EQPのセオリー

08

 アレクサンダーの予感は的中した。
 父親はエリーヌに対して何を切りだすのかとアレクサンダーが警戒してみれば、飛び出した言葉は度肝を抜かれるようなものだった。
『私は、あなたのお母様の事件を解決することができなかった。今回引き受けたのは、その償いをするためです。料金は結構です、いりません』
 それは、火の車である家計に喘ぐ母親には、とても聞かせられないような台詞だった。
 けれどもエリーヌという女性はとても義理堅い人物らしく、後日アレクサンダーがコルト探偵事務所の口座を確認すると、提示した料金にチップを添えた額がエリーヌ・バルロッツィ名義で振り込まれていた。
 父親にお金のことはまだ報告していないが、母親にはその日のうちに通帳を見せた。当然、母親は振り込まれた額を見るなり、飛び上がって喜んだ。
『アレクサンダー、アンタは本当に幸運の女神だよ!』
 エリーヌの旦那は高給取りのアバロセレン技士、そして彼女の父親はかの大天才ペルモンド・バルロッツィ。一言で言うなら、大金持ちなのだ。
 チップも大盤振る舞い。チップだけでも、贅沢さえしなければ四ヶ月は生活できるという額だった。
「アレクサンダー、また来てくれたんだ。それに……?」
「ああ、コイツか。クソ野郎だ、気にするな。あとで追い出す」
「ニール・アーチャーだ。宜しくな」
「そうなんだ、こちらこそ宜しくね。あっと、自分は……」
「知ってるぜ。ユン・エルトルだろ。双子の片割れ、ユニちゃんとは仲良くさせてもらってるよ」
 ニールは歯を見せて笑いながら、持ってきたフルーツバスケットからリンゴをひとつ取り出し、果物ナイフを器用に使って皮を剥いていく。アレクサンダーは病室のベッドの横に設置された椅子に座りながら、部屋の中をきょろきょろと見回していた。
「あーっと、そういや聞いてなかったな。リンゴは食べれるのか? あとブドウとか、梨とか、他の果物も。医者からストップとか何か……」
「大丈夫だよ。フルーツバスケットなんて、何年ぶりだろ。ずっと花束ばっかり貰ってたから、久しぶりで嬉しいな」
 精神病棟というわけではないのに、その部屋には窓が無かった。窓枠のようなものがあった痕跡は見えるが、けれどもコンクリートで埋められている。
 その部屋に日差しはなく、風通しも悪ければ、どことなく黴臭くもある。彼女の病室を訪れるのは二度目だが、それでもアレクサンダーはこの閉ざされた空間に言葉を失っていた。
 同じ病院に入院していたはずなのに、そこはアレクサンダーが入っていた部屋とは大違いだったのだ。
「…………」
「あっ、そういえばユニが言ってたよ。レーニンのお父さんはやっぱり、犯人じゃなかったって。レーニンがずっと、信じてたとおりの人だったみたい」
 ぼーっとしていたアレクサンダーに、ユンはそう話しかけてくる。そこでハッと意識を取り戻したアレクサンダーは、適当な相槌を打った。
「……ふあ? あっ、そ、そうだったのか?」
「アレクサンダーが、あのビデオを持って来たんでしょ。知らなかったの?」
「あ、ああ。親父が、依頼主宛てのものは中身を見るなって言うからね。ビデオがどんな内容なのかってのは、全く知らなくて。へぇ、そうだったのか……」
「ユニが言うには、レーニンのお父さんは最後までアバロセレンの暴走を抑えようと努力してたみたい。だから、世間で言われているようなこととは真逆のことをしてたんだって。そう思うと、なんだか複雑だなぁって」
「……へぇ……」
「でもエリーヌは、そのことを公にしちゃいけないって言ってるみたいでさ。また昨日の夜、夫婦喧嘩になったってユニが言ってた。仲良く出来ないのかなぁ、あの人たち」
 そう言いながらユンは、うーんと腕を伸ばす。どことなく気拙くなった空気に、アレクサンダーは顔を俯かせる。すると、リンゴの皮を剥いていたニールが喋り始めた。
「両親の仲は悪いのか?」
「エリーヌとレーニンは両親じゃないよ。母親はレーニンの姉でもう死んでるし、父親は誰かも分からないんだ」
「へぇ、養子ってわけか……。それにしても、またどうして公にしちゃいけねぇんだ?」
「えっと、そのー、アルフテニアランドの政府を怒らせっ……」
「ちょっ、テメェッ!」
 アレクサンダーは慌てて立ち上がると、ニールから果物ナイフを取り上げ、彼の頭を平手でバチンッと叩いた。そしてアレクサンダーはニールの首に腕を回し、軽く締め上げる。ニールは腕をバタつかせて抵抗し、ユンは短い悲鳴を上げた。
「……アレッ……ク……!」
「ニール・アーチャー、テメェは何を企んでるんだ? あぁン?」
「……頼む、離してくれッ……!!」
 先ほど奪い取った果物ナイフの刃先を、アレクサンダーはニールの首元に当てる。と、そのとき。ユンが叫んだ。
「アレクサンダー、ニールが可哀想だよ!」
「……」
「アレクサンダー!!」
「分かったよ、ったく。……この腐れ外道、ユンに感謝しな」
 締め上げていたニールを、アレクサンダーは半ば突き飛ばすように解放した。押されたニールは転び、壁にぶつかる。アレクサンダーはニールに冷めた眼差しを送りつけ、ユンはそんなアレクサンダーを怯えた目で見ていた。
「……はぁ、まだ俺は許されてないっつーワケねぇ」
 ニールはよろよろと立ちあがりながら、ぼそっとそんなことを呟く。アレクサンダーは何も言わず、彼に手を貸すこともなかった。
「……」
 そもそも今回の訪問に、アレクサンダーはニールを連れてくるつもりはなかったのだ。
 父親や母親にも病院に行くということは告げることもなく、一人で行く予定だった。それに途中までは、アレクサンダー一人だったのだ。
 けれども病院前のバス停に着いた時、アレクサンダーの前に、フルーツバスケットを抱えたニールが現れたのだ。
『お前のことだから、何も準備してないって思ってな。これからお見舞いに行くってのに、手ぶらじゃまずいだろ?』
 アレクサンダーはそんなニールを無視して院内に入ったが、院内にニールも付いてきたのだ。そうして今、同じ部屋に居る。ユンがニールに対してどう思っているかということはよく分からないが、アレクサンダーにとっては最悪の状況だった。
「……よく聞け、ニール・アーチャー。あんたが上司から何を言われてンのかは知らねぇが、アタシ以外の人間に探りを入れるような真似は許さねぇぞ」
 今のアレクサンダーの目に映る“ニール・アーチャー”は、裏切り者でしかなかった。かつての友人だったニールは、もう彼女の中には居ない。
 今、彼女の目の前に居るのは、あくまで密偵。見えざる敵が放った手先、何かを付狙おうとしているハイエナだ。
「お前に許可なんか求めてないし、それに俺は探りなんか」
「言い方を変えれば理解するか?」
「……アレックス」
「アタシの友人だちに手ェ出すなって、言ってンだよ。今すぐ失せろ」
 さっきはユンが気拙くした空気を、今度はアレクサンダーが居辛い雰囲気に変える。元より鋭い眼光を更に尖らせたアレクサンダーは、ニールを三白眼の目でキッと睨んだ。
「俺はお前の、友人だろ?」
「昔の話だ。今は違う」
 アレクサンダーは、ニールにそう言いきる。ニールはそんなアレクサンダーを、疑うように見た。その発言がどこまで本気なのか、それを推し量るような目で。
 それから、沈黙が暫し続く。静けさに音を与えたのは、病室の扉が開いた音だった。
「……やっぱり探ってるのね、私たちのこと」
 開いた扉から顔を出したのは、元から白い顔を更に青白くさせたユニだった。
「誤解だ。アレックスが、勝手に」
「アタシが嘘を吐いてるとでも言いたいのかい?!」
 ぴりぴりとした緊張感が場に流れ、アレクサンダーは拳をぎゅっと握る。その手にアレクサンダーが力を込めた。それと同時にユニが、アレクサンダーとニールの二人の肩をぎゅっと掴む。そして力いっぱいに、後ろに引いた。
「いいから二人とも、外に出て」
 ユニは、アレクサンダーとニールの二人を廊下に突き出す。……その瞬間、耳を壊すような甲高い悲鳴が上がった。
「どうしたんだよ、ユン……」
 悲鳴の主は、真っ白なベッドの上で膝を抱え込んだ少女だった。真っ白な髪の毛を青白い手で掻き毟りながら、彼女は泣き叫んでいた。
 彼女は何か言葉を叫んでいるようであったが、発音はめちゃくちゃで、はっきりと聞こえなくて、何ら意味を為さない雄叫びのようにも聞こえる。それはまるで癇癪を起した子供の姿にも似ているが……――アレクサンダーの目には、発狂した獣という姿として彼女が映っていった。
「……あれが、あの子の病なのか……?」
 呆然と立ち尽くすニールが零した呟き。それにユニは食い気味で答える。そうよ、あれがあの子の病気なのよ、と。
「この場所にだけは、絶対に来てほしくなかった。もう誰にも、あの子のあんな姿を見られたくなかった。……なのに、なんで。どうして、ここに来たのよ!」
 今度はユニが怒鳴った。するとベッドの上の少女はまた悲鳴を上げ、泣きじゃくった。
 ユニは苛立ったように表情を険しくさせると、頭を抱える。そうして重たい溜息を吐くと、吐き捨てるように言った。
「お願いだから、帰って。そして、もう二度と私たちに関わらないで。ニール、あなたは特によ!」
「……すまなかったよ、本当に。だから、そのぉー」
「義叔母から聞いたわ。あなたは、アルストグラン秘密情報局パトリック・ラーナー次長の秘蔵っ子なんですってね。アレックスを守ってるふりをして、私とユンのことを調べ回ってることも知ってるわ」
「誤解だ! 俺は、別にお前ら姉妹のことなんか」
「もうこれ以上、関わらないで。ただでさえ普段からアバロセレン技士に追い回されてるのに、友人からも追われるだなんて、耐えられない……!」
 ユニはニールに背を向けると、電話を取り出し、どこかに連絡をし始めた。ニールは項垂れ、ついに口を閉ざす。その横でアレクサンダーは、ユンの声を聞いていた。
「ふぅん、なるほど。叔父を探して逃げ回ってる少女、ってわけねぇ……」
 断片的に聞き取れた言葉。そこからアレクサンダーは、ある仮説を組み立てる。そして普通の人間であればまず近付かないであろう発狂した人間に、アレクサンダーは歩み寄っていった。
「……ちょっ、ちょっとアレクサンダー! やめて、余計な事はしないで!!」
「大丈夫だよ、アタシは傷つけたりしないさ」
「そういう意味じゃないわ! あなたが、あの子に!」
「アタシなら大丈夫だよ。それよりアンタは、こいつの主治医と、精神科医を呼んでくれ」
 チワワやパピヨンなど小型犬は、よく吠える。何故ならば、小柄が故に非力で、そんな自分の身を守るためにも警戒心が強くなったのだ。
 けれどもいきすぎた警戒心は過剰なストレスとなり、自分の身を守るどころか、却って自分の首を絞めることとなる。
 この少女も、多分それと同じだ。今、彼女が起こしているのは脳神経外科の病とは違う。過度の緊張で常に張り詰めている精神が、限界を迎えて破綻している状態。要は不安から引き起こされた二次障害、心の病なのだ。
 適切な対処さえ出来れば――つまり、安心さえさせられれば――この悲鳴は止む。そうすれば、その先に起こり得る二次被害を避けられるだろう。
「やぁ、お嬢ちゃん。どうしたんだ、こんなところで泣きじゃくったりして。もしかして、親とはぐれたのかい?」
 アレクサンダーは優しい声で、そう問い掛ける。すると少女はアレクサンダーの目を見て、無言で頷いた。
「……」
 悲鳴が、止まった。





 別室に呼ばれたアレクサンダーは、医者二人――ユンの主治医であるドクター・アルスルと、精神科医の男――を前に、諸々の事情を説明していた。
「――……まぁ、そんなとこですかね。分かんなーいとか頓珍漢なことを言ってるときは、退行。精神年齢は完全に、幼児の頃に逆戻り」
「退行は分かっている。教えてほしいのは、別人格それぞれの性格についてなんだ」
「んー、アタシも全部聞き出せたわけじゃないんですが……。やたら安定しててニコニコしているときの人格は“ユニ”。つまり自分の双子の片割れになり済ましてるとき。それで、さっきみたいな泣きじゃくってる人格は“ユイン”。とんでもなくファンタジーな少女ですよ、ありゃ」
「具体的に、どんな子なんだ。その、ユインって子は」
「そうですねぇー。……“ユイン”はシアルン神国っていう国の、サラネムっていう地域から来た子でして。そのサラネムってのは、緑豊かな山地らしい。そこで“ユイン”は薬師である叔父と暮らしてる」
「……ほぅ。他には?」
「その“ユイン”って子には兄が二人いるそうで。長男はヤムン、次男はイェガン。イェガンは優しくしてくれるから好きだけど、ヤムンは嫌いらしい。つまり、その……“ユイン”はヤムンにひどく苛められていて、山の中を逃げ回っていたら、迷子になったっていう設定。それで彼女は叔父を探してて、今すぐにでも家に帰りたい。けれどもここがどこかが分からなくて、不安になって、叔父の名前を叫びながら泣いていた……――っつーわけです」
「その、叔父の名前は?」
「メズンだそうです」
「メズン、か。……意味を為さない雄叫びだと思っていたが、まさか人の名前を叫んでいたとは。思いもしなかったな」
 うぅむ、と唸る精神科医の男は、アレクサンダーを査定するようにじっと見る。そして彼は一言、アレクサンダーに言った。
「君は、獣医よりも精神科医のほうが向いてるだろう。どうだい、口をきいてやるから、うちの付属大学の医学部に進学しないか? そうすれば研修もうちで」
「お誘いは、嬉しいんですけど。医学部は、ちょっと……」
 ユンが起こしているのは俗に多重人格と呼ばれる症状、解離性障害だ。
 とはいえ解離というのは、どんな人間でも起こり得る現象だ。分かりやすくいうなれば、『別の顔』というものになるのだろう。
 職場では部下に厳しく接する男性上司が、家では子供にデレデレのマイホームパパになる。
 教室では生徒たちを温かく包み込む優しき女性教諭なのに、家に帰れば我が子に冷たく当たる母親になる。
 学校ではやんちゃぶって悪さをするような生徒なのに、家に帰れば弟たちの面倒をよく見る出来の良いお兄ちゃんになる。
 普段は人を見下すような言動を取ってばかりの政治家なのに、隠れた趣味はSMクラブで嗜虐の女王に苛められること……――。
 例に挙げたような軽い解離症状であれば、“普段とのギャップ”ぐらいで済まされることだろう。だが深刻化すると、解離はその人が持つ『別の顔』ではなく『別の人格』に変わる。強いストレスが掛かると人間は、その重圧から逃れるために人格を分裂させるのだ。そうして複数の“自分”を作り出す。
「いやぁ、それにしてもだ。アレクサンダーくんよ。あそこで精神科医も呼ぶというのは良い判断だった。君の対処もバッチリで、彼女に鎮静剤を投与する事態も避けられた。この頭でっかちぺヴァロッサムじゃぁ、絶対に出来なかったことだろう。だから言っただろう、ぺヴァロッサム。一度、私に診断させてくれと」
「彼女の保護者がそれを承諾しなかったんだ。レーニン・エルトルという男は、精神科医が大嫌いだからな」
「負け惜しみかな?」
「……はぁ。本当に、君という男は面倒臭いな」
 ユンという少女は、いくつもの人格を持っていた。ユニから聞いた話も含めて、アレクサンダーが把握した人格は三つ。退行した姿と、双子の片割れであるユニになり済ました姿、それと“ユイン”という全くの別人格だ。
 その中でも、特に“ユイン”というのは厄介な存在らしい。彼女が自傷行為に及ぶ時はいつもその人格で、あるときは屋上から飛び降り自殺を図ろうとしたこともあったという。
 もし、彼女を殺そうとしている人格が居たとしたら。それは間違いなく“ユイン”であろう。
 そうして今、主治医のドクター・アルスルと偏屈な精神科医は、対“ユイン”策を練っている最中なのだ。
「重度の解離を引き起こしていると分かったのであれば、精神病棟に移すのが適切なのではないかな。あそこには仮に暴れ出したとしても、ちゃんと対処できるスタッフが揃っている。彼女の体にこれ以上、傷を作らせないためにもー……」
「いいや、あそこは駄目だ。隔離されすぎてしまう。それにあんな遠い棟に移されてしまっては、私がいざという時に対処できないじゃないか! 私は、彼女の主治医なんだ。病室は今のままで十分。それにエリーヌさんは、この病院に多額の寄付を……」
「だがな」
「ここは譲れんぞ」
「けれどもだ」
「いいや、譲らぬ」
「頭が固いなぁ、ぺヴァロッサム」
「彼女の病は脳神経外科の管轄だ。精神科医が、首を突っ込んでいい畑じゃない」
「なんだと?!」
「大体、薬漬けにしても人の心は変わらん。カウンセリングを行うならまだしも、それをお前たち精神科医どもは効きもしない薬ばかりを……――」
 医者と医者、脳神経外科医と精神科医のバトルは暫く続く。彼らが下らない論争に気をとられている中、アレクサンダーはそそくさとその場から逃げ去って行った。
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