EQPのセオリー

10

「ああ、マジだ。信じられねぇような話ではあるけどさ、俺はあのペルモンド・バルロッツィに命を救われたらしいんだ。あの人、本当に強かったぞ。銃を持った屈強ゴリマッチョ男を、素手の攻撃で圧倒してたんだからな。動きとかは早すぎて、見切れなかったぜ。それでゴリマッチョから銃を一瞬で取り上げて、威嚇射撃からの早撃ちで右肩にズドン。大男が尻尾巻いて逃げていく姿ってのは、マジで笑いもんだったぜー。ハッハ!」
「……あぁ、はい、そうですか」
「それにさ、すっげぇカッコよかったんだぜ、あのオッサン。俺、人生で初めてちゃんと決まったキメ台詞を聞いたよ」
「……」
「ゴリマッチョの右肩を撃ったあとにさ、あの人、おどけた調子で『次は眉間を狙うぞ。あぁ、念のために言っておくと俺は狙いを決して外さない。リングバインダーもチョークも銃弾も、百発百中だ』って! ニタニタ笑いながら言ってるから、それが余計に怖くってよ! アハハッ、ヒヒッ……ギャハハッ!」
 ほぼ全身を包帯でぐるぐる巻きにされたニールは、そんなことを話しながらゲラゲラ笑う。
 入院してからずっと、彼はこんな調子だった。きっと薬が悪い方向に効いてハイになり、笑い上戸にでもなっているのだ。
「いやー、でもマジでアレックスには感謝。マジ感謝してんぜ。それにしても、なんで俺ンことを助けに来てくれたんだ? 絶交宣言してきた翌日だったってのに」
 ニールはそう言うと、またゲラゲラと笑う。そんな彼に向ってアレックスは、昨日送り付けられてきたメールを見せつけた。けれどもニールは文面と自分が写った写真を見るなり、その顔色を変えた。
「……てめぇのアドレスから、アタシ宛てにそりゃぁもう酷いメールが送られてきたからだよ。てめぇがボッコボコになった姿と、脅迫文。放っておくわけにゃいかねぇだろうが」
「警察に相談とか、してねぇの?」
「するわけがねぇだろ、あんな組織に。先日のウィキッドの件で学んだんだよ、あそこの上層部ってのは、親父が言ってた通り腐ってるってな。どこの国だろうと、組織ってのは似たようなもんらしい。なっ、親父」
 アレクサンダーは横に立っていた父親に、目配せをする。父親は頷くと、口を開いた。
「そういえばだ、ニールくん。先ほどやっと、君のお母さんに連絡がついた。ちょうど今さっき仕事が終わったばかりだとかで、家に帰らず、こちらに来てくれるそうだ。それと、情報筋によればパトリック・ラーナー殿もこちらに向かっているらしい」
「……きょっ、教官?!」
「全く、まさか君がASI側の人間だったとは。灯台下暗しとは、まさにこのことだ。……高位技師官僚殿も仰っていたが、君はまだ若い。未来がある。危ないことに首を突っ込むものじゃないし、何よりー……」
 父親はニールから一瞬だけ目を逸らすと、一度咳払いをする。そして父親は、ニールに言った。
「ニールくん、君に諜報員は向いていない。今だって、パトリック・ラーナーの名を出した時、君は咄嗟に『教官』と言った。これはアレクサンダーにも言えることだが、君にポーカーフェイスは無理だ。一瞬をやりすごす能力はあるものの、嘘を塗り重ね続けることが君には出来ないんだよ。嘘を吐くことに必要以上んい罪悪感を感じ、やがてボロが出るから」
「……」
「諜報員に向いている人間は、日常的に嘘を吐ける人間。それでいて、そのことに罪悪感を感じない人間だ。それはまさに、君の教官のような人物だ。パトリック・ラーナー、ありゃ真性の悪魔だ」
 そんな父の言葉に、ニールは苦々しい表情を見せる。おじさんも、やっぱりそう思いましたか。苦し紛れに笑いながら、ニールはそう呟いた。
 と、そんなとき。病室のドアがコンコンッと叩かれる。そうして開いたドアからは、灰色のスーツをビシッと着こなした子供のようにも見える、随分と背丈の低い男性が現れた。
「私も同じ見解ですよ、ダグラスさん。ニール・アーチャー、彼は嘘が下手クソだ。だから私も、アルストグラン秘密情報局局員にすべく彼に目を掛け、育ててるわけじゃありません。連邦捜査局の特別捜査官なら適性があると思いますので、そこのアカデミーに通わせられるぐらいのスキルを身に……――」
「要点だけを簡潔に言っていただけませんかねぇ、ラーナー殿」
 父親は、ドアから現れた男――ASI局員、パトリック・ラーナー次長―――の話を遮るように口を挿むと、彼に向ってチッと舌打ちをする。警戒心も嫌悪感も丸出しのそんな父親の姿に、横に立つアレクサンダーも、ベッドの上のニールも、少しだけビビッていた。
「……まったく、あなたもどこぞやの鷲鼻クソ眼鏡ジジィみたいなことを言うんですねぇ、ダグラスさん。ペルモンド・バルロッツィ、あのクソジジィの口癖はこれですよ。『話がくどい、要点だけを述べろ』ってね。いやぁー、業務連絡ならともかくとして、他愛もない雑談、取るに足らない与太話のたぐいを簡潔に纏めろってのは……――どうなんでしょう? 要点だけを述べろって言われましても、瑣末なものに要点なんてそもそも存在しないんですから。それにー」
「私は、あなたと仲良く世間話を交わす気はありません。できれば、一刻も早く帰っていただきたいんです。なので、要件をさっさと済ませてはもらえませんか?」
 父親の顔は、ますます険しくなっていく。鬼のようになったその形相に、アレクサンダーは思わず息を呑んだ。
 けれども、そんな父親のことなど気にもしてないのか、パトリック・ラーナーという男はニコニコと笑いながら喋り続けた。
「はぁー、やっぱり私は嫌われてるってことですねー。あぁ、私が悪魔のような人間だっていうのには概ね同意ですよ。自分自身、そう思っていますしね。人を唆し、陥れることは大得意。それに大好きです。裏切られた瞬間に人が見せる、悲愴感ただようあの顔が私の大好物でしてね。それを見たいが為だけに、こんな仕事をやってるようなもんです。サイコパス的性格を有効に活かすことができる今の職場は、まさに私の天職ですよ。はははっ」
「……」
「新鮮な屍を踏んで潰して揉み消して、よく肥えて太った上司を気絶させて蹴り落として屠畜場送りにして……。実に楽しい、愉快な職場です。ええ、そりゃぁもう。毎日サイコーです」
 いちいち悪趣味な言葉のセンスに、アレクサンダーも次第にパトリック・ラーナーに嫌悪感を覚え始める。ニールは気まずそうに鼻の頭を掻きながら、たじたじとしているという様子だった。
 パトリック・ラーナーという人物は、先日父親が言っていたとおりの男だった。童顔で身長も低くて、げじ眉で、目も大きくて二重でパッチリしていて……。十三、十四の子供と言われたらそう思ってしまうような、幼い容姿をしていた。
 けれども、そんな容姿とは裏腹に、性格は非常に悪そうな感じだ。性根が腐りきっていて、歪んだ自己愛に満ちていて……――それはまさしく、サイコパスとたとえるべきもの。
 こんな人が、ジェーン先生の弟だなんて。アレクサンダーはむっと眉間にしわを寄せる。と、そのときアレクサンダーは違和感を覚えた。
「よく肥えた豚はね、屠畜場に送らなきゃ駄目だと思うんですよ。そこでお肉になってもらうんです。それが世のため人のため、って思いませんか? だって放っておいたら、国民が得るべき利益を食い潰してしまうんですから。ねぇ?」
 ミランダ・ジェーンの肌は、褐色だ。それなのにパトリック・ラーナーという男の肌は、真っ白だった。
 とはいえ目鼻立ちは、兄弟であると思えるほどよく似ている。二重瞼の感じも、目の形も、唇の厚さも、同じぐらいなのだ。
 ならば、このパトリック・ラーナーという男は肌の色を変える手術でも受けたのだろうか? いや、だとしたらあまりにも肌色が自然すぎる。だって、そういう手術を受けた人ってのは、やっぱり人工物めいた違和感ってのがあるもんだし。それに、何で受ける必要が? 大昔ならさて措き、今は肌の色の違いで人間を差別するような時代じゃない。だとしたら、何だ?
 アレクサンダーの中で疑問は尽きないが、ひとまずそれをアレクサンダーは頭の隅に追いやる。

 きっと色々あるんだ、家族間の問題とか。
 そこに赤の他人であるアタシが首を突っ込むのは、筋違いだろうし。
 けど、だけど……――やっぱり気になる。

「とはいえ、べーらべらべーらべーら喋って、相手の気を逸らさせることが私の仕事ですし。悪く思わないで下さいね。ほら、仕事なんで」
 パトリック・ラーナーは依然喋り続けたまま、携えていた鞄の中をがさごそと漁る。そして彼はひとつの書類の束を取り出すと、それをベッドの上に寝ていたニールに見せた。
「さてと。要件は、これだけです。アーチャー、この書類の必要事項をちゃちゃっと埋めちゃって」
 そう言うとパトリック・ラーナーは、ニールに書類の束を押し付けるように渡す。そうしてペンを渡し、今すぐここで記入するよう促すのだった。
「住所、連絡先、生年月日、その他諸々……。それさえ済めば君はハイスクールを卒業次第、連邦連邦捜査局の特別捜査官育成アカデミーに入学することになります。おめでとう。それで君は晴れて、特別捜査官候補生になる。この件は昨日、私の方からお母様に話させていただきました。喜んでいましたよ、あなたのお母様。大賛成ですって。息子がこの国を守る英雄になるんだから、そりゃまぁ当然ですよねぇ。さっ、早く書いてね。ほら、早く」
「えっ、教官。ASIに入局するって話は……」
「だから、言ったでしょうに。君にその素質はありません。代わりに特別捜査官の適性は十分にある。とはいえ、採用するかどうかは連邦捜査局が決めることですがね。それで、この書類は推薦状です。まぁ? 私の名義を借りてるんだから、採用は間違いなしと思ったほうがー」
「教官、それでは話が違っ……――」
「これ以上、君をこの件に巻き込むわけにはいかないんですよ。なんせ君はクリーンな経歴を持つ、将来有望の金の卵ですから。そこのダグラスさんの娘さんとは違って、君はまだ引き返せるからねぇ。今のうちに手を引けば、この国の暗部は君を追うのをやめるんだ。だから、ここは大人しく従ってもらいますよ」
 ニコニコとした穏やかな表情とは裏腹に、パトリック・ラーナーの声の調子は、猛毒でコーティングされた鋭く細い針を幾本も隠し持っているかのような、刺々しいものへと変わっていく。直接的な言葉こそなかったが、その態度はまさに物分かりの悪い子供を軽くあしらうような、上から目線の冷たさが剥き出しにされていた。
 けれどもそんな態度や口調とは反対に、言葉だけを切り取って見てみれば、パトリック・ラーナーという男はなんだかんだでニールの身を案じているようにも聞こえる。
 どこまでも不可解な人物だな、とアレクサンダーは顔を顰めさせる。それと同時にアレクサンダーは、暗に自分のことを言っているのであろう言葉に首を傾げた。

 ニールは引き返せるが、アタシは違うって?
 そもそも、何から手を引けって言うのさ。

「アーチャー、必要事項にサインを。これは君を守るために必要な手段なんです。……高位技師官僚を狙うアルストグランの闇も、さすがに連邦捜査局の特別捜査官には手を出せませんから」
「ですけど」
「アーチャー、これは決定事項です。君に拒否権はありません。そもそも君が私の任務を妨害してまで接触なんか図ってこなかったら、こんなことにはならなかったんですから。だから今すぐここで、書いてください。足の骨は折れてると聞きましたが、手の骨は折れちゃいないんだ。文字ぐらいちゃちゃーっと書けるでしょうに。ほら、早く。私は忙しいんですよ、これ以上このことで手古摺らせないでください。それに全部、君の所為なんだから。自業自得ってやつですよ。私があなたに命じたのはミランダ・ジェーンの監視だけ。コルト親子のCの字すら、私は君の前で一度も口にしたことはないっていうのに、君は勝手なことばかりするんですからねぇ。そんな危険な子を、ASIが雇うわけがありません。分かりましたか、アーチャー? けど、ここで君を見捨てるわけにはいかないんですよ。そうするとペルモンド・バルロッツィに私が怒られて、私の首が飛ばされるのでね。だから、早くサインを。私のキャリアが危ういんですよ、分かりますか?」
 早口でそう捲し立てるパトリック・ラーナーは、ニールの手に半ば強引にペンを押しこめ、早く書くようにと促す。するとニールは彼には勝てないと踏んだのか、ついに諦め、大人しく書類にサインをした。
 そうしてニールが一通り書き終えると、パトリック・ラーナーはすぐに書類の束を取り上げ、自分の鞄に押し込む。そして彼は去り際に、アレクサンダーの父親に向かって深々と頭を下げると、最後にこう言った。
「アルストグランの裏事情にお詳しいダグラスさんであればー……ですが、どうか例の件は内密にお願い申し上げます。ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚は今もなお消息不明で、民間人の前に姿を現すはずがないのですから。彼の足取りを知る者は誰もおらず、あなたたちが昨晩見たのは、貧困層であるヨーロッパ系移民のチンピラ共と、それに運悪く襲われたニールくんだけです。……それでは、私は失礼させてもらいます」
「……口裏合わせか。まったく、これだからASIの連中は嫌いなんだ」
 鞄を持ったパトリック・ラーナーは静かに病室を立ち去り、アレクサンダーの父親はその背中を睨むような目で見送る。そして彼の姿が見えなくなったのを確認すると、アレクサンダーは口を開いた。
「おい、ニール。ありゃどういうことだ」
「ど、ど、どういうことってのは、どういことだ?」
「パトリック・ラーナーが命じたのはジェーン先生の見張りだけ。アタシと、親父の監視はテメェが勝手にやったことだってのは、どういうことだって聞いてんだよ」
「ああっと、その、えーっと、それはだなぁ……」
「つまり、勝手にやったってことだな?」
「……本当に、すまないと思ってる。ホント、マジで」
 アレクサンダーはぎりりっとニールを睨み、ニールはそんなアレクサンダーから視線を逸らしながら、引き攣った作り笑顔を取り繕う。だって、仕方無かったんだ。ニールはそう言うと、言い訳を述べた。
「聞いちまったんだよ。お前のことを狙ってるっつー連中がいるっていう話を、教官が誰かとしてたのを。だから、放っておけなくてさ」
「はぁーっ、呆れた。だったら何か……――」
 言い訳を述べ終えたニールは、気拙そうに顔を俯かせる。そんなニールに対しアレクサンダーは、厳しい視線を向けた。そしてアレクサンダーが続きの言葉を発しようとしたとき、その前に父親がアレクサンダーを制した。
「アレクサンダー、それぐらいにしておけ。ニールくんだってお前のことを思ってくれてたわけだ。これ以上責めたら、さすがに彼が可哀想だぞ」
「けどよ!」
「監視されてたっていうので、気分が悪いのは分かるさ。けれどだ、アレクサンダー。この国において国民は、国家権力やら何やらに日常的に監視されてるようなものなんだ。だからこの国はとても平和で、民間人は過ごしやすくなっている。……とはいえそれも、根本的な解決がなされていない上辺だけの平和でしかないがな」
 言い終えると、父親は浮かない顔で重たい息を吐く。そうして訪れた数十秒ほどの沈黙。けれども、そんな沈黙も慌てふためいたような足音と、勢いよく開けられたドアの音によって破られた。
「うちのバカ息子は、また何をやらかしたの! アレクサンダーちゃんにも、ダグラスさんにも迷惑を掛けて……――まったく、このアホンダラは!」
 怒鳴り声と共に、やってきたのはニールの母親。ニールの母親の顔は怒りに震え、唐辛子のように赤くなっている。だが反面、その両手は血が止まっているかのように、蒼白くなっていた。
 ニールの母親は赤く火照った顔を、顔面蒼白のニールに近付ける。そして彼の目と鼻の先で、怒鳴った。
「何があったの、ニール! ちゃんと説明して!!」
「……えぇっと、そのー……」
「どうして、サンレイズ研究所なんていう郊外に出かけたの?! 母さんがどれだけ心配したか、アンタは分かってるのかい!?」
「……頼むから、母ちゃん。とりあえず落ち着けって、なぁ?」
「このバカッ、誰がこの状況で落ち着けるもんですか! 大事な一人息子が大ケガをして病院送りになるだなんて、心配しない親がいるわけないでしょう?!」
 ニールの母親は、次第にヒートアップしていく。大ケガをしてベッドに寝かされている息子の胸倉を掴み上げると、ニールの母親は彼の耳元で叫び始めた。
 そんな母親を相手に、ニールはどうすることも出来ないというような困惑した表情を浮かべる。それを見かねたアレクサンダーの父親は、ニールに助け船をそっと出した。
「ヨーロッパ系移民のチンピラですよ。サンレイズ研究所跡地付近には、そういった移民が集まるスラム街がありますからね。彼らが望んでいたものをニールくんは生憎持ち合わせていなかった、だから彼らの機嫌を損ねて、このとおり病院送りになってしまったというわけです。……君もまだ未成年なんだから、夜中に町を出歩く時は十分気をつけるんだ。それと、危ない場所には不用意に近付かないこと。分かったか、ニールくん?」
 
 このジジィ。今、さらっと嘘を吐きやがった。

 そんな独り言を言いかけたアレクサンダーの口を、父親はすかさず手で覆い隠して塞ぐ。ニールは無言でこくりと頷き、彼の母親はそんな息子の頭を平手で叩いた。
 聞くにも堪えないような、痛々しい破裂音がニールの頭から鳴る。それから彼の母親はアレクサンダーらのほうに向くと、深々と頭を下げた。アレクサンダーにとっては、本日二度目の光景だ。
「うちの息子が、ご迷惑をおかけしました。本当に、なんとお礼を言えば……」
「いいんですよ、バーバラさん。うちのこの可愛かない娘も、度々おたくに迷惑をお掛けしてるわけですし。持ちつ持たれつ、貸し借りはなしってことで」
 それでは、失礼します。父親はそう言って軽い会釈をニールの母親にすると、アレクサンダーの口を塞いだまま、アレクサンダーを引きずるように病室を後にする。
 それからアレクサンダーは車の中に放り込まれ、家に着くまでの間、父親から「余計なことを言うな」だの「ASIに目を付けられるような真似を、お前は一体いつしたんだ?!」などと小言を言われ続けたのであった。
「ASIに目を付けられるような真似をいつしたか、だって?! アタシのほうがそれを聞きたいよ!!」
「お前はどうせ、気付かぬうちに余計なことに首突っ込んだんだろ?! 正直に言え、お前はエリーヌさんの娘に何をした!?」
「何もしてねぇっつってンだろ?! フツーに、友人として接してただけだってのに、なんでこんなことになってんだよ! ワケ分かんねぇーんだけど!?」
「父さんのほうがワケ分からん! この猪突猛進のバカ娘が、行動に移す前にもう少し考える時間を設けろ! お前がとる行動の一つ一つに責任が付きまとうことを、そろそろ学習してくれ!!」
「ああ、分かりましたとも! アタシゃどうせ、可愛かねぇバカ娘だよ!!」





 人ん家の玄関で泣いてた新米刑事が、今や立派な父親になっているとは。
 ……時間の流れは、俺が思っていたよりもずっと早かったようだな。

「……って、あの人が言ってたんだよ」
「あの人ってのは十中八九、高位技師官僚?」
「そう、あの人。前から疑問に思ってたんだけど、親父とあの人ってどういう関係なわけさ」
 夕飯の席で使った食器洗いを手伝いながら、アレクサンダーは母親にそう訊ねる。アレクサンダーの左隣りで、洗い終わった食器を拭いていた母親は、うーんと唸り声をあげながら両瞼を閉じる。そして小さな声で呟いた。
「……言ってもいいんだけど、言っていいのかしら」
「どっちだよ」
「お父さんからすれば、ちょーっと恥ずかしい話になるからねぇ。どうしましょうか」
「恥ずかしい話なら、なおさら気になる」
「そうねぇ。まっ、いいか。五十も過ぎたジジィに、尊厳もクソもないわよねぇ。おほほほー」
 母親はきゅっきゅっと音を立てさせながら、布巾で平皿から水気を吸い取っていく。アレクサンダーは皿から油を落としていた手を止めると、右手に持っていたぼろぼろのスポンジをぎゅっと握る。スポンジからは洗剤が生んだ小さな泡が吹き出て、泡は母親の目の前を通り過ぎて行った。
「アレクサンダーも知ってるでしょう。お父さんがまだ二十代だったころ。アルフテニアランドで、新米の刑事さんをやってたって」
「うん、まあ。それで、あの病院で起きた事件を担当したんだっけ」
「ええ、そう。あれがお父さんにとって、初めて回ってきた大仕事だったってわけ。つまり、張り切ってたってわけなのよねぇ。それであの時の私は、事件が起きた病院のB棟四階の小児科で、看護師をしてたわけ。けど事件が起きたのは、同じB棟でも三階の産婦人科。小児科の看護師の私は、事件に直接的な関わりはないし、精々いかにもベテランって感じの刑事さんに一度だけ話を軽く聞かれたくらいだったわ」
 えっ、看護師だったの? それも小児科?
 アレクサンダーにとって、その話は初めて聞くものだった。
「だから、あの事件に対して私はさほど関心はなかったし、関わるべきじゃないって思って距離を置いてたわ。けどね、事件の捜査が打ち切られたってあとも、何度も足しげく病院に通っていたお父さんのことは、よく見ていたの。それが、始まりかしらね。単独捜査の進展はどうですか、とか訊ねてるうちに、お父さんと親しくなって。気が付いたら交際してて、気が付いたら結婚してたわねー」
「どんな馴れ初めだよ! ……って、そんな話を今聞いてたわけじゃないんだけど」
「そうね、話が逸れた。それでお父さんとあの人との接点なんだけど、実はそんな大したものでもないのよ。捜査の打ち切りが決まった次の日に、罪悪感に突き動かされたお父さんが、ひとり謝罪をしにあの人の家を訪ねたのよ。まぁ、そんな報告をしにきた人間が歓迎されるわけもなく、すぐに追い返されたらしいわ」
「へぇー……」
「それでお父さんはその時に、悔しさのあまりに玄関の前で号泣したって話よ。すみません、すみませんって謝りながらね」
「……なにそれ、恥ずかしっ」
 うわー、という顔をしながら、アレクサンダーはスポンジを握る力を強める。スポンジからはまた泡が吹き上がり、今度はアレクサンダーの顔の前を泡は通って行った。
 すると母は、新しい平皿を拭いながら溜息を吐く。そして呟いた。
「昔は、可愛げのある素直な熱血ボーイだったのよ。けど今じゃ、冷めちゃって変な風にねじ曲がった偏屈ジジィって感じ。そのうえ全然、稼がない。嫌になるわよ、あんな男。はぁー、切実に離婚したいわぁー」
 カチッという、皿が重なりあうときの固い音が鳴る。可愛げのある素直な熱血ボーイ。そんな母の言葉に首を傾げさせながら、アレクサンダーは泡だらけになった皿を水ですすいだ。
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