ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ

Life lies in Evil hand

 それから時は流れて西暦四二七七年、空中要塞ことアルストグラン連邦共和国。長いブロンドの髪を冷たい夜風に靡かせながら、深夜のキャンベラ市街をガニ股で歩くアレクサンドラ・コールドウェルは、肩を組み横に並んで、二人三脚のように一緒に歩いているニール・クーパー特別捜査官に愚痴をこぼしていた。
「信じられねぇんだよ、あのオヤジ。あんなにも重要な情報を、ン十年と黙り続けていたなんて……」
「えっと、アレックス。オヤジっつーと……」
「サー・アーサーに決まってンだろ」
「で、その重要な情報ってのは」
「今までの全てがぶっ飛ぶ、とんでもねぇ情報さ。書いた本人は暗殺され、偉大な名将バーソロミュー・ブラッドフォードはその本が原因で命を奪われ、そしてラーナー次長が命を賭して守り、その全容を目にしたドクター・サントスは自殺に見せかけて殺され、今はアタシのデスクの上にある呪いみたいな本。その名も“ブリジット・エローラの日記”」
「あぁ、その日記のうわさなら聞いたことあるぜ。そういやセディージョ前支局長は、災厄の大天才ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の全てが書かれているって言っていたような……」
「それがな、アーサーが言うには全部フィクションだったらしい。ブリジットという女性は小説としてそれを書いたと。そしてアーサーはそれを知っていながら、ン十年間も黙り続けていた。あのオヤジ、シニカルに笑っていやがった。……つまり皆が騙されてたのさ。ブリジットという女性に、そしてサー・アーサーに」
 真夜中の繁華街、その深い場所。様々な形態のバーやストリップクラブ、ダンスクラブやディスコなど、まさに夜の喧騒が辺りには広がっている。その中を歩くニールとコールドウェルの二人は、少し肩を寄せて声を潜めながら、公然と秘密の話をしていた。
 ニールは昼間から着ているスーツを適当に崩し、一滴も飲酒をしていないにも関わらず、酔っぱらいのようによたよたと歩く演技をしている。そして売春婦のような、黒地で露出の激しい安ドレスを着たコールドウェルは、ニールの腋に自分の肩を回し、彼を支えるようにして歩いていた。
 人でごった返している真夜中の繁華街において、彼らはその背景に完璧に溶け込んでいた。誰がどう見ても彼ら二人は、安娼婦とカモにされた酔っぱらいのビジネスマンにしか見えていないだろう。一体どこの誰が、連邦捜査官と秘密工作員のコンビだと思うだろうか。
「えっ、あっ……あ、アレックス。それって、ちょっと待ってくれ。冗談だと、言ってくれ」
「残念ながら、これは真剣な話さ。……あの日記は全部、嘘だったんだよ。大勢のASI局員は、犬死だった。ドクター・サントスは流れ弾に当たったようなもの。アタシがこうして闇の世界に堕ちたことすら、無意味だったんだ。皆、嘘の情報に振り回されて、死んでいったんだよ」
 表面だけは勝気な娼婦のような笑みを口元に浮かべているコールドウェルだが、彼女の三白眼は笑っていないどころか、ぐつぐつと煮えたぎる怒りが情動の湯気をくゆらせていた。彼女が心底怒っていることは、ニールにも伝わってきている。そしてニールには、彼女の混乱も伝染していた。
 かれこれ十五年近く、ニールとコールドウェルの二人を掻きまわしてきた五冊の本。ブリジット・エローラの日記。誰もがその内容は事実だと信じていて、誰もがその事実を手にしようとした。国が、ASIが、エズラ・ホフマンという存在が、そしてアイリーン・フィールドを始めとする特務機関WACEの面々も。誰もが、信じて疑っていなかったのだ。あの日記は禁忌の本で、あの本の内容を知れば“猟犬”と呼ばれる存在を操る術を手に入れられると。
 ある者は“猟犬”を支配するために、その本を求めた。ある者は“猟犬”および宿主を理解するためにその本を求めた。またある者は“猟犬”を殺すためにその本を求めた。だが、その本はそもそも“猟犬”が綴らせたものだったのだ。
 “猟犬”こと、黒狼ジェド。黒狼は未来がこうなることを知ったうえで、あんな人騒がせなものを後世に遺させたのだろうか。
「お、おい。それじゃ、セディージョ前支局長は……」
「セディージョ支局長の首切り騒動は、ASIに君臨する独裁者トラヴィス・ハイドン長官代行が焚きつけた茶番劇だ。コードネームは『ディープ・スロート: スローター』。世間じゃ、現支局長リリー・フォスターの暗殺未遂事件と併せて『リリー・リーケイジ』って呼ばれてるけど。まあ、それとこれとはまた別の問題だよ」
「……ASIが? あいつら、何がしたくてそんなことを」
「アタシら特務機関WACEをぶっ潰すためさ。WACEというか、サー・アーサーを、かな」
 とはいえ全ての真相は、黒狼のみぞ知るところ。五〇年以上も昔の話の真偽を、今を生きるニールやコールドウェルが判断することは困難であるし、その時代を知る者は既に死んでいるか、または未だに黙りこくっているからだ。
 サー・アーサーの口は、防爆扉のように固い。ましてや当事者である男は、ろくに口も利けやしない。それ以外の関係者も、誰も口を割らない始末。彼ら昔の世代が残した謎により、現役の世代の心には解消されない疑問と、遣り切れないむしゃくしゃばかりが溜まっていた。
「アレックス。お前、たしかASIとの関係は良好とか言ってなかったか?」
「アタシ個人は、な。それにアタシは、どちらかといえばASI寄りの立場を取ってるんだ。……トラヴィス・ハイドンのやり方にゃ気に入らねぇが、『アルフテニアランドの悲劇』の二の舞を防ぐためには手段を選んでられねぇ状況だっていう彼の意見には賛成だ。アバロセレンを撲滅するためにゃ、魔物でも何でも使うしかない。それがたとえ、全ての元凶である高位技師官僚だとしてもな」
 女性らしからぬくぐもった低い声で、コールドウェルはそう呟く。彼女の言葉から漂う不穏な気配に、ニールは眉を顰めさせた。
 すると、そのとき。コールドウェルが舌打ちをする。そして彼女は組んでいた肩を、ニールの腋の下から外すと、人混みの中のある場所を睨みつけた。そしてコールドウェルは、ニールにこう言った。
「一時の方角、容疑者を視認。居たぜ、通り魔野郎が」
「ん? あぁ、本当だ。やっと見つけたぞ、ジャック・ドーバー……!」
 彼らの今宵の任務は、通り魔殺人の容疑者の逮捕。ニールは腕時計型の通信機を操作し、同じ区域で捜索に当たっていた同僚たちに自分の位置情報を知らせる信号を送る。それから彼は静かに手錠を取り出し、人の波に紛れてそっと容疑者に近寄っていった。
 気配を殺して、足音を殺して、容疑者の背中に少しずつ少しずつ迫っていく。あと一歩、というところまで迫った瞬間だった。彼の目の前を、黒くて黄色い影が横切り、視界の下に消えていったのだ。
「うおりゃあああぁぁぁっ!!」
 影の正体は、黒いドレスを着た金髪の女。つまりアレクサンドラ・コールドウェルだ。容疑者に向かって突進した彼女は、見事に標的の背中にぶつかり、タックルを決めたのだ。彼女の下敷きとなり地面に倒れこんだ容疑者は、うつぶせの状態で咳き込んでいる。それからコールドウェルは瞬く間に容疑者の背中に馬乗りになり、容疑者を拘束した。
 コールドウェルは容疑者の腕をひねり上げ、ニヤニヤと笑っている。そんな彼女に手錠を差し出しながら、ニールはこう言った。
「過激すぎだ、アレックス。もっとスマートにできないのか?」
「スマートさを猛獣に求めるなんて、アンタも野暮だね」
「それにお前んとこの特務機関と連邦捜査局の提携が再開されてから、まだ一週間も経ってないってのに。もうこんなに暴れられちゃあ……――フォスター支局長が考え直して、やっぱり方針を変えちまうかもしれないぞ?」
「アタシはその点を、あまり心配してねぇけどな。なんかあったら、アイリーンがバックアップしてくれるしよ。それにアタシの上司であるアイリーンと、アンタの上司であるリリー・フォスターは、今や親友も同然だしな」
 コールドウェルは拘束した容疑者に手錠を掛けると、少々乱暴なやり方で容疑者を立ち上がらせる。そしてニールに容疑者を引き渡した後、彼女は両腕を上に掲げて伸びをし、それから欠伸を交えてこう言った。
「あー。久々に暴れられて、スッキリしたぜ」


+ + +



「あの大災厄で、私は大勢の友人を失った。大学時代の同窓生たちも、離婚した元妻クロエも、アバロセレンの光に飲まれて死んだことだろう。それに友人であったシルスウォッドの名前を報道で聞いた時には、悪夢でも見ているのかと思ったものだ。彼が、一連の事件の犯人として報道されていたのだからな。そんなことが出来る男ではないと知っていたにも関わらず、事件直後はあいつを信じることが出来なかった。今は、あれは濡れ衣だったと言い切れるがな。……だが彼は死んでから、随分と変わってしまったようだ。サー・アーサーは、存在そのものが闇のような男。再会した時には、ゾッとしたものだ」
 サー・アーサーの遣い。そんな嘘をコールドウェルがでっち上げると、その老人は意外なことに快く聴取に応じてくれた。
 白髪頭の老人の名前は、デリック・ガーランド。今やアルストグラン連邦共和国を代表する老舗企業、電子楽器メーカーとして有名な『ガーランド・ミュージカル・コーポレーション』の会長だ。
「そして今の私があるのは、間違いなくペルモンド・バルロッツィのお陰だ。彼がこの国から逃げろと私の背を蹴飛ばしてくれたからこそ、私はあの大災厄に巻き込まれずに済んだのだから」
 そう言いながら、デリック・ガーランド会長は過去を懐かしむように微笑む。
 ガーランド・ミュージカル・コーポレーション本社ビルの最上階、会長室。その部屋にある会長のデスクには“ペイル・ウルフ”と呼ばれる伝説の三十二弦エレクトリックベースが置かれていた。空色のボディの塗装は剥がれることなく、今もなお健在。そんなボディは窓から差し込む光を反射し、曇天の空に染まって少しだけ灰色を帯びていた。
「つまり、昔から高位技師官僚の予言ってのは当たるもんだったんですか」
 珍しく礼儀正しい振る舞いを心掛けているコールドウェルは、会長の顔色を窺い、ひとつひとつ言葉を選びながら、慎重に質問を重ねていく。それに対し、会長である男は真摯に応対していた。
「そうだね。噂によれば、あの予知能力は死神のお墨付きらしい」
「死神、というと……まさか、アーサーですか」
「いいや。死神というのは、マダム・モーガンという名前の女性のことだと聞いている。私はそれをかつて、今日こんにちのアーサーから聞かされた」
 マダム・モーガン。コールドウェルには、あまり聞き覚えのない名前だった。そういえばアイリーンがそんな名前を口にしていたことが一度はあったかもしれない、程度の記憶しか彼女にはない。
 あとでその“マダム”とやらを調べてみるか、とコールドウェルはひとまずその情報を頭の片隅に留めておく。そして彼女がスーツの裏地に縫い付けられたポケットから、ペンと手帳を取り出すと、会長の椅子に腰を下ろした。すると会長が、話を切り出してくる。
「それで、エージェント・コールドウェル。君は何を訊きたいんだ?」
「あぁ……お聞きしたいことは色々とありますが、一番はエリカ・アンダーソンという女性についてですかね。書面からは『自動車修理工場を営む家の一人娘で、ボストン総合大学工学カレッジ卒』というざっくりとした経歴しか分からず、まるで彼女の正体が見えてこないので。およそ知り合い思われる方々に、彼女の人となりを聞いた方が早いと思いましたんで」
「エリカか。これまた懐かしい名前だ。サー・アーサーは何も教えてくれなかったのか?」
「意地悪なんで、あのオヤジ。彼女の名前しか教えてくれなかったんですよ」
「ヒントだけを囁くとは、あの男らしいやり方だな」
 ぽろーん。ペイル・ウルフの弦を、会長は指先で弾く。緊張の緩い、長く太い弦が揺れ、低音が鳴った。ロー・エイ、会長はそう呟く。それから彼は少しだけ目を細めさせ、こう言った。
「一言で言うと、彼らは夫婦で、二人とも優秀なエンジニアだった。エリカは自動車修理工を志す傍らで情動的に考え人間のように成長する人工知能の研究を、バッツィは計算機工学を軸に様々な分野を応用しながら、宇宙の成り立ちから終わりまでの全ての事象を予測するコンピュータの研究をしていた。どちらも一流の研究者になれるだけの素質はあったが、彼らには運がなかったんだろう。それが、今だ。エリカはもうこの世に居ないし、バッツィは目に見えない様々なものに囚われ雁字搦めにされている」
「……」
「……バッツィも、あの大災厄に巻き込まれて死んでいれば。そのほうが彼も、よほど幸せだったことだろう。あの日に彼も大災厄に巻き込まれていれば、今頃彼はあの世でエリカと共に居れたのかもしれないし、アルストグラン連邦共和国が空に浮くことも、アバロセレンが世に広まることもなかっただろう。どこまでも業の深い、憐れな男だ」
「ところでバッツィっていうのは、バルロッツィ高位技師官僚のことだという認識で間違いないですか」
「ああ。その通り。バッツィというのは、ペルモンド・バルロッツィ、彼の昔の呼び名さ。それと彼は、ペイルとも彼は呼ばれていた。この“ペイル・ウルフ”のペイルも、彼の名前に由来しているくらいだからね」
「へぇ……――蒼白ペイル、ですか。あの人の顔色が、年がら年中悪いからですかね?」
「それも一理あるが、一番の理由は彼の目の色だよ。それに妙ちくりんな名前を掛けた結果が、ペイルだったんだ。とはいえその名前で彼を呼んでいたのは、エリカだけだったんだがね」
「あぁ、なるほど」
「だがエリカは、早くに交通事故で亡くなった。それも彼女が妊娠していた時に、だ。お腹の子もろとも、亡くなった。そのショックに、彼は耐えられなかったのだろう。当時のバッツィは、破綻してしまっていた。落ち着いていたDIDの症状が再発し、二〇代後半の彼はひどい有様だったよ。……そんな彼の隙に付け込んだのが、ブリジット・エローラだ。精神的に弱っていたバッツィを彼女が支配し、記憶を書き換えていったんだ。少なくとも、私の目にはそう見えていたよ」
 ぽろーん。また会長は、弦を鳴らす。今度は緊張の強い、短く細い弦が揺れた。高い音が鳴る。ハイ・ディーのフラット。……机脇に置かれた年代物の電子チューナーには、デジタル文字でそう表示されていた。
「それに、今は亡き祖国で最後にバッツィと交わした言葉は今でも忘れない。若かったあの日。北米からこの大陸へと発つ前夜に、彼にこんなことを言われたんだ。『次に顔を合わせるときに、お前のことを覚えている自身が俺にはない』と。実際に、その言葉通りになった。この国で十数年ぶりに彼と再会した時、彼は私のことなど覚えていない様子だったからな。……私は、こう思っている。全て、あのブリジット・エローラという女が悪いのだと。彼女が全てを、ぶち壊したのさ」
「そのブリジット・エローラというのは、あなたから見て……どういう人物でしたか?」
「私は彼女と接点があったわけじゃないから、あまり詳しくは知っていないが。医者としての評判は良かったらしい。だが、人となりに関してはあまり良い噂は聞かない人物だった。エリカの思い出が残るものを全てバッツィの目の前で叩き壊したとか。皿を割り、写真を破り、エンゲージリングを金槌で叩き割って……」
「……その話が事実ならば。あの人のDIDが悪化したのも、無理ないかもしれないっすね……」
「だが世間じゃ、ブリジット・エローラという女は『偏屈な天才に付き添い続けた献身的な妻で、悲劇の女性』ということになっている。故に彼女のことを大っぴらに批判など出来やしない。だから私を始め、彼の真実を知る者は口を噤み続けているのだ。それは世間の嘘が、今や彼にとっての真実になっていることを知っているからこそ」
「……」
「それと私の背には会社があり、大勢の従業員たちが居るからね。慎重にならざるを得ないのさ。……大勢の社員の為に。私は一人の友人を捨てるしかなかったんだ」
 このデリック・ガーランドという人物のことを、友を捨てた薄情者だと非難することもコールドウェルには出来た。それに彼の最後の言葉に、コールドウェルが少なからず不快感を覚えたのは事実。だがコールドウェルは何も言わず、白紙のメモ帳をぱたんと閉じる。彼女は会話をメモしておらず、それどころかハナからメモを取るつもりもなかったのだ。
「……ガーランド会長。心中、お察しします」
 会長が話した言葉は、コールドウェルにとっても他人事ではない。彼女だってその昔、ふたりの友人を見捨てたのだから。その結果、コールドウェルはこうして特務機関WACEとやらに籍を置く羽目になっている。そしてふたりの友人――ユンとユニという名前の、双子の少女たち――のうちユンは行方知れずとなり、ユニは先日、約十五年という時を越え、ホルマリン漬けにされた遺体となって廃病院から発見された。それもつい三日前のことだ。
 ときに、自分を守るため。家族を守るため。従業員を守るため。秘密を守るため。誰かの生活を、尊厳を、未来を守るため。人は嘘を吐き、過去を切り捨て、友を見捨てることがある。それは辛い決断であり、円満な解決を迎えることは滅多にない。そしてコールドウェルの場合、この上なく最悪な終わりを迎えたのだ。
 会長もきっと、あまりよくない別れ方をしたのだろう。件の人だけに限らず、大勢の友人たちや、元妻だという女性とも。だからこうして、引き摺っているのだ。消し去ることのできない後悔しかない過去を、今も彼は背中に背負っている。
「それでも、私はまだ信じているよ。ペルモンド・バルロッツィが、エリカ・アンダーソンを忘れるはずがないと」
 それは深夜に、ニールおよび彼の所属する捜査チームとキャンベラの繁華街で合流する六時間前の出来事。白か黒かを一概に割り切れない“人生”というものに、彼女はもやもやとさせられたのだった。





 繁華街での通り魔捕獲騒動を終えたコールドウェルは、その足でイーストセールにある空軍の飛行場へと向かい、その晩のうちに輸送機へと乗り込んだ。行き先はアルストグラン連邦共和国の西側、のどかな田舎で観光都市でもあるエスペランスだった。
 だがコールドウェルは、のんびり観光を楽しみに来たわけではない。目的があって、ここに来たのだ。
「あらあら、まあ。誰かと思ったら、エージェント・コールドウェルじゃないの。どうしたの? こんな田舎に、テロリストは居ないと思うけど」
「いや、テロリストを取っ捕まえに来たわけじゃ……――というか、セディージョ前支局長さんよ。どうしてアンタが、ここに」
「うふふ♪ これが不思議な巡り会わせでね。私の家は、この家の隣にあるのよ。で、今日は何となくお隣さん家に遊びに来たの」
 コールドウェルが叩いたとある家のドア。来客を出迎えるためにドアを開けたのは、この家の家主ではなく、この家に遊びに来ていた隣人――仕事を失い、現在は無職のノエミ・セディージョ――だった。
「おっと。その情報は、初耳だね。エスペランスに居るとは聞いてたが、まさかこの家の隣だとは……」
 驚いて目を見開くコールドウェルを見るなり、ノエミ・セディージョは大口を開け、腹を抱えて笑い転げる。そうして気が済むまで笑い転げたあと、ノエミ・セディージョは来客であるコールドウェルを、家の中に招き入れたのだった。
「イルモ、お客さんよ! アレクサンドラ・コールドウェルが来たわ。……それで、エージェント・コールドウェル。あなたは、何の用でここに来たの?」
「そりゃ、ドクター・カストロに伺いたいことがあるもんでね」
「もしかして、カルロのこと?」
「いいや。ドクター・カストロに弟子の話を聞きに来たんじゃないさ。ドクター・カストロが昔、北米に居た時代に受け持っていた患者のことを訊きに来たんだよ」
「患者って?」
「前支局長さん、あんたには関係ない話だよ」
「関係なくないわ。私、今はイルモのお友達ですもの」
「……あー、はいはい。さてはアタシを尋問する気ですね?」
「してもいいけど。でも、面倒臭いわ。だから、ほら、早く教えて」
「はぁ……――つまり、バルロッツィ高位技師官僚ですよ。彼の過去に関することで、新たな記録が見つかったんでね。ちと昔の主治医にお話を聞きたいなぁと思った次第ですよ」
「えっ! イルモって、あの高位技師官僚の主治医だったの?! えっ、でもリッキーはブリジット・エローラっていう女性が彼の面倒を見てたって……」
「ノエミ。もし“ブリジット・エローラの日記”のことを言っているのであれば、あれは列記としたフィクションだ。そこの金髪のお嬢さんが言っていることが正しい。俺は大昔、間違いなく彼の主治医だった」
 かつ、かつ。杖を突いて歩き、そう言いながら、ひとりの白髪の男がコールドウェルの前に現れる。八〇も過ぎているという年齢の割には、少し若く見えるその男の名前はイルモ・カストロ。現役を退いた元精神科医で、アルフレッド連邦共和国の伝説とも称えられる高名な分析家クストディオ・サントス・シニアの一番弟子であり、コールドウェルの知り合いでありノエミ・セディージョの友人でもあった精神科医カルロ・サントスの師でもある男だ。
 そしてこの国では名を知らぬ者はいない狂気の天才の、主治医でもあったこの男。若き日の色男っぷりを仄かに匂わせつつ、老人となったイルモ・カストロはコールドウェルに熱い視線を送っていた。
「ガーランド・ミュージカル・コーポレーションの会長様から、ざっくりとした話は聞いているよ。さて、どこから話そうか。俺がアーティーに見捨てられ、バーに置き去りにされた夜? それとも、危ない女を口説いてしまったばかりに北米を追い出された話? または」
「取り敢えず。昔のあの人についてと、エリカっていう女性について教えてくれやしませんかね」
「あい分かった。それじゃあまず、ブリジット・エローラが彼をぶち壊したところから始めようか」


 イルモ・カストロと、アレクサンドラ・コールドウェルの間で交わされる、よく分からない会話。専門用語の数々。ノエミ・セディージョは退屈そうに欠伸をしながら、二人の会話を横で聞いていた。
「カルロは、そうだな……まあたしかに、俺の教え子の中じゃ一番出来のいいヤツだったよ。とはいえあいつの祖父は、俺の師であるあのクストディオ・サントス・シニア。ほんのチビ助だったころから、カルロは偉大なおじーさまに目を掛けられていてな。まっ、絵に描いたようなエリートになることは簡単に予想がっ」
「あー、イルモさん。もうカルロ・サントスの話は……」
「だがカルロは、頭が固すぎた。だからあいつは、ひとりでは友人を救うことが出来なかったのさ。あれが最初で最後かな。カルロが俺に泣きついて来てな。『師匠、助けてくれ』って。だが俺がエスペランスからキャンベラに駆け付けたときにゃ、解離の患者にしちゃかなり重症化していてな。残る手段は最終手段ともいえる荒療治、記憶の書き換えしかなかったさ」
「……あぁ、あの時ね。覚えてるわ。カルロと知らないおじさんが随分とアツい喧嘩してるなって思ってたけど、あの時のおじさんはイルモだったのね」
「その通りだ、ノエミ。そういえばあの時、君も居たね。あの頃の君は素晴らしい美人だったなぁ」
「なに言ってるの、イルモ。私は今でも美人よ。それにノエミ・セディージョは太陽ですから」
「とにかく。カルロ・サントス、あいつは深層心理学の観点からしかものを見ようとしない。それに“根本的な解決”という精神医療的には幻想ともいえるそればかりを目指すせいで、患者の病態を悪化させたり、なかなか治らずずるずる引きずることになったりするんだ。その時、役に立つのは行動心理学。過去は過去だと切り捨て、身体面から今を改善していくことに集中するというアプローチ方法だ。俺の経験からいうと、PTSDにはこれが最も効果の上がる……――」
「ドクター・カストロ。だから、カルロ・サントスの話はもう聞き飽きた。本題に移ってくれ」
「そう急かすな、エージェント・コールドウェル。寄り道は、本題への最短ルートだったりするものだよ」
 空の真上には太陽が燦燦と輝いている。そんな真昼から、テーブルの上には空いたワインボトルが置かれていた。ノエミ・セディージョはワイングラスに注がれた赤ワインが、窓から差し込む日光を受けてきらきらと輝くさまを見つめて、心を無にしている。禅の視点、そんなところだろう。
 そしてコールドウェルはこの話が長く寄り道だらけの元医者の話に、辟易しているようだ。イルモ・カストロは五年前に自殺“に見せかけられて”死んだ弟子カルロ・サントスの思い出話ばかりをして、一向に本題に入らない。そうこうしながら、もう一時間は経過しているだろう。
 一向に、イルモ・カストロの口から『エリカ・アンダーソン』という名前が出てこない。『ペルモンド・バルロッツィ』及び『バッツィ』や『ミスター・ペイル』という言葉も、全く出てこない。これじゃあ何のためにシドニーからエスペランスに飛んできたのかが分からない、とコールドウェルがヤキモキしていると、漸くイルモ・カストロは本題に入る気になったらしい。彼の口からは、やっとコールドウェルが望んでいた名前が飛び出してきた。
「ミスター・ペイル。彼には、深層心理学を用いた治療は全く効果を見せなかった。セッションの中で治療者が彼の過去を記憶の海からほじくり返せば返すだけ、彼は混乱して、深みに嵌まった」
「……おっ、やっと話す気になったのかい」
 使い古され、よれよれになった合皮のソファーに深く座るイルモ・カストロに、コールドウェルはそう毒突いた。するとイルモ・カストロは腕を組み、顔を少しだけ下に向ける。彼は言葉を選んでいるようだ。
 それからイルモ・カストロは数十秒ほど黙った後、顔を上げて口を開く。彼の目は真っ直ぐ、コールドウェルの三白眼を見つめていた。
「ブリジット・エローラの日記、と呼ばれている例のあの小説。俺も一度だけだが、カルロに見せてもらったことがある。コピーの一部だけだがね。それでも、これだけは言えるだろう。あの本は結局、小説の域を出ない」
「…………」
「あの本に書かれている通りの治療を、仮に彼に施したとしよう。というか、まあ一度だけ、俺もやったことがあるんだがな。彼の過去を、ほじくり返すっていうことを。そうしたら何が起こったかというと……自殺未遂だ。当時の職場、ビルの十二階の窓から飛び降りたらしい」
「――……飛び降りた?」
「ああ。幸いにも、あばら骨を数本ほど折り、右腕を複雑骨折した程度で済んだらしいがな」
「あの人の不死身伝説は大昔から健在、ってわけねぇ。……そりゃ、至近距離から銃弾を一〇発食らっても、五年以上も地下室で拷問を受け続けても、しぶとく生き残るわけだ」
「たった一言の質問で、そうなったんだ。あんなことを日常的にやっていたら、彼の命が百個あっても足りない。それだけ、彼の過去の破壊力は抜群だ。ありゃ、いつドカンと行くかが予測できない不発弾を胸に抱え続けているようなものさ」
 ビルの十二階というと、ざっと四〇から五〇メートルといったところだろう。ビルの窓から顔を出し、そこから下界を眺める……――そんな光景を想像するだけで、コールドウェルの背筋はほんの少し震えた。ビルの十二階から飛び降りるだなんて勇気、普通の人間ならば持ち合わせていないだろう。
 するとイルモ・カストロは、少しだけ表情鵜を強張らせた。それから彼は小さな溜息を零して、言葉を続ける。
「そんなわけでミスター・ペイルに対する最良の対処法は、昔のことを何も聞かないことだった。昔のことを聞くとしても、それは数日前に何をしていたのかとか、それぐらい。そして彼が言いたくなった時には、耳を傾ける。そんな感じで、俺は大したことを彼にしていなかったのさ。要するに彼を寛解させたのは俺ではなく、彼の妻。エリカ・アンダーソンという女性だったんだ」
「……」
「彼女は本当に、聡明な女性だった。あのミスター・ペイルと同等の知識を持ち、彼と対等に渡り合えるだけの頭脳を持った女性でありながらも、天才にしちゃ珍しく察しのいいタイプでな。賢者という称号が相応しいような、そんな女性だった。人妻だが正直に言うと、彼女には惚れたね。あんな女性と居られたら人生最高だろうよ。――……と、まあ。彼にとってエリカという女性は鎮痛薬のようなもので、同時に暗闇のように思える世界の中をリードして歩いてくれる頼れる相棒。それに彼女はとても明るい人物だった。彼にとっては、太陽よりも暖かい光であったのかもしれないな」
「太陽は私よ。ノエミ・セディージョこそ、燦々と輝く眩しいたいよッ……――」
「前支局長さん、アンタはちょっと黙っていてくれ」
「話を戻すぞ。……そして、ある日。彼の前からエリカが消えた。あれは不慮の事故だった。彼が人生のどん底に突き落とされたのは、言うまでもない。そしてブリジットが、隙だらけになっていた彼に付け入ったのは、そのタイミングだった。彼女は壊したんだろう、彼の何もかもを。片っ端から全て。そして自分の望む“彼”を作り上げたんだ。それが、あの小説に登場するもの。彼女に全幅の信頼を置いていて、そして『黒狼がどうたら』と寝言を言う天才。それが彼女が夢見た、ペルモンド・バルロッツィ……」
 黒狼がどうたら。イルモ・カストロという男はどうやら、それをブリジット・エローラという女性の創作であると思っている様子。しかし黒狼に関するあの『小説』の記述は、意外と的を射ているものが多かった。
 黒狼という存在は実在するものであり、その黒狼とやらは間違いなくあの男を支配している。コールドウェルはそれを知っていた。彼女の師であるパトリック・ラーナー次長は、生前によくその話を聞かせてくれたし、彼女自身もこの目で黒狼を見たことがあるのだ。緑色の目をした、黒狼に乗っ取られた彼の姿を。なにせコールドウェルはまだ高校生だった頃に、黒狼に乗っ取られた彼に撃たれ、普通の人生を奪われたのだから。
 けれども、コールドウェルはこれも知っている。知らないに越したことはない情報もある、と。それに彼女の父親は前に、こんなことを言っていた。
『アレクサンダー。お前にはまだ知らないことがあり、それにこれから先も知らなくていいことがある。多分この件は、お前が知らなくていいことだ』
 故に彼女は、イルモ・カストロの話にこれといって口を挟まない。余計なことは言わず、彼の話をただ聞いていた。そして話し続けるイルモ・カストロの表情は、言葉を重ねるごとに曇っていった。その顔は、後悔しかない過去を直視しているかのよう。
「だが現実の彼は、ブリジット・エローラという女性を愛していなければ、彼女に怯えてさえいた。俺がこの大陸に移り住んでからも、五年ぐらい彼とは電話でやり取りしていたが、そのやり取りの殆どは『彼女が怖い』だったからなぁ。彼の声は、ブリジットのご機嫌取りと、次から次に押しかけてくる以来の数々に疲れ切っているようでもあった」
 そしてそれは先日にコールドウェルが見た、ガーランド・ミュージカル・コーポレーションの会長――デリック・ガーランドという男――が纏っていた雰囲気と似ていた。
「だが、ある日を境に電話でのやり取りが終わったんだ。彼はあれ以来、二度と俺を頼ってくることがなかった」
「焦らさなくていいよ。さっさと話してくれ、ドクター・カストロ」
「ブリジットが妊娠した。彼と、一度も寝ていないにもかかわらず。……当時の彼は電話越しでもわかるくらい、パニックに陥っていた。一度でも彼女と寝てしまったんなら自業自得だが、彼の場合はそうじゃない」
「……どういうことだい、そりゃ?」
「彼が眠剤で眠っている間に、ブリジットは彼の精子を勝手に頂戴したってことだ。紙コップか何かに入れて、それを婦人科にでも持って行ったんだろう? あの時代は、人工授精の門は広く開かれていたしなぁ。不妊治療の普及のためだったが、悪用する女性たちが少なからず出ていたんだよ」
「……あぁ、だから今は夫も同伴していないと不妊治療を受けられないっつー法制度が敷かれているんですね」
「それも一理あるが……――まああの制度は、どちらを治療すべきなのかを医者が見極めるために定められたものだよ。子供が出来ないからと女性が不妊治療を受けに来たが、女性はいたって健康で問題がなく、実は問題があったのは旦那のほうだった、なんてケースがあるもんだからね」
「なるほど……」
「まぁ、ミスター・ペイルの話に戻すとだ。もし俺が彼の立場ならば、迷うことなく下ろせと女性に言うだろうし、自腹でも女性を引き摺って人工中絶に連れて行くだろう。だがミスター・ペイルは何の宗教に傾倒しているのかは知らんが、中絶は考えられないと言っていたんだ。まあそうして子供は生まれてきてしまった。それが、あのエリーヌ嬢。母親によく似てとびきり美人の、素晴らしい女性だ」
「……ええ、本当に。エリーヌ、彼女はきれいな人でした」
「ミスター・ペイルは子供が生まれる直前まで、ブリジットには離婚を迫り、子供の認知を拒否し続けていたそうだ。しかし、なんだかんだで優しかった彼は妊婦の世話をしてやっていたらしい。身重の女性を放り出すのは気が引ける、と。だが妊婦でなくなったら、彼は彼女を追い出すつもりでいたらしい」
「それって優しいっていうんですかね」
「さぁな、俺には分からんよ。まあ、それからは君も分かるだろう、エージェント・コールドウェル。ブリジットは妊婦でなくなった直後に、殺された。そうして否が応でも、彼が子供を引き取らなければいけない状況になってしまったんだ。あれから、だな。彼から連絡が来なくなったのは。きっと仕事と子育てに追われて忙しかったんだろうと、思うことにしているが……――」
 と、思うことにしているが。その言葉の裏に隠れた感情は、何なのか。彼の身の心配か、または別の憂いか。しかしコールドウェルは、本筋とは関連のないどうでもいいことは訊ねやしない。
「…………」
 人間ってやつは、どうしてこうも面倒臭いのか。イルモ・カストロの目をじっと見つめながら、コールドウェルは心の中でそう零す。顔には出さないよう、細心の注意を払いながら。
「太陽と月のような夫婦、とはよく言ったものだ。エリカが太陽で、ミスター・ペイルが月だと。彼女が照らさければ、彼は容易に翳ってしまう。あの二人は、そういう関係だった。その関係が良いとも、悪いとも俺は言わん。ただ、健全かと問われれば、そうではないと言えるかもしれないがな。まぁ、生涯独身を貫いた男がどうこう言える筋合いもないし、健全な夫婦ってのがこの世の中に存在するとも思えんがな……」
 何が正解で、何が間違いなのか。そのことをずっと問い続けながら、人は生きていくのだろうか。絶対の正解などこの世界にはないことを知らずに、それを求めながら苦悩し続けるのだろうか。
 面倒臭いこと、このうえない。
「太陽を失くした月は、闇の中に消えて行くだけだ。もしかすると、彼はそれで良かったのかもしれないな。下手な希望に縋らずに済むのだから」
 イルモ・カストロという男が出した答えはそれだった。横で話を盗み聞くノエミ・セディージョはワインを一口だけ口に含むと、何やら物言いたげな顔をする。コールドウェルはイルモ・カストロから目を逸らし、視線を自分のつま先に落とした。
 すると、ノエミ・セディージョが口を開く。彼女はこう言った。
「太陽を失くしても、月はそこにあり続けるわ。闇の中に消えるんじゃなくて、闇の中に取り残されるの。それって、すごく寂しいと思わない? それが良いことだなんて、私は思わないわ。想像するだけで、つらいもの……――」





「すべては見方次第で、いかようにも変容する。光が潰えれば、闇という概念も消えるのだ。闇だけの世界の中で、闇を恐れる必要がどこにあろう? つまりは、そういうことじゃないのか」
 アルストグラン連邦共和国、某所。とある地下施設。隊員たちも知らぬうちに、いつの間にか行われていた増改築によりだだっ広くなっていた特務機関WACEの本部(仮)。いつの間にか出来ていた地下二階に、いつの間にか設置されていたシャワールーム。その男性専用の区画に、あろうことか女性であるコールドウェルは堂々と入り込んでいた。
「……サー・アーサー。アンタにしちゃ珍しく、具体的なことを言うんですね。それでも、まだふわっとしていて、分かりにくいといえば分かりにくいが」
「感情が無くなれば、怒りも恐れも消滅する。希望を求めて苦悩することもなくなる。そういうことだ。何も感じない、それ以上の幸福があるとでも?」
 濡れた髪をドライヤーで乾かしながら、コールドウェルの話相手である男――瞳孔のない蒼い瞳を持つ男で、この特務機関WACEを取り仕切る者、サー・アーサー――は、軽くあしらうようにそう返答した。そんな彼は、バスローブを纏っている。着替えたくても、コールドウェルが邪魔でそれが出来ないのだ。
 半分は本心で、もう半分は誰かの受け売りで。そんな感じの適当な言葉を、コールドウェルに返したサー・アーサー。しかし彼が今、一番コールドウェルに言いたいことは「早くこの場から出て行ってくれ」という思いだけだ。だが察しのいいコールドウェルは彼の無言の訴えに気付いていながらも、それに無視を決め込んでいる。
「アタシゃそうは思わないね、上官(サー)。怒りや悲しみを感じるからこそ、生きていると思えるさ」
「今のヤツの目の前で、君はその台詞を口にできるか?」
「ええ、もちろん。なんなら、言ってきましょうか? それにアタシ、普段の技師官よりも今のあの人の方が好感を」
「ああ。そうだろうな、コルト。君のような者、そして精神分析家は総じて、あの男を好きになる。多重人格の魅せる狂気に惹きこまれるんだ。それから、破滅していく。黒狼に弄ばれてな。……あまりあの男に関わるんじゃない」
「ふーむ。サー・アーサーが、部下思いだとは……意外だねぇ」
「あいつを崩壊した廃人にしてくれるな、と言っている。もし余計な手出しをするのであれば」
「あー、はいはい。怖いねぇ、全く。最悪の上官だよ、アンタって」
 何故ならば。こういうタイミングでないと、特務機関WACEの中でも下っ端にいるコールドウェルは、この“サー・アーサー”という男と話すことが出来ないからだ。
 普段、コールドウェルがこの男と交わす言葉は業務連絡だけ。電話越しの命令か、またはアイリーンを通じて届けられる伝達、それぐらいである。十五年もこの男の下で働いているが、コールドウェルは意外とこの男の正体を知らない。それも彼が“神出鬼没のサー・アーサー”であるからこそ。この男と顔を合わせるチャンスが、なかなか巡ってこないのだ。
 とはいえ彼についての情報を何ひとつ調べないだなんて真似を、コールドウェルはしない。情報収集は、今や彼女のライフワーク。連邦捜査局の相棒ニール・クーパー特別捜査官の配偶者であるシンシア・クーパーの経済状況だって彼女は探るし、連邦捜査局シドニー支局長リリー・フォスターの行きつけのパン屋と大好きなパンの種類も把握済みだし、ASI長官代行トラヴィス・ハイドンの日課を把握していれば彼のスケジュールも掌握しているのだ。それを表に出さず、ここぞというときにしか口にしないだけで。
 そしてコールドウェルは“ミスター・ペイル”の過去を探る傍らで、勿論“アーティー”に関する話も聞き出していた――しかし情報提供者たちは、なぜか“アーティー”に関しては固く口を噤み、なかなか喋ろうとはしてくれなかったが。
「ところでだ、アーサー。アタシには理解が出来ないんだよ。つい先日までは必死こいて殺そうとしてた男を、どうして今はこの施設で匿っているんだい? それもアンタが剣だの槍だので、あの人を串刺しにした後で。さらにアイリーンに、彼の手当てまでさせている。……サー・アーサー、今度は何を企んでいるんだい? またアンタは、ASIに喧嘩でも売るつもりなのか?」
「一国の情報機関になど、私は興味がない。たとえこのアルストグラン連邦共和国の組織であろうが、北米合衆国の者であろうが、関係なく」
「なぁ、アーサー。アンタは本当に、あの人を殺す気があるのか? どうにもアタシには、アンタがわざと彼を生かし続けているようにしか思えないんだ。今なんかまさに、そう」
 デリック・ガーランド会長。彼が語った“アーティー”という人物増は、ごく普通のアットホームパパで、人畜無害そうな男。家族を愛し、家族を何よりも最優先にさせる傍ら、自分の両親と兄とは不仲で、彼らをひどく嫌っており、両親には孫の顔を一度も見せに行かなかった。そんな人物でもあったらしい。優しいからこそ、怒ったときは世界で一番怖い男に変わる。――デリック・ガーランド会長は、そう語っていた。
 そしてイルモ・カストロは“アーティー”についてこう語った。当時のアルフテニアランド自治州において、名を知らない者はいないほど有名だった政治家の息子で、何を考えているのかが分からない人物だった、と。イルモ・カストロに言わせれば“アーティー”は根っからの政治屋気質。誰からも好かれ、嫌われることがない、だからあっという間に友人を増やすことができ、広く強力な人脈を作れる男。そして人の好さそうな笑顔に皆は騙されるが、腹の底には高位技師官僚に匹敵するレベルの昏い闇を抱えている人物、らしい。
 そんなこんな、二人の語る“アーティー”像は真っ向から違っていたが、しかし、二人が語った“アーティー”にはひとつだけ、共通していたことがあった。
「結局アンタは、見捨てられないんだろ。友人だった男を。そうじゃないのかい、サー・アーサー」
 あの二人――つまりアーティーとミスター・ペイル――の信頼関係はそう簡単に崩れるものじゃない。デリック・ガーランド会長とイルモ・カストロは、そう断言していた。それに彼らは言っていた。唯一最期の瞬間まで、ミスター・ペイルを見捨てずに信じ続けたのはアーティーだけだと。
 だから、あのアーティーが彼を見捨てるとは到底思えない。
「アンタは黒狼とかいう存在を嫌っているようだが、それと高位技師官僚は別だと考えているみたいだし。それにアンタは、アバロセレンでも元老院でもない、何か別の情報をあの人に求めているようにも見えるんだ。たとえば、何かの確認をしたいとか、そういういった類の……――」
「アレクサンダー・コルト」
 コールドウェルの言葉を遮るように、サー・アーサーは彼女の本名を口にした。それと同時にドライヤーの電源が落ちる。そして彼の冷たい視線が、コールドウェルに注がれた。すると彼は、彼女に言う。
「騒がしい客人が、じきに来るんだ。私に油を売る前に、君はアストレアの面倒を見たらどうだね?」
 苛立ちに満ちた彼の目に、殺気を感じたコールドウェルは苦笑いを浮かべた。そして彼女は両手を顔の高さに挙げ、手のひらを表に見せる。降参したと無言で伝えると、コールドウェルはアーサーに背を向けて、シャワー室の脱衣所を後にしたのだった。


「やっほー! 久しぶりね、アイリーン。元気にしてた?」
「ええ、そりゃ勿論! あなたのほうはどうです?」
 アーサーに睨まれ、コールドウェルがシャワー室を追い出されてから三〇分ほど経過したころ。アーサーの言葉通り、騒がしい客人が地下施設に訊ねてきた。
 まるで神出鬼没のサー・アーサーのように、突然なんの前兆もなく亡霊のように現れたその女性。その姿は、綺麗な黒髪に黒いパンツスーツ、真っ白なワイシャツそれと浅黒い肌に、真っ黒なレンズのティアドロップサングラスと、コールドウェルと同じ機関の者であることを窺わせた。そしてアイリーンと親しいあたり、その線は濃厚だろう。
「私? そうねぇ……北米は退屈よ。あっちの大統領は無能なくせに我が強くて気に入らないわ。我が強いのと明確な自我がある、ってのは天と地ほどの差があるのに。バーソロミュー・ブラッドフォードみたいな為政者はそうそう出てこないもんねぇ」
「あぁ、ブラッドフォード長官……」
「ブラッドフォード元長官、でしょう。もう三〇年も前に彼が死んだっていうのは聞いてるわ。この国は、惜しい人を失くしたわよね。そしてトラヴィス・ハイドンとかいう男に、彼の代役は務まるのかしら」
「その点は、あまり心配しなくていいんじゃないですかねぇ? 彼なら大丈夫だと思いますよ」
「あら、そうなの?」
「だって現にこの三〇年、彼がASIのトップに君臨している間に大きな不祥事は起きてませんもの。発覚していないものも含めて。少なくともASIの統制は取れてますよ。あと陸海空の三軍についても、ちゃんとサーが手綱を握ってます。連邦捜査局以外は……――ご心配なく」
「そう。その『連邦捜査局以外』ってのが気になるけど。アイリーン、あなたがそう言うなら間違いないわね。おばあちゃん、信じてるわ」
 アイリーンと、黒髪の女性。随分と親しげに話す二人の背中を少し離れた場所から見守りつつ、コールドウェルは首をかしげる。するとコールドウェルの横に並んで座っていた――十代の少女になったが、相変わらず見た目は某情報局局員にそっくりな――少女アストレアが、コールドウェルの言いたかったことを代弁した。「あの女の人、誰。アレックス、知ってる?」
「いや、アタシも知らねぇ。初めて見る人だな」
 そんなアストレアとコールドウェルの手元には赤ペンとシャープペンシル、それとまっさらな状態で記入がなされていない数学のテキストが置かれていた。まだまだ“おこちゃま”なアストレアの家庭教師のようなことを、コールドウェルがしているといったところである。
 ――……のだが。大昔こそ成績優秀な優等生であったコールドウェルだが、今や彼女は単なるクレイジーウーマン。腰の両サイドに拳銃を二丁、必ず携帯しなければ安心できず、化粧ポーチにもプラスチック爆弾を忍ばせ、いつでもどこでも簡易爆弾を作れる用意を整えているような人間だ。
「……アレックス。それより、これ。意味わかんない。どういうこと?」
「アタシもだ。さっぱり分かんねぇ。つーか、この数字の並びを見るだけで思考が止まる」
「昨日は『ハイスクール時代、アタシは超優秀な生徒だった』って自慢してたじゃん。あれ、嘘だったの?」
「あン時は、優秀だったんだよ。なんなら同級生だったニール・クーパーに電話して、確認しようか?」
「いいよ、確認しなくても。……でもなんで、昔は優秀だったアレックスがこの問題を解けないの?」
「人間さ、使わねぇ脳は衰えていくんだよ。逆に使う脳は活性化していくんだ。語学に関しちゃ、アタシはそれなりに優秀だよ? 母語である英語はもちろん、中国語にポルトガル語、スペイン語にラテン語……」
「語学はいいよ。教わらなくったって出来る。でも数学が分かんない」
「その昔、アンドロイドを自称してた子が数学できないと嘆くとは。皮肉なもんだねぇ」
「高位技師官僚に頭の機械は取り除いてもらえたから、もう機械じゃないもん」
「あの、アンタの頭に電極みたいなのを繋げて、電気でバチッっとやってたやつか。あれで本当に、頭の中の機械ってやつが壊れたのか?」
「たぶん。頭の中の霧が晴れた感じがしたもん。今も、そう。でも難しい計算が出来なくなった」
「へぇ……よく分からんが、工学ってのは怖いもんだねぇ。まったく」
「それよりアレックス。このテキストの問題、本当に分かんないの?」
「ああ、分からないね。だから数学の代わりに、いいことを教えてやるよ」
「……?」
「いいかい、学問ってもんはある種の才能さ。語学に優れた奴がいれば、数学に特化した奴もいるし、哲学の沼に溺れる奴もいれば、化学や物理学や工学に魅せられる奴もいる。つまり、だ。出来ないなら、無理する必要もない。アンタがやりたくないと思うことを、逆にやりたいとか楽しいと感じる奴はこの世の中にごまんと居る。だからアンタはそういう人間を見つけ出す術と、頭を下げて人にお願いするってことを覚えりゃいい。門外漢がない頭を使ったところで、それは時間の無駄ってやつ。だからその道の専門家に丸投げするってのが正解に至るための手っ取り早い道なのさ。よーく覚えておきな」
「うわーぉ、アレックスらしい答えだ……」
「だろ? それとだ、数字のことを教えてもらいたいんならアイリーンのとこに行きな。アタシが教えられるのは射撃訓練と爆弾の作り方、それと金勘定、税金の計算、ぐらいだよ」
「そっちのほうが実用性ありそうだね」
「アンタには、そうかもな」
 そしてコールドウェルは、ゆっくりと椅子から立ち上がる。まあ一人で頑張ってみろよ、と彼女はアストレアを軽く突き放すと、遠のいて行く二つの背中に慌てて駆け寄っていった。
 アイリーンと、得体の知れない黒髪の女性。なんとなくだがコールドウェルは、この二人について行ったほうが良いような気がしたのだ。
「えーっと、アイリーン。与太話はこれくらいにして。……――得体の知れない化け物だらけのアルフテニアランド自治州に行って、とりあえず化け物どもの体液を集められるだけ持ってきたから。早く私の兄弟に調べてもらいたいんだけど。彼、どこに居るの」
「兄弟って?」
「アイリーン、分かるでしょ。だってアーサーが先週だかにようやっと彼を捕まえたって聞いたから、私はここに飛んできたのよ?」
 黒髪の女性のその言葉に、アイリーンは首を傾げさせて困惑を見せた。黒髪の女性が言っている“弟”というものを、どうやらアイリーンは知らないらしい。
「ごめんなさい、マダム。あなたに兄弟が居る? そんなの初めて聞く情報で……――あっ、もしかしてサー・アーサーのことですか?」
「違う。あいつは舎弟(アンダーリング)であって、弟(ブラザー)じゃないわ。私が言ってるのは」
 かつ、かつ、かつ。高いヒールを鳴らしながら、コールドウェルは小走りでアイリーンの背中に駆け寄る。そしてコールドウェルは彼女らに近付くと、彼女らの前に回り込み、道を妨害するように立ち塞がった。それからコールドウェルは努めて穏やかなビジネススマイルを浮かべ、黒髪の女性に握手を求めつつ、こんな言葉を口にする。
「アーサーから伺っています、マダム・モーガン。弟って……たぶんですが、彼ですよね。シベリアンハスキーと呼ばれていた、あの人」
「あら、まあ。アイリーンより察しのいい子が居るじゃないの。そうよ、そいつのこと。でも、どうして分かったの?」
 コールドウェルが差し出した手を、黒髪の女性――長らく、ある任務で北米合衆国に出向いていたマダム・モーガン――は握り、握手を交わす。
「あなたとあの人の雰囲気が似ているから、ですかね。遠い異国の、同じ風を感じるというか」
 コールドウェルはマダム・モーガンに、そう言葉を返す。実は先ほどコールドウェルが口にした「アーサーから伺っています」という言葉は嘘。全ては彼女の当てずっぽうだった。この黒髪の女性の名前が“マダム・モーガン”だということも、あらかじめ知っていたというわけではなく、一か八かの出たとこ勝負。それに“シベリアンハスキー”という名前は、彼女が言っていた「アーサーが先週だかにようやっと彼を捕まえた」という言葉から、あの人だろうと予測したまで。だが幸運なことに、当てずっぽうは全て的中したようだ。
 ほっと胸をなでおろし、ビジネススマイルを心からの笑顔に変えるコールドウェル。するとそんな彼女の顔を、マダム・モーガンはまじまじと覗き込んだ。そしてマダム・モーガンは、コールドウェルに尋ねる。「ところで、あなた。見ない顔ね。新人さん?」
「もうかれこれ十五年になります。アレクサンドラ・コールドウェルです」
「アレクサンドラ・コールドウェル? ふむ……聞いたことない名前だわ。アレクサンダー・コルトっていう女の子の話なら、舎弟から聞いたことがあるけど……」
「あっ、すみません。いつもの癖が出ちまって。……アタシが、アレクサンダー・コルトです。アレクサンドラっていうのは、外での偽名というか、そういうやつで」
「なるほど。工作員あるある、ってわけか。面倒臭い業界よねぇ、本当に」
 マダム・モーガン。今までコールドウェルは、彼女の名前を噂でしか聞いたことがなかった。外の世界では「二千年もの時を生きる魔女」だとか、「カラスに姿を変えてどこかに飛び去ってしまう」だとか、そんな類の話ばかりをよく耳にした。それにアイリーンもあまりマダム・モーガンのことを教えてくれなかったし、サー・アーサーには聞きにくいし、パトリック・ラーナー次長は彼女の存在すら知らず、空想のものだとぶった切るばかりで……――つまり今までは、彼女にまつわる情報がこれといってなかったのだ。
 しかし本物と会ってみると、意外にもマダム・モーガンという女性は怖くない。フレンドリーなタイプで、コールドウェルに向けてくる笑顔もにこやかで、それに……――
「それでと。私はマダム・モーガン。私こそが特務機関WACEの本当のボス、あなたの上官であるサー・アーサーの更に上に立つ女よ。そういうわけだから、宜しくね」
 前言撤回。何かが、怖い女性だ。
「ねぇ、アレックスちゃん。そのシベリアンハスキーって、誰のこと? なんでアレックスちゃんが知っていて、私が知らないの? それって、なんかおかしくない? えっ、今ここで何が起きてるの? アレックスちゃん、あなた何者なの? いつの間にすごく成長した?」
 そしてコールドウェルとマダム・モーガンの間で進んでいく話に、置いてきぼりにされたアイリーンは混乱をますます強め、彼女にしては珍しく取り乱していた。そんなアイリーンに向かって、コールドウェルは冗談を口にする。
「そりゃ、アタシも三十二歳のババァになりましたからね。いつまでも、アイリーン・フィールドの天の声に頼りきりってわけにゃいかねぇし。独自に情報収集ぐらいしてますよ」
「色々と言いたいことはあるけど……で、シベリアンハスキーって誰なの?」
 上司と情報を共有しないうえに、それに三十二歳でババァを自称するだなんて。見た目は二〇代、しかし御年七〇オーバーになるアイリーン・フィールドは、コールドウェルのその発言に目じりをぴくつかせた。だが、アイリーンはプロフェッショナルである。それとなく言いたいことを匂わせたうえで、逸れることなく本題にのみ切り込んできた。
 そうであるならば。コールドウェルも話を逸らすことなく、率直に答えるだけだ。
「マダム・モーガン。彼っていうのは、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚のことで間違いないですよね?」
「ええ、そうよ。彼のこと。他に誰がいるの?」





 過去はいつまでも足に付き纏う枷で、歩みを阻害するもの。そして無理をして歩けば歩くだけ、枷にはゴミがついて重くなる。そして一歩踏み出すことが辛くなる。
 ――……それはコールドウェルが十三歳の頃、なんとなく手に取って読んだ小説『ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ』に書いてあった言葉だ。何もかもが衝撃的でありながらも、淡々と進む物語に、ただただ驚きながら読み進めた記憶のある本。二千百年以上も昔に書かれたというその話は、いやに今の時代に通じるものがあって、怖かったものだ。
 それからこの特務機関WACEにブチ込まれてから、コールドウェルはあの小説を再び読み返した。それが、五年前のこと。あの時には、妙なデジャヴを感じたものだ。レイモンド・バークリーという登場人物に覚えがあるような気がしたのだ。
 そしてその答えは判明した。マダム・モーガンが、コールドウェルに教えてくれたのだ。
『ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ。その小説の作者、ヤヨイ・クレヅキ。本名をリン・ハヤカワといったその女性は、私と彼が子供だった頃に英語を教えてくれた女性、カイ・マチダの従姉妹だった。……カイは一度、ヤヨイ・クレヅキに話したことがあったらしいのよ。彼の身に起きたことを。要するに、彼の身内に起きた不幸と、それに付随して彼が起こした殺人沙汰よね。つまり、あの小説の登場人物レイモンド・バークリーのモデルは、彼だったのよ。今の、ペルモンド・バルロッツィ。もちろん小説の中で語られる事件と実際に起きた事件は内容が違うし、現実はもっと血みどろだったけど』
『……それにしても、不思議なものよねぇ。彼をモデルにして作られたフィクションの人物を基に、モデルであったはずの彼が改造されていったのだから。ヤヨイ・クレヅキは予言者だったのかしら。……なーんて思うほど、あの小説に似たものが現実で展開されていったし』
『おまけに物語を彩る脇役たちは、小説にそっくり。アーサー・シスルウッドにそっくりな、シルスウォッド・アーサー・エルトル。ビルギット・メイ・アルドリッジと同じ精神科医の、ブリジット・エローラ。エリカ・アンダーソンなんていう女性が現れなければ、きっと小説の再現が完璧に出来たことでしょう。ブリジット、彼女もきっとそう思ってたはずだわ。エリカさえ居なければ、ってね』
 マダム・モーガンはその後、高位技師官僚と会う場にコールドウェルを立ち会わせてくれた。あなた気に入ったわ、というそれだけの理由で。
 コールドウェルは少し離れた場所で、彼らを見ていただけだった。聞き取れた言葉も、マダム・モーガンが発した「ハビービー」という謎の言葉だけ。それに彼らの会話は、コールドウェルには聞きなれない異国の言葉で交わされていたため、その内容を理解することはできなかった。
それでも、何故だか彼らを見ていると胸が苦しくなっていったものだ。悲しくて、つらかった。
「――……ちょっと待ってよ、サンドラ。アンタたちが今、高位技師官僚を匿ってるの?」
 そんなこんなで、マダム・モーガンが北米に帰っていたその翌日の夜。コールドウェルはシドニーの市街地に居た。今どき珍しいジャズの生演奏が聴けるレストランで、夕食にがっついていたのだ。
 そしてコールドウェルと同じテーブルを囲っている同伴者は、情報局ASIの敏腕工作員“レムナント”ことジュディス・ミルズ。ジュディス・ミルズはコールドウェルの言葉に、口をあんぐりと開けている。どうやら彼女は、コールドウェルと違って夕食どころではないらしい。
 しかし当のコールドウェルは、色鮮やかなエビのオードブルを碌に見もせず口に詰め込みながら、ジュディス・ミルズにこう返事をする。
「おうよ。地下本部に、いつの間にか大きな隔離部屋みたいなのが出来ててさ。中を覗いてみたら、グロッギーなバルロッツィ高位技師官僚が寝てたんだ。あれ見たときは驚いたよ。んで恐る恐る高位技師官僚に声を掛けてみりゃ、彼はうちのサー・アーサーに串刺し、めった刺しにされたって言っててねぇ。さすがに出血量が半端なくて気を失い、目覚めたらこの隔離部屋に閉じ込められていたって。ちなみに体力が尽きてて、身動きも取れないそうだ」
「……流石ね、おたくのサー・アーサーは。十五年ぐらい監禁され続け拷問されていた高位技師官僚の救出作戦を、私たちASIは丁度今朝、執り行うはずだったのに。それがいざ件の研究所に突入してみりゃ、高位技師官僚は居なくて血だまりだけがあって……あの人、殺されたんじゃないのかって、まだ局は大騒ぎしてるのよ。どう責任を取ってくれるつもりなの、サンドラ」
「おいおい、ジュディ。アタシを責めるのは見当違いってもんだろ。アタシだって高位技師官僚がうちの施設に居るのを知ったのはつい最近なんだ。それにアーサーが彼を拉致ってきただなんてこと、知らなかったんだよ。ましてやあの高位技師官僚が瀕死の重傷だなんてことも、知らなかったんだ」
「勿論、WACEは落とし前を着けてくれるのよね?」
「落とし前って?」
「ASIに、彼の身柄を引き渡してくれるかってこと」
「いずれな」
「なんですって?」
「あの人、まだグロッギーなんだ。それにちょっと動いただけでも傷口が開いて、血がどばどば出てくるとかでさ。つまり絶対安静って状態なんだ。だから下手に移送とかしない方が良い。ジュディ、あんたもそう思うだろ? それにASIは、何かあったときに責任を取れるのかい?」
 そう言われてしまうと、返す言葉もない。ジュディス・ミルズは不服気に口を噤む。なにせASIが求めているのは、生きていて十分に動けるペルモンド・バルロッツィなのだ。彼の死体など要らないし、かといって動けもしない怪我人を引き渡されても困るし……、というところなのである。
 それにジュディス・ミルズは個人的に、コールドウェルのことを信用していた。だからコールドウェルがそう言うのであれば、そうすべきなのだと思ったのだ。
「責任問題を出されちゃうと、私はもう何も言えないわ。一介の工作員はどうこう言える立場にないもの」
……たとえそれが、長官代行の意にそぐわないとしても。そこのところの胸中が彼女の場合、複雑なのである。
「はぁー、良かった。一介の工作員サマにそこまでの権力がなくて」
「いちいちイラっとくるのよねぇ、サンドラのそういうとこ。育ちの悪さが滲み出てるし、ラーナー次長の悪いところをそのまま受け継いでるって感じがする」
「それについては、反論の余地がないね。育ちが悪いってのは事実だしよ」
 育ちの悪さ。ふと、その言葉にコールドウェルは考え込む。
「アタシの親父は、この可愛い娘にボクシングを習わせるような男だったからなぁ。十五歳で飽きて、ジムに通うのは辞めたけど、まあ、その……」
「へぇ、あなたボクシングやってたの? だから屈強な男どもを相手に、暴れまわるのが好きなのか……」
「自分よりも大柄だったりガタイの良いやつを殴り飛ばしてノックアウトすると、スカッとするんだ。拳に全てを込めるあの一瞬だけは、面倒なことを忘れていられるっていうかさ」
「暴力でスカッとする、かぁ。私には理解できない感覚ね。……私は人を銃で撃ったあと、いつも後味の悪さしか感じない。相手の痛がる姿を見ると、撃たれても文句が言えないような悪い奴だから仕方ないと自分に言い訳しながらも、少し申し訳ない気持ちになるのよね……」
 暴力に快感を覚える。それはひとつの育ちの悪さといえるだろう。
「それが、普通の人間なんだろうさ。だけど、なんらかの形で暴力が傍にあるような環境で育っちまうとよ、どうにもその罪悪感とかが時に麻痺しちまうんだ」
「……サンドラ? どうしたの、急に。暗いというか、湿っぽくなってるけど」
コールドウェルの父親は、何かあったときには娘が自分の身を自分で守れるようにと彼女にボクシングを習わせていたが、それは結果としてコールドウェルに快感を与えた。殴り飛ばすとスカッとするというのは、彼女の本音である。
 自分が下した相手が見せる、敗北の表情を見るのが好きだった。それは野性に近いような、生命の根幹にある暴力性なのだろう。誰もが持つ、潜在的なもの。だが理性を持つ人間は普通、それを抑えることができるし、道徳や倫理を知る人間はその暴力性を普通は憎んで嫌う。つまり暴力を好むということは、人間としては出来損ないというべきなのだろう。
「あぁ、その。ごめん、ジュディ。昨日のこと、思い出しちまって」
「昨日?」
「高位技師官僚と駄弁ってたんだ。なんかさ、あのオッサンの印象が百八十度ぐらい変わったというかさ。あのオッサンも、やっぱ人間なんだなって思ったっつーか」
「なに言ってるの、サンドラ。彼は、人間でしょ? ちょっと、体が丈夫すぎるだけで」
「いや、そういうことじゃなくて。あのオッサンのこと、無機質なサイコパスだと思ってたんだけどさ」
「それは、そうでしょう? 彼は心無い精神病者で反社会的人格の持ち主よ。そこは間違いないわ」
「だから、そうじゃなくて。……つまり多重人格って、闇が深いって感じたんだ」
 オードブルを食べ続けていた手を止め、コールドウェルはむっと顔を顰めさせる。対するジュディス・ミルズは、ニョッキフリットを摘まみながら眉間にしわを寄せた。そしてジュディス・ミルズは、疑問を投げかける。「彼は多重人格だって巷では言われてるけど、本当にそうなの? 少なくとも私は、ニタニタ笑ってるサイコパスな彼しか見たことないわ」
「アタシも今まではそうだった。けど、少なくとも昨日のあのオッサンは、アタシの脇腹に銃弾をぶち込んできた男とは全くの別人だったさ。まあ、昨日のあのオッサンは眼鏡を掛けてなかったし、髭も綺麗に剃っていたから、別人のように見えたってのもあるかもしれねぇが」
「髭と眼鏡を取ったバルロッツィ高位技師官僚? 想像もできない。それ、もうバルロッツィ高位技師官僚じゃないわ」
「そうだよ、高位技師官僚じゃなかった。ただの草臥れたオッサンだったんだ」
 すると、今まで話にあまり興味がなさそうだったジュディス・ミルズの表情が変わった。少し前へと身を乗り出した彼女は、コールドウェルの三白眼をじっと見つめてくる。獲物を見つけた鳥のように、ジュディス・ミルズの目は爛々と輝いていた。そしてジュディス・ミルズは言う。「その話、個人的に興味がある」
「だぁーから、アンタをディナーに誘ったんだよ。ジュディス・ミルズならそう言うと思ってたし、情報交換がてらにアタシの愚痴も聞いてくれ」
「愚痴はご遠慮願いたいけど。ぜひ聞かせて」
 じりじりと、ジュディス・ミルズはコールドウェルに近付く。それに対し、コールドウェルはにやりと笑った。そしてコールドウェルは、ジュディス・ミルズにこう持ち掛ける。
「ジュディ。もしアンタが今日のディナーを奢ってくれるってんなら、昨日あったこと洗い浚い全部話すぜ? でも、割り勘なら半分しかアタシは喋らない」
「……サンドラ、あなたって人は本当にちゃっかりしてるわね……」
「情報料って考えたら、こんぐらい安いもんじゃないのかい? 寧ろ安すぎるだろう。だって、あの高位技師官僚の情報だ。普通なら、ゼロが四個ほどケツにつく桁数のドルを請求するレベルだぜ?」
「分かったわよ。ゼロが二個ほどおしりにつく桁数のドル、頭の数は三で勘弁して。それ以上は払えないわ。だって、中流のレストランで女同士のディナーだし、そんなにお金は持ってきてないの。仕事柄、支払いにカードは使えないし、かといって給料は良くないから持ち出される現金にも限りが」
「よっしゃ! じゃあ、シャンパン開けようぜ」
「サンドラ、あなた正気?! 私の財布を何だと思ってるのよ!!」
「トラヴィス・ハイドン長官代行の寵愛を受ける工作員なんだから、がっぽりもってんだろ?」
「あのね、私は所詮いち公務員なの。大して持ってないわ」
「あぁ、そうかい。シャンパンが駄目なら、アタシは何も喋らねぇだけだ」
「……あぁっ、もう。分かったわよ、頼みたいなら頼みなさい! だけど三〇〇ドルまでだから!!」
 嬉しそうな笑顔を浮かべるコールドウェルは、メニュー表を手に取り、何をオーダーするかの吟味を始める。そんなコールドウェルを呆れたように見つめるジュディス・ミルズは、財布の中身の心配をしていた。
 そして安物の固い椅子に座るコールドウェルの膝の上には、彼女の私物である合皮の黒いクラッチバッグが乗せられていた。そのクラッチバッグの中には、車のキーと中身は空の財布、それと一冊の小説が入っている。
 小説の背表紙に書かれた文字は『Water Under The Bridge by Yayoi Kurezuki(ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ 作: 暮月 弥生)』。そして本の中の献辞には『Dedicated to the memory of my late cousin; Kai Machida who was a Photojournalist.(亡き従姉妹、フォトジャーナリストだった町田 海へこの本を捧ぐ)』と書かれている。今朝、コールドウェルはこの小説を再び読み返し始めたのだ。


* * *



 シスルウッド教授。自分の両親を殺した犯人の妹に、心無い言葉を投げつけられひどく侮辱されたあと。レイモンドは、どうなったんですか?
――それで、レイモンドがどうなったかが気になるだって? なかなか悪趣味だね、ミカエラくん。まぁ、そうだね。少しきつい話になるがー……そんなに聞きたいって言うなら話そうか。
 レイモンドが両親の仇の妹と会ってしまった、その翌日。あれは雷も遠くで鳴っていた、土砂降りの雨の日だったよ。その日のレイモンドは朝から様子がおかしかったが、夕ごろにはもっとおかしくなっていたさ。
 大雨だっていうのにレイモンドは、傘も差さずにずぶ濡れになって、バイト先から家に帰ってきたんだ。そのうえ誰かが話しかけても、まるで聞こえていないかのように彼は応じなかった。
 私は、彼の様子が変だとは感じていた。だが、あの時は特に何もしようとは思わなかった。何故ならば私は、彼の性格をよく理解していたからね。
 何か考え事をしているとき、彼は決まって自分の世界に籠ってしまう。それによって周りが見えなくなって、外の状況に気付かなくなってしまうことが多かったんだ。だからきっとレイモンドは何か難しいことでも考えていて、雨が降っていることにも気付いていなかったんだろうと、あの時の私は思っていたんだ。……慣れというものは、非常に恐ろしい怪物だよ。あの日の出来事は、いくら悔んでも足りないさ。
 それでレイモンドは帰宅した後、ずぶ濡れのまま一度キッチンに立ち寄ったんだ。そこで包丁を一つ手に取ると、彼はどういうわけかバスルームへ向かっていった。私はそんな彼の背中を、レポートを書きながら片手間に見送った。けれども、その日たまたまあの家に遊びに来ていたビルギットは大慌てで、彼の後を追いかけてバスルームに向かったんだ。バスタブに水を張る音が聞こえたから、と言ってね。彼はいつもシャワーしか浴びないはずなのに、と。そんなビルギットの言葉を聞いてもなお愚鈍な私は、レポートを中断する気にはならなかった。
 そうしてビルギットが消えてから数分が経ったころ、バスルームのほうから騒がしい足音と彼女の悲鳴が聞こえてきた。そこで初めて私は事態を理解し、大慌てで椅子から立ち上がったんだ。
 けれど私がバスルームに駆け付けた時には、既に全てが終わっていたんだ。白かったはずのバスルームのタイル床は血で真っ赤に染まっていて、呆然と立ち尽くすビルギットの小さな手も血に塗れていた。けれども彼女の足下に落ちていた包丁だけは、油膜のお陰で血が付着せずに、銀色にきらきらと綺麗に光っていた。あの輝きは、今でもよく覚えている。忘れたくても、忘れることができない。
 そしてレイモンドは、血の湯になったバスタブの中で息絶えていた。死因は、頸動脈を切ったことによる失血死。彼は自分の血に溺れて、死んでいたんだ。
 血の湯の中に浮かんでいた彼の死に顔は、凄惨なその光景とは裏腹に、実に穏やかなものだった。纏わりついていたありとあらゆる足枷、罪悪感や過去から全て解放されたような、皮肉なくらい穏やかな頬笑みを浮かべていて……――生前には一度も見せたことがなかった、どこまでもホッとしたような安堵の表情だった。
 最期に彼が何を思いながら、死んでいったのか。残念ながら私には知ることが出来ない。その手がかりになり得ただろうビルギットという女性も、事件の後に大うつ病を発症し、その二年後に自ら首を括り命を絶ってしまった以上、私にはもう知るすべが残されていないのだ。
 レイモンド・バークリーという男は最期まで、その正体を謎というヴェールの向こうに隠していた。どこまでもミステリアスな人物だった。
 共に暮らしていた若かりし頃のあの日。私は彼のことを、少々奇妙だが憎めない同居人としか思っていなかった。だが、彼の死から二十数年が経った今となっては、レイモンドという人物の謎めいた魅力にすっかり取り憑かれてしまっている。彼が過去の人物になっているということも、ロマンを煽り立てている要因のひとつになっているのだろう。とにかく、彼という人物はとても魅力的だ。君たちが興味を抱くのも、私には理解できる。
 ――……っと、話しこんでいる間にも陽が暮れてしまったね。続きは後日しよう。学生諸君、今日のところは早く帰りたまえ。
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