ディープ・スロート//スローター

The end justifies the means. ― 正当な目的は、どのような手段も正当化する

 ニール・アーチャーが休暇を取得している間、コールドウェルのお目付け役を任されていた、ジェームズ・ランドール特別捜査官。彼は今、目の前で繰り広げられるテレビドラマのような展開に、凍りついていた。
「ちょっと待て、エージェント・コールドウェル。お前、何をしようと……」
 ジェームズ・ランドールの前に立ち、犯人に照準を絞って拳銃を構える女は、ジェームズ・ランドールの声を聞いていながらも、敢えて無視を決め込んでいる。
 今この瞬間、滅多にない緊急事態が起きていたのだ。
「エージェント・コールドウェル、ここは俺に任せろ! 人質が居るんだ、無暗に発砲することは許さない。この場合は、交渉という手段が」
 ジェームズ・ランドールは、無視を決め込まれても説得を続ける。するとようやく、コールドウェルから返答があった。
「残念ながら、アタシの頭に交渉なんて二文字は無いよ。怒れる悪人には制裁を、憐れな子羊には救済を、傲慢な羊飼いには銃弾の雨を。それがアタシの鉄則だ」
「お前はまた、射殺するつもりか?!」
「まだ殺すとは決まっちゃいねぇだろ。いいから、黙ってな。アタシの集中力を削ぐような真似はするな。うっかり、アンタを撃っちまうかもしれねぇだろ」
 コールドウェルの殺気が一瞬、ジェームズ・ランドールに向けられる。その気迫に慄いたジェームズ・ランドールは、思わず数歩ほど後退ってしまった。
「いい子だ、ランドール。アタシの邪魔はしてくれるな」
 コールドウェルが、獲物を狙う雌ライオンのような目つきで睨み据えていた男は、左腕の中に子供を抱きかかえていた。そして男は右手に拳銃を持っており、その銃口を子供の頭に向けていたのだ。
 そのうえ、時刻は夜の一時。シドニーの夜ほどの元気はない都会キャンベラの、コンビニエンスストアの駐車場で繰り広げられる緊迫。光は駐車場の前に設置された街頭くらいで、そこまでの明るさはない。そして周囲に、犯人を包囲する特殊部隊などいなかった。
 そもそも、コールドウェルとジェームズ・ランドールは、運よく現場に居合わせただけだ。終電を逃したジェームズ・ランドールを、コールドウェルが車で家に送っていた最中だったのだ。そしてコールドウェルが連れていた子供――アイリーンから預かったエイド――がトイレに行きたいとゴネたから、道中にあったこのコンビニエンスストアの駐車場に車を停めたわけで。そして子供がジェームズ・ランドールと共に車から降りた瞬間、あの犯人に拉致されたのである。
 銃口を頭に押し付けられているエイドは、その大きな目に涙を滲ませていた。声を押し殺して、泣いている。
 子供の泣き顔なんざ見たかねぇってのに。コールドウェルは舌打ちと共に、撃鉄を起こす。そしてコールドウェルは、発砲の前の決まり文句を男に述べた。
「さぁ、おバカな犯罪者くん。アンタの脳味噌の中にあるアプリコットの実を撃ち抜かれたくなきゃ、今すぐその子を解放しな」
「ゴチャゴチャうるせぇ、ブロンド女Dumb blonde!」
「アタシは“Dumb blonde頭の悪いブロンド女”なんかじゃねぇよ。“Sister Crazy-blonde金髪のイカつい修道女”だ、よく覚えておきな」
 そう言い放つとコールドウェルは嫌味に白い歯を見せ、ニッと笑う。と同時に、引き金を引いた。
 撃ちだされた弾丸は見事に男が持つ拳銃の銃身に当たり、拳銃は男の手を離れて空に舞う。そして銃に弾丸が命中した衝撃で、男は後ろに仰け反り、左腕で抱きかかえていた子供を解放した。その瞬間に、子供は逃げ出す。スタタタタと走る子供は真っ先に、ジェームズ・ランドールの許に向かった。
「さて、どうする。今すぐここで、アンタをブッ殺してやってもいいが……」
 ニタニタと笑ったまま、コールドウェルは男に言う。すると男は何も言わず、尻尾を巻いて逃げて行った。
 その背を見送ると、コールドウェルはジェームズ・ランドールのほうに振り返る。その顔には依然、笑顔が浮かんだままになっていた。するとコールドウェルは何かを思い出したように、ジェームズ・ランドールの背に隠れたエイドに声を掛ける。
「あっと、その前にだ。アストレア、トイレは……」
「……行く」
「悪いな、ランドール。ちょっとだけ、待っててくれ」
「あ、ああ。俺は構わない……――んだが、今のアイツは放置で良いのか?」
「単なる強盗だろ? それに銃を置いて逃げたんだ。痛い目は見せてやったんだし、あの程度のタマなら放っておいても大丈夫だろ?」
「……意外とアバウトなんだな、死神は」
「あ?」
「いえ、何でもゴザイマセン」





『今抱えている雑務が片付いたら、仕事を辞めようと思ってるんですよ。もう十分すぎるほど貢献してきたと思いますし、なにより体が限界で、ロクに職務も全うできていませんから。それに肩書だけの次長から、本物の管理職になって、事務作業に追われる毎日なんて、とても私には耐えられませんし』
『へぇ。あのお前が、辞めるのか? あぁ、そうなのか……』
『何か物言いたげな顔ですね、カルロ』
『あぁ、イヤ。まあ、その、アレだな。やっと決断してくれたのかって、思ってな。俺としちゃ、もっと早くにその答えを出してもらいたかったんだが』
『は?』
『お前には色々と、ハラハラさせられてきたからな。俺の心配性も、漸く落ち着けるというか。ホッとしたというか……』
『あなたは心配性すぎるんですよ。ノエミにも、そう言われているでしょうに』
 夕日も落ち、夜が訪れたキャンベラ市内。人通りの少ない裏通りに面した、とあるイタリアンバル。店内の中でも目立たない隅のテーブル席に、随分と身長差のある男ふたりが向かい合って座っていた。
 ひとりは長身でスリムな体型の、やつれきった顔をした中年男。市内で小さなメンタルクリニックを営んでいる、精神科医だ。そしてもうひとりは車椅子に乗った男。身長は低く、顔や体付きもどこか一〇歳ほどの子供のように見える、四八歳のオッサンだ。
 車椅子の男は、気丈に笑って見せている。だが精神科医の男は、持ち得た心理学の知識を引っ張り出すまでもなく察し取っていた。笑顔の裏にある翳り、隠しきれていない疲労の存在に。
『それでだ、ラーナー。体の調子は、どうなんだ。そんなに深刻なのか?』
 精神科医の男は、テーブルの上に置かれているヤリイカとアンチョビのソテーを、特に味わうことなく食べながら、なるべく自然に、さりげなく尋ねる。いつもの呆けた調子で、相手の男の目をじっと見た。
 すると車椅子の男は、笑顔を消す。ぱっちりと大きな二重瞼の目を伏せ、憂いを帯びた表情で弱々しく言った。
『余命も出せないほどには、手遅れだそうです。今すぐに死んでも、おかしくない状態らしいと』
『骨粗鬆症が、そこまで悪化していたのか?』
『肺線がんです、ステージⅣの。骨と肝臓にも転移していましてね。ですがこのボロボロの体じゃ、治療もできなくて。死を待つことしか、出来ないんです』
『……ステージⅣ?!』
 車椅子の男の告白に、精神科医の男は驚きを隠せなかった。
 性腺機能障害からくる骨粗鬆症に長年悩まされていて、遂に立って歩くことができなくなったことは、精神科医の男も知っていた。
 大腿の半分から下が両足ともに無い彼は、今まで義足で生活していたのだが、義足を動かす大腿部の骨が脆くなっていたため、無理に歩こうとすれば骨が折れる可能性があったからだ。だから義足を外して、嫌っていた車椅子で生活しなければいけなくなったと。その為に仕事では、現場から外されて、事務方送りにされたのだと。それは、知っていたのだ。だが肺線がんに罹患していたなんて。そのような話は、初めて聞かされることだった。
 どうして、今まで黙っていたんだ。精神科医の男がそう言おうとしたとき。車椅子の男が小さく笑う。そして車椅子の男は、こんなことを言った。
『肺炎のような症状が出て、病院に行ったんですよ。そうしたら、がんだと宣告されたってとこでしょうか。それも、つい二ヶ月前の話ですね。……でも今は、これといって辛いというのはありませんし。ちょっと食欲が落ちただけで、それ以外は元気ですよ。出勤して、オフィスのデスクに座れるだけの体力はあるわけですから』
『だからって、あまり』
『調子をこくな、ですよね』
『そうだ』
『分かっていますよ、勿論。若いころじゃないんですから、無理はしてませんって。そこら辺は調節出来ていますから』
『お前の言葉は信用ならんからな』
『少しくらいは、信用してくれても良いんじゃないですか?』
『信用するには、前科がありすぎる。だろ?』
『それを言われちゃ、降参ですよ』
 そう言うと車椅子の男は、厚切りのベーコンが少なめに投入されたジャーマンポテトに左手を伸ばす。その腕はひどくやせ細っているように見えた。義手である右腕と比べると、まるで太さが違うのだ。
 だが精神科医の男は、見て見ぬふりをする。それから茶化すように言った。
『そうだ。何なら、俺もお前と同じタイミングでリタイアしてやろうか。そしてボロボロのお前を、介護してやるぞ』
『やめて下さいよ、迷惑です。それに、退職後にどこへ行くかってのは、一応決めてあるんですから』
『へぇ。そりゃ、どこだ?』
『エスペランス。どうせ死ぬなら、穏やかでのんびりした場所が良いでしょう?』
『リゾート地か。俺も行ってみたいんだよな、あそこ。こんな仕事だと、バカンスとはどうも縁がなくてな。……そうだ、エスペランスでクリニックを拓くのも悪くない。なぁ、そう思うだろ? それでジルと余生を過ごすってのも……』
『あなたに介護されるなんて絶対に嫌ですからね。だったら自殺した方が、幾分もマシです』
 冗談めかすように、車椅子の男をそう言って笑う。愛らしく憎たらしい、見事なフェイクスマイルだ。
 それに対して精神科医の男は、少し寂しそうに眉根を下げて、こう言った。
『俺も、お前も、あとノエミも。俺たち三人揃って、いつ死んでもおかしかねぇ職に就いているだろ。俺はいつ患者に殴り殺されるか分からない職場で、お前は常に緊張が張り詰める最前線に晒される職場で、ノエミはあの立場だ。いつ暗殺されるか、分かったもんじゃない。だから、約束してくれないか』
『約束? あなたも随分と、ロマンチックなことを言うんですねぇ……』
『真面目に聞いてくれよ、ラーナー。俺、こう見えて本気で言っているんだぞ?』
『分かりましたよ。で、その約束ってのは何ですか』
『簡単なことさ。俺たち三人、六〇歳までは世に憚っていようぜ、って。それ以降は、いつでも死んでいい。ただ六〇までは、生きていようってな』
 すると今度は、車椅子の男のほうが寂しそうな表情を浮かべる。そして車椅子の男は言った。
『そう、ですね。六〇まで。あと、十二年ですか。ははは……』
 その台詞は本心と裏腹の言葉であることを、精神科医の男は分かっていた。だが気付かぬふりをして、笑ってみせた。
『絶対だからな? 破ったら許さないぞ、パトリック』
 その会話の数時間後。車椅子の男は、パトリック・ラーナーは死んだ。殺されたともいえるし、自殺だったともいえた。死の真相はともかく、約束は早々に破棄された。だが精神科医の男は、カルロ・サントス医師は、そんなパトリック・ラーナーを責められなかった。彼が責めたのは、自分自身。
 あのとき、あの瞬間、気付かぬふりをして目を背けずに、奴と向き合っていれば。もっと、あいつの話を聞いてやっていれば。後悔は終わることを知らず、轟々と心の中を荒らす雨は止む気配を見せない。
 それでも、前に進まなければいけなかった。
 何故なら、自分は生きているから。
 胸の痛みは自己暗示で心の奥深くに押し込め、彼はまた目を覚ます。同じ夢を、あのときの会話を、何度も何度も脳は繰り返していた。




 そんなこんな、寝覚めの悪いカルロ・サントス医師が、舌打ちをしながら自宅のキッチンで簡単な朝食を作っていた頃。寝ぼけ眼のエイドを連れたコールドウェルは、まさにカルロ・サントス医師の自宅の玄関前に立っていた。
 玄関のドアの前で足を肩幅に開き、仁王立ちをしているコールドウェルは、何のためらいもなくインターホンを押そうとする。すると彼女の後ろにいたエイドは、眠気に呑まれた舌ったらずな喋りで、そんなコールドウェルに制止を求めた。
「……アレックス、待って。まだカルロ、起きてないかもよ」
「ンなこたぁねぇだろ。老人は朝が早いんだろう? なら……」
「……まだ、朝の四時半だよ。常識とか、迷惑とか、なんかそういうのって、あるでしょ?」
「アタシの辞書に、その言葉たちは載ってないね。残念ながら」
 眠い目をこするエイドは物言いたげにむすっとしてみせるが、コールドウェルは子供の態度など気にも留めない。そしてコールドウェルは、躊躇なくインターホンを三連続で押す。すると玄関の向こう側で、バタバタと騒がしい物音がし始めた。
 何かを、ガシャンッと叩きつけるように置いた音。あちこちを歩き回る、騒がしく落ち着きのない足音。扉が乱暴に開けられたり、閉められたりする音。ドタバタ、バッタン、ガシャッ、ドン。そうして数分が経過した頃、ようやく玄関の扉が開けられる。出てきた精神科医カルロ・サントスは目の下に隈を作り、朝から憔悴しきった顔をしていた。
 そしてカルロ・サントス医師はコールドウェルを見ると、あからさまに来客を拒むような態度を見せた。が、しかしそれもエイドの顔を見るなり一変する。それからまたコールドウェルを見て、彼は言った。
「アレックスくん。朝から、何の用だ」
「ドクターこそ、朝から騒がしかったようで。さてはさっきまで、ブリーフしか身に着けてなかったのかい?」
「いや、トランクスだ」
「あっ、そう。下着の種類を替えたのか」
「……それで、用件は何だね」
「ちょっとね、この子を預かってほしいんだわ」
「……たしか、この子はエイドと言ったか」
「今の、この子の呼び名は『アストレア』だ」
「アストレア? ……ふむ。てんびん座の、星乙女か」
「そんで今日、子守り役のアイリーンは多忙でね。アタシも仕事があって、この子を見てられないんだわ。上官はどこで油売ってんのかも分かんねぇしで、カルロ・サントス保育園に是非預けたいと」
「たしかにクリニックは今日、休診日だ。私も、休日だ。しかしだ、私は保育士ではなッ……――」
「んー?」
「悪いが色気を使おうとしているのであれば、私は若い娘になど興味は」
「メルセデス・アスタルロサ、パッツィ・カルモナ、ペネロペ・デ・コルドバ、ベアトリス・フェレール」
「……ッ?!」
「全員、五〇を超えても元気で活力に満ちた美人さんだったねぇ。それに全員、口を揃えて言ってたよ。アンタは精神科医よりも保育士のほうが絶対に向いていた、って。あと、詩人のジリアン・マクドネルも」
「ジル?!」
 次々と上がる女性たちの名に、カルロ・サントス医師は動揺を見せた。そして極めつきの、ジリアン・マクドネル。普段はクールにすかしている精神科医のオッサンが、今は明らかに取り乱していた。その姿に、コールドウェルはしたり顔を浮かべる。それも、そのはず。今の情報は、いつか訪れるであろうこの日のためにコールドウェルが、カルロ・サントス医師を捨てた女性たちから聞き出したものであるからだ。
 するとカルロ・サントス医師は、咳払いを一つする。それから彼はエイドの頭に大きな手を置くと、コールドウェルに言った。
「これは一つ、貸しだ。今日だけは特別に、この子を預かろう」
「助かった。そんじゃ、アタシは」
「その前にひとつだけ、私の方から聞きたいことがある」
「答えられるかどうかは別として、聞くだけなら」
「パトリック・ラーナー。アイツは何を知って、殺されたんだ」
 なんだかんだで、今まで一度も聞かれたことがなかったその質問。コールドウェルは少し困ったような笑みを浮かべ、徐に胸元のポケットから取り出したサングラスを装着する。濃紺のレンズが嵌められた、ティアドロップ型のサングラスの下に、緑色の眼光は隠された。
「……ドクター。アタシゃてっきり、アンタは真実になんぞ興味がないもんだと思ってたんだが?」
「この子の顔を見て、つい先ほど気が変わったんだ」
「へぇ、アストレアを見て……。またどうしてだい?」
「死した者のことは、死神に委ねればいい。過去は過去でしかなく、生きている今がある以上は後ろを振り向かず、前だけを向いて進むしかない。過去を振り返る人間は、愚かだ。普段であれば私は、そう割り切ることが出来た」
「…………」
「だがどうにも、ラーナーに関してはそう簡単に割り切れなくてね。奴とは付き合いが、あまりにも長すぎた……」
「ルカによる福音書、第九章六〇節。Let the dead bury the dead……ってやつか。時代に取り残されたイカれた宗教の聖典に書かれた言葉を引用するとは、とことんアンタらしくないじゃないか。ドクター・サントスさんよ」
「まぁ、言葉だけは聖書から引用したが……――いや、昔話はやめておこう」
「昔話? アタシとしちゃ是非、聞かせてもらいたいもんだけど」
「小さな子が居る前で、口に出せるような話じゃない」
「……そうかい、分かったよ。今は聞かないでおいてやるさ」
 まさか、今になって。コールドウェルにとってその問いは、想定外の出来事だった。
 “レッドラム”の最後の犯行から、既に二週間以上は経過している。正確な日付で言えば、十五日だ。その間、コールドウェルは数回この精神科医の男と顔を合わせた。だが今まで、彼が真実を問い質すようなことを聞いてきただろうか?
 いいや、そのようなことは一度も無かった。
 それにノエミ・セディージョ支局長は二年ほど前、カルロ・サントス医師についてこう言っていた。
『あぁ、ドクター・サントス? あの人はどっちかっていうと、事件の真相とか物事の真実に全く興味関心が無いタイプねー。あくまで興味の対象は、異常者の心理。どんな環境で育ったから歪んだのか、どんなアクシデントが起きて歪んだのか、それとも生まれつき歪んでいたのか……っていうのをずーっと、若いころから追いかけて研究してるって感じよ。だから、他のことはどうでもいいってワケ。まぁ、公安に絡む案件とかは深追いするとロクなことがないっていうのを知ってるから、敢えて好奇心をセーブしているってとこもあるんでしょうけど。そうねぇ……良くも悪くも賢い大人な男、っていうのが的確な表現かしら。パトリック・ラーナーの狡猾さとはまた違う種類の、ずる賢さね。だから時たま、腹立たしいのよ。精神科医って、なんでどいつもこいつもあんな感じなのかしら』
 事件の真相に興味がない。現場上がりの特別捜査官に、そう評されているのだ。もろに公安と密接に関わっている“レッドラム”の事件に、この男が自ら首を突っ込んでくるとは、コールドウェルには思えなかったのだ。だからこそ、エイドをこの男に預けても大丈夫だと考え、ここに来たのだ。
 だがそのカルロ・サントス医師が今、自ら首を突っ込んできた。
「……次長が殺された理由、ねぇ」
「どうせ君は知っているのだろう、いつものように」
「いや。それが、そうでもなくてねぇ……」
 だが、彼が真実を知ったところで、どうなるというのだろう。少なくとも、踏ん切りがつくなんてことはないだろう。遣る瀬無さに打ちひしがれるだけ? それとも、理不尽な真実に怒りを覚えるだけだろうか。
 昨日コールドウェルは、サー・アーサーから事の始終と原因を聞かされた。それはあまりにも身勝手な理由だった。“レッドラム”の被害者のうち、三人は明確な理由をもって殺された。尋問と、口封じ。しかし一人の被害者だけは、これといった理由もなく命を奪われた。
 サー・アーサーは、それについてこう言っていた。
『デボラ。あの女は、真性の狂気だ。エズラもこの空中要塞を箱庭か実験台としか思っていないが、デボラにとって世界は遊園地だ。生命は玩具か、蟻としか思っていない。それでいて中身は、あまりにも幼い。物を知らぬ乱暴な子供のように自制が利かず、とても凶暴だ』
『愛らしい顔の人形を床に叩き付け、その腕をハサミで切り落とす際、そこに理由が必要だろうか? 地を這う小さな蟻を踏み潰す際に、そこに特別な理由はあるのか? ……恐ろしい話ではあるが、デボラはその次元で考え、行動する』
『故に、デボラのお気に入りであったラーナーは殺された。……コルト。君も性格からして、デボラに気に入られる可能性が高い。君は既に、元老院の猟犬にも目を付けられているんだ。両者にマークをされれば、ラーナーと同じ末路を辿ることになるだろう。……警戒を、怠るな』
 コールドウェルはその話を聞かされた際に、純粋な怒りを覚えた。そんな理由で殺される人間が居て堪るか、と。だからこそ、思うのだ。
 そんな真実を知って、何になる?
「……その答えを知ってるのは、アイリーンとノエミ・セディージョ支局長だ。知りたいなら、彼女たちのどちらかに訊くといいよ。残念だが、アタシは何も知らないからね」
 コールドウェルは、きつい三白眼をサングラスの下で伏せて、そう言った。その言葉は、紛れもなく嘘だった。嘘も方便。そんな言葉もあるではないかと、コールドウェルは自分に言い聞かせる。
 そして真実の代わりにコールドウェルは、質問に対して別の質問を返した。
「なぁ、ドクター。アタシからも、ひとつだけ訊いていいか」
「ああ。私が答えられる範囲ならな」
「……深い愛は、深い憎しみに勝てると思うか?」
「ふむ。君らしからぬ質問だ。それに君は、答えを求めていないと見える」
「んー……。まっ、ドクターの意見が聞きたいってだけさ」
 サングラス越しに見る視界。カルロ・サントス医師の目が、嘘を見透かしていることくらい、コールドウェルも分かっていた。そしてコールドウェルの質問に深い意味はなく、失礼に値するくらいには薄っぺらい疑問であることも、彼は見透かしていた。
 それでも、良くも悪くも察しの良い精神科医は、余計な糾弾の言葉を口にしない。彼はただ、投げかけられた質問に対して、淡々と持論を展開した。
「私が思うに、愛は麻薬だ。誰しもが少なからず保有するアディクションであって、万能薬ではない。愛は中毒を起こし、死に追いやることもある。離脱症状を起こし、鬱を招くこともある。さしずめ、末期のがん患者の痛みを和らげるモルヒネといったところだろう」
 そんなカルロ・サントス医師の目に映るコールドウェルには、別人の面影が重なっていた。
「それに深く心に刻まれた憎しみには、どんなものも打ち勝てないと私は思っているよ。それが愛であれ、理性であれ、深い憎しみが持つエネルギーには劣る。憎しみは、全てを凌駕するんだ」
 それは随分と昔の話、カルロ・サントス医師が大学に進学したばかりの頃。キャンパスで三年ぶりに偶然再会した友人に声を掛けると、まるで初対面であるかのように扱われたのだ。
 そして大学を卒業後、およそ三年が経過した頃。その友人は、カルロ・サントス医師が勤めていた大学病院の病床に居た。友人はベッドに横たわったままぴくりと動くこともなく、虚ろな瞳で、生気の失せた顔で、真っ白な天井を漠然と見つめていた。どこかに意識が飛んでいたのだ。
 けれども時々、意識が体に戻ってくる。そのとき友人は目に涙を浮かべ、震える小さな声で、うわ言を呟いていた。
 自分は、何も知らない。だから、右腕を返してくれ。
「愛された記憶は、ときに薄れ、忘れてしまう。だが虐げられた記憶は、癒えることのない深い傷となる。痛みから気を逸らすことは出来るが、その痛みを忘れることはない。やがて痛みが憎しみを想起させ、終わることのない悲しみを生む。……PTSDは、そうして発現する。そして一度発現したものは、生涯ついて回る。対症療法を繰り返すしかない、不治の病となるんだ」
 今のコールドウェルは、うわ言を呟いていたときの友人に何かが似ている。カルロ・サントス医師は、そう感じていたのだ。
「とはいえ君も知っているだろうが、無条件の愛というのはある年齢までは必要だ。両親からの愛、兄弟家族からの愛、友人からの愛など。それは精神の発達に必要となる養分だ。だが、ある一定の年齢を越えると、愛は嗜好品に変わる。あれば人生に彩りを与えるが、無くても苦労することはないものへと変容するんだ。嗜好品となった愛に、そこまでの効力はない。憎しみを和らげ、根本にある問題から一時的に目を逸らさせる効果はあるが、その根本にある傷を癒しはしない。故に、いずれ傷の疼きはぶり返す。愛による治療は、いたちごっこになるか、あるいは憎しみを深めるかのどちらかに転ぶことが多い。つまり愛は、憎しみに勝てない。……というのが、私の見解だ」
「実にアンタらしい意見だよ。やっと、アタシが知ってるドクター・サントスが戻ってきたって感じだ」
「それにしても、何故このような問いを」
「仕事のことで、ずっと気になってたんでな。例のブリジット・エローラの手帳とか、特にね」
「……ふむ、なるほど。あの特異な症例についてか」
「とはいえ、アタシは答えを求めてないさ。問いは明確な答えが出ないまま、宙ぶらりんで彷徨っている状態がベストなんだろう?」
「ハンス・ゲオルグ・ガダマーか」
「真理と方法。あの本をアタシに勧めたのは、ドクター。アンタなんだから」
 そう言い、はにかむコールドウェルは「それじゃ」と手を振り、エイドを置いてその場を立ち去る。コールドウェルの背を見送るカルロ・サントス医師の目には、二度と戻ってこない時間を懐かしみ憐れむような感情が湛えられていた。
 そんなカルロ・サントス医師の様子に、コールドウェルに置いてけぼりにされたエイドは、目をこすりながら首を傾げる。それからエイドは言った。
「……アレックスって、ドクター・サントスとどんな関係なの?」
 それに対し、カルロ・サントス医師は苦笑いを浮かべて、こう答える。
「彼女は、私の一番弟子になる予定だった人材、といったところだよ。謎の特務機関のエージェントよりも、臨床心理士のほうが彼女にはよっぽど向いていたはずなんだ。私よりもずっと、彼女はその才覚を持っていたのだから」
「……あの、アレックスが?」
「まっ、今の彼女はその才能を、悪い方向に利用しているみたいだがね。残念なことだよ、まったく。私の弟子でなく、パトリック・ラーナーという悪魔の弟子になってしまったばかりに……」
「ごめん、なさい?」
「君は、パトリック・ラーナーじゃないんだ。君の名前はアストレアなんだろう? 君とアイツは、まったくの別人だ。何も君が、謝る必要はないだろうに」
「……ごめんなさい」
「子供が大人に対し、謝る必要はない」
「…………」
「返事は?」
「ごめんなさい」
「そこは『はい』だけで宜しい」
「…………」
「……はぁ。こりゃ、パトリック以上に厄介な子だ……」





 泣きじゃくる赤ん坊の、紙おむつの取り換えも最早手慣れたもの。鼻歌をふふふん♪と口ずさみながら、両腕で赤ん坊を抱くニールは、やっと眠ってくれた娘の寝顔に鼻の下を伸ばし、目の下の隈を濃くさせていた。
「スカイちゃん、やっと寝てくれまちたかぁ。……パパ、すごくうれしいでちゅよぉ~……」
 シンシアの出産後、初めて子供と家で過ごす夜。幸せな気分で過ごせるかと思いきや、生まれてきた子供の夜泣きが予想以上に激しく、余韻に浸る余裕なんぞどこにもなかった。
 箱入り娘なシンシアは退院後もお疲れモードが抜けきらず、出された食事を食べるとき以外は殆ど寝ていると言っても過言ではない。現に今も、二階の寝室のベッドで熟睡中だ。真夜中ずっと、一階のリビングに置かれた揺り籠の前に待機し、赤ん坊の様子を見守っていたのはニールだ。おむつを替えるのもニールで、泣いた時に抱っこをしてあやすのもニールだ。
 その間シンシアは?
 ずっと、二階で寝ていた。
「あぁ~……。俺も寝たいとこだが、そう甘えてられないからな。やっぱ目を離したら心配だし」
 授乳の時間にはシンシアをどうにか叩き起こし、母親にしかできない仕事をしてもらっている。どうにか昨日は無事に終えたが、ニールには心配があった。

 俺が仕事に出ている時、彼女は赤ん坊の面倒を一人で見れるのかァッ?!

 と、そんなことを考えている時。ふわっと体が軽くなる感覚がニールを襲い、うっかり床に倒れ込みそうになる。ニールは眠気に襲われ重くなった頭をぶるぶると横に振り、どうにか起きて現実にしがみつこうとする。頭を振ることで眠気を一瞬振り払うことは出来たが、眠気はすぐにまた襲い来た。やがてニールは思った。これはヤバい、と。
 そんなニールは覚束ない足取りで歩き、家に取り付けられた固定電話の前に立つ。そして彼は電話の横に置かれたデジタル時計を見るなり、絶句した。
「……午前一〇時、だと……?!」
 昨日、子供とシンシアを連れて退院し、帰宅したのが夕方の七時。生まれてきたのは元気な女の子で、母親に似た黒髪に黒い瞳の可愛い可愛い赤ん坊。医者にも母子ともに特に心配はいらないと言われ、予想以上に早く退院できたのだ。
 そうして家の中に入ると、シンシアは真っ先にシャワーを浴び、それから寝室に直行した。その後はすぐに爆睡。授乳の時間と夕飯の時間にニールが叩き起こしたとき以外はずっと、彼女は寝室で眠っていた。
 赤ん坊がどれだけ泣いても、シンシアは起きない。だからニールは代わりに、ずっと起きていた。ずっと起きて、紙おむつを取り替えたり、あやしたりしていたのだ。その間、ずっと眠っていない。それに最後に寝たのは一昨日の朝。病院近くの駐車場にて、車の中でとった二時間ほどの仮眠だけだ。それに加え、五日前のノエミ・セディージョ支局長の運転手を務めた際の疲労さえ、未だ抜けきっていない。健康で体力もある二十七歳男性とはいえど、このハードスケジュールでは体も応える。そして今まさに、限界を迎えようとしていた。
 気絶の一歩手前の状況。どうにか意識を保ち、電話を掛ける。掛けた先は、市内に住んでいる自分の母親だった。
「あぁ、母ちゃん? 俺だよ、ニール。あの、本当に迷惑だってのは承知で頼みたいことがあるんだけど……――えっ。あっ、うちに向かってるとこ? 助かったぁ~。そう、来てほしいって頼もうかと思ったとこなんだよ。そう、それで、あぁ、うん。その、えっと……――」
 喋っていると次第に、舌が回らなくなる。そして頭も、舌と同じぐらいにうまく動かなくなった。そのうちに立っていることが困難になり、床に膝をついてしまった。やがて口が開かなくなり、喋れなくなる。電話越しで母親が自分の名前を連呼しているのだが、その声が遠のいていくのが感じられた。
「…………」
 うっ、これまでか。
 ぼやぁ……となっていく頭の中、最後に過ぎるのは何故だか悲しそうな顔をした喪服姿のコールドウェル。黒いヴェールに隠れた彼女の顔を覗き見ようと意識を集中させたその直後、ニールはことんと眠りに落ちた。
 そして、その数分後。ニールの母親が自宅に到着する。合い鍵を使って家の中に入った母親は、電話台の前で眠りこくる憐れな息子の姿に、目を剥いた。
「ニール。起きなさい、ニール! ……もう、この子ったら目の下の隈が酷いじゃないの。また無理をしたのね。シンシアちゃんは一体何をして……」
 しかし母親は、電話台の前で眠る息子を放置する。その代わり母親が向かったのは、リビングに置かれた揺り籠で眠る孫娘の許だった。
「あらあら、スカイちゃん。ぐっすり寝てるわねぇ~。……ふむ、おむつはちゃんと替えてあるようね。両親が共に眠っていること以外、特に問題はなさそう……だけど、この家族はベビーシッターを雇ったほうがいいわね。絶対に」
 ニールの母親は、愛らしい孫娘の寝顔を微笑ましげに見つめる。一方、気絶するように眠ったニールは、寝言をほざいていた。
「……ックス、ごめん。俺、いつもお前にばっか……――」
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