EQPのセオリー

09

「アルスル先生から色々聞いたわ。ユンが起こしてたのは解離性障害だってことを突きとめたのはあなたなんでしょ、アレックス」
 翌日の昼時。ランチタイムのカフェテリアにて、アレクサンダーにそう声を掛けてきたのはユニだった。
 青白い顔をいつも以上に青くさせ、目の下に隈を作っていた彼女は、よろよろと歩きながら、アレクサンダーの目の前の席に座る。そしてユニはテーブルの上に、食べ物ではなく書籍の山を置いた。
「昨日の夜、慌てて書店に駆け込んで掻き集めたの。その、解離性障害に関連する色んな本をね。けど、全然頭に入ってこない。多重人格はまだ分かるけど、エナクトメントって何? 愛着、倒錯、転移と逆転移、分離、防衛、コンテクストやらナラティヴとか、もう意味不明よ……」
「小難しい単語をむりやり頭に詰め込んだところで、その能力はペーパーテストでしか役に立たないさ」
「うーん。テスト勉強みたいに、丸暗記したらダメってこと?」
「そうだねぇ。重要なのは経験を積むことなんじゃないのか」
「……嫌だわ。そんな経験、できれば積みたくないものね」
「大事なのは洞察。相手が何を感じているのかを、中庸な視点から見定めることが第一。患者から逆転移された、怒りや不安や焦燥といった感情を、治療者が冷静に受け止め理解するのが第二。そうして患者のエナクトメントを破り、分離していた自己をひとつに戻していく……――らしい、と聞いた」
「……はぁ。精神医学なんていう難しいことが分かるなんて、アレックスって凄いのね。私には無理だわ。あなたの言葉が、さっぱり理解出来ない」
「いいや。偉そうに自慢できるほど、アタシは理解してないよ。せいぜい、下手の横好きで聞きかじった程度の浅い知識でしかないし」
 ユニが抱えていた書籍の山の背には、たしかに『解離性障害』という文字が多く見られた。分かりやすく書かれた新書、入門書から、学術的なことが書かれた専門書まで、幅広く取り揃えられている。
 流石は、金持ちの娘。少ない小遣いの中で、どうにか遣り繰りをしているアレクサンダーには、ユニがとても羨ましく思えた。
「それと、昨日は本当にごめんなさい。私、取り乱しちゃって。あなたに酷いことを言ってしまった」
「いいよ、別に。気にしちゃいないからさ」
「……それで、ニールは?」
「ああ、アイツか。今日は来てないってさ。ジェーン先生が言うには、学校にも連絡はなし」
「そう。なら良かった」
 そう言うと、ユニは頬杖をつく。そしてため息混じりな暗い声で、アレクサンダーにこんなことを漏らした。
「どういうわけか昔から、ASIに追い回されてるの。レーニンでもなく、エリーヌでもなく、私とユンの二人が。パトリック・ラーナーって人が特にしつこくてね。出かけた先、色んなところに現れるのよ」
「へぇ。パトリック・ラーナーか……」
「ニールと初めて会った時も、なんだか変だなとは感じてたの。アレックスは猫を被るわけでもなく、ぶっきらぼうにしてる感じがすごく自然体だって思った。けどニールは、初対面なはずの私に対してすごく自然に接してきて。それが却って、不自然に感じられたの。それに彼、あのときミランダ先生に平気な顔して嘘を吐いてた」
 そんなユニの指摘に、アレクサンダーはハッとさせられた。
 思えばあのとき、ニールはユニに対して馴れ馴れしい態度を取っていた。けれどもアレクサンダーは、いつものことだと思って気にも留めていなかった。あいつは誰に対してもそういう態度で接する奴だから、と。けれども、初めましての側からすれば、そんな相手の態度を奇妙に感じるはずだ。
 それにニールはあのとき、たしかに嘘を吐いていた。騒動の真犯人はあやふやにして、その責任を全部アレクサンダーに擦り付け、その場を収めたのだ。
 だが、どうして真犯人をあやふやにする必要があったのか?
 あのとき、ミランダ・ジェーンに嘘を吐く必要があったのだろうか?
 そう考えると、どうにもニールの言動には疑問符がつく。彼の真意や行動原理が、さっぱり分からないのだ。
「ミランダ先生も、ニールの嘘には気付いてたはず。でも先生はニールを咎めないで、彼の嘘を信じた振りをした。だってあの嘘は、あの場を丸く収めるのには一番有効な手段だったから。犯人の追及っていう面倒事を、学校側が避けられるからね。だからアレックスも、あのときニールに従ったんでしょう」
「ああ。そうだな」
「あのやり口は、パトリック・ラーナーの常套手段。だから、もしかしてってずっと思ってたの。ニール、彼はパトリック・ラーナーの回し者なんじゃないのかって。そしたら見事ビンゴ。……ニールの顔を思い出すだけで、無性にイライラしてくるわ」
 一際大きな息を吐きだし、鼻息を荒くしたユニは、真っ赤な瞳でアレクサンダーを見る。あなたは絶対に私たちを裏切らない、そうでしょう? 彼女は視線で、そう訴えてくる。けれどもアレクサンダーは視線を下に逸らし、明言を避けた。
 その代わりにアレクサンダーは、ユニにあることを問う。
「そういえばなんだが……。アタシが“ユイン”を眠らせた後、それからどうなった。ちゃんと、ユンとして目覚めたか?」
「えっと、それなんだけど……」
 ユニは気まずそうに苦笑い、米神を掻く。そして言った。
「まだ、目覚めてないの。あなたが寝るように誘導して、ユンはすぐに寝ちゃったでしょう。あれからずっと、眠ったまま。いつものパターンなら多分、数日は起きないんじゃないかしら……?」




「……寝相も、あんときのままだな。ビクとも動いてない、ってわけか?」
「ええ、まあ。そういうことね」
 ユニの言っていた通り、ユンは眠ったままだった。
 アレクサンダーが最後に見た時と違っている点を上げるとするならば、それはせいぜい酸素マスクの有無くらい。寝姿は仰向けで、両腕をぴったりと胴に付け、両足の親指をしっかりと合わせている状態。それはアレクサンダーが昨日見た姿のままで、彼女が一切動いていないことが見て分かった。
 まるで死人のようだ。アレクサンダーはそう思った。だって死体は動かない。硬直が始まっていれば尚更だ。そして今のユンの状態は、硬直している死体にそっくりである。
 けれども彼女は死んでいない。ちゃんと心臓は動いているし、触れてみた青白い肌もすべすべでプニプニのまま。死体独特の、つっぱったような質感は無かった。
「変でしょ、この子。昔からずっと、この繰り返しなの」
「……」
「目覚めて、安定した状態が暫く続いたかと思ったら、急に情緒不安定になって別人格になって、それで長い眠りに落ちるの」
「……そうかい」
「そしてまた目覚めて、情緒不安定になって……――。約十年間、ずっと。エンドレスに繰り返されてるわ。本当に、もう、終わりが見えない。いっそ終わってくれたら、どれだけ楽になるんだろ」
 終わってくれたら。その言葉が病の完治を意味するのか、それとも死という結末を示唆しているのか。アレクサンダーは敢えて、ユニを問い詰めはしなかった。何故なら、そう言う彼女の目に涙が浮かんでいたからだ。
「……明けない夜はないさ。物事には必ず、終わりってものがある。いつかは、こんな状態も終わる。永遠に続くわけじゃないさ」
 ユニがどことなく双子の片割れを邪魔に思っていることは、アレクサンダーもうすうす気付いていた。コントロールできない病に付き合わされる病理的関係に、ユニも疲弊しているのだろう。それは仕方のないことではあった。
 けれどもユニがそれ以上にユンのことを愛しているのも、アレクサンダーは分かっているつもりでいた。だから今のユニは、愛憎の狭間で葛藤しているのだろう。
 仮にこの関係が恋人なら、縁を切るという選択もできたはず。けれども彼女らの関係は姉妹、それも双子の姉妹だ。縁はそう簡単に切れるものじゃない。その点もまた、ユニを追い詰めているのだろう。
「けれど人は、黄金の夜明けか土砂降りの朝かを選べない。それだけは、覚悟しておかなきゃいけない」
「……」
「――……なんて、恥ずかしい台詞を言ったりしてさ。何さまのつもりなんだろうね、アタシは」
 後から込み上げてきた小恥ずかしさに、アレクサンダーは顔を少しだけ赤らめる。そして気を逸らすように、鼻の頭を掻いた。
 と、そんなとき。アレクサンダーが携帯していた端末が、メッセージの着信を意味するバイブレーションを発する。発信元は動物園の先輩、アルバイト生の監督官をしている女性からだった。
 アレクサンダーはユニに断わりを入れると、ユニ背を向け、送られてきたメッセージを開封する。ごめんなさい、アレックスちゃん。そんな不穏な件名が付けられていたメッセージの中身は、やはり不穏なものだった。
「どうかしたの、アレックス?」
「……いや、その、なんてことないさ。この間の一件を受けて、バイトを首になったってだけだよ」
「この間のって、もしかしてホワイトライオンが撃たれた、あの……」
「ああ、それだよ。老いぼれライオンにはショックが大きかったらしい。死んだんだとさ」
 平静を装いながら、アレクサンダーは淡々と言う。だがそんなアレクサンダーの心は、大きく揺れ動いていた。
 送られてきたメッセージには書かれていた。ウィキッドが死んだ。それと諸事情によりアレクサンダーを首にせざるを得なくなった、と。そして文末には、件名と同じ言葉が書かれている。

 ごめんなさい、アレックスちゃん。
 あなたはきっと、素晴らしい獣医になれるわ。

「……本当に、ツイてるんだかツイてないんだか。さっぱり分かんねぇよ」
 メッセージには詳しく書かれていないが、きっとウィキッドが死んだのは自分のせいなのだ。だってウィキッドは自分を庇ったばかりに被弾し、そのショックから死んだのだから。それで園長は、やむなく自分を首にしたのだ。だって自分がいる限り、また園に銃弾がぶち込まれる可能性があるから。そう、だから仕方のないことなんだ。仕方がないんだ。仕方が、ない……――
 アレクサンダーは自分にそう言い聞かせて、そっとメッセージを閉じる。すると、それと同時に新しい写真付きのメッセージが届いた。
「アレックス、本当に大丈夫なの?」
「……いや、今度は大丈夫じゃないかもしれない」
「え? どういうこっ……――?!」
 差出人はニール・アーチャーとなっているが、アレクサンダーはすぐに送り主がニールじゃないことに気がついた。
 件名が無題、つまり空欄になっている。けれどもニールは普段、件名の欄には下らない言葉を書いていた。

 『学食の超固いパンはチョーク代わりに使えると思う』
 『それにしても、俺の胃袋は今日も絶好調だぜ!』
 『一周回ってお腹が減ったが、お前はランチに何食べた?』
 『やぁ、アレクサンダー。今日もお空は顔面真青だぞ!』

 それにニールは必ずメッセージの最後に、写真を添付する。その写真は決まって、ピンク色の鼻だけがアップで写された、彼の飼い猫の写真だ。
 けれども今回のメッセージに、飼い猫の鼻の写真は添えられていない。代わりに添付されていたのは、顔に殴られたような痣を幾つもつくり、弱ったように地面にへばりついているニール本人の写真だった。
 そしてメッセージには、こう書かれている。

 サンレイズ研究所、跡地に一人で来い。
 さもなくば彼は……まぁ、それは君次第だろう。

「アレックス、あの写真は何?!」
 酷い有様のニールが写された写真を、ちらっと一瞬だけ見てしまったユニは。悲鳴にも似た高い声を発する。それに対してアレクサンダーは、苦し紛れの笑顔で誤魔化した。
「お嬢さまは関わらないほうがいい案件だよ。喧嘩を売られたってだけの話だからさ」





「ニール! どこに居るんだ、おい!」
 夜も更け、暗くなった林道を、アレクサンダーは大声を上げながらずんずん進んでいく。その後を、気配を消した彼女の父親が、足音を殺しながら尾行していた。
 サンレイズ研究所、その跡地。そこはアレクサンダーが暮らす地域の郊外にある。都心部から少し離れた田舎で、周囲一帯を林に囲まれており、あたりに民家はない。そんな如何にも危険そうな場所に、丸腰のアレクサンダーが一人でのこのこと行くはずもなく、彼女の後ろには拳銃を構えた父親がしっかりと付いて来ていた。
 あの写真がどこまで本当なのか。その判断をアレクサンダーは付けかねていたが、仮に本物だとして、もしニールを見殺すようなことになれば……それは腹の虫が悪い。信用を裏切ったような憎き相手だとはいえ、自分のためにもアレクサンダーはこうするしかなかった。
 後腐れするような真似だけは、絶対にしたくなかったのだ。
「二時間探し回っても見つからないとはねぇ。どこに居るんだよ、ったく。……やっぱり、あれはガセだったのか?」
 左手に持った懐中電灯で正面を照らしながら、アレクサンダーはぼそぼそと呟く。後ろを歩く父親の足音は聞こえず、返答もない。だが、後ろに居てくれているという気配だけは感じることができていた。
「それに、なんでまたサンレイズ研究所跡地なんていう、いかにも不気味な場所を指定してきたんだか。居心地が悪いったらありゃしないよ……」
 かつてここには、サンレイズ研究所という名の研究所があった。
 そこはアバロセレン工学を専門としていた研究所。アバロセレンから効率よくエネルギーを取り出す仕組みの開発や、取り出されたエネルギーの実用化に向けての計画、『アルフテニアランドの悲劇』で開かれた時空の歪みの原因究明などを進めていたと伝えられている。そしてサンレイズ研究所は当時、アルストグラン連邦共和国のアバロセレン工学を牽引していたところでもあった。
 アルストグラン連邦共和国の化学力は、今も昔も世界一である。何故なら、あの大天才ペルモンド・バルロッツィが作った国だからだ。つまり、そんなアルストグラン連邦共和国にあったサンレイズ研究所は、アバロセレン工学の世界一位にあったのだ。
 サンレイズ研究所が世界一位であった理由は、アルストグラン連邦共和国が化学産業の帝王として君臨している理由と同じ。ペルモンド・バルロッツィという男が、サンレイズ研究所に所属していたからなのだ。
 けれども、アレクサンダーが生きている今に、サンレイズ研究所は存在していない。それは遡ること約十五年前。雷鳴が轟く、土砂降りのある雨の日の昼間。サンレイズ研究所は突然、消滅したのだ。
 ある目撃者の証言によれば、一瞬にして形が無くなり、跡形もなく消えたというらしい。また別の目撃者によれば、湯気が立ち上ったと思った直後、研究所建物は蒸発し、その中に居た所員たち諸共、水蒸気になって消えたという。
 研究所のあとに残されたのは、林の中にぽっかりと開いた空地だけ。あの時に降った土砂降りの雨はとっくに止んでいるし、あの時に降った雨水は今頃どこかを彷徨っていることだろう。事故の詳細を知る者は誰も居らず、サンレイズ研究所に所属していた者たちは皆、あの日に消えた。
 残っているのは、ただ一人。今は表舞台から姿を消し、闇に隠れて逃げ回るような生活を送っている、あの大天才だけだ。
「ニール・アーチャー、居るなら返事をしろ! おい、居るのかって訊いてンだよ!!」
 しぃん……と静まりかえった夜の冷たい空気に、アレクサンダーの熱い怒鳴り声だけが虚しく沁み渡り、消散していく。これをアレクサンダーは二時間も繰り返してきた。サンレイズ研究所跡地を取り囲む林は一周し終えたし、それでもニールの姿は見つからない。
 やっぱり、ニールはここに居ないんじゃないのか。アレクサンダーはそう考え、歩みを止める。そして振り返り、アレクサンダーの後をずっとつけていた父親に視線を送った。すると木の陰から父親は姿を出し、首を斜め四十五度に傾げてみせる。そんな父親の顔もまた、ニールがこんな場所に居るとは思えないと言いたげだった。
「……ガセだったのか。なら引き返そうかね」
 アレクサンダーはそう呟くと、両手の掌を上に向け、降参を意味するジェスチャーを父親に見せつける。そうして次に、アレクサンダーが車を停めてきた方角を指差した、その瞬間だった。
 それまで静かだった空気が、急にざわめき始める。巣の中で寝ていた鳥たちは一斉に目覚め、枝に留まり大人しくしていたカラスたちも騒ぎ、濃紺に支配された空へとパニックを起こしたように一斉に飛び出していった。アレクサンダーの足元では、ネズミらしき一匹の小動物が慌てて林の外へと逃げて行き、無数の虫たちも空を飛び、どこかへと逃げて行く。林の奥からは狐のような鳴き声も聞こえ、猪や鹿、猿などの野生動物の気配も、殺気だった慌ただしいものに変わっていた。
 すると林の奥からは、二発の銃声が聞こえてきた。一つ目は、空に向かって撃たれた威嚇射撃。二つ目は、何かを狙って撃たれた音だった。
「……銃声……?」
 銃声がしたということはつまり、林の奥には人間がいるということだ。
 アレクサンダーは今一度、父親と目を合わせる。父親は無言で頷き、携えていた拳銃の安全装置を解除した。もし人間がいるとすれば、それはニールのあんな写真を送り付けてきた犯人である可能性が高い。父親もアレクサンダーも、そう判断したからだ。
 今度はアレクサンダーも怒鳴るのをやめて、気配を消すことに専念する。懐中電灯の明かりを最小に抑えて、静かに銃声がした方角へと父親と共に進んで行った。
 そうして、数分が経った頃。アレクサンダーは林の中に立ち込めていた薄霧の向こうから、人がこちらに近付いてきていることに気付いた。アレクサンダーと父親は、すぐさま巨木の裏に隠れて息を殺す。人が通り過ぎるのを待った……――のだが。
「そこに居るのは分かっている。隠れていないで、さっさと出て来やがれ」
 アレクサンダーらが隠れていた巨木の前で、足音は止まる。それから、木の陰から出てくるようにとも言われた。
「怪我人が居る、手を貸せ」
 アレクサンダーは困ったように父親を見る。すると父親は眉間に皺を寄せ、小さな声で言った。ここは従ったほうがいいだろう、と。
 父親は木の陰から出て、声の主の前に現れる。アレクサンダーは木の陰から少しだけ顔を覗かせて、声の主を見た。そしてアレクサンダーは、三白眼の目を剥く。
「久し振りだな、ダグラス・コルト」
「……ええ、本当に。お久しぶりです、高位技師官僚殿」
「人ん家の玄関で泣いてた新米刑事が、今や立派な父親になっているとは。……時間の流れは、俺が思っていたよりもずっと早かったようだな」
 目深に被った、黒の中折れ帽。丈の長い黒のトレンチコートに、黒のスラックス。それと白い皮靴と、黒縁の眼鏡。アレクサンダーの目に映っていたのは、あの日あの時に病院ですれ違った黒ずくめの男――エリーヌの父親であり、アルストグラン建国の父、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚――だった。
 アレクサンダーの父親は、ペルモンド・バルロッツィを前に困惑した表情を見せる。それに対してペルモンド・バルロッツィのほうは、嫌味にも思える微笑を口元に浮かべていた。
「この辺りは圏外だ。サンレイズ研究所が無き今、ここいらの通信網は機能していない。緊急回線も同様だ」
「……つまり、どうしろと?」
「簡単な話だ。お前ら、車でここに来たんだろう。だったらこのガキを、病院に連れて行け。救急車を呼ぶより、自家用車で向かったほうが早いだろうさ」
 そう言うとペルモンド・バルロッツィは、背中に背負っていた何かをゆっくりと地面に下ろした。すると地面に下ろされたものは、痛みに悶えるような呻き声をあげる。よく見るとその影は、顔や体を散々に殴りつけられ、酷い有様になっていたニール・アーチャーだった。
「詳しい事情は、そこのガキに聞くといい。それと、パトリック・ラーナーに会う機会があれば伝えておいてくれ。まだ成人を迎えていないクソガキの未来を潰すような真似は控えろ、とな」
「ええ、伝えておきましょう。会う機会があれば、ですが」
「それとだ、ダグラス・コルト。一応、お前に警告しておこう」
 それまではニヤニヤとした笑みを浮かべていたペルモンド・バルロッツィの顔から、途端に表情が消え去る。父親は緊張しているのか、拳をぎゅっと握り締めた。
「アルストグランの暗部がマークしているのはお前じゃない、お前の、娘の方だ。娘を危険な目に遭わせたくないのであれば、ただちに探偵業を畳め。それと、ユンとユニという双子には特に近付かせるな。……でないとお前の娘は、闇に喰われるぞ」
 最後にペルモンド・バルロッツィは、くすんだ蒼い目でアレクサンダーの顔をちらりと見る。すると、一際強い風がアレクサンダーに向かって吹いた。アレクサンダーは瞼を閉じ、目を腕で庇うような仕草をする。そして風が止み、アレクサンダーが瞼を開けたとき。既に彼の姿はどこにもなく、呻き声をあげるニールだけが彼の居た場所に残されていた。
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