ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ

Blank of Memory

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長さ: 約 一分 三五秒


――アーサー・シスルウッド。
 私は両親がよかれと思ってつけてくれたこの名と、先祖代々受け継がれてきたこの姓が、家具の影を這いずり回るゴキブリよりも無糖の苦いコーヒーよりも何よりも、大嫌いだった。
 何故なら十九世紀のイギリスで、大逆罪となり絞首刑にされた犯罪者と同じ名前であったから。この名の所為で私は、幼少期からひどいイジメに晒されてきた。付けられたあだ名は『カトー・ストリート』。あの名は、当時の私には耐えがたい屈辱だった……。
 けれども、ケンブリッジの小さな書店で偶然知り合ったレイモンド・バークリーだけは、私の名前についてどうこう言ってきたことがなかった。というのも、そもそも彼は歴史に然程関心を持っていなくて、『カトー・ストリートの陰謀』なんていう言葉すら知らなかったからだ。
 それに彼は、私にもさほど関心を抱いていなかった。ルームメイトであるにも関わらず、彼が私の名を訊ねてきたことなど一度もなかったし、それに私の名前を彼が正確に言ってくれたためしがなかった。だから私は彼に、いつもこう呼ばれていた。赤縁眼鏡、と。


* * *



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長さ: 約 八分 三〇秒


 ウルフ、もしくはシベリアンハスキー。
 そんな犬の名前で呼ばれていた青年とブリジットが出会ってから、二ヶ月が経っていた。
「一際強い個性を放っているレイモンド・バークリーや、どんなに冷たくあしらわれても積極的にアプローチをし続けるビルギットも魅力的なんだけど、やっぱり私はアーサー・シスルウッドが一番好きでー、それに……」
 いつも通りの、学校の帰り道。ブリジットの隣にはいつも通りに、赤縁眼鏡の友人シルスウォッドの姿がある。そして赤縁眼鏡の友人はいつも通りのブリジットの話に、いつも通りのうんざりとした表情を浮かべていた。
 しかし、いつも通りでないことが起きる。痺れを切らしたシルスウォッドが、ブリジットの話を遮ったのだ。いつもならば彼は、彼女の長い長い話を苦い顔で聞き流していたというのに。それから、彼の口から飛び出た台詞は、実に意外なものだった。
「……私は両親がよかれと思ってつけてくれたこの名と、先祖代々受け継がれてきたこの姓が、家具の影を這いずり回るゴキブリよりも無糖の苦いコーヒーよりも何よりも、大嫌いだった」
「あっ! それって、まさか」
「ああ、そうだよ。君が大好きな、あの小説の冒頭。……君が『レイモンドが、レイモンドが!』ってうるさいもんだから、ためしに読んでみたんだ。そしたら、どうしてなんだろうね。主人公と僕の名前が、ひどく似ているせいかな。あの小説の中身を、僕はほぼ暗記してしまった。一度しか、読んでないんだけれども。それも全然、ハマらなかったってのに。そのお陰で、最近はまるで勉強に身が入らない。頭の中でずっと、あの小説の全ての文章がグルグルぐるぐる回ってるんだ。まったく、嫌になるよ……」
 それは小説「ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ」の冒頭に登場する台詞。昔話を聞かせてほしいと学生たちからせがまれたとき、まず始めにアーサー・シスルウッド教授が答えた言葉なのだ。
「レイモンドがあまりにも常人離れしていて、感情移入がしにくかった。だから僕はあまり、あの小説を好きにはなれなかった。しかし作者はそれを見越して、代わりにストーリーテラーであるシスルウッドというキャラクターに人間臭さを与えたんだろうけども……――どうにもその手法があざといというか、なんというか。けれども、レイモンドには人の心を掴んで離さない、独特の魅力がある、っていう点は認めるよ。たしかに、サイコなブリジットが好きになりそうなキャラクターだった。まあ、それはさて措き。随分前に君が言ってた、あの……――」
 そしてシルスウォッドがその台詞を口にしたのは、その話を今すぐにでも終わらせたかったからなのだが……――その行動は却って、ブリジットの情熱に油を注いでしまったようだ。
「そう、レイモンドの魅力は“影”なの! 彼が抱えている過去が齎す、暗い影というか、闇というか……。飼っていた毒蛇に自分の頸動脈を噛ませて自殺を図るなんて、彼はまるでクレオパトラ。」
「あ、ああ、うん。たしかに、随分と節操がないクレオパトラだった。けれども、その話は今は」
「とはいえ、それはクレヅキ先生が出版社から不評を食らって、あえなく書きなおした初版の結末なんだけどね。初版とは別の出版社から世に出された、クレヅキ先生が本当に書きたかった結末が描かれているオリジナル版の最後では、レイモンドはやっぱり自殺をするんだけど、そのやり方とシチュエーションが」
「なんだか、ブレードランナーみたいにややこしいな……。なら僕が読んだのは初版ってことかい?」
「そうね、そうなるわ。それでレイモンドは、女性もとっかえひっかえで、時には男にも、そして同居人のシスルウッドにまで手を出す。自制って言葉を知らない人物なの。けれどもそんなクレオパトラはただ一人だけ、ビルギットにだけは一切手を出さなかった。それにシスルウッドを含めて、誰一人として彼のことを恨んでいなかった。それどころか、彼は皆から好かれていた。それでいて彼に纏わる謎の多くは最後まで、答えは明示されずに、胸の中にもやもやを残して、謎のまま終わる……」
「…………」
「クレヅキ作品の中でも、あれだけ複雑に入り組んでいて且つ魅惑的なキャラクターは、レイモンド・バークリーだけ。それなのに」
 と、そのとき。ブリジットの高速装填マシンガントークが、はたと止まる。彼女の目に留まったのは、ひどく焦った様子で警察署方面へと走っていく一人の女性の背中だった。
 真黒のピンヒール靴。それと白の細い縦縞が入った、グレーのスラックス。ショッキングピンクのフォーマルジャケットに、内巻きショートボブのブルネットの髪。あの記憶に残る姿を、忘れる筈がない。
「……あっ、ミズ・マックス」
「どうしたんだ、ブリジット。興奮が引いて、顔の火照りが消えているけれども」
 彼女の名前は、マクスウェル=ヘザー・トンプソン。通称、ミズ・マックスだ。そしてミズ・マックスは児童保護局に所属する人物。それでいて彼女は、とある青年の保護観察官兼身元引受人に任命された人物でもあった。
「あそこに居る、ショッキングピンクのジャケットを着た女の人。彼女、ミズ・マックスっていう名前なの。それで、彼の保護観察官」
「彼の? その“彼”っていうのは、誰のことだよ」
「レイモンドよ」
「レイモンド?」
「あっ、ごめん。間違えた。ペルモンド。元ミスター・ウルフさんのこと。……レイモンド・バークリーは滑空の人物。なにを言ってるのよ、私……」
 聞き覚えのない男の名前に、赤縁眼鏡のシルスウォッドは首を傾げる。風変わりな名前だ、とシルスウォッドは言った。ベルモンドならまだしも、ペルモンドとは、と。
 するとブリジットは、ミズ・マックスのもとへと小走りで駆けて行く。ブリジットはシルスウォッドのほうを振り返り、「じゃあね!」と手を振って、去って行った。
「……あぁ、うん。また、月曜日に……」
 シルスウォッドが小さく呟いた声が、ブリジットに聞こえるはずもなく。ずれた赤縁眼鏡をそっと正すシルスウォッドは、小さくなって遠のいて行くブリジットの背中を見送っていた。





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長さ: 約 十三分 五秒


 ボストン第二分署、地下留置場。鉄格子の前に立つミズ・マックスは腕を組み、そして肩幅に両足を開いて立っていた。俗に言う、仁王立ちというやつだ。
 そんなミズ・マックスが醒めた目で見つめていたのは、鉄格子の向こう側に座っている一人の青年。彼は無言で、俯いている。顔を上げてミズ・マックスを見ることもなく、またこれといって言葉を発する様子もなかった。
「あのね、ハスキー。私はあなたを責めるために、ここに来たわけじゃないわ」
 ハスキー。それはシベリアンハスキーから転じた、青年の愛称だ。
 ミズ・マックスは穏やかな口調で青年に語りかけるが、青年はぴくりとも動かず、相変わらず無言だった。ミズ・マックスは、ほんの少しの苛立ちから溜息を洩らす。それでも彼女は、一方的に語りかけるだけの会話を続行した。
「諸々の事情は、何となくだけど警察の方から聞かされたし。正当防衛だと、私は思ってる。そう、つまり、私はあなたの味方よ」
「…………」
「だから、あなたを迎えに来たの。だけど私は保護観察官として、あなたの口から聞かなきゃならない。どうして、様子を見に来た警官二人にあなたが包丁を向け、そしてうち一人の左頬に、強烈な右フックをお見舞いしたのかを、ね」
 しかし……というか、やはりというか。青年は俯いたままで、何も言わず、また一切動かない。ミズ・マックスは再び溜息を吐き、自身の左隣りに控えていたひとりの女性警官に視線を送った。そしてミズ・マックスは言う。
「……鉄格子、開けてもらえないかしら。そこのどうしようもないクソガキに、ちょっとばかしの講釈を垂れなきゃいけないみたいだから」
 ミズ・マックスのその言葉を聞いた警官は、無言で動いた。腰に下げられた鍵束に警官は手を掛け、そこから一本の鍵を選び取る。そして手に握った鍵を、鉄格子に取り付けられた錠の鍵穴に差して、くるりと回した。
 がちゃり。解錠されたことを意味する音が鳴り、鉄格子の扉が揺れた。それと同時に警官は扉から離れ、先ほど居た場所――ミズ・マックスの左隣り――に戻る。そして警官が扉から離れたのと同時に、ミズ・マックスは鉄格子の扉の前に立つ。ミズ・マックスは扉を手前に引いて開けると、中へと足を踏み入れた。
「ハスキー。あなたの綺麗まっさらな経歴に、前科が刻まれることはないから安心しなさい。市警のほうも、この不祥事を表沙汰にされたくないそうだから」
「…………」
「おい、ハスキー。聞いてるのか、おい」
 そう言いながらミズ・マックスは大股でどかどかと歩き、青年の前に立った。そしてミズ・マックスは俯く青年の頭のてっぺんに、ごつんと自分の拳をぶつける。すると青年が今日初めて、動いた。顔を上げたのだ。
「――……マクスウェル?!」
 ……顔を上げた、というよりも。飛び起きた、といったほうが正確かもしれない。
「ハーイ、ハスキー。その寝ぼけた目から察するに、どうやら今の今までずっと寝ていたようねぇ?」
「あ、ああ。寝ていた、みたいだ……」
「っていうことは、私の話なんかこれっぽっちも聞いてないってワケね」
「……話? なんのことだ」
「あー、ハイハイ。心配した私が馬鹿でしたよ、ったく。もう……」
 留置場で熟睡なんて、いい根性してんじゃないの。ミズ・マックスは嫌味を言う。青年は彼女が浮かべる不機嫌そうな顔に、ただただ狼狽えていた。
 そんな青年に対し、ミズ・マックスは手を差し伸べる。青年が彼女の手を取ると、ミズ・マックスは青年に言った。「ほら、立ちなさい。帰るわよ」
「……えっ」
「なによ、そのリアクション。無罪放免で留置場を出られるんだから、普通は喜ぶものじゃないの?」
「無罪、放免? あっ、俺、その……出て、いいのか?」
「良いって言ってるでしょ? 第一に、あなたに非はないんだから。非がないどころか、むしろあなたは被害者よ。それにもし提訴したとしても、これはあなたが絶対に勝てる案件だからね? まあ、だからこそ訴えないでくれと念を押されたんだけどー……――」
 無罪放免という言葉を聞いた途端に、青年の表情は曇る。
「……あー、その。喜ぶべき、なのか?」
 彼はなんとなく、バツが悪そうな顔をしていた。自身の身に起きたこと、そして自身が仕出かした失態に挟まれて、混乱しているのだろう。それは無理もないことだった。彼の身に起きたことは、一言で切り捨てられるほど、単純な物事ではなかったからだ。
「ハスキー。あなたは、被害者よ。あれは正当防衛。だから、あなたが罪の意識にかられる必要はない。悪いのは、あのクソ警官どもなんだから」
 一言で簡単に言うのであれば、彼は屈強な体の男二人組に襲われたのだ。
 その男たちは、児童保護局が市警に任せている週三回の定期訪問の、シフトに配属されていたパトロール警官だったのだ。そのうちの一人は、何度も何度も何度も顔を合わせ、彼もそれなりに信用していた男だった。だからこそ彼も、特に迷うことなく警官二人組を家の中に入れてしまったのだ。
 警官二人組は、いつも通りに用を済ませた。整理整頓清潔清掃はされているか、違法ドラッグといった余計なブツは所持していないか、何かよからぬものを隠していないか、などなど。いつもの手順をいつも通りに終えて、いつも通りに警官は帰っていくはずだった。
「あなたは、そこら辺の男の子よりも体格もいい。運動神経も抜群。それに世界史はからきし駄目で、音楽のセンスはゼロだけど、頭脳はずば抜けてる。数理工学、それと語学。あなたは大人も顔負けの素晴らしい天才よ、それは客観的事実。英語もどこで覚えたのかは知らないけど、綺麗なクイーンズイングリッシュで喋れるわけだし。まあ、言葉選びのセンスは最悪で、汚いスラングばっかりだけどね。だけどね」
 けれども、昨日は違っていた。キッチンをもう一度見ると、警官に言われたのだ。彼は不審に思いながらも、二人をキッチンに案内した。そして彼がキッチンに入るなり、警官の一人、彼もそれなりに信用していた男が突然、襲い掛かってきたのだ。
 キッチンの出入り口はひとつ。しかし警官がその道を塞いでいたため、彼に逃げ場はなかった。突き飛ばされ、床に倒れ込むと、一人は馬乗りになってきた。もう一人は、頭にビニール袋を被せてきた。警官二人の目的は、考えずともわかった。そして彼は、生存本能に身を任せた。
「ハスキー。あなたは、まだ一六歳。未成年なのよ。普通ならまだ、両親の庇護を受けている年齢」
 つまり、肉欲を持て余した警官二人組に、彼は凄まじいお仕置きをしたというわけである。一人には右フック、そして一人の右太腿には包丁。あっという間に彼は警官を制圧。すると恐れをなした警官たちは無線で自らの悲鳴を流し、パトロール隊に助けを求めたのだった。
 数分後、無線を聞いた女性二人組が現場に到着。駆け付けた女性二人組に彼は押さえつけられ、逮捕。留置場へと連行された。そして連行される最中のパトカーの中で、彼は一通りの出来事を暴露。最後に反省の色をため息とともに見せると、女性二人組はすぐに真実を理解してくれた。
 ……が、手続きがどうのこうので結局、留置場に入れられたというわけである。
「……要するに。誰だって、大人の男、それも二人組の男に襲われそうになったら、身を護るためにあなたと同じことをするってことよ。私だって、きっとそうしてる。いや、私の場合は発砲してるかも。サイテー男を、ブッ殺してる」
 茶化すように、ミズ・マックスは言う。青年は苦笑いを浮かべると、静かに立ち上がった。しかし、その蒼い瞳は笑っていない。
「あぁ、そういえばね。ハスキー」
「……?」
 一体、何があったのか。
 ミズ・マックスが知り得ているのは、事実関係だけ。そのときに彼が何を考え、何を思い、そして今は何を感じているのかなどは、一切分からないのだ。そのうえ彼の感情表現は、あまりにも少ない。そして振れ幅が小さすぎる。それにいつでも彼の心のガードは固く、本音に迫れることは一切ないのだ。
 ミズ・マックスが明確に分かっていることといえば、ひとつだけ。少なくともこの青年は、自分のことを信用してくれている。それだけなのだ。彼の過去は、未だに何も分かっていない。国の、そして近隣諸国のデータベースをどれだけ洗っても、彼に関連する情報は何一つ見つかっていない。
 そう、何も分かっていないのだ。
「外で、ドクター・エローラの娘さんがあなたを待ってるわよ。寒い中で女の子を待たせてるんだから、早く行ってきなさい」
 ミズ・マックスはそう言うと、ニヤッと笑う。青年の表情は、一瞬にして強張った。彼は、何かを警戒しているようだ。
「高卒認定と大学入試のために、世界史をみっちり仕込んであげるって、彼女は言ってたわよ。つまり、勉強のついでに夕食を家で食べていきませんか~っていうお誘いね。そういうわけだから、ほら」
「……勘弁してくれよ、おい。あの医者の家に行けっていうのか?」





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長さ: 約 十二分 二五秒


 翌朝。ハイスクールの廊下にて。
「それで、ブリジット。結果は、どうだったんだい?」
 そう尋ねてきた赤縁眼鏡の友人の顔は、ニヤついている。何故ならば、彼は態々訊かずとも、既に答えを知り得ていたからだ。それなのに彼は態々、ブリジット本人の口から訊き出そうとしている。それほどまでに、彼の性根は捻じ曲がっているのだ。
 大きく深呼吸をし、それから大きな溜息を吐くと、ブリジットは隣に立っている赤縁眼鏡の友人を睨みつける。そして彼女は自分のロッカーを勢いよくバタン!と閉じると、小声で言った。
「惨敗よ。今はそんな気分じゃないからまた今度、ってすごく丁寧な口調で彼には言われたけど。あれはどうせ、嘘に決まってるわ。明らかにあの目は、忌避してた。私のこと、そして私の父のことを」
「そうかい、そりゃご愁傷さまに」
「シルスウォッド。あなたって本当に、性格が悪いわね。まるでクズの極み。最低なひと」
「ありがとう、ブリジット・それは最高の誉め言葉だ」
 赤縁眼鏡の友人はニヤついた笑みを、にこやかな笑みにアップグレードさせる。ブリジットは益々、彼の顔面を握りしめた拳で殴りつけたくなっていた。
「……はぁー。あなたの所為で、朝から最悪な気分よ。ただでさえ、ちょっと凹んでたのに。あなたが私の生傷を、泥だらけで不衛生な指で抉るような真似をするから……」
「失礼だな、ブリジット。僕は単なる好奇心から、君に訊ねただけだ。他意は」
「あなたのそういうところが、大嫌いなのよ。そのすっ呆けた笑顔。今すぐにでもぶん殴ってやりたい気分だわ。謝罪する気なんかハナからないくせに、適当な言葉を白々しく吐いてのける。……あなたには心ってものが無いの?」
「んー……。少なくとも、君からの誘いを無下にした彼よりかは、その心ってものを僕は持ち合わせているつもりだけどね」
「あぁっ、もう! あなたのそういうところが、大嫌いなのよ!!」
 昨日の夕方。道端で偶然見かけたミズ・マックスの背を、ブリジットはこそこそと追いかけた。そしてミズ・マックスが警察署の前で立ち止まったときに、ブリジットは彼女に声を掛けたのだ。
『こんにちは! お久しぶりです、ミズ・マックス』
 それに対してミズ・マックスは、苦笑いを浮かべる。それから彼女は言った。
『あら、誰かと思えばミス・エローラじゃないの。まさか、こんなところで、あなたと会うことになるとはねぇ……』
 妙に気落ちしているようなミズ・マックスの表情に、その時のブリジットはただならぬものを感じていた。しかしブリジットは、詮索するような真似をしなかった。彼女の暗く沈んだ表情の理由を知りたかったが、直感で察したのだ。多分これは、自分如きが首を突っ込んでいい案件ではないのだろう、と。
 ブリジットは特段言葉を発することはせず、苦笑いに気まずい苦笑いで返す。ブリジットのほうも「実は、あなたのことを尾行していたんです!」と、真実を言うわけにはいかなかったからだ。
 するとミズ・マックスはブリジットに背を向けると、こう言ってきた。
『ちょっと今から、手違いで留置場に入れられた、哀れなハスキーを迎えに行ってくるから。良かったらここで、待っててくれないかしら? 私以外にも知っている顔が居たほうが、彼も安心するだろうしね』
『彼が、留置場に……?』
『そうよ』
『えぇっ?!』
『二人組の警官に突然襲われたんで、身を護るために殴り返したら、お縄にされたそうよ。でも正当防衛だから、彼は必然的に無罪放免。警官二人組のほうは、お役御免で首ちょんぱ。署長さんからは、法廷に持ち込むのだけはやめてくれと念を押されて……。そういうわけだから彼の身元引受人として、私が迎えに来たってわけ。本当に、世話の焼ける猛犬くんだわ……』
 それからブリジットは五分ほど、ミズ・マックスと喋っていた。その後ミズ・マックスは警察署の中へと入っていき、およそ三〇分後に“ハスキー”と呼ばれている青年と共に外へと出てきた。出てきた時のミズ・マックスの表情は実に明るいものであったが、対照的に青年のほうは重く沈んでいた。そして青年の表情は、ブリジットと目が合った瞬間に更に暗くなっていったのだった。
 あぁ。私、たぶん彼に嫌われてるんだわ。ブリジットは直感でそう感じた。そして理由は分かっていた。全部父さんの所為だ、と。
 それでもブリジットは勇気を振り絞って、彼を自宅の夕食に誘った。それはミズ・マックスからの提案だった。
 散々なことがあった日の夜だもの。一人で夕食を食べさせるなんて、ちょっと可哀想でしょ? ミズ・マックスは、そう言っていたのだ。しかし、だ。他者から見たときの「可哀想」というものが、当人にとっても「可哀想」であるとは限らない。寧ろ「余計なお世話」と捉えられることだってある。そしてブリジットの誘いは、彼にとっては「余計なお世話」であることはおろか「悪夢のような提案」であったのだ。つまり、断られたのだ。
 理由は、容易に想像できる。彼はブリジットの父親と、もう二度と会いたくなかったのだろう。
『あぁ、その……――誘いは、嬉しい。だが、気持ちだけ受け取っておくよ。今は、誰かと陽気に会話を楽しみながら、食事をしようだなんて気分じゃないんで……』
 彼がそう言った時の、ミズ・マックスの表情と言えば酷いものだった。衝撃と笑撃が同時に込み上げてきたような、今にも吹き出してしまいそうなのを必死に堪えているような、そんな顔だった。そしてブリジットは、盛大に凹んだ。
『あら、そうなの。分かったわ。また今度の機会に、誘うことにするわね……』
 ブリジットは、口先ではそう言った。
 だが彼女は、既に知っていた。また今度の機会は、当分訪れることはないだろうと。
「……本当に、大嫌い。シルスウォッド、あなたのことも。彼のことも、嫌い。平気な顔をして、嘘を平然と口にできる人なんて、大嫌いよ」
 だから今、彼女は凹んでいる。それに当分、彼女の機嫌が良くなることもないだろう。
 そしてデリカシーのない赤縁眼鏡の友人は、ブリジットの心の傷口に容赦なく塩を塗りたくっていく。
「とかなんとか言ってるけど、どうせ君は彼のことが好きなんだろう? それに君は、あの物語の登場人物を彼に当てはめているように見える。そして自分のことも、その物語の登場人物に当てはめている。違わないかい?」
「あの物語って、なんのことよ」
「君が大好きな、クレヅキ・ヤヨイの小説。ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ。彼がレイモンド・バークリーで、君はビルギット・メイ・アルドリッジ。彼らに自分たちを当てはめて、君は夢を見ているんだ。それは壮大なラブロマンス、行きつく先はバッドエンドの悲恋かな?」
 友人は、普段のような茶化す調子でそう言った。けれどもその言葉の節々には、普段とは違う棘があった。その棘は、茶化すというよりも、まるでブリジットを冷笑しているよう。
 ただでさえこっちは凹んでいるっていうのに、なんてひどい人なのよ。ブリジットは心の中で、そう毒突く。だが声には出さず、友人を睨むようなこともしない。黙り込んで、その場を立ち去ろうとした。
 すると友人は、立ち去ろうとしたブリジットの手首を引っ掴む。それから彼は「こっちを見ろ」と言い、凄みを利かせてきた。
「…………」
 いつでもどこでも穏やかで、良くも悪くも怒っているところなど一度も見せたことがなかったのに。そんな友人が初めて見せた穏やかならざる姿に、ブリジットは凍り付く。そして彼女はこの瞬間に、長い付き合いの中で初めて実感した。お互いの、性別の違いを。
「ブリジット、悪いことは言わない」
 赤縁眼鏡をした愉快でクズな彼も、やっぱり男性なのだ。
 女性として生きている以上、男性に恐怖を覚える瞬間は避けられないのだ。
「彼は、やめておけ。下手すれば、本当に物語通りの結末を辿ることになるぞ。それも初版でなく、オリジナル版とやらの悲惨な結末を」
 いつもなら優しい友人の目は、今日だけはやたら厳しいものになっていた。少し高い位置からブリジットに注がれる視線も、いやに冷たい。次第にブリジットは恐れの感情を募らせ、気が付けば友人の手を跳ね除け、制止を振りほどいていた。
 ブリジットは何も言わず、必要な荷物だけを抱えてその場を早足で後にする。朝の通学ラッシュに飲み込まれ、友人の視界からブリジットの背中が完全に消え失せるまでに、そこまでの時間は掛からなかった。
 ごめん、ブリジット。そう呟いた友人の言葉も、当然ブリジットの耳に届くこともなく。以降一年ほど、赤縁眼鏡の友人が痺れを切らして彼女の自宅に乗り込み、喧嘩を売りに来るまでの間、隣り合う家に住んでいる幼馴染が顔を合わせることはなかった。


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長さ: 約 十三分 一秒


 その一年間。ブリジットがどこで何をしていたのかといえば。
「この国の、四技官……?」
「だから、前にも教えたでしょ。この国、アルフテニアランド自治国の『アルフテニアランド』っていう名前は、独立運動を指示した四人の高級技官の名前を合わせて作られたものなの」
 通称ハスキーと呼ばれる青年の家に放課後は通い、彼に世界地理と歴史を教えていた。
 というのもこの青年、自身の過去も含めて、ありとあらゆる過去の出来事に興味がない。他分野の知識は申し分ないどころかブリジット以上なのだが、歴史だけは致命的に出来ないのである。というわけで、ミズ・マックスから家庭教師を頼まれていた。
 しかし、アルバイト代が出るわけではない。完全なるボランティアである。けれどもブリジットは、さしてそのことを不安に思っていなかったし、疑問にすら感じていなかった。不思議と、彼と二人で居る時間に安心感を覚えるようになっていたのだ。
「政策技官のアルフレッド・ミラー、工学技官のテミス・レイダー、そして医学技官のニーア・エルドレッド、土木技官のランドール・パターソン。この四人。十四年前の独立宣言で、決定した国名なの。ただアルフレッド・ミラー氏だけは色々と問題を起こして、オーストラリア大陸に亡命して……。亡命先の国でちゃっかり、大統領に就任しちゃってるのよね。それで今、あそこの国の名前をアルフレッドなんて名前に変えちゃって、ブーイング殺到らしいわ」
「オーストラリアはともかく。それでこの国の名前が、アルフテニアランドになったのか。理解はできたが……それにしても変な名前だ。もっと他に、案はなかったのか?」
「だから北米合衆国から独立する際に、国名をどうするかで揉めたのよ。主流派は、マサチューセッツ自治国だったから。アルフテニアランドっていうのは、当時の自治政府が強引に決めた名前。だから未だにマサチューセッツに改名しろと主張する運動は、そこら中で起こってる。現にうちの父も、マサチューセッツ派だもの。私は、もう決まってしまったものなのだから、どうでもいいって思ってるけど」
「…………」
「ごめんなさい」
「何が?」
「あっ、いえ、べつに。何でもないわ……」
 ただ、ブリジットにとってやり辛いこともあった。
 彼女が父親に関係する話を少しでもすると、彼はオーバーヒートを起こす一歩手前のコンピュータのように、一瞬だけフリーズしてみせるのだ。
「それで、北米合衆国ってのは何だ? アメリカじゃないのか?」
「いつの時代の話をしてるのよ、あなた。アメリカとカナダとメキシコが合併して北米合衆国になって、ランスィカヤ連邦を超える超大国になったのは、もう七百年以上も昔の話よ?」
「ら、ランスィカヤ連邦?」
「ユーラシア大陸の北東部一帯を支配する、共産主義の大国よ! 流石に、知ってるでしょ?!」
「あぁ、ロシア連邦か!」
「ろ、ロシアって……――本当にあなた、いつの時代の話をしてるの?」
 それに、彼と接していて戸惑う点もひとつあった。時々、彼と自分が生きている時代が、本当に同じものであるのかが疑問に思えてくるのだ。彼は比較的近い時代の話を全く知らないのだが、それよりもずっと古い時代のことをブリジット以上によく知っているときがある。
 それも古いといっても中世暗黒時代や起源前後ではなく、中途半端に古い時代。最も残っている文献が少ない(二十七世紀前後に、何者かによって意図的に、多くの文献が完璧に消されてしまったため)とされている、二十世紀から二十一世紀。ピンポイントで、そこだけなのだ。
 そのマニアックさといえば、彼がその時代からタイムトラベルしてやってきたのではないのか、と思えるほど。ちょうどその時代の頃に犇めいていたとされる陰謀説が大好きな赤縁眼鏡の友人よりも、更に彼は詳しかったのだ。
 とはいえ、タイムトラベルなんてことがあり得るはずがない。論理的には可能とされつつも、実現には至らないでもう二千年が経っているのだ。その仮説はアホくさいと思っていながらも……ブリジットは心のどこかで、その仮説を完全に討伐はできていなかった。
 そしてブリジットにはそれ以外にも、気になっていることがあった。彼の過去、そして記憶についてだ。
「そういえばなんだけど……――」
 ブリジットはそう言いながら、机の上に開いていた自分の教科書をそっと閉じる。それからブリジットはヘーゼル色の瞳で、机を隔てた前に座る彼の、シベリアンハスキーのように蒼い瞳をじっと見つめた。
「ミズ・マックスから、聞いたのよ。あなたの母親だと名乗り出ている女性が、二人もいるって話を」
 大半の失踪者は、データベースを洗えばすぐに身元が判明する。たとえ、記憶が欠落していても。しかしハスキーと呼ばれる青年の記録は、ミズ・マックスがどれだけ手を尽くしても、判明することはなかった。
 そうして遂にミズ・マックス、ひいては児童保護局は音を上げ、情報提供を公に呼び掛けた。その結果、彼の母親を名乗る女が呼びかけ後、すぐに出てきた。それも、二人も出てきたのだ。
 一人は、ミステリアスな黒ずくめのミセス・カリス。ミズ・マックス曰く、頭から被った真っ黒のヴェールのようなもので、顔を鎖骨まですっぽりと覆い隠しており、その表情は黄色の目しか伺えなかったという。そして彼女はだぼだぼな黒のドレスを着用しており、体形もさっぱり分からなかったそうだ。そしてさっぱり分からなかったのは外見だけでなく、彼女の身分もそうだった。青年と同じく、どのデータベースを漁っても一切引っ掛からなかったうえに、彼女が身分を証明するものを児童保護局に提出することを拒否したのだ。故に児童保護局は彼女を危険人物と判断し、青年との面会を許さなかったという。
 そしてもう一人は、チャラチャラしたバカっぽい女のデボラ・ルルーシュ(談: ミズ・マックス)。彼女が提出した身分証明書から、彼女が三十二歳で北米合衆国在住だということは判明したが、それ以外はまるで不明。出身、現住所ともに不明。また彼女が青年の情報を提供することもなかった。そのうえデボラ・ルルーシュというその女は、ミズ・マックスの目には相当な異常者として映ったらしい。端的に言うならば、ドラッグをやってそうなヤバイ奴の類、と彼女はブリジットに漏らしていた。
 そんなヤバそうな女が、仮に彼の実の母親だったとしても。親元に返したところで、ロクなことにならないだろう。そう判断したミズ・マックスは、ミセス・カリスと同様にデボラ・ルルーシュを危険人物と判断。同じく、面会を許さなかったという。
 よって、自称母親のどちらも、青年とは会っていない。また青年にも会う気はからきしないらしいと、以前ミズ・マックスは言っていた。
「児童保護局のほうも面会を許さなかったそうだし、あなたもどちらにも会うつもりはないって言ってるみたいだけど、それは……どうして? 自分の亡くした記憶を見つけ出す手掛かりになるかもしれないのに。一度だけでも会ってみる価値は十分にあるように、私には思えるんだけど……――」
 ブリジットはそう言う。すると青年は表情を強張らせ、そして彼は言った。
「なんとなく、分かっているんだ。両親はとっくに死んでいる、母親が生きているはずがない、ってことは。だから、会う必要がない」
「どうして、それが分かるの? だってあなたには記憶がなくて、まだ何も思い出していないんでしょう? なのに、両親は既に死んでいるってことを分かっている。それって明らかに矛盾してるわ。……そう思わない?」
 ブリジットの指摘に、青年は黙り込んだ。気まずそうな顔をしていて、蒼い目は泳いでいる。その様子を見たブリジットのモヤモヤはたった今、確信へと変わった。
「やっぱり、そうなのね。すべてが嘘とは言わないけど、何も思い出していないっていうのは嘘。少なからず、何かを思い出している。だけどそのことを、ミズ・マックスに伝えていない」
「…………」
「どうして伝えないのよ。ミズ・マックス、彼女がどれだけあなたのことを気にかけているか、分かってるでしょう?」
 ブリジットが詰め寄るほど、青年の表情は曇っていく。それから五分ほど、一切視線の合わない沈黙が続いた。そして五分ほどの静寂の後、青年が言葉を発する。それはとても小さく、くぐもっていた聞き取りにくい声だった。
「……まだ、その記憶の整理がつけられてないんだ。それが事実なのかも、分からないから。それに、できることなら忘れたままでいたかったんだ。何もかも、全てを」
 青年のその言葉のあと、ブリジットは手早く帰り支度を進めた。そしてブリジットはさよならも言わず、黙ってその日は青年の家を後にした。そしてその日以降、彼女がハスキーと呼ばれた青年と会うことはなかった。
 それから三日が経過した、ある日の夕方。慌てふためいたミズ・マックスが、ブリジットの家を訪ねてきた。そしてミズ・マックスはブリジットと、ブリジットの父親にこう問いかけた。ハスキーから何か連絡はなかったか、と。だがブリジットもとい父親の許に、彼から連絡が来たことは今まで一度もなかった。ブリジットはその旨を伝えると、ミズ・マックスはその場に膝を付いて頭を抱えた。ハスキーが消えた。彼女はそう言い、静かに涙を流した。

 ある日突然現れた青年は、ある日突然に何も言わずに消えてしまった。丸一月ほど捜索が行われたが、その努力は空しく、結局彼が見つかることはなかった。
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