来る。それが出来る者は、実に少ない。素晴らしい才能だよ」
「……才能……うーん……」
「精神科に勤めれば、そりゃあ地獄のように辛い日々を送ることになる。だが、それ以上のものがある仕事だ。死を考えるほどにまで追いつめられていた患者が、無事に治療を終えて社会に復帰し、消えていた笑顔を見せてくれる度に、この仕事をやっていて良かったと思える。まぁ、そんな風に上手くいった例は極稀なんだがね。それでも、誰かの心を暗闇の底から救うというのは、体に出来た腫瘍を取り除くことよりも辛い仕事ではあるが、よっぽど遣り甲斐がある」
 とはいえ、全ては君次第だ。精神科医の男は最後にそれだけを言うと、アレクサンダーに名刺を渡して、ユンの病室から去って行った。
 そしてアレクサンダーは渡された名刺をじっと見つめながら、黙り込む。彼女の心は静かに、だが大きく揺さぶられていた。





 翌朝。月曜日を迎え、また退屈な一週間が始まったと嘆く学生たちを横目に、アレクサンダーは通学用のバスに一人で乗り込む。ニールは入院中で居なければ、ユニの姿も見当たらず、これといって話すような知り合いも見当たらない車中。アレクサンダーは久しぶりに、静かな朝を過ごしていた。
 ……と、アレクサンダーは思っていたのだが。
「アレックス。アンタにひとつ、言っておきたいことがある」
 アレクサンダーは名前を呼ばれたような気がして、声が聞こえてきたほう――つまり背後――をちらりと見やる。そこに立っていたのはチャラチャラとした見た目の、染色ブロンドの女。彼女は、ユンをこっぴどくいじめていた女子生徒だった。
「……何の用だい。アタシゃ朝から喧嘩を買うつもりはないよ」
「私も同じ。朝っぱらから喧嘩を売るつもりはない」
 学生でぎゅうぎゅう詰めになっている車内。周りにいる者たちを押しのけ進むと、彼女はアレクサンダーの真横に並ぶ。そしてアレクサンダーを睨むように見ながら、彼女は言った。
「アレックス、アンタさ。最近、ユンに肩入れしてるでしょ」
 そう言いながら彼女は、アレクサンダーの左肩を右手で、ぎゅっと力強く掴む。握り方や力の強さはまるで、パラシュートなしで崖から飛び降りようとしているバカを、言葉なくして引き留めようとしている者のようだった。
 アレクサンダーは掴んできた手を強引に引き剥がすと、彼女が抱えている大きな鞄の中をちらりと覗き込む。すぐに鞄の中から取り出せるよう、一番上に積まれていた学生証。そこに書かれていた名前を、アレクサンダーは一瞬にして読み取る。
 名前はアビゲイル・ミカエラ・イェドリン。性別は女。生年月日はー……奇遇だ、アレクサンダーと同じである。そして血液型はO型。これまたアレクサンダーと同じだ。
「……別に、そんなんじゃねぇさ。仮にそうだとしてもだ。アビゲイル、あんたに関係があるのか?」
 こうまで同じだと、なんだか気恥かしいというか、気味が悪いというか。アレクサンダーは彼女から視線を逸らし、バスの窓から見える外の景色を、緑色の瞳で追いかける。その後ろでアビゲイルのほうは、アレクサンダーを怪しんでいるかのような顔をしながら、こう言った。
「あるよ。だから忠告しておく。アイツに深入りしないほうがいい。それと、姉のユニのほうにも」
「……はぁーっ、まったく。なんでどいつもこいつも、口を揃えて同じことばかりを言うんだか……」
 ユン、ユニ。あの姉妹に関わるな。そんなフレーズを、アレクサンダーは近頃よく耳にしているような気がしていた。
『ユンとユニという双子には特に近付かせるな。……でないとお前の娘は、闇に喰われるぞ』
 そう言っていたのは、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚だ。どういう意図があって、彼がそんなことを言ったのか。そればかりはアレクサンダーに分かるはずもない。
 ただ、そのときだけ低く単調になった高位技師官僚の声色はよく覚えているし、それが表す意味だけはアレクサンダーも理解していた。アレクサンダーの身を案じているかどうかは分からないが、少なくとも彼は真剣にそう言っていたのだ。
 それに、以来アレクサンダーの父親は口を酸っぱくしてこう言うようになった。
 事情は分からんが、高位技師官僚がああ言っていたんだ。あの姉妹と、お前は距離を置くべきなんだよ。
「ユン・エルトル。アイツがどんな病気かは、私だって十分理解してるつもり。これでも昔は、お互いに親友って呼び合うくらいに仲良かったんだ」
「ならなんで、あんな真似をするんだい」
「単純な話。アイツのことが、大嫌いだから」
 けれども、他者から「あの子とは距離を置いたほうがいい」と言われたからといって、黙って従えるほどアレクサンダーは素直ではなかった。それに、それまで親しく接していたはずの人間から理由もなく唐突に離れる、という無神経な行為がアレクサンダーには出来なかったのだ。
「大嫌いだから? だったら、集団リンチをしても構わないってのかい?」
「……自分が何をしたのか、それは反省してるし、後悔してる。もうやらない」
「絶対だな?」
「当り前だよ」
「それを、ユンにも言うべきじゃないのか」
「それは、嫌だ」
「嫌も何も、あんたは謝るべきだ。自分が何をしたのか分かってンなら……」
「アイツの顔はもう見たくないんだ。もう二度と、あんな目に遭いたくないから」
「あんな目にって、どんな目さ? あんたがユンにしたこと以上に、自分はユンに酷いことをされたとでも言いたいのかい」
 素直でないからなのか、不器用だからなのか、はたまた彼女たちの傍から離れたくなかったのか、それとも非道い人間だと彼女らに思われたくないからなのか……。
 アレクサンダー自身も、自分がそのうちのどれに当てはまるのかがまだ分かっていない。だが、どれであろうと結論は変わらない。彼女らとどうしても縁を切らなければいけないような切羽詰まった理由が、アレクサンダーには無いからだ。
「去年の話だよ。アイツの病院に、百合の花を持ってお見舞いに行ったとき。あの独房みたいな病室に入って、いつもどおり眠ってるアイツの顔を見てから、花瓶の花を差し替えたんだ。そしたらアイツ、急に目覚めて、悲鳴を上げて……」
「別人格に変わってて、状況が理解出来なかったんだろう」
「ああ、そうだよ。アンタの言う通りだった」
 そう言うと、アビゲイルは溜息を吐いた。彼女は染色ブロンドの痛んだ髪を掻きあげると、今度は苛立ったように舌打ちをする。
 それから彼女はあの時に起こった出来事を、刺々しい口調で語り始めた。
「自分はレイリィだって言って、それからアイツ、私に襲いかかって来たんだ。花瓶から差し替えたばかりの百合を抜いて、床に捨てて、花瓶は私に投げつけてきた。殺されるかと思ったんだ、あのときばっかしは」
「……レイリィ、か。初めて聞く名前だな……」
「それから騒ぎを聞き付けた医者が来るまでずっと、アイツは私に酷い言葉を言ってきた。私が悪魔だとか、死ねだとか、近寄るなとか」
「あんたも同じ言葉をユンにぶつけてただろ? おあいこじゃないのか」
「そのうえ、殴られたんだ! やめろっつっても聞かなくて、しつこく何度も何度も、馬乗りの状態で顔を殴られ続けたんだ」
「仕方ないじゃないか。凶暴な人格が、時として作られ……――」
「分かってたよ、勿論! アイツはそういう病気なんだって、頭では分かっててた!! それでも、許せなかったんだよ!」
 急に声を荒らげたアビゲイルに対して、窮屈なバスの中はざわめきを見せる。視線はアビゲイルに集中し、彼女は居辛さを感じたのか、また誰に向けられているのかも分からない舌打ちをする。彼女の顔は青ざめ、握りしめられていた拳はぷるぷると震えていた。
 けれどもアレクサンダーは窓の外を流れゆく景色を見つめるだけで、何もしない。もとより、アレクサンダーにしてやれることなど何もなかった。
「……だから、もう二度とアイツの顔を見たくないんだよ。アイツが学校に来ることが、平然と私の前に現れてくることが許せないんだ。あのときのことを覚えてないって言い張って、今でも友人ヅラしてくるアイツが、憎くて憎くて、仕方無いんだよ」
 アビゲイルは声を静め、呟くようにそう言うと、またアレクサンダーの肩を掴んでくる。
「それにアイツが、私じゃない新しい人間を捕まえて、私と同じ目に遭わせようとしていることも、同じぐらい許せないんだ。だから、アイツに深入りするなって、そう言ってんだよ……」
「……」
「アイツは、アイツこそ悪魔なんだ。魔性みたいな性格で人を引き寄せて、人の良心を食い潰すんだよ。それにアイツの双子の姉だっていうユニも、変な奴なんだ。だから、あの双子には!」
「何があっても、アタシは対処できる。あんたとアタシは、違う」
 アレクサンダーの肩を掴むアビゲイルの力は、次第に強くなっていく。だがアレクサンダーはそれを更に上回る力で、彼女の手を自分の肩から引き剥がした。
 それからアレクサンダーは後ろにちらりと向き、アビゲイルを睨む。そして皮肉を吐き捨てた。
「そんなにユンが憎いならさ。アビゲイル、あんたがここを去ればいいじゃないか。そうすればあの子だって、あんたの前に現れなくなる。あんたも、あの子の顔を見なくて済むようになる。そうだろ?」
「そ、それは……!」
「それに、アタシもあんたの顔を出来れば見たくないんだ。アタシの前に、もう二度と現れないでもらえるか?」
 染色ブロンドの髪が揺れ、けばけばしい化粧が施された顔は引き攣り、怒りや憎しみを超えた感情――嫌悪や、恐怖に近しいもの――に歪む。それと同時はバスは一際大きく揺れると、学校前のバス停に停車した。
 アレクサンダーは人を掻き分け、我先にと降りていく。その様子を、バス車内の監視カメラを通じて、別の場所から観察していた一人の男は、呆れたような声で独り言を呟いた。
「また一人、魔性の少女が張り巡らせた蜘蛛の巣に掛かったか。――……ったく、パトリック・ラーナーの野郎。またヘマこきやがったな……」
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