ディープ・スロート//スローター

Actions speak louder than words. ― 行動は言葉よりも雄弁に語る

 夕暮れ時の、キャンベラ首都特別地域。郊外に点在する貧民街のひとつ、カタリナ・ストリートに隣接した廃教会。教会敷地内の空いたスペースには、特務機関WACEの黒いミニバンが停まっていた。
 ミニバンの中に積まれていたのは、武器が詰め込まれたアタッシュケース数点と大規模な機材の山。しかし、中に人は誰も乗っていない。運転手と同乗者はミニバンの外に居て、車のドアに背中を凭れるようにして立っていた。
「こんな雑務に付き合わせちまって。悪かったよ、ルーカンさん」
 柄にもない感謝を述べるコールドウェルの横には、ライトブラウンの長い髪をポニーテールに結った女が居た。彼女の名前は、アイリーン・フィールド。特務機関WACEの中では“ルーカン”と呼ばれている女性で、サー・アーサーの右腕を務めている人物である。
 奇抜でビビッドな色合わせのファッションに、フリルが大胆にあしらわれたミニスカートを着こなしてみせるアイリーンの姿は、まるで現役の女子大生さながら。しかし彼女は、そんな見た目に合わず、かなりの高齢であった。
 その年齢はサー・アーサーより、やや年下。そしてパトリック・ラーナーの二周り上。四〇代前半の壮年男性のように見えるアーサーの年齢が、実は七〇歳を超えていることから察するに……――アイリーンはかなりの、おばあちゃんだ。だが、そんなおばあちゃんの中身は、二十五歳のコールドウェルよりよっぽど若々しく、世の流行に敏感。明るく気さくで騒がしく、どこか抜けた人柄も相まって、その処世術は感服ものだ。
「いいんだよー、別に。気にしないでってば、アレックスちゃん」
 そう言うとアイリーンは屈託のない笑顔を浮かべ、猫背になりかけていたコールドウェルの背を平手でバシンッと叩いた。
「五十年前は人手が足りなくて、もっとハードな仕事をしてたもの。それに比べれば、この程度はなんのその。大したことないって」
「五十年前……。というと、まだアルフレッド連邦で、この大陸が海に浮かんでいた時代か」
「そう、アレックスちゃんが生まれるずーっと前のはなし。国の空軍が欧州大戦で大活躍してる反面、国内は様々な貧しさに喘いでた時代。線路がロクに整備されてないから、電車がしょっちゅう脱線事故とか起こしてた時代だよ。バスも時間通りになんか気やしない。公休日でもないのに、三日ぐらいバス会社が仕事しないなんて、ザラだった。時代遅れのガソリンなんていうエネルギーで車を走らせて、そこら中が排気ガス臭くて。それに首都圏なんて渋滞ばっかりで、郊外はスラムばっかりで、交通網はしょっちゅうマヒするし、都市をちょっと出れば治安はすごく悪いし……。あの頃は毎日のように、大荷物を抱えてASIと連邦捜査局、市警察をハシゴして回ってたもの。それも、徒歩で! 道はどこもかしこもコンクリートで舗装されてるから都市部は熱くて、日差しは上からも下からも……。それと比べれば、今はいい時代だよ。楽だもん」
「楽であることに、越したことはないけれども。その恩恵が、いつ牙を向くことになるやら……」
「あー。アレックスちゃんまで、パトリックみたいなシニカルなこと言ってる。さては洗脳されたか~?」
 アイリーンは、そう言いながらニコニコと笑っている。だがコールドウェルは、そんな彼女からどこか淋しさのようなものを感じ取っていた。
 コールドウェルとアイリーンのふたりは、朝からシドニーで二軒の家を訪ね、そののち高速道路に乗り、ここキャンベラで更に二軒の家を訪ねた。
 訪問先はどれも、“レッドラム”の事件の被害者遺族の家。本来コールドウェルは、相棒であるニールと共に回る予定だったのだが……――ニールは諸事情で、一週間ほど休暇を取得。仕方無く、コールドウェルはWACEの同僚を頼ったのだ。
 するとアイリーンが突然、ムッとした表情を浮かべる。彼女はこんなことを切りだしてきた。
「そういえば、アレックスちゃん。ノーイから聞いたんだけどさ。ニールくん、こんな忙しいときに有給を取ったんでしょ? それも一週間ちょい。なに考えてるの、彼」
 その問いに対し、コールドウェルはどうでもいいような、取るに足らない質問を返す。
「ノーイ? 誰だい、そりゃ」
 アイリーンはあきれ顔で答えた。「ノエミだよ。ノエミ・セディージョ」
「ああ、シドニーの支局長。へぇ、あの人とも知り合いなのかい。ルーカンさんよ」
「そうだよ。大昔にパトリックを通じて、ノーイとドクター・サントスとお友達になったの。それで、ニールくん。彼は今、なにをしてるの」
 実のところ、コールドウェルは話題をニールから逸らそうとしていたのだが……経験豊富な先輩アイリーンに、その手は通用しなかった。
 コールドウェルを見つめるアイリーンの目は、静かな怒りに満ちている。温かな家庭とは無縁の世界で生きてきた孤独なキャリアウーマンの、無理解にして無寛容な、冷たい怒りだ。コールドウェルが毛嫌いし、ニールが敬遠していた女性上司――連邦捜査局生え抜きの副局長リリー・フォスター――にどこかそっくりな雰囲気を、今のアイリーンは纏っていた。
 苦笑するコールドウェルは、そんなアイリーンから少し目を逸らす。腕を組んだコールドウェルは、ぽつぽつとニールの事情を説明しはじめた。
「……実を言うと、ニールの野郎。本当は二週間前に、休暇を取得してるはずだったんだよ。一か月分を、まとめてごっそり。ただ、リリー・フォスターっつー上司が許さなかったんだわ。家族なんか親兄弟に託して、自分は職務に邁進しなさいって言い張ってさ」
「なんで? どうして、一か月も休暇が必要になるわけ?」
「ニールの嫁さん……というか、籍を入れてないからまだ婚約者か。まあ、その婚約者が妊婦で、臨月なんだよ。そんで今朝、ついに陣痛が始まったらしくてね。今頃アイツは病院で、あたふたしてるはずだ。そこで諸々の事情を聞いた支局長が、機転を利かせて休暇を許可したってワケだよ」
「へぇ。独身貴族、仕事一筋の同志であるノーイが、許可したんだ……」
「サボってるわけじゃ、決してないからさ。大目に見ちゃくれないかね」
「そっか。なら、仕方無いね。なんだー、そんなことだったんだー」
 一瞬、アイリーンの目が泳ぐ。だがすぐに、いつもの笑顔な彼女が戻ってきた。元気な子が生まれてくるといいねー、とアイリーンは和やかに言う。その横でコールドウェルは、何故かは分からないが気が気でなかった。首の後ろを、嫌な汗が伝っていくのを感じ取っていたのだ。
「そんじゃーさ、アレックスちゃん。ニールくんの子供の性別とかって、知ってるの?」
「いいや、何も。婚約者が妊婦で臨月だっていう情報以外、アタシは何も聞かされてないさ」
「そうなの? 調べたりとか、しないの?」
「しないさ。なんで、そんなことを詮索しなくちゃいけない?」
「だって、相棒の子供じゃん。そのうえ、彼は幼馴染でしょ。あと元カレだし。ねー、アレックスちゃーん」
「最後のだけは、断じて違う」
「気にならないほうが、おかしい気がするけど」
「別に。アイツはアイツ、アタシはアタシだ。人さまのプライペートに首を突っ込むもんじゃないってのは、探偵だった親父の背を見て学習したからね」
「本当に? 何も知らないの?」
「ああ、そうさ。何も知らない。それに“死神”なんて呼ばれてる女が、これから新たに生まれてこようとしてる命に関わるべきじゃないだろう?」
「んー。納得できないなー」
「納得も理解も、他人に求めてないさ。仕事外の領域にある、お互いの事情に首を突っ込まない。お節介は、一切禁止。これがアタシとアイツの間にある、暗黙のルールだから」
 コールドウェルは、そう言うと溜息を吐く。それから、今日の出来事を思い返した。
 まず訊ねたのは、最年長被害者の遺族。アバロセレン犯罪対策部に四人存在する次長職のひとり、ジェイコヴ・ラジニーシ氏の家族だった。ラジニーシ氏の妻であったパメラ夫人と、その息子二人――十六歳のマイクと、十二歳のセオドア――は、父親の事実を知っていなかった。彼が諜報機関ASIで働いていたこと、それと惨たらしく殺されたことを。
 パメラ夫人は、三週間が経過しても一向に連絡もなく、帰ってこない夫の身を案じ続けていたという。警察にも相談し、捜索願を出そうとしたが、市警は受理してくれなかったそうだ。
 夫が殉職した事実を知った夫人は、静かに涙を流した。十二歳のセオドアは、嘘だと言って、大声で泣きじゃくっていた。そして十六歳のマイクは、リビングに飾られていた家族写真を見つめ、そこに映る笑顔の父親に向かって、二度と届かぬ怒号を上げた。なんで大事なことを黙っていたのか、どうして国のために家族を捨てたのか、仕事の方が家族より大事だったのか、と。
「……アレックスちゃん」
 次に訊ねたのは、最年少被害者の遺族。二十六歳、まだまだ見習いの新米局員だったケイト・ウェブ。彼女の両親が住まう家に、コールドウェルらは足を運んだのだ。
 玄関で出迎えてくれた被害者の母親は、黒スーツの来客に不信感を露わにさせた。そしてコールドウェルが被害者の名前「ケイト」を口にした瞬間、玄関のドアは来客を拒むように閉じられた。
 そんな名前の娘、うちには居ません。母親は冷たく、そう言い放った。そこでアイリーンは、ドアの下にメモ書きを挿んだ。メモには、娘が死んだ事実と、彼女の骸が埋葬された墓地の名前が書かれていた。
「やめてくれよ、ルーカン。そんな顔しないでくれって」
 それから二人はシドニーに向かい、パトリック・ラーナーの両親が長男家族と共に暮らしているという家を訪ねた。出迎えたのは、被害者の父親。父親はアイリーンを見ると、なにかを察したように、静かにアイリーンとコールドウェルの二人を家の中に入れてくれた。
 二人は改めて、事情を説明した。その場には被害者の両親と、長男夫妻が立ち会っていた。遺族は、アイリーンが淡々と話す被害者の事実を、ただ黙って聞いていた。そして父親が呟くように言った。情報機関で仕事をしていることは、薄々気が付いていた。だが、命を奪われるような危険な仕事だったとは、全く知らなかった、と。
 判事をしているという長男は、俯きながらこう言った。“仔猫の皮を被った悪魔”の噂は、何度かアバロセレンがらみの裁判で聞いたことがあった。けれどもそれは同姓同名の別人だと思っていて、まさか自分の弟のことだとは思いもしなかった、と。その横で、同じく判事をしている長男の妻は、戸惑ったように下唇を噛んでいた。
 そうしてコールドウェルらが立ち去ろうとしたとき、被害者の母親は突然ヒステリーを起こした。母親はアイリーンに向かって、叫ぶように言った。
『息子は、私の愛したパトリックは、三歳のときに死んだわ。あなたたちが言っているパトリック・ラーナーは、私の息子じゃない。息子そっくりの顔をした悪霊なのよ! 関わった人間を片っ端から破滅に追いやる、おぞましき悪魔。死んでくれて、清々したわ!!』
 母親のあまりの気迫に押され、コールドウェルらはある事実を伝え忘れてしまった。墓から死体が盗み出され、その死体はもう二度と帰ってきそうにないということを。
 そうして最後に訪れたのが、ここ。カタリナ・ストリート。最後の被害者ビル・キッドマンの唯一の肉親である、妹に会いに来たのだ。しかし、その妹はとても話が出来る状態になかった。薬物に溺れ、まともとは言い難い姿になっていたのだ。
 アイリーンはどうにか見つけ出した被害者の妹に、肉親の死を告げた。すると被害者の妹は不気味にケタケタと笑いだし、罵りの言葉を口にした。
『あたしをスラムに捨てた、クソ兄貴! 死んで当然なんだよ!!』
 そうして意気消沈し、コールドウェルらはミニバンのもとに引き返してきたのだ。遺族から得た新たな収穫は、何もなし。無駄足だったと言えばそれまでだが、アイリーンは言った。これもひとつの経験だよ、と。
 そんなこんなで、今日という日を思い返しながら、コールドウェルはオレンジに染まる空を見上げる。三白眼の瞳には、どうにも救われない虚しさの波が押し寄せていた。
「世の中には、何不自由ない普通の幸せを得られる家庭があれば、何も得られない不幸な人間も居るんだ。千差万別、多種多様。だからその人生に、アタシらみたいな亡霊が関わるべきじゃないんだよ。亡霊は普通の幸せをブチ壊し、不幸に更なる不幸を呼ぶだけだからね……」
 三度の飯よりお喋りが大好きなアイリーンが、そのときだけ黙り込んだ。アイリーンは言葉を何も返さず、コールドウェルに一封のガムを差し出す。未開封のガムには、見覚えのある稲妻のロゴで「Vicious punch」と書かれていた。
「いらねぇって、そんなガム」
 コールドウェルは、差し出されたガムを払いのける。すると負けじとアイリーンは、コールドウェルの手にガムをねじ込んできた。
「私もこのガム、要らないの。ノーイから貰ったけど、私は基本ガムなんか噛まないから。仕事のおともは、チョコチップクッキー派だしね。けどアレックスちゃんは、よくクチャクチャやってるでしょ?」
「いや、だからこのガムだけは、本当にいらないんだって。つーか、支局長はこのガムを配り歩いてるんすか?」
「ノーイの友達が、このガムを作ってる会社の社長さんなんだって。それでいっぱい貰うから、配ってるって言ってたよ。あと、ノーイも気に入ってるガムだから、オススメして回ってるって」
「マジか。あの支局長、仕事以外はアレだなぁ。色々と、その、何かのネジが外れてるっつーか……」
「ノーイは、うん。仕事以外は、駄目駄目だねぇ」
「そこそこ美人なはずなのに、何かが欠けてるんだよな」
「鼾とか酷いしね。酒癖もそう。寝相も酷い。あと物が捨てられなくて、おまけに片付けも出来なくて、半ゴミ屋敷な汚部屋の女王様だよ。仕事以外は本当にダメなのよ、ノエミ・セディージョって人は」
「ハハッ。そりゃ、もしかすると、アタシの想像以上に酷いかもしれねぇな、支局長さんは……」
「アレックスちゃんがどれくらいを想像してるかは分かんないけど。とにかくノーイは酷いよ、酷い。ドクター・サントスが居ないと、ノーイは駄目。マジで」





『連邦捜査局の特別捜査官たるもの、罪なき国民たちにその命を捧げるべきなのです。長期休暇など、以ての外。事件はいついかなるときに起こるか、予測不可能なのですから。いつでも出動できるよう、態勢を整えておく必要が、我々にはあるのですよ』
『えっと、副局長。つまり、出産間近の妻を病院に連れて行ったら、俺は支局に戻れと……?』
『第一、あなたはまだ籍を入れていないのでしょう? 相手の親御さんから許しが得られず、未だ“婚約”の状態。正式な夫婦でもないのに……』
 シドニー市内の小さな私立病院、産婦人科。そこの待合室で待ちぼうけを食らっていたニールは、自動販売機の缶コーヒーを片手に、ぼうっとしていた。
 窓際の椅子に座り、朝の七時からずっと、かれこれ十二時間近くそこに居る。コールドウェルから送られてきたメールにも目を通さない彼の意識は、溜まっていた疲労と睡眠不足から、どこか遠くに飛びかけていた。
 そんなニールが思い出していたのは、今朝の電話。二人存在している副局長の女のほう、特命課を管理しているリリー・フォスターとの会話だった。
 もし直属の上司が、もうひとりの副局長――子煩悩なマイホームパパであることに定評があり、人柄もよく部下たちに慕われているが、仕事に関しての評判は今一つなエド・スミス――であれば、どれほど良かったことか。そんなことをニールは、休暇を申請する度にいつも感じていた。それほどニールは、リリー・フォスターという女性を苦手だと感じていた。
 言い方は悪いが、彼女はまさに『売れ残った花嫁』だ。幸せな家庭、仲睦まじい夫婦というものに対するコンプレックスは、尋常ではない。それがコンプレックスの域に留まっていたのなら、まだ彼女の気持ちを理解してやろうという気になれただろう。しかし彼女のコンプレックスは、もはや僻みや妬み、嫉みといったものに変わっている。それ故に、ニールのような者に対する対応がやたらと厳しいのだ。
 陣痛が始まり、出産を間近に控えた婚約者を、病院に捨てて支局に出勤しろと命じるような上司だ。そんな上司を信頼することなんて、出来っこない。
『ニール・アーチャー。返事は?』
『副局長。今日だけは、そういうの本当に勘弁して下さい』
『アーチャー。あなた、今の状況がどれだけ切羽詰まっているか分かっているの? 妊婦は放っておいても大丈夫でしょ、病院が面倒を見てくれるんだから。それに子供は勝手に産まれてくるわ。けれども、あなたが追っている事件の犯人は未だ野放しになっているのよ。新たな被害者が出たら、どう責任をとるつもり?』
『それに関しちゃ、俺はコールドウェルの意見を信じてますよ。犯人の目的は既に果たされている、だからこれ以上の被害者は出ないと。だからって俺がなまけて良い理由にならないことは、勿論分かってます。けど』
『口答えは無用。婚約者を病院に預けたら、すぐに支局へ』
『今日から来週の火曜まで、俺は休みますからね。コールドウェルにはそのことを伝えてあるし、もし事件の関連で言いたいことがあるなら、どうぞアレクサンドラ・コールドウェルのほうに……――』
 頭に血がのぼっていたニールは、気がつけば副局長が最も嫌っている人間、アレクサンドラ・コールドウェルの名前を口にしていた。ハンドルを握る手には、苛立ちから力が籠る。耳も、押し寄せる激情から真っ赤になっていた。
 スピーカー設定にしていた携帯電話からは、副局長の舌打ちが届けられた。その横で車の助手席に座るシンシアは、絶え間なく襲い来る陣痛に呻き声をあげていた。ニールは副局長の舌打ちを無視すると、アクセルを強く踏み込む。すると、そのとき。スピーカーから、ノエミ・セディージョ支局長の笑い声が聞こえてきたのだ。
『アハハッ! ヤダー。もう、リリーったら。みっともないにも程があるわ。奥さんの出産を控えた部下に、その扱いはないんじゃないの?』
『局長?! いつから、そこに』
『んー。結構前から、あなたの後ろにいたけど。会話も全部聞いてたわ。……盗み聞きってヤツ?』
『…………』
『アーチャー、聞こえてるー? 休暇を取得しなさい。これ、局長命令だからねー。貯まっている有給で処理しといてあげるから、一週間は家族水入らずで過ごすこと。けど一週間で、必ず帰ってきなさい。流石にエージェント・コールドウェルだけじゃ、私としても不安だから。それじゃ、奥さんと産まれてくる女の子に宜しく。それと特命課は今後、リリーじゃなくてエドに任せることにするわ。それじゃ、バイバーイ♪』
『あっ、ちょっと待って下さい、局ちょッ……――』
 ブツッ。今朝の会話は、途中から割り込んできた支局長が強引に通話を切るというかたちで、幕を下ろした。支局長には頭も上がらないが、それと同時に、これで良かったのだろうか……という気も、ニールにはしていた。
 一週間の休暇で、ニールに与えられた大きな宿題。それは、リリー・フォスターへの弁明を考えることなのだろう。今頃、分娩室で力んでいるであろうシンシアのことも心配ではあったが、何故だか今はそれ以上に、リリー・フォスターに対する申し訳のない気持ちで頭がいっぱいになっていたのだ。
「……はぁー。俺は、どうしてこうも無能なのか……」
 悪い人じゃないってのは、分かっている。けど、どうにもリリー・フォスターという人物は灰汁が強すぎて……。
 むぅ……と眉間にしわを寄せ、ニールはそんな独り言を呟いた。すると待合室に居たひとりの男が、ニールのすぐ横の椅子にそっと腰を下ろす。彼は疲れた顔でニールに笑いかけてきた。
「あなたも、奥さんの出産待ちですか」
「ええ、そうなんですよ。かれこれ十二時間、ずっと待ってまして」
「十二時間も!?」
「……その間、何もできることがなく。暇というか、何だかモヤモヤしますね。こういうとき、男って何も出来ないもんですから」
「本当に、それですよ。別室で妻は苦しんでるってのに、旦那は何もしてやれないなんて。仕方のないことだってのは分かっているんですけど、何でも良いから、何かを手伝えたらって……ついつい、思っちまうんですよね」
 やつれた顔に、疲れ切った笑みを浮かべるニールの肩に、何故か涙ぐんでいる男は腕を回す。ニールも、相手の肩に腕を回した。
 男たちが待ちぼうけを食らっていた、待合室。そこで一時だけの友情が、生まれたような気がニールにはした……――のか?





「んー。あぁ、そうなの? てっきり、あなたが預かっているとばかり思ってたから。へー。アイリーンが、あの子の面倒を見てるのね……。心配なのかって? そりゃ、当たり前でしょ。路頭に迷った子供を放っておくだなんて、私の良心が許さないわ。…………あのね、そこはちゃんと分かってるわよ。彼女は機械、でも中身は人間の子供と同じ。それと、私はあなたの患者じゃないのよ。あーっ、やめて。すぐカウンセリングみたいな真似をし始めるの、あなたの悪いクセだわ」
 電話の相手は、二〇年来の付き合いになる精神科医カルロ・サントス。デスクの隅に、こぢんまりと置かれた固定電話の受話器を左手に持つノエミ・セディージョ支局長は、今更ながら彼に掛けたことを後悔していた。
 ちょっとした愚痴を零すと、すぐにこの医者は「ちゃんと寝てるのか?」「休憩は十分か?」「無理はするなよ。何かあったら、俺が相談に乗ってやるから」と要らぬお節介を焼いてくる。身体精神ともに健康そのもので、『結婚ができない/それらしい相手が見つからない』ということ以外では重大な悩みをこれといって抱えていない支局長にとって、彼のそういうところは非常に面倒臭いと感じていた。
 そんな支局長が、カルロ・サントス医師に電話を掛けた理由。それは、エイドの所在を聞き出すためだった。そして用件は済んでいた。エイドの身柄は、アイリーン・フィールドが――つまり、特務機関WACEが――引き取ったことが分かったからだ。しかし、通話を切る機会が中々訪れない。
『クセもなにも、職業病ってやつだ。こればっかりは……』
「だからあなたは、友人ができないのよ。友人らしい友人は、私とリッキーだけでしょ。それにリッキーは死んだから、もう私だけね。仕事は出来ても、プライベートはズタボロ。可哀想なドクター・サントス。すぐにあれこれ詮索するから、いけないのよ。だからすぐに、女性に捨てられるの」
『それはお前のほうだろう? 俺にはジリアン・マクドネルという素敵な女性が居るんでな』
「そうね、私のほうか。私は交際に発展したことが一度もありませんからね~。捨てられたことも、捨てたこともないわ。清廉潔白な処女ですもの」
『はいはい、そうですか。鋼鉄の処女さん』
「そうよ、私はアイアン・メイデン。甘い幻想を股間に抱いて近付いてきた男どもを、懐に隠し持った“ありのままの姿”って針でグサグサ刺しちゃうんだから。男どもを幻滅させて、逃げ帰しちゃうのよ。……そして逃げて行った男たちは、いつもリッキーに取られた。男に、男を取られたの! そのうえ奴ら全員、骨抜きにされてたのよ?! ゾッコン、メロメロ。意味不明、理解に苦しむわ。それで奴らは最後、どうなったか聞きたい?」
『いや、聞きたくない』
「見事に調教されて、リッキーの奴隷になってたわ! リッキーのお願いなら、たとえ無理難題だとしても喜んで何でも聞いちゃうような、都合の良い使いっぱしりよ。ASIで“ジゴロ”って呼ばれるのも当然よね。だって彼、ギブ・アンド・テイクの主従関係を、あっという間に築いちゃうんですもの。あれはまさしく、マゾ男量産機にして悪逆な搾取者よ。まるでサディスト。私が愛してやまなかった、あの可愛い弟はどこに消えてしまったのかしらね。もう死んだけど!」
『俺よりも、お前のほうがよっぽど可哀想な気がしてきたな……』
「なんですって? 私は可哀想なんかじゃないわ。いつでもどこでも前向き、ポジティヴシンキングですもの! ノエミ・セディージョは太陽よ!」
『痛々しいぜ、全く』
「なんとでも言いなさいよ。私はもう、これ以上は傷つかないから!」
『そんじゃ、俺は仕事があるんで。切るぞ』
「はいよー。またねー」
 通話を切る機会をずっと窺っていたはずなのに、結局は愚痴や不満を洗いざらい話すことになり、最後はなんとも憎いタイミングで相手から通話を切られた。受話器を戻す支局長は、不満げに口を尖らせる。そして彼女は呟いた。
「……また、カールに負けちったなぁ……」
 そんな支局長は空いた左手で頬杖を突くと、デスクの上に置かれた旧型のラップトップパソコンを見つめた。
 メタリックシルバーの超旧型ボディ。気が遠くなるほどの大昔は主流だったものの、照射式が主流になった今ではあまり見かけなくなった、カタカタと音が鳴るキーボード。タッチパネルでない液晶モニター。使い古された幻の遺物、マウス。聞こえてくる重低音の主は、コンピュータに内蔵されたファン。脇には、わざわざ外付で設置されたUSBポートハブに、CDドライブ、メモリーカードリーダーが並んでいる。これらもまた超旧時代の、幻の遺物だ。
 これらは今朝、神出鬼没な黒スーツの宅配人サー・アーサーが、支局長宛てにと届けてきたもの。アーサーはこの旧時代の遺物セットを届けてきた際に、死者からの伝言も渡してきた。
『ラーナーの遺言に従い、ドクター・サントスには五冊の手帳を、君にはこれを預ける。彼曰く、この中にあるデータを安心して託せるのは、君だけだそうだ。……もし、この中身が連邦捜査局の手に余るようであれば、いつでもコールドウェルかアイリーンを頼ってくれ』
『遺言? ASIで保管されていた書面に、そのようなことは記載されていないはずでしたけど。私の、見落としなのかしら』
『ノエミ。あなたはもう少し、整理整頓を心がけた方がいい。家も、オフィスも』
『それは、一体……?』
『彼が君宛てに遺した、最期の言葉だよ』
 最期の言葉、という意味深なワード。まるで死の間際、その傍にアーサーが立ち会っていたかのような……。支局長はアーサーに疑問をぶつけようとしたが、それを遮るようにアーサーは少し微笑んだ。それから小声でこんな言葉を呟き、煙のように消えてしまった。
『身動きが取れなくなった魂の最期の言葉を聞き届け、滅することが死神の務め。あとに遺された物のことは、生ある者の手に委ねよう』
 特務機関WACEの長、ちょこまかと各所に現れる“アーサー”という男。彼は人外で、人間世界の常識というものが通用しないことは、支局長もなんとなく理解している。だからこそ彼に関することは基本的に、深入りしないよう心がけている支局長だが、今朝のアーサーの言葉には何かが引っ掛かってしまった。
 死神。魂。滅する。
「…………」
 単純な世界に生きていた若い頃であれば、くだらないオカルトだと笑い飛ばしていたことだろう。だが世界にはモンスターが潜んでいて、そのモンスターたちに人間が間接的に支配されている世界を見てしまってからは、彼女の考えは大きく変わってしまった。
 各地の神話に登場する神々とか、イカれた宗教で崇められている父なる主とか、都市伝説の怪物とか、UFOとか。昔は、信じていなかった。科学で存在が証明できないものだから、目でしかと見て確認することができないものだから、だから存在しない。かつては、そう思い込んでいた。サイエンスフィクションも甚だしい、と。
 けれども、人間の知識は完全じゃない。人間が持ちうる知識では遠く及ばないものたちが、この世にはたしかに存在している……らしい。
「……困ったわね」
 もし、神が実在するなら。もし、魂というものが概念だけでなく、本当に存在しているのなら。アーサーが本当に“死神”なら。アーサーが本当に、彼の最期の言葉を聞いていたのなら。アーサーが本当に、彼を消してしまったのなら……――支局長は、アーサーに訊きたいことが山ほどあった。
 しかし、それは叶わぬ夢。アーサーほど口が堅い者を、支局長は見たことがないからだ。きっと何かを尋ねたところで、彼に鼻で笑われるのがオチだ。
 何かを揉み消し、何か正体のわからぬものを持ち去っていくが、肝心なことは何も教えてはくれない。それが、特務機関WACEというもの。アーサーという男は、特にそうだ。だからそんな人物から、何かを聞き出そうなんて愚かなことは考えない。
 支局長はゆっくりと瞬きをし、再び開けた目で私物でないラップトップパソコンを見つめる。ラップトップパソコンの蓋をあけ、電源を点けた。ブート画面が出現し、起動処理が淡々と自動で進められていく。使い古された年代物の旧型機であるために、処理速度が遅い。水を飲みながら気長に待っていると、やがてディスプレイにログイン画面が表示される。ユーザー名には自動で「Gigolo」が参照され、パスワードの入力を求めるメッセージウィンドウが現れた。
 パスワード、パスワード……。支局長は腕を組み、画面をじっと見つめる。彼女はパスワードを知らなかったのだ。
「……どうしましょうかね、これ」
 このラップトップパソコンの持ち主は、今となっては故人のパトリック・ラーナー。彼が個人使用で保有している三機のうちの一台だ。自宅にあるデスクトップパソコン、外出先で持ち歩くタブレット端末は、普段使い用。対してこのラップトップだけは、特定の人物とデータの遣り取りをするために保有していた。逆に言えば、それ以外に使い道が無かったのだ。
 その遣り取りの相手は、わざわざ古い物を好んで使う変わり者。失踪中の高位技師官僚だ。彼が送り付けてきたファイルを開き、保存するためだけに、パトリック・ラーナーはこのラップトップを持っていたようなもの。それは支局長も知っているし、この中に膨大で貴重なデータが眠っていることも予想出来ていた。……が、しかし重大な問題が残っている。
「私は、機械に強くない! パスワードなんて、分かるわけがないでしょ。アイリーンみたいにハッキング……――なんて、出来っこないんだから」
 ラップトップパソコンを前に項垂れる支局長は、苛立ちから黒髪を掻き乱す。リッキーの馬鹿ァッ! 彼女が、そんな奇声を上げようとしたときだった。局長室のドアがノックもなしに、部屋の主の返答を待たぬまま開けられる。支局長は慌ててラックトップパソコンの蓋を、叩きつけるように締めた。
「ちょっと、いきなり入ってくるのはマナー違反っ……――あら、リリー?」
 局長室に入ってきたのは二つある副局長のポストのうちのひとり、リリー・フォスターのようだった。赤紫色のスクエアフレーム眼鏡と、真面目一辺倒なブルネットのストレートヘアが、どことなく近寄り難さを想起させるのは、いつものこと。恐怖の象徴である内務調査の出身で、規律にこだわり規則にうるさく、真面目で融通が利かず、愛想がないのが、リリー・フォスターという女性だからだ。
 部屋の扉を静かに閉めたリリー・フォスターは、無表情で支局長の前に立つ。支局長はデスクの上に置かれたラップトップパソコンに手を当て、それを膝の上に移そうとした。
「どうしたの、リリー。ノックもなしに入ってくるなんて、あなたらしくないっていうか。その、急ぎの用かしら?」
 支局長が苦笑いを浮かべた、その瞬間だった。ラップトップパソコンの上に置いた手の手首を、リリー・フォスターにガッと掴まれる。支局長は顔を青ざめさせ、リリー・フォスターの顔を凝視した。
 そのとき支局長の頭の中に溢れてきたのは、違和感と疑念。どうにも普段の彼女と違う。それに彼女は、リリーじゃない。現場から離れて久しい近頃は鈍りかけていた直感が今、支局長に訴えていた。そして思いだされるのは、大昔の事件。
「……あなた、リリーじゃないわね」
 “ワイズ・イーグル”暗殺事件。
 約二〇年前、当時のASI長官だったバーソロミュー・ブラドッフォード氏。彼は士官出身で、“ワイズ・イーグル”という渾名で広く慕われていた閣僚だ。そんな長官はある日突然、暗殺された。犯人は当時のASI副長官、エズラ・ホフマンだった。
 そのエズラ・ホフマンは警官による射殺として処理され、表向きは死んだことにされていた。だが事実は違っている。
 彼が一度死んだのは、事実だ。 “何者かにより”拳銃のグリップか何かで後頭部を強く殴られ、死んだ。ぴくりとも動かなくなった死体を連邦捜査局が見つけ、死体を検死局へ運んだのだ。そうして数日後、検死局から遺体が消えた。その後すぐに、町を自由に動き回る死体が監視カメラに映ったのだ。
 当時、死体の捜索に協力していた精神科医は、捜査官たちに向けてこんなことを言った。
『犯人は間違いなくエズラ・ホフマン副長官だ。だが彼を人間だと思うな。別人になりすませるモンスターだと思え』
 その言葉通り、エズラ・ホフマンはモンスターだった。バーソロミュー・ブラッドフォードを暗殺したその瞬間も、監視カメラは彼をエズラ・ホフマンとして映していなかった。とあるASI局員の姿に化けて、犯行に及んでいたのだ。
 それから暗殺に付随して起きた誘拐事件でも、エズラ・ホフマンは別人になりすましていた。その際、姿を借りられたのは若かりし頃の支局長、ノエミ・セディージョだった。また次に起きた誘拐事件でもエズラ・ホフマンは、シーメールのストリッパーになりすまし、人を攫った。
 エズラ・ホフマン。彼は、他人の姿を借り、自分を偽ることができるのだ。そんなことが出来る人間など、居るのだろうか? 科学力を持ってしても、それは不可能だといえるだろう。声や外見はいくらでも変えられるだろうが、身長までは変えられないからだ。
 その点、あの事件で姿を借りられた三人は身長にバラつきがあった。とあるASI局員は、低身長なんてもんじゃない。クソチビもいいところだった。それに対して支局長は、長身も長身の類だ。そしてシーメールのストリッパーは、まあ人並みの身長。これほどのバラつきがあれば、普通は一人で演じきれないだろう。けれどもエズラ・ホフマンは、これをすべて一人でやっていたのだ。
 科学や特殊メイクでは、とても到達できない領域の技術。なら不可能を可能にしていたのは? 不思議やら魔法といった、超常現象だろう。あほらしいのは端から承知だが、そうとしか結論付けられなかったのだ。それに特務機関WACEの介入により、その結論は現実味を帯びてしまった。
 ことの鎮圧に動いたサー・アーサーはあのとき、こう言ったのだ。
『エズラ・ホフマン。あれを逮捕し刑務所に入れ、法の裁きの場に引き摺りだろうと考えているのならば、愚かな考えだといえるだろう。諦めた方が良い。あれは君たちが思っている以上に、凶悪な存在だ。人間の手でどうこうできる相手ではない。殺したところで、何度でも生き返ってみせるのだから。死人を増やしたくないのであれば、関わらないことだ。つまり、あれの存在を葬り去れ』
 そのサー・アーサーの言葉を受け、連邦捜査局はエズラ・ホフマンを『警官により射殺された』ものだとした。いうなれば今の今までずっと、凶悪犯は野放しにされていたということだ。
 そんなエズラ・ホフマンが今、支局長の前に居る。リリー・フォスターの振りをしているエズラ・ホフマンが、目の前に立っていたのだ。
「本物のリリー・フォスターなら、入室の前にノックをするわ。彼女は私よりも年上だけれども、挨拶や礼儀といったものをおざなりになんかしないもの。そういった肝心なことを省くのって、あなたぐらいしか居ない。そうよね、エズラ・ホフマンさん? だから詰めが甘いって、いろんな人に言われちゃうのよ」
 支局長は掴まれた手首を強引に振り解くと、ラップトップパソコンを隠すように膝の上に乗せる。リリー・フォスターのように見えるその人物は表情を歪め、顔を醜く変えた。
「ほら、その顔。本物のリリーは、そんな酷い顔なんか人前で晒しませーん」
 支局長は、リリー・フォスターに似た顔に向けて人差し指を突き付ける。不敵な笑みを浮かべ、見下すような目で相手を見つめる支局長だが、その実は怯えていた。
 いつ銃を突き付けられ、脅され、殺されるのか。油断が出来ない相手だと知っているから、虚勢を張っていたのだ。
 すると相手の表情は、見る見るうちに強張っていく。それから相手は、しわがれた老人のような低い男声で凄んでみせた。
「……その機械を、寄越せ。さすれば、危害は加えない」
「どっちにしろ、私を殺す気じゃなくて? それに渡す気なんか更々ないわ、ごめんなさーいねー。だって、私の大切な元相棒から託されたものですもの。そんなに欲しけりゃ、私を殺してみなさいな。生きている間は、アンタなんかにくれてやるつもりはからきし無いわ」
 支局長が挑発をして見せると相手は案の定、引っかかった。手術用のメスに似た細いナイフの切っ先が、支局長の喉元に向けられる。
 これは、好機だ。支局長は汗でしめりっ気を帯びた手で、音を立てぬよう静かに膝の上、デスクの裏側を探る。手は中央付近で、突起物を捉えた。デスクの裏を這わせた中指で、その突起物を力強く押す。その直後、室内にけたたましいサイレン音が鳴り響いた。
『緊急事態E-3、局長室より発生。これより出入を禁ず。全ての出入り口を封鎖』
『繰り返す。緊急事態E-3、局長室より発生。これより出入を禁ず。全ての出入り口を封鎖。局員は速やかに武装し、侵入者に備えよ。繰り返す。緊急事態……――』
 警告音は鳴りやむことを知らず、ビーッ、ビーッ、と耳にも心にも悪い機械的な低音を屋内に届かせる。ただちに全ての出入口は封鎖され、各窓には鋼鉄のシャッターが下り、内部は暗闇に包まれた。その後、自動で全ての階の明かりが点き、再びの明かりが戻る。その瞬間、支局長は相手の手からナイフを奪い取った。
「連邦捜査局、シドニー支局に侵入したのが運の尽きね。ここは凶悪犯罪多発地域だから、キャンベラの本部局よりも守りが厳重なのよ。囚われたら最後、抜け出せないわ。神出鬼没のサー・アーサーでもなければ、不可能よ」
 奪い取ったナイフの切っ先を、支局長は相手に向ける。しかし相手はシャッターに戸惑いこそしたものの、怯む様子など見せなかった。それどころか、支局長を虚仮にするような笑みさえ浮かべていた。
 眉を顰めた支局長は、奪い取ったナイフの切っ先を相手の首に、刺さらない程度に当てる。切っ先は皮膚に窪みを作った。すると相手は、余裕そうな口ぶりで言った。
「奢り高ぶるなかれ、人の子よ。我らを見くびるな」
「……は?」
 あれは、挑発? それとも警告か、何かなの? 聖書の中に登場する“主”とやらのように、威張り散らした態度を取る相手。呆気にとられた支局長は暫し固まる。そうして支局長が気を抜いた隙だった。
 手に握っていたナイフの柄に、重さが圧し掛かってきた。ナイフが、相手の首に突き刺さっていたのだ。しかし血は出ていない。相手は、息苦しさに悶え苦しむような素振りを見せていない。それに手ごたえはまるで、綿入りのマネキンだ。マネキンにナイフを突き立てたような、プスッという軽い感触だった。
 けれども、支局長は手を動かしてはいない。相手の方が、自ら刺さりに行ったのだ。
「お前の盟友が死したときも、今と似たような状況であったな。ナイフを持つ者に殺意はなかった。ナイフを持つ者は、ただ相手を支配したいだけであった。対して持たざる者は、相手の思うままに支配されることは不愉快であると感じていた。であるからして、自害という選択肢を採った」
「……なによ。何なのよ、アンタ。首に刃物が刺さってるってのに、どうして血も吐かずに、普通に喋れるわけよ……」
「最期のとき、あれはまた壊れていた。所詮は傷の付いた欠陥品の魂。突如襲い来た過去に、成す術もなく呑まれ溺れていった。憐れなものよ」
 首に刺さったナイフをそのままに、相手は凄絶な笑顔を浮かべる。リリー・フォスターと同じ顔を醜く歪め、嘲り笑っていた。
 そのときだった。ナイフを掴んだままになっていた支局長の手に、ビリビリッと電流のようなものが走る。それと同時に声が聞こえ、映像が見えた。
 耳に馴染む、よく聞いていた声がとぼとぼと呟いていた。すみません、すみません……。何度も何度も、何かに対して謝っていた。それから聞いたこともない女の高笑う声も聞こえた。
『あっれー、どうしちゃったの~? 私の好きな君はー、何も言わずに歯を食いしばって、ぐーっと痛みを耐える子だったのになぁー。謝ったって、私はやめないよ? アハハッ!』
 肩に掛かるほどの長さな、栗色の髪。袖の無い白のセーター。ビビッとピンクのニット帽。明るい茶色のホットパンツ。右腕のタトゥー。そんな特徴の女の背中が、支局長には見えていた。
 女の手には、細くて長いナイフが握られていた。それはまさに、ゴミ捨て場に遺棄されていた死体の首に刺さっていたナイフだった。そんな女の足元には、切り落とされた左腕、壊された義肢と車椅子が転がっている。そして女の前には、小柄な男がぐったりと座り込んでいた。
 男には四肢がなかった。両足と右腕は元から無かったが、左腕は高笑うニット帽の女に切り落とされたようだ。そして半開きの状態になっていた男の目に、目の前に立つニット帽の女は映っていないようだった。女の声も、聞こえていなさそうだ。
 あぁ、リッキー。目に見えているものは幻で、声が届くことはないと分かっていながらも、震える声が思わず口から零れ落ちる。それからするりと、それまで握っていたナイフの柄から支局長は手を離した。と、同時に現実に引き戻され、声や幻の何もかもが消え去る。代わりに、目と鼻の先には偽物のリリー・フォスターの顔があった。
「ノエミ・セディージョよ。お前は何故そこまで、死んだ男の遺物に取り憑く? 頑なに拒むのは、何故だ」
「そりゃこっちの台詞よ。アンタこそ、なんで赤の他人のパソコンに興味があるわけ? 相当やばい情報を彼に握られていたから、その証拠を消したいんでしょう。そうじゃなくって?」
「愚かにも、その態度を貫くというのだな」
 そう言うと、相手は再び笑い声をあげた。そして首に刺さっていたナイフを引き抜くと、それを局長室のドアに向かって投げたのだ。
「ならば、それ相応の報いを与えるのみだ」
 ナイフはあろうことかドアを貫通し、ドアに穴をあけた。そして偽物のリリー・フォスターは、まるでサー・アーサーのように煙となって消えていく。待ちなさい、この卑怯者! 支局長は、そう大声を上げようとした。けれども言葉はすぐに喉の奥に引っ込み、代わりに体が動いていた。
 穴のあいたドアの向こうで、何かが倒れる音がしたのだ。それから、誰かの悲鳴が上がる。嫌な予感を感じ取った支局長は、すぐさま局長室のドアを開けた。そして、廊下の床に倒れ込んでいる人物を見る。
「うそでしょ、そんな……」
 本物のリリー・フォスターが倒れていたのだ。
 彼女の胸には、あのナイフが刺さっていた。それもちょうど心臓の下のあたりに。
「リリー、しっかりして。死んじゃ駄目よ。リリー、リリー・フォスター!」





「……シドニー支局が、エズラに襲撃された……?」
 助手席に座るアイリーンは、膝の上に置いた大きなタブレット端末の画面を睨み、そんなことを言う。運転席に座り、大きな黒バンのハンドルを慣れた手つきで捌くコールドウェルは、穏やかではないアイリーンの言葉に、掌に汗を握った。「支局が襲撃って、どういうことだい」
「支局っていうか、局長室だけピンポイントで。負傷者が出たらしいよ」
「まさか、支部局長か?」
「いいや、だってこのメールの送り主がノーイだもの。彼女は元気にしてると思うよ」
「なら一体、誰が被害に……」
「リリー・フォスターって人だって。……アレックスちゃんは、知ってる?」
「ああ、知ってる。規則にうるさいオバサンだ」
 アイリーンが口にした名前に、コールドウェルは嫌悪感から眉間に皺をよせ、驚きから目を見開いた。
 あのカタブツ女が、どうして。それにエズラは何故、局長室に行った?
 疑問は次から次に湧いて出てきて止まらないが、コールドウェルは取り敢えずアイリーンの話を聞くことにした。
「そのフォスターって人が、かなりの重傷を負ったみたいだね。ERで処置を受けている最中だって」
「重傷ってのは、具体的に……」
「鳩尾の辺りに、ナイフがブスッと刺さったらしいね。腹部大動脈が破けて、そこから出血。ショックを起こしてて、予断を許さない状況だって。そしてナイフは、エズラの仕業だってさ」
 タブレット端末を見つめながら、アイリーンは他人事であるように淡々とそう言う。対するコールドウェルは、嫌な冷や汗が全身の毛孔からどっと噴き出るのを感じていた。
 リリー・フォスターという女性のことを、どちらかといえばコールドウェルは嫌っていた。規則にうるさく時間に厳しく、何もかもをきっちりとこなさないと気がすまないような、神経質な人物であったからだ。愛想もないし、笑顔もないし。よく聞く声は、部下を遠回しに叱りつけて責めるぴりぴりとした声だった。だから連邦捜査局の人間でも無ければ、しっかり者でもなく、怠け癖のひどいコールドウェルにとって、彼女は疎ましくて仕方の無い存在だった。
 しかし幾ら嫌いだからといえ、瀕死の重傷を負った相手に「ざまあみろ」と吐き捨てるほど、コールドウェルは薄情でもなかった。気拙さと、後悔と、後ろめたさと……。そういったものたちが綯い交ぜになったヘドロが、心の奥底から湧き上がり始める。自分はどうすればいいのか、今この場でどんな言葉を発するべきか。ヘドロの悪臭は思考を阻害し、彼女は何も考えられなくなっていた。
 珍しく、性にもない落ち込んでしょげた顔をするコールドウェルの様子を察したアイリーンは、冷淡な溜息を零す。それからアイリーンは話題を、別の方向にもっていった。
「んで、エズラの狙いはパトリックの私物だったんだって。サーが今朝ノーイに届けたばっかりの、おんぼろポンコツなラップトップ。ラップトップをエズラが奪おうとして、それをノーイが拒んだら、エズラが逆切れして横暴で卑怯な手段に出たって話らしいよ。無茶苦茶だよね、ホント。いつも通りのエズラ・ホフマンで、もうイライラするわー」
 アヒルのように唇を尖らせ、アイリーンは文句を並べる。しかしコールドウェルは笑わない、怒らない、嘲笑すらしない。なんとなく相槌を打っていることから、一応話は聞いているようなのだが、どうにも興味が湧いていないらしい。
 こりゃもう、どうしようもない。アイリーンは頬を、餌を口に詰め込みすぎたハムスターのように膨らませる。それから口の中に溜め込んだ息を、ぷぅ~と吐き出す。そしてどうでもいいような愚痴から、コールドウェルが絶対に関心を示してくるであろう話、つまり仕事の話に話題を切り換えた。
「そーいえば、なんだけどさ。ここ数カ月、一番パトリックと距離が近かったのは、アレックスちゃんだったっしょ?」
 コールドウェルの視線が正面から一瞬だけ逸れ、アイリーンを見た。名前を呼ばれてやっと、話に食い付いたようだ。コールドウェルはすぐにまた視線を正面に戻すと、アクセルを踏みこみながら短く頷いた。
「ああ、そうかもしれない。次長には色々、教わってたからな」
「WACEの流儀を叩きこまれた?」
「ASI流の尋問、拷問テクニック、報告連絡相談。銃の精密な射撃方法、護身術。急所の場所と狙い方、変装と特殊メイク、法律の抜け穴にまつわる知識、その他諸々。そもそも何でもアリの特務機関WACEに、流儀なんていう尤もらしいものがあるってのか?」
「いや、あるよ? WACEにはWACEの矜持とか、あるよ? でも、なんか、その、諜報機関ASIのエージェントって感じのメニューだね。ちょっと、残念だなぁ。アレックスちゃんは、WACEのエージェントなのに。ASIなんていう、ただの役立たずじゃ……」
「で、それがどうしたんだ」
「あっ、うん、それでね。そのパトリックのラップトップなんだけどさ。あの中に、どんなデータが入ってるのかって、アレックスちゃんは聞いたことある?」
「いや、特にないが。……まさか機械オタクのアイリーン・フィールドが、一切目を通してないってのかい?!」
「そう、そうなの! まだノーイが持ってるから、中身を拝見出来る可能性はあるけど……――。あーっ、もう。やっぱサーに一言、言っとけばよかったあぁ~!」
 アレックスちゃんが餌に掛かった! アイリーンがガッツポーズをひそかに取ったのも束の間、コールドウェルの一言に今度はアイリーンが現実にハッとさせられる。自分が犯した重大なミスに、アイリーンは今まさに気付かされていた。
 そしてコールドウェルは、リリー・フォスターの件よりもよっぽど動揺しているといった声色で、アイリーンのミスを更に突いた。
「よりによって、何で次長のあのパソコンを確認しなかったんだ……。どう考えてもあの中には、手に入り難い貴重な情報が入っていただろうに。アンタらしくないミスじゃないか、ルーカン」
「パトリックのものってなると、なんか気を遣っちゃうっていうかさ。あの高位技師官僚が流してきた情報の山はさておき、隠しフォルダーとかにやましいものが入ってたらどうしよう、って。仮に事故が起きてうっかり見ちゃったらさ、なんか申し訳ないじゃん?」
「やましいもの? 何だそりゃ」
「ほらー、セクシーなものとかー」
「いや、どう考えても無いだろ。あのラーナー次長に限って、そんなことは」
「だって、夜の噂とかヤバかったじゃん。彼が、どんだけの男と寝てると思ってるの? 三桁よ、三桁。いろんな男にモテモテで、奴隷というか使いっぱしりというか、なんかそういう人たちがいっぱい居て、それに……」
「相手の男たちを全員『都合の良いカモ』『性欲を持て余したボノボ以下の知能』呼ばわりして、嫌悪してた人だぞ?」
「あっ、そうだった……」
「だろ?」
「パトリック、玉無しも同然だったもんね。体は子供のまんまで。前立腺ない、勃起しない、精子ない、それに性欲ゼロ。だからいつも、なにごとも受け身姿勢。性格は、汚れきって開き直った醜い中年ババァそのもの。そうだった、うん、そうだった……」
「……その言い方は、色々と、どうなんだ……?」
「うにゅあああああ! だとしたらアタシ、アタシ、どうしてあのパソコンの中身を見なかったの?! 最低、最悪、アタシのバカァッ! サーの本業には口を出さないって決めてたけど、やっぱり口を出すべきだった! ちょっとだけでも待ってもらうべきだった。……うわああああああああぁぁぁっ!」
「る、ルーカン?」
 アイリーンは俯き、頭を抱え、髪を掻き毟る。綺麗にセットされていた髪はぼさぼさに乱れ、酷い有様になっていた。そして俯いた顔から涙がぽたぽたと落ちて、ミニスカートの下からのぞいていた膝を濡らす。アイリーンは泣いていた。
「ルーカン、なにもそこまで思い詰めなくても……」
 正面と助手席のアイリーンを、交互にちらちらと見ながら、コールドウェルは困惑していた。ここまで取り乱されると、どんな言葉を掛ければいいのかが思いつかなくなるからだ。
 元来、アイリーンは完璧主義なきらいがあった。ファンシーな見た目に反して、彼女の性格は生真面目そのものなのだ。
 彼女にとってミスは、許されざるもの。裏方のサポートを一手に引き受けている彼女は、他人のミスをフォローすることに慣れている。しかし彼女のミスをフォローできる人間が、WACEには居ない。彼女がしくじったら最後、とんでもない事態に発展するからだ。
 けれども、だ。だからといえ、そこまで自分を追い込まなくてもいいのではないか。コールドウェルは常々、そう感じていた。まるで自分を理不尽に罰しているようだと。だがアイリーン本人は、そう思っていないようだ。
「これって重大なミス! もしかしたら、またサンレイズ研究所のときと同じになるかもしれないのよ?!」
「サンレイズ研究所? あの、白昼堂々と霧のように消えた、あのサンレイズ研究所か?」
「そうよ。あのときだって、高位技師官僚が緊急事態のサインを発していたにもかかわらず、アタシたちWACEは気付けなかった。そのうち高位技師官僚は失踪して、口封じの殺人が起きて、事件に巻き込まれたパトリックが壊れて、エズラだけが得をした。前も、そうだった。前と同じ状況に陥ってるの! 何をやってるのよ、アイリーン。これじゃアタシ、また彼にひどいことをしたまま、何も出来ずに終わっちゃうじゃない……。それに、ペルモンドのジジィに悪いこと全部押しつけて、私たちは、また何も出来ずに……――!」
「ラーナー次長が、壊れた?」
「全部、私の所為! 普通の人間だって耐えられない枷を、普通よりもずっと弱くて脆いパトリックに押し付けたのよ! そしたら案の定、彼は壊れた。ひどい拷問の末に、エズラに右腕を麻酔もなしに切り落とされて。捜査官とドクター・サントスがパトリックを発見した時にはもう、彼は壊れてた。元からパトリックは、心に爆弾を抱えてたの。それを分かっていながら、私は彼に辛い仕事をさせた。彼は廃人になってたの、一年半ぐらい。ドクター・サントスが傍に居なかったら、彼はずっとあのままだったかもしれない……」
「……初耳だよ、その話」
 アイリーンの地雷を、コールドウェルは踏んでしまったようだ。爆発した地雷の衝撃により、コールドウェルの頭は本格的に何も考えられなくなっていた。

 聞いたこともない、そんな話なんて。
 ドクターからも、次長本人からも。支部局長からもだ。
 今までアイリーンの口から、その話がされたこともなかった。
 サー・アーサーも勿論、他の者からも。
 一切、聞いたことが無かった。

「私が、ASIとのコネ欲しさにパトリックを見出さなければ、彼はあんなことにならなかったのに! 私が、彼を壊した!! それなのに、ドクター・サントスはこっちの事情を一切知らないから、彼も自分の所為だって未だに自分を責め続けてる。全部、私が悪かったのに。私、なんて最低な人間なの。ホントに、アタシなんか……!」
「ルーカン、わぁかったよ。だから落ち着け、深呼吸だ」
「…………」
「なぁ、アンタは知ってるか? 過去は、どうやっても変えられない。それに過去は、過去でしかない。とっくに終わった、過ぎ去った時間なんだよ。戻ってくることはないんだ、襲ってくることもない。いつまでも大昔に縛られるな。前だけ見てろよ、しゃらくせぇ。ウジウジして罪人ぶるな、ブス。醜いにもほどがあるってもんさ」
「でも、私は!」
「だぁーから!! 過去は過去。大昔に犯したアンタのミスは取り消せない。けどな、過去に起きたことは変えられなくても、今から起きるであろうことは変えられる。未来は、エズラの思い通りに必ずなるわけじゃない。なぁ、そうだろ?」
 そう言いながら、コールドウェルは前だけを見つめていた。ハンドルを握る手には、自然にぐっと力がこもる。
 何故なら、助手席に座るアイリーンを見てはいけないと感じていたからだ。すぐ隣に充満している負のオーラが、あまりにもドぎつすぎる。見てしまったら、同じ負の渦に巻き込まれてしまいそうな気がしたからだ。
「そうなりゃ、やるべきことは一つしかない筈だ」
 コールドウェルは、口先だけのカッコ良さそうな台詞を言う。すると徐々に、隣の負のオーラが薄れていった。アイリーンはハンカチで涙を拭うと、顔を上げる。そして嗚咽混じりに言う。
「ノーイのとこに行こう。連邦捜査局、シドニー支部に。あのラップトップからデータを発掘しなきゃ」
「そうこねぇとな」
「……それに、サーはあんまり頼れない。あの人だって結局、もう人間じゃないわけだし。あの人の本音だって、本当はどうしたいのかってことも、もう分かってるから」
「サー・アーサーが、何をしたいって?」
「人間の世界で起きた不始末は、人間が片付けなきゃいけないもの。いつまでも冷酷な死神に頼りきりってわけには、いかないでしょ」
 片手間にカーナビの行き先を『連邦捜査局シドニー支部局』に設定しつつ、コールドウェルはアクセルを強く深く踏み込む。全速前進、速度規制なんてガン無視だ。
 その横でアイリーンはタブレット端末を操作し、支部局長にメッセージを送りつける。今どこ? 支局に居る? 今からそっち向かってるんだけど、あのラップトップはまだ無事? すると返信が、ラップトップパソコンの写真とともに返ってきた。


  私ならまだ局長室にいるわよ。缶詰め状態って感じ。
  それとパソコンは無事よ、良くも悪くもね。
  ただこのパソコンのパスワードが分からなくて、困ってるのよ。
  お願いだから早く来て、アイリーン。
  私、ハッキングとかできないから。
  せっかくのパソコンも、私の前じゃただの化石よ。
  だからリッキーのためにも、頼むわ。
  それとリリーは大丈夫そうだって、コールドウェルに伝えてね。


「まだノーイは局にいるみたい。急いで、アレックスちゃん」
「分かってるよ。現に今、飛ばしてんだろ?」
 時速一五〇キロ。高速道路ですらそう滅多に見かけない速度で、真黒なバンは道路を駆けていく。周りの風景はあまりの速さの所為で、その輪郭を捉えることすらできなくなっていた。
 そんなバンの真横を、一羽の真黒な烏が飛んでいく。ケケケッ。奇妙な声で鳴く烏だった。そして烏は、高速で走るバンを追い抜かして飛んで行った。
 その追い越し際、烏とコールドウェルの目があったような気がした。と同時に、コールドウェルは背筋を震わせる。烏の目が、まるで液化アバロセレンのように、そしてサー・アーサーの瞳孔の無い瞳のように、蒼白く輝いていたからだ。
首頁(ホーム) 目次 ←前頁 次頁→