ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ

A Lonely star

 ――その程度に差はあれど、誰しも暗い過去や悪い思い出というものを、ひとつやふたつ抱えているものだろう。私だってそうだ、思い出したくない記憶はある。それに君たちも、きっとそうだろう? 安心してくれ、詮索するような真似はしないよ。
 とはいえ、それらは所詮「疾うに過ぎた時間」なのだ。多くの人は、何らかの方法で苦痛を誤魔化して、忘れるよう努力する。気の置けない間柄の友人たちと愚痴に興じたり、酒を飲んだり、大声を出したり、映画やドラマを鑑賞したり、ひたすら泣いたり。他にも方法はある。ともかくそうやって、気持ちをリセットするものだ。
 しかし、だ。どんな方法でも切り替えられない憂鬱さや、癒されない深い傷というものが存在する。レイモンドも、それに苦しんでいたうちの一人だ。
 これは、彼の死後に知ったことなんだがね。彼は、凄惨な事件に巻き込まれていたんだ。
 当時、世間を席巻し、ブライトンを恐怖に陥れた一人の凶悪な殺人鬼が居てね。まぁ簡潔に言うとレイモンドの家族は、その殺人鬼に殺されたんだ。当時十二歳ぐらいだった彼の目の前で、生きたまま顔の皮をナイフで剥がされ、家に火を点けられ、家ごと焼き殺されたらしい。
 そして犯人が逮捕されることはなかった。何故ならば、犯人も顔が潰れた無残な死体となって、事件現場となった家の前で発見されたから。そして犯人を惨たらしく殺したのは、十二歳だったレイモンドだった。
 これはレイモンドの死後、私が彼の故郷であるブライトンを訪れたとき。事件直後に彼と数回セッションを行ったカウンセラーから聞いた話なのだがね。あのときの彼は怒りのままに、暴走したらしいんだ。理性が瞬間にして吹き飛び、怒りという荒々しい感情が、凶暴な本能が、彼の体を支配したのだという。燃える家の前で高笑う男をレイモンドは引っ捕まえて、男が自分の家族を殺すために使ったナイフを奪い、そのナイフを男の腹に突き刺して。命乞いをする男に馬乗りになって、男の顔を握りしめた拳で殴り続け……――殺してしまったらしい。
 きっとレイモンドは最期まで、許せなかったんだろうね。人を殺した、自分の汚れた魂を。手に掛けた相手がたとえ、多くの人を理由なく殺してきた殺人鬼だったとしても。




* * *



「だから結局、私があの眼鏡を修理に持って行ったの。そうしたら、店員からこう言われたのよ。『お客様。この眼鏡、伊達ですよ』ってね。あとあの黒縁眼鏡は、ミズ・マックスが彼に贈ったものだってことも判明したわ。とはいえ例に違わず、彼はミズ・マックスのことなんて覚えてもいないし、あの眼鏡を自分で買ったのかそれとも他者から貰ったのかすら覚えてないけど。それでも、あの眼鏡に少し執着してる節があるでしょ? もしかすると彼の潜在意識には、まだ」
「その、ミズ・マックスっていう女性が存在しているのかもしれない、ってことかい? 頼れる姉貴分として、みたいな」
「ええ。まあ、そういうことだと思うわ。……それで。だから私は、新品を買うのをやめて、あの眼鏡を修理してもらうことにしたの。レンズは抜いてもらったけどね」
「…………」
「それで、その眼鏡を今朝、彼に返したとき。珍しく彼からお礼の言葉を貰えたわ。それと少しのお金も。別にチップが欲しかったわけじゃなかったから、お金は突き返したけど」
「なに考えてるんだよ、ブリジット。そういうのは笑顔で有難く頂戴しとくもんだろ?」
 ブリジットの話に、そんなツッコミを入れるのはシルスウォッド。そして彼の頭を後ろから平手で叩くのは、彼のガールフレンドであるキャロライン・“キャリー”・ロバーツ。ブリジットとシルスウォッドの二人は、このキャロラインの実家に上がり込んでいたのだった。
 そしてブリジットは、先ほどのシルスウォッドの言葉に反論しようとする。
「私と、あなたみたいなクズ男を一緒にしないで。私は善意から」
 しかしクズと名高き男は、ブリジットの親切の裏にあるものを、ちゃんと見透かしていたのだった。
「善意、ねぇ。下心の間違いじゃないのかい? だって君、あのペルモンド・バルロッツィが好きなんだろ。首ったけ。恋してる」
「別に、そんなわけじゃ」
「だって君はペルモンド以外の、他の男たちなんて眼中にないだろう? そっれにしても、ペルモンドかぁ。君も趣味が悪いね。あんな男のどこがいいんだ? あと君は気付いてないかもしれないけど、君に淡いピンク色の感情を抱いている男子学生って、大学に意外と多く居るんだぞ」
「えっ。なにそれ、初耳だわ」
「君はそこそこ美人だし、それに医学部だし、医者の卵だ。それも精神科医志望で、外科医ほどのリスクはない。平穏安泰な将来が確約されているも同然。だから、将来はキャリアウーマンにたかるヒモ男になりたい奴らが、君のことを狙ってるのさ。そして彼らはこう言っていた。『新進気鋭の若き大天才と、才色兼備の若き才媛。全てを手にしている者同士が結婚してどうする。貧乏人にも夢を見るチャンスをくれ』ってね」
「……はぁ。世の中には男女問わず、配偶者を口の緩いがまぐち財布としか思っていない連中が居るのね」
「僕は違うからね。念のために」
「知ってるわよ。あなたはまた別のジャンルのクズ男ってこともね」
「ははは、お褒め頂き実に光栄だよ」
 ブリジットが放った辛辣な言葉に、爽やかな笑顔を返すシルスウォッドの後頭部を、再びキャロラインの平手打ちが襲う。それでも笑顔を浮かべたままの彼に、ブリジットはペルモンド以上の狂気をひしひしと感じ、そして心底呆れていた。
「……私からすると、ペルモンドよりも余程あなたのほうが狂ってるわ。シルスウォッド、あなたは本当にサイコパスよ……」
「何か言ったかい、ブリジット」
「キャリーも男の趣味が悪いわねって、そう言っただけよ。こんな男を捨てて、もっとマシな男性を見つけるべきだわ」
 そんなこんなで、ブリジットとシルスウォッドが訪れていたキャロラインの実家。二人の滞在には、それぞれ違った理由があった。
 霊媒師で占い師だというキャロラインの母親は、出張鑑定がどうたらこうたらで、四日ほど家を出払っているという。その間、シルスウォッドは「ペルモンドが怖い」と彼女の家に逃げてきたらしい。そして今日で、キャロラインの母親が出払って&シルスウォッドが転がり込んできて三日目。この家の勝手も分かってきたシルスウォッドは、随分と大きな顔をしているように見えていた……――少なくとも、ブリジットには。
 そして緑色の瞳をした別人のペルモンドが、ブリジットの前に姿を現したのは一週間前のこと。突然変貌した彼に恐れをなしたブリジットは、逃げるようにその場を立ち去った。しかし彼女は立ち去り際に、勝手に彼の壊れた眼鏡を持ち去り、その日のうちに件の眼鏡を勝手に修理へと出した。そして今朝、修理を終えた眼鏡を回収し、大学に行く前にペルモンドの自宅に立ち寄り、彼に眼鏡を渡したのだ。
「なぁ、ブリジット。それよりも」
「ええ、そうね。本題に戻しましょうか。……キャリー、あなたも座って。特にあなたの意見を、聞かせてほしいの」
 ブリジットが出会った今朝のペルモンドは至って正常で、彼の重たい二重瞼から覗く瞳はくすんだ蒼色だった。受け答えも実にいつも通りのペルモンド・バルロッツィで、どこまでも素っ気ない対応で……。そして修理を終えた眼鏡をブリジットが手渡した際にも、彼は決してこんな言葉は口にしなかった。

  “Nice to meet you, Lady Ill-luck.”

「私も? またどうして」
 ブリジットに呼び止められたキャロラインは怪訝な表情を浮かべ、そう言った。今までこの話題に関しては、彼女は蚊帳の外に居る存在であっただけに、キャロラインは困惑を隠せないようだ。そして彼女は続けてこう言う。
「私は部外者というか、この話に無関係な気がするんだけど。第一、その荒ぶる大天才の顔すら私は知らないのに……」
 しかしキャロラインの交際相手であるシルスウォッドは、そう思っていなかった。彼はこう考えていた。キャロラインなしでは、ペルモンドという男の抱えている闇の原因を探れないのでは、と。
「なぁ、キャリー。君は、ペルモンドのことを知らないってずっと言っているけれども。本当は、違うんじゃないのか」
「ちょっと待ってよ、シルスウォッド。何を言ってるのか、私には理解が出来ないんだけど」
 突拍子もないシルスウォッドの言葉に、キャロラインはますます表情を険しくさせていく。そして彼女はボーイフレンドの傍には座らず、ボーイフレンドの幼馴染である女性ブリジットの隣に腰を下ろした。椅子に浅く座るキャロラインは少しだけ身を後ろに引いて、両腕を固く組んだ。警戒しているのは目に見えた事実で、彼女が警戒している対象が交際相手であることも明白だった。
 しかし、キャロラインに嘘を吐いているような様子はない。彼女は心の底から、この状況に驚いているようだとブリジットの目には見えていた。キャロラインが隠し事をしているとも、ブリジットには思えなかった。
 それでもブリジットは、口出しすることを避ける。ひとまずここは、ブリジットの友人でありキャロラインの交際相手であるシルスウォッドに任せることにした。
「あのさ、キャロライン。理解が出来ないのは、僕のほうなんだよ」
 椅子に座ったキャロラインに対し、シルスウォッドはそう言いながら立ち上がる。すると彼は忙しなく動き始めた。部屋の端から端へ、行ったり来たり……――それを早歩きで繰り返し、繰り返し。それから意味があるのかもわからないオーバーな身振り手振りを交えながら、彼は早口で喋り始めた。
「だって君とペルモンドの二人は、あまりにも共通点が多い。二人とも鏡が嫌いで、時々まるで別人であるかのように振舞う。そして二人して、僕の身内以外は誰も知りうるはずがない僕の秘密を知っていた。そこに居るブリジットだって昨日まで知らなかったような話を、君とペルモンドはなぜか知っていたんだ。君は二回目のデートの帰り際に、そしてペルモンドはつい四日前に。そのことで僕を、僕を……――」
 これはとても混乱しているときに見られる、昔から続く彼のクセ。それを知っているブリジットは無言で、狭い部屋の中を歩き回りながら喋り続ける友人の姿を見守る。しかしブリジットの横に座るキャロラインは、決して穏やかではなく、かといって苛烈に怒っているわけでもない不可思議な恋人の姿に、更に不安を募らせていた。
「ねぇ。ちょっと待ってよ、シルスウォッド。秘密って、なに? あなたは、私に、隠し事をしてたの? それに私が知ってるって、どういうことなの。私には心当たりが何もないんだけど……」
 あらぬ疑いを掛けられている。そう感じていたキャロラインは震える声でそう言うが、そんな彼女の言葉にシルスウォッドは耳を貸さない。キャロラインとブリジットの二人に背を向け、顔を耳まで赤くさせ、壁と向き合うシルスウォッドは一度、深呼吸をする。そして再び口を開くと、今度の彼は先ほどとは違う淡々とした声色で、ゆっくりはっきりと聞き取りやすい口調で語り始めるのだった。
「僕の本当の名は、シルスウォッド・エルトルじゃない。それに僕は、アーサー・エルトルとエリザベス・マクドナガルの夫妻の間に誕生した嫡出子ではない。兄であるジョンとは腹違いで、今の母であるエリザベスと僕に血の繋がりはない。そのことを何故か、君とペルモンドは知っていた。そして二人とも、そのことで僕を脅してきただろう? ……まあ、ペルモンドの言葉を借りるならば。別人格に変わっていたとかで、きっと君も何も覚えてないんだろうけどね」
 理解が出来ない。キャロラインは小さな声で、そう呟いた。私は何も知らない、そんなのは初耳だ、と。しかしブリジットは、言葉を発しなければ動くこともせず、また動揺もしない。ブリジットは既に昨日のうちに、驚きを終えていたからだ。
 ブリジットとシルスウォッドの二人は昨日の昼ごろ、昼休憩の合間にまた大学の蔵書間に行っていた。そこで二人は、話し合ったのだ。緑色の瞳のペルモンドについてを。その会話の中でシルスウォッドは、キャロラインの名前を口にしたのだ。
 それから会話の流れでシルスウォッドは、今まで隠していた重大な秘密をブリジットに打ち明けた。今まではそれとなく匂わせる程度のものだった秘密の存在を、彼は明確に明かしたのだ。両親と兄との複雑な関係と、隠さざるを得なかった自身の出生についてを。
「僕の本当の名前は、シスルウッド・アーサー・マッキントッシュ。無学だった実の母親が“Thistlewood(シスルウッド)”のスペルを正しく書けなくてね。父の連絡先が書かれた名刺の裏面に、インクも切れかかったボールペンで、読み解くのもやっとな汚くて擦れた字で、こう書いたんだ。“Thirouswadd(シルスウォッド)”。そこからこの奇妙な名前が誕生したんだ」
 頑なに隠し続けていた秘密を、彼が打ち明けた理由。それはも秘密が、秘密でなくなってしまったからだった。
 というのもシルスウォッドはこの出生の事実が原因で、脅しを受けていると告白したのだ。二人から、それもブリジットがよく知る二人。親しい間柄だと思っていた、ペルモンドとキャロラインの二人だというのだ。
「そして奇妙な名前が書かれた名刺を独房に残し、臨月の妊婦であった母は、自分の首にインクの切れたボールペンを突き刺して死んだ。最期に、看守に向かって『名刺の男が、赤子の父親だ』とだけ言い残して。それからお腹にいた赤子、つまり僕は、母親が死んだ二分後に帝王切開で産まれた。そして僕の実の母親は、ブレア・マッキントシュ。聞き覚えがある名前だろう?」
 しかし、だ。シルスウォッドはこうも言っていた。僕が抱える秘密の詳細をすべて暴いてみせたうえで、彼らが僕に脅しを掛けてきたとき。彼らの様子は普段と違っていて、まるで別人のようだった、と。
 シルスウォッドによると、どちらも脅しをかけてきた瞬間の瞳の色が、普段と違っていたそうだ。平常時、ペルモンドとキャロラインはどちらも同じくすんだ蒼色の瞳をしている。曇りがちな青空の、あの色だ。しかし脅しを掛けてきたときの瞳の色は、両者ともに澄んだエメラルドグリーンだったという。そのうえ態度も普段とは違い、どこか高圧的だったそうだ。
 ここまでの特徴は、二人とも似通っている。だが要求してきたことが違ったうえに、矛盾していたという。それに高圧的な態度はどちらも同じだが、性格は異なっていたそうだ。
「……まあ説明するまでもないだろうけど。僕の実の母親は故人、そして元売春婦のスプリーキラーだ。そして父親はご存知のとおり、元弁護士で国会議員のアーサー・エルトル。父親は昔、ブレア・マッキントッシュの弁護をしていた。そして僕は、その裁判中に生まれた子供。犯罪者と弁護士の間に生まれた、不義の子ってやつだよ」
 まず、エメラルドグリーンの瞳をしたキャロラインの要求。彼女はまず自分の名前を「白狼」だと名乗ったうえで、シルスウォッドにこう言ってきたそうだ。
『私を、黒狼のもとに案内しなさい。モルガンの名を与えられた死神が、宿主である彼に手を出す前に。彼の居場所へ、私を案内しなさい』
 初めての脅しは、半年以上前。シルスウォッドとキャロラインの二回目のデート、その帰り際。突然豹変した彼女の姿に、そして容赦なく暴かれた秘密に、彼は恐れおののいたという。しかしその時の――まだペルモンドと出会う前の――シルスウォッドには、彼女が発した言葉の意味が分からなかったそうだ。そうして彼が怯えていると、ふと彼女は正気に戻り、瞳の色も蒼に戻り、何事もなかったかのように一日の別れを告げて、帰路に就いたという。
 それから何度か、キャロラインは豹変を見せた。そして毎度、似たような脅しを掛けてきた。超然とした振る舞いと、毅然とした態度で、シルスウォッドを見下すように。そうして回数を重ねていくうちに、そしてペルモンドという男と出会い、シルスウォッドは暗号めいた言葉の意味を理解していった。“黒狼”も“宿主である彼”という言葉も、どちらもペルモンドのことを意味しているのだと。
「しかし弁護士の男は妻子持ちで、既に円満で幸せな家庭を築いていた。そのうえ男には、国会議員になる予定があった。男の妻は、その道を確固たるものに固めなければいけなかった。そのためには、僕のような汚点は存在してはいけない。だから僕の戸籍に父は手を加え、育ての母は自分が産んだ子供であると嘘を吹聴して回った」
 それから、エメラルドグリーンの瞳をしたペルモンドが突きつけてきた要求。それはキャロラインとは、正反対のものだった。
『お前に、白狼が付き纏っているのは知っている。俺とヤツを引き合わせたりしたときにゃ、お前のことをたたじゃぁおかねぇぞ』
 要するにエメラルドグリーンの瞳をしたペルモンドは、キャロラインに会いたくないと言ったのだ。そしてうっかり鉢合わせるようなことがあれば、ペルモンドはシルスウォッドを殺すと暗に言った。心を捨てた暗殺者のような、狂気的な笑みを口元に浮かべながら。笑っていないエメラルドグリーンの瞳でシルスウォッドを見つめて、意味深長に笑いながら、ペルモンドはそう言ったのだ。それからペルモンドは最後にこれだけを言うと、そのまま気を失うようにその場に倒れこんでいったそうだ。

 俺の名前は、いずれ分かるだろう。けれども今は、こうだけ名乗っておこう。
 翠瞳の黒狼、と。

「そして僕は今も、親たちが望んで作り上げた嘘を演じ続け、自分を犠牲にし続ける必要がある。何故なら真実が明るみに出れば、僕も家族も何もかもが崩壊するからだ」
 ゆえにシルスウォッドは昨日、ブリジットにこう話した。一週間前に君が会ったという奇妙なペルモンドは、もしかしたら僕を脅してきた自称“黒狼”なのかもしれない、と。それからキャロラインが見せた“白狼”という存在のことも彼はブリジットに話し、それから彼は少々突飛でぶっとんだ仮説を述べた。

 本物の悪魔憑きって、君は信じるかい?

「僕には“殺人鬼ブレア・マッキントッシュの息子”だというレッテルが貼られ、普通に生きる権利を世論に奪われるだろう。そして家族は、バッシングを受けるどころじゃ済まない。キャリアや家の名誉、そういったものすべてに泥を塗ることになってしまう。だから僕は、自分のために、そしてクソ野郎揃いの家族のためにも、嘘を塗り重ね続けてきた。物心ついてから、ずっと。だから僕と家族以外、この秘密は誰も知らないはずだったんだ。僕だって、この事実を人に話すのは初めてなんだ。だけど」
 ブリジットはその仮説に腰を抜かし、思わず失笑してしまった。バカげている、ついにイカれちゃったの? ……そんな言葉も、シルスウォッドに投げつけた。けれども少なくとも彼は、本気だった。
 けれども、だ。ブリジットも散々笑い転げた後、ふと冷静に考えて我に返った。思い返せばブリジットも目撃したではないか。ペルモンドの瞳の色が変わった、その瞬間を。精神病が見せる人格交代とは違う、底知れぬ恐怖を感じた全くの別人の姿を。
 それから、ブリジットとシルスウォッドの意見は一致した。もしかしたら、キャロラインとペルモンドは不思議な縁で繋がっているのかもしれない。それも本人たちの縁ではなく、彼らに取り憑いている謎の“白狼”と“黒狼”が接点なのかもしれない。
 だとしたら。その“白狼”と“黒狼”の正体を暴ければ、何か掴めるものがあるのではないか。
 例えば、ペルモンドという男がああも情緒不安定な理由とか。
「キャリー。君と、ペルモンドの二人は、僕の何もかもを言い当てた。一度も教えたことはない情報を、二人して知っていたんだ。そして秘密を言い当てた瞬間、君たち二人の目は完全に同じだった。二人して、あの緑色の瞳になっていたんだ。気味が悪いほど綺麗な、エメラルドグリーンのあの瞳だよ。二人とも、本来の瞳の色は蒼なのに。――……なぁ。僕の言いたいことは、もう分かるだろう?」
 そうしてシルスウォッドは溜息と共に、長台詞を終えた。それから彼は振り向き、キャロラインに視線を送る。彼が掛けている眼鏡の縁のように赤くなった顔で、そして血走った目で、シルスウォッドはキャロラインを見つめていた。
 するとキャロラインは少し俯き、それから下唇を少しだけ噛んで黙り込む。それが二分ほど続き、沈黙の時間が訪れた。そうして二分後、キャロラインは顔を上げる。そして彼女はこう言った。
「……見えた。ええ、分かったわ。あなたの言いたいことが」
 言葉が零れると同時に、キャロラインの蒼い瞳から涙がぽたぽたと落ちていく。そこでブリジットは漸く動き出し、泣き出したキャロラインの肩にそっと手を置いた。
「キャリー。大丈夫?」
 そう声を掛けるブリジットは、キャロラインにハンカチを差し出すも、キャロラインは受け取るのを拒んだ。そうして涙を拭きもしないキャロラインは恋人の目を見つめ返すと、こう言った。
「シルスウォッド、ごめんなさい。私こそ、あなたに隠し事をしてたみたい。今までは言う必要がないと思って黙ってたけど、やっぱりあなたには教えておくべきだった。……でもね。ブリジットが居ると、話せないことなの。今は、二人にしてもらえるかしら」





 秘密。何かを守るために、必要なもの。
 でもその秘密は、具体的に何を守っているのだろう。
「私の言った通りでしょう? 誰もあなたの顔なんか見てないし、わざわざ声を掛けてきたりしてこない。人間は基本的に、他者に無関心な生き物なのよ。人通りが多ければ多いほど、自己中心的になって周りなんか見ていないものなの」
 秘密により、守られるものは人それぞれで、場合によりけり。命であったり、心であったり。名誉や財産、利益や権力といった、つまらないものであったり。自分のものであるか、家族や友人といった親しい者のものであるか、顔も知らないような他者のものであるか。それもまた、ケースバイケースである。
「それにしても、私たち。他の人の目には、どんな風に映ってるんでしょうね。単なる友人か、恋仲の男女か。……ねぇ、ペルモンド。あなたは、どう思う?」
 ブリジットのそんな問い掛けに、横を並んで歩く男は何も言わない。彼の蒼い瞳はただ正面だけを見ていて、ブリジットに気を配るような素振りもなければ、彼女の存在に興味を示しているとも思えない。
 とはいえブリジットの目には、彼の耳の穴にずぶりと深く挿し込まれた耳栓が見えている。自分の声が彼に聞こえていないことは百も承知で、延々と語り掛け続けているのだ。一方通行で、木霊すら返ってこない会話を。
「……こうして並んで歩いてみると、あなたって身長が低めなのね。?せっぽちのシルスウォッドは一丁前に一八五センチもあるけど、あなたと私は同じぐらい。一七五センチ弱。並んで歩く分には、見降ろされてるっていう威圧感がなくて丁度いいわ。っていうか、あなたのほうが若干低いかもね」
 東から吹く海風が、凍えるような寒さを街にもたらす。秋も暮れ、冬に入った時節。雪雲が迫りくるのを頬で感じながら、賑わう夜の中華街を二人は歩いていた。
 ブリジットがキャロラインの涙を見たのは、昨日のこと。その日の晩にシルスウォッドは、居候先であるペルモンドの家に戻ったという。そして今朝、シルスウォッドはペルモンドを強引に外へと引っ張り出し、二人は大学の講義に出席したという。
 そして久しぶりに顔を出した天才に、教授や学生たちは詰め寄った。話題は新種のエネルギー物質、アバロセレンで持ち切り。しかしペルモンドは一切の口を噤み、何も語ることはなかった。何故ならば、彼は何も知らないからだ。よって当然の対応といえるだろう。
 そんなペルモンドの塩対応に、皆の熱は一瞬で冷めていった。そしてアバロセレンという謎多き話題を、彼に吹っ掛ける愚か者は消えていった。
「…………」
 突如として現れ、世間をそして彼を混乱させた“アバロセレン”という存在。あの衝撃から幾分か時間が経過した今もなお、その詳細は分かっていない。だがペルモンドが家に引きこもっていたその間にも、世間には真偽不明の多くの情報が流された。
 数十億年前に地球に飛来した隕石の中から発掘された金属だとか。人工的に新たに作り出された液状の物質であるとか。某国の某鉱山にアバロセレンの鉱脈があって、そこから採掘された新種の液状金属であるとか。マグネシウムのようにすぐ酸化してしまう物質で、酸化する際に凄まじい熱エネルギーを放出するのだとか。石油のように燃えるけれども尽きることがなく、そのうえ水を掛けない限り、または酸素が尽きない限りは半永久的に燃え続け、これにより永久機関の実現が可能になるかもしれないだとか……――。
 情報源がどこなのかも分からないような情報が世界に氾濫し、今もなおそれは増え続け、錯綜し続けている。しかしそのどれにも、ペルモンドおよびシルスウォッドは無関係だった。真実は、そうだった。なのに。
『ラーズ・アルゴール・システムズとかなんとかいう軍需企業の社長さん、エズラ・ホフマンって名乗ったクソ野郎が、僕に札束を突き付けてこう言ってきたんだ。アバロセレンについての全ての報道に対して、否定もしなければ肯定もするな。無言を貫け、ってね。僕とペルモンドが黙っている限り、全てが事実になる。それがホフマンさん家の利益となるそうな。ふざけた話だよねぇ、まったく。この世の中、本当に、どこまでも、腐ってやがる。手の施しようがないほど、クソだ』
 二週間前、アバロセレンという新種のエネルギー物質に、世界中が沸いていたころ。眠り続けて目覚める気配のないペルモンドを横目に、暗い顔をしたシルスウォッドはブリジットにそう漏らしていた。
 そして彼はあの時に、こんなことも言っていた。
『お金はもちろん、受け取らなかったよ。口止め料のような汚れた金銭は受け取らないに越したことはないっていうのは、父の背中を見て学習していたし。……けど僕は、臆病者だ。偉大な権力に立ち向かおうっていう勇気は持ち合わせていないし、大正義を遂行しようとも思わない。正義が何なのかも、僕には分らないしね。それに秘密の犠牲になることは、良くも悪くも慣れてるから。抱える秘密が一つ増えるくらい、どうってことないさ』
 どんよりと沈んだ目で、シルスウォッドはそう言いながら気丈に笑ってみせていた。気丈に笑う演技を、彼は必死に取り繕っていた。
 そんなシルスウォッドの顔色は日に日に蒼白く、そして暗くなっている。昨日を境に、それは悪化していた。今朝ブリジットが見た彼の顔は、どこまでも悲壮で……――とても直視できるような姿ではなかった。そして数時間前にブリジットがシルスウォッドと会った時、彼はこう言った。今は一人になりたい気分なんだ。家に帰って、一人で、ただ寝ていたい、と。
 そういうわけでブリジットは、シルスウォッドの居候先である家の主を掻っ攫ってきた。暗い顔した友人の安眠のために、それとブリジットの個人的な関心ごとのために。
「ねぇ、シベリアンハスキーさん」
 横に並ぶペルモンドの肩を、ブリジットは二回ほど軽く叩いて、彼の注意を自分に向けた。するとそれまで正面だけを見続けていた彼の視線が横に逸れ、今日初めてブリジットを――ほんの少しだけ、フォーカスが左にずれているものの――見る。ペルモンドは片耳の耳栓を外し、その場に立ち止まった。ブリジットも彼に合わせて立ち止まり、意味ありげな微笑みを浮かべ、ペルモンドに視線を送った――彼の目には自分の微笑みなど見えていないということは、百も承知の上で。それからブリジットは、彼にこう言った。
「もう時間も遅いし、私はお腹がペコペコ。ここいらで、どこかお店に入らない?」
「どこか、って……どこに?」
「ディナーよ。私は空腹で堪らないの。あなたは?」
 ブリジットがそう尋ねると、ペルモンドはもう片方の耳栓も外し、それを羽織っていたジャケットのポケットに入れた。そして彼はこう返答する。
「俺は、さほどでも。まぁ、時間が時間だ。付き合うよ」
 時刻は九時すぎ。人通りの多い場所とはいえ、そろそろ女性が一人で出歩くには危険な時間が近づいている。そういうことも鑑みてなのか、彼はそう申し出た。厚かましさや恩着せがましさなどはない、さらりと爽やかな言葉で。
「……えっ、あっと、その……」
 どうせ彼のリアクションなんて無言で頷くか首を横に振るかだろうと、あまり期待せずに構えていたブリジットは、良い意味で期待を裏切られたことに驚いていた。それも返ってきた言葉は、ブリジットも予想していなかったもの。まさかの、紳士的な発言。
「……どうかしたのか?」
「いえ、なんでもないわ。ただ、その。あなたにもジェントルマンな一面があったのねぇって、そう思って。ちょっと、驚いたの。それだけよ」
 驚きのあまり、ブリジットのほうが固まってしまった。
「そうねぇ、それじゃあお言葉に甘えて。えっと……私は、ハイカロリーなものが食べたい気分なの。だから……――」
 ブリジットは気を取り直し、呼吸を整える。それから彼女は周囲をきょろきょろと見渡し、通りに並ぶ飲食店を品定め。場所が中華街であるだけに、中華料理店ばかりが目立つが、その中からブリジットが選んだのは斜め上の選択肢だった。
「あそこのステーキハウスとかどうかしら。あのお店、ガーリックの効いた赤身のビーフが最高だって、ひとから聞いたことがあるの」
 此度、驚かされたのはペルモンドのほうだった。先ほどまでクールな無表情だった彼の顔も、ブリジットの言葉を受けて歪んでいく。
「……中華街で、ステーキ?」
「あなたが嫌なら、他のお店にするから気にしないで。ほら、中華街だし、他のお店はいっぱいあるもの。そうねぇ……なら、あのお店はどうかしら。酢豚が絶品だって聞いたことが」
「君のほうこそ、俺のことは気にしなくていい。ステーキが食べたいなら、そうすればいい。それに……――豚は、駄目だ。豚だけは、絶対にありえない……」
「あなた、大丈夫? 顔色が、悪いみたいだけど」
「……豚を、喜んで食べるなんて。東洋人も欧米人も、どうかしてるだろ……」
「ペルモンド?」
「あっ、いや。なんでもない。気にしないでくれ」


* * *

 ――レイモンドという男を語るうえで、私の友人ビルギット・メイ・アルドリッジの存在を欠かすことはできない。彼女は私が思うに、彼の心に最も近づいた人物だ。彼と肉体的な接触は一度も無かったにも関わらず。レイモンドという男も不思議な人物だったが、ビルギットもまた不思議な女性だったよ。
 実を言うと私とビルギットは、レイモンドと出会う前は交際していたんだ。半年ほど、男女の仲にあったものの……お互い、どうにも友達の感覚が抜けなくてね。破局し、結局は元の友人という関係に戻ってしまったんだ。そして私と彼女が友人に戻ったばかりの頃に現れたのが、レイモンドだったんだ。
 あの頃は友人に戻ったとはいえ、破局したばかりだったために、どことなく私と彼女の間には、なんともいえない複雑な風が吹いていたんだ。レイモンドはそんな私たちの間に入り、関係を繋ぎとめる役割をしてくれていた。やっぱり彼は偉大だったし、愛に満ちたお人よしだったね。
 そしてビルギットは、そんなレイモンドに少しずつ惹かれているようだった。彼女はその感情を言葉に表すことはなかったけれども、彼女の表情を見ていれば分かったよ。あれは、恋をしている顔だったね。
 だがレイモンドと彼女の二人が、友人以上に進むことはなかった。彼女は私に気を遣って、レイモンドは彼女に気を遣って。もどかしい二人だったよ。
 しかしそれ以上に進むことがなかったからこそ、彼女はレイモンドの丸裸の心に迫れたのかもしれないし、彼も彼女の前だけでは涙を見せられたのかもしれない……。


* * *



「豚は、絶対にダメで。牛は、なんとなく気が引ける。だけど鶏と山羊と羊と駱駝は、問題ない。それで私が普通に食べるようなパンは無理で、だけどベーグルは大丈夫。でもベーグルにハムとチーズを挟んで焼くなんて考えられない、ねぇ。うーん、あなたって人はヴィーガンよりも厄介だわ……」
 そう呟きながらブリジットは、目の前に置かれている牛肉のステーキを、ナイフとフォークを使って慣れた手つきで一口大に切り分けていく。そして切り分けた肉にフォークを突き刺し、口に放り込んだ。それからブリジットは食べながら、もごもごと喋る。同じテーブル席の、向かいに座っている男に向かって。
「あなたは私のことを変だっていうけど、私からすればあなたのほうが変わり者よ。羊のお肉はクセが強いし、山羊は臭みが凄くて、私はあまり好きじゃないわ。それに駱駝を食べるなんて……あなたって本当に、チャレンジャー。駱駝の味なんて、想像もできない。というか駱駝なんて、動物園でしか見たことがないのに。あれを、食べるの?」
「駱駝は普通に、食べられる。臭みもないし。たまに脂がくどいが、悪いところはそれぐらいだ」
 一〇〇〇グラム、値段にして七十四ドルになる牛肉の塊を乱雑に切り分け、満足そうに頬張るブリジットを前に、そう返答したペルモンドは苦笑う。細身の女性だとはとても思えないような、常軌を逸したブリジットの食欲には、彼も苦笑することしか出来ないようで……――。
「駱駝云々の前に、君はそれを食べきれるのか? そっちのほうが、心配だ」
「これでもあなたに遠慮して、少なめにしてるぐらいなんだけど」
「――……?!」
「普段なら、一五〇〇グラムは余裕で食べるわ。サラダも、ボウル皿でね」
「……君は胃袋の中に、ブラックホールでも飼っているのか?」
「あら、小食の天才さん。細身で大食いの女はお嫌いでして?」
「いや、そういうわけじゃないが。ここまで食べる女性を見るのは、初めてなもんで……」
「大食い女っていうジャンルにおいて、あなたの初めてになれて光栄だわ。それで、ペルモンド。うかうかしてると、そのコールスローも私が食べちゃうけど」
ペルモンドの前には小さな器に盛られたコールスローだけが置かれていて、それは手付かずの状態で放置されていた。ブリジットの指摘を受けて、初めてコールスローの存在に気が付いた彼は、見えていない蒼い目を少しだけ伏せさせる。そして彼は先ほどまでの苦笑いとも違う、自然で穏やかで、けれどもほんの少し哀しみを帯びた小さな笑みを見せた。
「……どうかしたの、ペルモンド」
「あぁ、いや。俺は、要らないから。やるよ」
「本当に? だって私の知る限りあなたは、この二時間ずっと何も食べてないはずだけど……」
「昨日の夜から、何も食べていない」
「なんですって? それは、駄目よ。何か食べなきゃ」
「胃が痛くて堪らないんだよ。今朝からずっと、周りに人が群がってくるわ、質問攻めにされるわで。こういう時は、何も食べないに限る。下手に何かを無理に食べて、戻したくはないしな……」
 すると途端に笑顔になったブリジットは、ペルモンドの前に置かれたコールスローの皿に手を伸ばし、自分の前へと寄せる。彼女が注文した一〇〇〇グラムのステーキは、既に三分の一も残っていなかった。
「そうなのね。ならあなたの胃のために、このコールスローは遠慮なく頂くことにするわ」
 ブリジットが笑顔になった理由。それは彼から、コールスローを譲ってもらったことだけではない。黒縁の伊達眼鏡を掛けていない彼が見せた、無表情と苦笑以外の表情を見れたこと。それと、こうして二人で食事をする機会――とはいえペルモンドは水以外は何も口にしていないため、厳密には違うが――が設けられたことが、ブリジットには嬉しかったのだ。
 今日の夕方ごろ、蔵書館で少しシルスウォッドと話し込んだ後。ブリジットは大学構内、中でもエリートだけが揃う工学カレッジに赴き、そこに居るはずであるペルモンドに会いに行った。いつもの研究室に彼は居るだろうと見当をつけ、そこを目指しブリジットが工学カレッジのエントランスに入ると、二階へ続く階段から慌ただしい足音が聞こえてきた。地獄を見たとでもいうような顔をしたペルモンドが、階段を駆け下りてきたのだ。
 階段を駆け下りてきたペルモンドは、勢いそのままにエントランスを猛ダッシュ。何かから逃げるように、ブリジットの真横を通り過ぎ、校門のある方角へと走っていった。そして彼の背中を、ブリジットは慌てて追いかける。パンプスで必死に走りながら、ブリジットは彼の背中に向かってこう叫んだ。
『ハスキー! 止まって!!』
 すると彼は、ピタッと止まった。昔のように、犬の名前に反応したのだ。立ち止まった彼にブリジットは大急ぎで駆け寄り、息も絶え絶えな声で彼にこう問いかけた。
『何を、そんなに、慌てているの?』
 それに対し彼は、こう返した。
『教授、学生。その他大勢。ほら、後ろを見てみろ。奴らが追ってくるぞ……』
 そしてブリジットは、工学カレッジのほうを振り返って見た。すると彼の言葉通り、二十数人の人間が雪玉のようになって出てきたではないか。
『ええ、そうみたい。逃げましょう、ペルモンド』
『だが逃げるったって、どこに』
『考えるのは、あと! とりあえず私について来て。走るわよ!!』
 ……そういうわけでブリジットは彼の手を引き、二人の逃走劇が開幕したのである。
 大学構内を猛ダッシュで駆け抜け、校門を潜って脱出すると、二人は大学前の通りにあったメンズ服専門のアパレルショップに駆け込んだ。そこで彼の身体に合う適当なジャケットと帽子を購入し、簡単な変装を済ませた。それから店を出る前に、ブリジットはペルモンドにある提案をした。それが、彼が掛けていた伊達眼鏡を外すというものである。
『その眼鏡は伊達だし、どうせあなたの目には何も見えてないんですもの。いっそ、外しちゃいましょう』
 レンズの入っていない伊達眼鏡を外す。ただ、それだけのことなのに。何故だかペルモンドは、難色を示した。が、しかしブリジットのこの言葉に彼は素直に従った。
『眼鏡ってね、人の印象を凄く変えるのよ。女性の化粧ぐらいに変わる。そして黒縁のスクエアフレームが与える印象は、怖いとかインテリっぽいっていうもの。だけど、それを外すとね。怖いとかインテリっぽいとか、冷徹そうだわーっていう印象が拭い取られて、まったくの別人に見えるわけ。ほら、だから早く外して。私にその眼鏡を渡して』
 渋々ペルモンドは眼鏡を外し、それをブリジットに渡した。ブリジットは受け取った眼鏡を未使用のタオルハンカチに包み、鞄の中に入れた。それからブリジットは店員に諸事情を説明し、店の裏口を遣って、チャールズ川へ続く裏通りへと出させてもらったのである。そしてチャールズ川に向かう道中でタクシーを拾い、中華街にやってきたのだ。
「それにしても今日は、なんだか大変な一日だったわ。走って、走って、走って……。でもきっと、あなたのほうがもっと大変だったはずよね。だって人混みと喧騒が何よりも大嫌いなペルモンド・バルロッツィが、一日中それらに囲まれてたんですもの。それに私が、夜の中華街だなんていうボストンで一番騒がしい場所に連れてきちゃったばかりに……」
「ああ、大変だった。未だに耳鳴りと頭痛がしてるよ」
 そう言いながら、ペルモンドは少しだけ笑った。皮肉交じりの、疲れた笑顔で。
 眼鏡を掛けていない彼の顔には疲労の翳がよく見え、身も心も疲れ切っているのは言うまでもない。だが、珍しい表情だとブリジットは感じていた。疲れ切っている笑顔を浮かべる彼だが、その笑みは今のこの状況を少し楽しんでいるようにも見えていたからだ。
 “今のこの状況”というのが、彼が今おかれている境遇のことなのか、それともこのステーキハウスで過ごしている今この瞬間のことなのか。その判断は、ブリジットにはできなかった。だが、彼女は願った。彼の笑みの理由が、後者のほうであることを。
「……ねぇ、ペルモンド。ひとつ、訊いていい?」
「ああ。俺の過去にまつわることと、アバロセレンのこと以外なら」
「あなたの来歴には興味があるけど、アバ……アバ、アバなんとかっていうのには興味ないわ。それにあなたに今訊きたいことは、そういうのじゃないの。もっと単純で、だけど他者には分からないものよ」
 今、あなたは何を考えているの?
 ブリジットが訊きたいことは、それだった。目の前に居る男が、今なにを考え、何を思い、何を感じているのか。それが、知りたかった。もっと詳しく言うなら、彼がブリジットに対し、どんな感情を抱いているのかを知りたかった。
 彼にとっての“ブリジット”は、嫌な思い出のある医者、リチャード・エローラの娘なのか。それともただの友人か、友人ですらないただの女なのか。はたまた、それ以上になっても良いと思えるような相手なのか。または、嫌いな女なのか。
 けれども、ブリジットの口から飛び出た質問は、本当に訊きたかった言葉とは違っていた。
「あなたが生きている世界を、私は知りたいの」
「世界? 君と同じ世界、三次元の宇宙のなかで生きているつもりだが」
「違う、そういうことじゃないわ。えっと、その……――つまり、知覚のはなしよ」
 違う、そういうことじゃない。
 ペルモンドに向けた言葉を、ブリジットは自分にも向ける。訊きたいのは、それじゃない。だけれども、別の話を切り出してしまった。
 だから、もう、戻れない。
「あなたは目が見えないはずなのに、まるで見えているかのように振舞う。私にはそれが、すごく謎なの」
「そんなに、謎か?」
「ええ、そう。だって私は、普通に目が見えるもの。普通に目で見ることができる世界しか知らない。だから私には、目が見えていないにも関わらず、物体の場所とか距離感とかを正確に捉えることができるあなたの世界が分からないの。予想もできない。だから、知りたいの」
「……まあ、確かに。言われてみれば、そうだな」
「シルスウォッドがあなたの家に転がり込んできたばかりのあの日に、あなたは脳出血を起こして倒れて、それが引き金になって完璧に目が見えなくなったでしょう? あなたの脳にある全ての視覚野が、あの時に機能を失った。その事実に関しては、あの時に二度もあなたの脳を検査した私の父のお墨付きがあるから、疑う余地はない。だけど、それ以前も以降も、あなたの動作はまるで変ってないの。いつも完璧に、全てを見極めている。見えていないにも関わらず。不思議よ。不思議でたまらないわ」
 今この瞬間も、ペルモンドは見えていないはずの蒼い目で、ブリジットの目を見つめていた。視覚に障害があるとは思えないような、一点の曇りも揺らぎもない視線を、彼はブリジットに送っているのだ。まるで彼女の顔が見えているように。
 だが、明らかに健常者ではないと思わせる、不自然な点があるのも事実だ。彼はブリジットの輪郭を捉えることは出来るようだったが、彼女の表情まで把握しきれていないのは明白だった。だから彼は、気付いていない。彼女が浮かべている、気まずそうな表情に。
「でもあなたは他の視覚障碍者たちと違って、杖のようなものを携帯していないし。あなたが杖を通じて得る触覚で距離感を計っていないのは、考えなくても分かるわ。だけどあなたはエコーロケーションを用いて距離感を計る人たちのように、舌打ちのようなクリック音を立てたりもしない。寧ろあなたは酷い聴覚過敏で、外に出歩くときはいつも耳栓をしているんですもの。音で、距離感を掴んでいるとは思えないわ。それに視覚野が死んでいたら、たとえ音で物体の位置を掴めたとして、その情報をもとに頭の中で映像を組み立てることも困難なはず。だったら、あなたは何で空間を認識しているの? 私には見当もつかないんだけど」
 純真にきらきらと輝く好奇心に満ちた声で、ブリジットはそう尋ねる。ペルモンドは、真正面からそれを受け止めていた。故に彼は、真摯にこう返す。
「俺も昔は、晴眼者だった。空のかなたを飛ぶ小さな戦闘機の輪郭を、くっきりと見ることが出来るぐらいには視力が良かった。だから、君が訊きたいことはよく分かるよ。だが……うまく言葉で説明するのは、難しい。この手の問題は、特に。映像化して、疑似体験できるプログラムを作成できればいいが、生憎目が見えないからな。映像を作成することは、俺には困難だ」
「そこを、なんとか。うまく言葉には出来ないかしら」
「強いて言うならば、音だ。そしてすべてが計算尽くの行動。音の撥ね返り等から得た情報をもとに、計算するんだ。どれだけのスピードで、どれだけの歩幅で、どの方角にどれだけ進めば、何メートル先にある障害物を避けられるかを。絶え間なく、ずっと。同時並行で、幾つも式を展開する。そして出来るだけ高速で、解を導き出さなければならない。だからいつも、時間と自分との戦いだよ」
「うわぉ……まるで、人間スーパーコンピュータね。っていうことはやっぱり、その天才的な頭脳があってのことなのかしら」
「それも一理ある。けれども、計算で補えるのはどう頑張っても一部だけだ。うまく言葉に表せないが、五官の機能以外のもう一つの何かがあっての、今だ。本当に、その、説明が難しい」
「第六感、みたいな? コンピュータから、一気にスピリチュアルになっちゃったわね」
「第六感か。まぁ、そんなところか。……内側に、何か自分でない異質なものを飼っているような気がして。それに命令されるがままに動いていたら、特に何かに衝突するわけでもなく、無事に過ごしていられるというか……」
 ペルモンドは言葉選びに悩みながらも、ぽつりぽつりと言葉を落とし、それを繋げていく。心底悩ましそうな彼の顔に、彼女に対する疑いなど見られない。そんな彼の真摯な態度が、ブリジットの表情を曇らせていく。
「内側に、自分でない異質なものを……。ねぇ、ペルモンド。その異質なものって、どういう感じ? たとえば……それは不愉快なものなのか、とか」
「不愉快?」
「胃がムカムカするとか、頭の中にこびりついて離れない声だとか、そのせいで睡眠が阻害されるとか。そういう症状みたいなのって、あるのかしら」
「その口ぶりから察するに、俺は病気か何かだとでも……――」
「いえ、そういうのじゃないわ! そういうわけじゃ、ないの。そう思わせちゃったなら、ごめんなさい。いつもの癖が、出ちゃったのかも。……えっと、それで、私が聞きたいのは、その異質なものに対しあなたはどう思ってるのかってことで……」
 そして不必要な斟酌をしない、不器用なまでに実直な彼の性格も相まって、ブリジットは彼に必要以上の後ろめたさを感じていた。彼に嘘を吐いているような、彼を騙しているような気分に苛まれていたのだ。
 急に気まずくなった雰囲気に、ブリジットは顔を俯かせる。するとペルモンドは椅子から立ち上がり、財布から百ドル札を一枚取り出すと、それを叩きつけるようにテーブルに置いた。それから彼は、アルカイクスマイルを浮かべ、ブリジットにこう言うのだった。
「きっと君が俺に対して思っていることと、俺が俺に対し思っていることは同じだ。俺の頭は異常で、俺の精神は破綻している」
「ペルモンド、私はそこまで言ってないわ。ただ、あなたはちょっと変わってるって言っただけよ」
「違う。俺は、多重人格の厄介者だ。その点に関しては、あの口うるさい居候に散々指摘をされた。だから、嘘を言わなくていい。俺は既にそのことを知っているし、ありのままの事実を受け入れているから」
「違うわ。……いえ、やっぱり違わない。そう、あなたの精神は破綻しているわ。私も、そう思う。けれども、私はこうも思っているの。あなたが今の状態に陥ったのには何か理由があって、それさえ分かればきっと対処できるって。だから私は、あなたのことを知りたいの。つまり」
「つまり君は、俺のことを何も知らない」
「ええ、そうよ。何も知らない。だってあなたが、教えてくれないから。でも」
「ああ。俺は、君に何も俺自身のことを教えていない。何故ならば君が俺を知らないのと同じぐらい、俺も自分のことがさっぱり分からないからだ。自分の今の状態も、どうして今ここで息をしているのかも。何もかもが、分からないんだよ」
 ついさっきまでの真摯な態度はどこへやら。目が笑っていない冷たい笑顔のペルモンドは、ブリジットを突っぱねるようにそう言った。少し近付きかけたと思った心の距離が今、一瞬にして元居た場所よりも遠くに離れてしまったのだ。
「ペルモンド。……あの、本当にごめんなさい。あなたを傷付けるつもりはないの。あなたのことが知りたいだけ。他意はないわ」
「そうだろうな、ミス・エローラ。君に他意はないだろう。けれども君は、君の父親と同じだ。俺のことを、興味深いサンプルや研究対象としか思ってないだろう?」
「それだけは絶対に違うわ! 私は、あなたのことが」
「それ以上は、何も聞きたくない。凡人が取り繕う虚辞にはうんざりしてるんで」
 口元に浮かべた薄ら笑いを最後まで崩すことなく、ペルモンドはそう言った。感情のこもっていない乾いた声で。そして彼は無表情になると、財布から二十ドル紙幣を四枚取り出し、それをブリジットの前に置く。
「哀れな男シルスウォッドの実家がビーコンヒルにあったはずだ。だとすれば奴の実家と隣接している君の家も、ビーコンヒルのはず。だったら、これぐらいで足りるだろう。……これでタクシーを拾って、帰ってくれ。夜道をくれぐれもお気を付けください、お嬢様」
「ペルモンド、ちょっと待ってよ。私の話をちゃんと最後まで聞いて!」
「言っただろう。もう何も聞きたくない、と」
 そんな言葉を吐き捨てるように言うと、ペルモンドはブリジットに背を向けて店を出て行く。最後に彼女を見やったペルモンドのくすんだ蒼い瞳は死人のように冷たく、真っ黒な瞳孔の奥底では冷たく乾いた風が吹き荒れていた。冷厳というべき彼のその姿を前に、ブリジットは固まることしか出来なかった。彼を引き留めることも、言葉を掛けることもできなかったのだ。
 無言で俯くブリジットの前には、空になったステーキ皿が置かれている。対してコールスローは手付かずのまま、放置されていた。しかしブリジットの食欲は、すっかり大人しくなっていた。気持ちが沈んで、胃も縮んで、とても食べられそうになかったのだ。
「……何が“お嬢様”よ。バカにしてくれて。ええ、そうよ。私はたしかに医者の娘で、金持ちの家の令嬢だわ。お嬢様で悪かったわね。なのに天才さまったら、お嬢様のディナーを奢ってくれたうえに、帰りのタクシー代まで出してくれるなんて。なんて紳士で、なんてクソ野郎なのかしら……」
 ぶつぶつと小言を呟きながら、ブリジットは荷物をまとめて、帰り支度を始める。そしてキャメル色のPコートを纏うと、ブリジットはテーブルに置かれた五枚の紙幣をそのままに、店を小走りで後にした。
 そんな彼女の鞄の中には、黒縁の伊達眼鏡が入ったままになっていた。


* * *



 ――ビルギットとレイモンドの二人は、ケンブリッジ大学の近くにある酒場でしょっちゅう安い地ビールを飲み交わし、そして飲み比べていた。二人とも、すごい酒豪でね。ジョッキを四杯ほど空にすることなんて、ザラにあった。まったくもってお酒を飲めない私はそんな二人の姿を、ソフトドリンクを飲みながら眺めていたものさ。
 そして飲み比べの勝負は、いつもビルギットが勝っていた。彼女はどれほど飲んでも、顔色を変えたことがなかった。
 そんな彼女の最高記録は、ジョッキ十二杯。十三杯目も行けたと彼女はのちに豪語していたけれども、それ以上はダメだとお店からストップをかけられてね。泣く泣く、彼女はギブアップしたんだ。たぶん彼女があの店で打ち立てた記録は、今も破られていないんじゃいのかな。
 ……だが彼女の記録を破ろうと目論むのは、やめたほうがいい。何故なら彼女は、ジョッキ十二杯を空にしたあと、三十分ほどトイレに籠っていたからね。ビルギット曰く、ジョッキを十二杯も空ければ膀胱が馬鹿になるそうだ。
 そしてレイモンドは勝負に負けた後はいつも顔を真っ赤にして、カウンターで眠りこけた。そんな彼を私が背負って家に連れ帰るのが、当時の日課みたいなものだった。
 あの日々は、ただただ楽しかったよ。将来に関する難しいことは何も考えず、煩わしい過去のことも忘れ、三人で馬鹿みたいにはしゃいで、今を謳歌していた。
 もし、時間を巻き戻せるなら。私は、あの時代に戻りたいよ。そして、あの頃の自分を叱ってやりたい。もう少し頭を動かして、周囲に気を遣え、と。私がもっとレイモンドを気にかけていたら、彼はあんな選択をしなかっただろうし。ビルギットを引き留められたのかもしれないのだから……。


* * *



「……父さん。一体、何があったの?」
 ずぶ濡れのシャツを脱ぎ、それを洗濯籠に投げ入れる父リチャードの背中に、ブリジットはそう尋ねる。すると濡れて額に張り付いた髪を上に掻き上げる父は、困り果てた顔でこう返した。
「さぁな。父さんには、さっぱり分からん。彼に、何があったのか。しかし暴行沙汰があったのは、間違いないだろう」
「…………」
「彼は怯え切った顔でこう言っていた。ここまで追ってきたのか、ピーター・ロックウェル……となぁ。それで父さんは彼に『違う、私はブリジットの父親のリチャードだ』と言ったんだ。そうしたら彼はほんの一瞬だけ安堵したような表情を浮かべて、そのまま気を失ってしまったのだ。彼は誰かに殴られたような怪我をしていたようだったし、この寒空且つ土砂降りの雨の中に、知っている顔の青年、それも娘のボーイフレンドを放っておくわけにもいかなくてなぁ。連れて帰ってきた、というわけだよ」
「ボーイフレンドっていうことに関しては、否定をしておくわ。一応ね。それにしても、ピーター・ロックウェルねぇ……。たぶんうちの大学の、応用数学科の准教授よ。同姓同名の別人っていう可能性もあるけど。でも、どうして准教授が……?」
 脱衣所で父娘は、そんな会話をしている。時刻は午前三時を回ったところで、外は落雷を伴う雨が降りしきっていた。
「なぁ、ブリジット」
「どうしたの、父さん」
「父さん、そろそろズボンを脱いで、シャワーを浴びたいんだ。女の子は、ここを立ち去ってくれると有難いんだがなぁ」
「あっ、ごめんなさい。今すぐ出て行くわ」
 そうして脱衣所を後にし、寝間着姿ですたすたと廊下を歩くブリジットは、リビングルームに向かう。そしてリビングルームの中央に設置されたソファーに座り、気難しそうな顔をしている母親にブリジットは声を掛けるのだった。
「母さん。なんか、その……ごめんなさい。いつもなら、もう寝てる時間なのに」
「あなたは何も悪くないわ。残業で帰りが遅くなった父さんも何も悪くない。父さんが連れて帰ってきた狼くんも、何も悪くない。悪いのは、彼を傷付けた人よ」
「……それで、彼は」
「あなたがお父さんとバスルームで話し込んでいる間に、目を覚ましたわ。ちょっと、混乱してるみたいだけれどね。この家にいるっていう状況に」
「…………」
「今は一人になりたいって言ってたから、彼をゲストルームに一人にして、私はリビングに出てきたけれど。……彼の身に何があったのかは知らないけれど、ひどい怪我だし、彼もきっと辛いはずよ。だから、ブリジット。行ってきなさい」
 リビングルームに来て早々、ブリジットは母親に背を押され、ゲストルームに顔を出すよう促される。苦笑うブリジットは母親に促されるまま、ゲストルームへと向かった。
「……はい、行ってきます」
 事の発端は、午前二時に残業を終えて帰路についた父親が、その道すがらでブリジットに掛けてきた一通の電話からだった。
 雨が降りしきる暗闇の中、傘を忘れた父親は濡れながら徒歩で帰っていた。そして旧州議事堂跡地沿いを歩いていると、道端に誰かが倒れているのを目撃。そして父親が恐る恐る倒れていた人物に近づいてみると、よく見てみれば彼は娘のボーイフレンド――だと父親が勝手に解釈している人物――で。彼はちょうど人目に付きにくい物陰に、隠れるように座り込んでいたという。
 父親が青年に近づき、彼の肩をぽんぽんっと軽く叩くと、彼は恐怖と寒さに震えた声で、こう言った。
『ここまで追ってきたのか、ピーター・ロックウェル。……この件を、誰にも漏らしたりはしない。だから、これ以上は、やめてくれ……』
 彼は怯えている様子ではあったが、ひどく取り乱しているというわけでもなく、暴れもしなかった。彼は生気を失くした虚ろな顔で下を向いて、震える小声でぶつぶつと何かを言うだけ。そんな彼は何もかもを見限り、諦めたかのような雰囲気を放っていた。
 様子がおかしいのは、見るからに分かる。彼が何かマズい状況に巻き込まれていることも、すぐに分かった。ブリジットの父親はトラブルに巻き込まれるのは好きではなかったが、医者である以上、そして彼の知り合いである以上、放っておくわけにもいかず、ましてや娘に顔向けできなくなるようなことは絶対にできなかった。というわけで父親は、彼の頬をぺちんと軽く叩き、幻想から現実へと彼を引き戻したのである。
『シベリアンハスキーくん。おい、私だ。リチャード・エローラだ。ブリジットの父親の、医者だ。君も覚えているだろう?』
『……ドクター、エローラ?』
『そうだ。私は、ドクター・エローラだ。ところで、君はどうしたんだ? こんな夜道、それも土砂降りの日に外で座り込んでいるだなんて。何があったんだね?』
 すると父親の問いかけも空しく、彼は意識を失った。そういうわけで父親はブリジットに携帯電話から連絡し、彼女にこう伝えたのだ。
『あぁ、ブリジット? 父さんだ。今から家に帰る。それから母さんがまだ起きていればだが、母さんにこう伝えてくれ。ずぶ濡れの狼くんを拾って帰るから、ゲストルームの暖炉に火を焼べておいてくれって。で、ブリジット。お前は応急手当用のセット一式を用意して、待っていてくれ。狼くんが怪我をしているもんでな。それじゃあ頼んだぞ、ブリジット』
 そして午後三時、五分前。父親は“狼くん”ないし“シベリアンハスキー”こと、ペルモンド・バルロッツィを背負って帰ってきたのである。家に着いた頃には二人ともずぶ濡れで、二人の帰りを家で待っていたブリジットと母親は真夜中にも関わらず阿鼻叫喚の大騒ぎ。ずぶ濡れの父親の世話はブリジットが、ずぶ濡れで怪我をしているペルモンドの世話を母親が受け持ち、つい先ほどまで大騒ぎだったのだ。
「……ペルモンド。入ってもいい?」
 そしてゲストルームのドアの前に立つブリジットは、ドアを隔てた向こう側にいる人物にそう声を掛ける。しかし返答はなく、ドアの向こう側から聞こえてくるのは、暖炉に焼べた薪がパチパチと音を立てて燃える物音だけ。期待した声は返ってこなかったものの、ブリジットは構わずドアを開け、部屋の中へと踏み入る。そして彼女は静かに、ドアを閉めた。
 部屋のドアをブリジットが占めると、空間は暗闇に支配された。光という光は、火が灯る暖炉が発するオレンジ色の仄明るい光dけ。そして暖炉の前に置かれた椅子に前かがみの姿勢で座り、俯いている人影が居た。
「こんばんは、ペルモンド。夜道に気を付けるべきだったのは、お嬢様の私じゃなくて、お金持ちのあなたのほうだったようね」
「……その声は、ミス・エローラか」
 漸く返ってきた返事は、いつも以上に暗く沈んでいて平坦な声だった。そしてブリジットは壁に手を這わせて、手探りでこの部屋を照らすガス灯のスイッチを探す。スイッチを見つけると、ブリジットはガス灯を点けた。
 遅い時間帯でも目に優しいオレンジ色の淡い光が灯り、暗闇の中に光が増える。暗闇は暗闇でなくなり、影は部屋の隅に追いやられていった。
「ミス・エローラだなんて他人行儀な呼び方は止して。ブリジット、そう呼んで。だって私とあなたは、対等な関係の友人なんですから」
「……友人?」
「私は、あなたのことをそう思っていたけど。まさか、あなたは違ったの……?!」
「……友人なんて、居たためしがないからな。そういう基準みたいなのが、俺には分からないんだが」
「冷たい人ね、まったく。今の言葉をシルスウォッドが聞いたら、絶対に泣いちゃうわ」
 軽い皮肉と冗談を口にしながら、ブリジットはできる限り足音を立てないように歩き、椅子に座る彼に近付いた。そうして彼のすぐ左隣に並ぶと、ブリジットは床に膝をつく。横から彼の顔を覗き込むように見て、冷たい彼の頬にそっと触れた。
「ひどい鼻血だったけど、鼻の骨は折れてなさそうね。右目の下あたりで内出血が起こってるけど、頬骨も大丈夫そうだわ。これぐらいなら、あなたの嫌いな病院に行かなくても大丈夫そうね。見るからに、痛々しい顔にはなってるけど」
「…………」
「ところで、ペルモンド。あなた、自分の顔を見たことってある?」
「……ない」
「あら、そうなの。残念ね」
「……何が?」
「あなたはきっと自覚ないだろうけど、あのいかつい黒縁の眼鏡を掛けてないときのあなたって結構ハンサムなのよ。エキゾチックな濃い顔立ちに、哀愁溢れる垂れたブルーの目。きつい表情と、それと無表情のときは怖いだけなんだけど、微笑んだときの顔はそこら辺の男どもの数百倍はカッコいいの。だから……」
 眠いのに、寝ていないからだろうか。それとも真夜中という時間が、人間をおかしくさせるのか。ブリジットは自分の口が、制御不能になるのを感じていた。恥ずかしい心の声が、口から駄々洩れになっていたのだ。
 そしてブリジットの言葉を黙って聞くペルモンドの顔は、虚ろだった。適当な相槌を打っている彼だが、いつもよりも眠たそうに見える目は、暗闇だけを見ているかのようだった。実際、彼は目が見えていないのだから、きっと彼が見ている世界はいつも暗闇なのだろう。けれども、そういう問題ではない。彼は目の前に居るブリジットを視ていない、つまり彼女という存在を注視していないことが問題なのだ。
「その顔に、ひどい傷が付いちゃって。残念ね、本当に。私が今とても、ショックを受けてる。私ね、あなたには今までずっと秘密にしてたけど、あなたのその眼鏡を掛けていない顔を見るのが好きだったの。人文学部の元クォーターバック男よりも、経済学部のスカした自称インテリボーイよりも、やっぱりあなたが好きなの。だって」
「君が外見しか見てない女だったとは、意外だった。生憎目が見えないんで、気付かなかったよ」
 ブリジットが投げた皮肉に、ペルモンドは更に棘のある皮肉を返す。だが何かが褪めきってしまっている彼の表情に変化はなく、顔は俯いたままで、暗い翳が満ちた彼の目も光が消えたままだった。そんなペルモンドの頬を、ブリジットはぶにっと抓る。それから彼女は怒りに歪んだ顔で、呪いをかけるように彼にこう言うのだった。
「……ねぇ、そろそろ察してくれないかしら。私ね、今すごーく恥ずかしいことを言ってるの。そして今、猛烈に恥ずかしいの。お願いだから、察して」
「察するって、何を」
「私はあなたに、好意を抱いてる。そうじゃなきゃ、ここまであなたに付き纏ったりしないわ」
 そう言ってブリジットは、抓った頬を開放する。するとペルモンドの顔が上がり、ブリジットのほうを向いた。そんな彼に、ブリジットはもっと詰め寄る。
「今は外見の話だけをしたけど、それ以外にもこの好意に理由はある。ねぇ、ペルモンド。これだけ私はあなたに付き纏ってるのよ、ストーカーの一歩手前の状態になるまでね。そろそろ私を視てくれたっていい頃合いだと思わない?」
「…………」
「ねぇ、ペルモンド。イエスかノーかだけでもいいから、何か返事をしてくれないかしら。じゃないと私、まるで透明人間になった気がして……」
 彼の左隣から、彼の正面に移動したブリジットは、顔に顔を近づけて、そう言った。そしてブリジットが彼の左肩に、自分の右手を置いたときだった。ペルモンドが、言葉を発した。
「俺は、君が怖い。否応なしに、有無を言わせず、心に土足で踏み込んでくる君が、怖くて堪らないんだ」
「えっ……」
「君が、怖い」
 イエスか、ノーか。好きか、嫌いか。答えはそのどれかだと、ブリジットは思っていた。しかし返ってきた答えは“怖い”というもの。
 まさかの答えにブリジットは言葉を失う。呆然とするほかなかった。すると茫然自失とするブリジットの手前、ペルモンドの様子に異変が現れた。
「君が、怖くて、怖くて、怖い、怖い、怖い……――」
 彼は震える小さな声で、“Scare(怖い)”という単語を連呼し始めた。怖い、怖い、怖い……――彼は今、正気でなくなったのだ。
 束の間の空虚感をすぐに忘れたブリジットは、独り言を呟き続ける彼の頬を平手でぺちぺちと叩き続け、そして彼の名前を呼び続ける。
「ペルモンド。ペルモンド、ねぇ、ペルモンド。私を見て、私の声を聞いて。あなたは何を恐れているの? 答えて、ペルモンド!」
 心を失くしたかのような顔で、ペルモンドは独り言を呟き続けていた。彼の世界からブリジットの存在が遠のき、その耳にブリジットの声は届いていない。すると独り言が変化する。“Scare(怖い)”が“Sky(空)”に変わったのだ。そして、意味を持つ二つの文章に変化する。

Feel, the lonely star falling from the sky to the ground.
You are dirty, already.

 その言葉を発した瞬間、ペルモンドの目はカッと見開かれた。それは彼の口から発せられた言葉だったが、彼の言葉ではないことはブリジットにもすぐに分かった。そう呟いた彼の声は震えていて、ブリジットが手を置いていた彼の肩も、ぐらぐらと揺れていたのだ。
 そしてその言葉は、ブリジットに向けられた言葉でもない。誰かが彼に向けた言葉で、その言葉を彼が繰り返し再生したにすぎないのだから。
「ペルモンド。私の声を聞いて、私の声だけに耳を傾けて」
 孤高の星が、空から地に落ちるのを感じろ。
 お前は既に、汚れている。
「ロックウェル准教授に、そう言われたの?」
「……ピーター・ロックウェル、ロック、ウェル……」
「ペルモンド。私の声が分かる? もし私の声が聞こえているなら、ゆっくりと瞼を閉じて」
「……ロックウェルが、言った。ロックウェルが、ロック……」
 彼の肩に手を置いたまま、ブリジットはそう呼びかけ続ける。だが却って挙動不審に動き回るようになった彼の眼球の動きから鑑みるに、ブリジットの言葉は届いていなさそうであった。そうこうしているうちに過呼吸が始まり、ただでさえ苦しそうな彼の表情が、ますます苦悶に歪んでいく。雨に打たれた体が底冷えしていることもあり、体の震えは悪化していった。
 がたがたと震える肩からブリジットは手を離し、今度は彼の震える右手を、彼女は両手で包み込む。そして彼女は、問い詰めることをやめた。代わりに、その昔に彼女の母が彼女にしてくれたように、同じことを彼にした。
「ペルモンド、落ち着いて。深呼吸をしましょう。吸って、吐いて。スローダウン、ウォー・ホーゥ。ほら、深呼吸よ。吸って、吐いて……」
 すると彼は深呼吸をせずに、呼吸を止めた。歯を食いしばり、何かを堪えているような様子を見せた。ブリジットはその様子を、数十秒ほど黙って見守った。空白を埋めようとせず、ただただ待った。そして時間が経ち、少し冷静さを取り戻したペルモンドが口を開く。今度は彼の口から、彼の言葉が零れ落ちた。
「……過去は、遠い場所に、置いてきたつもりだった。新たに貰った人生を、別人として生きなおそうと決めてたんだ。にも関わらず過去は、俺の足を引っ張る。昔と同じことを繰り返して、また俺は……」
「…………」
「俺は、誰なんだ。そもそも俺は、男なのか、人間なのか、それすらも、何も分からなくて……」
「あなたは、あなたよ。他の何者でもないわ。それにどんな姿のあなたも、私は受け止めるし、受け入れる。少なくとも私は、そのつもりでいるわよ。だから……」
「…………」
「私は、あなたを故意に傷付けたりしないから。だから、もっと私を頼って」
 そう言いながらブリジットは、包み込んだ彼の手を握る力を強める。そして彼の目には見えていないことは百も承知のうえで、彼女は笑顔を浮かべた。
「辛いことがあるのなら、私に言って。私はいつでも、あなたの話を聞くから」
 彼から、明確な言葉を引き出せたわけではない。だが、彼の気がここまで動転した理由の見当は、ブリジットにはついていた。男の人に襲われたんだな、と。それもどうやら、これが初めてではないらしい。
 もし、自分が同じ目に遭ったのなら。……そんなことを想像するのも恐ろしいが、そんな恐ろしい現実に彼は直面していたわけで。
「ねぇ、ペルモンド。他に、言いたいことはある?」
 ブリジットが念押しでそう訊くと、ペルモンドは顔を上げる。それまで闇が満ちていた彼の目に、少しだけだが生気が戻っていた。彼の目からは一粒だけ涙が零れ落ち、そして彼はこう言った。
「……助けてくれ、ブリジット」
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