ディープ・スロート//スローター

They're Watching. ― 盤上の駒たち

 アーサーが訪れていたのは、五日前にも訪ねたデボラの仮住まい。どことも知れない亜空間に位置する、ガレージのような場所だ。朽ちることない遺体が納められた真っ白な棺は、この部屋の中央に置かれたままになっている。そして棺の周りに撒き散らされた白百合の花も、前と同じだった。
 そして、この空間の主であるデボラは、突然手のひらを返したアーサーに困惑していた。
「なによ、この間は『出来ない、無理だ』の一点張りだったくせに。急に、気が変わったって。都合よすぎるでしょ」
「そうか。なら、今回の提案は忘れてくれ」
「駄目ダメだめ、そんなの絶対にダメ!! やって、パトリックを生き還らせてよ。ほら、早く!」
 デボラは息を荒くし、興奮していた。冷静さを欠いている状態であり、一番操りやすいコンディションにあった。そしてアーサーは、したり顔を浮かべる。
 そんなアーサーの目には、無邪気にはしゃぐデボラの姿と、ひどく怯えた顔をした霊魂が見えていた。
「……自業自得だ、愚か者。エズラを敢えて挑発するような行為は、決して許すことができない。生き続けて、詫びろ。逃げることは、死神の名に措いて許さぬ」
「アーサー、何か言った?」
「いいや、何も言っていないが」
「あっ、そう? 気の所為か」
 生命は通常、肉体が死んだ際にその体から魂が分離する。そして魂が特にひどく汚れておらず、強い未練や負の感情もない場合は、すぐに世界から消えてなくなるのだ。
 しかしこの世には、すぐに消えてくれる霊魂もあれば、しぶとく残る霊魂もある。未練や負の感情が強ければ強いだけ、霊魂がしぶとくなり、自らの意思ではまず消えてくれなくなるのだ。それをひっ捕まえて、消し去ることが“死神”の役目。それこそが特務機関WACE以前に、アーサーという者の本来の仕事である。
「ねぇ、アーサー。でも、パトリックの魂が本当にここに来てるの? 私には何も見えないけど」
「いいや、来ているとも。私のちょうど足下に、四肢を失くした彼が倒れ込んでいる。まあ、君には見えないだろうがな」
「本当に? 本当に本当に、居るの? ハッタリだったら許さないよ?」
「私がここに、彼を引き摺って連れて来たんだぞ? それに居るかどうかは、生き還らせればすぐに分かる」
 アーサーも初めは、四人が殺害された製紙工場跡地でパトリック・ラーナーを見つけた際に、情けからひと思いに消し去ってやろうとも考えていた。自分が死んでいたことにも気付かずに、誰かに向けて謝り倒し続ける憐れな霊を、呪縛から解放してやろうと。しかし、結局やめたのだ。あのときは、ひとまずこの事件が全て解決してからにしようと、そう考えを変えたから。彼から何か情報を引き出せる可能性があるうちは、この世に留めておくことにしたのだ。
 そして今、あのときにこの男を消さずにいて良かったとアーサーは心底感じていた。もし消してしまっていたのなら、デボラという呪いを彼に与えられなかったのだから。
「だが、デボラ。彼を生き返らせるにあたって、ひとつだけ条件がある」
「なに? 条件って、どんなの?」
「難しいことじゃない。彼をそこの体に引き戻した後、まず私に話をさせてくれ」
「一番最初に? えー、やだー。私が最初に、彼とお話がしたいのー」
「あぁ、そうか。なら、取引は無しだ」
「ヤダ! 分かったよ、一番はアーサーに譲る!」
「……それでよし」
 デボラはたった一つの条件に不満を零しながらも、アーサーが“お気に入りの玩具”を治してくれる瞬間を、今か今かと目を輝かせて待っていた。そしてアーサーも、それは恐ろしい笑顔を浮かべていた。
 アーサーは自身の足下に倒れ込んでいた霊魂の髪を引っ張り、引き摺り歩く。アーサーに引き摺られる彼は必死の抵抗をしていたが、アーサーという名の死神には勝てなかった。
 どうして、こんなことをするんです? アーサーにしか聞こえない声が、そう語りかける。涙ぐんでいた声だった。普通の倫理感を持っている者なら、思わず慈悲を与えたくなるような可哀想な声だった。
 しかしアーサーは決して動じない。怒りを原動力としている彼に、泣き落としは通用しないのだ。そして凄絶な笑みを浮かべた死神は、これから処刑を行う魂に対し、皮肉なほど優しい声で語りかけた。
「パトリック・ラーナー。こうなったのは全て、君の責任だ。WACEという組織を裏切るのは、大いに結構。君が以前から我々に不信感を募らせていたことは知っているからな。しかし、だ。罪なき多くの者を、故意に危険に晒そうとした罪を許すことはできん。まあ、要するに……――ざまあみろ、ということだ」
 処刑を前にした魂は、あのとき黒狼が言っていた不吉な予言を思い出す。そして黒狼が言っていた死神は、何よりも恐れていたアーサーという存在のことを指していたのだと思い知るのだった。





 コンコンコンッ。
三回、扉がノックされる。看護師から借りた小説本をそれまで読んでいたリリー・フォスターは、本をベッドの脇に設置された机の上にそっと置いた。それからずれていた眼鏡を正し、今度は誰が病室を訪ねてきたのかと身構えた。
 病室の扉がそっと開き、気まずそうにはにかむ女性が顔を出す。彼女はリリー・フォスターに、小さく手を振った。
「……おはよう、リリー。今日は起きてたのね」
「支局長?!」
「ごめんなさい、驚かせちゃったかしら」
 一時は危ないと思われたものの、どうにか山を乗り越えたリリー・フォスターは、順調に回復へと向かっていた。
 そのリリー・フォスターが入院していた病室を訪れたのは、シドニー支局長ノエミ・セディージョ。リリー・フォスターを危険に晒した、当の本人だった。
 ノエミ・セディージョ支局長は病室の中に入ると、開けた扉を静かに閉める。それから彼女は、リリー・フォスターが横になるベッドに歩み寄りながら、こんなことを訊ねてきた。
「それで、リリー。調子はどう?」
「刺されたところは、まだ少し痛みます。ですが主治医の先生が今朝、もう大丈夫だとは言っていたので、ちょうどひと安心していたところです」
「そう。それは良かったわ、本当に。……でも復帰は、三ヶ月後になりそうね」
 ベッド脇にあった椅子に、支局長はどかっと座る。お淑やかさや女性らしさなど微塵も感じられない、いつも通りのノエミ・セディージョ支局長の姿に、リリー・フォスターは少しだけ頬を綻ばせる。しかしノエミ・セディージョ支局長の顔は、いつにも増してシリアスなものだった。
「私ね、冗談のつもりで言ったのよ? 特命課は今後エドに任せる、って。だけど本当に、暫くはエドに任せることになりそうね。はぁ、この先が思いやられるわ。特に、アレクサンドラ・コールドウェル。もう既に彼女、好き勝手暴れてるし。やっぱりリリーが居ないとダメね、特命課は……」
「そうでしょうか? やはり私よりも、エド・スミスのほうがよほど特命課には合うと思うんですが……」
 リリー・フォスターが、うっかり本音を漏らす。すると悲愴感溢れる表情を浮かべたノエミ・セディージョ支局長が、情けない目でリリー・フォスターを見つめてきた。
「エドは駄目よ、全然。なんてったってあの人は、放任主義なんですもの。アーチャーは優秀だし、しっかりしているから多少は放っておいても大丈夫なんだけど。でもエージェント・コールドウェルなんていう問題児には、ビシッと言ってくれる人が必要なのよ。現に彼女、私の手に負えなくなってるもの。昨日の夜なんか、合同捜査に当たっていたシドニー市警の鑑識課から私宛てに彼女の苦情が殺到。合同捜査とは名ばかりで一切協力しなかっただろうがーだの、証拠品の拳銃が無くなっているーだの。散々よ、もう。証拠品を盗んだってどういうことなのよ、って」
「……心中お察しします」
「あの、その、急かすつもりは、ないんだけどね。でも、できればあなたには、早く復帰してもらいたいってワケなのよ。お願い、リリー。早く復帰して、いつもみたいにダメダメで局員にも本部役員にも舐められている私を助けて頂戴。うちの支局には、あなたが必要なのよ」
 両掌を顔の前で合わせるノエミ・セディージョ支局長の姿は、まるでリリー・フォスターに拝んでいるかのよう。そんな支局長に、リリー・フォスターはほろ苦い笑みを浮かべた。

 そして、彼女たちのその遣り取りを、遠くから見ていた者が居た。
「ケケケッ。よくやったじゃねぇかェ、ジェド。奴らの計画が、崩れ始めてるぜ」
「……やっと、な。ラーナーに渡した拳銃が効いた。だが小さな一歩でしかない」
「あの女刑事は正常な道では、死ぬ予定だったんだっけかェ? それが今、生きているどころか回復しつつある。まぁヨ、たしかに小さな一歩だ。けれども、それも積み重ねりゃナンチャラ~って、なァ?」
 ちょうど、リリー・フォスターが居る病室を見ることができる場所。病棟の向かいにある、古びたアパートの屋上。そこに、青白く輝く目をした黒羽の烏と、その烏と同じぐらい黒い毛並みをもった緑色の狼が佇んでいた。
 ケケケッと笑い、品が無くガラの悪い口調を、低く嗄れた声で喋っているのは、烏のほう。そして冷静に、淡々と喋っているのは狼だった。そして狼は言う。
「だが油断をすると、すぐに元の道へ引きずり戻される。これからが、勝負だ」
「そんで、その鍵になるってンが、 俺おいちんの可愛いようで憎たらしい、あの眷属なのかェ?」
「あぁ、そうだ。サー・アーサーがどう動くかで、今後の局面が幾らでも変容する可能性がある」
「へぇ、可能性。その言葉は、俺ちんの大好物だ。だがヨォ……――あれに任せても、大丈夫なもんかェ? 俺ちんは心配だゼ?」
 心配だと言いながら、烏はケケッとドライに笑う。たとえどう転ぼうが、それは自分の知ったことではない。烏の乾いた笑いには、そういった意味が込められていた。
 すると狼は、こんなことを言った。
「キミア。あれは仮にも、お前の眷属なんだ。もう少し信用したらどうだ?」
「ケケケッ。奴の心に、俺ちんへの不信感がある限りは、無理だろうなァ。アーサーが、エズラのほうに寝返る可能性だってゼロじゃあねェんだ。俺ちんは、もう少し見物させてもらうとするヨ。文字通り、高みの見物ってェやつだ」
 烏は最後にそう言うと、バサバサと大きな羽を羽ばたかせて飛び去って行った。そして狼も、その身をぶるりと震わせる。誰も人間は見ていない屋上で、黒き狼は影に溶けて行った。





「なぁ、ルーカン。次長のラップトップパソコンから、何か収穫はあったのか?」
 どこともしれない地下空間に設けられた薄暗いオフィス、特務機関WACEの本部(仮)。浮かない顔で、古びたラップトップパソコンを見つめていたアイリーンに、そう声を掛けてきたのは、エイドと手を繋いで歩いていたコールドウェルだった。
 するとアイリーンは返答の代わりに、重苦しい溜息を吐く。コールドウェルはおかしなアイリーンの様子に眉を顰めさせ、その様子を横で見ていたエイドは首を傾げさせた。すると幼いエイドが、大人の会話に口を挿む。
「……アイリーンも、アーサーも、朝からどうしたの? 二人とも、変だよ。アーサーは、なんだかよく分からないけど、ずっと笑顔だったし。アイリーンは、ずっと暗い顔をしてる。どうして?」
「どうしてって、言われてもねー。どう言えば、いいんだろ」
「じゃあアイリーンはどうして、ずっと溜息を吐いてるの?」
「うーんと、そうだなぁー。知りたくなかった事実を発掘しちゃったから、かな」
 普段であれば、息もピッタリで相性も抜群なアーサーとアイリーン。しかしその二人の間に、今朝から奇妙な空気が流れているのを、コールドウェルとエイドは感じ取っていた。なんとなく、あの二人が噛み合っていないのだ。
 今朝のアーサーは、何かがおかしくなっていた。今朝の彼は異様にニコニコとしていたが、笑顔とは裏腹に凄まじい殺気を放っていたのだ。対してアイリーンは、ずっと沈んでいた。目は泣き腫らしたように赤くなっているし、いつもならバッチリとキメている化粧すら、今朝は好い加減なものだった。髪型も、普段ならポニーテールなのに、今日だけは結われることなく、そのままの状態で放置となっている。更に言うなら、寝癖も直していない。
 こんなアーサーは、こんなアイリーンは、明らかに変だ。何かが、おかしい。しかし面倒臭がり屋であるコールドウェルは、気付いていながらも無視を決め込んでいた。のだが、それを今、エイドがブチ壊した。
「知りたくなかった事実? なぁに、それ」
 なんら悪意のない、実に子供らしい無邪気な質問。アイリーンはまた溜息を吐く。そして彼女は衝撃の告白を、何事も無いかのようにさらりと言った。
「ねぇー、アレックスちゃん。サンレイズ研究所って、知ってるでしょ。ざっと二〇年ぐらい前に、ある日突然白昼堂々消えてしまった、アバロセレン工学研究所のこと」
「あぁ、勿論知ってる。あそこの跡地までアタシは、馬鹿なガキだったニールを迎えに行ったことがあるからね」
「その跡地に、今は新しいアバロセレン工学の研究所が建ってるの。カイザー・ブルーメ研究所っていうとこね。んで、そこの地下なのよ」
「……地下が、どうした?」
「エズラがあそこで、オウェイン実験の続きをやってる。アバロセレンからホムンクルスを作るって、アレ。んで今は、その量産化を進める研究ね」
「あぁ、ホムンクルス。アタシがうっかり騙されちまった、あのユンとユニっていう双子のアレね。んで、その量産化。量産化……――」
「そう、量産化計画が進行中ーってわけ。凄いでしょ、ヤバいでしょ。だからなんかもう、どうでもいいって感じ。アルストグラン、ついに崩壊するのかな。もう私、知らない。どーでもいい」
「――……量産化ァッ?!」
 大声をあげて驚いたのは、コールドウェル。エイドはコールドウェルの上げた大声に驚き、目を丸くしている。しかしアイリーンは、ほぼ無反応。だから、どうしたの。それぐらいのリアクションだった。
「いかにも、エズラがやりそうなことじゃない。ユンとユニっていう双子ちゃんのお陰で、アバロセレンから命が作れることは分かったんだもの。なら、今度はそれを安定して大量生産する方法を探すに決まってるわ」
「恐ろしいことを、これぐらい当たり前でしょ? ……みたいな顔で言わないでくれ! 怖いだろ!」
「ふぅーん。アレックスちゃんの怖がるツボって、そこだったんだ」
「おいおいおい。マジかよ、ルーカンさん。アンタ、本当にどうしちゃったんだ?」
 騒ぎ立てるコールドウェルに、悲しそうな顔をするエイド。だが、その顔を見つめるアイリーンは何も感じていなかった。
 アイリーンも、勿論理解していた。今、自分が言った情報の、ことの重大さに。しかしそれは、信じていた者に裏切られたというショックを超えるほどの出来事じゃない。想像に難くない事態であり、想定内の出来事だった。だが……。
「なら、ルーカンさんよ。我らがサー・アーサーは、今どこで何をしているんだ?」
 コールドウェルはホムンクルスの話から、話題を逸らそうとしてアーサーの名前を口に出す。するとアイリーンの顔が途端に曇った。そしてアイリーンは、乱暴に言い放つ。
「サーが今どこに居るのかなんて、知りたくもない。きっと今は、酷いことをしてるに違いないよ」
「酷いことって、そりゃ誰にだよ? ……まさか、行方不明の高位技師官僚を見つけたのか」
「それは絶対に、違う。でも、私は知らない。知りたくもない。知ってても、言いたくない。思い出したくない。……もうとにかく、今は放っておいて! それとアレックスちゃん、頼まれていたものはあなたのデスクの上に置いておいたから。それじゃ」
 アイリーンが、怒った。そして怒ったアイリーンが向かったのは、仮眠室。あとを追うことも出来ないコールドウェルとエイドは、アイリーンの背中をただ見送ることしか出来なかった。
「どうしちゃったんだろ、アイリーン」
 エイドの無垢な瞳が、コールドウェルをじっと見つめてくる。その視線に耐えきれず、コールドウェルは目を逸らす。そして彼女が見たのは、自分のデスクの上。アイリーンが言っていた通り、コールドウェルのデスクの上にはバインダーに挟まれた何かの書類が載っていた。
「……昨日の夜に、頼んだばっかりだってのに。相変わらずルーカンさんは、仕事が早いねぇ。というか、早すぎる」
 するとエイドが、今度はその書類に好奇の眼差しを向けた。しかしその書類は、絶対にエイドが見てはいけないもの。コールドウェルは慌ててバインダーを回収すると、エイドに忠告をした。
「アストレアー? そんな目をしても、この中身は読ませてあげねぇーからな。これは、アタシの仕事に関わる重要なものなんだ。おこちゃまには、見せられませーん」
「分かった。見ない」
「あっ、うん。それぐらいの年のガキにしちゃ、意外と呑み込みが早いな……」
「……命令は、絶対。逆らっちゃダメって教えられてる」
「あー、はいはい。いつものアレね。アドミニストレータが怖いんだもんねー、アンタは」
 コールドウェルが馬鹿にし、からかうようなことを言うと、エイドは機嫌を悪くしたのか、コールドウェルから離れていく。そしてエイドが向かったのは、部屋の隅にある冷蔵庫だった。きっと小腹が空いたんだか何だかで、食べ物を漁りに行ったのだろう、とコールドウェルは見当をつける。そしてコールドウェルは手頃な場所にあった椅子に座ると、バインダーを開いた。
 エズラ・ホフマンの動向についての報告。バインダーの表紙には、そんな適当過ぎる嘘が書かれている。それも、エイドに配慮してのことだった。
「アストレア、アンタが持っているのはプリンかい? ……へぇ、いつの間にそんなものが、冷蔵庫に入っていたとは。知らなかったな……」
「アイリーンが四日前に、貰ったんだって。ASIの、サラ・コリンズっていう人から。あとテオ・ジョンソンって人からは、ティラミスを貰ったって言ってた。どっちも冷蔵庫に入ってる」
「アタシにもそのプリン、一口くれ」
「嫌だ」
「ハハッ。冗談だよ、真に受けるな。プリンは要らないよ、好きじゃない。だけどティラミスはアタシが貰おう」
「……」
「なんだよ、ティラミスぐらいアタシが食ったっていいだろ? 水臭いなー」
 アイリーンに頼んでいたのは、エイドの身体検査だった。というのも昨日の夕方、カルロ・サントス医師からコソッと頼まれたのだ。あの子は絶対に機械じゃない、だから調べてくれ、と。その件をコールドウェルは軽いのりでアイリーンに相談したのが、昨日の夜九時のこと。
 きっとエイドが寝ている間に、アイリーンが調べてくれたのだろう。……だとしたら、アイリーンはいつ寝たんだろうか。
 そんなことを考えつつ、コールドウェルは開いていたバインダーの中身を見る。そしてすぐに、閉じた。
「……流石だねぇ、ドクター。修羅場慣れしている精神科医の目ってのは、素晴らしいもんだよ……」
「アレックス、何か言った?」
「いいやー? ティラミスひとつも譲ってくれないなんて、アストレアちゃんは食い意地っぱりだなーって、そう言っただけさ」
「……アレックスの意地悪」
 バインダーの中は要約すると、こう書かれていた。エイドの体は、人間と同じ。しかしその脳には、何か小さな機械が埋め込まれている、と。つまり基本は人間の子供で、思考を機械によって制限されている、ということらしい。
 そしてエイドを作ったのは、高位技師官僚ではないと断言されていた。高位技師官僚が作ったのは、エイドの脳に埋め込まれている小さな機械だけ。しかしそれも、彼がエイドのために作ったものではなく、盗まれた彼の作品がエイドに利用されただけ、らしい。
 では、誰がエイドを生み出したのか。その答えは、こう書かれていた。
「意地悪、か。まあ、そうだろうね」
 エズラ・ホフマン。
 彼は“元老院の猟犬”のスペアとして、AI:Dを作ったのだと予想される。AI:Dはパトリック・ラーナー氏を殺害と同時に、彼になり変わるように作成された。しかしその計画は、直前で頓挫。自らの作品を盗用されたことに怒りを覚えた高位技師官僚が、何らかの形で妨害したものと思われる。
 そしてAI:Dは、元はごく普通の人間の女児であった可能性が高く、全身に整形が施された形跡と傷が見受けられる。額は人工骨で、頭蓋骨にボルトが複数確認された。歯は全てセラミック。目尻に切開の痕跡があり。更に指紋には改変が加えられており、情報の特定は不可能。
 しかし成形前の顔をコンピューターグラフィックスで再現し、完成した図を顔認証に掛けたところ、三年前にフィッツロイで起きた未解決の誘拐事件がヒット。母親のマルシア氏と共に訪れた動物園ディジーワラビーランドで失踪した、当時四歳の女児アイーダに……――
「……アタシを意地悪だと感じるのも、やっぱり人間だからなのか……」
 コールドウェルは途中で胸糞悪くなり、読むのをやめたのだ。これ以上、この件について考えるのをやめろ。コールドウェルの頭の中で、自分にそう暗示を掛ける声がしていた。
 そしてコールドウェルは、冷蔵庫から取り出したプリンを黙々と食べているエイドを見つめる。その姿は、ただの子供でしかない。ごく普通の女の子にしか、コールドウェルには見えなかった。
「……なぁ、アストレア。ひとつ、訊いていいか」
 閉じたバインダーを腋に挿んだコールドウェルは、エイドに向かって手招きをし、近くに来るように促す。するとプリンを片手に持ったエイドが、すたすたとコールドウェルの許に歩み寄ってきた。
 そしてコールドウェルは、胸ポケットに携帯していた手帳の中から、一枚の写真を取り出す。目の前に来たエイドに、その写真――ASIから拝借してきたもの。とある工作員が撮影したという、白衣姿の男性の盗撮写真――を見せた。それからコールドウェルは、エイドに訊ねる。
「一応、確認させてくれ。……アドミニストレータは、この人か?」
 コールドウェルが見せた写真に写るのは、不精髭に黒縁眼鏡の男、現在失踪中であるペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚だった。
 コールドウェルを含めたWACEの人間は、エイドが言う“アドミニストレータ”はあの高位技師官僚に決まっている、というのを大前提に今まで話を進めてきた。それ故に、当の本人に確認したことはなかったのだ。
 そしてエイドが純粋なる機械ではないと分かった今、その大前提がはたして正しいものであるのかどうかが疑わしくなったのだ。
「……えっと、アドミニストレータ……」
 エイドは大きな目で、写真をじっと観察する。そして首を傾げ、エイドは言った。
「誰なの、この人。違う。アドミニストレータは、こんな人じゃなかった。こんなに痩せてないし、髭も生やしてないし、もっと若かった。ぶくぶくに太ってたもん、あの人は。目も蒼じゃなくて茶色だったし、それに髪の毛も癖毛じゃなくてストレートで長くて、それに黒髪じゃなくて茶髪で。肌は日焼けしてて、赤くなってた。それにあの人は、こんな見るからに怪しそうな人じゃなかった。見た目はすごく優しそうだけど、お酒が入ると人が変わって、それで……」
「分かった。この写真の眼鏡のオッサンは、アンタのアドミニストレータじゃないんだね。……じゃあ、アンタのアドミニストレータは誰? それに、そのアドミニストレータってのは、本当にアンタの管理者アドミニストレータなのかい?」
 新たに投げかけられたコールドウェルの問いに、エイドは困惑した顔をする。それからエイドは小さな声で、言った。
「……アドミニストレータじゃなかった、のかも。本当のアドミニストレータは、エズラだったっけ?」
「なら、アンタが今まで“管理者”だと思っていた男は誰なんだ?」
「分かんない。分からないよ、アレックス。……でも、なんだかその人がとても怖くて、いつも怯えてたってことは、覚えてる。感情しか、覚えてないけど」
「分からない、か。……まっ、その件は思い出してくれた時で良いよ。急ぎの案件じゃないからね」
「……珍しい、アレックスが優しい」
「アタシゃいつでも優しいよ。何を言ってるんだい、まったく」





 げほっ、ごほっ。誰かが咳き込む音がしていた。
「……グッドモーニング、ラーナー。いや、時刻からしてグッドイヴニングか?」
 白い棺の中にあった遺体の目が、カッと見開かれる。恐れに満ちたその顔を、上から愉快そうに眺めていたのは、サングラスを外していたアーサーだった。
 目覚めた死体は何かを言おうとしたが、言葉が思うように音となって出てこない。代わりに出てくるのは、苦しい咳。死体は苦悶の表情を浮かべたが、アーサーは気にも留めない。アーサーは死体が来ていた上等なシャツの襟首を掴み上げ、顔に顔を近付ける。そして凄絶な笑みを浮かべて、アーサーは言った。
「おめでとう、ラーナー。生ける屍、リビングデッドの仲間入りだ」
「……っ……」
「お前の命は今この瞬間から、私のものとなった。生殺与奪の権は、私が全て握っている。お前は自分の意思で死ぬことが出来なくなった、というわけだ」
「…………」
「どうだ、嬉しいだろう? デボラと一生、共に居られるんだ。仮に彼女に殺されたとしても、私がお前を許さぬ限り、お前は永遠に息を吹き返し続ける。これ以上無い、最高の地獄だとは思わんかね? ……これもすべて、お前自身が選んだ道だがな」
 そう言うとアーサーは襟首を掴んでいた手を離し、死体を落とす。すると後ろで様子を見ていたデボラが、悲鳴を上げた。
「アーサー、何してるの!! 私が虐める前に、虐めちゃダメ!」
「少し静かにしていてくれないか、デボラ。気が散る」
 殺意に満ちたアーサーの蒼白い目が、デボラを冷徹な眼差しを送りつける。と、同時だった。アーサーの手が、再び死体の首元に近付く。そして彼は、死体の首を絞め上げた。
「アーサー! ちょっと何してんのよ、やめなさいよ!!」
 じたばたと、死体は暴れ回る。そしてアーサーが手を離したのは、その十数秒後だった。解放された直後、死体は先ほどよりもひどく咳込む。それを横目で見るアーサーは、まさかの言葉を吐き捨てた。
「お前が言葉を喋れるように、その穴のあいた首と、肺に詰まっていたものを全て取り除いてやった。感謝くらいしたらどうだ、ラーナー」
 死体は咳き込みながら、ゆっくりと上体を起こす。血走った大きな黒い目は、アーサーを睨みつけていた。そして死体は、震える声で呟いた。「……悪魔かよ、アンタは……!」
「人間を惑わして唆す悪魔は、お前のほうだろう? 私は、再生と終焉を司る死神。お前は十五番のカードであり、私は十三番」
「……何を言ってるんですか、サー・アーサー。私にはさっぱり、理解出来ませんね……」
「タロットカード、大アルカナ。愚者から始まり、世界に終わる物語だ」
「……これだから、WACEの連中は嫌いなんだ。頭のネジが外れてやがる……」
「穢れ無き心で告解し、真実を語りさえすれば、赦してやらなくもない。嘘偽りの言葉を騙り、欺き続けるような真似を続けるのであれば……――永劫の呪いを与えよう」
 青白く発光するアーサーの目が、氷のように冷めきった視線を送り付けてくる。その後ろで、自分の番が回ってくるのを待つデボラは、退屈そうに口笛でグリーンスリーヴスを吹いていた。
「……ラーナー、何も言えんのかね?」
 状況がまるで理解出来ない。何が、どうなってやがる。突然引き戻された世界に、息を吹き返したばかりの死体は動揺していた。そして彼は、こうも思っていた。アーサーは何故、こうもまで激しい怒りを自分に向けているのかと。
 特務機関WACEの長、アーサー。彼の恨みを買った理由として、死体にはいくつか思い当たる節があった。まず、アーサーの許可なく勝手に死んだこと。しかしアーサーの口ぶりから察するに、その可能性は無さそうである。どうやら彼が欲しているのは、情報であるようだから。
 次に思い当たるのは、“WACE関係者の特権”を利用して得た情報を、ASIに流していたこと。というのもパトリック・ラーナーという人間は、アーサーら特務機関WACEとやらを一切信用していなかったのだ。
 そして「国家の脅威となるものを、全て叩き潰すこと」を目的としているASIという組織と違い、WACEは何を目的に活動していて、最終的に何を成し遂げたいのかが、常に不明瞭であった。
 それに給料を毎月払ってくれるのは、他でもないASIだ。金を払ってくれる雇い主に忠誠を誓い、尽くすのは当然のことであり、ただ利用しているだけで何の見返りもない組織に捧げる忠義など、ありはしなかった。
 そして最後に思いつくのは、ASIに流していた情報すべてが詰め込まれているラップトップパソコンを、古巣である連邦捜査局に居る友人に預けろと書いた遺言状。遺言と言っても、二つあるうちのひとつ。ASIに保管されていた正式な書面とは違う、WACEにて保管されていた、法律上は何の効力は何もない出鱈目の書面だ。
 しかしパトリック・ラーナーという男は、アーサーに嘘を吐いていた。WACEにあるものが本物であると、彼に言っていたのだ。巧妙な嘘をあれやこれやと重ね、決して真実がばれないようにカモフラージュし続けてきた。もしかするとアーサーは、それを真に受けてノエミに渡してしまい、今になって後悔しているのかもしれない。
 その他、死体は思い当たる節を思い出せるだけ振り返るが、決定打となるものが浮かばない。さらに理解出来ない現在の状況――死んでいたはずなのに、息をしている今の自分。そして自分を殺した女と、アーサーが親しげに話していた姿――が頭を混乱させ、物事のジャッジが出来なくなっていた。
 そして飛び出てきたのは、パトリック・ラーナーという男の常套手段。
「……それで、あなたは何を私から聞きたいんです? サー・アーサー、およびエルトル考古学博士」
 人を小馬鹿にするような憎たらしい笑顔を、死体は浮かべた。
「ルネサンス以前の暗号解読が専門でいらしたんですよね? 錬金術に纏わる人工言語エノク語といったものから、遠い遠い大昔の時代に扱われていた世界各国の魔術文字、様々な言語や記号を併せた特殊記法など」
「…………」
「生前は、当時人間になり済ましていた悪名高きエズラ・ホフマン氏のもとで働いていたそうじゃないですか。いや、霊能者の妻キャロラインと可愛い可愛い娘テレーザを人質に取られ、仕方無く従属していたと言ったほうが正しいのでしょうか。そしてエズラ・ホフマン氏が裏で行っていた、決して表に出してはいけない闇帳簿などを、デジタルでは解読できない、今となっては失われた古典的かつ複雑な暗号に組み替えていたんですよね? それに、あの防衛部門の高位技師官僚とは学生時代、それはそれは深い……――」
「ノエミ・セディージョにあのラップトップを渡して、お前は何をさせようとしていた?」
「あぁ、やっぱりその件でしたか。ということは、あの中身を盗み見たんですね」
「ルーカンが、な」
「……はぁー。だから、アンタらが嫌いなんですよ。プライバシーもへったくれもない。私、遺言状に中身は決して見るなと書いたはずなんですが?」
「ノエミ・セディージョの手に委ねたあと、彼女からルーカンのもとに中を開けてほしいと要請が来た。それだけのことだ」
「ノエミが? ……呆れた。あの汚部屋女王、自分の部下に頼った方が早いだろうに。よりによって、あのクソブスを頼るなんて……」
 なんだ、その話か。
 死体は内心、少しだけ安堵していた。ノエミ・セディージョという女に、重要な情報が詰め込まれた機械を譲った理由は、特にやましいこともない、とても単純なものだったからだ。
 しかし、アーサーは何を誤解しているのだろうか。死体を見つめてくる彼の目は、死刑判決を食らった最悪の犯罪者を見るようなもの。それに死体は先ほど、アーサーの心を揺す振りにかかったのだが、威風堂堂と佇む彼がダメージを負っているようには見えなかった。寧ろ小賢しい真似をする死体を、その程度のことしかできないのかと憐れんでいるようにすら見える。
 虫の居所が悪い。死体はそう思った。だからこそ下手な小細工はせずに、ありのままの真実とやらを語ることにした。
「ノエミに渡せと書いた理由は、単純ですよ。彼女は信頼できる。それだけです」
「……」
「ASIのほうには、バックアップのデータがすべて保管されています。私が死んだ際には、保管されているそれら全ての情報は丸ごと、自動的に部長のポール・ドノヴァンの管轄となります。私が最も信頼する組織であるASIは、既に情報を全て掌握しているということです。しかし、ASIはその体質から握った情報を独占しがちで、独善的な行動に走りやすい。そのため他局との連携が行われず、あと一歩というところで犯人を逃してしまったり、悪の根源を討つ道を絶たれてしまうことがある。……あの件に関しては、どうしてもそれを防ぎたかった。だからこそ、連邦捜査局に所属する彼女にも知らせるべきだと判断したのです。以上が……――」
「本当に、それだけなのか?」
「ええ、そうです。ラップトップの中身を見たのであれば、あの件がオウェイン実験に続く許されざる行為であると、流石のあなた方も感じたでしょう? だから、ですよ」
 死体は、嘘偽りの無い心を曝け出した。しかし死体に注がれる疑いの目は、揺らぐことがない。
 一体、彼の中で何が引っ掛かっているから、自分はこんなに疑われているのか。それを引き出すために死体は、その行為に至るに当たった考えと本音を、アーサーに向かってぶちまけた。
「私は、あれは法廷の場に持ち出されるべき案件だと考えております。それも大陪審が設けられるレベルのものだと。その為には、ASIと連邦捜査局の連携が不可欠。事件を潰して闇に葬り去ることしか能がない特務機関WACEではなく、捜査機関の鉄鎚と法による健全な裁きが、必要なんです」
 するとアーサーの眉根が上がる。やはり、彼はまだ疑っているようだ。
「……仮に、お前の言った通りだとしよう。そのとき、お前は誰の怒りを買うことになるのかを考えなかったのか?」
「アバロセレン技士たち、それを牛耳っていたエズラ・ホフマンという存在についてですか? えぇ、勿論。彼らの怒りを買うことになるのは、想定内です。ですが彼らがどれだけ抗い、騒ごうと、アバロセレンを死ぬほど嫌う一般市民の大きな声と弾圧には勝てないでしょう。勢いを利用すれば、一網打尽は十分に可能であり、それに」
「エズラの怒りを買うことにより、捜査機関に重大な損害が及ぶことを、お前は考えなかったのか。あれは、やるぞ。大殺戮を、平気な顔で。民衆を殺す可能性も十分にあり得る」
「だから、闇に葬るんですか。解決しようという努力をせず、正体も分からない“元老院”という謎の存在による、倫理も道徳も欠片もないような蹂躙を黙って見過ごし、それを許せと? この星は、我々人間のものですよ。化け物に支配される義理なんてありませんし、彼らの違法行為を見過ごすこともできません。彼らは、罰せられるべき存在です。そして彼らの行為を助長している、あなた方も」
「地球は本当に、人間に与えられた人間の所有物か? ……私には、そうは思えない。それに、そのような傲慢な思想を理解することが出来ないな」
 死体は、アーサーの言葉に嫌悪感を示す。それは耳にたこができるほど聞かされてきた、彼らWACEの口癖であったからだ。
 エズラを怒らせてはいけない。彼は血も涙もない。怒りを買ってしまったら最後、取り返しのつかないことになる。WACEはいつも、そう言ってきた。そして起こってしまった出来事を全て闇に葬り去り、暗黙の了解を作っては緘口令を敷く。そうして幾つもの事件が、幾つもの殺人が、幾つもの名誉が、まるで無かったことのように葬られていった。
 その中でパトリック・ラーナーという男は、特務機関WACEという存在に不信感を募らせていったのだ。ここには、正義がない。彼らは何をしたいのかも分からない、と。
 するとアーサーは呆れたような溜息を吐く。それから、彼は呆れたとでも言いだけな声で喋った。
「これは貴様の弟子であるコルトにも当てはまることだが、貴様は何かを勘違いしているようだ。特務機関WACEは、正義を為すためにあるわけじゃない。WACEというのはそもそも、元老院に仕える組織だ。その長である私は、元老院とは基本的に良好な関係を築いている。エズラ以外とは」
「……?!」
「現在におけるWACEの主な役回りは、エズラが起こす騒動に付随して発生する犠牲を、極力減らすこと。それとトラブルメーカーの不死者を、どうにかして殺すことだ。エズラが行っている行為は些か問題がありすぎるが、しかしそれを阻止することは我々の仕事ではない。そしてこの場合、我々が止めに入るのは、貴様が企てた謀略のほうだ。多数の犠牲を払うだけの、無為な行動。それを、叩きのめす。何故なら」
 すると、アーサーが笑った。それはさっきと同じ、狂気に満ちた笑顔だった。そして彼は言う。
「私が仕事を増やしたくないからだ。霊魂を狩るにも、相当なエネルギーを使うのでな。……そして今も、私は力を使いたくない。先ほど貴様を生き返らせた際に、かなりの気力を消耗したのでな」
 言い終えるとアーサーは、死体に背を向けた。それからアーサーは口笛を吹いていたデボラに目配せし、合図する。待ちに待ったデボラの番が回ってきたと、言葉なくして告げたのだ。
 合図を受けたデボラは、喜々とした表情で立ち上がる。無邪気な笑顔を浮かべる彼女の顔に、悪意は無かった。しかし彼女が右手に握っていたナイフには、純粋に邪悪な心が詰め込まれていた。
「うふふ♪ 早速だけど……パトリック、何して遊ぶ? この間みたいに、私の許可なく勝手に死ぬことは許さないんだからねー。あはは、分かったー?」
 迫りくるデボラに、死体は怯える。あれだけ散々罵っておきながら死体はアーサーの背を、慈悲を乞うように見ていた。
 だがアーサーは、振り向かない。そしてアーサーは何も感じていないかのような、冷淡な口調で言う。
「かよわい仔猫のような心は悪魔のようなものに変貌していたが、根にある大正義を信じる心というエレメントは、ずっと変わらずに居たようだな。だが、ひとつ言っておこう。この世に、絶対に正しき正義など無い。正義という概念など、掴めば消える幻に過ぎん。故に正義を信ずる者はある種の幻想に取りつかれ、現実を見失う。やがて幻想に飲まれ、破滅の道を辿るのだ」
「……アーサー、アンタはどうかしてる。私が、そこまでの罪を犯したとでも、あなたは言うんですか?!」
「あぁ、そうだ。正義を振りかざし、多くの者を殺そうとした。そして、貴様はアイリーンを深く傷つけた。それ以外にも、名前を挙げたらキリがない。空を往くこの方舟から、海に身を投げたラファエル・レヴィン。疲弊しきったドクター・サントスに、疑うことなく貴様を信じ続けている可哀想なコルト。それに自分のことを利用されかけたと知れば、ノエミ・セディージョもひどく傷つくことだろう。……理由はそれで十分だと思わないか、ジゴロ。貴様はそれだけ多くの者を誘惑し、傷つけたのだから」
 ジゴロ。
 今になってそのあだ名が、心に重く圧し掛かってくる。それは重ねた罪の分だけ、重い。たとえ本人が無自覚で行っていたとしても、その行為は後に付いて回る。積み重ねた数は底知れず、もはや手遅れ。
 死神は、そんな彼を赦す気などなかった。
 安息である死を、許可することもない。
「死刑なんぞ、貴様には生温い。被害者たちが味わった苦痛以上の苦しみを、延々にダラダラと味わいながら、醜態を晒して生き続ければいい。……そうして貴様が完全に壊れたとき。私は、お前を迎えに来てやろう」
 冷たい言葉を残し、死神は死体から離れていく。待って下さいと大声を上げる死体を無視し、アーサーは歩む速度を上げていった。
 するとどこかから突然、真黒な体の烏が姿を現す。アーサーと同じ、青白く発光する不気味な目をした烏は、ばさばさと翼を羽ばたかせ、やがてアーサーの肩に留まる。烏はケケッと不気味に笑い、低く嗄れた声でアーサーに話しかけるのだった。
「見直したゼ、アーサー。アバロセレンってのに力を奪われた俺ちんの後任を、お前ェさんに任せて正解だった。あの可愛い可愛い子猫チャンを前に動じないとは、見上げた男になったなァ。ケケッ」
「……」
「大学生のペルモンド青年を追っかけて、奴とつるんでたお前ェさんを初めて見た時にゃぁヨ、こりゃどうしようもねぇモヤシっ子が居ると思ったもんさァ。友達は幼馴染の女の子、ブリジット・エローラひとりだけ。だっせぇシャツにジーパン、赤い縁の眼鏡を掛けて、不仲であった父親の影にビクビクと怯えてた、救いようのねぇ神話オタクのガキが居るーと。ところが、どっこい。三十を過ぎた途端に、お前ェさんときちゃ雰囲気が一変しやがったもんでなァ。急に、肝っ玉が据わりやがった。ンで今となっちゃぁヨ、最高の冷血漢に……――」
「そこから退け、貴様の爪が痛い」
 アーサーは肩に留まった烏を、乱暴に手で払いのける。すると烏は飛び上がり、今度はアーサーの頭の上に降り立つ。眉間に皺を寄せるアーサーは、ぶっきらぼうに言った。
「それで、キミア。用件は何だ」
「おぅおぅ、ヘイヘイ、ヨォヨォ。お前ェさんは呑み込みも早くて助かるゼ。そーいうとこは、ペルモンドのほうがポンコツだからなァ。あン野郎、わざと空気を読まねぇで無視を決め込むからヨ。ケケッ。つくづくアイツを、後任にしなくて良かったと思えるゼ……」
「それで、要件は何だ」
「おぅおぅ、いつものやつヨ。ノエミ・セディージョって女が、エズラがやっているあんなこと、そんなことについて知っちまったんだろぉ? つーわけでぇヨ、あれの上司に掛け合ってくれェな。あとは、分かるだろ? デボラのあれこれも、ついでに……――な?」
 烏はアーサーの頭の上から、彼の顔を覗き込む。そしてアーサーは、冷淡な声で静かにこう言った。
「……了解だ、すぐ片を付ける」
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