ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ

Light of Abaddon

「ああ。あの日だろう、四日前の。で、午後五時ぐらい。そう、妙に興奮したキャロラインから僕の元に連絡が来たのが、ちょうどそれくらいだった。そのあとパニックに陥った君から連絡が来たのも、それくらいだったね」
 ノコギリで切断される金属が悲鳴を上げる音も、コンピュータのファンが回る音も、騒がしい音は何もしないペルモンドの自宅の中。すっかり家主面をしているシルスウォッドは、ブリジットの前に置かれていたティーカップにポットから紅茶を注いだ。
 紅茶の銘柄は、ブリジットにはよく分からない。種類も、紅茶に疎いブリジットにはよく分からないし、興味もこれといって湧いてこない。だがシルスウォッドはこう言っていた。これはロンドンから輸入されたレアもの、めっちゃ高くておいしいやつ、と。それに彼はこうも言った。ペルモンドが家に置いていったデビットカードを勝手に使って買った、と。
 お前はなんという人間なんだ、良心はないのか……――と説教を垂れたくもなるが、どうやらこのカードに関しては金持ちの家主と苦学生の居候との間でルールがあるのだという。どうやら件のデビットカードは光熱費や食費、水道代といった生活費全般に限って自由に使ってもいいというカードらしい。そのカードをふたりで兼用しており、言わずもがな支払いは全てペルモンド持ち。これにより、貧乏生活を送っていた苦学生は家賃と生活費の心配をせずに済んでいるという。在学中の期間だけという条件付きの、天国だ。
 こうしてシルスウォッドは他人の金で衣食住をコンプリート。おまけにシルスウォッドの貧乏さに同情したペルモンドは、奨学金では補いきれなかった学費の一部もシルスウォッドの代わりに肩代わりしてくれたりもしているそうだ。しかしシルスウォッドという男が、そんなペルモンドにどこまで感謝や敬意を抱いているかは不明。何故ならば彼は、こう言っているからだ。

 金持ちなんだから、貧乏人に恵むのは当たり前のこと。
 それに僕は、あの精神障碍者の世話をしてやってんだ。
 それぐらいのリターンは、至極当然ってもんだよ。

「モルガンっていう名前の死神が、彼を迎えに行くっていうお告げがあったって。キャロラインはそう言っていたんだ。つまり魔女がペルモンドを誘拐するってね。急いで病院に行けって彼女は僕に言ってきたんだけれども、僕はバイトの夜間シフトをドタキャンするわけにはいかなかったし。それに彼女の言葉を真に受けてなかったというか、半信半疑だったから相手にもしなかったんだ。そしたら……」
「現実になった。マダム・MのMは、モルガンのMだったのね……」
「それにしても、マダム・Mか。そういえば、聞き覚えがあるな……」
 六LDKの、邸宅のようなマンションの一戸。その広い広いダイニグルーム。いつもならばペルモンドが座っているはずの椅子に、シルスウォッドは何のためらいもなく腰を下ろす。それから彼は、彼が愛用しているティーカップに高級な紅茶を注ぎ、満足げな笑みを浮かべた。それから彼は、こんなことを言った。
「オーストラリア……――じゃなくて、アルフレッド連邦だっけ」
「どっちだって同じよ」
「じゃあ、オーストラリア。そのオーストラリア出身のやつが、中世哲学科に居るんだけどさ。データス・ブリストウっていう変人」
「変人のあなたがそう言うなら、それは大層変わったお人なんでしょうね」
「そう。いや、僕は変人じゃない。いや、変人か。この時代に、考古学なんて志しているんだから……」
「それで、そのブリストウさんがどうしたの?」
「ああ、ミスター・ブリストウは簡潔に言うと、あれだ。陰謀論者。それで彼は大好きなんだよ。オーストラリアの、メン・イン・ブラック。黒スーツの特務機関WACE(ワース)の話を」
「ワース……?」
「こっちのほうじゃ特務機関WACEってのは、あまりメジャーな存在じゃないからね。北米合衆国のほうの都市伝説、あのメン・イン・ブラックとはまた違うんだ。オーストラリアの黒スーツに黒サングラスの隊員たちは、宇宙人を捕まえたりしないんだって」
 彼の話を聞きながら、ブリジットは出された紅茶を一口だけ啜る。
「ふーん……。じゃあ、何をする特務機関なの?」
 お茶なのに、甘い。あまり好みではない紅茶のその違和感に、ブリジットは少しだけ眉間にしわを寄せる。対するシルスウォッドは湯気が昇るティーカップの中に、五つの角砂糖をダイブさせた。そんな彼はティースプーンをカップの中に入れると、話を続ける。
「彼らは国家もしくは世界の脅威となりうる人間を捕まえ、ときにその存在を抹消する。そして国家を裏から操り、間接的に人の世を支配する――……らしい。ミスター・ブリストウはそう言っていた」
「……闇の支配者、って感じなのかしら」
「で、その特務機関のボス。それがマダム・Mだと言われているらしい。通称、神出鬼没のカラス。黒スーツに黒いサングラス。小麦色の肌に、ウェーブが掛かった綺麗な長い黒髪。それと瞳孔のない蒼い瞳。特徴だけを聞くと全く以て不気味だ。それで、実在した本物のマダム・Mさんはどんな感じだったんだい?」
 興味津々のシルスウォッドの視線が、ブリジットに向く。ブリジットは手に持っていたティーカップをダイニングテーブルに置くと、あの時に見たことを正直に言った。
「ええ、あなたが今言った特徴の通りだった。黒髪に小麦色の肌。黒いスーツを着てて、真っ白なワイシャツを着てて、黒いネクタイを首に絞めていた。あと、真っ黒なサングラスもね。目は、サングラスで見えなかったけど。あの女性が不気味だったのは、間違いないわ。それに彼女、ペルモンドのことを弟だって言った。血の繋がりはないけど、可愛くてたまらない弟だって」
「マダム・Mの弟が、ペルモンドだって……?」
「血の繋がりはないって、彼女は言ってたけど。でも、思い返してみればあの二人はそっくりだったわ。肌の色、鼻筋に、それに」
「同郷で同じ民族なら、いくらでも似る可能性はあるだろう? それに居なくなった男のことをあれこれ考えたところで、答えは分からないさ。あいつがこの場所に戻ってくるかも、分からないんだから」
 その途端、シルスウォッドは妙に醒めた表情をする。投げ遣りな態度でそう言った彼は、さほどペルモンドのことを心配していないようだ。そんな彼の態度に、ブリジットは身を少し後ろに引いて、睨みつけるような視線を送った。すると彼は弁明するように、こんなことを口にした。
「キャロラインが昨日、言ったんだ。ペルモンド・バルロッツィは、いずれ戻ってくると。悲劇と狼を引き連れて。けれども彼は、もう二度と戻ってこない。僕が気に入ったおちょくり甲斐のある彼、そして君がわりと本気で惚れてた彼は、永遠に消える」
「……それ、どういうこと?」
「眼鏡を外した時の彼が、ペルモンドの中から消えるってことさ。となりゃ、残るのはあのクソ眼鏡野郎ってこと。キャロラインが信じている白狼さまは、そう仰っていたそうだ。ハーディー・ガーディーの調べと共に、マダム・Mが彼を奪うと」
「…………」
「なんかさ。僕は、何もかもがどうでも良くなったんだ。理解の追いつかない世界に、これが現実なのか何なのかが分からなくなって……――」
 すると彼は黙り込み、静かに立ち上がる。それからシルスウォッドは外出の支度を始めた。
「一応こんな邸宅に住んでいる僕だけど、これでも苦学生なもんで。お金はないし、バイトを二つ掛け持ちしなきゃ教科書も買えない。そういうわけで僕は、これからダイナーに行かなきゃならない。そこで金持ちのお嬢様である君には一生無縁な、無様な仕事をするんだよ。平日の夕方から夜はダイナーのウェイター、月曜と火曜を除いた真夜中はスーパーマーケットの警備員。惨めだろ? 自分でもよく分かってるさ」
「…………」
「プレハブの汚い店の中で、息が酒臭い常連客のオッサンにいつも通り難癖を付けられて。常連の小汚いおばさんにケツを叩かれて、その代わりにチップを弾んでもらう。ときには見知らぬ男性客にセクハラを受けることもあるさ。同僚の女性を身を挺して守った結果、軽い怪我をするときもある。それでも彼女たちに感謝なんかされないけど。まあ、感謝なんて求めてないけどね」
 そう言いながら冷たい笑顔を浮かべる彼は、何かを鼻で笑う。ブリジットは飲みかけの紅茶から目を逸らし、椅子から立ち上がった。
 シルスウォッドが家を出るなら。客人であるブリジットも家を出るのが道理だからだ。
「けれども僕は黙って、笑顔を振りまくんだ。生活のためにお金が必要だから。……ペルモンドの数億ドルを超える財産に頼り切り、ってわけにもいかないんだ。こう見えてもね」
 灰色のダッフルコートを纏ったシルスウォッドは、ブリジットにアイコンタクトを送ってきた。早く支度をして、この家を出て行け。そういうことらしい。
「……分かった。邪魔者は、すぐに出て行くわ」





「それで、マダム・モーガン。その青年が、本当に君の言う“猟犬”なのか?」
 アルフレッド連邦共和国空軍、その輸送機。北米合衆国の某所、某空軍基地を飛び立ち、大西洋を横断中の機体の中。軍服の胸部に勲章をいくつも輝かせる男――空軍大将バーソロミュー・ブラッドフォード――は、腕を組んでいた。向かいに座る黒髪の女――マダム・M――と、その横に座る青年――俯き、眠り込んでいるペルモンド――を、彼は訝しげに見つめていた。
「数理工学。その分野において頭角を現しつつある青年だとは聞いているよ。そして近頃世を騒がせているアバロセレンというものの発見に、彼はなんら関わっていないことも。それと、彼は我が友リチャード・エローラのお気に入りだということも」
「及第点ってとこかしらね、バーツ。でもその理解じゃ、まだ足りない。それに彼は、まだ猟犬じゃないわ。これから仕上げていくのだから」
「ところでその青年はこの四日間ずっと眠り続けているが、体は大丈夫なのか?」
「彼なら大丈夫よ、薬で眠らせているだけだから。それもじきに目覚めるわ」
 そう言いながら微笑む“マダム・M”ことマダム・モーガンは、掛けていたサングラスを外してそれをカチューシャのように頭に乗せるのだった。そうして露わになった彼女の瞳には瞳孔がなく、蒼白い光彩は薄気味悪く淡い光をちらつかせていた。
 それから彼女は、足元に置かれていたそこそこ大きな楽器に徐に手を伸ばし、それを掴み上げて自分の太腿の上にひょいと乗せる。マダム・モーガンが手にした実に奇妙ないでたちの楽器を見つめるバーソロミュー・ブラッドフォードは、顎を少し引いて腕を組む。彼は彼女に、こう尋ねた。
「それと……――その楽器は、何だ? チェロとも、ギターとも違うようだが」
「質問が多い人ねぇ、バーツったら」
「君が介入する案件は疑問が絶えないものでね。些細なことでも、重大なことにも」
「ならワイズ・イーグルにだけ、特別に教えてあげる。……これは、ハーディー・ガーディー。大昔に亡くなった私の父はこの楽器の奏者でね。そして私が唯一まともに扱える楽器が、これ。でもこの奇妙な楽器の知名度は低いし、そのうえ希少品なのよ。これを一機手に入れるのにも、相当の苦労が必要だったわ」
アコースティックギターと同じぐらいのサイズであり、且つチェロに似たボディを持ち、チェロならばエンドピンがあるはずの部分に奇妙な取っ手が生えていて、指板らしき板のサイド部分にはボタンが無数に並んでいるその奇妙な楽器の名前は、ハーディー・ガーディー。
指板らしきものの正体はキーボックスと呼ばれる機関で、その横に取り付けられたボタンたちは鍵盤のような役割を果たしている。エンドピンの場所に取り付けられた取っ手の名前はクランクで、そのクランクをぐるぐると回しながら鍵盤ボタンを押すと、鍵盤に宛がわれた特定の音が鳴るという構造だ。その音はパイプオルガンとバグパイプを混ぜ合わせたようであり、弦楽器の特徴も帯びている、なんとも他に譬えようがない独特な色を持つ。
するとマダム・モーガンは浮かべた微笑を、聖母のように穏やかなものに変えた。それから彼女は左手でクランクを掴み、それをぐるぐると回し始める。そして、バーソロミュー・ブラッドフォードにもどこか聞き覚えがある曲を、彼女は奏で始めた。
「マダム、この曲は……」
「ダニーボーイ。バーツも知っているでしょう? じゃあ歌って」
 鍵盤をじっと見つめるマダム・モーガンは、バーソロミュー・ブラッドフォードに視線をやることなく、そんな無茶ぶりを振った。すると彼は視を後ろに引き、組んでいた腕をさらに固く結ぶ。彼はどうしても、歌いたくなかったのだ。
「私が? いや、無理だ」
「どうして?」
「……私は前大統領に、国家を歌うなと釘を刺された人間だぞ?」
「ああ、そうだったわね。あまりにも音痴すぎて、愛国心の強かった先代の大統領の逆鱗に触れたんだっけ。忘れてたわ、そのこと。じゃあ、私が弾きながら歌うわ」
 ときおり低音が擦れ、ハーディー・ガーディーは雄叫びのような音を鳴らす。鍵盤がカチャカチャと音を立て、時にその音は弦が生み出す旋律を邪魔したりもした。それでも奇妙な楽器が奏でる音色は不思議な荘厳さを伴って、輸送機の中に轟く耳障りな雑音を掻き消す。そして演奏をしながら、マダム・モーガンは柔らかな声色で静かに歌い上げた。

 嗚呼、ダニー。愛しき息子よ。
 かつてお前が吹いた笛の音が、
 谷という谷に響き渡り、山を下って、
 今はお前の名を呼んでいる。

 夏が去り、全ての薔薇たちが地に落ちゆく中で、
 お前までもがここを去っていく。
 そして私は、お前の帰りを待つことしか出来ないんだ。

 必ずここに帰ると、約束してくれ。
 草原に夏が訪れているときでも、
 谷々が真っ白な雪に包まれて静けさに沈むときでも、
 いつだって構わない、帰ってきなさい。
 太陽が空に在ろうと、大地が陰に包まれようとも、
 私は変わらずお前の帰りを待ち続けよう。

 嗚呼、ダニー。愛しきダニーよ。
 私はお前を愛しているよ。

「さぁ。そろそろ起きなさい、ジャフ。でないとあなたが唯一まともに聴くことができる楽器、このハーディー・ガーディーを、あなたの大嫌いなヴァイオリンに持ち替えて、ノコギリを引くみたいなひどい演奏をするわよ?」
 すー……っと静かにフェードアウトしていったハーディー・ガーディーの音色。それと入れ違うように、マダム・モーガンのどすの効いた声が空気を震わせる。すると“ヴァイオリン”という言葉に反応したのか、浅い眠りに就いていたペルモンドは飛び起きた。そして彼は左隣に座るマダム・モーガンに気付くと、驚きから目を大きく見開く。そんなペルモンドの瞳は、未だに左右の色が異なっていた。
「……ファットゥーム?!」
 ファットゥーム。それはペルモンドとがペルモンドでなかった時代に、マダム・モーガンになる前の彼女に対して使っていた呼称。目覚めた瞬間に聞こえてきた旧友の声に取り乱した彼は、思い出された記憶のままに彼女の名前を呼んだ。
 そんなペルモンドの目には、二つの世界が重なって視えていた。ひとつは現実の暗闇。大気を割いて進む輸送機が発する轟音と、マダム・モーガンの声。もうひとつは、およそ未来と思われる世界。赤い炎に包まれた街並みと焼け落ちる宮殿、川に飛び込む人々の悲鳴と男たちの怒号と銃声に、鼻を衝く血のにおい。惨鬱とした光景が、同時に視えていたのだ。
 マダム・モーガンにとっては見覚えのある、彼の怯えと困惑に支配された表情。何かを視たのだと察した彼女はハーディー・ガーディーを再び膝の上から床に下ろすと、彼の肩を抱き寄せる。それから宥めるように、彼女は彼の耳元で囁いた。「……落ち着いて、ジャフ」
「どうして、ファットゥームがここに居るんだ? だって君は、ずっと昔に」
「そのことは追って話すわ。それと、その名前で呼ぶのはやめて。今の私は、マダム・モーガンよ」
「――……モーガン?」
「ええ、私はマダム・モーガン。あなたはペルモンド・バルロッツィ。そして私は今からあなたのことをペルモンドと呼ぶ。だからあなたも私をモーガンか、もしくはマダムと呼んで。分かった?」
「…………」
「お互いに積もる話はあるだろうけど、大昔のことを持ち出すのは今はやめましょう。今は、目の前にある今だけに集中して。過去も未来も、今は脇に置くのよ」
 今。マダム・モーガンはその言葉を何度も繰り返し用いる。次第にペルモンドの顔からは、怯えも困惑も恐怖も、その他すべての感情が消え失せていった。
 その様子を、組んでいた腕を解きながら観察するバーソロミュー・ブラッドフォードは、胸の中がざわつくのを感じていた。
「あそこに座っているのは、バーツとかバートとか呼ばれてる男よ。空軍大将バーソロミュー・ブラッドフォード。あだ名はワイズ・イーグル。これから展開される作戦において、あなたのボスとなる人物よ」
「……私が、ブラッドフォードだ。リチャードから、君のことは聞いている。自己紹介は不要だ」
 バーソロミュー・ブラッドフォードは、三〇年来の付き合いである友人リチャード・エローラから、定期的にこのペルモンドという名の青年の話を聞いていた――というよりも、リチャードのほうから一方的に聞かされ続けていたのだが。そしてつい最近、リチャードはこう言ってきたのだ。彼には特殊な能力がある、未来が見えるのだ、と。
 しかしリチャードが言うには彼の脳力について、まだ全てが解明されたわけではないそうだ。何故ならば、その前にこうしてマダム・モーガンが彼を攫ってきてしまったのだから。
「リチャード? まさか、ドクター・エローラか?」
「ああ、そのリチャードだ。それで、私はリチャードから、君には未来が見えると聞いたのだが……――」
「お茶目なバーツくん。その話題は禁止だと、離陸前に忠告したでしょう。四時間前のことなのに、もう忘れちゃったのかしら?」
「……すまない、マダム。好奇心には抗えなくてな」
「それ、バーツの悪いクセよ。必要以上に知ろうとすることは、あまり誉められたものじゃないわ。それは必要以上に生を縮める行為なのだから」
 それからマダム・モーガンは四日前にバーソロミュー・ブラッドフォードに対して、連れ去ってきた青年のことをこう紹介してきた。これは私の弟、そして我々に確たる勝利を約束してくれる猟犬だ、と。
 しかし彼女は“猟犬”という言葉の意味を説明しようとはしなかった。その代わりに、彼女が語ったのは青年の簡単な来歴、それと彼女の本懐についてだ。
『簡単に言うと、彼は死んで生き返ったのよ。最初に彼が死んだのは十一のとき。噂の美少年だった彼は悪い男たちに犯されて、その最中に死んだ。けれども死ぬ寸前に彼は、悪い狼に魂を差し出してこう願った。死ぬのが怖い、まだ生きたい、と。狼は彼の願いを聞き届けて、彼を生き返らせたわ。条件付きでね』
『条件は単純。彼が十五歳の誕生日を迎えるまでは、狼が彼の身を守るというもの。しかしそれは、その後にどうなろうが狼は手を貸さないということでもあった。そのうえ彼の死後に彼の体を狼が貰う、というオマケもついていたのよ。あと記憶の改竄という追い打ちもね』
『そして十五歳のあるとき、彼は再び死んだ。ある事件に巻き込まれて、逃亡中だったときに、飛び込んだ川に溺れて死んだ。そこで予定通りならば、狼がその体を奪うはずだった。けれども思わぬ邪魔が入ったのよ。それも一つじゃない。幾つかの邪魔が。そうして今も、狼は彼の身体を手に入れられていない。狼はさぞ燻ぶっていることでしょう』
『そこで私は、これからその狼に手を貸す。そして愛しき弟に、愛しいからこそ終わりを与える。十分すぎるほど苦しみもがいてきたのだから、もう苦しまなくていいように。その序でに、困り顔のバーツにも手を貸してあげるってわけ。四日後に開幕するロンドン大火にて、秘密兵器の猟犬をあなたに見せてあげるわ。そしてそこで猟犬が挙げる戦果を、あなたに譲ってあげる』
 マダム・モーガンは、笑いながらこうも言った。馬鹿らしい話よね、信じてくれなくても構わないわ、と。実際、バーソロミュー・ブラッドフォードが彼女の話――二度も死んで二度とも生き返った青年、狼という謎の存在など――をどこまで信じているのかといえば、グレーゾーンだ。だがバーソロミュー・ブラッドフォードは知っている。マダム・モーガンが人間でない、いうなれば神か又は悪魔や魔物に近い存在であることを。
「……マダム・モーガン」
「どうしたの、バーツ。妙にしんみりしちゃってるけど。さっきのこと、反省してるのかしら」
「それも、そうだが。……本当に、やるのか?」
 バーソロミュー・ブラッドフォードは解いていた腕を、再び固く結ぶ。足も組み、完全に防御の姿勢へと移行した彼の黒い目は、マダム・モーガンの背後に光るナイフを見ていた。するとマダム・モーガンは笑顔を浮かべ、ナイフを手に取る。彼女に迷いは無いようだ。
「本当に、やるわよ。私はこの機会を、ずっと待っていたんだから。私が潰してきた気が遠くなるような時間たちも、全ては今日この日のためだったのよ」
「いまさら無駄だと思うが、私の意見を言わせてくれ。私は、犠牲を払うことを好まない。ロンドンへの空襲にも、私はどちらかといえば否定的な立場だ。大統領の決定である以上それに逆らえないだけでな。正直な心を言うと、私は戦果など欲しくないのだよ。暴力以外の選択肢で、くだらない諍いを終結さっ……」
「そうね、バーツ。あなたの胸に輝いている勲章たちは、あなたが戦争を避けて通ってきたからこそのものですから。歴代の大将たちに反逆し、戦地に自分の部隊を誰一人として送らなかったからこその勲章。軍人でありながらも、あなたは流血とは無縁だったからね」
 マダム・モーガンが右手にナイフを握った途端、何かを察したペルモンドは彼女の傍から離れようとした。だがマダム・モーガンのほうが、彼よりも一枚上手だったのだ。
「だからこそ、あなたに見せてあげる。人間って、あっけなく死ぬのよ。斬られれば死ぬ、刺されれば死ぬ、撃たれれば死ぬ。何故ならば、生き物だから。あっけなく、死ぬの」
 ペルモンドの右手首と、マダム・モーガンの左手首は同じ手錠で繋がれていたのだ。
 マダム・モーガンは左腕を後ろに引き、ペルモンドの体を引き寄せた。彼は無我夢中で抵抗してみせるも、細身であるマダム・モーガンの剛腕には勝てない。彼女はあっという間に暴れるペルモンドを制圧し、彼の口を左手で押さえ付けて封じる。そしてマダム・モーガンはそのまま彼を輸送機の壁に押し当て、ついに身動きも封じた。
「そして暴力は終わらない。恐怖での支配も終わらないわ。それが愚かな生命の定め。心臓が脈打つ限り、その頸木からは誰も逃れられない」
 これから起こることは、簡単に予想できた。未来を見ることが出来ない、普通の人間であるバーソロミュー・ブラッドフォードにも。だからこそ彼は目を逸らし、黒い瞳を伏せさせた。するとマダム・モーガンがこう言う。
「良い子のバーツに、死神である私が教えてあげる。何者も、死からは逃れられないのよ。死を避けて通ることなんて出来やしない。いい加減、その甘っちょろい幻想から目を醒ましなさい」
「……マダム、やめないか。その青年が、何をしたと」
「私を見なさい、バーソロミュー・ブラッドフォード!」
 そう言われても尚、バーソロミュー・ブラッドフォードはマダム・モーガンを見ることはなかった。
 俯き、頑なに顔を上げようとしないバーソロミュー・ブラッドフォードが聞いていたのは、呻吟の声。喉を掻き切られ、自身の血に溺れて苦しむ音だった。
 なぜ。どうして。教えてくれ、ファーティマ。……そんな言葉が、ぶつ切りで聞こえてくる。やがて彼の発する声が、音が、何も聞こえなくなった。そしてバーソロミュー・ブラッドフォードは恐る恐る顔を上げる。するとマダム・モーガンが言った。
「……そして、死が終着点とは限らない。次のステージへ移行するための通過点でもある」
 バーソロミュー・ブラッドフォードは言葉を失った。そして、己の目を疑った。
 何故ならば、そこには同じ青年がふたり存在していたのだから。
「久しぶりね、ジェド。待っていたわ、あなたのことを」
 マダム・モーガンの足元には、死んでいるペルモンドが突っ伏していた。彼の右手首には手錠が嵌められていて、もう一方の穴――先ほどまでマダム・モーガンの左手首が嵌まっていた場所――は空になっていた。
 そしてマダム・モーガンの目の前には、手錠もなければ血も流していない彼が立っていた。しかし、立っている彼の瞳は左右ともに緑色。高純度のエメラルドを思わせる、澄んだグリーンをしていたのだった。
「やぁ、マダム・モーガン。お前にしちゃ珍しく、随分と手古摺ったようじゃねぇか」
 立っているほうの彼は、床に突っ伏すもうひとりの自分の姿を緑色の瞳で見つめ、次にマダム・モーガンに視線を移すとそんな愚痴をこぼした。そして彼は顔に不敵な笑みを浮かべる。それから彼は、床に突っ伏すもうひとりの自分の頭をつま先でこつんと軽く蹴り、マダム・モーガンにこう言った。
「念のために、この体は取っておいてくれ。二千年前と同じように冷凍だ。コール、コールド……なんたらってやつで」
「コールド・スリーブ。死んでるけど」
「そう、コールド・スリープだ」
 つい先ほどまでのマダム・モーガンは、彼と親しげにしていた――それどころか愛惜の念さえ示していた――はずなのに。今の彼女は、床の死体に無感情な視線を向けていた。
 第三者の視点から全てを傍観するバーソロミュー・ブラッドフォードは、今や恐れも恐怖も捨て去っていた。自分の目の前で何が起こっているのか、それを受け止めたからこそ、何もかもが途端に馬鹿らしく思えたのだ。
 現実は、ひとつではない。目に見えているものだけが、全てではない。世界は信じ難いもので満ちているのだ。それがこうして目の前に顕れることが少ないだけで。
「それで、ジェド。こちらは役目を果たしたわ。そちらの要求通り、あなたに仮の肉体を繕ってあげた。工賃序でに、ジャフの魂を頂きたいんだけど」
「そりゃ残念ながら、無理な相談さね。奴が俺との契約を反故にしてくれてんだ、その代償は払ってもらわなきゃな。みすみす死神に手渡して、救済されちゃあたまらねぇってんだ」
「……クソ狼が」
「そう怒るなって、なぁ?」
「それで。……今度はそちらの番よ、ジェド。本当に、やってくれるんでしょうね?」
「勿論だとも。俺が取引を反故にしたことがあったか?」
 マダム・モーガンにそう言葉を投げ返し、緑色の瞳の彼はにやりと歯を見せて笑う。続けて彼はこう言った。
「……まっ、この先のことを考えれば、あの欲深な島国は間違いなく潰しておいたほうが良いだろう。その点に関しちゃ、俺も大賛成さ」
 俯いて腕を組んで、息を殺して。バーソロミュー・ブラッドフォードは、青年の姿をした魔物の言葉を黙って聞き流していた。バーソロミュー・ブラッドフォードがただ思うのは、その魔物が放つ無邪気な殺気の矛先が、自分の首筋に向かないようにと祈る言葉だけ。
 彼の緑色の瞳に宿っていたのは、あまりにも純粋すぎる衝動だった。群れを追われて野山を彷徨い続け、腹を減らした一匹狼が、手近な場所によく肥えたウサギを見つけたかのような。獲物を偵察し、その品定めをしているかのような――食欲のようにどこまでも純粋で、本能的に湧き上がる抗えない衝動だった。
 それは野生動物のようにシンプルな存在。しかし単純だからこそ、予測不能のおぞましいモンスターとなるのだ。
「偉大なる可能性の神キミアの核から創られしアバロセレンは、近い将来この小さな惑星に多大なる恩恵と混乱をもたらす。しかし実験場は、お前のとこの大陸国家だけでいい。北東の大地にも東洋の大国にも、北米にも必要ない。そしてグレートブリテン島の女王陛下にもな」
 緑色の瞳の魔物は、そう言うと鼻で笑った。そして彼はこうも言い放つ。
「始めようぜ。大義名分の下に、無意味な大殺戮を。……それで、武器はどこだ?」





「さっきは驚かされたわ。キャリーったら街中で、いきなり悲鳴を上げて泣き始めるんですもの」
 以前、ミズ・マックスと共に訪れた喫茶店。ブリジットはそこに、幼馴染の恋人であるキャロラインを連れてきていた。
「……ごめんなさい。私、時々イメージが見えるの。それは突然訪れて、頭の中を一瞬で支配する。そうなると、それに抗えなくて。混乱して、パニックを起こしちゃうのよ」
 泣きはらした目を指先でこすりながら、申し訳なさそうな表情を浮かべるのはキャロライン。すると続けて、キャロラインはこんなことを言った。
「イメージを通して、白狼さまが何かを伝えてくるの。私の母や祖母、それとご先祖さまたちは、それを神託オラクルって呼んでいて。事件や大災害の前に、白狼さまが警告してくるの」
「神託をよこす白狼さま、かぁ……。まるでダニエル・ベルのSF小説『オラクル』の世界ね。差し詰め、キャリーはあの小説のキーパーソンであるパトリシアってところかしら」
「パトリシアは実際に、私のご先祖様よ」
「えっ。何を言ってるのよ、キャリー。あの物語はフィクション……でしょう?」
「いいえ、あの話はファクトをフィクションとして描いたもの。彼もその事実を認めているわ」
「彼……って、だれ?」
「シルスウォッド。だから彼は今、私の家に代々伝わる品々を検証してくれているの。それとパトリシアの末裔である私たちにすら理解することができない、暗号のような彼女の日記の解読も、彼がやってくれているわ。忙しい中、合間を縫って少しずつだけれどもね」
 イチゴのミルクセーキにストローを突き刺しながら、キャロラインはそう言った。ブリジットは、しなしなとしてイマイチ膨らみの足りないパンケーキにメープルシロップを掛け、それをナイフとフォークで切り分けながら、彼女の話に耳を傾ける。
 小春日和の昼下がり、穏やかな雰囲気の女子会は始まる。だが穏やかな雰囲気とは反対に、キャロラインが語る言葉には不穏な空気がへばりついていた。
「それで白狼さまがさっき見せてきたイメージなんだけど。火事が、見えたの。火事というか、火災。まるで空襲を受けたみたいに、町中から火が立ち上っていて。人々は悲鳴を上げながら、テムズ川の中に飛び込んでいっていた。ウェストミンスター寺院も崩落して、粉塵が舞って」
「つまりロンドンってこと? ロンドンで、火災?」
「ええ。それから、焼け落ちる建物の合間を、黒い影が縫うように這っていく映像も。まるで影は、狼みたいだった。黒い狼。その陰が逃げ遅れた人を引き裂いて、それで……」
 そこでキャロラインは一度言葉を止めて、ストローに口を付ける。甘ったるいミルクセーキを、彼女はしかめ面で啜るのだった。それからキャロラインは、何かを確認するような視線をブリジットに送り付けてくる。彼女が送り付けてきた視線の意図が読めなかったブリジットは、困ったように首を傾げさせた。
「どうしたの、キャリー」
 ブリジットがそう尋ねると、キャロラインはミルクセーキを飲むのをやめた。そしてキャロラインはテーブルに両肘を乗せると、両手で左右のこめかみをぐりぐりと押さえつけながら、小声で語った。
「……それと、輸送機が見えたの。その中の光景も。黒スーツを着た黒髪の女性と、ワイズ・イーグルに似た男の人が見えた」
「ワイズ・イーグルって、アルフレッド連邦の空軍のブラッドフォード大将?」
「たぶん、その人。それと、あと……――」
「……」
「……左右の目の色が違う若い男の人が、死んでいた。首から血が迸って、床に倒れこんで、動かなくなって。それを、緑色の瞳をした黒い毛皮の狼が、見降ろしてた。それから狼が、黒いスーツを着た女の人に言ったのよ。この体を冷凍保存に回せ、って。ワイズ・イーグルはその光景を、腕を組んで黙って見ていて、それで……」
 左右の目の色が違う若い男の人が、死んでいた。
 その言葉に思い当たる節のあったブリジットは、一瞬にして血の気が引いていくのを感じた。
「キャリー。まさか左右の目の色が違う男の人って……」
 最後にブリジットが、彼を目撃した時。彼の目の色は、どういうわけか左右で色が違っていた。左目は普段通りのくすんだ蒼色だったのに、右目はなぜか緑色に変わっていたのだ。だが彼は、カラーコンタクトレンズを装着したわけでもない。それに極稀にだが後天的に異色症が発症し、左右の瞳の色が変わってしまうこともあるものの……――それは現実的な考えとはあまり言えないだろう。
 まるで、謎ばかりだ。だがそんな些細なことは、今はどうだっていい。
「えっと……――その人は左目が蒼で、右目が緑だった。髪の毛は黒というかダークブラウンで、くせ毛っぽくてうねっていて、シャツの色は青みが掛かった暗いグレー。それで身長は」
「彼、なの? ペルモンド・バルロッツィ」
 ブリジットのその言葉に、キャロラインは頷きもしなければ目を伏せさせもせず、否定も肯定もしない。キャロラインはあくまで、ブリジットの目を無言で見つめているだけだった。
 すると、そのとき。突然、静かだって店内がざわめきだした。
「うわぁぉ、こりゃ酷いぜ」
「やっと収まった戦乱が、また始まるのか? やめてくれよなぁ、まったく。合衆国政府も、南の大陸国家も、なにをやってくれてんだか……」
「……まっ、合衆国から独立した私たちには、もう関係ない話ではあるけど。空襲に巻き込まれた人たちは可哀想ね」
 他人事のような言葉が、店内のあちこちから吹き出す。彼らの視線は一様に、店主が点けたテレビに向けられていた。
「……キャリー。あれって、まさか」
「白狼さまの神託通りだわ。ロンドンが、燃えてる」
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