ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ

Black wolf the Emerald eyes

 夜の十一時。メルボルンの某所で行われた現職大統領との非公式の会食を終え、バーソロミュー・ブラッドフォードはジーロングの自宅に戻ってきた。そして彼が外套を脱いだ瞬間、人の気配が突然彼の背後に現れる。バーソロミュー・ブラッドフォードは溜息を吐いた。
「……マダム・モーガン。私は、サプライズが嫌いなタチなのですが」
「ばんちゃ、バーツ。サプライズのつもりは無くってよ?」
 バーソロミュー・ブラッドフォードは目線だけを後ろに向け、ちらりと背後を見やる。そこには案の定、反省の色など全く見えない笑顔のマダム・モーガンが立っていた。
 ここ数年、当たり前のように彼女はこうして自宅を電撃訪問してくるようになっていた。週に四回ほど、もしくはそれ以上。
「バーツ! それで、早速なんだけど」
「もしコーヒーを飲みに来たのであれば、どうぞ喫茶店のほうに行ってくださいませんか」
 つい昨日も、マダム・モーガンはこの家に来た。そして他人の家の冷蔵庫を漁っては勝手にコーヒー豆とミル、ヤカンにカップを使用し、家主に何ら断りを入れず、ひとり勝手に一服。
 そんな生活も、もうじき七年目に突入しようとしている。死神を名乗る怪物を相手に、あまり強く出ることのできないバーソロミュー・ブラッドフォードも、そろそろ呆れを通り越して諦めの境地に至ろうとして居た。
「だってオフィスに居たら紅茶しか飲めないんですもの。部下は全員、紅茶好き。コーヒー党は私だけなのよ? キッチンと言ったら、茶葉に茶葉、茶葉、それとクッキーの箱ばーっかりだし。そのうえ、あちこちに顔を出せば、その先で出されるものも紅茶ばーっかり。ミルクティーなんて出された日にゃ、もう気分は最低最悪よ。甘いお茶なんて、甘いコーヒーと同じぐらい許せないわ」
「……」
「紅茶なんてね、高貴なクソ白人野郎どもが飲むゲロマズの液体よ。グレートブリテン島の奴らなんか、特に大嫌いなんだから!」
「……はぁ、そうですか」
「それに、この国にはデーツが全然売ってないし。売ってたとしても、すごく高い。北西アフリカで買うデーツの、五倍の値段よ。種類もひとつしかない。アフリカには、いろんな種類のデーツがいっぱいあったのに。……ふざけてるわ!」
「……果実ごときで、なにもそこまで……」
「――……って、そうじゃない。あなたのお友達に、リチャードって名前の医者が居たでしょ?」
 だが、どうやら今日のマダム・モーガンはただ遊びに来ただけではないらしい。しかめ面のバーソロミュー・ブラッドフォードに迫る彼女の顔は、真剣なものに変わっていた。
「あなたの友達のリチャードって名前の医者に、娘が居たでしょ。たしか名前はブリギッテ、だっけ?」
「ブリジットだ」
 バーソロミュー・ブラッドフォードのしかめ面は、さらにキツイ表情になる。マダム・モーガンの口から『ブリジット』という名前が飛び出たその瞬間、彼が思い出したのがロンドン空襲の惨劇だったからだ。
 そして。空襲というだけでも悲劇なのに、その悲劇をさらに惨劇へと変えた若い男の顔も、バーソロミュー・ブラッドフォードの頭に思い出される。
 くせ毛の黒髪で、緑色の目をしていたあの男。いかにも内気で、気弱そうな青年だと思ったのも束の間、目を疑うような何かが目の前で起き、一人の人間が二人に分裂し、死体と生者に分かたれて、そして息をしていたほうの彼はその後、狼のような姿をした黒い影に姿を……――。
「ブリジットが、どうかしたのか」
「あの子を止めてくれない? お転婆というか、聞かん坊って感じで。おばあちゃんの手に負えないのよ」
 そう言ったマダム・モーガンの口調は、普段通りの冗談を言うようなものだった。だがその表情は普段とは違い、彼女の常套であった妙に穏やかな微笑みを浮かべておらず、微笑みとは真逆の険しい表情を浮かべている。事態の深刻さが、言葉失くして伝わってきていた。
「彼女は気付いてないみたいでね。猟犬であるあの子に関わるっていうことの意味を。……無駄に死期を早めるだけだっていうのにね」
「…………」
「彼は彼の意に反して、死をばらまくために作られた。あなただってロンドンで見たでしょう?」
 あぁ、やはりその話か。……予想出来ていた展開に、バーソロミュー・ブラッドフォードは息を呑む。
 イーストセール空軍基地で、久しぶりにブリジットと顔を合わせたあの時。彼女が、あの男に向けていた視線に違和感を覚えたのだ。一言でいうならば、それは恋い慕う視線。もし相手がごく普通の男なのであれば、バーソロミュー・ブラッドフォードも気に掛けなかっただろう。年頃なのだから、恋愛のひとつやふたつ経験していてもおかしくはない、と。
 だが彼女が恋心を向けていた相手には、問題がありすぎていたのだ。その程度は“犯罪者”だなんて言葉では生温いほど。人殺しだなんてものでもない。そのおぞましさは、今バーソロミュー・ブラッドフォードの目の前に居るマダム・モーガンの比ではないだろう。
 化け物や、怪物、悪魔。いくら言葉を並べても、あの狂気を表すにはまだ足りない。
「私の可愛い弟分、今の名前をペルモンドっていう彼。あの子ね、暗殺をやらせりゃ超一流なのよ。ロンドンの大殺戮だって、あんなのまだまだ序の口。誰にも知られずに、要人を始末することだってできるんだから。その気になれば、ね。一般人なんて、あっという間に始末できるわよ」
「誇るような言い方ですな、マダム・モーガン」
「誇るとかの問題じゃないわ。事実なのよ。私だって、黒狼に支配された時の彼のあの姿は恐ろしくてたまらないと感じてるわ」
「……」
「核戦争が勃発するよりも、少し前の時代。アフガンや、ウズベク、クウェート、シリア。そういった幾多の戦場で、何度も何度も、彼が兵士を民間人を女を子供も、その全てを容赦なく切り伏せてきた光景を私は見てきたけれど。何度も見ているからってあれは慣れるものじゃないわ。……戦場に派遣されるときだけ、氷の中から彼は解き放たれて、仕事をこなしては、また凍らされて。解凍されるたびに壊れていく彼の姿も見ていられなかったけど、戦地に放たれたときだけ生き生きとしていた彼の背中も見ていられなかったわ」
「…………」
「私だって工作員時代に二度、暗殺もやったことある。まだ生きていた、人間だった時代の話ね。だからよく分かるわ。あの子の仕事がどれだけ華麗か、ってことが。……それにバーツ、あなただって士官だったんだから、殺しの訓練は受けているはずよね。実際に試したことがあるかはさておき、ナイフだけで人を殺す方法を仕込まれたでしょう? だから、防具もなしにナイフ一本だけで敵の拠点に一人で突っ込み、二十五人以上の屈強な男たちを一〇分以内にすべて片付けるってことの過酷さが分かるはず。そしてあの子は、それを平気でやってのけるのよ。ゲームではなく、現実でね」
「…………」
「……前に、話したでしょう? 私と彼の生まれ故郷が、どれだけ悲惨な場所であったかを。私は幸運なことに何もなかったけど、あの子は隣国の秘密警察に逮捕されて、暴行を受けた経験があるのよ。ほんの十一歳の子供だったときに」
「…………」
「国境線に張られたフェンスを乗り越えたっていう、ただそれだけで逮捕されて、彼は拘置所送りになったあとに、秘密警察に目を付けられてね。拘置場から出された後、彼は秘密警察に連行されて、助けなんて誰も来ない場所に四日間も監禁されて。辱めのために、性的な暴行を加えられた。そして五日後、彼に与えられたのは二つの選択肢。同性愛の罪で突き出されるか、秘密警察に従う暗殺者になるか。そしてどちらも拒むならば、このまま暴行を加え続ける、と」
「………」
「同性愛の罪なんて、今この時代じゃナンセンスだと思われるでしょうけど。私の故郷じゃ、一番の重い罪だった。バレたら、射殺よ。たとえそれがレイプの被害者であろうと関係なく、男と寝たならばそれは同性愛者なのだから殺せ、って。だから彼は、暗殺者になるしかなかったのよ。そして秘密警察に育てられて、実戦で経験を沢山積んで、世にも恐ろしい殺人マシンが誕生してしまったというわけ」
「……ふむ」
「あの子ね、一応は後悔してるのよ。自分を恥じてる。でも同性愛の烙印って、あの時代じゃ心をぶち壊すにはこれ以上ない材料だったのよ。あの子が完全に壊れたのも、男に襲われたあの瞬間。それだけのインパクトが」
「もし同情を買おうとしているならば。相手を見誤っているでしょうな」
 聞き飽きた昔話になど、バーソロミュー・ブラッドフォードは関心がなかった。本題を、用件を早く切り出せと、彼はマダム・モーガンに目で訴える。
 するとマダム・モーガンはひとつ、咳払いをした。それから彼女は腕を組み、こう切り出す。
「つまりね、バーツ。あなたが友人の娘を、我が子のように可愛いと思ってるのは知ってるわ。だから……手伝って。じゃなきゃ誰も望まない悲劇を、黒狼が引き起こすわよ。彼の意に反してね」





『僕と君って、なんとなく似てる。そう思わないか?』
 シルスウォッドとの奇妙な同居生活が一年目になった頃。ある時突然、シルスウォッドはペルモンドにそう言ってきた。それに対し、ペルモンドが返した言葉は「お前、なんだか気持ち悪いぞ」というもの。俺は同性愛者じゃないからそういうのは止めてくれ、とも言った。するとシルスウォッドは「僕だってノンケだ!」と疑惑を否定したうえで、弁明するようにこう切り出したのだ。
『僕も、君も、過去を憎んでる。傷付けてきた奴らのことを、そして甘んじて受け入れていた自分自身のことも。なんていうかさ、その。崩壊した時の君の姿を見てると、他人事じゃないような気がしてならないんだ。一歩間違えれば、僕も君みたいになってたのかと思うと。なおさら放っておけないと感じるというかさ』
 あの時、シルスウォッドのその言葉に、ペルモンドは少しだけ目を伏せさせた。そしてペルモンドは、こう言ったのだ。
『俺は、そう思わない。俺にはお前が、別の世界の住人に思えている』
『……?』
『お前は地上の人間で、俺は生き埋めにされて地の底でもがく半死人だ』
 時々、たまに。素面のペルモンドは、よく分からない言葉を口にした。見るからに錯乱していて、様子がおかしいときに発する、何の脈絡もないような途切れ途切れで意味不明な言葉たちとは違う、不思議な台詞を。それはどこか詩的な響きを持っていながらも、飾りがないストレートな言葉だった。
 ペルモンドの認識している世界もまた、キャロラインが語る世界像と同じように、シルスウォッドには理解に苦しむ世界だった。ペルモンドの口から零れる言葉にはいつも苦痛が滲んでいて、彼が“思い出せない”と語る過去がかつて彼に与えた傷が、未だに彼を苦しめて痛めつけていることを、言葉を聞く者にいやでも伝えてくるのだ。
 そして苦痛の片鱗に触れるたびに、シルスウォッドは感じてきた。どうして、ここまで彼は過去に縛り付けられているのか、と。
『マウントするわけじゃないが。挙げればきりがないほど、お前と違って俺は死線を潜ってきた。全てを奪われた虚無感も、泥水を啜って生きる敗北感も、拘束され拷問され続ける屈辱も、否応なしに頭の中を他人に書き換えられていく絶望も、記憶の空白に眠る漠然とした憎悪も、勝手に体を改造されていく恐怖も、生きるか死ぬかの境界を綱渡りする気分も、死ぬ自由さえも奪われた苦痛も、味わったことがない人間には分かりっこない。……裕福な家庭でぬくぬくと生きてきたお前と、俺を一緒にしないでくれ』
 振り返りたくないほど、忌み嫌っている過去があるのは同じ。だけど似ているようで、真っ向から違っている。ならば二人を隔てるものは何だったのか。
 つい数日前までのシルスウォッドには、分からなかった。だが今は分かる。
「マダム。あなたがこの前にしていた、あの話。もしかして」
「あー、はいはい。堅物かつ純愛一直線ボーイ。あなたのその『すべて察した』って顔からするに、もしかしてだけど……――彼は全部ぶちまけたのね? 私が必死に隠蔽工作をして、書面上は消し去ってあげた過去を。自ら暴露したと」
 それはただ一つ、とても厚くて高い壁。人間を殺した経験があるか、無いかの差だった。
「ええ、そういうことです。本当に、なんていうか、その……絶句です。あいつに掛ける言葉も見つからなくて、今とても困ってるんですよ。まあ、でも、もうあいつに会うこともないのかなって思うと……」
「会わないって、どういうことよ?」
「だって、会社が潰れたんですもの。あいつと会う機会が、もう無いんです」
「会社って。あのエズラ・ホフマンが取り仕切る、ラーズ・アルゴール・システムズとかいう会社が?」
「ええ、そうです。副社長が女性社員にセクハラしたとかいう騒動があって、マスコミが会社のあら捜しを始めましてね。そしたらまあ、倫理的にやべぇ情報がざくざく出てくるわで。それで株主が激怒して、CEO解任からの会社解体ですよ。たった数日で、大企業が消え去ったんです。笑えますよ、青天の霹靂すぎて」
「はぁーっ、なんてことでしょう。全く、もう。おばあちゃん、ちょっと混乱してるわ。そんな情報、耳にしていなかった。北米の一企業の情報なんて、ノーチェックだったわ……」
 職探し行脚の寄り道で、昼食がてらにシルスウォッドが訪れた喫茶店。前に、マダム・モーガンと会った店だ。そして前と同じテラス席に座っていると、予想通りにマダム・モーガンがまた彼の前に現れた。だから、こうして彼は彼女と話をしていたのだ。
 初めは、マダム・モーガンのこの一言から始まった。さっき学校をちらっと覗いてきたの、テレーザちゃん元気そうね。サングラス姿で、にこやかに微笑みながらそう言ったマダム・モーガンの姿に、娘を人質に取られているような不快な気分を感じながらも、シルスウォッドは“テレーザ”という名前からふと思い出したのだ。
『もし仮に、あなたの子供がプロの人殺しになったとして。あなたは親として……どう思う?』
『テレーザちゃんのことを言ってるわけじゃないわ。それに、あくまで仮の話よ』
 もしかして、あの時のあの話は、あいつのことを言っていたのだろうか。
 そんな仮説がカチッと組み立てられた瞬間、ほんの少しだけシルスウォッドのマダム・モーガンという女性を見る目が変わった。冷徹な化け物としか思えなかった人物のことを、漸く“ひとりの人間”として見ることが出来るようになったのだ。現に今の彼女は、少し戸惑ったような表情を浮かべている。鉄面皮のような笑顔だけが、彼女の全てではないのだ。
「堅物ボーイ。それで、あなたはどこまで聞かされたの?」
 ……それでも、まあ、まだマダム・モーガンという女性を怖いと感じる彼の心に変化はないのだが。
「えっと、それは、その……――傭兵を稼業にしていた、ってことぐらいですかね。人を――……して、お金を貰ってたって」
「あぁ、そう。それぐらいなら、まだ……うん。その程度の情報なら、まだ良かったわ。漏れても大丈夫な範囲ね……」
 えっ。……あっ、えぇぇぇっ?!
「ま、まっ、マダム。ちょっと、待ってください。えっ、あの、あいつ……もっとヤバイことでも、してたんです……か?」
「ええ。それどころじゃない。たぶん、その傭兵っていう言葉は、あなたが想像しているだろうものの数百倍は悪くて酷い意味よ」
「……あぁ、そんな。僕は、なんて男と……」
「それに彼の悪行が全て明るみになれば、国が一つ滅びることになるわ。そういうレベルの秘密」
「それは、どういう意味なんですか」
「誰かに雇われていたとか、どこかの会社や組織に雇われていた、とかじゃないのよ。彼は、国家に雇われていた傭兵。でも兵士じゃないし、軍に所属しているわけでもない。つまり、決して明るみになってはいけない違法な存在ってこと」
「えっ」
「ン千年が経とうが、その事実はある国を転覆させるには十分すぎる材料よ。たとえば……――北米合衆国、とかね」
「……うわぉ……」
「その情報がユーラシア大陸の北東、ランスィカヤ連邦に伝われば、世界情勢は一瞬で変わるでしょう。長らく続いた北米の覇権は失墜し、東洋の大国ふたつが世界を支配する時代が訪れるでしょうね。まあその前に、人類が滅んでいなけりゃいいけど」
「…………」
「なんてったって彼は、戦闘機十機よりも、核爆弾一つよりも、よほど価値のある存在ですもの。未だにその価値に変動はない。だからこの先も、彼を使いたがる人間は現れるし、彼は彼の意思に反して使われ続けるでしょう。だから、誰かが止めてあげなきゃいけないのよ。彼の、止まらぬ息の根を」
「……マダム・モーガン。あなたは彼を」
「ええ、そうよ。愛しているからこそ、終わらせてあげたいのよ。まだ、その方法は見つかってないけど」
 テラス席で交わされる不穏な会話。そう言い終えたマダム・モーガンはジンジャーたっぷりのブラックコーヒーを啜り、サングラスの下からシルスウォッドに視線を送ってくる。彼は何も言えず、目を逸らすことしかできなかった。
 するとマダム・モーガンはコーヒーカップをテーブルに置く。それから彼女は小さな声で言った。
「……堅物ボーイ。あなたにも、いずれ分かる時が来るわ。人生っていうのは、やっぱり終わりがあるからこそ美しいし尊いものなのだと。そして意味のある生命ほど、哀れなものはないということもね」


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『へぇ。あのアラブ人のガキ、名前はジャーファルっていうのか。それも西岸じゃなく、ガザの出身? そして、年齢は十一歳。ふぅーん……』
 それは気が遠くなるほどの、大昔の話。同じ施設で訓練を受けていたユダヤ人の訓練兵が、彼に関する噂話をしていた。
『西岸には、モサドに従うアラブ人のスパイがいっぱい居るって聞いたけど。ガザって、あまり聞かないな……。だってあそこは、過激派反イスラエルの温床だろ? ガザの過激派っていうのは忠誠心が凄いらしくて、西岸のチンピラほど簡単には落ちないって聞いたことあるし。大人も若者も、子供でさえも。それなのに』
『いや、あのジャーファルってのはただのスパイじゃねぇらしいぜ。それに、ただのスパイだったらこんなとこに居ないだろ?』
『あぁ、そうか。考えてみれば、たしかに。でも、じゃあ……』
『モサドは、アラブ人の暗殺者も育てるつもりらしいぜ? それにあのガキに、モサドの長官の腹心さまがご執心しているらしい。拘置所からランダムにピックアップされた、ってわけじゃないそうだ』
『へぇ……。腹心っていうと、あのエズラ・ホフマンか』
『あぁ、そうだ。どうやら腹心さまは、暗殺スキルをあのガキに仕込んでからハマースの執行部隊に送り込み、ハマースを内部から崩壊させる腹積もりらしいぜ。アラブ人の手でアラブ人の組織を潰させ、俺たちイスラエルは白を切る、ってことらしい。まっ、その作戦も上手くいきゃあいいけどよ』
『どうした、その皮肉めいた笑顔は。怖いぞ、ラーキン』
『だって、考えてみろよ。あの魔窟のようなガザ出身のガキだぞ。モサドの筋書通りに動く保証が、どこにあるっていうんだ? 逆にあいつが、モサドの仕込んだ技術でモサドを壊滅させる可能性だって、無きにしも非ずだ』
 ちらちらと彼を見ながら、汗臭くて狭い更衣室の中で彼らはヘブライ語で噂話をしていた。アラブ人の彼には理解できないと、そう彼らは思っていたのだろう。
 お世辞にも身体に合っているとはいえない、ぶかぶかの戦闘服に着替え終えた幼い彼は、年齢に見合わぬ重い溜息を吐いた。それから彼は、自分の噂話をしている訓練兵二人組にヘブライ語でこう言ったのだ。
『全部、聞こえてる。俺に文句があるなら、直接言ってくれ』
 ジャーファル。かつてそう呼ばれていた少年は、故郷で全てを奪われたのちに敵国に拾われ、紆余曲折を経て、敵国の通称「暗殺者部隊」に放り込まれた。その全容は、全て訓練兵が噂していたとおり。故郷の同胞を殺す。それが敵国の人間が提示してきた、生かされるための条件だった。
 あの時代は、一瞬一瞬が必死だった。再び朝を見るためにもがいていた日々だった。
 やがて過酷な訓練と、はるかに年上の同期たちから浴びせられる執拗な嫌がらせに疲れ果て、“ジャーファル”としての記憶や心が薄れ始めていたころ。ある時、何かに自分の全てを支配されたのを、彼は感じたのだ。そしてそれ以降、彼は彼でなくなって、記憶もぱったりと途絶えてしまった。
 そうして久しぶりに、彼が彼に戻ったとき。月日は流れていて、彼はいつの間にか十五歳の青年になっていた。そして彼が彼に戻ったあの瞬間は、彼が水の底に溺れていっていた最中だった。
 なんとなく、あの瞬間の彼の心にあったのは罪悪感。詳しいことは何も覚えていない、だが自分が何か間違いを大量に犯したような気がしていたのだ。このまま死ぬのだろうか。そうも思った。
 そして今の彼は、こう思っていた。あのまま死んでいれば良かった、と。


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『ジャーファル? ねぇ、ジャーファル! 返事をしてよ、お願いだから……!』
 それは大昔の話。故郷を捨て、北米へと渡り、やがて北米に忠誠を誓う工作員となっていた彼女は、あの瞬間に忠誠心を捨て去った。
 彼女は長いこと、必死の思いで故郷に残してきた弟分を探していた。ずっと心残りだったからだ。世間は彼を死人のように扱っていたが、彼女はひとり信じ続けていた。彼は生きている、今もどこかで必ず、と。
 そして彼女は、彼を見つけた。彼は北米で、囚われていた。彼女が忠誠を誓った星条旗を掲げる国家の国防総省と呼ばれる機関、その中のDARPAと呼ばれる研究局が支配する場所に。
『……ファティマ。やめろ、やめるんだ。彼に君の言葉は、伝わってないよ』
 当時、彼女の相棒のようなポジションに居たダニエル・ベルという名前の男は、涙を流す彼女の肩を掴み、彼女を彼から引き離そうとした。
 そのダニエルの判断に、無理はなかった。あの時の彼は、それほどまでに酷い状態だったのだ。
『ファティマ。君が知っていた彼は居ないんだ。君がよく自慢してた天才の弟分ジャーファルは、居ないんだよ。諦めろ。そこにあるのは、彼の抜け殻なんだ』
『違うわ! そんなはず、ないでしょ。だってあの子が、私のことを忘れるわけが』
『彼が忘れているのは、君だけじゃない。言語も、彼が愛した数学も、自分の名前も、好物だったっていうデーツさえも。さっき君が渡したデーツも、彼は手を付ける気配がないだろう? 不思議そうに見つめるだけで、食べ物とすら認識してないんだ。……これは君のために言ってるんだ。諦めてくれ、ファティマ』
『ジャーファルのことを何も知らないくせに、偉そうなことを言わないでよ!』
『ああ、そうだよ。君の言う通り、僕は彼のことを何も知らない。だけど、これでも僕は障碍児の父親をやってるんだ。精神科医の友人の愚痴を聞くことだってある。だから知ってるし、分かるんだよ。もう彼は、駄目だって』
 まるで動物園のライオンの檻のような場所に、彼は閉じ込められていた。彼は冷たい床にぺたんと座り込んでいて、そんな彼に彼女は抱き着いていた。
 彼と彼女。年齢は三つしか違わないはずだった。だがダニエルの目には、一〇は年齢が違うように見えていたのだ。彼は十五歳かそこらの青年で、彼女は二十七歳の大人。随分と年の離れた姉弟にしか、見えなかったのだ。
 そして彼女に抱き着かれていた彼は、首を少し傾げさせていた。そんな彼の顔に表情はない。少し引いた場所から様子を見ていたダニエルは、背筋が凍えるのを感じていた。
『ファティマ、聞いてくれ。重い自閉症の子供でも、感情表現はしてせるものだ。パッティだって、時に喜ぶし、怒るし、悲しむ。その表現はあまりにも小さすぎて、普通の人間には気付けないだけでね。でも彼は、違う。感情が無いんだ』
『感情が無いですって? こんな場所に閉じ込められているのよ、怯えているに決まって……――』
『今の彼は、この檻のような世界しか知らないんだ。怯えているはずもないだろう?』
 抱き着いていた彼を解放し、彼から少し離れて、彼女は改めて彼を見つめた。床に座ったままの彼は、床を見つめていた。目の前に居る彼女や、少し離れた場所に居るダニエルに、彼が興味を示す様子はなかった。それどころか、彼が二人の存在を認識しているのかさえも怪しい。
 彼女は、呆然と立ち尽くした。目の前に居る現実に、打ちひしがれた。ダニエルの言う通り、彼は抜け殻になっていたのだ。
『……嘘よ、そんな。ジャーファル、どうして。なんで、壊れちゃったの……?』
 あの後も彼女は、何度も彼の名前を呼び続けた。だが彼が反応を見せることはないまま、時間だけが過ぎていった。
 やがて時間が流れ、彼女は一度目の人生を終えたのちに再びの生を得て、二度目の人生を開始した。ダニエルはごく普通に寿命を全うし、ごく普通に死んでいって、生き返ることはなかった。
 そして悲劇的な再会から五〇年以上が経ったある日。彼と彼女は、再び顔を会わせていた。
『ジャーファル。あなた、どうして』
『あぁ? お前、どっかでー……――あぁ、思い出した。キミアが言ってた、新しい死神か。マダム・モーガン、だったよな?』
 だが彼は、彼のようで彼ではなかった。
 彼の見た目は、最後に彼女が目にしたときとなんら変わっていなかった。十五歳の青年の姿のまま。だが彼は、彼でなかったのだ。中身が、まるで違う。そう感じていたのだ。そして、彼女の直感は当たっていた。
『へぇー、お前ってジャーファルの知り合いなのか? 奇妙な縁だな。ハハッ』
『……あなた、ジャーファルじゃないのね?』
『おうよ。俺は猟犬。人間の世界で活動するにあたって、こいつの体を譲り受けたってわけだよ。合意の上でな。つまり俺は、ジャーファルじゃない』





 二年ぐらいは掛かるかもしれない。緑色の目をした彼はそう言っていたが、記憶の書き換え作業は意外と早く進んでいた。
「エリカ・アンダーソン?」
「覚えてないの? あなたの大学の同窓生よ」
「……いや。覚えてないな。どんな奴だ?」
「気さくな女性だったわ」
「へぇ……」
 関心が無さそうな返事を、ペルモンドは零した。ブリジットが作った朝食を食べながら、テーブルを挟んだ向かいに座る彼の目は、本当に話題に関心が無いようで。
「ねぇ、ペルモンド」
「…………?」
「あなた。私の前に、付き合ってた女性とかって……居たの?」
「いいや。誰も。それがどうかしたのか」
「いえ、別に。ちょっと気になっただけよ」
 不思議なぐらい、きれいさっぱり。彼はエリカのことを忘れていた。鏡を使って緑色の目をした彼を呼び出す機会も減り、今ではこうして普通の会話を彼と交わせるようになっていた。
 長いこと望んでいたことを、望んでいたとおりに手に入れることが出来た。女としてのブリジットは、素直に喜んでいた。だが、冷静なブリジットは後悔していた。
 まるで略奪婚のような後味の悪さ。いや、略奪婚なんかよりもずっと酷い。だってブリジットは彼の記憶から、前妻の記憶を丸ごと消し去ってしまったのだから。それがどれだけ罪深いことか。今更、彼女は後悔していたのだ。
 だが後悔したところで、時間は巻き戻せない。過ぎてしまったことは過ぎてしまったこととして、水に流すしかないのだ。
「変なこと聞くんだな、君は」
「だって、あなたってモテてたから」
「俺じゃないよ、人気だったのは。俺の保有する財産が、モテてたんだ」
「違うわよ。それも一理あるけど。だって、あなたって可愛いから」
「…………?」
「普段は男の中の男、って感じなのに。時々、仔犬みたいな目をするのよ。そのギャップ、女子から人気あったわ」
 時間は、川を流れる水のようなもので。ひとつの方向に進むことしか出来ず、逆流することはできないのだ。それに、ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジという言葉があって……――
「ねぇ、ペルモンド」
「どうした、ブリジット。今日の君は様子がおかしいぞ」
「私のこと。愛してる?」
 ならば、私のやっていることは何?
 彼の川は今、どこを流れているの?
 そもそも彼の時間は、流れているのだろうか。
「ペルモンド?」
 あの小説の、レイモンドのように。彼の心は、氷ついた川なのだろうか。
「…………」
 ブリジットの質問に、ペルモンドは言葉を詰まらせる。そして少しの沈黙の後、彼は正直にこう言った。
「ごめん、分からない」





 ブリジットの母親、リアム・エローラ。彼女は黒電話の受話器を元の場所に戻すと、溜息を吐いた。
「……バーツさんに、迷惑をお掛けしてたのね。リチャードも、ブリジットも……」
 夫であるリチャード・エローラが、勤め先に出て行ったあと。入れ違いのように掛かってきた一本の電話。掛けてきたのは、リチャードの旧友であるバーソロミュー・ブラッドフォード。そしてバーソロミュー・ブラッドフォードはリチャードに話があるわけではなく、リアムに話があると告げたのだ。
 そして電話越しに彼の口から伝えられたのは、六年前にも聞いたことがある言葉だった。マダム・モーガンと名乗った女性が、ベッドフォード飛行場でリアムに告げた、あの言葉とほぼ同じだったのだ。
『リチャードの研究熱心で頑固な性格は、私もよく知っている。あれが思い込んだら一直線で、周りの迷惑を顧みることなく突き進み、時に患者を傷付けることも分かっている。そしてブリジットが、父親の性格によく似てしまったことも。だから、聡明なあなたに頼みたいんだ。ブリジットを、止めてくれ。彼は非常に危険なんだ。ただの精神病などという生温いものじゃないんだよ』
 ベッドフォード飛行場でマダム・モーガンという女性と初めて顔を合わせたとき。彼女はリアムに自身のことを「ペルモンドの姉貴分」だと名乗ったうえで、こう言ったのだ。あの子は危険なんだ、だから娘さんと旦那のことを思うなら、あの子に関わるのは控えたほうが良い。ましてやあの子の頭の中を覗こうとするのは論外だ、と。
 マダム・モーガンという女性の言い分はこうだった。冗談に聞こえるかもしれないが、彼は悪魔憑きみたいなものなんだ、と。どうやら彼女の話によると、リチャードが興味を示した「未来が見える」という能力は本当のことらしい。ただ厳密には「ひとつ前に滅んだ宇宙が辿った結果を参照し、そこからこの宇宙の行く先を予測する能力。そして、その未来を予測する能力は彼に取り憑いている悪しきもののものであり、いわば借り物の力。彼自身の能力ではない」らしいとか、なんとか。詳細は知らなくていい、そうマダム・モーガンは断ったうえで、彼女はリアムにこれだけは強く言ってきた。

 あの子に関わるということは、死を無駄に早めるということを意味する。
 それにあの能力は、人間は決して触れてはいけない真理の一端よ。
 全てが解明されてしまえば、誰も望まぬ悲劇が起こる。
 もちろん、そうなることを彼も望まないでしょう。
 だから、ペルモンドを放っておいて、一人にしてあげて欲しいのよ。

「――……バーツさん、ごめんなさい。私は再三、あの子に忠告したの。だけどブリジットは聞く耳を持たなくて。幸せでない結婚に踏み切ってしまったわ」
 最愛の女性を、交通事故で亡くしたばかりの男性。彼の気が動転しているところに付け込み、記憶も戸籍も何もかもを書き換えるだなんて。道徳的に如何なものかと思われることを、まさか自分の娘が。それだけでも、母親であるリアムのショックは計り知れないというのに。娘のその選択が多方面に迷惑を掛けるものであり、そして娘自身の首を絞めるような決断でもあるのだ。
『マダム・モーガンという女性と、お会いしましたか? なら、彼女から話は?』
 どこで私は、娘の教育を間違えたのだろう。
『……ええ、そうです。だがその話は、まだ核心に触れていない。大事なことをお話ししましょう。……リアム、覚悟して聞いてください。彼は、二人いるんです。同じ人間の中に、別人が存在しているんです』
 悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。
『もう一人の彼は、人殺しだ。彼が持つもう一つの顔は、暗殺者なんだ。詳細は言えませんが、彼は人を殺すために育てられた男だということは確実です。そして人殺しの顔を、彼自身はコントロールできない。いつ現れるかが、誰にも分らないんです』
 人殺しを、娘が愛しているだなんて。
『ただ、この事実は口外しないように。その時は、マダム・モーガンが……――あとは、分かりますね?』
 黒電話の前に立ち、リアムは乱れた心拍と呼吸を落ち着かせようとする。だが努力しようとすればするほど、乱れていくばかり。心臓はまるで爆発寸前の爆薬でも抱えているかのように、収縮と弛緩を短間隔で激しく繰り返す。呼吸は浅く、そして早くなっていった。
 電話越しに聞こえたバーソロミュー・ブラッドフォードの声は、とても悲しそうだった。本当に、心の底から、悲しそうだった。あの声が耳の奥で蘇るたびに、リアムの心を締め付ける。
『マダム・モーガンも、手を下すことを望んでいるわけではない。だから彼女も、私に相談してきたのです。どうか、彼女の意思を汲んでほしいと。ブリジットに、そう伝えてください』
 だが、そう言われたところで。何をすればいいのかが、リアムには分からなかった。
 そしてリアムは落ち着かない心臓と、深呼吸を忘れた肺をそのままに、市内のあらゆる連絡先が掲載された電話帳を広げる。その中から自動車修理工場を探し、さらに「アンダーソン」という姓を探した。そしてリアムは見つけるのだった。ダーリーン・ジェラルディーン=ミネルヴァ・アンダーソンの名前を。





 ボストン郊外の墓地。墓石はなく、銘板だけがずらりと芝生に並んでいる。その中に一人の男が、小さく細い花束を携えて立っている。その背中に、クロエ・サックウェルは声を掛けた。
「おひさ、バッツィ」
「……クロエか」
 振り返ったその男――バッツィこと、ペルモンド・バルロッツィ――は、光を失くした冷たい目をクロエ・サックウェルに向けてきた。彼の目の奥で淀む闇は、数か月前から時が止まっているようで……――クロエ・サックウェルはその薄気味悪さに。
 つい昨日。遠くから彼を見ていた時と、今の彼の目はまるで違っている。まるで、別人であるかのように。そんな違和感や奇妙さに少し眉を顰めさせながら、クロエ・サックウェルはそれでも平静を装い、いつものようなおちゃらけた“皆にとってのクロエ”を演じ続けた。
「デリックが会いたがってたよ、あんたに。あのあくどい軍需企業が潰れて、ついにバッツィが本当の意味でフリーになったって、彼ったら大喜びしてたんだ。だからバッツィを手に入れてみせる、そしたら会社は安泰だって張り切っ……」
「俺は時限爆弾だから手を出さないに越したことはないと、デリックには伝えておいてくれ。それに俺はフリーじゃないさ。今も昔も、これから先も、未来永劫。フリーなんて、有り得ない……」
「それはさて措き。バッツィ、あんたってなかなかの演技派ね。それともすべて素で、アーティーの言葉通り本当に精神が破綻しているの?」
「アーティー? 誰のことだ」
「一人娘にくびったけのアットホームパパ、シルスウォッド・アーサー・エルトル。だから、ミドルネームを取って“アーティー”。たぶん、バッツィ以外は彼のことをそう呼んでるわ」
「………」
「で、バッツィ。本当のとこ、どうなの? 健忘とか別人格とかが再発したの?」
 クロエ・サックウェルのその言葉に、ペルモンドの表情が一瞬だけ強張る。そしてクロエ・サックウェルは、自分を偽るのをやめた。順を追って、正直に全てを打ち明けることにしたのだ。
「エリカの母さんから、聞いたわ。アンタが再婚したって。それもブリジット・エローラと。そしてブリジットのお母さんは、結婚に反対しているみたいね」
「……」
「ねぇ、バッツィ。アンタはどう思ってるの。自分の人生を、他人に好き勝手されること」
 実はつい昨日、クロエ・サックウェルの許にエリカの母親ダーリーン夫人から一本の電話が掛かってきたのだ。
 現在、表向きは“デリック・ガーランドの妻で専業主婦、そして元精神科医”となっているクロエ・サックウェルだが。彼女には隠していた本職があった。そして、その本職を知っている身近な人間は今のところ、仕事の都合上でクロエ・サックウェルを頼ることがあるダーリーン夫人のみ。
「昔から、そうだった。もう今更、なにも感じることは」
「本当に? じゃあアンタが月命日になると必ずこの墓地に来て、こうして花を供えて帰っていくのは、どうしてよ」
 それにエリカとは竹馬の友の関係であり、子供の頃はよく工場に遊びに行ったりもしていたクロエ・サックウェルは、ダーリーン夫人からも信頼されていた。その信頼は、厚い。だからこそクロエ・サックウェルは、こうしてペルモンドの前に現れたのだ。
 何故ならば。ダーリーン夫人に、頼まれたからだ。ペイルを探して、うちに連れてきて欲しい、と。ダーリーン夫人はどうしても直接、彼に会って話したいことがある様子だった。
「なにも俺とは限らないだろう?」
「だってバッツィしか居ないでしょ、ヒースを供えるなんていう、回りくどくて洒落たことをする男なんて」
 そう頼んできたダーリーン夫人は、彼の現在の居場所を知らないようだった。それも無理はない。何故ならばダーリーン夫人はこの数か月、彼と一切の連絡を取っていなかったからだ。
 とはいえ、この街はそう広くはない。情報を握る仕事をしているクロエ・サックウェルにとっては、この街は小さな庭のようなものだ。だから人ひとりを見つけることなど、造作もないこと。それにクロエ・サックウェルは探さなくとも彼の居場所を知っていたし、いつどこに彼が現れるのか、その大体のスケジュールを把握していた。だから彼女は知っていたのだ。今日の正午前に、彼は道すがらの花屋でヒースの花束を購入した後、この墓地に足を運ぶと。
「ヒースの花をお墓に供える人なんて、まず居ないわ。だって、お世辞にも見栄えがするって言えるような花じゃないし、不吉なイメージしかないもの。でも、バッツィ。アンタの場合、あれは未練の表れよね。私には分かるんだから。これでも一応、精神科医だったから。自他共に認めるやぶ医者だったけど」
 クロエ・サックウェルも、エリカの月命日には必ずここに訪れていた――花を供えるようなことはせず、ただエリカの名前が刻まれた銘板を見に来るだけであったが。そしていつも、クロエ・サックウェルが訪れるときには銘板の横に質素な花束が置かれていたのだ。それも紫色のヒースの花束。
 実際に、その瞬間を目にしたことは今日まではなかった。だが花束を置いていく人物が誰なのか、その見当はクロエ・サックウェルにはついてた。ペルモンド、彼なのだと。
「ヒースの学名は、エリカ。……エリカを忘れたなんて、嘘なんでしょ」
 もともとクロエ・サックウェルは、エリカの結婚に反対していた人物だった。なにせ相手は過去の経歴、および出自も一切分からない男。それに噂話は、よくないものばかりで溢れかえっていたような人物だ。常習的ともいえる暴言暴力も、風のうわさで聞いたことがある。つまりクロエ・サックウェルは、ペルモンドという男に対して良い印象を抱いていなかったのだ。
 そんな男と、大親友は交際していて、将来的には結婚も考えているだなんて……――快く許せるはずもない。そこでクロエ・サックウェルは、彼についてあれこれ調べるようになったのだ。
 そうして最終的に、クロエ・サックウェルが見つけた答えは「飼い主に捨てられたが為に人間に対する警戒心が強くなった大型犬、のような男」というもの。彼にはエリカのような情け深い飼い主が必要で、エリカもその役を受け入れることを望んでいたのだ。次第に仲を引き裂くのも馬鹿らしく感じられてきたクロエ・サックウェルは、折れたのだ。彼を受け入れ、エリカの背中を押すようになった。
 とはいえ彼に対する初めの印象が最悪であっただけに、エリカの死後、クロエ・サックウェルは彼を疑うようになっていた。彼女の死後に、ダーリーン夫人と縁を切ったり、すぐに別の女と――それもあろうことかブリジット・エローラと――結婚してみたりと、彼の言動に違和感を覚えたのだ。本当に彼は、エリカを愛していたのか、と。
 だからこそクロエ・サックウェルは、こうして彼が毎月欠かさず花束を供えにくるこの行動が、理解できなかったのだ。そこで今日はダーリーン夫人からの依頼ついでに、疑念を追求しに来たのだ。
 そういうわけでクロエ・サックウェルは、容赦なくペルモンドに切り込んでいく。
「あなたが今、ブリジット・エローラと結婚してるのは知ってるわ。それに彼女の前では、まるでエリカのことを忘れたかのように振舞っていることも知ってる。ねぇ、ペルモンド。教えてよ。ブリジットの手前、エリカのことは口に出せないの? それともエリカのことを愛していなかった?」
 それまでは真顔だったペルモンドの表情が、そのとき変化する。それはほんの僅かな変化でしかなかったが、クロエ・サックウェルは見逃さなかった。
 ほんの少しだけ、目が見開かれたのだ。その表情は心底驚いたかのようで、同時に疑いを掛けられたことに少なからず傷付いているようでもある。それからペルモンドは顔を少し俯かせ、クロエ・サックウェルから目を逸らす。そして彼は小さな声で、こう言った。「……そんなわけが、あるはずない」
「じゃあ、なに? アンタはエリカを愛していたの、そうじゃないの? どっちなのよ」
「今だって彼女を愛している。俺は、彼女を忘れたことはない。忘れるはずもない」
 再びクロエ・サックウェルを見た彼の蒼い目は、真剣そのもの。どこか悲愴感を伴う表情も相まって、嘘を吐いている男の目ではないようにも見えていた。
 だが、だからといってすぐに信じるほどクロエ・サックウェルは単純な人間ではない。また彼女はすぐに質問をしようとした……――のだが、間髪を入れずにペルモンドは次の言葉を口にした。
「俺には、ミス・エローラと生活しているという記憶も、彼女と結婚した覚えもない。毎朝毎晩、寝て起きたという記憶もない。気が付けば日が変わっていて、俺が覚醒するのは決まって玄関ドアの錠を閉めた瞬間だ。何が、どうなっているのか。俺には何も分からないんだ」
 そう言ったペルモンドの顔は、どこまでも困り果てて、疲れ切っていた。よくエリカが「土砂降りの雨に打たれている老犬のような」と形容していた、あの雰囲気だ。あんな顔で見つめられたら最後……どんな悪魔だってこれ以上はもう、彼を責められないだろう。
「あぁ、バッツィ。アーティーの言ってた通り、また再発しちゃったのね……?」
 そしてクロエ・サックウェルは溜息を吐く。もう十分な答えは得られたのだ。更なる追及は時間の無駄だろう。……そう判断した彼女は腕を組むと、漸く本題を切り出すのだった。
「ねぇ、バッツィ。アンタ、このあとどうせ暇でしょ? 私に、付き合ってくれないかな」
「…………?」
「実は、私。エリカの母さんに頼まれて、アンタを迎えに来たのよ」
「……クロエ。前から変だと思っていたが、君はもしや」
「そっ、お察しの通り。私の両親はともに精神科医で、医者になれっていう重圧が凄かったから仕方なく医師免許は取ったけど。家業を継ぐのは嫌だったし。それに本職は、辞められなかった。私にとっての天職だから、どうしてもね……」
「密偵、か」
「そうなの。私は俗にいう密偵。でも情報局のスパイとか、そういう大それたものじゃないわ。あるヘッドハンターに仕えているってだけだから。ヘッドハントの候補が、書類では見つからない隠し事とかを抱えていないかどうかを探して、見極める仕事をしてんの」
 あくまで自然に、クロエ・サックウェルはさらりとそう告白する。その告白に対してペルモンドは、驚いているような素振りは見せない。なんとなく見当はついていたと、彼の目はそう言いたげだった。
「ふーん。バッツィ、驚かないんだね」
「……予想はしていたからな。驚かないさ」
「予想、してたの?」
「君はエリカを付け回していただろう? それに何度も俺を尾行していたし。結婚式のあの日にまるで初対面のような振る舞いを君はしていたが……」
「……あはは。バレてたのかぁ~」
「君はエリカの守護者か何かなんだろうなと、予想はしていた。それか、ダーリーンに頼まれた目付け役か何かだと。……それに君は、低俗な妄想を楽しむようなタイプじゃないだろ。全部、演技臭かったしな」
「えっ、あっ、うそ。もしかして、聞こえてたの?!」
「ああ。ほぼ全部」
 やはり、この男は何かがおかしい。クロエ・サックウェルは組んでいた腕にぐっと力を込め、顔をこわばらせる。全盲であるはずの相手の男には、この表情は見えていない。そう踏んだ彼女は、顔だけは素のままで、声だけをおちゃらけた調子に取り繕う。そこでクロエ・サックウェルは、ペルモンドに鎌をかけてみることにした。
「はぁ。うん、そう。だいたい、バッツィの予想通りだよ。エリカとアンタのこと付け回してたし、あの妄想みたいなやつは全部ブリジット・エローラの反応を窺うためのものだし。自分で言いながら、気持ち悪いなぁって思ってた。それに……――エリカとアンタが結婚する前に、アンタのことを色々と調べたんだ。アンタの秘密は、掴ませてもらったよ」
 エリカは彼のことを、よくこう言っていた。彼は可哀想な人なんだ。きっと昔に酷い仕打ちを受けて、育ったに違いない、と。だから私が支えてあげなきゃいけない。エリカは口癖のようにそう言っていたし、そう信じていたのだろう。だが。クロエ・サックウェルはどうしても、疑念を拭いきれないのだ。
 ペルモンドという男が悪い人物ではないことは、クロエ・サックウェルも知っていた。彼は少々気難しい人物ではあるけれども、それ以上に謹直で篤実な人柄で、だからこそデリック・ガーランドを始めとした彼の友人たちは彼に全幅の信頼を置いているし、エリカも恋に落ちたのだ。そこは、クロエ・サックウェルも分かっている。しかし、だ。どうにもクロエ・サックウェルには、ペルモンドという男が天性の嘘吐きであるように思えてならなかったのだ。
 彼の何が嘘で、何が本当なのか。そもそも彼の意思は、どこにあるのか。……彼の行動を観察していると、益々そこが分からなくなるのだ。まるで腕や足を操り糸でくくられ、天から吊られたマリオネットのように。誰かが空っぽの彼を動かし、支配しているような、そんな気がしてくるのだ。
「アンタ、さ。十六歳のときに、警官二人を痛めつけたんだってね。それも、こっぴどく。だけどその後に、アンタにボコられた警官がクビをきられていること、それとアンタが書類送検すらもされずに見逃されている……――というか、何かによって書面上は揉み消されていることから察するに、正当防衛ってとこなのかな。それにしても昔から喧嘩っ早いのね、バッツィったら」
 もし、そうでないのならば。彼の目の奥にある、ぽっかりと空いた冷たい洞窟のような場所は何なのだろう。彼の目の奥にあるあのスペースは、まるで何もない。空っぽで、暗闇には果てがないように思える。道を照らす松明すらもないような、寒々しい洞窟だ。まさしくそれは……ブラックホールのような場所。全ての光を闇の中に飲み込み、そのたびに少しずつ自身の身も擦り減らして、最後は大爆発して消えていく。普通の生きている人間の目ではない。あの目はまるで、永遠の闇に消えて行った死者のようなのだ。
 ならば、彼は何なのか。いくつか、答えの候補はある。幾つも存在する人格の交代を繰り返しているうちに、自分が誰かも分からなくなった哀れな男。または特異な環境で育てられ、命令をこなすだけのマシンにされた人間。もしくは、奇跡的なテクノロジーか何かで蘇った文字通りの死人か。
 だが。クロエ・サックウェルはこう思う。考えるだけ時間の無駄だ。不用意に首を突っ込んではいけない匂いのする案件には、関わらないに越したことはない。もしかするとエリカは、彼に関わりすぎたが為に命を落としたのかもしれないのだから。
「じゃあ、バッツィ。行こっか。私が運転するから」
「……君の車に乗れと?」
「だって、アンタは徒歩で来たんでしょ? 自動車修理工場は、ここから遠いんだから。ほら、行くよ。ついて来て。それと、あとでデリックにも会ってもらうからね!」
 そう言ったクロエ・サックウェルが、彼の手首をぐっと掴んだ時だった。ペルモンドと目が合い、その瞬間にクロエ・サックウェルは寒気を覚える。緑色に変わっていた彼の瞳は、人間のものではなくなっていた。そして彼の口角はにやりと引き攣るように上がる。それからクロエ・サックウェルの目の前を、高らかな笑い声と共に黒い影が通り抜けていった。





「ねぇ、ペルモンド。あなた、今日はどこに出掛けていたの?」
 ブリジットの問いかけに、言葉は何も返ってこない。
「ペルモンド?」
 日中、ペルモンドはどこかに出掛けていた。だがブリジットは、彼が出掛けた先を知らない。彼がどこで何をしていたのか。何も、分からないのだ。
「ペルモンド。ねぇ、ちょっと聞いてるの?」
 先日、とある出来事により突然勤め先を無くしたペルモンドだが、次の職場を探しているような様子もない。それに彼は、職を失くしたことで焦っているわけでもない。だが日中、彼は家に居ない。ここ数日、ずっと。
 どこに出掛けているのか。そして日中、彼は何をしているのか。ブリジットがいくら質問しても、この通り。ペルモンドははぐらかすか、今のように何も言わないか。
 今日も彼は、だんまりを決め込んでいた。シャワーを浴びて濡れたままの髪をそのままに、伊達眼鏡を膝の上に乗せて、俯いて、ソファーに浅く座っている。
「…………」
 それ以外に、彼は何かをするわけでもない。呆然と、座っているだけ。やがてそのまま彼はソファーの上で眠りに落ち、そして翌朝をまた迎える。偽物の夫婦の会話が始まって、またペルモンドは家を出て行く。ブリジットには行き先を告げず、何も教えずに。
「何を言っても、無駄なのね。だってあなたは、私のことが怖いんですもの。昔から、ずっと……」
 望みを手に入れた代償が、これだ。これ以上に空しいものがあるのだろうか?
 大きな溜息を零しながら、ブリジットが手を伸ばすのは一冊の手帳と一本の万年筆。日記、と表紙に書かれたその手帳は、残念ながら日記ではない。
「……はいはい、私は透明人間ですよ。あなたの世界には存在しない女。結局あなたはエリカが忘れられないのよね……」
 ブリジットが理想とする生活が詰め込まれた、偽物の日記。謂わば妄想や空想の類で、ブリジットはそれを“小説”と呼んでいる。文体は大好きな小説家を真似して、全て一人称。偽物の日々を綴り、その妄想で満たされる。
 目に見える現実は、あまりにも荒れていたから。目を背けたかったのだ、現実の彼から。


「……今すぐこの国を捨てて、アルフレッド連邦共和国に渡れって、急に言われてもな」
 弾けもしない三十二弦のエレクトリックベースを膝の上に乗せて、デリック・ガーランドはそう呟く。もはやギターのような形は成しておらず、縦に長いツィターのような状態になっている楽器を渋い顔で見つめながら、彼は一本の太い弦をぽろーん……と爪弾いた。チューニングは滅茶苦茶で、その弦は聞くに堪えない微妙な音程を鳴らす。そしてデリック・ガーランドはひときわ大きなため息を零した後に、こう呟いた。
「流石というか、なんというか。バッツィは相変わらず、無茶苦茶だ。あいつの言うことが正しいならばそう遠くない近い未来に、この国では大事故が起きて人も建物も丸ごと吹き飛び、誰にも予想が出来ない悲劇が起きてこの国は地獄と化すとな? それもアバロセレンからエネルギーを取り出そうという試みの所為で……――ふむ。なぁ、クロエ。お前はどう思う?」
 職人の手作りである高級品で一点もののワイングラスに高級な赤ワインを注ぎながら、クロエ・サックウェルは顔を顰めさせる。彼女はデリック・ガーランドからの問いかけに、こう即答した。「私は、信じるよ。彼の言うことを」
「どうして、お前はバッツィを信じる?」
「直感だよ。嫌な予感がするんだ」
「もっと具体的な答えが欲しいんだが」
「だって、彼は“ラプラスの悪魔”だよ?」
「あー……――北米合衆国に持っていかれたあのマシンのことを言っているのならば、あれは未完成品だぞ? まぁ、たしかにバッツィの組み立てた『宇宙の始まりから終わりまで、全ての過程を導き出す』理論は斬新すぎて、世間に公表するなと合衆国政府に脅されるほどのものだったが、でも未完成品じゃぁ……」
「違う。私は、彼自身が“ラプラスの悪魔”だって、そう言っているのよ」
 クロエ・サックウェルは赤ワインが少し入ったグラスを、デリック・ガーランドに差し出しながらそう言った。そしてデリック・ガーランドは三十二弦ベースをまた、ぽろろーんと鳴らす。彼は目を剥いた。
「あいつが、ラプラスの悪魔だって? おいクロエ、お前はどうしちまったんだ?」
「彼が……というか、彼に取り憑いてる何かよ! あの、狼みたいな黒い影。あいつが、彼を支配してというか、その、うまく言葉にできないんだけど……そういうことだと、思うのよ」
「どういうことだ、そりゃ」
 デリック・ガーランドの膝の上に乗っている三十二弦エレクトリックベースの名前は、ペイル・ウルフ。シルスウォッドの悪魔のような囁きをきっかけに、デリック・ガーランドが企画し、ペルモンドが設計して、フィル・ブルックスとユーリ・ボスホロフの二人が制作し、エリカが命名して、ジェニファー・ホーケンが塗装を施したものだ。学生時代に面白半分で制作した、世界にただ一つだけのモンスターのような楽器である。思い出の詰まった、大切な楽器だ。
 ……とはいえ楽器に疎いデリック・ガーランドは、一切弾けやしないのだが。
「狼みたいな黒い影だって? おい、クロエ。正気か?」
「私は誰よりも正気。それに、見たのよ。彼の足下の影が蠢いて、狼になって飛び出した瞬間を。あと彼の目が、蒼から緑に変わった姿も」
 蒼空のような水色をしたマホガニーのボディと、狼の横顔を模ったヘッドに、ローズの指板、肉球マークが捺されたポジションマーク。ピックガードはない。そして五種類のピックアップに、その他諸々のこだわりと、三十二本の弦。実用性があるかどうかと問われれば、無いといえるだろう。ただ思い付きで作って、自分たちの持ちうるスキルを全て投入して、作った。それだけの代物だ。
 デリック・ガーランドは“ペイル・ウルフ”のボディを、過去を懐かしむように右手の薬指で軽くなぞる。しかしクロエ・サックウェルはこの奇怪な楽器に、本物のモンスターを見るような視線を向けていた。
「前から、感じてた。バッツィ、彼はなんか変よ。普通じゃない。普通っていうのは健常者って意味じゃなくて、この世の人間じゃないって意味。それに彼は……――とにかく、バッツィが『事故が起こる』って言っていたなら、本当に起こるのよ。私は、彼の言葉を信じる。だから、彼の言う通りオーストラリア大陸に移住したほうが良い」
「そんな簡単に言われてもなぁ。家を移すだけなら簡単だが、本社を他国に移すとなりゃ、色々とまどろっこしい法的うんたらやら膨大な金やらが……――」
「命あっての物種でしょ?」
「まあ、そうだが。死んじまったら、俺が必死こいて築き上げた財産も全て意味を失くす。そりゃぁ、もちろん分かってるさ。だが……たしかにバッツィの予言めいた言葉は今まで、だいたい的中してきた。けどあそこまでのデカい規模の予言は初めてで、本当に当たるのかどうか疑わしいというかさ」
 そう言いながらデリック・ガーランドは“ペイル・ウルフ”のペグをひねり、弦のチューニングを始める。マホガニー材のボディの上に電子チューナーを置き、それの電源を入れた。それからデリック・ガーランドはペグをひねっては弦を鳴らし、電子チューナーで音程を確認しながら、またペグをひねる、そんな単調な作業を繰り返していく。
 その横で禁酒中のクロエ・サックウェルは、赤ワインの芳醇な香りに身をそわそわとさせながら、アルコールへの欲求を抑えつつ、俯いて黙り込む。彼女は、自分の言っていることがどれだけ常識から乖離しているのかを理解していた。だからこそ、そのことをデリック・ガーランドがすんなりと受けれてくれるはずもないことも分かっていた。
 だって今、クロエ・サックウェルは彼の友人のことを“化け物”のように扱っているのだ。失礼なことをしているのは、言い訳のしようがない事実。
「まあ、その話は措いといて。……クロエ。エリカの母さんに、バッツィを会わせなくて良かったのか? 裏にどういう事情があるのかは知らないが、お前はエリカの母さんに頼まれてたんだろ? それなのに、どうして」
 様子のおかしなクロエ・サックウェルのその姿に、デリック・ガーランドは少し不愉快そうな顔をしている。そんな彼はペグを巻きながら、彼女の顔を見ることなくそう尋ねた。その言葉に、クロエ・サックウェルは正直に答える。
「直感。エリカの母さんに、彼を会わせちゃいけないと感じたの」
「だから、どうしてなんだ。その理由を教えてくれ」
「デリック。信じて、私を」
「バッツィと同じか、それ以上に秘密だらけの女を信じろって?」
 そう言ったデリック・ガーランドは、顔を上げてクロエ・サックウェルを見た。クロエ・サックウェルを見る彼は、彼女と同じ目をしていた。彼女が三十二弦ベースを化け物を見るような目で見ているように、彼はクロエ・サックウェルを化け物を見るような目で見ている。それから彼は、こうも言った。
「俺は、俺に隠し事をする奴が嫌いだ。だが俺はバッツィを信用しているし、友人として好意を寄せている。何故ならばあいつは、誰よりも義理堅いからさ。仕事は早いし正確で、中身を漏らすようなことは絶対にしない。あいつは最高のビジネスパートナーなんだ。だがクロエ、お前はあいつと違う」
「……」
「……なぁ、クロエ。俺は、お前の何を信じればいいんだ?」





 墓地でクロエ・サックウェルとペルモンドが顔を合わせた、その翌日の朝。いつも通りに目覚めたブリジットは、いつも通りにソファーで寝ていたペルモンドの肩を叩き、彼を起こす。そこまでは、いつも通りだった。
 普段なら重たい瞼からは虚ろな蒼い瞳が覗き、彼はブリジットに偽物で空虚な微笑みを向けてくる。だが今朝は違った。ブリジットが彼の肩に触れた瞬間、彼がその手首を掴んできたのだ。突然の出来事に驚いたブリジットが固まっていると、彼の顔がブリジットのほうに向く。珍しく開き切っていた彼の瞳は両目共に緑色で、そして彼が浮かべていた笑顔は悪戯を企む少年のような、年齢には見合わない表情だった。
 今の彼は“ペルモンド”ではない。そんなことはブリジットにもすぐに分かった。すると彼は、ブリジットにこう言ってくる。
「なぁ、嬢ちゃん。いいこと思いついたぜ」
 いいこと思いついた。そう言ってきた彼の顔は、裏で悪企みをしている笑顔。良くも悪くも、好奇心旺盛な子供の無邪気な悪戯のようにも思えるが、その正体は邪悪なんてものじゃない。
「実は、俺さ。行き詰ってるんだ。“ペルモンド”をどう料理するかを」
「……」
「知っての通り、ペルモンドってのはひどい状態だ。もはや人間とは言えない。混乱していて、崩壊していて、意思疎通なんかできやしない。こいつに寄生してる俺ですら、こいつとはまともに会話ができねぇんだ」
「…………」
「そこでだ。……お嬢ちゃん、小説か何かを書いてんだろ? だから、そこからネタを拝借しようかと思ってんだよ」
 じっとブリジットを見つめてくる緑色の瞳は、今この状況を随分と楽しんでいるように見えていた。ブリジットをからかい、そして“ペルモンド”を弄び、遊んでいる。
 ブリジットは返事も出来ずに、固まっていた。この“緑色の目の彼”が何を言いたいのかが、目覚めて間もない頭では理解することができなかったのだ。すると、ブリジットの無言を“緑色の目の彼”は承諾と受け取ったのだろう。
「嬢ちゃんはシナリオを提供する、俺はそのシナリオの通りにこいつを操る。……これで商談は成立、かな」
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