ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ

Split Personality

 西暦四二二〇年、十一月二十八日。アルフレッド連邦共和国、首都特別地域キャンベラの某所。こじんまりとした六階建てオフィスビルの最上階のフロア。その一角で、図体は大きいが性能は今一つなコンピュータと、しかめ面で向き合う少女が居る。
「……ジャックは、ここをこう繋いで、あそこにこれを刺せば、このおんぼろ傍受装置も起動するって言ってたけど。んー……ぴくりとも動かないなぁ。それに……――」
 縦は二メートル、奥行きは八十四センチ、そして横幅は六十八センチ。一基だけでそれほどの大きさがあるコンピュータが、部屋には十五基も並んでいた。びっしりと、すし詰め状態で。
 コンピュータが安置されている部屋ということもあり、寒いぐらいに冷房が効いている室内。ぶつぶつと小声で独り言を呟く少女は、小さな顔には不釣り合いなくらい大きな黒縁メガネのレンズの下から、大きな緑色の瞳を覗かせる。彼女は目をぱちくりとさせながら、真っ黒なコンピュータの壁を見つめていた。
「――こんなボロのポンコツを修理するぐらいなら、私が新しいのを自作したほうが早いような気がしなくもないかも。それに、そっちのほうが今より性能が良いものを作れるわ……」
 独り言を連ねる彼女の足元には、様々な工具が散らかっている。奇抜でファンキーなステッカーたちで彩られた、年季の入った両開きタイプの工具セット箱。ペンチとスパナとニッパー、モンキーレンチに小さな六角レンチ、ソケットレンチ、それから大きさも太さも長さもまちまちなネジの山に、ありとあらゆる太さと形が揃えられたドライバーたち。それにポンチやハンマー、バール、半田ごてと半田の束に、細い金属製のスパチュラなどなど……――DIY好きのおじさんも驚く、若干十六歳にしてプロのエンジニア顔負けのメカニック少女がそこには居たのだ。
 そんなメカニック少女の服装はというと、無地の白いTシャツに、裾や膝は擦り切れて所々色落ちの目立つジーパンという、なんとも年齢に見合わぬ素朴で質素な身なりをしている。そして彼女は何の面白みもない真っ黒な髪ゴムで、セミロングの栗色の髪を後頭部でポニーテールに束ねていた。
「マダムに要相談だなぁ。それに作るとなったら、予算案も出さなきゃ。あーあ、やることいっぱい……」
 目の前にそびえる黒い壁の修理を諦めた彼女は、そう呟きながら欠伸交じりに伸びをした。すると、そのとき彼女の後ろにもくもくと黒い煙が立ち上り始める。やがて煙は人影に変わり、そして黒いサングラスを装着したマダム・モーガンが姿を現したのだった。
「グッドイヴニング、アイリーン。のんびり欠伸なんかしてるけど、おんぼろ装置の修理は順調なのかしら?」
「わっ、マダムッ?!」
 突然目の前に現れたマダム・モーガンに、アイリーンと呼ばれた少女は悲鳴のような吃驚の声を上げた。
「脅かさないでください、マダム・モーガン。いきなり現れて……恐怖しかないですよ」
「申し訳ないけど、慣れてとしか私には言えないわ。空間転移をしたほうが、足で歩くよりも飛行機に乗るよりも早いんですもの」
「――……どういう仕組みなんですか、その空間転移って」
「高エネルギーを瞬間的に爆発させ、収束させる。そうすることによって一瞬だけ生まれる強力な磁場が次元の壁を歪ませて、歪みがほつれを生み、次元の壁に小さな穴をあける。それから……――まあ要するに、九次元より上の世界に出るのよ。あとは直感と感覚、慣れ。つまり下等な生物にはできない技ってことよ」
 そう言うとマダム・モーガンはうんざりとした溜息を吐き、着けていたサングラスを外して、それを羽織っていたスーツの胸ポケットに入れた。
 すると、マダム・モーガンは肩幅に足を開いて腕を組む。それから彼女は、アイリーンと呼ばれた少女にこんな言葉を投げかけた。
「そんなことより、仕事の話よ。アイリーン。あなたは、彼をどう思った?」
「彼……って、誰ですか」
「オペレーターとしてのあなたの素質と力量を計るために、課題を出したでしょう? 枯草色の髪で、赤縁の丸眼鏡を掛けた若い男の名前を突き止め、その人物に関する簡単な所見を出しなさいと、そう命じたわ。もの好きなジャック・チェンのポンコツマシンの面倒を見ているくらいなんだから、その課題はもちろん終了しているんでしょうねぇ、アイリーン?」
 “枯草色の髪で、赤縁の丸眼鏡を掛けた若い男”とは、あの男。ペルモンド・バルロッツィという男の家に居候し、今は静かなひとり暮らしを満喫している苦学生のことである。
「あぁ、ええ、はい。終了してます」
「そう。それじゃぁ、アイリーン。始めて」
「……始める?」
「あなたは彼について、何をどう思ったのか。意見を述べなさい。簡潔にね」
 なぜ、マダム・モーガンが彼に関心を示したのか。その理由は、ペルモンド・バルロッツィという男に近しい存在であるから、というだけではない。というよりも、マダム・モーガンは彼そのものに興味を抱いていたのだ。
「イエス、マム。えっと……やっぱり彼は北米人なんで、同じ英語でもイントネーションがこっちとは随分違っていて聞き取り辛いなぁ、と感じました。濁ってとろみを帯びた川の流れみたいな、全部が繋がっていて早口で、文節が分からない喋り方というか」
「彼は北米人だもの、仕方ないわ。それに私からすると、あなたが話す英語のほうが聞き取りにくいわよ。省略ばかり、若者言葉ばかりで、おばあちゃんには理解不能だわ」
「あっ、ごめんなさい。……そういえば、マダムの英語はすごく聞き取りやすいですよね。グレートブリテン島の公共放送のアナウンサーみたいで」
「それはありがとう。だけどアイリーン。話が脱線しているわ、本題に戻してちょうだい」
 コツ、コツ、コツ。マダム・モーガンは靴のつま先で床を叩き、一定間隔のリズムを刻む。急かすような靴のビートに寒気だつアイリーンは、慌てて話を本筋に戻すのだった。
「あっ、はい。その、えっと……――彼の本名は、シスルウッド・アーサー・マッキントッシュ。母親は獄中で自害したスプリーキラーで、父親は刑事事件が専門の元弁護士。彼は複雑な血筋にコンプレックスを抱いているようですし、現在の家族関係は良好なものであるとは言い難いでしょう。異母兄弟の兄とは、特に犬猿の仲であると思われます。それと彼は現在、小汚い古びたダイナーでウェイターとして働きながら、暗号考古学の博士号取得を目指している苦学生であるように思えます。あと……」
「箇条書きで並べられるような、対象人物の来歴には興味がないわ。私が求めている情報は、彼についてあなたはどう感じたのか。分かるかしら、この意味が」
「彼について、どう感じたのかって言われましても……――」
「私が知りたいのは、対象人物の人となりについて。データベースで検索を掛ければ、すぐに掴めるような情報には興味がない。つまり、心を探れと言っているのよ。だから、聴かせて頂戴。あらゆるデータから浮かび上がってきた人物像にあなたが抱いた、率直な感想を」
「つまり、精神分析ですか?」
「精神分析は、ジャスパー・ルウェリンの仕事よ。あなたの仕事は、オペレーターとエンジニアを合わせたテクニカルサポートであり、将来的には現場に出る隊員たちの管理官となる人材よ。あなたは誰よりも情報を掌握していなければいけないうえに、局面に応じて柔軟に対応できるようにならなければいけない。そしてこれはテストで、私が訊ねたことは難しいことは何もない、いたってシンプルな質問。下手な深読みはしないで、正直に思ったことを言えばいいだけのことよ」
 マダム・モーガンが鳴らしていた、靴のビートが止まる。アイリーンは一度呼吸を整えると、こう言った。「……貧しい庶民、それもどちらかといえば低所得層に交じって働いている彼ですが、上流階級の育ちだというプライドをどこか捨てきれていないように感じました」
「具体的には?」
「品のない客や、教養のない同僚たちに向けられる彼の視線は、同情的で且つ侮蔑的のような……。あと彼は、思ったことと正反対の言葉を口にしているように思えるんです。北米人でありながらも、回りくどいことを言うブリテンの上流階級の人みたいな、そういう雰囲気。本音と建前を使い分けているというか、だからこそ本心が探れないというか……。笑顔の裏で、何を考えているのかが分からない人だな、と。監視カメラの映像や、テキストデータからは、そう感じました」
「そう。……初めてにしては、上出来よ。及第点をあげるわ、アイリーン」
 マダム・モーガンはそう言うと、今日初めての笑顔を浮かべた。アイリーンはその笑顔に、ほっと胸をなでおろす。
「それじゃ、今後も抜き打ちであなたにテストを行っていくから。いざという時に備えて、オペレーターのフェデラーに色々と技術を教えてもらいなさい。ルウェリンからも、話を聞くといいわ。それと、チェンの焼きが回ったポンコツマシンは、放っておいて構わないから」
「あっ、マダム。それで、ひとつ質問が……」
「なにかしら」
 気まずそうな表情を見せたアイリーンが指差すのは、部屋の片隅に置かれた巨大なトローリーバッグ。鳥肌が立つほど肌寒い部屋の中で、そのトローリーバッグは氷水の入った金盥の中に入れられており、さらに冷やされていた。
「あのトローリーバッグ、何が入ってるんですか? もし必要があるならば、地下本部のワクチン貯蔵庫を一部空けて、冷凍保存に……」
 あのバッグは昨晩、マダム・モーガンが持ってきたものだ。彼女はバッグの中身について特に何も話していない。だが。トローリーバッグごと氷水に浸すだなんて……――彼女はよほど中身を見られたくないのだろうか。
 それにアイリーンはトローリーバッグの中から、不気味な気配を感じていたのだ。
「まさか……ですけど。マダム、あの中身が死体だなんてことは……」
「死体じゃないわ。まあ彼の心臓は止まってるし、血液が二分の一ほど失われているけど、蘇生させることはできるし。これからコールド・スリープに回して、保存する手配を進めているところよ」
「えっ」
「あの中身は、黒狼に奪われた私の弟。彼を黒狼から引き剥がすには、ああするしかなかったのよ。彼を殺したと思わせて、黒狼に新しい器を用意するしか……――」
「えっ、あっ……ちょっと待ってください、マダム。ということは生きている人を、あのトローリーバッグの中に詰め込んでいると。それじゃあ今必要なことは、あの中から出して救護班を呼ぶことでは……――」
「いいえ、あの中の体は生きていない。生き返らせる予定がある、というだけ。死体ではないけど、生者でもない。だから、冷凍するのよ」





『君は本当に、後悔しないんだね?』
 久し振りに顔を合わせた父の旧友である男――アルフレッド連邦共和国空軍、バーソロミュー・ブラッドフォード大将――は、ブリジットにそう問うた。
『後悔なんて、まさか。私は、ただ彼の安否を知りたいだけで……――!』
『実を言うとこうして君を迎えに来たのは、マダム・モーガンが君を指名したからなんだ。マダム・モーガンというのは』
『マダム・モーガンという女性なら知ってますわ、バーツおじさま。彼女に会ったことがありますもの』
 折れた左腕を三角巾で吊るしたバーソロミュー・ブラッドフォードは、左の脇腹を時折かばうような仕草を見せながらも、ブリジットの前ではつとめて気丈に振舞っていた。だがそんな彼の態度も、ブリジットのその言葉で一変した。
『そうなのか、ブリジット。彼女を、知っているのか。……君も、壮大なゲームのプレイヤーの一人となってしまったのだな』
 バーソロミュー・ブラッドフォード。彼は国に、そして空軍に人生を捧げてきた男だった。
 故に、彼に私生活らしい私生活はない。連れ添うと決めた伴侶もなく、となれば子供もない。色恋に現を抜かしたことさえ、一度もない。両親は既に病で他界しており、親類とも疎遠であり、弟も二十年以上前に戦地で亡くしていた。親しい間柄の友人といえば、脳神経内科医の変わり者リチャード・エローラだけ。そんな彼にとって、友人リチャードの一人娘であるブリジットは、どこまでも愛おしい姪っ子のような存在だった。
 お転婆娘で、しょっちゅう両親の手を煩わせていた少女ブリジット。だがそんな時間は、疾うに過ぎていたようだ。
『物好きな友人から、彼女のうわさは聞かされました。それに彼女を、この目で見たんですもの。どういう人物であるかは、察しがついてますわ。それに私は、彼を迎えに行きたいだけなんです。彼との約束を、守らなきゃいけないんです……』
 彼の目の前に居たブリジットは、もう少女ではなかった。まだ大人には成り切れていないものの、立派な若者に育っていたブリジットが、そこには立っていた。
『バーツおじさまも、彼を見たんですよね? なら、分かっているはずです。彼、身も心もボロボロなんです。そんな状態で連れ去られて、なぜかロンドンの空襲に巻き込まれて、大怪我を負っただなんて……。それでいて今は、知らない土地に一人で居る。私がもし彼と同じ境遇に置かれたとしたら、とてもじゃないけど耐えられないわ。だから、私も行きたいんです。イーストセールに、連れて行ってください』
『もう一度訊く。君は本当に、後悔しないんだね。彼が、どのような状態であっても』
『生きているなら、それでいいんです。後悔なんてするはずがありません。二度と会えないことを想像するほうが、私にとってはよほど恐ろしくて堪りませんわ』
『彼が、人間でなくても……か?』
 バーソロミュー・ブラッドフォードのその言葉に、ブリジットは何の返答もしなかった。それは言葉に詰まったわけでも、思案を巡らせていたわけでもない。必要な言葉はもう言い切った、これ以上は何も言うことは無いという、確固たる覚悟を示した無言だった。それも彼女が、彼の言葉を曲解して捉えていたからだ。
 バーソロミュー・ブラッドフォードが言った『人間でない』という言葉は、そのままの意味。だがブリジットは、その言葉を暗喩だと捉えたのだ。擦り減った精神で、健全な人間らしい営みが出来ない状態に陥っているのだと、そう考えたのだ。
 だからブリジットは無言で、彼に伝えたのだ。後悔は絶対にしない、と。
 だがその覚悟は、早くも揺らぎかけていた。
「本当に、生きてるんですか。彼、こんなにも包帯でぐるぐる巻きに……」
「見てのとおりよ、生きているわ。呼吸をしているでしょう?」
「…………」
「体内から摘出された弾丸は十八発。幸運なことに、どれも致命傷にはならなかった。火傷も、どれも軽いものばかり。それに今は、私が魔法のようなもので眠らせているだけ。私が指をパチンと鳴らせば、すぐにでも目が覚めるわ」
「目が、覚めたとして。彼は、どうなってるんですか」
「耳は活きている、それだけは確かよ。けど、それ以外の全ての感覚は機能を失っている。詳しいことは、検査してみなきゃ何も分からないわね。でもきっと、彼は検査を拒否するでしょう。自分の体の中を探られて、脳を調べられる。異常がないか、もしくは特殊な能力を持っていないのか、とか」
 太平洋に浮かぶ大陸国家、アルフレッド連邦共和国。ビクトリア州、イーストセール空軍基地区域内。司令部施設内の応接室に、ブリジットは案内されていた。そこでブリジットを待ち構えていたのは、サングラスで目を隠したマダム・モーガン。そして彼女の後ろには、ソファーに寝ていた怪我人の姿があった。
「誰だって嫌と感じるものよ。患者として扱われるならともかく、自分自身を検体として扱われることなんて。耐えがたい屈辱でしかない。あなただって、きっとそう感じるはず。そうでしょう、ブリジット?」
「……ええ、そう思います」
「なら、あなたが父親を説得して、研究をやめさせなさい。でないとこの私が出動することになるわよ? それはあなたも望まないでしょうし、バーツも望んでいない結末だわ。無論、私も望んでいない。死んだ魂を刈り取るのだけでも面倒な作業なのに、まだ死んでもない生者を刈るだなんて……――手間でしかないわ」
 マダム・モーガンは穏やかな笑みを口元に浮かべ、とても穏やかな声色で冗談を口にするように、冷酷な脅しの言葉をブリジットに向けて放った。マダム・モーガンの目はサングラスに隠れてブリジットには見えやしなかったが、ブリジットには分かっていた。マダム・モーガン、彼女がブリジットに対してどこまでも冷たい視線を向けていることを。
「父を、必ず説得しますから。ですから、マダム・モーガン。どうか……」
「あのね、私はたしかに死神よ。けれども、冷酷無情な殺戮者じゃない。これでも無益な殺生は何よりも嫌いなのよ」
「ならどうして、あんな台詞を」
「それが、私に与えられた役だから。それだけの話よ。そして、私個人が言いたいことはひとつだけ。身内の手綱も握れない人間に、彼のような特殊な存在は預けられないってこと」
 ブリジットの前に、仁王立ちで立ちはだかるマダム・モーガンの後ろ。黒革のソファーの上で横になっている怪我人は、ペルモンドだった。彼は頭から下腹部までを包帯とガーゼでぐるぐる巻きにされた姿で、眠りこけていた。そんな彼の肩や胸はゆっくりと上下を繰り返しており、呼吸をしていることは伺える。しかしブリジットは、彼に近付くことすらままならなかった。何故なら目の前に立ちはだかるマダム・モーガンが、それを許さないからだ。
 マダム・モーガンは自身を、ペルモンドの姉貴分だと称した。しかしブリジットの目にはマダム・モーガンが、新妻への風当たりが強い――余計なお節介を焼いて、かわいい息子から虫を払おうとしている――姑としか映っていなかった。
「そもそも、あなたに彼は不釣り合い。彼は飼い主に従順なシベリアンハスキーじゃない。彼は、バーシャクなのよ」
「……ば、バーシャク?」
「今は亡き私たちの故郷の言葉で、ハイタカのことよ」
 だが、近付けないのにはもう一つの理由があった。ブリジットが、彼に近付こうとしていないからだ。
「ハイタカは神経質で、人間と喧騒を嫌う孤高の鷹。そして彼に必要なのは、彼の全てを受け入れてくれる寝床ではない。でもこうして人に慣れてしまった以上、彼には飼い主が必要よ。けれども必要な飼い主は、愛玩動物として彼を愛でてくれる人ではない。ましてや番いなんて、以ての外」
「…………」
「彼に必要なのは、互いに利用し利用される関係。捕らえるべき獲物を指示してくれる人間であり、平原や砂漠において止まり木の代わりとなる存在。つまり鷹匠のこと。その鷹匠は、少なくともあなたじゃないわ」
 痛々しい姿の彼を見つめるブリジットの頭の中を今、ある言葉が支配していた。それは彼女が飛行機に乗る前、バーソロミュー・ブラッドフォードが彼女に向けて言った言葉。
『彼が、人間でなくても……か?』
 彼を目の前にして初めて、ブリジットはバーソロミュー・ブラッドフォードの言葉の意味を理解した。シルスウォッドから伝え聞いたキャロラインの言葉も重なり、さらにキャロライン本人から聞いた言葉も重なる。そうしてひとつの仮説を組み立てた途端、全てが恐ろしく思えたのだ。
 あの包帯男は、ペルモンドなのだろうか。包帯男の正体は偽物で、それも人間のように見える化け物ではないのだろうか。……そんな気が、ブリジットにはしていたのだ。
「鷹匠? そんな都合のいい人が、居るわけが」
「居るわ。けれども、あなたは知らなくていい。全てが計画通りに進んだ未来に、あなたはいないのだから。残念ながらね」
 そもそも、ペルモンド・バルロッツィという名前の男は人間だったのだろうか。
「よく聞きなさい、薄命のお嬢さん。彼の過去をすべて知り、そして彼に理解を示せば、仲良くなれる。そんな安直な考えで、簡単に手に入る存在だと思わないで頂戴。それにあなたは、彼を傷付けるだけなのよ。そして彼は、あなたに悲劇をもたらすだけ。どちらにとっても、不幸でしかない。だから」
 だが、そんなことを考えてどうする?
 正解など、見つかりっこないというのは分かり切っているのに。
「そんなこと、どうでもいいんです! 私は、彼と約束した。彼の傍に居ると。あなたが死神なのか人間なのか、そんなこともどうでもいい。けれども、これだけは言えます。あなたに何を言われようと、私は!」
 苛立ちを募らせたブリジットが小さな爆発を起こしたそのとき、マダム・モーガンが指をパチンっと鳴らした。その瞬間、なにかの呪縛が解けたようにソファーの上の人影が目を覚ます。包帯でぐるぐる巻きにされた顔の、包帯の隙間。そこから蒼い瞳が、こちらを覘く。するとマダム・モーガンが笑いながら言った。
「約束とか、誓いとか。そんなくだらないもので自分の首を縛りあげて、自ら死を選ぶってことね。俗に言う純愛ってやつなのかしら。おばあちゃん、その奉仕の精神に感心したわぁ。あなたは大アルカナの十二番目のカード、それも逆位置ね」
 包帯の隙間から覗く半開きの目が、挙動不審に動き回る。そして一瞬だけ、その視線がブリジットと重なった。その瞬間ブリジットはなんとも喩えようがない気持ち悪さが、背中から這い上がってくるのを感じた。
 草むらに気配を消して潜む、血に飢えた狼と目が合ったような、そんな気がしたのだ。
「……これだから、青臭いガキとお人好しは嫌いなのよ。クソ小説家ダニエル・ベルと、その能天気でお気楽な娘イライザを思い出させるんだから。それとグリドフに、ヤヨイ・クレヅキ……」
 ぼそぼそと、小声でそう呟いたマダム・モーガン。その言葉を、ブリジットは聞いていない。彼女の意識は、ペルモンドの蒼い目に囚われていたのだ。
 マダム・モーガンは溜息を吐き、笑顔をうんざりとした表情に変える。そうして舌打ちをするマダム・モーガンは、ブリジットに言った。
「好きになさい、お嬢さん。私は、警告したから。健闘を祈っているわ。――……バーツ! 輸送機の手配を。ベッドフォード飛行場に連絡も入れて。お嬢様と猟犬を、自治州に帰すのよ」
 そうしてマダム・モーガンは、煙のように姿を消す。ブリジットは無言で、その場に佇んでいた。
「…………」
 すると消えたマダム・モーガンと入れ違うように、バーソロミュー・ブラッドフォードが応接室にやってくる。三名の、部下らしき屈強な軍人たちを侍らせたバーソロミュー・ブラッドフォードは、ぼうっと立ち尽くしていたブリジットの肩に手を置くと、彼女を現実に引き戻した。
「ブリジット、もう用は済んだだろう」
「……バーツおじさま」
「私のデスクには、今日中に片付けなければならない書類が山のように溜まっていてね。君に付き添うことはできない。だが、この基地の飛行場までは案内をしよう。さあ、付いてきなさい。そこの彼は、私の部下に……」
 そこに秘書と思しき制服の女性が、空の車椅子を押してやってきた。だが彼女は押してきた車椅子を軍人の一人に託すと、バーソロミュー・ブラッドフォードに軽く一礼をしてから、そそくさとその場を後にしてしまう。そんな女性の去り際の顔には、何故だか嫌悪が満ちていた。そして車椅子を託された軍人の男性も、眉間にしわを寄せて険しい表情を浮かべている。
「ウェバー准尉、彼を輸送機まで連れて行きなさい。彼女と共に、無事に送り届けるように。……拘束衣の使用等、道中の判断は君に一任するが、全ての責任は私が負おう。頼んだぞ」
 意味ありげなバーソロミュー・ブラッドフォードの言葉の後、軍人たちの冷たい視線が一斉にペルモンドへと向けられる。そして未だ一言も言葉を発さぬペルモンドは、生気の抜けきった虚ろな目で“何か”を視ていた。
「…………」
 特異な空気感の中、蚊帳の外のような扱いを受けるブリジットは、息を殺して父の友人である男の背中を見つめていた。それからブリジットは、屈強な軍人たちを見る。ウェバー准尉と呼ばれた壮年の男性。それと三十歳手前ぐらいの若い男性と、二十代半ばと思われる若い女性。三名とも険しい表情をしていて、彼らは目の奥で嫌悪と恐怖が綯い交ぜになった感情を焦がしていた。特に若い女性が示す殺気は、瞠目すべきものがあった。
 そして軍人たちの視線は、全てペルモンドに集約されている。対して、憎しみに満ちた視線を一身に受けるペルモンドは、目には見えない彼らの視線に少なからず怯えているようにも、ブリジットの目には見えていた。
「……あの、バーツおじさま」
「では行こうか、ブリジット。あまりパイロットを待たせるわけにはいかないからね」
「ペルモンド。彼は、何をしたんですか。どうして皆さん、彼をそんな目で見ているんですか。おじさまも、拘束衣がどうのって……」
 ブリジットが震える喉で、ようやく絞り出したその言葉。すると若い女性のこめかみに青筋が入る。と同時に何かを察した若い男性が、女性に無言で制止を求めた。が、女性は制止を振り切った。そして軍人である彼女は、華奢で何も知らないお嬢様のブリジットに向かって啖呵を切った。
「お嬢様。アンタは、ロンドンで何が起きたかを知らないからそう言えるのよ! あの男は、人の皮を被った餓狼よ!!」
「落ち着け、イーノック伍長!」
「アガタ・オットー、キャンディス・ヴァーノン、クインシー・サイラス・ゴズリング、シャルル・バザン、マイルズ・サウスゲート! 私の部隊は、あの狼に殺されたのよ!! だから私が、あいつに銃弾をぶち込んでやった。なのに、どうして生きてるのよ?!」


+ + +



「教えてくれ、マダム・モーガン。あの狼は、何なんだ!!」
「血飢えの黒狼、ジェド。ウルフだけど、ハウンド猟犬なのよ」
 歪に曲がった左腕をだらりと力なく垂らすバーソロミュー・ブラッドフォードは、黒衣の死神に怒号を上げ、問い質した。そんなバーソロミュー・ブラッドフォードの後ろには、無残な有様の殉職者たちが積み上げられている。
 仕事を終え、ケルト海の上空を飛ぶ空軍輸送機の中には、死のにおいが満ちていた。
「我が国の兵士たちまで手に掛けるとは、聞いていないぞ! そもそもこの作戦は、連合王国の補給の要、ブライズ・ノートンの基地を落とすだけのはずではなかったのか。そして猟犬の役目は、ノースウッドの三軍統括司令本部に乗り込み、本部のシステムをダウンさせ、指揮系統を狂わせることだけだったのでは? 司令本部に待機していたセジウィック元帥の首を討ち取った挙句、ロンドン市街地で民間人を巻き込んだ殺戮を繰り広げるなど、言語道断も甚だしい……!!」
 座席に縛り付けられ、身動きを封じられたバーソロミュー・ブラッドフォードは、自分を縛り付けたマダム・モーガンを黒い瞳で睨んでいた。怒りなどという短い言葉では到底片付けられない激情を滾らせ、顔を耳まで赤く染め、白々しい態度をとる死神に彼は食い下がる。するとマダム・モーガンは、顔を顰めさせる。彼女は冷淡な声で言った。「大統領命令で、急遽計画が変わったのよ」
「軍事作戦が、大統領の一声で内容が突然書き換えられることなどあり得るはずが」
「今までは違った。陸海空の三軍の大将たち、それと国防長官の承認を経て、さらに両議会において全会一致で採択されない限り、軍事作戦は決行できなかった。でも例外の前例が出来た。それだけのことよ」
「マダム・モーガン! これは、貴殿が全て仕組んだことなのだろう?! 現大統領が貴殿の傀儡であることなど、私はとっくに」
 バーソロミュー・ブラッドフォードがそう声を荒らげたとき。マダム・モーガンが装着していたサングラスを投げ捨てるように外し、輸送機の床に叩きつける。プラスチックが欠ける耳障りな音が鳴り、真っ黒のレンズにヒビが入った。そしてマダム・モーガンは、瞳孔のない蒼い瞳でバーソロミュー・ブラッドフォードの黒い目を見つめる。彼女も、声を荒らげさせた。
「ええ、そうよ。アルフレッド・ミラー大統領は、マダム・モーガンの傀儡も同然! そして私も、マダム・モーガンという名前の傀儡でしかないのよ!!」
「……」
「私なんて、元老院という見えざる手に操られた、空っぽの人形よ。私も猟犬と同じ。私の仕事は、猟犬の援護と尻拭いってだけ。私だって、こんなことやりたくてやってるわけじゃないわよ!! 今も、昔も……」
「ならば、なぜ!!」
「私はあなたたちと違って、もう人間じゃないのよ! 自由なんてない。雁字搦めにされて、命令に逆らうことを許されないの。逆らえば、私の代わりにあの子が罰せられるのだから……」
 ぶつけどころのない怒り、終わらない悲しみ、絶え間なく襲い来る遣る瀬無さ。そんな感情を顔に滲ませ、強張った表情をさらにきつくするマダム・モーガンは、死体の山の脇に置かれた大きなトローリーバッグを指差す。マダム・モーガンは言葉をピリピリと緊張感を纏った刺々しい口調で、話を続けた。
「私は私の主人に、自由意思と名前を奪われた。残されたのは、奇しくも私が死ぬ原因となった、あの子に対する執着心だけ。そして元老院から新たに与えられたのは、死神という役目と、埋めることができない心の空白、それと空白に起因する絶望よ……!」
「……」
「二千年以上、私は耐え続けてきた。大人しく元老院に従って、従順な奴隷を演じ続けた。それなのに、元老院は私を裏切ったのよ! あの子は、狼に身体を捧げるためだけに生まれきた生け贄だって。……そんなこと、許せるはずがない。それでも、従うことしか私には出来ないのよ……」
 次第に彼女の声からは緊張感が抜けていき、代わりに喪失感が増していく。普段の自信ありげな不敵な態度からは想像もできないような、同一人物とは思えないマダム・モーガンの姿が、そこにはあった。
「私にできる最大限の抵抗は、彼の中から魂を抜き取ること。それと黒狼に、別の器を与えることだけ。……でも、どれも中途半端に終わったわ。彼の魂はバラバラに砕けていて、持ち出せたのは一握りだけ。ジェドは意地でも、彼の魂を掴んで離さなかった。それにジェドは、いつか必ず気付くはず。脆い複製の身体は保って数十年が限界で、本物のほうが比べ物にならないほど優れていると……」
 バーソロミュー・ブラッドフォードはついに、言葉を失った。彼女に何を訊ねたところで、正解に至ることはないと気付いたからだ。何故ならば、彼女さえも正解を知り得ないのだ。黒狼が何なのか、なぜ作戦の内容が変更されたのか、どうしてここまで甚大な被害が出てしまったのかを。
「あの黒狼をコントロールできるものなんて、存在しないのよ。大統領命令なんて、大嘘。すべて黒狼が、その場の思い付きで動いた結果に過ぎない。そして全ては、元老院の思し召し。彼らが、黒狼の解禁を望んだのよ。その理由は、私には分からないけどね」
 顔を俯かせたマダム・モーガンは、太いアイラインの引かれた両の瞼を閉ざす。閉じた瞼の隙間から、黒色を帯びた涙が一筋、彼女の頬を伝っていった。





『詳しいことはまだ何も分かっていないようですが、信用できる情報筋から聞いた話によると、連合王国元帥トリストラム・セジウィック氏が混乱に乗じて暗殺されたようです。犯人は特定されておらず……――』
『世界中で物議をかもしているロンドン空襲騒動。その原因となったアルフレッド連邦共和国空軍において、内紛が発生していた模様です。匿名のリークによると、トロイ・ルーズベルト将軍が作戦内容を……――』
 本当か、嘘なのか。それすらも分からない情報が、ありとあらゆるメディアを通じて世界に流れる。ブリジットはその様子に、既視感を覚えていた。アバロセレンのときとまるで同じだ、と。
 あのとき。世界中の報道機関は、嘘の情報をさも事実であるかのように流した。そして今や、嘘が真実となってしまっている。だからこそ、此度起きたロンドンの空襲に関する報道も、ブリジットは一切信用していなかった。どうせ嘘に決まっている、と。
「はい、エローラです。……あら、バーツさん! お久しぶりですわ。どうなさいましたの? 主人なら、今は勤務先に……――リチャードじゃなく、ブリジットに用がある?」
 母のリアムが受け取った、バーソロミュー・ブラッドフォードからの一本の電話。その電話をきっかけに、ブリジットは壮大なゲームに巻き込まれることとなった。本人さえも、気が付かぬうちに。
「ブリジット、おかえりなさい!」
 ベッドフォード飛行場に着くと、そこでは母のリアムと、サングラスを掛けたマダム・モーガンが待っていた。滑走路に立ち、横に並んでいた二人の間には険悪な雰囲気のようなものは見られず、逆に意気投合したかのような穏やかなムードさえ漂っていた。
 輸送機から降りたブリジットは、マダム・モーガンの姿を見るなり表情を強張らせた。そしてブリジットが浮かべたのは、引き攣った笑み。するとそんなブリジットに、母が心配そうな顔をして駆け寄ってきた。
「長旅、疲れたでしょうに。さぁ、ブリジット。早く家に帰りましょう。お父さんとも、そろそろ仲直りしてね。そういえば昨日、シルスウォッドくんからうちに電話が掛かってきてね。あなたに話があるから会いたいって言ってたわよ。明日、お昼に大学のいつもの場所に来てくれって。あと」
「母さん、分かったわ。あとでゆっくり話を聞くから。それよりもペルモンドが……」
 ブリジットがそんなことを言うと、マダム・モーガンが動いた。彼女は機体後尾から地面に垂れるスロープを上り、ドロップゲートから輸送機の貨物室内に乗り込む。そして貨物室の奥から、彼女はペルモンドを連れて戻ってきた。
 マダム・モーガンが滑走路に降りると、すぐさまスロープが畳まれ、輸送機は離陸準備に入る。すると飛行場の職員が駆け足でやってきて、一同を滑走路の外に誘導した。
「ここは危険です、私について来てください!」
 イーストセール空軍基地を発ち、途中に北米合衆国カリフォルニア州メアリーズビルを経由して、ボストンのベッドフォード飛行場に到着するまで、およそ二十四時間のフライト。その間、ブリジットは同じ機内に居ながらも、ペルモンドと会話を交わすことはなかった。
 イーストセール空軍基地で輸送機に乗った、あのとき。ドロップゲートが閉まった直後、乗り合わせていた士官たちが一斉に動いたのだ。ブリジットは若い男性士官に、座席に座ったままでいるよう言われた。シートベルトを着用して、動かぬようにと。
 それから男性士官は、ペルモンドにも同じ言葉を告げた。そして男性士官は拘束衣を取り出すと、それをペルモンドに着せ付けた。次に男性士官はバンダナを丸めると、丸めたバンダナをペルモンドの口の中に押し込んだ。それから彼は、もう一つのバンダナを手に取ると、それを短冊状に細長く折り、バンダナをペルモンドの口に噛ませるよう巻いて、両端を彼の頭の後ろで縛った。簡易の猿轡だ。
 なぜ、そんなことをする必要があるのか。ブリジットは士官にそう尋ねた。すると、座席に足を組んで座っていた、女性の士官が言った。
『暴れるからだ。それに、舌を噛み切られて死なれちゃ困るからね。お嬢様だって、あそこの狼に殺されちゃたまらねぇだろ?』
 女性士官はそう言いながら、乾いた笑い声を立てていた。彼女の目にはペルモンドへの憎しみが煮えたぎったままで、それが収まる気配は、少なくとも二十四時間のフライトの中では感じられなかった。
 そうしてペルモンドの拘束が全て解かれたのは、着陸してからのこと。ほんの、つい十数分前の出来事なのだ。その間、彼が暴れるようなことは一切なかった。悪態を吐くこともなく、ましてや何かしらの意思表示を見せることもない。全てが他者にされるがままで、自分からは何もしなければ動くこともしない彼の姿は、店員に担がれて店頭に運ばれるマネキン人形を彷彿とさせた。
「ブリジット、大丈夫なの? ぼうっとしてるみたいだけど」
 飛行場の職員に案内され、利用客向けの駐車場に到着したとき。ブリジットの顔を覗き込むように見ながら、母は娘にそう尋ねた。機内での出来事を思い出し、意識がどこかに行きかけていたブリジットは、はたと自我を今に取り戻す。困ったような笑みを浮かべて、ブリジットは母に言った。
「久し振りの飛行機と長旅で、ちょっと疲れただけよ。私は大丈夫。だけど、ペルモンドのほうが」
「狼くんならたった今、モーガンさんが連れて行っちゃったわよ。ほら、あそこの黒塗りの高級車」
 そう言った母が指で指し示した先には、エンジンをふかす黒塗りの高級車があった。そしてたった今、黒塗りの高級車が発進し、駐車場を去っていく。そうして母は去り行く車のお尻に手を振りながら、ブリジットにこう言った。「さてと、帰りましょう。駅まで徒歩よ」
「えっ、車じゃないの」
「……お母さんはね、車の免許を持ってないのよ。あなたも知ってるでしょ?」


+ + +



『何か言ったらどうなの、この化け物が!!』
 覚えがなかった。何もかもに対して。
『そうだ、そうだ! もっとやれ、イーノック!』
 怒号。蔑み。罵倒。
『アタシたちの仲間を殺した狼が、アンタに姿を変えたところを、この機内に乗っている奴ら全員が目撃してんだ! 説明しろって、そう言ってんだよ!!』
 それより、ここは何処なんだろう。
『大将の懐刀だかなんだか知らねぇが、俺たちはてめぇを仲間だとは認めちゃいねぇんだ。そんな野郎が……――』
 ――……けれども、何もかもが他人事のようで。
『謝れ、謝れよ!! お前に殺された俺たちの仲間に、謝れ!!』
 もはや、自分が誰であるかすら、どうでもいい気がしていた。





 イーストセール空軍基地を後にし、ベッドフォード飛行場から自宅に帰ったあと。母のリアムはブリジットに、異国の地で何があったのかを訊ねてくることはしなかった。同様に父のリチャードも、先日の配慮のない行いに対する反省を見せただけで、何かを根掘り葉掘り聞くことすらしなかった。自分の友人であるバーソロミュー・ブラッドフォードがどうしているのかさえも、聞いてこなかったのだ。
 それでいて家の中の空気は、何かがおかしかった。ブリジットには正体の分からない、妙な緊張が張り詰めていたのだ。
「……それで、シルスウォッド。話しってなんなの?」
 なんとも言い表せない違和感と共に一日を終えたのが、昨日のこと。束の間の非日常から、学生という日常に戻ったブリジットは、昼休みの合間を縫って大学構内の蔵書館に来ていた。
 そこでブリジットを待っていたのは、蔵書館の常連である友人シルスウォッドだった。
「実は僕も、マダム・モーガンと会ったんだ。彼女、本当に黒ずくめだったね」
 いつもどおりの人の好さそうな笑顔を浮かべるシルスウォッドは、ブリジットにそう告げた。しかし彼の声色に緊張感は見られず、興奮している様子もない。
「えっ。あなたが、どうして」
 彼の様子が、あまりにも普段通りすぎて。却ってブリジットは違和感を覚えていた。
「彼女がうちに来て、ペルモンドを置いていったんだ。それから、一通りの忠告を」
「忠告?」
「忠告っていうか、取扱説明みたいな感じだったよ。ペルモンドのことは人間じゃなくてトカゲとか、そういう変温動物と思って接しなさい、とか」
 嘘なのか、本当のことなのか。……落ち着きを払っているその姿が、マダム・モーガンという人物と会った後の姿には、とてもじゃないが思えなかったのだ。
「どういうことよ、それ。彼がトカゲですって?」
「そうカッカするなって、ブリジット。体調の話だよ」
「…………」
「汗腺の機能が著しく落ちているうえに、本人は自分の体温が分からないし、刺激も感じられないとかで、周囲の人間が徹底的に管理してやらないとダメだっていう話さ。そういう方面には、僕よりも君のほうが明るいだろう?」
「……まあ、そうね」
「どういうことがあって、そんな状態になったのかは知らないし、僕には予想もできないけど……――まあ、ね。ペルモンドときちゃ以前よりも、いろいろと酷くなっててさ。僕一人じゃ手に負えないっていうか……」
 そう言いながら、シルスウォッドは軽く笑う。言葉とは対照的に、その表情に困っている様子など微塵も見られない。寧ろ彼は、現状を面白おかしく感じているようですらある。
「あいつ、さ。目が見えないくせに、目が見えているような振る舞いをしていただろ? それが今は機能してないみたいでね。足取りはよろよろで、支え無しじゃ一人で歩けないし。棚や机にぶつかるわ、壁にぶつかるわで、てんやわんやだ。昨日の夜なんかさ、あいつ俎板のうえの人参を切ろうとして、包丁を自分の手首に振り下ろしかけて。笑っちゃうよ、本当に。出血事件は幸いにも免れたけど」
「……?!」
「あまりにも危なっかしすぎて。今は何もしないで大人しくしていてくれって、ペルモンドには言ったんだけどさ。僕の忠告をあいつが聞くとは思えないんだ。だから……今晩のあいつの見張り、君に頼めないかなぁって。午後の六時から、十時ぐらいまでなんだけど。どうせ君、僕以外に友人もいないし。暇だろ?」
「私に、友人が居ないですって……!?」
 やはりシルスウォッドは、穏やかな笑顔を浮かべたまま。
「――……認めたくないけど、そうね。たしかに。私の友人って、あなたしかいないかも」
「サイコなブリジットには、誰も近寄りたがらないからね。皆誰しも、秘密は暴かれたくないものだから」
 そういうわけだから、頼んだよ。……明るい笑顔で、爽やかにシルスウォッドはそう言う。『どうせ君、僕以外に友人もいないし。暇だろ?』というなんとも失礼な大前提――しかし的を射ているので、ぐうの音も出ない――の下に頼まれた、面倒ごと。ブリジットはあまり乗り気ではないものの、それを承諾した。
 シルスウォッドは、笑顔でなんてことないかのように話しているものの。やはりブリジットには、ペルモンドのことが心配で堪らなかったのだ。
「……それより今、ペルモンドはどうしてるの? 彼、家に居るの?」
「ああ、家に。飯に眠剤を混ぜて、眠らせたんだ。今は、まだ寝てるんじゃないのか?」
「眠剤?!」
「入手経路は聞かないでくれ。前にあいつの付き添いで病院に行った時に、君の父上のデスクの、その隣のデスクからくすねたとか、絶対に秘密だから。精神科の、ドクター・ジョンパルトのデスク」
「あなたって人の神経が、本当に理解できないわ……!」
「んー、なんのことかなー。僕は今、何も言ってないけどー?」
「……!!」
「あっ、それより。君に本当に話したかったことがあるんだ」
 今までの、ペルモンドの話が本題ではなかったのか。ブリジットは腕を組み、眉をひそめて友人を見る。するとシルスウォッドは、笑顔を消した。すると神妙な面持ちで、彼はブリジットに言う。
「君が、オーストラリアの空軍基地にお世話になっている間に、ある人物が北米合衆国政府に連行されたんだ。自治国政府ではなく、親分のほうに。罪状は、北米合衆国に対するテロ行為。詳細は明かされていないけれども、なんらかの機密を漏らしたんじゃないのかと、ここの学生たちは噂してる」
「……学生が? もしかして、その逮捕された人って、ここの学校の人なの?」
「ピーター・ロックウェル准教授。彼が、逮捕されたんだ」
「えっ」
「そしてつい昨日、留置場で准教授の変死体が発見されたんだ。死因は、分かってない。噂によると、心臓が破裂していたらしい。けれども、遺体は無傷だったそうだ。そして薬物反応は無し。何が起こったのか、どうして彼が死んだのか、その何もかもが分かっていないらしい。でもひとつだけ、分かっていることがある」
「…………」
「マダム・モーガン。彼女が、やった。そして僕は、君に伝えろと彼女に言われたんだ。――……君の父上、彼女のブラックリストに登録されてるぞ」
 そうして、真夜中の十一時。ペルモンドの自宅、リビングルームにて。
「……それで、ペルモンド。お前はボールペンのキャップを、ペンに嵌めようとした。それで誤って、キャップを持っていた手の甲に、ペン先を突き刺してしまったと、つまりそういうことなのか?」
 着たままであった外套を脱ぎながら、シルスウォッドはペルモンドに問いかける。するとソファーに座り、項垂れているペルモンドは無言で小さく頷いた。
 帰宅した直後に、起きた騒ぎ。巻き込まれたシルスウォッドは、疲れきった顔で溜息を零した。
「視界は真っ暗で、触覚もないし、痛みも感じない。そして力加減も出来ない、ってわけか。……ペルモンド。今のお前はまるで、壊れたアンドロイドだ」
「……すまない。迷惑ばかり、掛けてしまって」
「お前を責めてるわけじゃないさ。寧ろ同情してる。それに、僕が今のお前の境遇に置かれたとしたら、耐えられなくて気が狂って、今頃周囲に当たり散らしてるさ。その点、お前は偉い。よく耐えてると思うよ、本当に。ああ、凄い凄い。勲章ものだねぇ、まったく」
「…………」
「あのな、ペルモンド。謝るなら、お前の正面に居るブリジットに言え。今だって、手当てしてくれているのは彼女だぞ?」
 疲労と眠気。襲い来るそれらと格闘しているシルスウォッドは、珍しくピリピリとした気難しい雰囲気をにおわせていた。そして『責めていない』と口では言いながらも、彼が鳴らした舌打ちは明らかにペルモンドへ向けられたものだった。
 そんなシルスウォッドに対し、床に座るブリジットは冷たい視線を送りつける。ペルモンドの正面に座り込んでいるブリジットは、彼の穴の開いた手の甲、その傷に被覆材を当てると、サージカルテープでそれを固定した。そうして彼女は不気味に赤く染まったボールペンを見つめつつ、ペルモンドに言う。
「はい、手当て終了。次からは、気を付けるように」
 項垂れていたペルモンドが、少しだけ顔を上げる。それから彼は、何かを言おうと口を開きかけた。だが、それをブリジットはあえて遮った。
「いいのよ、ペルモンド。何も言わなくていい。感謝の言葉も、謝罪の言葉も、私は求めてないわ」
 依然、彼の瞳は死んだまま。両目ともに虹彩は蒼色に戻っているものの、その目に生気はなく、感情もない。そんな薄気味悪い目の動きを司る筋肉は止まることを忘れてしまったようで、どこかにフォーカスを合わせるわけでもない、無意味に忙しない動きを繰り返していた。
 レンズの嵌まっていない、フレームだけの伊達眼鏡が、彼の顔に無機質な影を落とす。そして死んだ目で眉間にしわを寄せて、眼鏡を掛けたペルモンドは皮肉めいた微笑を口元にだけ浮かべ、こう言った。
「……まるで何も、感じやしない。君は手当てが終わったというが、俺にはいつ始まって、いつ終わったのかも分からない。ましてや、本当に自分の手にペンが刺さったのかさえ」
「ペンは、刺さってたわ。あなたが自分の手に刺した。それは事実よ。私がその瞬間をこの目で見て、私がそのペンを引き抜いたんですもの。私が嘘を吐いてるって言いたいの?」
 冗談めかしながらブリジットがそう言うと、ペルモンドは乾いた笑みを消す。それから彼は、小さな声で呟くように言った。
「本当に、申し訳ない。自分の身に何が起きたのかが、まだ整理できていなくて……」
 正直な心中を打ち明けているようにも見えるペルモンドだったが、ブリジットは気付いてた。彼は、正直ではある。が、その奥にまだ隠していることがあると。そしてシルスウォッドが苛立っている原因も、そこだった。
ペルモンドは何かを隠している。それは、分かっているのだ。だがその何かの正体が、皆目見当がつかない。……ブリジットもシルスウォッドも、二人してもやもやとしていたのだ。
「なら、早いとこ整理してくれ。僕は、家主がうっかり自殺してしまった光景なんて見たくないんでね」
 シルスウォッドは冷たい言葉を投げつけると、二人に背を向けて部屋を後にする。そして去り際に、彼は言った。
「ブリジット。今日のとこはありがとう。感謝してるよ。でも、もう帰ってくれ。そいつと話さなきゃならないことが、溜まってるんだ」
?

* * *



 ――レイモンドとビルギットの二人は、常に仲が良かったのか? その質問の答えは、ノーだろうね。あの二人には、喧嘩がつきものだったよ。
 ビルギットは、精神科医を志す医学生だった。そんな彼女は、あくまで医療従事者の視点からレイモンドを分析していたんだ。対するレイモンドは、病者として分析され、何かしらの病名を与えられることを拒んだ。だから、レイモンドの口癖はこれだった。『自分は病気じゃない』。
 しかし、レイモンドは自分が異常であることは分かっていたんだ。何故ならば普通の男は、毎晩のように自宅に女性、ときに男性を連れ込んで、いきずりの関係を繰り返したりしない。普通の男は、友人の頼みをあっさり聞き入れて、親しくもない男を自宅に居候させたりしない。普通の人間は、何をしても拭うことが出来ない孤独を感じたりしない、と。
 それでもレイモンドは、そんな自分を認めたくなかったんだろう。分かっていることと、認めることは別問題だからね。だから認めることを強く求めるビルギットは、彼にとっては恐怖でしかなかったのだろう。
 だから彼らは、度々大きな喧嘩を起こした。ビルギットは彼に迫り、レイモンドは彼女を拒絶したんだ。何度も、何度も。
 だが何度喧嘩をしようとも、二人が喧嘩別れすることはなかった。拒絶は見せかけのものにすぎなくて、結局のところレイモンドは彼女を求めていたんだ。……と、私は思っているよ。真相は、今や闇の中だがね。なにせ彼は、とっくの昔に亡くなっているのだから。


* * *



 ロンドン空襲も、気が付けば半年前の出来事になっていた。
 時間だけは、淡々と流れて行った。状況は何も進展はしないまま、時間だけが過ぎていった。
「……その質問の、意味が分からないわ」
 相変わらず、ペルモンドは何も感じないらしい。頼りは聴覚だけ。しかしそんな彼は、いつの間にか普通の動作というものを取り戻していた。シルスウォッドによると『ありとあらゆる友人の力を借りて、三半規管から自分の脳味噌をハッキングし、あらゆる行動をコントロールする技術を開発した』らしい。その“ありとあらゆる友人”というのに、ブリジットが含まれていないのは言うまでもない。しかし、シルスウォッドは含まれているという。
 それについて、彼はこう言っていた。
『ペルモンドの友人だっていう工学カレッジの連中に、ぼそっと呟いたんだよ。耳から脳味噌をハッキングしたらどうだろう、って。僕は、冗談のつもりで言ったんだけどねぇ。ペルモンドを含めて、彼らはそれを真に受けたようで。本当に、やっちまったんだ。……工学カレッジの連中も流石だが、実験台に自分の体を進んで提供したペルモンドの気も知れないよ』
 そしてブリジットは、シルスウォッドのその言葉を聞いて初めて知ったのだ。ペルモンドという男に、シルスウォッド以外の友人が居たことを。そして大学を突然中退した彼に今でも、工学科の学生たちとの繋がりがあったことを。
 ブリジットは、ペルモンドのことを知ったつもりでいた。だが実際は、知らないことばかりだった。そして今も、知らなかった彼の一面を目の当たりにしていた。
「ブリジット、もったいぶらないでよ。どうなの、本当のところは」
 大学が決めたインターン先の、小さな診療所。そこで偶然一緒になった別の大学の医学生、クロエ・サックウェル。初対面にも関わらず、馴れ馴れしい態度で話しかけてきた彼女は、お互いの自己紹介が終わった瞬間に、ブリジットにこう訊ねてきたのだ。
『そういえば、ブリジット・エローラって名前に聞き覚えがあると思ったら。思い出したわ、あのブリジットね! エリカから、彼を横取りしようとしているっていう、あの!』
『私、あなたのとこの大学の工学カレッジに彼氏が居るのよ。デリックっていうんだけど。そのデリックが、エリカとその彼氏の友人でもあるわけ。それで、デリックが前にこう言ってたの。エリカの彼氏を横取りしようとしてる女が居るって。それが、あなた。ブリジット・エローラだって。それでエリカの彼氏……――たしか、ペルモンドって名前だったかしら。彼が、困ってるって言ってたらしいわよ。あなたに付き纏われて大変だ、って。それで、どうなのよブリジット。エリカの彼氏を横取りする気なの?』
 クロエという医学生は、ブリジットに無邪気な笑顔でそう訊いてきた。その質問に対し、ブリジットが見せたのは混乱。彼女にとって、エリカという女性の名前は聞き覚えのないものだったのだ。ましてや、その女性がペルモンドと交際している……? ブリジットにとって、何もかもが初耳だったのだ。
 だから、ブリジットはこう答えたのだ。質問の意味が分からない、と。
「横取りなんて、まさか。人聞き悪いことを言わないでくれる? 彼は、ただの友人よ。それに彼の主治医が、私の父ってだけ」
「じゃあ、彼の主治医であるお父さんに頼まれて、エリカの彼氏の体調を聞いてただけとか?」
「ええ、そう。それだけ。何か問題でも?」
「じゃあ、しょっちゅう彼の自宅にあなたが足を運んでるのは、どうして?」
「私の友人が、彼の家に居候しているの。シルスウォッド・エルトルっていう男。情報通らしいあなたの彼氏さんに、シルスウォッドのことを聞いてみたら?」
 デリカシーのない質問をぶつけてきた相手を、ブリジットはキッと睨みつける。そうして、その日はやり過ごした。
 ――……のだが。
「何言ってんだ、ブリジット。そっちのほうが驚きだ」
 その日の晩、苛立ちに耐えきれずブリジットが殴りこんだのはペルモンドの自宅、そしてシルスウォッドの居候先。バイト先から帰宅したばかりのシルスウォッドにブリジットが詰め寄ると、彼から返ってきた答えはこうだった。
「あんだけペルモンドにストーキングしておきながら、エリカを知らないだって? あのエリカを。工学カレッジの五本の指のひとり、エリカ・アンダーソンだぞ?」
「初耳よ、そんな名前!」
「じゃあジェニファー・ホーケンも知らないのか? デリック・ガーランドも。フィル・ブルックス、ユーリ・ボスホロフも? ちなみに全員ペルモンドの友人で、僕も彼らの友人だ。彼らの会話は、文系である僕にはさっぱり理解できないがね」
「全員、知らないわよ!!」
「ってことはだ、ブリジット。君は、本当に知らないんだね。エリカとペルモンドの関係を」
「知らない! だって、彼はそんなこと一言も言ってなかったわ!!」
「本当に、驚きだ。僕は、君に驚いている。だって、エリカとあいつがデキてるって……キャンパスの奴らの大半が知っているであろう情報だぞ?」
「いつからなの、二人の関係は?」
「僕が蔵書間で彼と鉢合わせる、ずっと前からだ。一年以上は確定だろうね」
「うそ、でしょ。そんな、まさか……」
「そりゃこっちのセリフだ、ブリジット。君こそ、有り得ない。本当に、有り得ないよ」
 そう言ったシルスウォッドの顔は、嫌味を言うときの笑顔ではなく、本当に驚いているという表情をしていた。つまり今の彼は、ブリジットのことをからかっていない。となると……――ブリジットは、相当恥ずかしい立場にある。血の気が失せていくのを、彼女は感じていた。
 そして純粋に、心の底から驚いている彼は、しおれた青菜のようなブリジットに向かって容赦なく塩のような言葉を投げつけていく。
「それにペルモンドは、質問されない限りは何も話さない男だってこと、君だって知ってるだろ? あいつが君にエリカのことを一言も言ってないのは、君があいつに一言もエリカのことを訊ねていないからだ。……もしかして、それすらも知らなかったか?」
「……知らなかった」
「じゃあ君は、まだペルモンドに片思いしてるのか?」
「…………」
「その沈黙を、僕はイエスだと捉えるよ。だとしたら……――はぁ、ブリジット。そろそろ気付け。ペルモンドは明らかに、君に、全く以て、好意を抱いていない。ウザがっているどころか、君を恐れてさえいる。どうして彼女があそこまでしつこく俺の人生に首を突っ込んでくるのが分からない、ってあいつは僕に言ってきたぞ。あいつは一応、君に感謝はしてる。だけど、断言してもいい。君への好意はゼロだ。それに君には問題がある。それは、君の父上だ」
「それって、私にはどうすることもできない問題じゃないのよ!」
「そうだ。だから、ペルモンドのことは諦めろ。だって、ほら。君は昔、こう言ってだろ。狼くんは十代の時に見た幻だって」
「だけど。私が、どれだけ彼に……」
「私がどれだけ彼に尽くしてきたか、だろ? なあ、君はいつも彼にこう言っていた。下心はない。感謝も謝罪も求めていない、って。あれ、嘘だったってことだよな? まっ、僕には分ってたよ。それに鈍感なペルモンドだって、君の下心には気付いてるだろうさ。だから、君を恐れているんだ。君の言葉を素直に信じるべきか、直感を信じて下心を疑うべきか、分からないんだよ。君は彼を、混乱させるんだ」
「…………」
「エリカは、すごい良い子だ。その場に彼女が居るだけで周囲がぽっと暖かくなる、そんな太陽みたいな素敵な女性だよ。そして彼女は自動車いじりが好きなエンジニアで、あらゆる工学に精通している。それに彼女は僕には理解不能なエンジニアの言語で、ペルモンドと会話できるんだ。そのうえ最高のコンビなんだよ、あの二人。理論を組み立てて設計図を描くのはペルモンドの仕事で、ペルモンドが組み立てた理論を実践するのがエリカの仕事。羨ましいぐらい、噛み合ってる。……なぁ、僕の言いたいことはもう分かるだろう?」
 すっかり蒼褪めたブリジットの目には、うっすらと涙が滲んでいた。それでも構わず、シルスウォッドはトドメの一撃を放つ。
「ペルモンドさ。今、彼女の家に居るんだ」
「…………」
「今日は丸一日、彼女と一緒に居る。朝イチで彼女がうちに殴りこんできて、あいつをドライブに連れだしたんだ。少々強引に、引きずり出して連れて行ったというか。ただ出先で、ペルモンドが発作を起こしたらしくてね。二時間ぐらい前かな。僕のもとに、彼女からその連絡が来て」
「やめて。それ以上、聞きたくない」
「幸いにも、彼女はてんかん患者の面倒の仕方を熟知しているんだ。彼女のお父様がてんかん持ちだったらしくてね。ペルモンドのは薬が効かない、俗に言うヒステリー発作ってやつだけど。要領は同じだってことで、彼女は」
「シルスウォッド! もう、何も言わないで」
「彼女になら、僕は安心してあいつを託せる。でも君は、違う。君も、分かってるだろ?」
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