EQPのセオリー

01

 ラテン語の授業の終わり。教室から出たアレクサンダーは、ニールと共に次の教室へと向かっていた。
「はぁー、やっぱりジェーン先生っていいよなぁ。ラテン語なんてサッパリ分かんねぇけど、ジェーン先生はサイコー。マジで俺のエンジェル」
 教科書のデータ一式が入っているタブレット端末――縦二十五センチメートル、横十四センチメートルほどの大きさ。四角い黒の、旧型端末――を、両腕で抱きしめるように抱えたニールは、恍惚の表情を浮かべながらそう呟く。どうせまたスケベな目でしか見てなかったんだろ、とアレクサンダーは予想した。
「ジェーン先生の授業は分かりやすいだろ。あれで分かんないって、ニールお前さ、ちょっと成績がヤバいんじゃないのか?」
 ジェーン先生、というのはラテン語を教える女性教諭のことである。名前はミランダ・ジェーン。長くまっすぐな黒髪と、キリッとした三日月眉、それとぷりっとした肉厚な唇が印象的な黒人の女性だ。
 どこまでも優しい大人な女性で、且つ、俗に言う『ボン・キュッ・ボン』のダイナマイトボディ。そんな彼女には、男女生徒教諭問わずファンが多かった。
 アレクサンダーですら、ミランダ・ジェーンのお尻には憧れを抱くほどである。
「だって、あのお尻。たまらねぇだろ。歩くたびにプリッ、プリッって。ずっと見てられるぜ。おっぱいも、ゆっさゆっさの、ぷるんぷるんで……」
「あのなぁ、ニール。アンタには恥ってもんが」
「ないぜ」
 ニールはにこやかな笑顔を浮かべる。
「ないぜ、じゃねぇんだよ。少しは自重しろってンだ」
 それに対してアレクサンダーは、自分のタブレット端末の角で、ニールの頭をゴツンと叩いてみせた。
 イッテェじゃねぇか、とニールが悪態を吐く。と、そのとき。アレクサンダーたちが歩く廊下の先から、なにやら物騒な音が鳴った。
「……どうしたんだ?」
 アレクサンダーはニールと顔を見合わせる。ニールは、俺に訊くなとばかりに首を傾げてみせた。
「さぁな、分からん」
 ガン、ゴン、ガタン。重い金属製のものが倒れるような音が立て続けに鳴ったのだ。それと同時に、やんややんやと騒ぐ声も聞こえている。

 やーい病人。
 ぶりっこ、構ってちゃん。
 被害者ヅラしやがって。
 化けの皮を、さっさと剥ぎやがれアバズレ!

 どうやら学生同士の楽しげな会話、というわけではなさそうだ。
「胸糞悪い予感しかしねぇんだが」
 アレクサンダーは小声で呟く。ニールもそれに頷いた。
「野次馬根性で行くか」
「だな」
 二人は走る。廊下の角を左に曲がって、教室前のロッカーに来た。そして目の前に広がっていた光景、それと騒ぎ立てるオーディエンスたちに、息を呑んだ。
「おい、なんだよこれ」
 そこで起こっていたのは、集団リンチと言うべき光景だった。
 ラグビー部所属の屈強な男子生徒二人が、次々に金属製のロッカー棚を倒していく。脅すように、わざと音を立てて。ガン、ゴン、ドン。廊下の壁に沿うように並べられていたロッカーは、大地震の後のような光景に変わっていた。
 そしてチアリーダー部であろう女子生徒たち数名は、床に座り込むとある一人の少女を囲いこんでいた。そんなチアリーダーたちの手には、なにやらぐしゃぐしゃに丸められた紙くずが握られている。配られたプリントだったり、付箋であったり。そんな紙たちには、なにやら罵り文句が書かれているようにも見えていた。
 更に、ラグビー部員とチアリーダーたちを取り囲む聴衆者たち。彼らは「もっとやれ!」と煽ってさえいる。誰も止めようという動きを見せる者はいなかった。
 なんだか、嫌な予感しかない。アレクサンダーは直感でそう感じとる。
 けれどもそんなアレクサンダーの横で、ニールは能天気に呟いた。俺のロッカーも倒れちまってるぜ、と。
「……リュックサックの中に弁当が入ってたのに。あの調子じゃ、中身がぐちゃぐちゃになってそうだ」
「弁当? カフェテリア (=食堂) があるってのに、なんでまた」
「だって、カフェテリアの飯ってゲロマズだろ。チーズがべっとりのミートペンネとか、何がなんだかワケが分かんねぇし。フランスパンとか石みたいに硬くて食えたもんじゃねぇし、それにコンソメスープも塩っ辛い。だったら俺は、カーちゃんの手料理がいい」
「……そういや、アンタの母さんはホテルの料理人だったね。羨ましい限りだよ」
 ランチのことしか頭にない、そんなエブリデイ脳天気なニール・アーチャーを軽くあしらいつつ、アレクサンダーは聴衆らを強引に掻き分け進む。ある者が着ているシャツの襟首を掴んでは、引き剥がし。ある者のリュックサックを掴んでは、突き離し。ある者の肩を掴んでは、押し飛ばし。そうしてアレクサンダーは一つの道を作る。聴衆が取り囲んでいた中心に通じる、一本の道を。
 倒れた幾つものロッカー棚を踏み越えて、アレクサンダーはチアリーダーたちを睨みつけ、ラグビー部員にはガン垂れる。猛獣アレクサンダーのお出ましだ、と何者かが囃し立てた。
「あら、アレックス。アンタが何しにきたワケ?」
 リーダー格と思われる、染色ブロンドの女子生徒はアレクサンダーに向かって、侮蔑混じりの視線を送りつける。その女子生徒は言いながら片手間に、手に握っていた紙くずを床に座り込む少女に投げつけた。
「俺たち今、そこの女の子と遊んでんだよ。邪魔しないでくれないか?」
 ラグビー部員の男子生徒の一人は、アレクサンダーに向かってそう吐き捨てる。そしてまた、ロッカーを倒した。そのロッカーは、床に座り込む少女を目掛けて倒れ込む。けれども、アレクサンダーがそれを止めた。
「アタシにゃどうにも、遊んでるようには見えなくてよ。それになんだい、このロッカーの荒れざまは。一体これを、誰が直してくれるんだい? 事務員か、清掃要員か、それともアンタたちか?」
 倒れかけたロッカーをアレクサンダーは戻すと、ラグビー部員とチアリーダーたちを見る。するとまたチアリーダーの一人が、床に座り込む少女に向かって紙くずを投げつけた。
「だから、邪魔しないでよ。アンタには関係ないことでしょ?」
 また一つ、紙くずが投げられる。
「猛獣だかなんだか知らねぇが、ボコボコにされてぇのか?」
 また一つ、ロッカーが倒される。
「いや、関係ないことはないね。アタシのロッカーまで倒されたら、たまったもんじゃないからさ。それに」
 また一つ、紙くずが投げつけられる。
「じゃあ、アレックス。アンタのロッカーには手を出さない、それでいい? だから、消えて」
 アレクサンダーは床に落ちた紙くずを一つ拾い上げると、それに書かれた文字を読む。非常識女。紙にはそう書かれていた。
 アレクサンダーは、その紙をリーダー格の女子生徒の頭に乗せる。そしてニヒッと笑った。
「そこに書かれてる言葉、まさにアンタにぴったりだよ」
「ンだと、ゴルァ!!」
 恥ずかしげもなく醜い本性を剥き出しにした女子生徒を前に、アレクサンダーはあくまで不敵な笑顔を取り繕う。そしてまた一つ紙くずを手に取ると、それをビリッと破いてみせた。
「こんなことしてて、恥ずかしいとは思わないのか。ガキじゃないんだ。こういう行為は自分の評判すらも貶めるってのが、アンタらには分かんないのかい?」
「黙れ! ビクター、ジャン、やっちまいな!」
 人工のブロンドの髪を振り乱し、女子生徒はラグビー部員の男子生徒二人にそう命令する。彼氏か、友人かと思っていたが、実際のところはただの取り巻き連中ってとこか。男がそうだとなると、周りの女も似たようなもんか。アレクサンダーは冷静に、そう分析した。
 ということは、だ。やっぱりこの女には、本当に友人と呼べる奴ってのがいないんだろうな。
「……憐れなこった。塩の土壌に砦を立てて、束の間の女王さま気分を味わってるとは。あっという間に崩れる砦だってのに……」
 ラグビー部員の男子生徒は、指の関節をぽきぽきと鳴らして威圧している。けれども、アレクサンダーに威圧など通用しなかった。
 彼女には幼少期に、ボクシングジムで培った経験というものがある。試合ともなれば相手のボクサーは子供だとしても常に威圧的だったし、自分も同じくそうだった。だから威圧如きに屈していては、渾身の一撃は出せないのである。
 つまり、アレクサンダーは威圧程度で屈するようなタマではなかった。
「いいよ、やるなら掛かってきな。けれど万が一、アンタらが怪我をしても、アタシは一切の責任を負わないからね」
「ほざけ、アマが!」
 一人の男子生徒が我武者羅なパンチを繰り出す。無駄に勢いがあるパンチ。けれども正確性はなく、また折角の体格を活かしきれていない。これだから、脳筋野郎は。アレクサンダーはするりと攻撃を躱すと、呆れたように溜息を吐く。そして突き出された男の腕をわきで挟みガッチリと抑えつけ、その腕を捻り上げた。
「イデデデ!」
「さぁーて、このまま肘の関節を外してやってもいいんだよ」
「やめて、やめてくれェッ!」
「なら、一言謝りな。それから立ち去れ」
「ごめんなさい、すみませんでしたァッ!!」
 先ほどまでの威勢は、何処へやら。
 すっかり降参した男はそれだけを言い残すと、ライオンに追われるトムソンガゼルのように走り去っていく。早い逃げ足。アレクサンダーは追いかける気にもならなかった。
 そして次に、アレクサンダーはもう一人のラグビー部員に視線をやる。するとその男も、走って逃げ去っていった。続いて取り巻きのチアリーダーたちも消えていき、残ったのはリーダー格の女だけとなる。
「さてと。一体、なにが……――っと」
 アレクサンダーがリーダー格の女に声を掛けようとしたとき。既に女は消えていた。残されていたのは紙くずと、倒れたロッカー。座り込む少女と、無能な聴衆たち、それとアレクサンダーとニールだけ。
 催し物が終わり飽きたのか、聴衆たちは散らばっていく。やがて次の授業が始まったことを意味するチャイムが鳴り、アレクサンダーは肩を落とした。
「はぁ、このロッカーをどうしたもんかねぇ」
 倒れ込んだロッカー棚の一つを、アレクサンダーはスニーカーの爪先でコツンと蹴る。そして次に、床に座り込んだまま動かない少女に視線をやった。
「それで、アンタ。ユン、っていったか。なんでまた、こっ酷い目に遭わされてたんだい?」
 短めの白い髪、白い肌。それと赤い瞳。
 間違いなくその少女は、朝にバス停で見かけた少女だった。
「……」
 けれども、少女は床を見つめたまま顔を上げない。そして何も喋りはしなかった。そんな少女の腕や足は、がくがくと震えている。
 どうしたもんか、と腕を組むのはアレクサンダー。俺の弁当が、とロッカーを見つめているのはニール。
 するとそこに、二人の女が駆け付ける。一人はラテン語の教師、ミランダ・ジェーン。もう一人は、長めの白い髪を三つ編みにした、赤い瞳のアルビノの女子生徒。彼女はアレクサンダーの知り合いでは無かった。
「騒ぎを聞き付けてみれば、あなたたち! 一体ここで、何があったの!」
 天変地異でも起きたのかという有様の廊下を見るなり、ミランダ・ジェーンは三日月眉を片方だけ吊り上げる。アレクサンダーとニールは、笑うしかなかった。
「イヤ、そのですねぇ、ジェーン先生。そこのアレックスが」
「ニール?」
「二人組のラグビー部員に突っかかって、大乱闘になったんすよ。二人組、っすよ? んで、ロッカーはこの有様。オーディエンスは興奮して紙くず投げ始めたりとかして、大変だったんす」
「おい、ちょっと待てよニール。まるでそれじゃアタシが悪者じゃ」
「アレックス、彼の話は本当なの?」
 ミランダ・ジェーンの疑いの目が、アレクサンダーに注がれる。
「違います、違いますって。事実は、そこの」
「いやだなぁ、ジェーン先生。俺のこと疑ってるんですか? 先生だって、アレックスが細けぇーことですぐキレることぐらい、知ってるでしょ。それにコイツ、危うくラグビー部員の肘の関節を外すとこだったんすよ? マジで、ヤバかったんだから」
 ヘラヘラとした態度でそう言いながら、ニールは抱えていたタブレット端末を操作する。そしてミランダ・ジェーンには見えないよう、アレクサンダーにだけタブレット端末の画面を見せてきた。
『いいから、ここは俺に従え』
 画面には、そう表示されている。
 そしてアレクサンダーは、不貞腐れたように黙ることにした。
「分かったわ。ここはニールが正しいってことにしておきましょう。……はぁ、あなたほどの優秀な子が、まさかこんなことを仕出かしてくれるとは」
 改めてミランダ・ジェーンは、廊下を見る。そして、言った。
「アレックス、ニール。あなたたちは、次の授業に出なくていいわ。その代わり、倒れてるロッカーを元に戻しておくこと。可及的速やかに、ね。そうすれば、私は目を瞑ってあげる。……幸いにも、まだ校長や教頭の耳には入ってないみたいだからね」
「……ありがとう、ございます」
 本来であれば、数日間の停学処分になってもおかしくはない。下手をすれば、退学だってあり得る。
 そこを、目を瞑ると言ってくれているのだ。感謝しなければならない。
「アレックス。お礼なら、そこの彼女に言いなさい」
 そう言いながらミランダ・ジェーンは、横に並ぶ三つ編みの女子生徒を指差した。
「彼女はユニよ。ユニ・エルトル。そこに居るユンの、双子の姉妹。彼女が事情を話してくれてなかったら、情状酌量はなかったんだから」
「そ、そうなんすか」
「そうよ。それじゃ、私はユンを保健室に連れて行かなくちゃならないから。二人とも、ロッカーを宜しくね」
「……ハイ」
 ミランダ・ジェーンは床に座り込む少女を立ち上がらせると、保健室のある方角へと去っていく。その背中を見送ったあと、ニールは“ユニ”と呼ばれた女子生徒を見た。
「んで、YOUが噂のユニちゃんってわけ?」
 三つ編みの女子生徒、ユニ・エルトルは、その質問にこくりと頷く。そして突然、彼女は二人に向かって頭を下げた。
「ユンを助けていただき、ありがとうございました」
「助けただなんて、そんな大げさな」
 アレクサンダーは照れるように鼻の頭を掻く。するとユニは顔を上げた。その目が涙で潤んでいるのを、アレクサンダーは見た。
「あの子、やっと病気が回復してきて、念願だった学校に復学できたんです。勉強が大好きな子だから、嬉しいって喜んでて。それなのに、復学して三日もすればいじめが始まって……。けど、誰も彼女を助けてくれないんです。かといって私もずっと傍に付いてられないし、だから、もう……」
「あぁ、ああ。分かった、分かったから泣くなって。なぁ?」
「ユンを助けてくれたのは、あなたが初めてなんです。本当に、本当に、ありがとうございます」
 ユニの赤い目からは、大粒の涙がぽろぽろと零れ出る。そんな彼女に、アレクサンダーはそっとハンカチを手渡した。
 よっ、イケメンのアレクサンダー! ニールは横で、そう囃し立てる。うるせぇ、テメェは黙ってろ。アレクサンダーはニールの脛を、コツンと蹴った。
「多分、あの子の病気が誤解されてるんだと思うんです。だから……」
「あー、うん、分かった。ユニ、だったか。話はあとで、ランチのときにでも聞こう。なんなら今日はバイトもないし、放課後でも良い。ただ今は……このロッカーをどうにかすんの、手伝ってくれないか?」
 すまなさそうに、アレクサンダーは苦い笑みを浮かべる。その後ろでニールは、雄叫びを上げていた。
「うあー! やっぱ俺の弁当、ぐっちゃぐちゃになってんじゃねぇーか! なんだよ、これ! うわっ、クソだろ!!」
 弁当箱の包みを開けて、一人頭を抱えるニール・アーチャー。そんな彼を眺めながら、アレクサンダーとユニは顔を見合せて笑っていた。





 アレクサンダーたちはどうにかロッカーを全て戻し終え、無事に昼食を迎えることが出来ていた。
「それで、病気ってのはどんなヤツなんだい」
 学校内カフェテリアの一角。一つの机を取り囲んで、アレクサンダーとニール、それとユニの三人は座っていた。
 ランチは、それぞれ違うもの。アレクサンダーは、鮭のムニエルと、どろっどろのチーズがべっとりと掛けられたミートペンネ、それとシーザーサラダの三品。ユニはサンドウィッチ三きれとカフェラテのセット。ニールはぐちゃぐちゃに崩れた三段弁当と、追加でコールスローを購入していた。
「たしか、杖を突いて歩いていただろう。脚でも悪いのか?」
 鮭のムニエルをフォークで一口サイズに切り分けながら、アレクサンダーはユニに訊ねる。ユニは口に含んでいたサンドウィッチを呑みこむと、一呼吸を吐いてから、こう言った。
「違うの。そういう病気じゃない」
「なら、どんなのなんだ」
「なんて言えば、いいのかな。とにかく問題は体じゃなくて」
「癌とか白血病ってワケじゃないんだろ?」
「そうなの。えーっとね、うーん……」
 少し気まずげな表情を浮かべるユニ。アレクサンダーは鮭のムニエルを口に運びながら、少しだけ眉を顰める。ニールも、それまで止まることなく無心で食べ続けていた手を止めた。
 ニールの目が、手元の弁当箱からユニの顔に映る。そしてユニは周りが誰も自分たちのことを見てないことを確認すると、やっと聞こえるか否かという小声で打ち解けるのだった。
「……脳の、障害なの」
「へぇ」
「……エレメンタルスクールに入学したばっかりの頃に発症して。かれこれ十年近くの付き合いになる病気」
「……」
「症状はヤコブ病やアルツハイマーにそっくりだって、主治医の先生も言っていたわ。けど、若干違うみたいで。正直、誰もよく分かってないの」
 聞き慣れない病名に、ニールは首を傾げる。けれども道は違えど医者を志す者の一人であるアレクサンダーには、おおよその察しがついた。
 さぞかし、辛かったことだろう。当事者の少女も、それを支える家族も。
 老人がアルツハイマーを発症するならまだしも、年端もいかない子供の時にアルツハイマーが発症するなど、可哀想などという言葉で済ませられるものではない。更にヤコブ病である可能性があるなら、もっと悲惨だ。
「もしかしたら、母が長いことアバロセレンに触れる職業についていたから、塩基配列がダメージを受けて異常をきたしたのかもしれないって、主治医の先生は仰ってた。アバロセレン技師の叔父も、そうじゃないかって言ってるし」
「ふぅん。アバロセレン、ねぇ……」
「それに、現に私たち姉妹は胎児の頃にアバロセレンの光にやられて、色素が人より少ないんですもの。目だって、コンタクトレンズが無ければよく見えないし……」
「アバロセレンが原因かもしれない、だが詳しいことは何も分からない、か。アバロセレン絡みの話には多いねぇ、そういうのが」
 近頃では、放射線よりもアバロセレン光のほうが有害であるとされている。アバロセレンという物質が放つという青白い光は、美しくもあり凶悪な存在でもあるのだ。
 科学、医学的な根拠はまだ示されていないが、今のアルストグランではアルビノで生まれてくる子供が少なからず存在しているし、上昇の傾向にある。それもアルビノ児の親が高確率でアバロセレン技師であることから考えるに、アバロセレンとアルビノで生まれてくる赤子の因果関係は存在しているのだろう。研究が進んでいない、もしくは事実が隠蔽されているというだけで。
 そんなことを考えるアレクサンダーの目の前に居るユニもまた、アルビノだった。睫毛まで白いその姿は、神聖ささえも感じさせる。けれども、そんな彼女も一人の人間に違いないはずだ。
「ええ。そういう話が多い。……アバロセレンが原因だとしたら、アバロセレンというのは未解明な部分が多い物質であるため、完治はまだ絶望的だろうって。二十年後、三十年後なら希望はあったかもしれないけれど、でも……」
「近い将来に治療法が確立されたとしても、双子の片割れがまだ生きている可能性は低い、ってわけか」
「……そうなの。認めたくないけど、それが現実だから」
 話し込んでいるうちに、時間は過ぎる。ランチの時間の終わりを告げるチャイムが、校内には鳴り響いた。
 カフェテリアから、次第に人が引いて行く。その波を漠然と観察しながら、アレクサンダーは床に置いていたバックパックの中を、おもむろに漁り始める。そしてペンケースを取り出すと、その中から一枚の名刺を手に取る。アレクサンダーは名刺を、ユニに渡した。
「これが、アタシの連絡先。これも何かの縁だ、受け取っておいてくれ」
 ユニは戸惑いながらも、その名刺を受取る。名刺には、『コルト探偵事務所』と書かれていたからだ。
「うちの事務所、というか親父の事務所なんだけどさ。まぁ、いかんせん依頼が無いもんでね。年がら年中、暇してるのさ。だから、話したいことがあればいつでも来てくれ。都合さえあえば、いつでも話を聞いてやるよ。金は取らないから」
「探偵をやってるの?」
「アタシはあくまで助手だけどね。それじゃアタシは次の準備があるんで、お先に失礼するよ」
 食べ終わった皿を返却口に置くと、アレクサンダーはバックパックを背負い、カフェテリアを後にする。それから次の教室へとゆとりをもって向かって行った。
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